第4章 ハン、ツァーリ、スルタン

第4章 ハン、ツァーリ、スルタン

  1.  北の奴隷狩り国家

  2.  「母の里はソチ」―エヴリヤ・チェレビ

  3.  トプハネのアブハズ人

  4.  スルタンの母になったソチ娘

  5.  18世紀の北コーカサス

 

  1. 北の奴隷狩り国家

カッファの陥落

 第3章でも述べたように、13世紀、黒海とカスピ海の北の草原に、チンギスハンの長男ジョチの子孫が君臨する遊牧民の国家が成立した。この広大な国はロシア史でゾロタヤ・オルダと呼ばれるが、日本語ではこれを意訳した金帳汗国、あるいはキプチャク草原という地名からキプチャク汗国とも呼ばれる。しかし、この名称は当事者の自称や公称ではなく、また国家の性格を正しく表しているわけでもないので、最近ではジョチの領土を意味する「ジョチ・ウルス」と呼ばれることも多い。ジョチ・ウルスはジョチの死後に行われたロシア東欧遠征によって、当初のイルティシュ川上流域から、アルタイ山脈からカルパチア山脈に至る広大な地域に拡大し、ジョチの息子たちに分割された。分与の概容は、全土を東西二つのブロックに分け、南に向かって左側(左翼)、つまり東側は長男オルダを始めとする兄弟たちに与えられ、右側(右翼)つまり西側の部分は次男バトゥを始めとする兄弟たちに与えられた。ジョチ家全体の長上権はバトゥの子孫が受け継いだが、14世紀の後半に汗の支配権は急速に衰える。オスマン朝の最も著名な歴史家ミュネッジムバシ(シャイフ・アフマド・イブン・リュトフッラーフ・アル-メヴレヴィー、1631/2-1702)は、「ベルディ=ベクが死亡すると、この王朝は絶えた」と記している。1359年のことである。この王朝というのはバトゥの子孫の家柄ということで、他の家系の何人もの汗が短期間で入れ替わった後、1380年汗の位はジョチの第13男トカ=ティムルの子孫に移った。20世紀のモンゴル帝国研究者ベルトルド・シュプラー(1911-1990)も「ベルディ=ベクの死後、王位を巡る闘争が起こった。それはかなりの程度イランのモンゴル国家崩壊直前の時代を思い起こさせる。続く支配者については、何のイメージも抱くことはできず、名前以外はなにも知られていないのである」と記している。北アフリカとイベリア半島における遊牧民集団の都市支配は三世代しか続かないことは、内部からの観察者であるイブン=ハルドゥーンが考察するとおりであるが、我々も「唐様で売り家と書く三代目」という諺を知っている。ジョチ=ウルスも建国から1世紀半を経て、政治的統一の根拠であるチンギスハンの権威の衰退、具体的軍事目標の喪失、構成単位の現地化が生じていた。それでも、国家を構成し続けなければならないという意識と政治的中心にはチンギスハンの子孫がいなければならないという共通の理解が残されていた。しかし、15世紀に入ると名目的にも統一国家を維持することができなくなった。かつての金帳汗国大オルダから、三個の独立の国家カザン、アストラカン、クリミアの3汗国が分離する。

クリム=ハン国 ギレイ朝 系図(筆者整理)

 1430年にクリム汗国を建国したのは、トガ=ティムルの息子で、ジョチ-ウルス建国当初半島北西部ソルハトの支配者であったウルン=ティムルの子孫、ハージー=ギレイ(現代トルコ語ではギライ)であった。ハージー=ギレイと彼の息子達ヌル=デヴィレト、メングリ=ギレイはクリミア内外の諸勢力に対して和戦両様の政策を実施し、クリミア半島全域とアゾフ海沿岸に領土を確保することができた。首都は当初、ソルハット(クリム、現スタールイ・クリム)に置かれたが、後にキルクエリ(チュフートカレ)、サライチクを経てバフチサライに移された。しかし、既に黒海南岸を征服したオスマン帝国は、カッファを始めとするジェノア植民地の征服に乗り出し、これを主権の侵害とみて抵抗を試みたメングリ=ギレイの身柄を確保して連れ去った(1475年)。この時、大陸側ではタナ、マトレガ(タマン)、コパが征服された。しかし、3年後オスマン朝はメングリ=ギレイに汗位(1478-1515)を返還してクリム汗国の本体を属国化するとともに、半島南部のカッファ、アゾフ海南岸のタナ、アゾフ、タマン半島のアナパ等の重要港湾は直接統治に置き、カッファにベイレルベイを派遣してかってジェノアの勢力圏であった地域を統治させた(1478年)。

 1484スルタン・バヤジットに拝謁するメングリ=ギレイ汗(Ministry of Culture and Tourism of the Turkish Republic, Ottoman Empire in Miniatures, Ankara,1988)スルタンは金糸刺繍入りの赤い服に、やはり金糸の刺繍を施した白い毛皮の緑の襟付きカフタンを着、ハンは金糸刺繍入りの暗い青色の服を着用、同じく金糸刺繍入り、茶色の毛皮襟、赤のカフタンを着用している。ハンは毛皮の縁取りのモンゴル帽を被っている。

 ギレイ家とチェルケス人諸公の関係は、当初中立的な近隣関係だった。1468年にハージー=ギレイが死亡し、二人の息子、第2代目汗のヌール=デヴレトと弟のメングリ=ギレイの間に争いが起こると、メングリ=ギレイはチェルケス人のもとに逃亡し、1471年に兄を打倒するまでここに留まった。クリミアにオスマン軍を引き入れた立役者である大貴族シリン家のエルミナクも1475年一時的にチェルケス人のもとに避難した。しかし、オスマン帝国軍のカッファ占領とクリミアの属国化以後は、オスマン軍だけでなくクリム汗軍によっても頻繁にチェルケス地方に対する遠征が行われるようになった。まず、6月にカッファが占領されると、夏から秋にかけて、タナ、マトレガ、コパに対する攻撃が行われた。オスマン軍はジェノア人とだけでなく、現地のチェルケス人とも交戦した。しかし、この年はタナとコパの征服に成功しなかったようで、オスマン政府は1479年から1485年までの間、本格的にチェルケス地方の征服を計画し、オスマン軍とクリム汗軍は合同してこの地方に出兵した。歴史家イブン・ケマル(シェムスッディン・アフメド・ケマルパシャザーデ、1468-1535)は、

世界の征服者である帝王の命令により、常勝軍の将兵は山々を越え、多数が黒海を横切り、チェルケス人の国に到着した。この国で、毎日、勇士たちは鋭い刀で、虚しくガージー達と戦った叛徒どもの首を切り落とし、これらの不信心者を切り刻み、カラスの餌にした。至るところ海岸地方で住民を掃討し、大洋の波のようにこの地方に押し寄せた。チェルケス人の国で村ごとに、50人100人の美女を虜にし、多くの捕虜を奴隷にした。この国に来た勇士たちは、思いもよらぬ打撃を加え、熱意を抱いて、戦利品を集めた。彼らは有名な砦の一つであるコパを周囲の地域ともども占領し、チェルケス人の支配権を打ち破り、その国をサーベルで清め、叛徒を根絶した。コパ、同じくアナパを征服し、その地域にいるイスラーム教徒とタタル人を嫌悪している敵を滅ぼした。

と述べている。勿論、チェルケス人が嫌うのは侵略者に限ってのことであって、タタル人に対してはこれまでの政治的関係からして、宿敵であったとは言えないであろう。勿論クバン地方の領有権を巡る競争が起これば、当然戦いがある。イスラーム教徒が嫌いであるというのは、海岸部のチェルケス人は、信仰の程度の差はあれ、キリスト教徒、あるいは「異教」の信者だったということである。従って、イブン=ケマルのキーワードは「ガージー(聖戦士)」と「キャーフィル(不信心者)」である。オスマン朝イスラーム国は、異教徒に対する聖戦(ジハード)を行っていたのである。この直後、1484年から1487年までの間の、黒海沿岸トレビゾンドからケルペまでの関税台帳によると、473人の搬入奴隷中188人40%がチェルケス人であったのは、この戦争の反映であろう。キリスト教徒や「異教徒」である限り、イスラーム国のジハードから逃れることはできないが、唯、聖戦実行のためには、宗教界の賛同を得なくてはならない。イブン=ケマルの気分は、すっかり、ジハードだが、対クリム汗国戦は論外として、ジェノア人とチェルケス人に対する攻撃が、制度上の手続きを踏んだ聖戦であるかどうかは、残念ながら知らない。聖戦士の語は、我々が現在よく耳にする「モジャーヘド」ではなく「ガーズィー」が使われている。そもそもの行為名詞は、それぞれ「ジハード」と「ガザウ」で、共に聖戦の意味が含まれている。しかし、歴史家の大げさな賞賛にも拘らず、この時のオスマン帝国とクリム汗国の共同作戦の勝利は、一時的かつ限定的であったと思われる。メングリ=ギレイはチェルケス人ジャネ族と何らかの関係があり、1489年に起こったジャネ族の内紛に際してはジャネの王侯アントノンのために援兵を出して、名前からキリスト教徒であると思われるアントノンは勝利の後、マトレガ(タマン)をハンに譲渡している。ジャネ族は15世紀末に、まだキリスト教徒で、彼らの居住地はタマン半島北部であったようであるが、やがて西コーカサス山脈の北麓伝いに東に移動し、クバン川左岸支流のハブル川に定着するに至る。一方、タマン半島の南側アナパ周辺にはシェファク族がいたが、アナパを帝国に売却する。クバン川下流右岸の支配者は、後のカバルダ族の祖先で(あるいは、カバルダ族だけでなく、ベスラネ族、テミルゴエ族なども含め)コパやテムリュク(クレムフ)を領有していた。彼らは伝説の英雄イナルの子孫に率いられて東に移動し、クバン川上流に大カバルダ、テレク川上流に小カバルダを作る。大法官イブン=ケマルの大げさな記述は、宮廷史家の作品にはよく見られるものであるが、チェルケス人の多勢はオスマン帝国の進出を意に介さないかのように、ジョチ=ウルスの本流である大オルダの内政に関与を深め、1498年には大オルダに遠征軍を送った。大オルダにおけるモスクワ大公の使節は、この遠征にはメングリ=ギレイ汗のそそのかしがあったと報告している。また、翌年1499年にもチェルケス人はノガイ人とともにアストラハンへ遠征をおこなった。ついに、最後のキプチャク汗、シェイフ=アフマドは大オルドをドン川右岸に移すことに決定し、クリム汗であるメングリ・ギレイ汗の了解を求めている。但し、この遷都はかえって王朝を滅ぼすことになった。

 オスマン帝国がクリミアを併合した後の1501年春、スルタン・バヤジット2世(在位1481-1512)の王子で、当時カッファ(ケフェ)のベイレルベイであったメフメット(1507年没)がチェルケス人に対して少数の兵を派遣したものの敗北した。秋には逆にチェルケス人400人がアゾフを攻撃し、要塞司令官を殺した。しかし、この戦闘は小競り合いにとどまり、大規模な戦争に発展することはなかった。そもそも、この時のチェルケス遠征に何か特別の理由があったかどうかもわからないが、北方系の遊牧民集団が巻き狩りの替わりに小規模の遠征を行うことは考えられる。中国で「天高く、馬肥ゆる秋」というのはそのような時期を指すのである。一方、イスラーム時代初期のアラビア人遊牧集団は、陽気のいい夏になるとアナトリアやコーカサスのビザンツ領へ、ラクダの遠乗りを兼ねた遠征を行い、これをサイフ(夏)と呼んだ。なお、アラビアのラクダは、一瘤である。かって、NHKテレビのアラビア語講座のタイトルアニメのラクダが二瘤だったことがあるが、間違いである。

 結果的に大オルダは1502年メングリ=ギレイの攻撃によって崩壊するが、今度はクリム汗がチェルケス人と対立することになる。1515年にはメングリ=ギレイの2子カラチュルとメフメット(ムハンマド)がチェルケス地方に出陣したが、その経緯と結果は不明である。1518年にはメフメット・ギレイ汗の息子で皇太子(カルガ=スルタン。クリム汗国のカルガ=スルタンは、単なる次期即位予定者ではなく、実務を伴ったナンバーツーであった)のバハドゥルクル=ギレイが遠征を企てた。この遠征はクリミア軍の大敗に終わり、出陣した将兵の3分の2が戦死した。チェルケス人は国内に侵攻するクリミア軍に対しては、毅然として迎撃する一方、国外ではまた別の対応を行った。多数のチェルケス人部隊が、1521年のメフメト=ギレイのモスクワ遠征隊に加わっていたのである。遠征部隊は多数の捕虜と家畜を捕獲して帰還したが、これ以後もチェルケス人部隊が加わるモスクワ遠征は常に成功したと言われている。しかし、これはチェルケス人の服従を意味せず、ハンは2年後チェルケス人との戦争で死亡したと言われる。

 メフメト=ギレイは1521年弟サーヒブ=ギレイをカザンの汗位につけ、モスクワ遠征後の1522-3年にはアストラハンをもまた掌握したが、ジョチ・ウルス再統一の希望はハンの不慮の死によって儚い夢に終わった。クリム汗の関心が北に向かっている間、チェルケス人の軍事活動は、ドン川とヴォルガ川の間のステップで主導的な力を持つようになった。1532年、チェルケス人はアストラハンを占領しカシム汗を退位させて、近い関係にあったアク=ケベックを即位させた。アストラハンの併合を国家目標と考えるクリム汗にとって、チェルケス人の影響力強化は、見過ごせない問題になった。1539年、オスマン軍とクリミア軍は、チェルケス人がタマンのオスマン軍要塞を攻撃したことを口実に兵4万人からなる遠征軍をチェルケス地方内部に派遣した。ジャネ人の君公カンサヴクは、ベイの称号と旗印と軍旗を与えられてスルタンに服従し、年毎に千人の奴隷をスルタンに、五百人をハンを献上することを約束したが実行できないでいた。カンザヴクは囚われ、責任を追及されたが、ハンに対して100人、ベイレルベイに対して25人の奴隷を献上して処罰を免れた。遠征軍に同行したハンの宮廷の星占い師で、『サーヘブギレイ汗史』(16世紀50年代に成立)の著者であるレンマル・ホジャは、山地深く侵入したオスマン軍とクリム軍はジャネから5万人、カバルダ人から1万人、「ブジェドク」(「イェドゥク」)とアリユクから4万あるいは5万人の捕虜が取られ、戦火が収まると、チェルケス人は身分のある捕虜を奴隷20人から100人までと交換することを申し出た」と記す。この捕虜数は誇張されているように思われるが、合同遠征軍の活動範囲は、トハブ山からエルブルス山の東側に及んだ。トハブ山(標高1,905メートル)は、ゲレンジクの背後の山地でクバン川支流ウビン川の水源地であり、ここより東に行くとジャネ族の地域に入る。エルブルズ山はクラスノダル地方とカバルダ・バルカル共和国境界にあるから、遠征部隊は同共和国南西部のテレク川支流バクサン川上流に達していたと思われる。更に、1545年にはサーヒブ=ギレイ汗が自ら遠征して、再びジャネ人、ブジェドゥク人、カバルダ人を破った。しかし、翌1546年ブジェドゥク人とカバルダ人は再びアストラハンに遠征し、アク=ケベック汗を廃位して、ヤムグルチを即位させた。これに対応して、サーヒブ=ギレイは翌1547年にアストラハンに遠征して、ヤムグルチを追放した。ヤムグルチはチェルケス地方に逃亡し、1550年チェルケス人の援助を受けて、アストラハンを奪還した。1551年には、ジャネ族の東に居たハトゥカイ族の王侯ハントゥクの2子エルオクとアンタヌクが、アゾフでハンの臣民を攻撃したことが原因で紛争が生じ、サーヒブ=ギレイ自らがオスマン軍とクリム軍を率いて、ハトゥカイとその南にいたブジェドゥクに遠征した。ハトゥカイの要塞は陥落し、アンタヌクは捕虜になったが、ハンは帰途殺害された。1553年、サーヒブ=ギレイを継いだデヴレット=ギレイがピチゴルスク(トルコ語ではベシュタウ)方面に遠征して、この地方に住むカバルダ人と戦った。しかし、チェルケス人は1556年にアゾフ海岸のテムリュクとタマンのオスマン要塞を奪い、1560-1561年にかけては更にクリミア本土に遠征した。逆に1567年にはクリム汗軍がカバルダに遠征した。

 この間、1552年にカザンを征服したモスクワ大公のイヴァン4世が、1554年にはアストラハンも占領したので、金帳汗国再興を目論むクリム汗は再び遅れをとった。1569年にはオスマン軍がアストラハンに遠征したが、指揮したのはカッファのベイレルベイで、シュレイマン大帝とセリム2世に使えたジャネ人カシム=パシャであった。この遠征軍にはクバン川中流の南側に住むブジェドゥギ人3千人が加わっていたものの、彼らは最終的にはモスクワ側で戦っていたカバルダ人の王公テムリュク=イダロフの味方をした。カシム=パシャがクリミアから送ったアルドゥイ=ギレイの膺懲部隊は、かえってテムリュクに破られた。

 クリム汗のデヴレト=ギレイは、オスマン朝の支配域が拡大するとクリム汗の王s万帝国に対する従属度も強まると考えたので、アストラハン遠征に積極的でなく、冬を前に帰国したが、これに対するスルタン政府の側からの処分はなかった。しかし、1570年には単独で、つまりオスマン軍抜きで自らカバルダに遠征し、クバン川河口右岸のアフジュの戦いでテムリュク・イダロフを敗走させ、王子2人を捕虜にした。翌1571年、ハンはモスクワに遠征して全市を焼き払ったが、この遠征にも、多数の西チェルケス人が参加していた。一方、貢納を支払えば服属状態にあるのだから、ハンに奉仕してクリミアの宮廷で出世をすることも可能である。ダヴレト=ギレイ汗(1551-1577)の妻の一人ファティマ・アイシェ・スルタンは、ベスレネのタルザトイク公の娘であったが、公の二人の息子達タタル=ムルザとアフメット=アスパトはハンの宮廷に奉仕していた。ハンのもう一人の妻ハン=サグルの兄弟アルクリチ=ミルザもハンの側近であった。スルタンと皇太子の主馬司トルブルドゥクとヴェルフシャもチェルケス人の士族であった。

