第6章第6節 ソ連の保養・観光政策とソチ 第7節 オリンピックとジェノサイド

  第6節 ソ連の保養・観光政策とソチ

 第1項 赤いシャプスギア

 ソ連時代のソチは1920年クバン及び黒海州の一部としてソチ郡が置かれた。現在の大ソチ市のラザレフスコエ区は、トゥアプセ郡に編入された。ガグラ地方は赤軍に占領されソヴィエト社会主義共和国政府が樹立されていたグルジアに譲渡された。クバン及び黒海州は、その後北コーカサス地方(1924-1934)、アゾフ及び黒海地方(1934-1937)、クラスノダル(旧イェカテリノダル)地方と改変された。

二月革命後のクバンにはクバン立憲ラーダが設置され、チェルケス人も執行部に名を連ねていた。カスポレット・ウラガイ、クチュク・ナトイルベ、シャヒム・スルタンギレイ、アイテク・ナミトク、ムラト・ハタゴグ、セフェルベ・スィユホなどの人々であったが、クチュク・ナトイルベ(1978-1925ニューヨーク)は議長に就任した。彼らは全員内陸のクバン地方の出身で、ロシア政府とのかかわりも概して古かった。トイルベ家は現在のアドイゲ共和国コシェ・ハブル郡ナトイルボヴォ村出身のモハシェフ種族の貴族の出で、クチュク自身は陸軍将校、叔父シュマフはモンゴルとチタの総督を務めた。カスポレット(1893-1953チリ)は大シャプスグの貴族で、彼の父親はテムリュク郡のソヴォロヴォ・シチェルケッスキー屯田村(コサック村)のアタマンで、陸軍中尉であった。カスポレト自身は文官の道を選び5等文官に昇進して、「チェルケス慈善協会」会員、イェカテリノダル市会議員(1916-1919)であった。アイテクは既におなじみの人物である。クバン憲政ラーダの議長を務めたシャヒム(1880-1921イスタンブル)もクリミア汗の末裔でロシア貴族であった。ムラトは出生年と身分は不明だが法学士であった。しかし、セフェルベだけは農民身分でマイコプの山地民学校へ入学、クバン師範学校へ進み、卒業後教職につき、教育と啓蒙活動を続けた。ロシア革命までの北西コーカサスで社会的エリートの中で、セフェルベは異色であった。しかし、沿海地方にはそのような現地人はいなかった。1864年までの大ソチ住民ジケチ人、ウブイフ人、シャプスグ人の中で20世紀に残っていたのはシャプスグ人だけだから、彼らの大部分はオスマン帝国領かクバン地方に追放され、ごくわずかな人々が山中に逃げ残っただけであった。ウラディーミル・ドミートリエフはそれを次のように説明する。「1869-70年にシャプスグ人の海岸村落への帰還が行われた。その時から北西コーカサスのコーカサスの少数民族集団の1種族としてのシャプスグ人の新しい歴史が始まった。その初期はロシア帝国の破滅まで非政治的な状況で存在することであった。事実この時期は政治的活動の特別の時期であると考えられる。このようにして、物理的生存という形の種族的自己決定に導いた。それ以前のシャプスグ史の武力抵抗ではなく、反対に服従という行動をとった。先ず述べなくてはならないのは、19世紀の戦争の結果、黒海シャプスグの社会的性格は種族原子的水準に陥った。つまり、個々の家族の生存レベルに。ヴォルーコフの資料によれば、シャプスグが黒海県ソチ管区に属する地域に。1869年に109家族、1870年に国境にが再入植し、1870年には、41家族が次のように分布した。レスノイ村69家族、ヴジャヤヴァダ村40家族、アレクサンドロフスク村8家族、シャプスグ・コサック大隊村に43家族。107家族全体として576人。少し後には政府の統計によると帰還者は、1872年に773人、1981年に1,727人、1897年1,938人であった。与えられた数字によれば、明らかに、避難からの帰還は夫婦と子供からなる形態でなされたが、少し後には家族の規模はやや大きくなった。同時に実地調査でも出版物でも明らかなように親族集団からなる新しい家族の移住過程が始まった。アグイ(カルポフカ)では8個の親族地区からなり、大キチュマでは集落の根幹は3からなっていた。大プセウシュホでは4家族、ナジゴでは6家族などであった。重要なのはこれらの単位はロシアの軍人と関係を持つことを好んだ。1860-1880年代に黒海シャプスグの村々はもとの村の場所にあったのではなく、ロシアの軍事植民が行われていた川沿いにあった。たとえば、アレクサンドロフスクはコーカサス線第1大隊第1中隊、大キチュマはコーカサス線第2大隊第2中隊の近くだった等である。このようにして黒海シャプスグ人の社会的発展方向の唯一の可能性は、2度の居住形態変化に適応し、生活を完全に統制していた日常の直接的な厳しい規則実施に熟知して、親族構造を発展させることにあった。アドイグ人の社会啓蒙家セフェルベイ・スィユホフの帝国支配化のアドィグ人の政治活動についての見解は、シャプスグ人にもあてはめていいであろう。『政治的民族的自己意識はあまりにも弾圧されたので、このような気持ちは全く失われてしまった。それ以前のチェルケス人の理想は、自己保存の欲求に場所を譲ってしまった』。とにかく生き延びることがどのようなものであれ社会的活動の本質となるとき、似た様な状況は避けることができない。それに伴って、19世紀末シャプスグ人の政治組織はそれ以前よりも古めかしいものになってしまった」(ウラディーミル・ドミートリエフ)。ただし、現地人社会の再建は順調ではなく、キチュマ村からは1893年に5家族がオスマン帝国に移住している。どのようにして、旅費を工面することができたのだろうか。

  36 シャプスグ民族区地図 https://www.yuga.ru/media/61/e3/kartaaaa1__7gc89qf.png

 しかし、20世紀になると沿黒海地方のシャプスグ人も積極的政治行動を行うようになっていた。1918年、クバン・ソヴィエトにムスリム部会が設立され、ソ連邦成立後1921年山岳ソヴィエト共和国のクバン黒海州のハクラテ・シャヒンギレイ(1883-1935、大シャプスグ人、クバン州の農民)の指導下、同州執行委員会は、広い範囲の民族自治を求めて、クラスノダル、マイコプ、テムリュク、トゥアプセの各革命委員会を糾合、1921年7月7日の第一回沿黒海シャプスグ人大会で承認を受けた。同年トアプセ郡執行委員会から同郡のクラスノ・アレクサンドロフスクを分離して山岳共和国に移譲する請願書が出された、しかし、1922年1月26日の党中央民族問題人民委員会はクバンのアドイグ(チェルケス)のみで自治区を作ることを決定された。このあとクラスノアレクサンドロフスカ住民のトゥアプセから分離したいと言う請願書が州当局に提出される。1922年7月27日、ソヴィエト政府はチェルケス自治州設立決定(ハクラテ執行委員会議長)、翌月アドィグと改称した。海岸部のシャプスグ人のシャプスグ民族共和国革命委員会は、ムス・アラロ、ジャンブラト・ナグチ、ユスフ・ナグチ、アリ・ナグチで、彼らはトゥアプセ近くのカルポフスク(後のアグイ・シャプスグ)の住民で、彼らはグルジア軍や白衛軍と戦った「赤色パルチザン」であった。政府決定に対する対策を協議するために、第三回民族大会を開催された。議長ムス(ムサ)・アラロは1897年生まれのナトゥハイ人で、3度に渡る流刑処分に耐え抜き102歳まで永らえた。グルジア民族防衛隊長官のジュゲティにスフミ監獄から釈放され、アブハジアから追放されたアブハズ人ボリシェビキ党員ネストル・ラコバが身を寄せていたのはアラロ宅であったという。ムスは刑務所でもネストルと一緒だったと述懐したことがあったが、これは1929年か1930年ネストルが職権乱用で逮捕された時のことであろう。この会議では前回の決議を撤回して、全会一致でシャプスグ自治共和国設立を決議した。ユスフが提案した決議案は、

  1)シャプスグ国はソヴィエト共和国であり、RSFSR(ロシアソヴィエト連邦社会主義共和国)の一部である。

  2)シャプスグ共和国はトゥアプセおよびソチ管区からなり、西の国境はプシャド川である(タマラ・ポクリビツァヤの註。当時ここには5万人ほどの住民がいた)。

  3)シャプスグ共和国は法律制定権を持つ。

  4)シャプスグ共和国は軍事、財政、法務、内務、教育に関せる事項を制限なく独自に処置されるする。(タマラ・註。外交を除いて)

  5)シャプスグ共和国の領域に存在する道路(テキストには都市とあるが)、鉄道、電信、港湾はシャプスグ共和国の財産である。

  6)この地域から強制的に移住させられたシャプスグ人は、現在シャプスグ人の領土に住んでいるシャプスグ人と同等の権利を保有する。

  7)現在シャプスグ共和国領土に住んでいる非シャプスグ人は、今度も同等の権利を持って居住する権利を有する。  

  8)RSFSRの中央権力によるシャプスグ共和国承認の後、RSFSRと連邦的基礎において協議に入る。

 全会一致で提案は承認され、シャプスグ共和国臨時中央執行委員会議長にジャンブラト・ナグチ、書記にアブドゥル・フレチャスが選出された。また同件についてユスフ・ナグチとアリ・ナグチが全権をゆだねられた。ユスフはモハジルの子孫で、トルコのデュズジェ生まれ、トルコで法学教育を受けたジャーナリストで、コーカサスには1918年に渡航した。アグイ-シャプスグ村はロシア革命後彼の名前をとってクイヴイシュフスク(カルポフスカ)からこのように改名されたが、1864年以前の名称は不明である。ここにはナグチ、またプスイベにはフレチャスという姓が、多いように見受けられる。このような主張が、少数民族担当の人民委員としてグルジアの独立派を叩き潰し、1922年党書記長に就任したスターリンに通用するとは思えない。直ちに、上部機関による反自治共和国キャンペーンが開始され、その一方、大会で討議、議決された土地、交通、教育等に関する問題は無視された。中央の圧力下クラスノアレクサンドロフカ郷のハジコ・アウルとボージーワドイ郷のトハガプシュ・アウルは、自治案反対に廻った。1924年2月ユスフ・ナグチは状況改善の請願のためモスクワへ赴いたが、帰郷後弟アリと共にトルコのスパイとして逮捕された。判決はシベリア流刑6年であったが、1930年以降生死不明である。この間トルコ国籍は1928年にはく奪されていた。ケマル・パシャは、ユスフを捨てたのである。

 新執行部のもとにトゥアプセに於いて第4回民族大会(1924年8月26-29日)が開催され、1924年9月2日にシャプスグ民族区(1924-1945)が成立しした。人口は3,4千人、1925年の初めには管区はカルポフ、キチュマ、クラスノ・アレクサンドロフスク、プセウシュホの4行政村(帝国期の郷、ソヴィエト期の村ソヴィエト)、462平方キロメートル、人口3,049人であった。集落(アウル)はカルポフカ、プスィベ、大小プセウシェホ、第2及び大3アレクサンドロフスカ、ナジゴ、キチュマの8集落であった(前4集落が現在のトゥアプセ郡、後4者が大ソチ市)であった。中央の決定では、集落では第1アレクサンドロフスクとボージエ・ワドィを含む10集落、行政村でボージエ・ワドイが入って5行政村であるが、彼らは自治区結成に反対であったので代表を送らなかった。大会でアイダミル・ボウス(議長)、ムス・アラロ、ユースフ・カディエフ、ポゴシ・カブレエフ、グリャーエフ某の4名が区革命委員会を構成することが決定された。第1アレクサンドロフスク、ボージエ・ワドイ両アウルの人々が反対運動を継続したので、区革命委員会は主導者逮捕に出た。逮捕者はチレザフ・トフ、バウレト・リトフシュ、イブラヒム・ヘイシュホ(村ソヴィエト議長)、ブラム・スィゾ、ハジ・ゲルボ等であった。反対派は自治区承認の止むをえなくなり、区革命委員会は11月16日第1回区ソヴィエト大会開催にこぎつけることができた。このようにして、シャプスグ民族区は5行政村10集落(アウル)になった。民族区指導部の最初の重大な計画はチェルケス人3,424人各人に1デチャーチナ(1.09ha)の耕作可能な土地を分配することで、計画は1925年に実現した。それはまもなく集団化されるとはいえ、現在のチェルケス人住民の生活基盤の基礎となっている。但しこの面積は当初の入植者が1家族あたり30デシャーチナの分与を受けたのに比べると著しく少ない。

  37 写真 シャプスグ民族区執行委員会委員(1925年)。中央に座っているのが議長ボグス・アイデミル、その右にフシュト・ムラト(1926年から議長)。ボゴスは1920年より党機関に勤務、1921年からは教育省トゥアプセ分室で少数民族に関わる任務に就き、チェルケス語による教育案策定を指導。後には極東に住み、ブドウ栽培に従事した。https://www.shapsugiya.ru/index.php?newsid=4379

 土地の分配と集団化はシャプスグ人の山地から海岸部への移動も伴った。アシェ川左岸のムホトバ・ポリャーナ荘園は、1925年請願によってその一部40ヘクタールがシャプスグ自治区に移管されたが、ここに1927年ハジコとカレジから8軒の農家が移住して、シュハフィト(シャプスグ語で「自由」)村を開いた。1930年には人口103人に達していたので、1人あたり1デシャーチナの割り当て面積には達しないが、この村では果樹、ブドウ、茶、野菜、クルミやハシバミの栽培、蜂蜜の生産を行ったので、これで生計が維持できたのであろうか。それとも集団化以前も政策的に収入を補償したのだろうか。ところで、この村はロシア人の退役軍人アンドレイ・ムハートフが購入して、集落を開いたのが始まりだった。アンドレイと妻マリアはチェルケス人の孤児を養子として引き取り養育していた。彼女はあるとき森の中で病気の子供を抱いたチェルケス人の母親にめぐり合い、薬と食物を与えてその子供も救おうとした。子供は助からなかったものの彼女とチェルケス人避難民との間の交流が生じ、彼女の勧めによって集落に住み着くチェルケス人が現れた。最初の養子は長じて林務官になったが、養父母に先立ち、養父母も彼の後を追った。村の中に作られたムハートフ家の墓は今でもチェルケス人村民に敬意を以て扱われているという。

開基2年後の1926年には、各村ソヴィエト選挙に続き3月に管区ソヴィエト大会が開かれたが、区ソヴィエト議長ムラト・フシュト、各村ソヴィエト議長はカルポフカにジャンブレト・ナグチ、ブイズイベ(この年カルポフカから分離)にマゴメット・アチョク、プセウショホにアイス・ナプコ、クラスノアレクサンドロフスクにヌフ・フノフ、キチュマにカディ・カディエフが選ばれた。前3村が現在のトゥアプセ郡、後の2村が大ソチ市である。村落数も1934年にカミル・アストフスク(筆者はこの農村ソヴィエトの場所も正確な名称も特定できない)、カルポフスカ、キチュマ、クラスノ-アレクサンドロフスク、ラザレフ(この年に編入)、プセブ、プセウシュホ、ソヴェト-クヴァジュの8ケ村、1935年にはマコプセが編入、1940年クイブシェフとプスイベがトゥアプセへ割譲1941年にはカミル-アストフスク、キチュマ、クラスノ-アレクサンドロフスク、ラザレフ、マコプセ、マリイノ、プセウシュホの7ケ村であったところにアドレル郡からルー、ソロフ=アウル、ヴォルコンスキーが編入された。構成村落は徐々に追加され、最大では1942年9月1,500平方キロメートル、人口1万7千5百人(内、チェルケス人は約4千人)であった。中心村は1930年に区外のトゥアプセから第2クラスノ=アレクサンドロフスク(カレジ)、1931年にソヴェト-クヴァジ(区外)へ移った。第二クラスノアレクサンドロフスクは現在の大ソチ市内であるはいえ、海岸から12kmの山中で、現在でも人口393人(2010年)、当時は207人(1929年)で、さすがに、不便ということになったのか、翌年役所は海岸のソヴィエット-クヴァジェ(別名シビルスキー)に移された。ここはラザレフスキーまで11kmの農村で、ノヴォロシースク-スフミ街道に面している。

 1930年代の民族施策変転によって、1940年民族管区は解消され単なるシャプスグ区に変更されたが、その名称さえ1943年には共産党地区委員会においてラザレフに変更された。同件を決定した会議においては、二名の反対があり、一名は地区共産主義青年同盟議長エム・ペー・フシュト、もう一名は区共産党の土地問題主任アー・エム・フレチャスであった。いずれにしろこの決定は、1945年5月24日ロシア最高ソヴィエトで承認された。この時アグイなどはソチ郡ラザレフ区ではなくではなく、トゥアプセ郡に編入された。さらに60年代にも現在のトアプセ郡とソチ観光市との間に境界の変更が繰り返され、現在に至っている。

 

  38 民族管区第4回大会(1924年8月26-29日)

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 第2項 民族の黄昏

 30年代コーカサスにはチェルケス民族区の他にアルメニア人民族区、ギリシャ人民族区、クルド人民族区なども設置されたが、全てが同じく短命に終わった。ギリシャ人民族郡は1930年から1938年まで、クラスノダルのアヴィン郡とクリムスキー郡を含み、役所はクリムスク・スタニッツ(コサック村)に置かれ、10ヶ村(村ソヴィエト)が含まれていた。1935年には民族の名称がとれて、単にギリシャ郡になり、1938年には名称もクリムスク郡と改称された。アルメニア民族郡も1925年から1953年まで、マイコプ周辺の8農村ソヴィエトに置かれた。役所はエリザヴェトポリスコエ(後、シャウミャンと改称)にあった。ここでも30年代には「民族」の肩書きが外れ、1953年には郡自体も解消されて、村々は周辺の郡に分配された。少数民族尊重の潮流は薄れ、民族主義粛清の時代が来たのである。歴史家のバスィリ-・ドミートリエフは民族区存在の意義を以下のようにのでている。「シャプスグ民族区の存在は、同時代の公文書を見ると、住民の要求によって実施された仕事に成果の遅滞があったことが明白であったが、それにもかかわらず、黒海沿岸で経済的発展に自分の役割を果たした。最も重要なことはシャプスグ種族のための基本的社会基盤が整備されたことである。道路と学校の建設が始まった。アディゲイ語とその他の言葉のラジオ放送が始まった。毎年民族的祭典が祝われた。地区の新聞『シャプスグ・ボリシェヴィキ』が刊行された。政治的発展は歴然として経済的発展に先んじた。共同体の集合はこの国の他の民族と同様に種族としての構造を持つようになった。シャプスグ民族区の廃止は、記憶の基礎の上に、シャプスグ人の今日的民族意識を強化し、特別の肯定的評価を含んだの強力な心理的組み立てを築き上げることに寄与した」。現在ソチにおいてシャプスグ民族管区再生を強く主張する政治的指導者の一人にルスラン・グヴァシェフがいる。グヴァシェフは、『コーカサス・タイムス』のインタビューに応じて、今日クラスノダル地方のシャプスグ人が直面する問題について答えて、1)シャプスグ人は何らの集団的地位つまり民族地域的権利をを持っていないこと、2)ソチ・クラスノダル間新鉄道建設によって、いくつかの集落が消滅し、住民は集団住宅に居住するか、遠隔地に代替え地を与えられること。3)1万人のシャプスグ人はシャプスグ語のラジオもテレビも、シャプスグ語を学ぶ学校を持っていないこと、4)ソチ・オリンピック式典で歌われた「我々はイスラム教徒を撃破したし、これからも撃破するぞ」である。5)我々は母語で書くことは許されていない。6)1万人のシャプスグ人はソチとトゥアプセの二つの行政区にわかれていること。7)土地問題。シャプスグ人農民には新規に住宅を建築する土地がないことである。