 アゾフ海沿岸でコサックと戦うオスマン軍(サイード・リクマン『シャーヒンシャーナーメ』より)出典護雅夫(監修)並河萬里(写真)『トプカプ宮殿博物館』「細密画」163頁、昭和53年。海岸の戦闘は十字架によってコサックあるいはロシア兵とのように見えるが、テキストには「ヴェズィル・オスマン・パシャ(オズデミルオウル・オスマン・パシャ1526-1585)は、シルヴァン防衛において、ヴェズィル兼カッファ・ベイレルベイ・ジャアファル・パシャを指名した。パシャはアゾフ・コサックと{戦った}」とある。コーカサス派遣軍司令官オスマン・パシャの敵はイラン軍であり、ジャアファル・パシャは増援軍司令官であった。

 1552年、ベスラネの公マシュク・カヌコフ、ジャネの君公スィボク・カンサウコフ、アバズィンのイヴァン(タタルク)・エズゴズルエフ公、タナシュク公らの使者がモスクワに到着した。一行は1555年帰国したが、更に翌年第2回の使節団を送った。1557年にはカンクルイチ・カヌコフ、テムリュク・イダロフ、タズリュトらは、北ダゲスタンの君公クムイク人のシャムハル・ムハンマドの攻撃に対する援軍を要請した。テムリュクはイヴァン雷帝の妃マリアの父であるが、モスクワとカバルダに政略結婚を必要とする緊急の必要があったということであろう。この点、北コーカサス系アルメニア人で、サンクトペテルブルグ出身の作家アンリ・トロワイヤは、伝記小説『イヴァン雷帝』で、廷臣はポーランドの皇女カタジーナとの結婚を望んだイワンに、「夜伽をして殿方を満足させる女がいないわけではありますまい。今回は異国情緒に惹かれておいでのようですから、いっそのことシルカシアの姫君などいかがでしょう。たいそうな美貌だと評判の娘がひとりおります。チェルケスのテムリューク公の息女でございますが・・・・」などと勧めたと。この作者を歴史文学者などとは言うまい。なお、テムリュクの長女アルトンチャチは、アストラハン汗国の王子、ベクブラトに嫁いだ。汗国がイヴァン4世によって征服され汗制が廃止されると、ベクブラトはモスクワ近くのオカ川流域に設置されたカシモフ汗国(あるいはカシモフ・オルダ)君主の座についた。彼らの息子サインブラトが、父親の地位を継いだが、正教に改宗してシモンと名乗った。1574年イヴァン4世は、突然退位して、シモン・ベクブラトヴィッチを全ロシア(ルーシ)のツアーリの位に就けた。こうして、シモンは実権こそ持たなかったものの、3年間ツァーリの位に就いていた。3年後、再びイヴァンがツァーリの位を取り戻した。この奇妙な事件の原因は、ユーラシアの政治的伝統では、チンギスハンの子孫以外は、汗の位に就くことができなかったので、カザン、アストラハン両汗国を支配する正統な君主になるため、一旦チンギス裔のシモンを君主の座に就け、後に譲位を受けることで君主としての正統性を担保しようとしたことによるという。宮脇淳子氏の説である。ツァーリはチンギスハンの権威と結びつくことによって、トルコ系諸民族からアク・パーディシャ、モンゴル系諸民族からはツアガン汗と呼ばれるようになったという。ロシア君主制の性格を解き明かす雄大な構想だが、筆者はチンギス汗家の政治的権威(汗位即位権)は譲位によって男系子孫の外に出ることはないと思う。即位にあたってはクリルタイで承認される必要もあったであろう。むしろ、イヴァン4世はチンギスハン家王女を娶って婿になるべきであったと思う。これは、モンゴル系以外の政治集団や近隣諸国家との関係においては有効であったと思われる。当時、汗とツアーリは同義であると考えられていたが、即位するための手順まで同じではなかったであろう。つまり、正当な汗に即位すれば、すなわちツァーリに即位したことになるが、先にツァーリであると国際的に承認されても事実上汗に即位したことになろう。イワン4世にとって重要であったのは、新しく支配下に入ったモンゴル=タタル人の汗になることではなく、ビザンツ帝国消滅後のキリスト教だけでなくイスラム教国家を含めたヨーロッパの政治システムの中でツァーリであると承認されることではなかったろうか。

 17世紀始め、ロシアはリューリク朝崩壊からロマノフ朝成立に至る混乱の時代、北西コーカサスを巡る国際関係の主導権を握ったのは、クリム汗国であった。1614年には、皇太子ヤマン=ギレイがブジェドゥグの東に住むテミルゴイに遠征し、村落7箇所を焼き払った。この頃より北西コーカサスではオスマン帝国とクリム汗国による影響の強化が進み、同世紀40年代、ハンはクバン川中流とコーカサス山脈の山地に住むベスレネ人に対しても、庇護者・上級君主であると考え、年貢として少年少女の奴隷を取り立てた。ベスレネ人は五百人を献上したが、ハンは千人を要求した。このような新しい状況にあって、チェルケス人の王侯は、折から上昇の気運にあり、ドニエプル左岸(現ウクライナ共和国東部方面)で盛んに軍事行動を行っていたモスクワ大公国との関係強化を図った。新皇帝ミハイル・フョードロヴィチの即位後、ロシアの影響力は回復に1614年から1615年にかけては、チェルケス人諸君侯がミハイル帝のもとに使者を派遣し、リューリク朝との間で結ばれた保護関係を確認した。30年代と40年代にはテミルゴイ、アバズィン、カバルダの使者が来朝した。しかし、50年代と60年代には、テミルゴイ人が脱落し、北西コーカサスの親露派はカバルダ人とその周辺のベスラネ人、アバズィン人だけが残ったが、各集団内部の政治機構は統一的ではなく、ロシアおよびオスマンに対する態度も一様ではなかった。

泰西王侯騎馬図屏風 左から神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(在位以下同1552-1612年)・オスマン朝スルタン・ムラトト3世(1574-1595)・モスクワ大公イワン4世(1530-1584年)・クリム汗ムハンマド=ギレイ2世(1577-1584年)。原図作成は1607年。神戸市立博物館所蔵

 このような状況にもかかわらず、ロマノフ朝の皇帝達はカバルダだけでなく西チェルケスをロシア領であるとみなし、ミハイル帝は「チェルケスと山地の君公たちの支配者」という称号を、彼の後継者たちは、「カバルダ国、チェルケス国と山地の君公たちの支配者」と号した。これに対してオスマンおよびクリム側は、チェルケスはバヤジット2世(1481-1512)に既にオスマン帝国の領土になっていることを主張し(1667年)、ムラト=ギレイ汗は自ら「カバルダと左右の山地チェルケス」の君主であると称した。しかし、カバルダも西チェルケスの諸族の君公の朝貢は名目的であり、彼らは自分の属する集団の排他的支配者でもなかったので、ツァーリやスルタンおよび汗の主張する支配権を近代的主権と同じように考えてはならない。封建的君主の一部が一時的に臣従を申し出たといって、彼らが所属する集団が永遠にツァーリの臣民になったわけでもないし、単一不可分のロシアの一部になったわけではない。ところが、北コーカサスがロシアの領土である法的根拠は、この自発的統合論によっているのである。


クリム汗の首都バフチェサライの宮殿正門内側(出典Wikimedia Commons,Bakhchisarai Palace Crimea.jpg)右端に民族衣装の男女がいて、観光客の写真モデルになっている。右側奥に大モスク、左側奥に小モスクがある。

 クリム汗国の経済は、モスクワとポーランドの領域への奴隷狩り、チェルケス人諸王侯から貢納として取り立てる奴隷をオスマン朝の諸地域に売却することに大きく依存していたといわれている。クリム汗国を「奴隷狩り国家」と表現したのは、アメリカの中東研究者ダニエル・パイプス氏のインターネット上のフォラムに投稿された某氏のコメント中の表現である。黒海沿岸では奴隷売買は古くから行われており、13-15世紀には、イタリア商人によって盛んに奴隷の売買が続けられた。しかし、イタリア諸都市は奴隷商人・消費者であり、奴隷の生産者ではなかった。アフリカのサハラ砂漠の南に有り、奴隷と引き換えに武器を手に入れ、それを用いて更に多くの奴隷を略取するカノやボルヌのスルタン国が南の奴隷狩り国家であるとすると、クリム汗国は北の奴隷狩り国家であろう。ロシアとポーランドおよびリトワニアは、クリム汗の来寇に深刻に対処しなければならなかったが、1521年の遠征について、神聖ローマ帝国からモスクワ大公国へ送られた使節ヘレベルシュタインが、メフメト=ギレイは「モスクワからとても信じられない程多数の捕虜を取った。その数は80万人を超えたと言われる。この内一部はカッファでトルコ人に奴隷に売り、一部は殺した」と記した。リトワニア大公国のクリム使節リトワニア人のミコラスは、1550年頃「武器、衣服、馬を積んだ船が、ポントスの彼方やアジアから、次から次へと彼らのもとに到着し、必ず奴隷を積んで帰った」と記した。現代の日本人研究者も、「16世紀の初めから17世紀の末まで、クリムの襲撃者の集団は、売るための奴隷を求めて、スラヴ人の農耕地帯に対してほとんど毎年の侵入を行った」、「16世紀と17世紀に奴隷貿易は、クリム・タタール経済の最も重要な基盤であった」と述べている。現代のレンチア(地主)国家に似ているが、襲撃はクリム人による労働であるし、労働の場は自国外であることが違う。レンチア国家とは、国外の資本・技術・労働力を用いて、国内の資源を開発させ、その結果自動的に配分される収入に頼る国家を言う。クリム汗国の政治経済的圧倒によって、チェルケス人の社会も奴隷売買および社会内部での奴隷狩りを前提とする地域システムに組み込まれていた。ソチ地方もまた同様であったと思われる。

 15-16世紀にコーカサス山脈の北側では、クリム汗国の成立、オスマン帝国の進出とジェノアの退潮、チェルケス人諸集団の東への移動と北の草原での勢力拡張、オスマン・クリム両政府との闘争、モスクワやリトワニアにおける戦役への出兵などの大きな事件が起こっていたが、沿黒海地方特にソチの人々がこれとどう係わったかは明らかでない。1539年の大きな戦役の影響も、直接トゥアプセやソチには及ばなかった。しかし、14-15世紀黒海南岸で行われた北からの海寇は、黒海地域の変動とかかわりがあるかも知れない。新たな海寇は、ギリシャ人の歴史家ラオニコス・カルコンディレス(1430年頃―1470年頃)によると1458年に起こったアルタビルなるものに率いられたズィヒ人の来襲である。しかし、当時トレビゾンド帝国が掌握する領土は、トラブゾンド市域に限られるほど収縮していた。この攻撃がトラブゾン帝国に対するものか、それとも帝国領のほぼ全体を侵食したオスマン帝国に対するものか、或いは相手は誰でもよかったのか、確かではない。また、トレビゾンド帝国やオスマン政府がこの時に何かしらの対応を行ったかについては、著者に知識が無い。頭目の名のアルトは、オリンピック会場の地名アドラルの語源になったアルトあるいは、集団名称アルドバに関係があるとする説が出されている。確かにオスマン帝国では、種族名と名前を組み合わせた、例えばアバザ・アフメドのような名前があった。すると、アルタビルはアルト族のビルという意味になる。しかし、それ証明するためには、先ずアブハズ人に(ア)ビルという名前があることを説明しないわけにはいかない。しかし、研究は今のところそこまでに至っていない。従って、この海賊がチェルケス人であるかアバザ(アブハズ)人であるのか、あるいは当時アゾフ海で活発に活動していたコサックであるのかも断定はできまい。

 当時の黒海東岸の状況については、グルジアの王族ヴァフシュティの史書には、「キリスト生誕の1451年、グルジア年号の139年、戦闘員を満載したマフムドの息子スルタン・ムラトの50艘のガレー船が現れ、ツフミとアブハジア、および全海岸を破壊し、荒廃させた。彼らは向きを変えて、帰っていった」と述べている。このスルタン・ムラト2世は、この年2月18日に死亡した。すると、この遠征は1451年1-2月の間に行われたのであろうか。そうではないであろう。黒海東岸では風の強い冬は航海しないからである。また、オスマン朝廷の歴史家キヴァーミー『スルタン・メフメットの勝利の書』には、ムラトの次のスルタン、メフメト2世が即位したとき「ワラキア、アブハジア、キプチャク地方」がまだ征服されていなかったと書いているから、この艦隊の派遣は、1451年の2月以降であろう。ギリシャ人の歴史家ミカエル・ドゥカスは、1453年のこととして、グリエリ、メグレリ、アブハジアは毎年贈り物を持ってオスマン宮廷に参内し、謁見を許され、規定のハラージュを支払ったと記している。更にオスマン帝国は1454年56艘からなる艦隊を派遣し、スフミを占領したとする記録もあるので、研究者の中には1451年の記述は誤りであるとする意見が強い。しかし、1451年と1453年の事件についての記述は、違ったことを述べている。通説ではアブハズ大公がスフミ地方を領有するのは16世紀になってからで、それまではメグレリ公が領有していた。ズィヒ人アルドレバの海寇が起こったのはこのあとであった。従前通りスフミがメグレリ公の領地であれば、オスマン軍のスフミ占領と領主ダディアニ家の服従にも拘わらず、その北に住むアブハズ人やズィヒ人の海賊活動が活発化しても不思議ではない。また、オスマン帝国の最終侵攻を目前にして、1459年にグルジア王ギオルギ8世のもとに西グルジアの王侯が集まり、対トルコ軍事同盟が結成された。ブルグンド大公フィリップにあてたグルジア王の国書には、ギオルギ8世は4万人、トラブゾンド皇帝は軍船20艘と兵員2万人、メグレル公ベディアニも手兵、サムツヘのアタバグ・クヴァルクヴァレは2万人、アブハジアのラビア公は兄弟、家臣、全軍を率いて参加すると記している。実にアルタビルの来寇は、海からの対トルコ軍事行動の有効性を示している。


19世紀のチェルケス人の小型ガレー船(典拠The Voyages in the Black Sea of Circassia,Kondon,1837)。同時代の旅行者スペンサーも、「チェルケス人のボートは平底で、軽く幅狭く作られている。漕ぎ手は18人から20人で、ボートは恐るべき速さで転換するので、この道の達人でなければならない。舵柄のそばにデッキがあり、その上に3,4人の男がいる。船首には粗削りの動物像が飾られている。鹿か、あるいや山羊か雄羊の頭の様だが、恐らく後者である」と述べている。

 一方、アブハズ人の海寇に関するオスマン朝の最も古い文書は、1516年のホパのキリスト教徒水夫の保護についてのものであるが、実際に海寇が活発化したのは、16世紀の中葉であると考えられている。当時アブハジア公チャチバ家は艦隊を建造して、サヅ(ジキ)人を戦闘員として動員し、既に30年代にメグレリア公ダディアニ家を圧倒していた。オスマン朝スルタンの支配権を認めてアブハズ人との戦争を有利に展開することを考えたダディアニ公は、1558年アブハズ公支配地域に進入したが敗退し、かえってイングリ川以北の領土を割譲することになった。オスマン軍は1559年に西グルジアのイメレティ王国(当時のトルコ語でアチクバシと呼ばれていた)の首都クタイシを占領した。これによって西グルジア全体でオスマン帝国の支配権が確立し、ただ一人アブハズ人だけが、おそらくソチとガグラのウブイフ人、サズ人の増援を受けてオスマン軍に対抗していた。1560―70年代に入って力を増したアブハズ人は、オスマン軍の進出を阻止するだけに飽き足らず、西南グルジアとトラブゾンの海岸に来襲する様になった。オスマン政府は、1560年9月、この年5-6月アバザ人が15艘の船で来襲してゴニヤの要塞を攻撃したとこを記録している。この記録(枢密記録簿)には、国境防衛のためにトラブゾンに用意していたボート(カイク船)は、ここ4-5年老朽化のため使用不可能であるとしている。従って、宮廷や地方当局はアブハズ水軍の来襲を予期していなかったのであろう。この事変のあと宮廷はエルズルムのベイレルベイに命じて、10艘のボート(カイク)、5艘のガレー船(ゲミ)の建造を命じた。アブハズ人は早春に来て、物資を略奪し、住民を捕虜に捕って撤退した。被害地は、スィデレ、ゴニイェ、マクリヨル(ホピ)、アルハヴィ、バトゥミに及んだ。また、アブハズ人は、銃、大砲、剣などの武器を購入して帰った。バトゥム・サンジャクからの報告によると、1571年には4艘の船でアルハヴィが攻撃されて47人が人質に取られた。またマクリヨルが2艘の船で攻撃されて略奪を被った。スルタン・セリム2世は勅書を下して、根拠地の攻撃と経済封鎖の両面作戦を命じた。しかし、翌1572年にも大規模な侵攻があり、アバザ人は24艘のボートに乗って押し寄せ、300マイルにわたって海岸を略奪した。トラブゾン港には艤装を完了した6隻の軍船があったが、アバザ人に増援部隊があることを恐れて出港できなかった。オスマン政府は1578年にサズ族ゲチバ氏出身のアバザ・ハイダル・パシャをスフミのベイレルベイに任命したが、パシャの任務はアバザ人から貢納を徴収することではなく、首都から送られてくる黄金を現地の主要なベイたちに分配し、海賊行為を止めさせることであった。一方、対アブハズ戦争に苦慮していたグルジアのダディアニ家、グリエリ家の要請に応じ船大工と造船用木材を調達した。また、1578年には帝国政府もポチ(古代のファシス)に要塞を築き、小艦隊を置いた。このように16世紀のアブハズ公領の拡大には、チェルケス人とともにサズ(ジキ)人が参加していたことは、伺い知ることができる。ただ、この海寇賊に加わっているのはアバザ人とチェルケス人だけであったろうか。  

 「1600年ころ、黒海沿岸の町や村でコサックの襲撃を恐れなかったところはどこにもなかった。コンスタンチノプルでさえそうだった」からである(阿部重雄『コサック』教育者、1981年、改版1985年、28頁)。「一六三三年に約六千人のコサックがコンスタンチノープル郊外を襲撃し、翌年またドンとザポロージェのコサックが一五〇艘のカモメで押しかけ、そこにトルコ軍船五〇〇隻、守備兵一万人がいたにもかかわらず、ボスフォラス港で一暴れした」(同上、29頁)。カモメ(ロシア語名チャイカ)というのは、コサックが航海に用いた平底船である。オスマン資料では1624年あるいは1625年のコサック船のイェニキョイ攻撃を記録し、モスクワの記録でも、1652年ドン・コサック・アタマン・イヴァン・バガートイ指揮下のコサック1千人がイスタンブル郊外を攻撃者多大の略奪を行ったという記録がある。17世紀の人エウリヤ・チェレビはスルタン・ムラト4世(1623-40年)の治世期以来、9千人の水夫とシャイカ、カラミュルセル、ゼルビナ、チェケロバ、メンゲスレ等の小型のガレー船や帆櫂両用の軍船を配備して首都防衛に備えたと述べている。これらの舟艇の内、シャイカはコサックのチャイカと同じ起源であると言われている。

 チャイカのコサックと戦うオスマン朝のガレー船(1636年頃)。上段のガレー船はチャイカと交戦中、中段のガレー船の砲撃によってチャイカ一艘が沈没寸前で乗員が海中に投げ出されている。右上の要塞(ルメリヒサルか?)からも大砲が発射されている。ブリティッシュ・ライブラリー・ソアネ・コレクションf.78v)

 話をトレビゾンドに戻すと1610年リゼ出身のトレビゾンド総督オメル・パシャはメンキスレという名前でラズ人が使っていた5列漕ぎのカイクを装備し、1620年には来寇したドン・コサック対してこれを用い、1621年にはリゼで敵に大きな損害を与えた。また1622年にはチェルケス人とアバザ人がリゼの北東海岸にハチャパと呼ばれる大型カイクで押し寄せ、リゼとパザルの中間のチャエリ近郊のマパヴリを襲撃した。ハチャパあるいはヘチャバは、16-17世紀のオスマン語文献に黒海南部に押し寄せる海賊船の船種の代表とされている。グリアでは小型の河川用の船をヘチャパと呼んだが、メグレル語のハチャパは外洋船を意味した。タマズ・ベレヅェはこの語源をグルジア語の栗あるいは山毛欅であると考えた。もしそうであるとすると起源的には丸小舟であったのだろうか。日本の例では丸木舟であっても艇長20メートルに及ぶものがあり、チャイカもザポロージェ衆のものは、長さ18メートル、幅3.6メートルの大きさであった。但し、チャイカは刳り貫き船ではない。政府によって派遣されたレジェプ・パシャはリゼの北ゼレキ城沖で、敵のカイク18艘を鹵獲し、乗員500人を捕虜にした。この後もコサックの襲撃は続き、1646年には一時的にではあるがゴニア要塞を占領している。ドン・コサックは1637年にアゾフ要塞を占領、オスマン当局の掣肘無しにドン川からアゾフ海へ漕ぎ入ることができた。1641年トルコはアゾフ要塞奪還を試みたが失敗した。ところが要塞は外交的努力によって1642年トルコに変換された。それにも拘わらずドン・コサックの活動は続いたことになる。ゴニアを占領したコサックがドン衆であるとすると。1770年代の旅行者シャルダンの記述によるとオスマン政府は後にアゾフ要塞の大砲とドン川に張り渡した鎖によって、ドン・コサックの航行を妨害することができた。なお、この時代の黒海方面情報は、『泰西王侯騎馬図』と同じく、マテオリッチの『混輿万国図』複写図を通じて日本にも伝えられている。この地図は1602年の原本作成から、あまり年月を経ずに日本に伝えられ、各地で写本が作成された。東北大学附属図書館所蔵の複写では、16世紀前半にはありえないカルムクの地名があるので、原本には種々の版があったのであろう。


   第二節 「母の里はソチ-エヴリヤ・チェレビ

 1475年に始まる新しい黒海貿易の時代、ソチの人々も対オスマン貿易に深くかかわらざるを得なかった。この時代のソチ地方の様子を伝えるのは、17世紀の旅行者エウリヤ(教科書的な日本語表記はエヴリヤだが、日本人にエヴリヤの発音はきつい。正しく発音できるのは、サッカーチーム・ヴェガルタ仙台を持つ宮城県民等だけであろう。かといって耳に聞こえるとおりのエブイヤでもなんなので、以下ではエウリヤとする)・チェレビである。エウリヤは1611年3月25日イスタンブルに生まれた。父親は宮廷の宝飾師長(あるとき、トプカプの古文書館長が見つた文書によると1536年に580人の職人がいて、その筆頭格が宝飾職人58人であったという)デルヴィシュ・メフメト・ズィッリであった。ズィリは「シンバルあるいは鈴を持つ者」の意味だが、普通のトルコ語職業名としてはズィルジュである。よいシンバルには銅合金に少量の金を加えるので(イスタンブル出身の楽器職人ズィルジヤンのシンバルは世界的に有名である)、宝飾と関係が無いことはない。エヴリヤは通称で、チェレビ(「書記」)は身分ある教養人に与えられた尊称であるが、本名は知られていない。家族の言い伝えでは先祖がコンスタンチノープル征服戦に加わった旧家で、デルヴィシュ自身シュレイマン大帝の戦陣に従っていた。母方の叔父は宰相を勤め、スルタンの婿でもあったアバザ人メレク・アフメト・パシャ(1588-1662)であった。従って、彼の母親自身がアバザ人であった。エウリヤはハミド・エフェンディ・モスクで初等教育を受け、コーラン全文を暗証してハーフィズの称号を与えられたが、1636年にアヤソフィヤでおこなわれたコーラン読誦コンテストに出場して、美声と学識がスルタン・ムラト4世の目にとまって宮廷に召されることになり、大膳部でスルタンの給仕の地位を与えられた。しかし、天性の旅行家であるエウリヤは宮廷に留まることを望まず、また家庭を持つこともなく、1682年に死亡するまでの40年間にわたってオスマン帝国の内外を旅し、その全体を10巻からなる旅行記(但し、最初の巻はイスタンブルの記述)に書き連ねた。彼の旅行には、1646年と1655年のイラン派遣、1665年のウィーン派遣のように明らかに主命を帯びている場合と個人的旅行である場合とがある。1641年にはグルジアのゴニオからアナパへ出陣するイェニチェリ隊長を道連れに海岸沿いに北西コーカサスを旅行した。ソ連の研究者は、彼がスルタンの密偵であったとみなしていたようだが、それは18-19世紀にロシア政府自身が、軍事的あるいは植民地経営の意図から多数の調査を実施しているからであろう。この旅行の経緯を簡単に説明すると、1640年8月21日、29歳のエウリヤはマルマラ海のアジア側のイズミット旅行からイスタンブルへ帰ったが、この年2月に即位したばかりのスルタン・イブラヒム(現代文学のテーマにもなった狂王イズラヒム)は、エウリヤの父メフメットの養子(イスラーム教の家族法には、養子という概念がない。ここでは、単に養い子ということか)ケテンジ・オメル・パシャをトレビゾンドの太守に任命したので、メフメットは任地に向かうオメルの執事としてエウリヤを付き添わせた。8月、エウリヤは海路イスタンブルを出発、トラブゾンに着任した。数ヶ月後、太守はダディアニ家が支配する西グルジアのミングレリアに使節団を派遣することになり、エウリヤも使節団に加わってミングレリアに向かった。一行が使命を全うしてトラブゾンに帰る途中、バトゥミの南15キロメートルにあるオスマン帝国の要塞ゴニオ(1547年から1878年まで)で、エウリヤはこの地のイェニチェリ軍の第82(あるいは88)石弓兵部隊がアゾフへ出陣するのを知ったので、トラブゾンには戻らずにこの遠征に同行することにした。ここで石弓としたのはゼンベレクで、甲冑を射貫くことができる鉄製の特殊な矢を発射した。ペルシャ語でザンブルはミツバチの意味なので、この矢はミツバチの羽音に似た音を立てたのだと思われる。あるいは、ゼンベレク自体にバネの意味がある。ただし、18世紀には駱駝の背に乗せて使用する小型の大砲がゼンベレクと呼ばれた(『旅行記』の英訳者ハンメルプルグシャタルは小型砲の意味に採った。この場合にはザンブルはミツバチではなくスズメバチであると考えられた)。隊長は300人の兵士を率い、エウリヤには5人のグルジア人奴隷が付き従っていた。一行は10雙の船に分乗し、海岸沿いに北へ向かった。乗船はラズ人のモノクシル船であった。エウリヤ自身の説明によると、「これらの船はチョロフ川の岸に生えているポプラの三枚の厚い板でできている。一枚は底にあたり、一枚づつが脇に充てられていて、丁度飼い葉桶のようだが、板はとても厚いのである。両舷には厚い葦の茣蓙が括り付けられている。嵐の時にこの葦から船の中に水が入ることはない。これらの船は黒海の嵐の時、コルクの線のように航海する。この素晴らしい飼い葉桶のような船は、船首も船尾も見分けがつかない。この海ではモノクシルと呼ばれている。この船は100人を収容することができる」。両舷側に縛り付けられた葦束が浮きの働きをしたのであろう。著者は動力については明言していないが、帆船はあったので折からの南風に乗ってゴニアを出港した。ブライヤーの論文によるとトレビゾンド(イスタンブルのではなく)のハギア・ソフィア大聖堂に描き残された落書の中は、ギリシャ語でパラスカルミオンという船の線画がある。この船はポントス地方に特有の船で、船首と船尾が跳ね上がり見分けがたいが、どちらからでも接岸できる。長さは20-40フィートで大変頑丈な構造である。また船種名はギリシャ語でモノクシロン、オスマン語でもモノクシラ、モネクシラ、メネクシラ等と呼ばれる。語源はギリシャ語のモノ(一本の)クシロン(丸太)であると言われるが、エウリヤ・チェレビの言う船首船尾同型という形状、三枚の厚い板でできているという構造とよく合致しているとは言えない。現代のグルジア人歴史家タマズ・ベラゼは、この船をモノクシルと呼ぶのはチェレビの間違いで、グルジア語でオレチュカンデリと呼ばれていたものがであったと主張する。これは通例12列のオール座席があり、舷に80-100人を乗せることができ、4角の帆を張ることもできた。トルコ側でいうハチャバである、バラヅェはラズ語でメネキスィラ、トルコ語でメレクスィラと呼ばれていたのは、別の種類であると見なしている。またブライヤーによるとパラスカルミオンはオスマン語でパラシュケルメ、現地ではチャパルと呼ばれていた。1610年にオメル=パシャが海賊のボートと戦うために建造したメンキスレが、ハギア・ソフィアのパラスカルミオン、最近まで現地で使用されていたチャパル船と同じとするには疑問がある。

 イェニチェリ歩兵部隊と総把(レヴニー画) 左手の騎乗しているのが総把(アー)である。1720年頃の行事を描くものだが、儀礼的に弓を携帯する近衛弓兵(ソラク)で、弓矢は実用的なものではないと思われる。Ministry of Culture and Tourism of the Turkish Republic, Ottoman Empire in Miniature、Ankara,1988,p.76

 エウリアの旅行記によると、ソチとトゥアプセの海岸に沿って、南東から北西に向かって、ゲチ(プソウ川河口)、アルト(ムズィムタ川河口)、サジャ、カムイシ(ホスタ地区)、スチャ(つまりソチ)、ジャンベ(ヴァルダネ)、ボズドゥク(ヤーコルナヤショル)、ウスヴィシ(シャヘ)、アシェゲリ(アシェ)、スウクス(マコプセのシュユク村)、クタスィ(トゥアプセ)がアバザ人の住む地域だった。これらの地域共同体の内のいくつか、ツァンバ、(ガグリプシ川とプソウ川の間)、ゲチあるいはゲチクアジュ(プソウ川右岸)、アレドバ(ムズィムタ川下流)、ハムイシ(ホスタ川下流)、ソチプスィあるいはオブラグクアジュまたはサシェ(ソチ川下流)等は、19世紀初めまで残っていた。

 エウリヤは、動員可能な兵力1万人を持つアブハズ人の君公(プシ)チャチバ(グルジア風にシェルヴァシヅェとも呼ばれる)氏のラクバ港、その北西のアルラン氏(兵力10,000人)のラチガ港を通過した。19世紀ロシアの歴史家ブルンは、ラクバ港をグダウタのボンバラの投錨地であるとし、ラチガ港をピツィンダの北にあるブズィブ川河口とした。現代のアブハジア人歴史家クヴァルチアは、ラクバ港をイングリ川(北側)とリオニ川(南側)の間ホビ川の下流とし、ラチガを南アブハジア・オチャムチラ地方のガリツガ川下流に当てたが、これは17世紀のアブハズ公領の境界を南に向かって伸ばし過ぎた結果であると思われる。チャチバ家はロシア帝国に併合、廃止されるまでアブジハア大公国の支配者で、グダウタのルイフヌイに本拠を置く一族が宗家の地位に即いていた。アルランあるいはグルジア(メグレル)語風の語尾を持つアルラニアは今日でも見られる姓だが、公の身分であった以外アルラン氏の歴史は全く知られておらず、本当に17世紀半ばにブズィブ川流域にアルラン氏の領地があったかどうかも確認できない。現代アブハジアでも一種伝説的な一族のようだ。但し、19世紀のソチにはアルラン村が2箇所存在した。住民は1864年にトルコに移住したものと思われるが、移住者の氏族名表の中にはアルラン氏はないようである。村はロシア軍によって破壊された。19世紀にはブズイブ川下流域は、イナルイパ氏領だった。イナルイパ氏はチャチバの一族で、18世紀に本流から別れたといわれる。エウリヤ一行はこの港で一夜を過ごした。さて、ガグラ山脈を経たブズィブ川の北西は、19世紀に、小アブハジアと呼ばれた地域で、住民もサヅ(サヅエン、あるいはグルジア語ではジギとも呼ばれていた)、エウリヤの表現によると純粋なアブハジア人ということになるが、それはグルジア(メグレル)の影響を受けていないということであった。チャチバ家の本来の領地は、グダウタ地方のルイフイヌイであったが、グルジア人のダディアニ家領を犠牲にして次第に南へ領地を拡大したので、南に行くほどグルジア文化の影響が強く残っていた。

ガグラ地方の東部ガグラ川流域には「チャンダ・ジリー族」がいた

チャンダ族。勇敢な人々である。人口は約1,5000人、彼らは真のアバザ人である。ベイがいる。彼らは山のチャンダ人と言われている。彼らの港はガグラであった。海に向かった山の斜面に、ぶどう園と果樹園に囲まれたホパ村がある。ここから海岸をまた西に3日進んで、大チャンダ族の境に着いた。

恐らくチャンダは君公身分のツァンバ氏を指すものである。19世紀のアブハズ人歴史家ズヴァンバによるとガグラの北15露里のチュグル川の辺にチュグルハ・ヌイハと呼ばれる聖地がある。その地名は古い貴族であるチュグバ氏と関わりがあるといわれるが、19世紀までチュグリは存在し、今もガグラとツァンドリプシのほぼ中間の海抜500mのところに同名の集落チグリプシ(まれにチャグリプシ)がある。現地の歴史家イナルイパ氏によるとその場所はサナトリウム(保養所)ウクライナ(現在の名称はモスクワ)が建てられている場所であるという(地図上の確認では5-6km程東により過ぎる)。ツァンバ家の所領内である。また、19世紀にはハシュプセ川の東のバグリプスタ川岸に、ツァンバ家の家臣バゲバ氏の村バグリプシ(現在の現地名。ソ連時代のグルジア社会主義ソヴィエト共和国とソ連解体後のグルジア共和国の名称はバグリプスタ。居住地は海岸の鉄道駅から山腹に広がっている)があった。19世紀半ばの封建的構造が、必ず17世紀まで遡るとは言えないし、ガグラとツァンドリプシの間の20km程は、山地が海岸に迫り、耕作できる平地はないので、「海に迫る山の中にあり、果樹園とぶどう園のあるホパ村」というのは、地形によく適合しているが、現在、ガグラ郡にはホパに当たる集落はない。有名かつ地形的にエウリヤの記述によく似るトルコ・アルトヴィン県のホパは、旅の出発地ゴニオの南なので該当しない。しかし、ガグラ郡の南東のグダウタ郡の行政上の集落の一つにホピがある。グダウタ市の西のチャチバ氏の歴史的根拠地ルイフイヌイの近くで、ムチシとボンボラの間に黒海に流入するヒプスタ川(ホピ川)があり、その上流にハピ(別名ハビウ)村がある。ムチシ川河口は深い入り江になっているので、ここにはかってアブハジアで最も賑わった港があったといわれる。これがエウリヤの言うボンボラ近くのラクバ港であろう。別のホピ(あるいはホビ)は、メグレリアの海岸沿いイングリ川とリオニ川のほぼ中間のクレヴィ川の上流にグルジア史では有名なホビ修道院のあるホビ村があり、後にオスマン軍のレドゥト・カレが設けられたが、その近くにはかってホピガ(ホピの港)があった。あちこちにホピはあるがガグラには確認されないのであるが、それ以上にグルジア語ではホピは、底、あるいは谷の意味である(本来は、メグレル語やアブハズ語で説明するべきであるが、今筆者の手元には適当な文献がない)、エウリヤが固有名詞として説明を受けたのか、一般名詞だったのか、筆者には答えることができない。ここでは、果樹園とぶどう園とあって、耕地と書いていないことに注意したい。山並みは直ちに海に落ち込んでいるのである。このあたりの海岸には、オレホヴァ(海岸から2km弱)、グレベショク(海岸から内陸にかけて、中心部は海抜200メートル)を除くと集落はないが、エウリヤの言う山中の集落をそのどこかに置いてよいであろう。