 シャプスグ人が自民族の将来に新しい展望を見出したのは、ペレストロイカの時代であった。1990年、シャプスグ人は第1回沿黒海アドウイグ人大会を開催し、シャプスグ民族区形成宣言を採択したが、政府に受け入れられることはなかった。シャプスグ人の人口は当時1万人に増加していたが、シャプスグ人議会代表者は主張する。「この数字は幻想だ。シャプスグ人の子供の40パーセントは母語ができず、成人の半分は読むことができない」。「シャプスグ語はシャプスグ人の住む17ケ村では教えていないんだ。教えているのは遠くのマイコプだ。家で教えるための資金はないんだ。ソチ、トゥアプス、ラザレフスコエの役所はシャプスグ人に居住許可を与えることを拒否した」。ソ連では国民の自由居住権は、認められていなかった。彼らにとってこのようなな問題が生じるのは、シャプスグ17ケ村がトゥアプセとソチにまたがっていて、独自の行政機構を持たないからである。特に1992年にイェリツィン政権下で成立した「被抑圧民族権利回復法」と「民族国家法」が彼らに期待を抱かせた。結果的に当局はシャプスグ人の要求を退けたが、この法律がイングシュ人とオセット人に流血の紛争をもたらしたことを知っていたからであった。沿黒海地方にあっては旧ソ連共産党の民族主義分子の「ソチ国際主義運動」がロシア民族中心主義的プロパガンダを行っていたし、隣り合うアディデイ自治共和国ではロシア人住民の間に、少数民族自治撤廃運動が起こっていたからである。このようにして、シャプスグ人の要求は退けられたが、いくつかの村落名称は1993年3月1日を期してロシア語からアゴイ-シャプスグ、ハジコ等チェルケス語に戻された。

 第3項 チェルケス人の粛清

 さて、次にシャプスグ人を待っていたのは農業の集団化と富農追放運動だった。作曲家ラフマニーノフが亡命直前に身を隠していたと言われるトハガプシ村の作家で従軍記者も務めたマディン・チャチュフ(1937年生まれ)は、「コルホーズ(集団農場)組織の命令が届いた時、1、2の家族を残して全員が登録した。しかし、1930年代にスターリンの論文「成功を求めるめまい」が発表された。私の父はこのことをよく覚えていた。そこにはコルホーズの多くは強制的に組織されたが、自主的に始められなくてはならないと書かれていた。我々の村のコルホーズ反対派の男が、偶然ラザレフスキー(現在のプセズアプセ)に出かけていた。彼は新聞を買ってみんなに論文を読んで聞かせた。みんなはその時収穫のためにリンゴ園にいた。スターリンがこのように書いたんだから、我々はコルホーズを解散しなくてはならないと断言した。みんなは信じ込んだ。コルホーズは解散した。誰も彼には反対しないし、なかった。全員が平穏に仕事をした。コルホーズには5人だけが残ったが、父はその一人であった。次の日、地区委員会の書記がやってきた。革命委員会は当時ハジコにあった。書記はこの五人を集め、コルホーズで働き、他の者にもそうするように宣伝するように呼びかけた。請願書を書いてコルホーズの解散に利益があったものの名前を書くように要求した。皆が断わった。後で、5人全員が、父もその中にいたが逮捕された。コルホーズは以前と同じく存続し、反対する者は直ちに投獄された。しかし、一年後には全員投獄された。富農との戦いという事で。全員が富農だと宣言された。貧乏なものまで。父の兄弟は何も持っていなかったし、3人いた息子の内2人はブラブラしていた。彼の家では屋根が雨漏りしていた。それでも彼は富農にされた。我々のアウルには50戸ぐらいしかなたったが、170人が弾圧された。一族全体がカザフスタンに連れていかれた。男たちは投獄されるか、白海運河のような建設作業にやられた。残ったのは村人の3分の1だった。権力が弾圧する人々の名簿を送ってきたわけではない。ここで、村で作ったんだ。アディグ人が自分で作ったんだ。戦後、少しずつ戻ってくるようになった。1955年頃までには追放されて生き残っていた人は帰ってきた(90%は死亡した)。父は後で名誉回復された」。この文章では父ユスフの罪状ははっきり述べられていないが、逮捕者ファイルによると国家反逆罪であった。マディンは叔父はともかく自分たちの運命をはっきりとは書いていないが、ユスフの家族は国家反逆者の家族として懲罰的強制移住の対象になった。判決は1931年に行われている。弾圧被害者資料でチャチュク家の家族構成を詳細に見ると、母サルメド(1896年生年、以下同じ)、長姉アムネト(1920)、次姉アシルハン(1925)、三姉サフェルハン(1927)、四姉バゼルハン(1930)、兄ハルン(1922)、本人マディン(1937)、弟マジド(1943)で、移住先(特殊移住村つまり流刑地)はカザフスタンのカラガンダであった。父ユスフの行先は不明だが、政治犯として白海運河建設に動員され、1933年の運河完成後、カラガンダに再送致されたのであろうか。マディンとマジドは移住先の生まれであろう。叔父イリヤスの家族は叔父の妻ズィザ(アズィザ?)・チュチャゴヴナ(生年記載なし)、長男シャバン(1917)、二男ダウラト(1919)、長女ラベット(1903)、次女ザリハン(1923)、三女タミルハン(1925)であったが、イリヤスの情報も内務省(クラスノダル)の台帳にはないようだ。三人いたという息子の名前は二人しかわからないし、怠け者が誰と誰であったかも内務省の台帳にはない。ただし、シャバン(1943年招集)はただの赤軍兵士、ダウラト(1941年招集)は上級軍医中尉で「赤い星勲章」授与者である。このようにスターリンの時代、戸数僅か20-50のトハガプシから170人の人々が弾圧された。村にはその人々の氏名を刻んだ記念碑が建てられている。

  39 写真 トハガプシュ村抑圧被害者殉難碑

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 第4項 ソチ市民の運命

 旧ソチ市でも人々の運命は同様で、人々は様々な理由をつけて、時には人数を合わせるだけのために抑圧された。資産家と目された人々の財産は没収された。先ず、1929-1930年に多くの人々が反革命分子として逮捕・財産の没収・投獄・追放・強制労働・銃殺などの仕打ちを受けた。まず、その先頭に立たされたのは聖職者であった。地方史家がソチ市内で逮捕された聖職者名33名分のミニマムリスト(確かにそうである人の名簿)を挙げているが、全員が反革命君主制教会組織IPTs(真正正教会)の黒海分会に所属するとされている。真正正教会は、1927年にノヴゴロドの府主教で大主教臨時代理だったイヴァンが発布したボリシェヴィキ政権を容認するという教令に反対するもので、北コーカサス、中央アジア、黒土地帯に支持が広がっていた。勿論迫害はどの宗教にも平等に行われ、この時期ソチとトゥアプセのシャプスグ人集落ではイスラーム教指導者が逮捕されている。続いて1931年にはソチでも富農追放が実施された。この年の1月10日当時ソチ郡には、7,777の農民世帯があったが、この内391世帯が富農に分類された。ではいったい「富農」はどれほど豊かであったのだろうか。レスノエ村のギリシャ人富農パンテレイ・ダミアノヴィッチ・ゲオルギアディの財産は「牛一頭、玉蜀黍1プード、掛布団1枚、敷布団1枚、木製ベッド1台、テーブル1台、イス2脚、銅鍋1、銅の食器2個、琺瑯食器1、バケツ2個、古い桶2個、衣装箱1函」であった。

 これに続く大波は1937-1938年に来た。いわゆる大粛清である。この章に名前を挙げた人々でもアベル・スヴァニヅェ、アレクサンドル・メーテリョフ、ムサ・アラル、アレクサンドル・ウーソフなどが逮捕された。この大粛清の最も特異な点は、政権の基盤である赤軍(ソ連の赤軍は国の軍隊ではなく、共産党の軍事部門である)の高級幹部の大部分を殺害か追放したので、赤軍は軍隊として機能不全寸前にまでなったことだった。陸軍の最高幹部は5人の元帥だったが、このうちトハチェーフスキー(ミハイル・ニコライヴィッチ、1893-1937)、ブリューヘル(ヴァシーリー・コンスタチノヴィッチ、1890-1938)、イェゴロフ(アレクサンドル・イリチ、1883-1939)が逮捕された。この内ブリューヘルが逮捕されたのは国防相ヴォロシロフ(クリメント・エフレモヴィッチ、1881-1969)元帥のソチの別荘であった。別荘の看護婦兼家政婦であった女性は後に次のように述懐している。彼女はヴォロシーロフ自身が来ることを予想していたが、ブリューヘルが妻と二人の子供を連れて現れたのである。家族は普通の保養客とおなじく公園を散策し、海まで下りて行って海岸で子供たちと遊び、一度などはアブハジアのリツァ湖まで足を延ばした。ところがある日彼女は二人の会話を耳にした。

  「しかし、彼らは本当にお前を捕まえに来るぞ」。

  「そんなことはできんさ」。

  「できるさ。どうあってでもだ。お前だって周りで何が起こってるか見てるだろう」。

 恐ろしい日がやってきました。隅々までよく覚えています。私は職員宿舎に住んでいました。いつものように朝早く、別荘に行きながらバラを切り、食堂に活け始めました。突然ドアの開いた玄関に二人の背広の男が入ってきました。二人は黙って内階段を登っていきました。寝室に。男たちはすぐに階段を降りてきました。ヴァスィーリー・ブリューヘルの両脇を抱えて。彼の顔は死人のようで歪んでいました。男たちは玄関の脇の執務室に彼を閉じ込めました。奥さんのグラフィー・クキニチナは階段を自分で降りてきました。男たちは彼女を車に座らせ、そのあとで夫を座らせました。かれらはその時になって私に気が付き、寝室に上がって服と下着をスーツケース二個にまとめるように言いました。彼らはスーツケースを車のトランクに投げ入れ、行ってしまいました。まもなく別荘に支配人がやってきて、子供たちを孤児院に連れて行きました。1938年10月22日のことだった。ブリュヘルは極東戦線総司令官として同年に起った張鼓峰事件敗戦の責任を問われ、日本のスパイという冤罪で逮捕され、取り調べ中に射殺された(1938年11月9日)。妻グラフィラは幇助罪としてとして有罪とされた。子供たちは娘ヴァイラ(1932年生まれ)、息子ヴァシーリー(1938年3月21日生まれ)であった。