  ガグラの海岸(保養所モスクワ)

 真のアブハズ人であるツアンバ族の北西3日行程のところに大ツアンバ族がいた、

  大チャンド族は25ヶ村、1万5000人の兵士、べイたちを擁している。彼らの港はチャンドで、冬期間停泊することができない。彼らのもとから山中に入るとマシェシャ・チェルケス人がいる。これらのチャンド族の地域から再び海岸沿いに西に行くとゲチ族集団がいる。

彼らは山地ツァンバとは別の上長(ベイ)を戴いている。大ツァンバ氏の港だと言うツァンダは現在のツァンドリプシであろうか。ツァンドリプシュはハシュプセ(ハシュプススタ)川下流左岸にある。中世航海地図(ポルトラン図)のアヴォガシアは、この周辺(別の説ではソチ河)にあったと思われる。エウリヤはこのようにアバザ(アブハズ)人の港や村落の名称、村落数、動員可能な兵力を上げているが、エウリヤの記述する数値は、一般的には多すぎると言われているが、何よりも大まかである。

 エウリヤの一行の旅程が純然たる商用ではないことは自明であるので、あらゆる停泊が旅程上必要なものであったとする根拠はない。18世紀のオスマン語海図、および同じく18世紀のフランス在カッファ領事シャルル・ペイソネル伯爵(1727-1790)の報告書中の港湾名一覧は、ガグラの先、トゥアプセまでをケチェレル、アルデレル、カムシ(後者ではホムシ)、アシェガリ(後者はジュジ)、ママ(後者はママイ)、ヴァルダン(ヴァルヴィレ)、スバシ、ドバー(地図では文字が少し霞んでいるので、後者の綴りを参考して判読した)として、両者の情報は地名の表記以外は一致している。エウリヤ一行の停泊地はこれより2港多い。ツァンドリプシから海沿いにまっすぐ西へ向かったエヴリヤの一行は、次にゲチ族のもとに着いた。19世紀前半では、ツァンバ領とゲチ領の境界はハシュプセ川であった。

       彼らのもとには、天国のような庭園に恵まれた75ケ村からなる地域があり、小銃で武装しているものだけでも2,000人程の兵士と一人の         ベがいる。ここの水は、まるで生きている様で、美味く、飲み心地がいい。大きなリポ(プソウ?)川が流れ、そこへ船が入る。この川はコ       ーカサス山脈から始まり、黒海に注ぐ。ここは大きな川なので、7月でも泳ぎ渡ることはできない。冬でも船が遡ることができる安全な場所       である。ゲチ族の場所から始まり、この場所まで、この川の両岸は鬱蒼とした草木に覆われていて、様々な果物が豊かである。このゲチ          族には1万の兵士がいて、大部分騎兵である。彼らは大きな種族で、豊かで、盗賊である。我々はこの種族のもとで、ハカという村のジャ        プシュフという名のアバザ人の家に宿泊した。彼は私と私の旅仲間のために10頭のヤギを屠って、もてなした。私たちはサズバリと肉の          スープと穀物の粉を煮たものを食べた。

19世紀半ば頃ゲチバ氏の領地は、プソウ川の左岸からソチ・オリンピック会場があったムズィムタ川の左岸にわたる地域であった。大ツァンバから僅か1日行程でゲチバ氏の集落についたのは、そこがプソウの左岸だったからであろうか。アブハズ人の常食は穀物粉だが、パンでも麺でも団子、蒸しパンでもない。黍の粉を調理したものである。日本にもこのような食べ方があったが、もう常食としては廃れてしまった。香煎、そばがき等である。筆者の母は香煎を湯で薄く伸ばして緑茶のようにして飲むのが好きであり、祖母はそばがきが好物だったが、エヴリヤ一行が出されたのは麦の粉でもそば粉でもなく、黍の粉であったと思われる。また、調理法も熱湯を注ぐのではなく、水を入れて火にかける。このような料理をヨーロッパ人の旅行記ではパスタと読んでいるが、現代アブハズ語ではアブィスタ、現代アドィゲ語でもパスタである。現代ではトウモロコシ粉(ママリガ)が好まれているが、トウモロコシがアブハジアに普及するのは19世紀になってからのようである。パスタや肉には色々なソースが添えられるが、サヅバリはアブハズ語でソースの意味である。ここで西に旅を続け、2日行程で、アルト族のもとについた。ここは19世紀にはアドレルと言われていた。アルトのトルコ語複数アルトラルの訛りであると信じられているようであるが、正しい種族名称はアレドバである。沿黒海地方第一の大河であるムズィムタ川をどうして渡ったのかは記録されていない。一行は海岸沿いに陸地を進んだのではなく、海岸に沿って船で進んだからである。

アルト族は、ゲチよりも大きな種族である。しかし、彼らほど勇敢ではなく、大部分が商人である。貂の狩りをし、大変沢山の豚を飼っている。彼らには信仰や経典のことはわからず、人々を遠ざけ近づかない。正直な人々である。彼らは3万に及ぶ人口があり、彼らのもとにも一人のベグがおり、私たちに完全武装のアバザ人の士族40-50人をつけた。彼は私たちにヤギ20頭と鹿3頭を「ようこそのお越しを」の言葉とともに献呈して、敬意を表した。ベイは髪が長く、肩には毛の長いブルカをかけ、手には弓矢を持ち、腰帯に太刀を佩いていた。彼は気のいい勇士だった。彼は髪の長い、太陽のような、美しい若者に私たちの世話をさせた。我々が宿泊した埠頭はアドレル(アラトラル)という名前であるが、ここは冬、船は付かない。というのは湾が(海に向かって)開いているからである、もう一つ別のリヴシュと呼ばれる埠頭があるが、ここでは冬船は停泊することができない。夏の半年だけである。6ヶ月はここに錨を下ろすことができる。しかし、湾は浅い。彼らの北の山地はサジャ族の国である。

 アルト族はイスラーム教徒が食べてはいけない豚を飼っているし、ターバンを巻くには不便な長髪だったのであるからのだから、勿論イスラーム教徒ではなかった。エウリヤがはっきりと彼らを邪教徒であると書かなかったのは、「山羊20頭鹿3頭」を貰ったためだろうか。19世紀にはムズィムタ川からホスタ川の間がアレドバ家の所領であった。19世紀には河口近くの下流左岸にリャウシ集落があったことは確認されるが、両者は別々の港としていいのであろうか。というのはジェノア時代の海図では、ここにライアス港があるからである。19世紀ムズィムタ川河口右岸にアレドバ公の下級廷臣リアシュ氏の村があり、村の近くには彼らの聖地リアシュ‐ヌイハがあった。ムズィムタ川は上流本支流に広く開けた谷間と北コーカサスに通じる峠を持っていた。流域の谷間には、種々の小集団が住んでいた。19世紀には、メドヅゥイ、アフチプス、東側のプソウ川の上流にはアイブガ等であった。さて、エウリヤ・チェレビはここで非常に奇妙なことを言い出した。エウリヤはムズイムタ川上、中流の住民をサヅァ(サズ)と呼んで、アバザ(アブハズ)人と区別しているのである(オスマン語でこの言葉を正確に表現できないのは我々も同じであるが、ここではエウリヤ・チェレビの言及に関する限り「ヅ」という表記を許されたい)。文献が多くて、住民や地域の名称がはっきりしている19世紀の状況を説明すると、黒海東岸ブズィブ川からホスト川までは、小アブハジア(他の呼び方をする研究者もいる)には、アブハズ人の一部で、アブハズ(あるいは、アバザ、自称はアプスニ)人の一部であるサズ人が住んでいた。彼らはジキあるいはジゲティとも呼ばれた。具体的にどの集団がサヅに含まれるか、サヅがアブハズ人の下位団であるのか、同系の独立した集団であるのかは、識者によって若干の見解の相違があるが、そもそも、アブハズ人は伝統的に自分の国が、7つの地域からなっていると考えていた。現在では、この7地域とは、

1 サズ或いはサヅェン(Sadz/Sadzen) ガグラ郡とソチ地域

2 ブズイブBzyb グダウタ郡

3 グマン、グミGuman スフミ郡

4 アブジュイワAbzhywa オチャムチラ郡とトクヴァリチェリ郡の一部

5 サムルザカンSamurzakan ガリ郡とトクヴァリチェリ郡の一部

6 ダルとツァバルDal-Tsabal グルリプシュ郡

7 プスフとアイブガPskhu-Aibga ガグラ郡内陸部

であると考えられている。勿論、中世レオン朝の時期を除けば、これら7個の地域が全て政治的に統一され、行政的区分として確立したことはなかった。エウリヤはガグラとソチのアバザ人の一部のみをサズ(サヅ)と呼び、その他はスフムのアブハズ人と区別せずアバザと呼んでいることになる。

ヅァの国。サヅァの国はシディ・アフマド・パシャの国である。彼らは北の隣人チェルケス人のもとに商売に出かけるので、自由にチェルケス語、アバザ語を話すことができる。7千の勇敢な若者がおり、チェルケス人、アバザ人と争い、いがみ合っているので、常に油断がない。アルト族は彼らに安全を保証しているので、彼らはアルト族の湾に捕虜をつれて来たり、蜜蝋を持ってきたりして交易する。チェルケス人も心配なくやって来て、交易を行う。

 シディ・アフマド・パシャはエウリヤの叔父メレク・アフマド・パシャの盟友であったが、スルタンの逆鱗に触れ、死を賜った。屡々、彼の呼び名セイディは「セイイェディ」とも読まれるが(読まれるという意味は、アラビア文字を用いるオスマン語は完全な表音文字ではない。漢字と同じで、読みと意味が対応し、読みが異なれば、同じ綴りで違う意味の言葉になる可能性がある)、セイイェドの場合意味はイスラーム教の創始者ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの子孫を指す。しかし、ムハンマドの子孫がイスラーム教徒の奴隷になることはないから、この読みは正しくない。一方、旧ソ連の伝統ではこの呼び名は「スィディ」と読まれ、ヴォルコヴァは18世紀にペイソネルが、アバズィン人の君公「シダア(単数はシドバ)シはスィ」家の名を上げていることを根拠に、「シディ」はアバズィン人の一部である可能性を示唆した。また、 ヴォロシロフも19世紀にウルプ川流域にマゴメト・ギレイ・シドフ村があったことを記している。オスマン人の言う「アバザ」(アブハズ人全体)の一部でコーカサス山脈の北に住む人々をロシア語で「アザズィン」と読んだだけで、17世紀にこの二つの集団を名称上区別することはできない。アバザ人であることには間違いない。19世紀にムズィムタ川上中流に住んでいた人々の祖先と思われる人々に対しては、エウリヤは「山地のアバザ人」と読んでいる。従って、ウエリヤの「サヅァ族」は、彼らとは異なった系統である。そうするとエウリヤがサヅァと呼んだ人々は、19世紀の用法とは違って、コーカサス山脈の北部に住み、征服者テムルの歴史家シャーミーとヤズディーによってアバザと呼ばれ、後にロシア人にアバズィンと呼ばれた集団の祖先の内、当時はまだ分水嶺の南側あるいは北側でも分水嶺の近くにいた人たちであろうか。確かに、そう考えると理解しやすい。ヴォルコヴァの主張とも符合する。しかし、そうなるためには、エウリヤの「サヅァ族」の言葉はアブハズ語でなくてはならない。しかし、エウリヤの記述では、あたかも「サヅァ族」は、固有の自分たちの言葉のほかに、チェルケス語とアブハズ語に堪能であると書いているように読み取ることができる。チェルケス語アバザ語とは別にサヅァ語があったと判断できる。ところで、ウエリヤは旅の記録の中で、しばしはその土地々の言葉についての知識を書き残している。アバザ地方でも「奇妙で驚くべきアバザ人の言葉」について簡単な事例を示し、更に、奇妙にもそれに続けて、「アバザ人・サヅァ人の言葉」について書き残している。二つはまったく違った言葉のように見える。以下はその中から選んだ数詞の例である。前者、1 ak 2 ikhpa 3 bshba。 後者、1 za 2 toka、3 shke。まるで、日本語の数詞は、ひとつ、ふたつ、みつ、と教えられて、日本語東京語では、いち、に、さん、と数えるとでも聞かされるようである。アラビア文字を使って書くオスマン語ではアブハズ語を正確に記録することは絶望的に不可能だが、カタカナで筆記しても、英語かフランス語は書き分けることができる。前者がアブハズ語であることは、古くから言われているが、後者については比較的最近最近になってウブイフ語であると主張された。17世紀には内陸部に居たウブイフ語の話者、つまりウブイフ人はやがてソチ中部の海岸部へ異動するということになる。彼らはトゥアプセの山地から山麓を東に移住してきたか、クバン川上流から西コーカサス山脈分水嶺を越えて、ムズィムタ川流域に進んだと思われる。そして彼らがこの地域でクルガン墓文化を担ったものと思われる。エウリヤはとても重要なことを間違えたようにも見えるが、そそそも、当時グルジア語のジキの同義語としてのサズという言葉の用法が確定されていなかったのかもしれない。

 もう一つ、重要なのは、エウリヤは幾度もメレク・アフメトの父の出自、つまり自分の母方の出自をサヅァであると述べている。しかも、シディをメレク・アフマドの同族、すなわちサヅァであると述べたが、ある箇所では、シディ・アフマドをガージー・シディ・アフマドとまで呼んでいるが。彼はメレク・アフマドの同族のものが奴隷狩りに出て、捕えた山地民であったと記している。メレクとシディを同族とすることはできない。メレクはウブイフ、シディはアバザ(アバジン)である。

通例サズと呼ばれるのはソチからガグラまでの海岸部に住む人々であったが、エウリヤは彼らを「(真の)アバザ」とし、サズの名称は使っていない。さらに、エウリヤはこれら全てとは区別して、山地アバザ人諸集団の名前をあげている。アバザ人集団やアバザ語の下位集団の区分については、今日に至るまで諸説がある。エウリヤが山地アバザ人の情報をムズィムタ川流域の住民に関連付けて述べたのでなく、西のアシェ川流域に関連つけたのは、17世紀中葉山地アバザ人が今日の大ソチ市北部山地全域にわたって住んでいたということではあるまいか。

 既に現在のソチの一部であるアドレルから西に進んだエウリヤは、自然の境界、森と潅木の茂み、高い山、美しい村々を見ながら、三日行程で、ハムシ(カムシ。エウリヤはカムシと書いているがイスタンブルの方言では、ハムシとは聞き取れないからであろう。)族の村々に入る。19世紀にはクデプスタ川からホスタ川までがアレドバ族の領地であった。ハムシュ族の領地はホスタ川とムツァ(マツェスタ)川の間にあった。

 カムシュ族。彼らには一人のベイ、1万の豪胆、勇敢な人々がいる。メレク・アフメド・パ シャの従者の一人カムシュ・アフメド・アガは、この種族の出である。彼らは幾度もアル ト族を破り、彼らのベを捕虜にした。この理由はアバザ人が自分達のあいだで戦い、妻 子を誘拐して、奴隷として売り、そうして生計を立てているからである。これらの人々の 目には、強盗を行わないものは、哀れな落後者であると映る。彼らはそのような人々をの けものにし、自分の娘を彼らの妻にあたえない。カムシュ族は、山中でロバほどの背丈の 大きな猪を飼っている。彼らのもとにも湾があるが、住民があまりにも争いあっているの で、交易は盛んではない。彼らのもとにはイスタンブルのトプハネやエジプトから来たア バザ人がいる。彼らのもとには沢山モスクがあり、家族や使用人と一緒に住んでいるイス ラーム教徒がいる。ここの気候は素晴らしい。彼らの村は南向きであり、海が見渡せる。 彼らのもとにもまた交易の列、市場はないが、埠頭には売買できる場所がある。そこから 海岸に沿って3日行程進み、ソチャの種族のもとに着いた。

カムシュ族は猪を飼っているのだから、モスクもありムスリムになった在外アバザ人がいるにもかかわらず、多くはイスラーム教徒ではなかったと思われる。ただこれが豚ではなく、猪であると断定するのは難しいのではないだとうか。コーカサスの例えば、スバネチアの在来種の豚は、体毛は荒くて黒く、鼻も長く、放牧されている。トルコ語の名称も豚はドムズ、猪は野生のドムズである。そもそも、生物学的にも豚と猪の関係は微妙なようである。さて、19世紀、時計廻りで黒海東岸を周航したフランス人デュブア・デ・モンペレは「この海岸にある似たり寄ったりの最初の山塊であるが、低い、切れ目なく森林に覆われた丘陵が幾重もの列になっている。アドレル岬はこの海岸に突進し、急に深くなるカムシ(ハムシにトルコ語の複数語尾がついている)人の湾を遠くの深いキンチュリ湾から分けている」。19世紀まで現地でハムシと呼ばれていたハムシは、エウリヤもデ・モンペレと同じく、カムシュと呼んでいる。現代のチェルケス人歴史家ホトコは、チェルケス人の種族ブジェドフの支族カムシとも関連を示唆しているが、肯定する理由も否定する理由も見出せない。アドレル岬は1837年7月7日ロシア海軍陸戦隊が強襲上陸したが、この戦闘でコーカサスを主題とした作家で、『アマラト・ベク』の著者ベストゥージェフ=マリーンスキーが戦死している。