 ブリュヘルはどんな根拠があって自分の身柄が安全だと考えていたのであろうか。既に5人の元帥の内トハチェーフスキーは1937年5月、ロコソフスキーは1937年6月に逮捕されている(トゥハチュフスキーは自白したため有罪、ロコソフスキーは拷問にもかかわらず否認を通したので、釈放され、軍務に復帰した)。ブリュヘルはソチの有様は知らなかったかもしれないが、ソチでも同様に粛清は進行していた。アドレルではコムソモール地区委員会議長のアレクセイ・アルフェーロフが既に失脚した北コーカサス地区党委員会議長の妻に花束を献呈したことがあるとして、地区党委員会第一書記のニコライ・パヴレーンコ、地区執行委員会議長セルゲイ・アヴァネーソフが、ソチ市では市党委員会政治教育組織の長ヴラジミル・フェクリセンコが逮捕された。アルメニア人の集落バラノフカでは民族主義組織の名目で12人が、エストニア人の村エシトサディクでは同じ理由で大量検挙が、前にも述べたトハグプシュではシャプスグ民族区党第一書記ハジブラム・スィゾを初めとする人々は、記念碑に氏名が刻まれている159人の中に含まれている。

 更にこれに続くのは諸民族の追放であった。独ソ戦開始前夜からスタ―リンは仮想敵国との国境にまたがって住む少数民族を国境から領土の内部へ強制移住させ始めた。先ず、早くも1935年にはフィンランド国境に住むフィン人7,000~9,000人が追放された。1937年には日本との国境の朝鮮人(現在旧ソ連各地でいう高麗人)、イラン国境のイラン人、トルコ国境のトルコ人、クルド人、ヘムシン人、ギリシャ人などが続いた。ソチではギリシャ人が主対象になった。1942年内務人民委員部地区組織は「ソチ及びアドレル地区の反ソ連分子一掃令を発布、外国籍住民および無国籍住民の強制移住を実施した。10月8日には追放者の名簿が作成された。9日にはクラースナヤポリャア、23日にはソチ市で実行された。10日作成の乗車表では少なくとも802人が数えられる。クバンと黒海沿岸の全体でギリシャ人は1930年代にカザフスタンと中央アジア(カザフスタンを中央アジアに入れないのはソ連時代の慣行)に強制的に集団移住させられた。1942年10月10日付の乗車リストには、「1号車、乗客38人、内ギリシャ人28人、(家長氏名)イ・パイプトリディ、エス・モハイリディ、エヌ・ピメニディ、エル・カイスィディ、カー・ハリトプロ、イ・カラヤニディ」のように記載されている。1944年にはソ連市民である人々にも強制移住の手は及んできた。ドイツ占領軍から解放されたクリミアでは、1944年5月までにクリム・タタール人19万人(彼らの中には、ヌリー=パシャと連絡を取っていたものがいた)が移送され、6月からはブルガリア人12,075人、ギリシャ人14,300人、アルメニア人1万人が中央アジアへ送られた、ソチでもこれと時を同じくして、以前の追放を免れたギリシャ人も追放されたが、彼らの大部分はソ連市民であった。1944年には北コーカサスのチェチェン人、イングーシ人、カラチャイ人、バルカル人が追放されたが、カバルダ人、アディゲイ人、チェルケス人には凶行は及ばなかった。ダゲスタン人の移送は計画段階にとどまった。コーカサスのギリシャ人にとって最後の打撃は、驚くことに終戦から4年もたった1949年で、南北コーカサスのギリシャ人37,000人が犠牲になった。なお、蛇足だが1940年代にはアルメニアのアゼルバイジャン人多数が、アゼルバイジャンへ強制送還された。アゼルバイジャン・アリエフ政権はこれをアルメニアによる「ジェノサイド」と呼ぶが、彼らの言い分はソ連共産党中央の決定とアゼルバイジャン共産党執行部の対応には沈黙して、アルメニアの行政文書のみを示して、アルメニアだけを一方的に批判するものである。

 なお、ソチにはドイツ人農民も多かった。全ソ連的には独ソ戦開始後のドイツ人市民強制移住が有名だが、これには前史があった。第一次世界大戦下の1915-1916年ロシア政府はヴォリニア(ポーランド、ウクライナ、ベララルースの境界地域)、ポーランド、ベッサラビア(モルドヴィアの旧称)のドイツ人20万人を帝国東部に移住させている。1920-21年、クバン地方には71,172人のドイツ人がいたので、クバン川中流左岸にヴァノフスコエドイツ人民族区(1928-1941年)が置かれていたが、富農撲滅運動、集団化によって、優れた農業経営者であったクバンのドイツ系住民は、ドイツへの大量移住で応じた。1941年9月から翌1982年1月クラスノダル地方から、37,733人のドイツ人が強制移住処分を被った。

 第5項 ソ連の夏の首都ソチ

  40 写真スターリンのソチの別荘(旧ゼンジーノフ邸と新邸)

https://arch-sochi-ru/2013/09/imenie-mihaylovskoe-m-a-zenzinovoy-ili-sochinskaya-dacha-stalina.

https://anashina.com/dacha/-stalina-v-sochi

社会主義国家ソ連邦は独特の国民厚生制度を持っていた。レーニンは労働者および勤労者に毎年2週間の休暇を与えることを決定して1918年「休暇に関する」法令を出し、種々の制度的設計が行わせた。ロシア革命と内戦の混乱もソチへの憧れを忘れさせるものではなかったので、ソチでは1920年4月ソヴィエト政権が樹立されると、「ソチ保養施設管理局」が設けられた。1921年には以前の別荘や高級ホテルは「コーカサスのリヴィエラ」、「モスクワ」、「赤いモスクワ」などの人民保養所に姿を変え、同年の利用者数は4万5千人に達した。1926年、「ソチ・マツェスタ保養地設置規則」が制定され、ソチは全国レヴェルの保養地として位置づけられることになった。1930年までにソチには6箇所の国営保養所(ベット数465床)、21箇所の機関所有の保養所タイプ施設、中央保養地病院が整備された。政府の保養政策は加速化された1930年代、ソチは1934年に政府の緊急整備計画に加えられた。市中央の「リヴィエラ・マツェスタ街道」が、市の目貫通り(「スターリン大通り」、「保養地大通り」)に作りかえられた。また、アフン山までの道路が建設され、山頂には現在も残る高さ30mの見晴らし台が建てられた。1934年から1939年までのあいだに新たに19施設の保養所が加えられ、マツェスタ温泉にも新しい建物が建てられた。ソ連邦中央執行委員会ソチ観光地及びコーカサス鉱泉群全権担当者者として政府の緊急整備計画を担ったのは、アレクサンドル・デニソヴィッチ・メーテリョフ(1893年マイコプ生まれ)であった。メーテリョフは最初ロシア各地で党務に従事した後、1924年からモスクワでクレムリンの経理営繕の部署に配置、イズヴェスチア紙の経済副主任を経て、経済人民委員部で畜産やソホーズ組織化を担当した(1927-1933年)。1933年10月に新しい任務をゆだねられると、全力を挙げてソチとマツエスタの観光開発に努力し、古い建物を改修すると共に中央から有能な建築家を招いて海港駅、鉄道駅、夏の劇場、冬の劇場等の新しい施設の建設に尽力した。ソ連で初めてアスファルト舗装が行われたのは彼のもとであった。しかし、1937年5月5日密告によって逮捕され、テロリスト組織に加担したとして死刑を宣告され、同年10月26日銃殺された。暗殺計画の場所場所とされたソチ中心劇場通り2番にある「冬の劇場」は1934年着工1937年竣工、三角形の破風、建物前面に列柱を巡らせた、スターリン好みの偽古典主義的様式の建物である。メテリョフは1955年に名誉回復されているから、全くの冤罪であったか、政治的陰謀の犠牲者であった。この疑獄には助手のロゴージン、妻のアンナ、又従兄弟フョードル・コノヴァーロフの他にソチ市の内務省分室長アバクーモフが連座していた。国家保安省長官のヴィクトル・アバクーモフとは別人である。ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・アバクーモフは1937年8月1日から1938年8月3日までソチ、㋇4日からノヴォロシースクで勤務、1939年2月28日逮捕・解職、翌年1月27日銃殺された。またこれとは別に1939年マツェスタでスターリンを暗殺する計画を立てたと言われたゲンリフ・リュシコーフは、アバクーモフの上司で1936-1937年にアゾフ・黒海地方内務省支局の長であった。リュシコフは極東局長に転任した後、1938年6月日本に亡命していた。マツェスタの計画は内通者がいたために失敗したが、内通者がいたということは内通しなかったものもいたのである。スターリン暗殺チームがアブハジアの国境を突破しようとしたのは1939年1月であった。しかし、そもそもスターリンが真冬にソチで保養することがあったのであろうか。

 党と国家の幹部のための保養計画はそもそも、国民大衆とは別の観点から立案されたが、レーニン死後の1924年1月ソ連共産党中央委員会幹部会において「党幹部の健康維持について」討議され、医療や厚生のための様々な施設が設けられるようになってからである。スターリン自身がソチで保養するようになったのはミコヤンに強く進められリューマチの治療を始めた1928年からであった。スターリンの娘スヴェトラーナ・アリルーイェヴァ(1924-2011