ハムシ族の隣、マツェスタ川の北西はソチャ族の領域だった。筆者は最近(2015年10月)まで、エウリヤ・チェレビの旅行記がソチの名称のもっとも古い事例であると思っていたが、それより30年古く、ヘッセル・ジェラルド(ゲッセリ・ゲリッス)が1613年にロシアのツァーリ、ミハイル・ロマノフに献呈したアムステルダム作成のロシア全図には、黒海の奥まった湾曲部の内陸にスシャの地名がある。この地図の原稿にはボリス・ゴドノフ帝(1605年没)書き込みがあるというから起源はもっと遡る。この名称は筆者がみるところ16世紀の地図にはなく、また、19世紀の地図にもないが、1653年のサンソン、1679年のデイヴァリエ、1680-90年のヴィッシャーの地図にもみられる。ソチの名の起源と語源についてはさまざまな説があるが、ここでは詳しく述べない。

『ロシア帝国全図』(部分)

ソチャ族には一人のベと約1万の誉れ高い歩兵がいる。ここは断崖が多いので、彼らのもとでは騎兵は少ない。波止場があるが名前はわからない。ここでは一晩、ハヴダカという村に宿泊した。その晩そこで結婚式があることがわかった。我々に煮た羊肉、豆のスープ、蜂蜜飲料、ビール、練り粉、肉入りシチュー、ソースなどの料理100皿を寄越した。若者100人が給仕をした。翌朝、旅仲間のゴニオの(イェニチェリ)アガはその家の主人に白布の裂を与えた。この地域には商店街も市場も宿屋も浴場も商店も、その他の便利なものはないので主人は大いに喜んだ。村々は4050戸の家からなり、ほとんど山の上にある。彼らの湾には年一度あらゆる方面から船が入り、火薬、鉛、銃弾、銃、弓矢、刀剣、盾、槍、その他の武器、長靴、ラシャのための縁、シャツと裏地用のキャラコ、囲炉裏のための鉄金具、鍋、鍋を下げる鎖、塩、石鹸その他をもたらす。交換として、船主のもとに無心な男の子たちを連れて来る。バター、蜜蝋、精製した蜂蜜、数百の貂の皮、この全てを上に述べた必需品の交換に与えるのである。この地域は全く金銀の貨幣はない。売買は全く物々交換である。このソチから海岸沿いに西に2日行程進み、ジャンベ族のもとに達した。

ここでソチャと言われているのは、現在のソチ市中央区でソチ川岸、恐らく左岸に当たる。ハヴダカの地名は知られていないが、19世紀には内陸部に幾つかの大きな村があった。ソチの地形は、カスケード地形でマツェスタ川やホショタ川中流に滝(スペイン語でカスケード)が見られる。アグル滝、ズメイコフスキイェ滝である。エウリヤはソチが断崖の多い地形であるので騎兵は少ないと書き残している。しかし、エウリヤはソチ地方ではどの種族・地域についても騎兵隊が組織されていたとは述べていない。騎兵が少ないのはソチャ族だけではないであろう。沿黒海地方では狭い海岸平野、コーカサス山脈から速い流れになって黒海に注ぐ数多くの河川、深い森、海岸の湿地が多く、大規模な騎兵の展開に好都合ではないからである。また雨の多い気候自体が馬の成育には不都合であったであろう。ただし、馬は生活にも交通にも必要な家畜であったことには、疑問の余地がない。それにしても、本当に騎兵が少なかったかどうかは確認できない。エウリヤが他の場所ではなく、ソチャに限って騎兵が少ないことを書いたのは、この地方という意味が、ソチャに限らず、沿黒海地方全体を指していたのでないとすると、実際は文面とは反対にこの地方で最も広い平地にあるソチャでは他の集団よりも騎兵が目立ったとも考えられる。ソチの境界は19世紀にはサシェ(ソチ)川で、その西にはプサヘ川両岸にプサヘ(あるいはママイ)集団がいた。1830年にここを通過したフランス人ディボア・デ・モン・ペロの記録では「ママイ、タプセあるいはトゥアプセ海岸。私たちはこの名前の場所の前を通り過ぎた。タプセまたはトゥアプセは、弓形の曲線の海とママイという集落の間にある。ここはチェルケス人海賊の主要な根拠地であった。ママイのシャプスグ族は120人が乗船できるガレー船を2隻持っていた」。デユボアは上陸したようではないが、17世紀に小さな帆船で進んだエウリヤの船には停泊すべき場所であったのであろう。ジャンベ族の村はこのあたり、ママイかダガムィスであろうか。19世紀にはダガムスを越えると、ビトハ川、ルー川、ホジャ川の流域にヴァルダネ(ヴァルダネ)族が住んでいた。デユボアは「海岸には樹木が生い茂り、砂だらけの崖が高く聳えていた。ヴァルダンの周辺は非常に人口が多く、チェルケス風に非常によく耕作されている。ヴァルダンはシェプスグ人の主要な中心地の一つであると思われた」。まもなくコーカサス戦争が進展すると、ヴァルダネにはイマーム・シャミール軍の地域本部が置かれたから重要拠点には違いないが、デユボアは港の存在には触れていない。しかし、18世紀のオスマン語地図にはヴァルダネが記載されているので、ここをボズドゥグ族の勢力圏としていいであろう。そして彼らがヴァルダンにある13-16世紀のチェルケス式クルガン墓の所有者であろう。サチェ(現在のソチ市中心部)より北西の海岸に住む地域集団名は、18世紀以降の文献や伝承には辿ることはできない。ジャンベ、ボズドゥク、ウスヴィシ、アシェゲリ、スウクス、クタスィである。

 さて、チェレビはすでに、パスタ、パスタ用のソース、肉のスープを味わっているが、ソチのハヴダカ村では、晴れの日の特別の食事を出された。パスタは粉の3倍の水を入れ、15分ほど火の上でかき混ぜて調理する。これには梅やメギのような果実、後にはトマトで作られる様々な酸っぱいソース、牛乳やバター、胡桃や遅くとも19世紀では獅子唐辛子のソースが添えられる。煮豆は壷で調理し、唐塩と唐辛子で味付けたもので、現代でもアブハズ人やグルジア人は同じような料理を作る。肉は煮たものだけで、焼肉は出されていないか、単に挙げられていない。チーズもアブハズ人の食卓には必ずあるものだが、チェレビの食卓には出されなかった。野菜の漬物、サラダの類についても特筆されていない。蜂蜜飲料は精製した蜂蜜あるいは、砕いた蜂の巣と水で作るものである。最初は甘い水、気温が十分に高ければそのままにしておくと発酵する。さらに、ビールとあるのは大麦のビールではなく、黍粥を醗酵させたものであろうか。19世紀にはブドウが栽培されていて、赤白のワインも造られていたが、チェレビは何も書いていない。甘いデザートについても触れていないから、チェレビが甘党でなかったということでもないし、ワインを飲まなかったということでもなかろう。

 サチェの次の港はジャンベであった。18世紀のオスマン語海図にママイの地名があることを考えて、ジャンベをママイに充てたい。ジャンベの次はボズドゥクである。

   ジャンベ族の記述。彼らのもとにはベイと千人の歩兵がいる。我々はこの湾に3日留まり、あらゆる住民と友好的交流をおこなった。我々は持っていた衣服、絨毯、コート、フェルトを全部与えて、少年少女を受け取った。この取るに足らぬ著者もアバザ人の若者を一人受けとった。四日目、再び西に向かい、二日進んで、ボズドゥク族のもとに至った。

ボズドゥク族の記述。彼らは一万人で、彼らのもとにもベイがいる。私たちは彼らの湾に10艘のイスタンブルから来た船を見つけて大勢の友人に遭い、限りなく喜んだ。彼らにいくつかの大きく、重い物品を預け、我々と奴隷達は手軽になった。メングリ・ギレイ汗はこのボズドゥク氏族から3千人の兵士を、アストラハン遠征に引き連れた。アストラハンが占領されると、彼らはチェルケス国のオブルという山地に定住した。チェルケスタンでは今でも彼らをボズゥドゥクとよぶ。アバザ人ボズドゥフとチェルケス人ボズドゥフとの間にオブルダグという高い山がある。彼らのあいだの距離は3行程日で、彼らはお互いに攻撃しあい、若者を誘拐する。再び海に沿って西に2行程日進み、これらのアバザ・ボズドゥク族のもとからウスヴシュ族のもとに来た

エウリヤのボズドゥク人についての記述には、あいまいな点がある。というのは、ボズドゥクはアバザ人なのかチェルケス人なのか、あるいはそれぞれ北コーカサスのボズドゥクはチェルケス人で南コーカサスのボズドゥクはアバザ人なのか、エウリヤはチェルケス地方の記述でもボズドゥク族について述べるが答えは得られない。このボズドゥクの場所は兵士一万人という規模からして、ハブザ川とブー川の流域のヴァルダネであろう。北コーカサスのボズドウクがチェルケス人であり、ヴァルダネにチェルケス式の墳墓が見られるのであるから、ヴァルダネのブズドゥクはチェルケス人と関係があるかもしれない。

ところが、20世紀になってからであるが、チェルケス人ブジェドゥク族の王侯ハジムコヴ公は、チェルケス人に伝わるさまざまな伝承を書き残した。公は自分が属する種族の歴史について述べ、「この種族が黒海の辺、トゥアプセ川岸に住んでいた時の歴史であるが、伝説では三人の王侯ツィユク、ヤグボク、アバヅェジの名前まで残されている。特にツィユクの名前は、ツィユカという山中の地名のお陰で人々に親しまれている。もし、他の住みやすい場所を探すようなことがなければ、彼らは最近までトゥアプセに留まっていたに違いない。これは大体16世紀頃に起きた。この時クリミアのハンの不興をこうむったハンの一族の庶出のスルタン達が、ブジェドゥク族のもとに逃れて庇護を求めた。ブジェドゥクの王侯たちは、彼らを自分自身の客として迎え入れた。彼らの安全は自分の命に賭けて保障した。周知のとおり、チェルケス人の下では、客は主人よりも上であると見なされていた。王侯自身さえよりも」。ジョチ・ウルス系の諸国では、スルタンはハンの王子たちの身分で、チャガタイ・ウルス系のミルザに相当する。彼らは住民に、ハンの権力が及ばないところに農耕に向いた土地を求めて移住することを勧めた。そこで、住民はハムシとチェルパンの二人の兄弟に率いられて、コーカサス山脈の北側に移住したという。エウリヤが聞いたアストラハン遠征は、メングリ=ギレイ汗(在位1467-74、1478-1510)の時代に当てられているから、15世紀、エウリヤの200年も前のことであるが、伝承なので事実として確定されたわけではない。伝説ではトゥアプセ川流域に住んでいたことになっているが、トゥアプセは近代の地名なので、この伝説のトゥアプセが現代の地名と同じかどうかは確認できない。エウリヤもトゥアプセという地名は言っていない。

さて、一行は海岸に沿ってブズドゥク族の港、ヴァルダネから、2日行程でウスヴィシ族の地域に着く。エウリヤが会ったウスヴィシの人々は、恐らく、シャヘ川流域の人々であっただろう。とういのは、この旅行記を見る限り、彼らの港が最も繁華であったからである。18世紀のトルコの海図でもシャヘの別名スバシが掲載されている。筆者にはトルコ語地名スバシは現地名ウスヴィシのカルク(類似音置き換え語。例アメリカンをメリケンとする)のような気がする。ここはジェノア時代のサンナであるかもしれない。ただし、デユボア・デ・モンペールは、スバシには小さい川があるとのみ書きとめている。ロシア海軍の大型帆船は海岸を遠く離れて航行するから、流域は広くとも河口部で浅いシャヘ川は目立たなかったのだろうか。

ウスヴシュ族の記述。彼らのもとには海岸に急峻な崖の上に古い砦がある。悪天候のために我々は同行者全員とともに、銃で武装して、そこで一晩を過ごし、警戒した。我々のもとにウスヴシュのベイが来て、羊5頭を献呈した。この種族は木製の弓を作るが、矢はネズで作る。3千人の内、全員が銃を持つ。埠頭からウスヴィシュ砦が見える。彼らの山には熊、猪、狐、ジャッカル、黒貂に似た岩貂、貂、ハイエナ、鹿、雷鳥がいる。ここは大きな山である。特筆すべきはアバザ人のこの種族は、自分たちのベイの遺体をたいてい棺桶として木の桶の中に安置する。高い木の梢の枝が又になっているところに固定して、枕元に隙間があるようにする。彼らの間違った信念によると、死者はこの隙間から天国を見ているという。時間が経つとこの隙間から百千の蜂が中に入り、アバザ人の脇の下や足の間に蜜を蓄える。適当なときに彼らはこの桶の蓋を壊して、頭髪と一緒に蜜を取り出し、革袋に満たし、売る。「これはアバザの蜂蜜だ」と言って、それを食べ、賞賛する。しかし、彼らはどんなに忌まわしいことをしているか知らない。アバザの蜂蜜には警戒しなければならない。このアバザの国には多くの奇妙で驚くべきことがあるが、全部を詳しく書くのは不可能である。ここでは我々もまた大勢のアバザ人の若者を買った。西に日行き、アシゲル族のもとに着いた。

ウスヴィシュ族の海岸には古い城塞があり、宿営が可能であった。この古城が前の章で述べたゴドリク城であるとすると、ウスヴィシュ族は、シャヘ川とアシェ川(両川河口間の距離は直線で25km弱)の流域に住んでいたことになる。ゴドリク川は水源から河口まで4km程の小河川で、このあたりは海岸まで山地が迫り、平地は少ない。大きな山があると言っていいであろう。エウリヤが記述するアバザ国の地名・種族名はよく知られるようになった18-19世紀のものとはかなり違っているので、現在の地図に書き落とすために重要なのは要塞跡であるが、エウリヤの旅行記には、ウスヴィシュとアシェゲルの二つの要塞について書かれている。これら二つの名称は、先立つ時代にもまたこの後の時代にも知られていないが、前章で説明したように現在でも大ソチには、二つの中世廃城が残る。一つはプサヘ川河口から内陸へ5kmの地点にあるママイカ(中央市区)、もう1つは海岸のゴドリク(ラザレフスキー市区)である。ウスヴィシの古城をゴドリクのものに特定してもいいであろう。19世紀ここにはチェルケス人シャプスグ族のゴアネ(ゴイ)集団が住んでいた。

ウスヴィシュ族の葬制について、エウリヤは興味ある証言をしている。ベイの遺骸を容れた木棺は、パプア人の間に於けるように、樹木の枝の間に定置されたのだが、紀元前4世紀のシラクサのニンフォドル、紀元前3世紀のロドス島出身のアポロノス、紀元前1世紀のダマスクスのニコラオス、紀元2世のクラウディア・アリアヌスなどがコルキス人に風葬の習慣があったことを述べている(シャルワ・イナルイパ『アブハジア』pp.359)。風葬の証言は、1600年の時間を経て、アブハズ人の習慣として記述されてる。エウリヤと同じく17世紀のアルカンディロ・ランベルティも「棺のように木の幹をくりぬき、木の高いところに葡萄蔓でしっかりと吊り下げます。この木に故人が生前戦いに使っていた武器をぶら下げます」と記している。また、グルジア人の歴史家バフーシュティ・バグラティオニ(活動は18世紀)もアブハズ人が故人に(経帷子ではなく)生前着ていた衣服を着せ、武器を持たせたまま棺に入れ、木に立てかけたと書き残している。紀元1世紀の葬制が17世紀に突然復活したのではなく、ビザンツ帝国とトレビゾンド帝国の滅亡とジェノア人の退去、それに続くカッファのベイレルベイによるイスラーム化政策がキリスト教とキリスト教的葬制を後退させ、固有の風習を目立たせたのであろう。しかし、今度はイスラーム化が固有の信仰と葬制を圧迫することになるであろう。いずれにしろこの葬制はチェルケス人のものではなくアブハズ人のものである。

ウスヴィシュに隣接する地域アシェゲリは、配列と名称の類似からアシェ川流域とすることが可能であろう。アシェゲリの「ゲ」の読みは、確定したものではなく、ガあるいはゴと読まれる可能性もある。「ガリ」はメグレル語で川の意味であるという。アシェ川流域には今日もチェルケス人の集落が残っているが、土地のチェルケス人(シャプスグ族)はアシェ川をアシェチェイ(チェイはトルコ語のチャイである。川の義)と呼んだといわれるから、アシェゲリと対応が見られる。しかし、アシェの語源については、諸説がある。そのなかでもアブハズ人の耳に心地よいのは、アシェがアブハズ王家の姓アチバ(単数形。複数はアチャ)の訛りであるという見解である。

アシェゲリ族の記述。彼らは約2千人で、彼らのもとにもベイがいる。 しかし、彼らは盗みを働く貧しい人々である。全アバザがかれらと敵対する危険がある。なぜならば、彼らは大変勇敢で、大胆であるから。ここにも古い砦がある。彼らの波止場はアシェガと呼ばれる。ここにはカッファ、ケルチ、タマンから沢山の船が来る。しかし、ここには冬は投錨することができない開いた場所である。彼らの森は実り豊かである。ここから再び西に向かい、一日行で、アトマ村に着いた。

アトマ村の記述。これはアシェゲリ族に属する村である。山中の美しい村である。住民の中にトプハネから来たイスラーム教徒のアバザ人がいる。ここで、一堂のモスクを見た。ここからチェルケス人の国までは1日行程である。彼らは絶え間なくチェルケス人と戦っている。ここから二日でスウクス族のもとについた

(ズ)ガはメグレル語で港の意味であり、また、アガはアブハズ語で海岸を意味する。アシェガはアシェの港というに過ぎない。彼らの港アシュガは、ジェノア時代のアルバズィキアであろうか。アシェゲリ族は、貧しく、たった2千人の小集団であるという。ではどうしてここに沢山の交易船が来るのであろうか。勿論、取引量あるいは金額が大きいからである。交通の面から見るとアシェ川の上流域はクバン川の2つの支流域と繋がっていて、内陸のアトマ村からは、1日行程に過ぎない。19世紀には流域にいくつも村(アウル)があった。アトマ村がそのどれか、筆者の手持ちの資料では、推定困難であるが、今日でもアシェは海水浴場のある海岸から2-3キロ上流の盆地が主要な市街地である。アブハジア貴族のリストにアトマ(複数形。単数はアトムバ)氏が見られるが、同氏とアトマ村の関係については情報がない。エウリヤは船着場で直接あるいは小船に乗り換えて上陸し、少し離れた本村に赴いたのであろう。古い要塞は今日では確認できない。

アシェの海岸https://www.youtube.com/watch?v=ftv4Rs5OCVM2014814日UL427秒)

現在のアシェ村https://www.youtube.com/watch?v=D-XEySgY4VU (201412日UL。1分28秒)

アシェゲリ族の北西の隣人はソウクス族である。

ソウクス族の記述。ベイと3千人の豪胆な兵士がいる。彼らの馬はクヘイラン種(アラビア馬のケヒラン種のことであろう。ここで、馬の品種に気がつくのは往年の騎手エウリヤらしいと思ったが、17世紀の人々には当然の知識であろう)である。彼らのものであるハルン波止場は船の停泊ができる美しい港である。泳いで渡ることは不可能な大きな川がある。これはチェルケススタンの山々から始まって、ここで黒海に注ぐソウクスである。この水は生きているかのようである。彼らはこの川の辺に住んでいるのでソウクスと言う名前で呼ばれている。ここから西に二日行程でクタス族のもとに至った。

河川名ソウクスは、名前の類似から、現在も名前が残るシュユク川(岸辺にシュユク村があった)と同じと見られるが、ソウクスの地名はエウリヤが何度か述べるだけで他の事例が無いので、断定な特定は差し控えよう。ソウクス或いはソヴクスは、トルコ語では「(水が)冷たい川」の意味だが、シュユクは現地の人々の解釈では、アデイグ語で「泥の谷」あるいは人名「ソユコ」に基づくとされている。チェルケス人ブジェドクの王侯ハジムコヴが伝えた伝承に現れるツユカを思い起こさせる。シュユク川は大ソチ市の北西境界にあたり、次のメグリ川を越えるとトゥアプセ市の境になる。川の長さ10キロメートル足らずである。この流域だけで兵士3千人を擁するとは信じがたい。また、泳いで渡れないほどの大河であるとも思えない。スウクスはトルコ語の「冷たい川」の意味だが、興味深いことにプトレマイオスの地図にも冷たい川が描かれている。ガグラにも「ホロドナヤ・レチュカ(冷たい小川)」があるから、特に水温が低いと感じられる河川は存在するようである。水温が低いのは長さが短いことによるのであろうか。日照あるいは、上流に氷河があるのであろうか。ただ、ソウクス項の記述には、他の港と違って交易の話題が無く、現に商船が入港しているとも書いていない。ここは商港ではないか、少なくとも商港としての重要性は低いかもしれない。すると、配置上、アシェガかソウクスかのどちらかであろうと思われる18世紀のオスマン語海図および同じ時代のペイスネルの海港列挙中のドバは、もし、ソウクスとアシュガのどちらから選ぶとすると、商港としての重要性から見てアシガであろう。なお、ドゥバはトルコ語では平底船の意味だが、これに似たアデイグ語の地名は例えばツェメス(ノヴォラシースク)湾やプシャドに見られる。

エウリヤの一行が寄航した最後の港はクタスである。

クタス族の記述。一人のベイを持っている。戦士は全部で7千人である。彼らの波止場はクタス波止場と呼ばれる。彼らは葦の茂みで隠された板の倉庫を持っている。彼らの村は湾に面した山の斜面の上にある。湾にはカッファとタマンから来た沢山の船が停泊している。ここには常にクリミアから馬を買いに来る商人がいて、彼らと売買をする。この場所は要害の地ではないので、彼らは平和を愛する、従順な人々である。彼らは小麦を栽培する。このほかにここでは記述したアバザの地域はいたるところで黍を栽培する。種キビ1キロで、収穫は100キロになる。このクタス族の家は葦で作られ、薄板拭きである。囲炉裏は家の真ん中にあり、カバクと呼んでいる。夜通し家畜の番をし、朝までライオンのようなシェパードで夜警する。全アバザで家は森の中にあり、お互いどうしを恐れているので、このような状態である。クタスィ族とチェルケス人ジャネ族とは一日旅程である。彼らはチェルケス語を知っている。彼らは恐れることなくチェルケス人のもとに自分の商品を持って行き、チェルケス人も彼らの湾に自分の商品を持って来る。ここでアバザの国は終わる。

クタスは、中世海図にあるコトスであろう。オスマン語の綴り方法を考えると発音に全

く差のない同一の地名であるいっていい。また、18世紀のペイソネルはコトシと呼んで、繁華な港町であるとしている。同じ世紀のオスマン語地図には、コドシ・リーマーニ(湾)の地名が書き込まれている。コドシに大きな市場があったことについて、駐クリミア・フランス領事シャルル・ド・ペイソネル(1727-1790)の『交易マニュアル』では、「コドシは開かれた湾である。すなわちそこにコドシと呼ばれる木がある。アバザ人はそれをチェルケス人のパナギアサン同様に敬う。コドシはヘブライ語で神聖なという意味である。コドシにはアバザ人の一番大きな市場がある。私の父が作成した黒海の地図によればこの他にも港がある」と書かれている。ヘブライ語で解釈できることに何か意味があるかどうかは不明であるにしろ、この岬には紀元前より一貫して、神聖さが語られる場所である。パナギアサンとは、19世紀30年代の旅行者デユボア・ド・モンペロの文章を引用すると、「このあたりのチェルケス人は、まだ伝統に従って、四旬斎を表現して、何故また何日間、その前に肉を食べることをひかえなければならないかは知らないが、復活祭を祝う。彼らは十字架を付けた樹木を持っていて、それを崇拝して、まったく斧を入れない。これらの木々は御神木で、誰もが崇拝する神聖な森林のなかにあり、決められた日にこの木々の前で祭典を祝う。ペイソネルは、この国の中央にあるパナギアサンと呼ばれる木について述べている」。17世紀のキャーティブ・チェレビの地誌にも、「この種族の敬神者(ザーヘド)はダークークと呼ばれている。彼らはけして鶏肉は食べず、クーダーシュと呼ばれる木を崇拝している」とある。コトシすなわち、後のトゥアプセが大きな交易地であるのは、ここが海岸と内陸の中継点になっていたからであろう。クタスィ族とジャネ族の境界は、アバザ人の国とチェルケス人の国との境界にもなる。両者の距離は、一日行程だから、30kmほどである。19世紀にロシアの沿黒海征服軍が通ったのも、ロシア革命後の国内戦期赤軍がクラスノダルから南下したのもトゥアプセを経由してであった。また今日内陸部との幹線道路や鉄道が通っているのもここである。湿潤温暖な気候の海岸部であるトゥアプセが、クリミアに馬匹を売っていたのは、内陸部からチェルケス人がもたらすカバルダ馬の搬出港になっていたことを示唆している。通称カバルダ種(現地ではアドイガシュ)と呼ばれるチェルケス地方の馬は、長身、軽量で、姿かたちが優美であるだけでなく、厳しい環境にもよく耐えたので、軍馬として好まれて、大量にロシアへ輸出され、モスクワ大公国の拡大に大いに貢献した。また、17世紀にはポーランドでも大変好まれた。カバルダ馬を購入するためにカッファ商人がわざわざ海路トゥアプセに来るのは、ロシアがカバルダ馬の独占を図っていたからだと思われる。

 エウリヤが叙述したアバザ人はほとんどが異教徒で、イスラーム教徒は少ないと思われる。しかし、彼らは、異教徒と呼ばれることを嫌い、イスラーム教徒であると呼ばれることを望んだ。実に奇妙な話だが、エウリヤはその理由を問い詰めなかった。アバザ人固有の宗教は多神教であるが、雷神である最高神をいただいているので、自分たちをイスラーム教徒と見なしたのであるという説明は事情の半ばを説明しているであろう。13-14世紀のモンゴル人も最高神テングリを頂いていたので、アッラーをテングリと読み替えることによって、容易にイスラーム教徒になることができた。ソ連崩壊、1990年代のロシア人研究者の宗教意識調査によると、現代アブハジア人イスラーム教徒は礼拝を行わず、一切の戒律を守らず、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーを預言者とは認めないが、それでも自分たちをイスラーム教徒であると称するものが多かった。1864年にトルコへ移住したソチのイスラーム教徒の人々も、神木を掘り起こして帯同したのである。

エウリヤ・チェレビは、アシェゲリ族の記述の後、これら海岸部に住むアバザ(アブハズ)人とは別に、山地のアバザ人の項目を上げている。エウリヤは述べる。

山地のアバザ族。プシェルヒ族は、メグレル人の近くにいる。7千の反徒である。ベイがいる。アフチェプスィ族。彼らはベを持っている。人口1万であるベスレブはベを持もっている。7千5百の勇敢な人々であるメクリス族は、1人のベを持っている。ヴァイフガ族。1人のベイがいる。人口1千人。バグリス族。ベを持っている800人の弱い集団で、彼らは盗賊ではない。アラクレイシュ 500人とベイを持っている。チュマクレ、ベグを持っている。全部で3千人。マジャル族。ベイを持っている。全部で2千人。しかし、勇敢な人々。ヤイハルシュ。ベを持っている。全部で4千人。上の10の山地の非従順な人々はアシェゲル・アバザ人の湾には来ない

 エウリヤの言う「山地アバザ族」は、プシェルヒ族がメグレル人の近くに住むというから、大アブハジアの東部山地の住民も入っていると思われるが、前に説明したアブハジアの伝統的区分の第6の地域、ダルとツベリダにあたる。ヴァイフガは、19世紀のアイブガに同じであるとすると7の地域にあたる。ブズィブ川の上流のプスフ、プソウ川上流のアイブガである。アフチェプスィはムズイムタ川上流のアフチプスに同じであるとすると、第1地域のサヅ/サゼンの内陸山岳部に含まれる。又、19世紀にはゲチバの家臣にバグバ氏がいた。19世紀にアフチプスィ、チュジュグチャ、アイブガは、メドズュイという上位集団を形成している。ヴォルコヴァはこれら10集団中、バグリスを平地アザズィンのバグ族、ケチェレルを山地アザズィンのキャチ族に関係付けている。19世紀の記録と一致しない名称については、発音を特定できない。エウリヤがアブハズ語あるいはウブイフ語を理解できたとは思えないし、仮にできたとしてもこれらの名称をオスマン語ですべて正しく表記することは絶望的に不可能だからである。

エウリヤ一行はトゥアプセを最後に途中の寄航はせず、目的地のアナパへ直行する。

我々は上述のクタス湾を出て、日間西に海行し、アナパ湾に来た。

これまで十分に時間をとって前進していた一行は、なぜトゥアプセから先を急いだのであろうか。トゥアプセからアナパまで(直線距離約150kmだが、海岸線を離れないとすれば距離は少し多くなり、沿黒海岸の海岸線の距離の半分ほどになる。トゥアプセとアナパの間が距離的に近かったのではない。エウリヤと同じく、17世紀にクリミア半島からグルジアへ旅したジョヴァンニ・ルッカは、コドシュがタマン半島の「ヴァラダ山から最初の村である」と述べる。同じく17世紀に黒海東岸の船旅を行ったフランス人の宝石商シャルダンも、チェルケス国の海岸にはほとんど人が住んでいないと述べている。途中から先を急いだのではなく、停泊すべき港がなかった可能性がある。しかし、19世紀にはこの地域の海岸部にはナトゥハイ族とシャプスギ族が住んでいて、プシャドやジュブカ、ジャンホドも寄港地として機能していた。また、クタス族の隣人であるチェルケス人ジャネ族は18世紀末までゲレンジク南東のメズィブ川右岸の支流ジャネ川流域に居住していたとも言われている。また、アルヒポ・オシポフカやノヴォミハイロフスキーには中世遺跡があり、ジュブガは14世紀に現地人の海賊が出没したところでもある。実はエウリヤは述べないが、この時の黒海東岸はのんびりと航海を楽しむ状況ではなかった。この航海の前年1640年には、ドンとザポロージェのコサックが23艘の小舟でクリミアのケルチを攻撃、トルコのガレー船40隻と戦い2隻を沈没させた。この年も600人のザポロージェ衆が12艘の小舟で黒海に漕き出している。まもなくゴニオの第82イェニチェリ石弓軍団も、ヒュセイン・パシャ麾下の総兵力24万人、マルマラ海で使用されていた大型ガレー船100隻、大型船80隻、小型海洋船90隻、大型砲艦20隻の一部としてアゾフ攻撃に向かわなくてはならなかった。

エウリヤの記述によると、アバザ人の国は「クタス族」地域で終わり、彼らの北には西チェルケス人に属するジャネ族がいた。このジャネ族について、エウリヤはクリミア旅行の巻でも書き残している。同族は二つの集団に別れ、大ジャネはクリミア半島からクバン川下流のアビ川までの地域に広がる壮丁1万人の集団、小ジャネは40村落、戦士3千人の集団で、クバン川左岸支流で「アバザの山」から流れる4支流アビン、ハブル、イル、アブルガンの流域に住んでいた。従って、ジャネ族は内陸部にいたことになる。これら河川はトゥアプセではなく、ゲレンジクの内陸地であるが、これらの河川を超えて更に東に進んだとすると(1667年)、小ジャネはトゥアプセの背後の内陸部にいた事になる。トゥアプセから内陸に一日行程30kmはコーカサス山脈西部の低い山並みの北側(ゴストフ峠で標高336m)のクバン川支流等の水源に至る。仮に海岸に沿って一日行30kmはノヴォミハイロフスキー周辺だが、ここは奥地との交通には不便で、更に北西に一日行程のジュブガまで進めば同名のジュブカ川沿いに内陸のシェプスホ川流域に入ることができる。ジャネ族が交易のためトゥアプセに往復していた理由は、当時ジャネ族は内陸に住んでいて交易のためには直近の港であるトゥサプセまで来る必要があったのであると思われる。これら17世紀に記録された概況の全てが、トゥアプセとアナパの間は住民の少ない地域であることを示しているであろう。現在においてもコドシュから北の海岸では人口は少ない。プーチン・ロシア大統領の友人の別荘が自然保護区に建設されたスキャンダルが起こったのも、そもそもここには開発の手が入っていないからである。

 17世紀の学者キャーティブ・チェレビの地誌『世界の書』による北コーカサス地図

北から、スジュク、ゲリンジク、コドシュ、アシュゲリ等の地名が書き込まれ、ガグラはデルベント(ダルバンド)と書かれているが、間違いではない。トゥアプセ(コドシ)とガグラの間に書きこまれている1地名は綴り前半の文字が滲んでいて判読が難しいが、最後の文字は、リであろう。スフミの北にはアスランラル(アルスラン族)の地名があるが、これはエウリヤのアルランと同じであろう。なお、この地図ではアブハズとメグレルの境界をスフミのコドリ川に置いていて、17世紀より古い情報に拠っていることがうかがわされる。

アバザ人の港の交易の様子は、エウリヤと同じ17世紀イランに行く途中、ここを通ったシャルダンの旅行記にも見られる。「コンスタンティノープルから来てミングレリア向う船は、途中このあたりの海岸の数ヶ所の地に錨をおろす。それぞれの地で1日か2日止まるのだが、この間、浜辺は、自分たちの山から山賊のような風体で、集団でどっと押しかけてくる半裸の欲深いこうした蛮族たちに取り囲まれる。チェルケス人との取引は銃を手にして行われる。彼らの幾人かが船に来たいときは、彼らに人質を何人か出し、船の者の幾人かが上陸したいときは、彼らが同じように人質をだす」。さて、交渉が成立すると、商品の引渡しになるが、「交換は次のような仕方で行われる。船のボートで岸のすぐ近くまで行く。乗り込んでいる者らはしっかり武装しておく。ボートを着けたところには、自分たちと同じ人数のチェルケス人しか近寄らせない。自分たちより大勢の人間がやって来るのがわかると、沖に引き返す。双方が近づくと、交換のために持っている商品を見せ合い、合意の上で交換を行う」(シャルダン『ペルシャ紀行』佐々木康之・佐々木澄子訳、岩波書店、1993年)。交換の商品は、船の商人は「塩、魚、キャビア、油、乾パン、羊毛、鉄、錫、銅製および陶製の食器類、あらゆる種類の馬具とあらゆる種類の武器、農機具、ラシャやあらゆる色の布地、男物女物の出来合いの服、毛布、絨毯、皮革、長靴、短靴など、つまり人間にとって一番必要な一切のものから成っていた。あらゆる種類の小間物、香辛料、香料、薬物類、軟膏や膏薬もあった」。商人が買い付けるのは「人間、蜂蜜、蜜蝋、皮革、ジャッカルの毛皮(狐に似た動物だが、ずっと大きい)、テンに似たセルダヴァルの毛皮、シルカシアの山地に生息するその他の動物の毛皮」であるが、シャルダンが挙げていない亜麻糸、柘植材も出荷された。シャルダンはエウリヤとは異なった立場から、沿黒海地方を観察している。シャルダンはチェルケス人もアブハズ人も必需品は全て輸入に頼っていると断定するが、理屈のうえでは、同じ機能の製品を自分たちでは作らないことを意味しない。購入するのは高級品だけであるかもしれないからである。また羊毛や布地、皮革を輸入するのはそれで何かを作るからである。農機具を輸入するのは彼らが農民であるからである。しかし、沿黒海地方は似たり寄ったりの生業に従事し、社会的に分業していない相互に孤立した集団からできている。消費者自身が何であれ必要なものを作か、さもなくば外部から持ち込まなければならない。また、17世紀の沿黒海地方は奴隷と一次産品の生産地として1つの商業圏に組み込まれている。その中の一部の地域が、自給自足の小経済圏を作り出すことは、経済的には不可能である。チェルケス人とアバザ人に対するシャルダンの、何の信仰も教養も持たない、盗みと略奪を好む、荒々しく残忍な、言葉を話す以外にはまったく人間らしくないなどの厳しい弾劾に影響され、産業の未発達を住民の未開に帰すことはできないであろう。