は、「南ではそのころいつもだれかが両親と一緒に保養していました。母の洗礼父アヴェル・エヌキヅェ、我が家の大親友アナスタシア・ミコヤンそれにクリム・ヴォルシーロフ、ヴァチャスラフ・モーロトフ。みんな奥さんや子供たちが一緒でした。私のところに楽しかった森の中のピクニックの写真があります。みんな一緒に自動車で行きました、とても楽しかったです」。母ナデジュダ・アリルーイェヴァが死亡した時、スヴェトラーナはまだ6歳程だったから、このピクニックは本当に記憶していたことを言っているのだろうか。エヌキヅェ(1877-1937、ロシア語表記はイェヌキッゼ)はグルジア人だがグルジア共産党ではなく全ソ共産党の幹部、ミコヤンは長く外務大臣を務めた後、最高人民会議議長(ソ連邦の名目的元首)、クリム(クリメント)ヴォルシーロフは先に述べた赤軍元帥で国防大臣、モーロトフ(1890-1986)は、ソ連首相(閣僚会議議長)。フルシチョ

フと戦って敗北したが、退職して平安な余生を送った。実はベリア(ラヴレンチイ・パヴロヴィッチ、1899-1953)もここに出入りしていて、スヴェトラーナを抱いて写した写真もあるが、ベリアの名前は上がっていない。スヴェトラーナはベリアを嫌っていたのだ。幼い少女の直感で、ベリアが悪人であることが判ったのであろう。ところで、ブドウ・スワニーゼ著『叔父スターリン』にブドゥがソチのスターリンの別荘を訪れる1章があるが、そもそもこれは偽書でこのような人物も実在しないし、ブドウが訪ねたという別荘の場所も実際とは違っているようだ。

  41 写真 アレクサンドル・デニソヴィッチ・メーテリョフ。妻アンナ、娘と(1935年撮影)

https://ngsochi.com/nasha-istoriya/6562-demokratiya-30-kh-godov-xx-veka-v-sochinskom-rajone-nachalo-repressij-i-ikh-posledstviya.html

 劇場にしろマツェスタ温泉にしろソチがスターリン暗殺の舞台に選ばれたのは、スターリンが夏をソチで過ごすことを好んでいたからであった。スターリンは1928年からほぼ毎年7-10月をソチで過ごした。最初はシベリアの金鉱山王ミハイル・ゼンジーノフの別荘ミハイロフスコエ荘を定宿にしたが、1936年からは海洋画家アイワゾーフスキーの遠縁にあたる建築家ミロン・メルジャノフ(1895-1975)設計の新しい建物に滞在した。場所はマツエスタ川とアグラ川の間にある新マツエスタ地区の海抜160メートルの森林の中の「緑の灌木の茂み荘」である。当時はその施設の詳細は秘密であったが、今では観光スポットになっている。独裁者スターリンが長期滞在していたのであるから、当然党幹部や彼のスタッフ、各省庁の担当者も滞在していた。外国の賓客を招くことがもあった。それで夏の首都と呼ばれたわけだが、ソチは権力者に専用の保養地であったわけではない。ソ連中のプロレタリアートにソチの海岸を解放することはレーニンの願いであった。その結果長い夏の休暇を黒海岸の保養地で過ごすことは、ソ連人中間層の実現可能な夢になった。その夢が行きわたるのは1970年代のことだ。

  42 写真 ナヴァギンカの小学生(1939年) ソチ全体もまたナヴァギンカも多種多様な民族が相集っていた。顔つきだけから子供たちの出自を言い当てることはできないが、写真前列左側の女の子はアルメニア人のようにも見える。出典は、グーセヴァ『古いソチの顔 』

https://www.privetsochi.ru/blog/history/75885.html

 第6項 コーカサスの戦い

  43 ビデオ エルブルス山を目指すドイツ軍「コーカサス戦線エルブルス登頂」(PeriscopeFilmLLC archieve)youtube.com/watch?v=RIOz01BXKWk 5,47secs これは戦争中のドイツの宣伝ニュース映画である。エルブルス山占領は戦術的には意味がなかったが、宣伝相ゲッペルスはドイツ軍優勢を印象づけるために実行した。ヒットラーも当初はこれに不満であったが、後でこの効果を承認したと言われる。これに応じてスターリンも奪還を厳命した。「エーデルワイズ作戦<最後の秘密>ロスコスモス・テレビyoutube.com/watchv=2YMyCCtVewg

 直ちに第214連隊のグレン・アガジャノヴィッチ・グリゴリヤンツ(1908-1942)中尉麾下の一個中隊が派遣されたが、圧倒的に優勢なドイツ軍の反撃を受けて全滅、部隊は長い間消息不明とされた。ソ連軍による山頂奪回とドイツ国章撤去は翌年2月のことであった。

ソチの保養施設は独ソ戦期には、傷病兵士のための病院保養所となり、戦場が大コーカサス山脈に近づいた期間はソ連南部の基幹的医療施設であると位置づけられた。ここに逗留した負傷将兵は50万人だったとされる。ところがドイツ軍の前進によって北コーカサスから切り離されたため物資の不足は深刻になった。食糧不足が一層重大になったのは1942年春からで、2週間というもの住民にパンが供給されなかったことがあった。5月1日から2日に亘る夜に小麦粉を積んだ貨車が引き込まれ、朝には積み下ろしが予定されたが、早朝ドイツ軍の空襲が始まり爆弾の一つが貨車に命中したので、町はまたパン無しになった。市病院長のある日の昼食は薄いカーシャ(彼の日記には「湯の中に何かの粉を入れてかきまわしたもの」と書きこまれていた)、塩ニシン、わずかなパンだけであったという。食べ物がなかったので、海豚の肉を食べたと筆者の妻の母が話していたというのは、このときのことであろうか。当時海豚の肉は普通にソチの市場で売買されていた。医薬品も不足し、脱脂綿が無くなるとコケが代用され、地元の植物から薬品が作られたという話も語り伝えられている。有用植物採集のために動員されたのは子供たちであった。さらに、1942年7月ヒトラーが石油を確保するためにコーカサスを占領する「エーデルワイズ作戦」を実行するとソチは対独戦前線基地になった。防衛のための無反動ロケット砲「カチューシャ」の基地が設けられ、クバン地方との間の峠にドイツ軍(南方軍A集団)の前進を阻止するための陣地が構築された。ドイツ軍はルドルフ・コンラド将軍の第49山岳狙撃軍団を投入した。別名エーデルワイズ軍団で、アルプスで山地戦の訓練を受けていたので、ロッククライミングやボーダリングに熟練していた。応戦するのはアーダム・ペトロビッチ・トゥリチーンスキー大佐(後少将)麾下ソ連軍第20山岳狙撃兵師団で、ザカフカース軍管区に属し司令部はグルジアのゴリ(スターリンの出生地)にあった。開戦後イラン・トルコ国境警備のためにアルメニアのレニナカン(現在のギュムル、ここには今でもロシア軍の基地がある)に駐屯、12月には黒海岸の警備を命じられ、翌1942年5月隷下の4個連隊(67,174,265,370)は大ソチのラザレフ、ゴロヴィンカ、ソチ、アブハジア北部のピレンコヴォに配置された。それぞれがプセズアプセ川上流のトゥバ峠、シャヘ川上流のチェルケス峠とベロレチカ峠、ムズィムタ川上流プセアシュホ峠・アロウシュ(オロシュテン)峠、およブズイブ川上流から山の背を越えたサンチャロ峠を防衛することができた。8月12日コンラト少将は軍団隷下の第四山岳歩兵師団(師団長カルル・エゲルゼア大佐)とルーマニア陸軍山岳歩兵一個師団に右翼として大ラバ川上流の占領を、第一山岳歩兵師団通称エーデルワイス師団(師団長フベルト・ランツ大佐)には左翼として大ラバ川流域からコドル峠を越えてアブハジア北西部ブズイブ川上流に進入し、黒海岸を制圧することを命じた。第一山岳歩兵師団の一部は速やかにエルズルス山の標高4,200m地点に進み、早くも8月21日にはハーケンクロイツおよび両師団の標章を立てた。一方第四山岳歩兵師団は同月15日サンチャロ及びプセアシュハ峠を目指して、大ラバ川流域を出発した。ソ連軍第20山岳狙撃兵師団は、夜間クラースナヤ・ポリャーナ街道を前進しクラースナヤ・ポリャーナに布陣した。8月20日-25日にクラースナヤ・ポリャーナ北西50kmのフィシュト高地(これにちなんでソチ・オリンピック開会式場はフィシュトと命名された)でベラレチカ峠を巡る最初の戦闘がおこり、28-31日ウンプイル峠(ソ連側防戦部隊は174連隊第2、および第5中隊)、9月8日にクラースナヤ・ポリャーナ北東東20kmオルシュテン川とプセアシュホ峠で激戦が繰り広げられた。ドイツ軍はフィシュトの北東のアバゼシュ山と西のトゥバ峠で有利な地歩を得たもののそれ以上の前進はできなかった。この冬は異常に寒くて降雪量は5mに達し、雪崩が頻発していた。ドイツ・ルーマニア連合部隊はウンプイル峠を確保したままであったが翌1943年1月撤退した。12月28日ドイツ軍A集団には撤退命令が出されていたのだった。この間、傷病兵はロバの背に乗せられてソチに運ばれた。

  44 写真フィシュト山塊 左側がフィシュト山、右側がオシュテン山

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B8%D1%88%D1%82#/media/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Fisht_in_Winter.jpg