 最後にエウリヤは、全アバザ国の政治地理を総括する。

我々が訪れ、目で見た、海岸に住み、彼らの全ての村は南の黒海に向いている。東のファシャ川から西のクタス族まで、アバザの国はゆうに幅40行程日を要し、奥行は5日行程である。この規模の国に40の大きな川がある。それらは全て山に始まりチェルケス人とアバザ人の土地をとおり、黒海に注ぐ。この国には高さを競う70の高い山がある。この国には2000のムラがあるというが、私には知ることができない。私は山中には行かなかった。住民は地租も葡萄園と果樹園の収穫税も十分の1税もその他の適切な税も払わない。彼らは数十万の非従順で、争いを好む人々である。彼らを異教徒でも呼ぼうものなら、殺されてしまう。もし、イスラーム教徒と呼ばれたら喜ぶ。彼らはコーランには親しまないし、他の何の信仰もない。しかし、異教徒は嫌いで、イスラーム教徒のためには命も捧げる。もし彼らがイスラーム教徒になるならば、強く唯一師を信ずる人々になるであろう。彼らの祖先はコレイシュ部族のアバザ氏族の出である。これらのアバザ人は海の湾を支配している。

 更に、エウリヤはこの貴重な旅行の成果を踏まえて、政府に政策上の提言を行う。

アナパの記述。もしここの砦を修理して、本格的な武器庫と兵士を配備すれば、アバザ人とチェルケス人を統治するのは容易である。(この1.5行はジョルチャコフのロシア語訳になし)。

 エウリヤはウブイフ族出身の母とクタヒヤ出身のイスラーム教徒で宮廷の宝飾職人長デルヴィーシュ・ムハンマドの間に生まれている。従ってアバザ人の国は母の故郷であり、近い親族がいてもいいはずであるが、それにしては記述は何の感慨もなく、母の生まれた村や一族の名前も、一族の情報も何一つ伝えない。また、母の従兄弟、この場合従兄弟というのは我々の社会の兄弟同様の絆にあるといっていいと思うが、メレク・アフメド・パシャが幼時をすごしたソユクスを訪れたにも関わらず、何のコメントも残していない。この短い旅行でエウリヤが最も感動したのは、商用でイスタンブルからボズドクの港に旅していた友人にあったことであった。それにしても、母親の出身地を旅したまとめの言葉が、「アバサ人とチェルケス人を統治するのは容易である」というのは、寂しい限りである。

エウリヤは、彼なくしては、記憶されることのなかった多くの情報を残したが、ソチに関する事柄が全て、現地を旅行したものだけが知りうる情報かどうかは確かではない。彼の母親や親族がアブハズ人であり、大勢のアブハズ人がトプカプにもトプハネに住んでいたのだから、もし興味さえあれば居ながらにしてあらゆる情報を得ることができたであろう。土地の言葉と称して僅かの言葉を書き記すなどは、この場合はこけおどしに過ぎない。ただし、イスタンブルで安全で優雅な日常の合間にアブハズ語チェルケス語トルコ語辞典を編纂しようとする文人はいなかったか、その原稿はまだ見つかっていないのだから、エウリヤの功績は大きい。エウリヤ・チェレビの旅行記は、膨大な行政文書を除くと、散文で記録することの情熱がさほど高まらなかったオスマン帝国における記録することの勝利だが、感想を言えば17世紀に三大陸に及ぶ広大な帝国を治めた人々の精神世界は偏ったものであったと推察できるのである。

  ヴァルダネのクルガン墓出土品

 前の時代のものは別にして、この時代の遺跡として確認できるのは、墳墓である。14世紀から17世紀にかけて、沿黒海地方、サゼン(ジケティ)および大アブハジアから住民の大規模な北コーカサス移動が起こったと考えられている。この結果クバン川上流の左岸支流の流域にアバジン民族が形成された。アバジンはアバザのロシア語形に過ぎず、自称はアバザであるが、アブハズ人と区別するためにロシア語を離れてもアバジンの名称が使われている。但し、彼らの言葉はアドィゲ語の強い影響を受け変化したので、アバザ語とアバジン語は独立の近縁語であるとされている。アバジン人は平地のタパンタ集団と山地のアシュハル集団に2分されている。研究者は14世紀にタパンタ種族の集団移動がおこり、16世紀から17世紀初めにかけてアシュハル種族が集団的に移動したと考えている。また、19世紀後半までソチの山地には移住を終えていないアバジン人が残っていたと考え、南アバジン人を構想する説もある。考古学的調査からはこの状況をものがたる決定的証拠はない。ただ、14-15世紀には、死者をクルガンに埋葬する習慣が広まり、遺跡は東部のムズィムタ川流域および西部海岸のクラスノアレクサンドロフスク、アバズィンカ、ヴァルダネ、ケプシェ、アイブガなどに残っている。アレクサンドロフスクのあるクルガンから発掘された四角いブロンズ製の小刀がついた細い革製ベルトの鉄バックルは、16-17世紀のチェルケス人の遺跡からよく発掘されるものである。アバズィンカ村のクルガンは卵型で石板を4-6層積み上げて直径3-4mの円環が作られていた。ここでは2通りの埋葬の様式がみられ、第1の様式では薄く割った石板で墓室を作ったが、土台を少し掘り下げて安定させてあった。 墓室の周囲を丸く盛り上げ、更にその上にクルガンが積み上げられた。後から別の遺体が一緒に入れられることもあった。第2のタイプは西向きの遺体を上の方から頭を隠すようにまたは部分的に見えるように敷石で覆いその上から石板をかぶせて環状に積み上げて、さらにその上にクルガンを積み上げた。通常遺骨は2体埋葬されている。副葬品の陶器の破片、火打石、青いビーズなどは15-16世紀のものであった。1973年にソチ・オリンピック会場のクラスナヤ・パリャーナで発掘された、16-17世紀と思われる墳墓は斜面を切り開いた敷地に、大きな石板を積み上げ四角くしたもので、中心は土で埋められていた。この両脇に墓室が増設され、土と石が被されていた。また別の例では墓穴が掘られ、同様な石垣が組まれ、上から土砂を被されていた。副葬品はないが、周辺で発見された彩釉陶器は16-17世紀より前のものではない。一般に埋葬様式は安定した地域社会の中では保守的な傾向にあったと考えられるが、この形式の変化は、住民の移入が行われた証拠であり、先住者の移出が起こった原因であると考えられる。この変化、ソチ住民のアブハズ人からチェルケス人・ウブイフ人への転換は、エウリヤ・チェレビの文章の節々にも感じられる。

参考動画

「トゥアプセからソチまで徒歩で」撮影にドローンを使用していると思われる。

 https://go2films.ru/video/dWlkPTMxMDYxMjMmZ2lkPTE3MTUxMTEzOQ==2015年3月撮影)3時間9分35秒

 気の短い方には、

 「トゥアプセ―ソチ遠征」(2008年7月撮影)4分5秒

https://www.youtube.com/watch?v=_R7A6NS_uLQ

 てっちゃんには、

「トゥアプセ―ソチ列車の旅」https://www.youtube.com/watch?v=mC5B5RYQnEE2013123日投稿)5時間4分38秒

 逆ルートで

「燕号で旅するソチ―トゥアプセ。キシリョフ岩」南ロシアテレビ撮影

https://www.youtube.com/watch?v=VzzBTWOnlXE20147月撮影)45 

 「アドレルから列車で海岸を」https://www.youtube.com/watch?v=DDMCGCTqeaQ20131月投稿)2時間39分9秒

 「アドレルから海岸を」https://www.youtube.com/watch?v=nOH61_iJFsg2013年1月11日投稿)2時間49分1秒

 

   第3節 トプハネのアブハズ人とトプカプのアブハズ人

イスタンブルは東から西へ細長く入り込む金角湾で南北に分かれる。南側の旧市街からトプカピ宮殿を背にし、ガラタ橋で金角湾を渡ると、そこはかつてジェノア人の居留区だった新市街のガラタ地区である。新市街の目抜き通り、綺麗に塗られた路面電車がゆっくりと進むイステグラル通りの緩やかな坂を道に沿って歩くとタクシム広場に着くが、そこまで緩やかな坂道を登らず、ガラタサライリセで通りを右手に折れて海に向かって下り道を行くと、最近では海岸まで気の利いた土産物店や飲食店が多い。そのあたりがトプハネ地区である。ビザンツ帝国を滅ぼしたスルタン・メフメット2世征服者はコンスタンチノープル攻撃のための大砲をここで製造させたが、後にここに小銃や大砲を鋳造する常設の兵器廠(トプハネ)を作ったのが、地名の起源である。また、ガラタの湾を少し入ったあたりには海軍の兵器庫が置かれた。商人も集められ、この一帯がイスタンブルの海の出入り口になった。海軍造船所には自由人だけで無く、奴隷の職人も働いていた。イスタンブルの第一歩をガラタで踏んだ人々は、かつて東北本線で上京した人々が上野駅の周辺に職と棲家を探したように、ガラタやトプハネに住み着いたように思われるが、コーカサスから奴隷を載せてイスタンブルに来る船も又ここに停泊した。

トプハネ(アントアヌ・イグナス・メリング1763-1831のエッチング)左がわの連続したドーム屋根を持つ建物が当時改築されたばかりの工場である。画面左端のモスクがミマル・シナンが建てたキリチアリ・パシャ・ジャミ、やや右側の四角い建物が、1732年スルタン、マフムト2世によって建設されたトプハネ泉であろう。キリチ・アリーは、セリム2世の海軍提督(カプタン・パシャ)であった。

17世紀後半のイスタンブルの様々な姿を叙述したフランスの東洋学者ロベール・マントランは「ガラタに戻って、ボスフォラス海峡に向かって進み、スルタンの宮殿とウシュクダラが同時に見える場所がトプハネ(大砲工場)である。鋳造工場の辺りから人口密集地区が広がっていて、ペラに向かう登り坂か海岸に沿って、住宅、モスク、バザール、浴場がびっしりと建っている。既にお馴染みのエウリヤ・チェレビによると、住民は黒海岸の町々、シノペ、アマスラ、エラクリ、バルタン、バーフラ、サムスンなどの出身の小売商人、果物屋、水先案内人、砲手からなっている。別の言い方ではギリシャ人が大部分だが、グルジア人、アブハズ人も数えられる」と述べた。このアバザ人、文明の中央と辺境を往復したソチの住民を含めてアバザ人がどのような人々であったかは、実に興味あるテーマである。彼らは商人、水夫、海賊、ガレー船の漕ぎ手、奴隷、海賊であろうか、今のところは空想することしかできない。

エウリヤ・チェレビによると、トプハネとトプハネに直接接している郊外のフンドクル地区には、ムスリムの街が70町内、ギリシャ人の町が20町内、アルメニア人町7町内があり、ユダヤ人の家も何軒かある。西洋人は全くいない。ムスリムが圧倒的に多いので、モスクの数も多い。海岸にあるキリチアリ・パシャ・モスク、高台のスルタン・ジャハンギル・モスクのようにいくつかのものは建築史的にも重要である。他にもクーチュク・チャウシ、アブルファズル・メフメット・アガ、ムフイッディーン、モッラー・チェレビなどがある。これに加えるに沢山のマスジェド、ハンガーフ、泉、6件の浴場がある。予想通り至るところに小さな商店、果物屋、キャバブ、パン、飲み物の店がある。ここは、鋳物工場の労働者、本物の職人、専門家、時には外国人、特別の技術を持つ労働者の、あるいは特別に派遣されてスルタンの陸軍、海軍、要塞が常に必要としている火器を供給するために働いている軍人を相手にする小さな商売の場所である。更に、トプハネはガラタの西隣のカシム・パシャ区によく似ていて、人々は混ざり合って住んでいる。町の活気は直接、間接に、工場によって左右されている。地理的境界となっているボスフォラス海峡のヨーロッパ側海岸はまさに都市の人口密集地帯である。実際、スルタンや大身の人々が所有して別邸を建ててもいるし、ウシュクダラに行く船着場があって交通上でも重要で、家畜や商品を運ぶためのカヤクと平底舟が絶えず両岸を行き来しているフンドクルから、ベシクタシにまで竈の煙は続く」。マントランがモスクとするのは、現在のトルコではジャミと呼ばれている金曜モスク、会衆モスクである。礼拝堂とされているのがそれ以外のモスクであろう。

エウリヤの母の従兄弟で、エウリヤも何かとお陰を被っていた宰相メレク・アフマド・パシャは、後にこそ北に接するフンドクルに屋敷を構えるが、生まれたのはここトプハネである。エウリヤもある事件で投石に使われた石ころの大きさをトプハネのイサ・チェレビのパンぐらいの大きさという具合だから、トプハネをよく知っていたのだろう。ソチのアブハズ人にトプハネから帰国した人々が多いと、驚きも無く記述しているのは旅行以前からこのことは知っていたのかもしれない。メレクの父親は高級軍人であったのだから、要路を進む人々も他の様々のアブハズ人と一緒にここに住んいたのであろう。

19世の旅行者イギリス人のホワイトは、「新しく連れてこられた白人奴隷は、このバザール(大バザールの一角にある女奴隷専用市場のこと)には送られない。チェルケス地方から10人か20人しか乗れない沿岸航海用の船で、チェルケス人の乗務員に付き添われて、トプハネに上陸する。そこにはその国の商人たちが居を構えている。あるいはその区域のカフェで寛いるのが見られるかもしれない。トルコ人の商人はここに急いで、点検の上買って行く」。ホワイトが小船と書いたのは、当時既に1829年のアドリノープル条約によって、ロシアはオスマン帝国より黒海東部海岸の支配権を奪い、海岸線を封鎖して、住民の自由な航海を阻止しようとしていた。チェルケス地方の海岸ではロシア海軍の巡洋艦が臨検し、不法な船舶は拿捕していたので、帆柱の高さが波の高さより低い小船がこのまれたのである。チェルケス地方にもアブハジアにもその規模の船は沢山あった。コーカサスから運び込まれた奴隷は直接末端消費者に売られるのではなく、商人あるいは仲買人に売られる。奴隷商人は他の商人と同じく特権組合(ギルド)を組織しているが、17世紀中葉では、全てイスラーム教徒で、店舗を持つ商人と行商人とは区別して登録されており、店舗を持つ商人は男女毎に区別して登録されている。1560-1572年の奴隷に関するある登記簿には、489人の男女の奴隷の身分に関する記録が残されていて、その内1割ほどがアブハズ人、チェルケス人、メグレル人であった。また、この期間の直前、1557年に死亡した白人宦官長ジャファル・アーは156人の奴隷を残したが、内、コーカサス人はチェルケス人24人、アバザ人4人、グルジア人2人、メグレル人2人計32人で32%だった。民族別内訳は時期と購入の目的で変化すると思われる。奴隷は数年後、あるいは主人の死後に解放されることを期待できた。あらかじめ仕事ぶりによっては開放するという条件を提示されることもある。以下に引用したのは現在でも絹織りで有名なブルサの織工マフムドが自分の奴隷イスケンデルと結んだ契約や以下の文面である。

 我々の面前で、タッフェタ織りの織工マフムド、セイイディ・アフメドの息子は、自

 分のチェルケス出身の奴隷イスケンデル(身体の特徴が書かれている)と一万アクチ

 ェと等しいタッフェタ織り200枚の完成を条件に開放することに同意することを約束

 した。また、同上の奴隷もこの契約を承認した。(ハリル・イナルチク

先ず、タッフェタ織りは縮れた滑らかな平織りの晴れ着用の絹織物で、腰と光沢がある。冒頭の我々とは、公証人である。イスラーム法では文書ではなく証人の証明を第一にする。便宜的に織工としたが、むしろ親方であろうか。この織工マフムディの父親はセイイディ・アフメドであるが、マフムド自身はセイイディではない。だからここのセイイディは聖裔を意味しない。するとセイディ・アフメド・パシャと同じくアバザ人の種族名ではあるまいか。元奴隷が奴隷を買い、条件つきで開放するのである。15世紀末16世紀初のブルサでは、健康な聖人奴隷の価格は500から1、000アクチェであった。生糸の価格、織りあがった布地の売価、織り上げの期間が明らかになれば、恐らく、開放契約が経済的に有利であることがわかるであろう。グルジアとコンスタンチノープルに詳しい知識を持っていたシャルダンは、奴隷たちは棒で殴られ、無理やり駆り立てられない限り働かないと記している。労働の動機を刺激するこのような契約によって、二足歩行の家畜は本来の意味で奴隷になるのである。ただ、作業の終了後、奴隷イスカンデルが生活費を請求されないことを祈るだけである。ただし、イスラーム法では奴隷主は奴隷の扶養を義務付けられている。夫は妻の扶養を義務付けられてはいないが。