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 第7項 保養都市ソチの再建

 保養所としてのソチの再建は既に大戦末期に始められていて、終戦から2年経った1947年には45箇所の保養所が稼働していた。新たに住宅、鉄道駅(1952年)、海の駅(1952年)等が建設され、利用者数は1950年代初めに戦前の水準に戻った。また、アドレルに飛行場、クラースナヤ・ポリャーナには水力発電所が建設された。1960年までには年間利用者50万人に達した。1961年には、ロシア連邦共和国の法律により近隣のラザレフスキー、ホスト、アドラルと合わせて、新しく面積3,505平方キロメートルの大ソチ市が誕生した。1967年には25-30年先を予定する新計画が立案され、ソチ市海岸全域を農業地帯から区別される保養・観光地区とする方針が示めされた。宿泊施設はは60年代に「レニングラード」、「クバン」、「ソチ」、「マグノリヤ」、「カフカース」、「チャイカ」、70年代に「カメリヤ」、「ジェムチュジナ」、「モスクワ」等のホテルが建設された。ソ連全体では1960年に71万4千人であった観光・保養客は、1970年に200万人、1980年には500万人に達した。この中には主として東欧人の外国客20万人が含まれている。

  45 写真 ホテル・モスクワ 1969年にイヴァン・ザーコフの設計が承認され、1974年に着工式、1976-8年に建設された。当初の計画では14階建て、客室316室(収容人員700人)であった。ホテル前庭のヴェンチャゴーフ(セルゲイ・イリーチ)の造園には1979年にロシア連邦国家賞が与えられた。ホテル・モスクはソ連末期にソチの観光事業のシンボルとなった。今世紀10年代末期ホテルの紹介が計画されたが、リーマン・ショックによる不況で頓挫した。2013年には大規模改修がはじめられたが、開業はソチ・オリンピックに間に合わなかった。

https://arch-sochi.ru/2013/02/metamorfoza-gostinitsyi-moskva/

 

 ソチの保養観光施設は、全ソ連各地の同様の施設と同じく、ペレストロイ期とソ連崩壊前後に壊滅的打撃を被った。関連事業所は運営のための資金が、利用者は旅行と滞在のための費用がなかった。状況が好転したのは全ロシアが石油景気に沸く1990年代末からであるが、この時は海外旅行ブームが、国内保養・観光地の前に立ちはだかった。しかし、2007年のソチオリンピック開催決定により、現地は大きな期待を抱き外国系の大ホテルや個人経営のペンションが次々と建設され、第二次大戦後同様の建築ブームに湧いた。大会開催を前にしたその活況と混乱はしばしばニュースで報じられた。

  46 写真 ソチのロシア大統領公邸 ソチ市ノーヴイ・ソチ小区インジネルスカヤ通り。この建物は1934年軍事人民委員ヴォロシーロフ(既に我々にはなじみの人物)の命令により、スターリンの設計家メルジャーノフによって着工された。しかし、弟子ヴァシーリー・イェゴロヴィッチ・シャシュコーフによってて直された。ジョージ・ブッシュ、アンゲル・メルケル、レジャブ・アユブ・エルドアン等がここに迎えられた。市内バス4番、および7番線から外側の塀を見ることができる。https://yugarf.ru/wp-content/uploads/2018/04/foto-rezidentsii-prezidenta.jpg>https://avatars.mds.yandexnet/getzen_doc/3414416/pub_

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 さて、ソチの産業は決して、観光・保養分野に限られたものではなかった。ロシアによる支配の当初から、温暖な気候を活かした林業や商品作物生産が期待されていたが、現在クラスノダル茶の銘柄で有名な茶栽培が始まったのは20世紀になってからであった。ソ連時代グルジア、アゼルバイジャンについで国内第三の地位にあったクラスノダル茶を生産していたのは、全くソチであった。ソチで最初に茶栽培が試みられたのは、1878年であった。この年ソチの熱帯農業研究所初代所長のガールベ(レインゴルド・イオガンノヴィッチ)は、アブハジアの農園から取り寄せた4年ものの苗木をマモーントフ農園に移植した。苗木は順調に生育すると思われたが1883年の厳冬を乗り切ることが出来なかった。ガールベは翌1884年、今度は中国産の苗木をダガムスのトルベツィキー公家の農園、トゥアプセのスィビリャコフ家、ストレシュコヴィッチ家の農園に移植したがこれも失敗したので、ソチには茶樹栽培は不可能であると考えられた。

しかし、1900年にダガムスへ移住したウクライナ人コーシュマン(イウド・アントノヴィッチ、1838-1936年)は、1901年ソチ市の北20km、標高220mのソロフアウルの1,350haの圃場に種実から育てた800本の苗木を移植した。種実はアジャリアのチャクヴァ茶園の産で、コシュマン自身がチャクヴァデの茶園で働いた経験があった。1904年に最初の収穫があり、翌1905年コシュマンは最初の製品をソチの市場で1フント(454g)1ルーブルで売り出した。同じ目方のパンは4コペイカ、豚肉は14コペイカの時代のことである。商標はボドロスチ(元気

)であった。安価な国内産商品の出現に中国茶の商人は恐慌をきたした。特にチャクヴァ茶販売会社はコシュマンを告訴した。本来流刑に当たるところ、革命の混乱下のことであったので、販売中止を条件に科料の支払いで難なきを得た。革命後コシュマンは再び製品販売に乗り出したが、1909年のソチ農産物品評会ではマガイモノであると断罪された。翌年の品評会でも一部によい評価を与えられたが、審査委員会からは無視された。しかし、1913年、サンクト=ペテルブルグの「コーカサスのリビエラ展」では、「ロマノフ王朝300年記念メダル」と賞金200ルーブルが授与された。1923年のモスクワ品評会(VDMKh)では、「世界最北茶」であることが評価されて金メダルを受賞された。茶栽培と生産は公共化され、ダガムスとアドレルには工場も建設された。栽培面積も1925年から拡大された。これ以後も栽培面積は拡大し、1941年の生葉36トンは、1951年には400トン、1985年には8,000トンに増大した。今日主要な栽培地は、南からアドレル(60ha)、ホスタ(420ha)、マツェスタ(150ha)、ソロフアウル(100ha)、ダガムス(600ha)、シハフト(119ha)である。しかし、生産量は2019年の2、480トンまでに低下している。

  47 写真 ソロフ・アウルの茶園

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  第6節 オリンピックとジェノサイド

 第1項 NO Sochi 2014

 

 「ノー・ソチ2014」運動デモ行進、2012年ロンドンにて(https://i.cbc.ca/1.1653862.1379075575!/httpImage/image.jpg_gen/derivatives/16x9_780/li-circassian-protest1.jpg)

 2007年、プーチン大統領(当時は首相)がソチに冬季オリンピックを招聘する決定をしてから、大会の実施について様々な反対や疑問の声が上がった。決定に先立って、『コーカサス・タイムズ』誌は、「骨上競技会」というエッセーを掲載してソチの歴史を簡単に述べ、ソチでオリンピックを開催するべきではないことを主張した。チェルケス文化研究所(代表ザカリア・バルスィク)のメンバーで、アメリカ合衆国ニュージャー州にすむ若いチェルケス人のグループは2010年のカナダ・ヴァンクーバーや2012年のロンドンに赴いて、反対キャンペーン「ノー・ソチ・オリンピック2014」を展開した。主張の内容は『コーカサス・タイムズ』紙と同様に、ソチ、特にクラースナヤ・ポリャーナ以外の支障のないロシアの別のどこかの場所で開催すべきであるということである。また、在米の国際チェルケス人評議会代表イヤド・ユガル氏は2012年ヨーロッパ議会で趣旨の説明を許されたが、『エコノミスト』紙に「我々はここで競技をするのであれば、我々の親族の骨の上で競技するのだということを選手達に知ってもらいた」と述べた。ヨルダンやイスラエルのチェルケス人団体にも国際オリンピック委員会に対する反対のアピールを発表している。トルコのイスタンブルでは5月21日の強制移住記念日には毎年ソチ・オリンピック反対のデモが展開された。

2010年にグルジアで開かれたジェノサイド・コングレスでは、チェルケス文化研究所からタマラ・バルスィクが出席して、ソチ・オリンピックの反対理由を述べた。結果的に翌2011年グルジア政府はチェルケス人の強制移住をジェノサイドと認定する決定を行った。これは、事あるごとにグルジアを締め上げ、2008年以降は南オセチアを保護化しているロシア連邦プーチン大統領に対する嫌がらせであろう。ところが南オセチアと同じく、2008年にロシアから独立承認を受けたアブハジアは、グルジア・チェルケス同盟には不快感を抱いた。しかし、ジェノサイド承認運動の主役は在外チェルケス人であるし、在ロシア・チェルケス人は1992-3年のアブハジア戦争に際して、アブハジアを支持していたのである。結局、アブハジア政府の態度は、特需期待を表明するに留まった。チェルケス人団体の一部は2006年からヨーロッパ議会にジェノサイド認定を申請していたが、やっと2012年になって、口頭で趣旨を述べることを許された。数十万(もし、数百万でなければ)のチェルケス人が住むトルコでは政府に対してこのような請願を行っていないのは、エルドアン大統領がジェノサイドなどという言葉は嫌いだからかも知れないが、オスマン帝国の責任も論議されることになれば、国家(トルコ刑法上の表現では国民全体)を誹謗する犯罪とされることも可能だろう。トルコ市民であるチェルケス人にはもっと現実的な要望、例えばチェルケス語テレビ放送許可問題等がある。トルコ共和国のコーカサス系国民の文化団体「在トルコ・コーカサス人組織連盟(KAFFED)」は、ロシア政府のコーカサス政策に融和的であったが、ソチ・オリンピック問題では、ロシア非難に廻り、同調を拒否した国際チェルケス人協会の会員資格を一時停止する態度を示した。

第2項 ジェノサイド論争

海外チェルケス人のジェノサイド批判に対してロシア政府はコーカサス人組織連盟の代表者で国際チェルケス人協会副議長であったヤシャル・アスランカヤの入国拒否で応じた。前後して、同盟の世俗的方針に賛成しないアナトリア中部のチェルケス人は、エルドアン政府の支持を得て、宗教的なチェルケス人協会連盟を結成した(2013年)、一方、世俗的かつ反ロシア的グループは、チェルケス愛国者団を結成した(2010年)。在外チェルケス人のオリンピックに対する態度は多様であったと言えよう。ロシア政府はこれについて一切の政治日程に乗せず、逆に政府側言論人や研究者に「チェルケス人のジェノサイドはなかった」という論陣を張らせた。その一人は2007-2011年「統一ロシア」党の国会議員セルゲイ・マールコフ(1958年生まれ、1986年国立モスクワ大学卒、政治学者、モスクワ大学、モスクワ経済大学で教鞭を取り、現在政治学研究所理事長)で、国営テレビ討論番組などで政権側からの論陣を張っている(但し、千島引き渡しには反対)。マルコフは、人は大勢死んだが、チェルケス人が国家をもっているのはロシアのお陰である。大勢の歴史研究者が教室で学生に嘘の歴史を教えているなどと述べている等とテンションが高い発言を続けた。これに対して、アンドレイ・イェピファーンツェフ(モスクワ外務省国際関係大学、カリフォルニア大学卒、コーカサス問題専門家、シンクタンク代表)は、『未知のコーカサス戦争-アドィゲ人のジェノサイドはあったか』(モスクワ、2010年)で、ブリーイェフ(マルク・マクスィーモヴィッチ、1929-2011年、『18世紀40年19世紀30年代までのロシアとオセチア関係』によって学位を与えられる。オセット人。「自由意志によるロシアとの統合」論の提唱者)やデゴーエフ(ウラディミール・ウラディミーロヴィッチ、1951年生)が確立したソ連期のコーカサス史の道筋に従っている。

ソ連ではコーカサス戦争の歴史的評価を巡る論争の中で、1930年代にピオトロフスキー(ニコライ・イリチ、1897-1946年)のシャーミル民族解放運動の指導者説が有力になったが、1950年までにはピオトロフスキー説は否定され、シャーミルは封建階級の擁護者、反動的宗教指導者、イギリスとオスマン朝の工作員であると断罪された。同時にロシアのコーカサス征服は歴史の必然あるいは進歩的現象であると主張された。次にブリイェフは1956年、オセチアはロシアに併合されたのではなく自主的にロシアと統合したのであると断定した。続いて、1957年カバルダ人トゥガン・ハバソヴィッチ・クムイコフ(1927-2007)が、カバルダ人にも自由意志説を適用した。これはオセット人やカバルダ人については根拠のあることであるが、スターリン批判によってカザフスタンから帰還を許されたチェチェン人とイングーシ人については、グロズノイ生まれのロシア人のヴィターリー・ボリソヴィッチ・ヴィノグラードフ(1938-2012)によって1980年に提示された。全ての民族について自主的統合説は現地歴史学界の主流となった。ヴィノグラドフ学派などという名称も生まれた。1998年に学位を授与された若手のチェチェン人サイードアフメド・アフメドヴィッチ・イサーエフは「周知のように1970年代と1980年代の初め、歴史の文献では北コーカサス諸民族の統合が特別の自由意志によって行われたという流行の考えが広まっていた。当時、この問題についての別の考えは、歓迎されなかったし、無視された」と述べている。勿論、異論を唱えるものはいたが、学位と職席で不利な立場に置かれた。

 イェピファーンツェフは、移住者はツァーリ政府の制限や制止にも拘わらず、ロシア臣民たることを嫌い、自由意志で移住したのであると主張する。著者は国連のジェノサイド定義を「人種的あるいは宗教的集団の計画的抹殺」であると提示したうえで、ロシア政府に奉仕したチェルケス人があったこと、アメリカ合衆国の先住民政策など近代史上のコ-カサス戦争と類似の事例で、ジェノサイドと認定されるものがないことを挙げて、コーカサス戦争(期間を1817年から1864年としている)にジェノサイドはなかったと主張している。しかし、今日、ジェノサイド概念はここでイェピファーンツェフが議論の前提としたよりも幅広く理解されている。ロシアのコーカサス戦争の全体をジェノサイドと認定することはできないかの知れないが、1763-1864年あるいは1817-1864年間の多くのチェルケス人の非業の死は、帝政ロシア政府に多くの責任があることは確かであろう。

彼の論説(学術論文の体裁はとっていないので、研究とはしないが)の重要な部分は、歴史の部分よりは現代政治に関する言説であろう。カバルダやアドィゲイの政府指導部や、市民運動のリーダーが「ジェノサイド」問題に注目するのは、この問題を政治的資源としているからであると強調している点であろう。政治家が国民の諸問題を解決するためには、先ず問題を作り出すことが必要だからである。しかし、ロシア政府が在外ロシア人の帰還を推奨する一方で、シリアに住むチェルケス人の帰還を拒絶する理由として、チェルケス人の父祖は自由な意志で移住したする実情を見ると、ジェノサイド問題は、単に運動のために考え出された問題であるとすることはできない。ドイツや旧ソ連各国で歴史的過去に移住した人々の子孫の帰国を斟酌するのに、祖先の出国の理由は正さないであろう。

 第3項 チェルケス諸地域の思惑 

ソチ・オリンピックに対する現地北コーカサスに住むチェルケス人の反応は様々である。先ず、ロシア人のソチ市長はことの当否を論ずる立場にない。大会を成功させることのみが彼に課された責務である。チェルケス系3共和国アディゲイ、カラチェヴォ・チェルケシア、カバルディノ・バルカリアはオリンピックに関しては当事者でもなく、反対する立場にはないが、関連事業が割り当てられるのを望んだ。国際チェルケス人協会は当局の指導の下に結成されたNGO組織であるが、ソチ・オリンピックボイコットを主張するロシア国内の活動家に対処する一方、国内オリンピック委員会に2点の要求を出した。第1点はソチ大会の文化的プログラムにチェルケス人の代表を入れること、第2点は27名の在外チェルケス人代表団を招聘することであった。地元諸共和国もこれとあまり違わない要求を持っていた。第1の要求に関しては、クラースナヤ・ポリャーナのオリンピック公園内に博物館、多目的催事場、交流室からなる600平方メートルの「チェルケス館」が設置された。26人からなる在外チェルケス人も到着した。プーチン政権下、急速に文化団体化した多くのチェルケス人組織、例えばマイコプのアドィゲ・ハスは、オリンピック開催には賛成だが、プーチン大統領の招致演説にチェルケス人に関する言葉が全くないことに不満を呈し、開催に当たってはチェルケス的テーマが用られることを提言したが希望はかなえられなかった。さらに開催後は、クラスノダル・アドィゲ・ハスの代表アスケル・ソフトは「開会式で強調された歴史的テーマは、ロシアにおける嫌カフカス、嫌チェチェンを現実政治において宣言した」と断言した。また、マイコプの「アドィゲハス-チェルケス・ソヴィエト」のアラムビイ・ハパイも開会式のショーにチェルケス人の要素がないことに不快感を示した。事実開会式の行事において、地元の特殊性は全く考慮されなかった。同じマイコプの「アドィゲ・ハス」の代表で、国際チェルクス人協会の副議長であったアダム・ボグスも、ナショナリズムに興味のないチェルケス人もこれには侮辱されたと感じたと感想を述べた。余計なことを言ったためか、アダムは後に協会の会員資格を停止され、更に翌年にはマイコプ・ハス代表の座から降ろされた。在外チェルケス人団体と同様な立場をとる国内政治家もいる。アドィゲ・ハスより強硬なアディゲ共和国の「チェルケス人コングレス」議長、ムラット・ベルゼゴフは長い戦争の舞台であったソチはオリンピック開催場所として不適当であることを主張した。彼は、それまでにも海外からのチェルケス人帰国者数が15年間で僅か600人でしかないことに不満を述べ、また彼の団体は2005年にロシア議会(デユーマ)とロシア大統領に対してジェノサイド認定と謝罪を要求している。しかも、ベルゼコフはヨーロッパ議会やEUに対しても請願を続けていた。ロシアで特に北コーカサスでは、彼のように「聞き分けのない」人間は愉快には暮らせない。もし、アメリカに政治亡命するのでなければ。と言うのはカバルダ人ジャーナリスト、ファティマ・トリソヴァ女史のことで、現地幹部の不正を訴え続けたため本人の肋骨骨折、息子の行方不明等を経て、2007年にアメリカに移住せざるを得なかった。このとき、オセット人のユーリー・バグロフも行を共にした。そうしなければ、彼らもアンナ・ポリトフスカヤと同じような運命をたどっただろう。結局、2010年ベルゼコフは公然の脅迫と長男の交通事故の後、アメリカに避難した。米仏の大統領はロシアの人権侵害を理由に大会に出席しなかったが、これがプーチンに対して何かしらの効き目があるとは思えない。

一方、ソチのチェルケス人(海岸のシャプスグ)にとって、最も重要な政治課題は、歴史の解釈ではなく、かつて存在した「シャプスグ民族区」の再建であり、さらにそれを共和国に格上げすることであろう。また、全世界のチェルケス人にとっても、問題はオリンピックではなく、シリアのチェルケス人10万人の救援が喫緊の課題で、特にロシア入国希望者リストにある2万人の一刻も早い受け入れである。最後に絶対阻止派というのは、「コーカサス・アミール国」を率いるチェチェン人テロリスト、ドク・ウマロフであった。彼はチェルケス人をコーカサス人と、あるいはムスリムと読み替え、ロシアによって流された血の報復攻撃を宣言した。アミール国とは全イスラーム教徒の指導者であるカリフの委託を受けて、カリフに代わって特定の地域を治める者のことだが、彼の想像上の管区はチェチェンやダゲスタンタンからクラスノダル地区までであるので、一応関係者であるのかもしれない。結果的にはテロは起らなかった。北西コーカサスではカラチャイ人の一部を覗いて、イスラーム過激主義は、強くはない。

2014年2月世界最大のチェルケス人々口を持つトルコでは、1日に首都アンカラで1,200人のチェルケス人が「チェルケス人は聖火を消す」と書いたプラカードを持って、ロシア大使館を取り巻く、7日はイスタンブルで700人がデモ行進を行った。プーチン政権はこのような抗議には一切耳を貸さず、大会実行に進んだが、2月10日になってチェルケス文化研究所のタマラ・バルスィクが、閉会式でチェルケス人死亡者に対して黙とうの時間を設けるようにプーチンに要求したが、勿論無視された。北コーカサスにおいても、2月7日カバルダのナルチクで民族旗を掲げ、「虐殺の地ソチ」と書いたプラカードを持った集会が行われたが、30名ほどの参加者が逮捕された。逮捕者の中には出廷できないほどの障害を受けた者や法廷で仮死状態になるものが出るほど暴力的な取り締まりが行われた。デモ参加者の内6人が迷惑行為で5日-15日の禁錮処分を受けた。更に驚いたことには多くの人々に体制側の人間だと評価されていたクラスノダル・アドイゲ・ハスの議長アスケル・ソフトも14日に逮捕され、15日クラスノダル裁判所は「根拠のない理由で権力の執行機関を誹謗した」と言う理由で7日間の拘留を命じた。ハスの幹部の一人アダム・ボグスはアスカルが開会式にチェルケス人の要素がなかったことを批判し、ロシアではオリンピック開催に反対するだけ犯罪とみなされると発言したことが逮捕の理由であると説明している。アスケルは在外チェルケス人の帰還運動に熱心にかかわっていて、アディゲイ共和国で2,000人、カバルディノバルカリアでは1,800人、カラチャイヴォチェルケシアでは37人(sic.)に及ぶシリア、トルコ、ヨルダン、イスラエル等からの帰還者で、ロシア語能力の欠如からロシア国籍を与えられない人々の支援に当たっていた。

なお、在外チェルケス人のあいだでもモハジェル運動に関する理解は様々で、例えばヨルダンで活躍する作家、映画監督であるモヒディーン・イッザト・カンドゥールは「ロシア人は我々に故郷の家を立ち去るよう強制はしなかった。1864年のあと西チェルケス人を積みだしたのはほとんどがオスマン船だった。ロシア人はシャプスグ人、ブジェドゥグ人、山地人にクバン地方に住むかどうかを選ばせた。承諾した者は今のアディゲイ共和国に住み着いた」。彼を批判する者は、「これは私にとっては驚きではなかった。彼は海外チェルケス人の有力者と同様の欲張りの日和見主義者だからだ。彼は浅瀬の泳ぎ方をよく知っている」。この無名の投稿者は、現在の居住地での立場が、見解の相違を生むと主張しているのである。カンドゥールは、多くの小説を英語で発表している(作品の多くはキンドルで読むことができる)で、ハリウッドでも仕事をしたこともある映画監督である。彼の映画作品の内『チェルケス人』(2010年)は、2012年のモナコ国際映画祭で高い評価を受け、3個の「天使賞」与えられている。また彼はソチ映画祭にもかかわっている。長くアナトリアでチェルケス人移住者子孫の調査をされている宮沢英司氏は、祖先の出国時の身分が、移住に関する評価に関わるとしておられるが、当然ながら子孫の現在の社会的地位もまたそれを左右するのである。

 第4項 ソチ住民のオリンピック

さて、カバルダ人、アドイグ人(狭義の)、チェルケス人(狭義の)祖先が、ソチの海岸やクラースナヤ・ポリャーナの住民ではなかったことはこれまでに述べた。だから、現在アメリカに住むユガル氏やバルスィク氏のような人々が、コーカサス戦争最後の決戦が行われたクラースナヤ・ポリャーナとかチェルケス人の首都ソチというのは、単なるシンボルあるいはスローガンなのか、それとも地域の歴史を無視しているのかであろう。ある新聞には「ロシアのオリンピックか、チェルケスのオリンピックか?」という見出しも現れた。ところがここに第三の「主催者」が現れる。アバザ人である。ロシア連邦のアバザ(アバズィン)人青年同盟のホームページには、アバジン、アブハズ、ウブイフは、アバザという大きな民族であり、1864年まで大ソチとクラースナヤ・ポリャーナにはアバジン、ウブイフ、アブハズ民族が住んでいたことを表明し、メドヴィエジェフ大統領とプーチン首相(ともに当時)に宛てて、ソチ・オリンピック開催の賛意と積極的参加の熱意を表明している。アブハジア政府もオリンピック特需に関心を示したが、大会そのものには参加していない。未承認国家なので、国際オリンピック委員会に加盟できないからだ。19世紀サシャつまりソチのアウブラ家の人々がウブイフ人あるいはチェルケス人として扱われていたのは歴史的事実であるが、トルコのアダパザル県に住むエミル・アウブラは「我々はウブイフ人ではない、アブハズ人である」と主張する。2012年ソチで第3回全アブハズ貴族議会が催され、チャチュバおよびシェルヴァシヅェ、ルーヴ、アチュバ、マルシャン、アウブラ、ゲチュバ、ツアンバ、ヅァプシュイパ、イナルイパ等諸王侯家の人々が出席したが、オリンピック会場の場所に関わる限り答は明白のようだ。

 これを受けるように、ウブィフ人がチェルケス人なのか、それともアバザ(アバズィン人とアブハズ人、ジケティ人、サズ人)なのかを争う議論が、学界やインターネット空間に飛び交っていて、研究者が文献を駆使してチェルケス人、ウビィフ人、サズ(ジキ)人、アバザ人、アブハジア人の分類と系統的関係についての主張を展開するだけでなく、時には議論相手の主張を捏造と批判することもある一例として、ダヴィド・ダサニア「再度サズ(ジケチア人)について。捏造者にたいする議論(2016-01-20)を挙げておこう。ウブイフ語は死に絶え、言語的にはチェルケス語あるいはアブハズ語化したが、ウブイフ人集団はトルコで健在であるのだから、ウブイフ人自身例えばダガムィスの領主の子孫であるベルゼク家の人々は今自分たちを何人と考えているかを知りたいが、独立を夢見てアタチュルク政権に弾圧され、チェルケス人と自称して生き延びたウブイフ人には複雑な心理が働いているとようである。子孫の一人は広義のチェルケス人の中にはアドィグ人、狭義のチェルケス人、アブハズ人、ウブイフ人が含まれると語っている。なお、トルコ語では通例アバジン人とアブハズ人を区別せずにアバザ人とする。

  47 写真 不当逮捕に抗議してハンガーストライキを行う活動家ルスラン・グヴァシェフ 

https://www.youtube.com/watch?v=Ae69zgb9kUEttps://vestikavkaza.

  48 写真 ソチオリンピックを評価する地元の実業家マジド・チャチュフ

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しかし、大ソチ中央部にはウブイフ人、「Sochi2014」大会会場の南西部にはアバザ(アブハズあるいはサズ)人が住んでいたが、北西部にはアドゥイゲ人(チェルケス人)のシャプスグ種族が住み続けていたことも述べた。ソチ・オリンピックに最も沿海のシャプスグ人は現在公的な機関や組織を持たないので、彼らの見解を法的に表明する手段はない。任意団体の「海岸部アドィグ・シャプスグアドィグ・ハセ協会」があるのみである。協会の代表者は実業家(観光業)市ラザレフ区の代議員マジド・ハルノヴィッチ・チャチュフ(1958年2月27日)で、トハガプシュ村のチャチュクフ家の生まれと思われるが、大会後、ソチ・オリンピックが世界中にシャプスグ人の存在に気がついてもらえる絶好の機会になったと評価している。評価は思想だけではなく、生活環境によっても大きく変わる。ソチのシャプスグ人の問題は、生活環境の整備と民族語教育問題で、後者に関して協会は一定の成果を獲得している。かくして、プーチン首相(当時)は、オリンピック開催に対するチェルケス人の協力に感謝すると述べたのである。勿論、ソチのシャプスグ人がこぞってオリンピックに満足し、またその恩恵を受けているわけではない。マジドの対極にあるのは大キチュマ村のルスラン・インドリソヴィッチ・グヴァシェフ(1950年生まれ、シャプスグ・ハセ創立メンバー、コーカサス山地民連合副議長、アブハズ戦争従軍者)で、ヴィデオ・インタビューでオリンピックではチェルケス人は連邦構成主体ではないこと、会場建設のために墓地が破壊されることを批判した。また、2017年に行われた別のインタヴューでは、シャプスグ地域の問題点の一つとして「2014年にオリンピックの競技が始められるとき演奏されたこの音楽だ。『我々はブスルマンを征伐したし、これからも征伐する』と歌われている」と答えている。開会式でロシア国歌に先立って演奏されたボロディンのオペラ『イーゴリ公』(オペラの一部「韃靼人の踊り」の部分)を問題しているのであろうか。式典の出し物ではシャプスグ人を含め全チェルケス人がロシア史の展開から疎外されているからである。ジャーナリストのラリサ・チェルケスはソチのシャプスグ人社会の問題の根源を次の2点から整理した。第1点は自己存在の領域を守ること(政治的行政的)、第2点は自己の伝統的生計活動の場の確保(経済的)で、問題解決のためにロシア政府当局が連邦の先住民族保護法を順守することに求めている。今も現地に住む人々は記憶の為の闘争はおこなっていない。チャチュフとグヴァシュフの違いは、前者は獲得したことだけを数えるのに対して、後者は獲得できていないことを数えているのである。無いものは以下である。1)ロシア連邦を構成する主体としての資格。2)いくつのシャプスグ人村落は新高速鉄道用地に当てられていて、しかも代用地は黒海岸に分散している。3)シャプスグ人にはラジオ、テレビ、シャプスグ語を学べる高等教育機関がない。4)式典で演奏された上述の歌。5)母語使用の権利。6)1万人のシャプスグ人はソチとトゥアプセに分けられている。7)基幹民族としての権利が認められていないので、シャプスグ人の村落は極端な土地不足に陥っている。これに対してチュチュフが近年獲得したのは、クラスノダルから送られたチェルケス語の教科書と数名の教師、およびチェルケス語テレビ番組の転送であった。