 トプハネに停泊する小型帆船 正面にはキリチアリ・ジャミとトプハネの泉の上屋が見える。

さて、トプハネはコーカサスの人々を迎えるだけでなく、送り出す港でもあった。エヴリヤ・チェレビ自身が、『旅行記』の中で述べていることによると、「今日のこの日に至るまで、トプハネのアブハズ人は毎年70-80人ほどの襁褓に包まれて、揺籃に寝かされている嬰児をムスリムや異教徒のアブハズ人の養父母のもとに送っている。毎年、100人200人の少年少女が、異教徒とアブハズ人の国へ送られ、彼らの父母は10年から15年も彼らに会うことができない。これは古くからの習慣である。そうして、11年後、メレク・パシャはこの筆者の母や他の40人の奴隷と一緒にソユクスと呼ばれているアブハジアの港から、トプハネの父親の元へ送り出されたのである。すると父親はメレクと著者の母親と15人の輝くような若者奴隷をスルタン・アフメド汗へ献上した」。献上分が40人中15人というのは、メレク・アフマドの父の取り分が15人であったのか、献上にふさわしいと判断された子供が15人だったのかは書かれていない。しかし、その中の一人カレンデルはパシャの位に出世している。また、エウリヤの同時代の人で、メフメト4世の大宰相(1651年及び1656年。期間はそれぞれ数週間ずつ)アバザ・スィヤウシュ・パシャもトプハネからアバザ国へ送られた子供たちの一人であったという。また、1650年代の4人のアバザ人大宰相の4人目、イシピリ・ムスタファ・パシャは、オスマン2世のエルズルム太守であったアバザ・メフメト・パシャの姉妹の息子で、叔父の側近の仲にいたというから、出生地と幼時の経歴は不明だが、2世官員の中に入れていいであろう。エジプト・マムルークのように、無経験のまま任用されていきなりパシャになることはなかったが、オスマン朝のパシャの息子たちは、デヴシルメを経験せず初めからある程度の昇進を約束された人々であったのであろう。

エウリヤは子供たちを里親に育てさせることを古い習慣であるとしている。19世紀に至るまでコーカサスの西部には、子供を親の手元では育てず、養父母の下で育てる習慣があった。養父は常に実父より低い身分が選ばれた。養父も実子は下の身分の家庭を選んで里子に出した。養父は通常の政治的枠組みを超えて選ばれることもあったので、子供の養育を中心に一種の社会的ネットワークが形成された。これが、アタルイク制である。生家に帰った子供たちの養父母との関係は一生続く。逆に実父との関係は薄いとも言われる。子弟扶養の一類型であると共に、個人間のネットワークを通じて無国家社会における社会関係を広げる働きをもっていたと判断することができる。

他の捕虜の児童たちとともに、スルタン・アフメトに献上されたメレクを見たスルタンは、彼の美貌に驚いた。「彼の姿は天使のようだ。彼の動作は妖精のようだ。上品で、顔はバラのようだ。彼の歯は隠れた真珠、彼の言葉は耳に心地よい。彼は美と気高い優美さの頂点に上りつめている。彼の目は鹿の目のようだし、言葉は甘く、彼の顔は輝き、満月のような男の子だ!」。そこで、彼は、メレク(天使)と名付けられた。エウリヤの母についても言うと、同じ日にスルタンは廷臣に子供たちを下賜したが、デルビシュ・メフメットにはエウリヤの母を与え、「偉大なるアーよ、お前は老人だが、神様の思し召しがあれば、この少女から天使のような、世界を飾る息子を持つだろう」と思し召した。

メレクの父親は、軍事奴隷(gulam-feta)として1517年のエジプト征服に従軍し、オスマン朝に降伏したオズデミル・パシャ(1561年没)の護衛隊長を勤めた。パシャの死後は息子オズデミルオウル・オスマン・パシャに従って対サファヴィー朝戦争に従軍した。1578年にダゲスタン平定後現地で除隊になり、ダゲスタンからサジャまで旅した。ここで同族の歓待を受け、男女70人の奴隷を贈与されたが、メレクの母親はその一人であった。メレクの父は本隊に復帰せず、直接ソユクスから帰国した。メレクが生まれたのはトプハネのようだが、父は後にフンドクルに居を構えたので、メレクの屋敷もフンドクルにあった。フンドクはヘーゼルナッツの意味だから、そのあたりにヘーゼルナッツの林でもあったのだろうか。

メレクの父親が、1517年の対エジプト戦争と1578年の対イラン戦争の両方に出陣するとは信じがたいが、その結果メリクの父親は140歳まで長寿しなければならないことになる。また、エウリヤの父方の祖父もスレイマン大帝(在位1520-1566)の晩年の遠征に従軍したという。エウリヤの生年(1611年)を考えるとありえないように思われる。エウリヤは時間の概念が曖昧なのだろうか。更に不審であるのは、メリクは自分の老父を大変尊敬し、エウリヤもメリクの意を汲んでいるのだが、その人の名前を書いていない。尊敬する人物の父の名を知らないということがあるだろうか、イスラーム社会で恩義ある目上の人物をその父親の名で呼ばないということがあるだろうか。セイディ・アフメド・パシャを誘拐した同族の名はちゃんと覚えているのに。更に、アタリク制の中では実の父親よりも強い結びつきがあったはずのメレクの養父(アタルイク)の名前も部族も記されていない。筆者はメレクの父親に関する物語は、まったくエウリヤかメレク自身の創作だと疑っている。本人が言うことくらい怪しげなものはないことは誰でも経験することではないか。メレクとエウリヤの母はソジャ族ではあったかもしれないが、自分の家族に売られたか他人に誘拐されたかして、イスタンブルに連れてこられたのではなかろうか。飽くまでも筆者の空想だが。なお、根拠不明だがメリクの父親はグルジア人の水夫であるという説もある。

オスマン朝では14世紀、購入した奴隷や戦争捕虜によって歩兵部隊を編成したが、14世紀末あるいは15世紀初めになると、支配下に入ったバルカン諸国の農村でキリスト教徒の優秀な少年(通例、7-8歳から10歳程度)の徴用を行った。イスラーム法によると臣民はキリスト教徒であろうと法で定まった税を滞りなく納める限り、生命財産の安全は保障されなければならないので、この制度は違法であるか、拡大解釈かであろう。しかし、それにも拘わらずこの制度は帝国の勢力拡張に大いに有効となった。その結果、同世紀後半にはバルカンだけでは必要な人員の確保が難しくなったので、徴用年齢を引き上げたり、対象地域をアナトリアに広げたりした。少年たちは農業労働者、宮廷の奉仕者(イチオウラン)、軍人などに振り分けられたが、全てカプクルと呼ばれた。人数は概数で、メフメット2世(1451-1481)期のある時に1.5から2万人、1568年に6万人、1609年に10万人だったが、イスタンブルの人口の少なくとも5分の1がスルタンやその他高位権門の人々の奴隷であったという(ハリル・イナルチクによる)。彼らから編成された常備歩兵がイェニチェリで、文武の高官はほとんど例外なくカプクル出身者であった。子弟の供出を強制によってではなくではなく自発的に登録したり、対象外の地域・民族であるにも拘わらず出自を偽ったりするものも現れた。当初、カプクルの子弟をカプクルに徴収することは禁じられていたが、16世紀後半からカプクルは身分の世代継承を図って策を弄し、不法に子弟の登録を画策するものも現れたるようになった(三沢伸生『岩波イスラーム辞典』)」。そこで、「軍事と行政に割り当てることができる人的資源を拡大することを試みて、スルタン・アフメト一世(1590-1617)は次第に、アブハジア、チェルケシアおよびコーカサスのその他の地域から徴募された軍事奴隷に頼っていった」(三橋富士夫)ので、結果としてカプクル制は16世紀末から17世紀初めに崩壊し始めた。徴用の命令が最後に発布されたのは、1703年である。

チェルケシアの西部、グルジアのメグレリア、イメレティア、グリアは属国であったので毎年の貢物としてオスマン朝廷に少年少女の奴隷を納めていた。沿黒海地方のアブハジア人はオスマン帝国に服属してはいなかったので、彼らの子弟は購入されたか、あるいは贈与された。エウリヤ自身が述べているのは、「アバザ人にはスルタン・スレイマンの時代から服従していた17の部族があって、彼らはその印として、毎年トレビゾンドの太守に少年少女、樟脳、ろうそく、マント、王宮の厨房用の数千枚の荒い亜麻布を献上していた。太守は毎年彼らに対する保護条約を更新していた。ミングレリアからは、毎年使者が来てトレビゾンドへ、スルタン・シュレイマーンのカーヌーン・ナーメに決められた貢納を収めた」とする。アバザ17部族には、トルコとの何らかの関わりはあるにしろ、エウリヤ・チェレビのソチの旅の記録を見ても、オスマン朝の支配権を反映するものは何も無く、アナパまで行ったチェレビはここに強力な軍事基地を設ければアブハジアの支配は容易であると進言している。更に、山のアバザ族はスルタンに従っていないとも書いている。また、前節で紹介したシャルダンもアブハズ人はほんの数度しか貢物を納めたことがないと書いている。上の引用文は19世紀のオーストリアの東洋学者ハンマープルグシュタルの訳文による重訳であるが、ロシア語とグルジア語訳、最近見付けた原文では、エウリヤは17部のアバザ人がスルタン・スレイマンの時代に服属したこととメグレリスタン(西グルジア)とギュルジスタン(東グルジア)が服属の結果貢納を納めるのは別の文である。アバザに関しては私の手元にある文献にはソチ地方で蝋燭を製造したり、亜麻布を織っていたという記録は無い。ただし、材料の蜜蝋と亜麻は特産物で、亜麻だけでなく麻も栽培されていた。また、スフム地方では、綿が栽培されていて、紡績車や織機の遺物が発見されており、18世紀の末には、毎年アブハジアから大量の綿糸がスミルナと、サロニカに送られていたという証言も残されているので、蝋燭も布も貢納が可能であったろう。

パシャの位に就いた高官では、スィヤウシュ・パシャがトプハネに住み、アブハジアで幼時をすごしたのであるから2世組である。シディ・アフメットは捕虜から起家した。彼には息子メフメト・ベグがいた。エウリヤ・チェレビの母の従兄弟で、エウリヤの庇護者だった大宰相メレク・アフマド・パシャは、軍人であった父親がスルタンに献上した。メレク・アフマド・パシャは、生年1588年没年1662年である。生年には1604年説も見受けられるが、1604年ではエウリヤ自身が述べているデルヴィシュ・メフメトの家族の歴史が成立しない。メレクの父親自身の登用については述べられていない。メフメトには息子イブラヒム・ベグがいた。ただ、ここで多少とも経歴が明らかになるのは、政府機関にリクルートされて王朝に仕えた人々だけである。先に引用したシディ・アフメト・パシャ、メレク・アフメットの氏名不詳の父親、アバザ・ハサン(アナトリアのジェラーリーの反乱に加わった)、メレクの家臣は大部分がチェルケス人、アブハズ人、グルジア人で、なかでも、アバザ・メルシャン・ユスフ、アバザ・アルト・アリー、アバザ・カムシ・ヴェリ、カムシュ・メフメト・アガ、アバザ・ジェンベリ・アリなどの名前が残っている。皆、ソチの人々である。この中でもユスフはメルシャンと呼ばれていたが、王侯であるマルシャン(アマルシャン)家は、大アブハジアからサヅエンに至る山地に広く勢力を広げていて、19世紀では、ムズィムタ上中流に住む人々の領主であった。彼ら個々の来歴は不明であるが、通常の奴隷売買の事例は、第3章で述べたブルサの売買代金のローンに関する登記文書や所有関係にかかわるガラタの登記文書に見えるようなものであろう。しかし、これがどれほど宮廷に拘わるかどうかは不明である。最も重要であると思われるのは貢納や捕虜によって官庁に納められる少年少女で、それについては既に述べた。

アサビーヤ(郷党意識)

メレク・アフマド自身、家の中に多くの同郷人をかかえていた。彼はスルタン・ムラトの皇女「カヤ・スルタンと結婚する前およそ800人の購入した少年奴隷を抱えていたが、彼らはほとんどアブハズ人、チェルケス人とグルジア人のゴラームで、彼は自堕落で無作法なウクライナ人(?)やロシア人の奴隷は使わなかった。仮に一人贈呈されることがあれば黙って受け取り、下僚に贈与した。これは、メレクの家産にのみ拘わることではなく、公務にもかかわることであったので、持続的に選択購入できるシステムが形成されていなければならない。エウリヤが書き残したメリク・アフメトの業績をたどって見ても官人の家政機関は同時に彼の官房あるいは軍団司令部でもあったようだ。イスピル・パシャが宰相に就任した時、祝辞を述べに行ったエウリヤにパシャは、「お前も我々の人間なのだから、時々顔を出すように」と言ったという。また、キョプルル・メフメット・パシャが宰相であった時、メレク・アフメトに同種族のアバザ・ハサンの反乱討伐を命じられれば、命令を受けるかどうか尋ねたところ、メレクはしばらく考えて、拝命すると答えたという。この二つの挿話は、郷党意識はあっても、それが政治的党派のようなものには発展しなかったということであろう。彼らが同郷の権門に購入され奉仕した人々はやがて、主家から自立して、あるいは主家の断絶や没落の後は、新しい主人を見つけたり、自分の生業で身をたてていくであろう。彼らは大都市イスタンブルの街区の家並みの中に個々に埋没したのではなく、主家にあっては多くの同郷人と共に働き、その後は同郷人の多い地区に家を構えたのであろう。そして、その中で、祖国との交流の中にビジネスチャンスを見出したり、あるいは帰郷してしまったものが、エウリヤ・チェレビの記録の中にトプカプのアバザ人として書き残されたのかもしれない。

家族の連帯 トプハネに住むアバザ人は、故郷と戦略的交流関係を保っていた。第1は北コーカサスに広く行われていたアタリク制と呼ばれるによってであった。第2は奴隷の売買・贈与の名目による呼び寄せであった。この交流によって、カプクルの再生産が可能であるとともにイスタンブルとコーカサスにまたがる家族の血縁的関係も維持された。メレク・アフマド・パシャとエウリヤの母が同じ時にスルタンに献上されたのは、高級軍官であるアフマドの父親が意図したものであるということができる。従って、しばしば高級軍人や文官は閥族を形成することができたのである。

エウリヤの記すところによるとメレクの父親はイスタンブルにコーヒーを流行させたことで有名なイエメン総督オズデミル・パシャの甥(姉妹の息子。年1561年)だった。メレクの母親は父がサジャで贈呈された奴隷達の一人であったが、筆者の手元にはオズデミル・パシャの父親の情報はない。しかし、このオズデミル・パシャはエジプトのスルタン・カンスワ・アル・ガウリ(1501-1516)の甥(兄弟の息子)であるというから、ガウリもスルタン・バルクーク同様郷里から呼び寄せていたか、初めから彼と渡航を共にしたのかであろう。一族がオスマン朝とマムルーク朝に分かれて、政府の上層部にあったことになる。オズデミルは、スルタン・トゥマン・ベイ(1516-1517年)の刑死後、オスマン朝に帰順して高位の軍人に取立てられたが、メレクの父もエジプト遠征時代宰相の会計責任者だった。オズデミルの任用に無関係であったとは思えない。オズデミルの息子(オズデミルオウル・)オスマン・パシャも有能な将軍として、西イランや東部コーカサスを転戦している。ララ・ムスタファ・パシャのイラン遠征軍に加わり、1578年にはアナトリア北西部のチルディルの戦いで一軍を率いた。ムスタファ・パシャ帰国後は征服地の総督に就任、1582年カッファのセラスケル、ジャファル・パシャの増援を受けて、1583年ダゲスタンのバシュテペでサファヴィー朝軍を撃破した。この戦争に際してクリム汗、メフメトは1579年夏北コーカサスに増援部隊を送ったものの、秋になると撤退したので、戦況は一時オスマン朝側の不利になった。パシャはベシテペ会戦の後、クリミアに向かい、メフメト2世を退位させてから、イスタンブルに凱旋した。この功績によって1584年、大宰相の位に進んだが、在職1年で死亡した。メレクの父がソチの郷里に赴いたというのはこの時のことである。アブハジア人やチェルケス人のカプクル出身者は、郷里、トルコ、エジプトにまたがる家族的ネットワークを持つこともあったのである。やがて、これはトプカピ宮殿の中までも広がっていく。

第4節 スルタンの母になったソチ娘

イタリアが少女奴隷の消費地としての力を失った後、それに替わって大きな消費地が成立

した。東地中海と黒海沿岸を掌握した後も、更に領土を拡大していったオスマン帝国だった。1750-1762年間にチェルケス地方とアブハジアの商業調査をしたペイソネルは、「トルコのスルタンのハーレムの女性がほとんどチェルケス人であることは、よく知られている。チェルケス人の少女は美貌の点で高く評価されているので、その結果非常に高価である」と論評している。アブハズ人とグルジア人はそれに次ぐ評価を与えられている。また、1790年代にトルコ、エジプト、イランに調査旅行を行ったフランス人ギヨーム・オリヴィエは「東洋中で、コンスタンチノープルに連れて来られて、若い年頃でそこで売られるグルジア人とチェルケス人女性の奴隷の美貌は、口を極めて賞賛されている」と述べ、「コンスタンチノープルの市場におけるこれらの奴隷の値段は、あらゆる商品と同じく、人数と買い手の数によって決まる。普通の値段は500から1000ピアストル、すなわち1000から2000リーヴルである。しかし、まれに見るほどの美貌の女奴隷であれば非常に高い値段になり、金持ちの大部分はそのような奴隷を自分が手に入れるためにはどのような金銭的犠牲も受け入れる用意があるので、買い手本人は姿も見せる必要もなく取引される」と補足する。ピアストルはオスマン帝国の通貨でクルシュとも呼ばれる銀貨である。リーヴルはフランスの通貨で、イギリスのポンドと同じ価値である。彼女たちはアナパやスフミから、あるいはソチのどれかの港から船に乗せられ、トプハネやガラタの波止場に上陸する。特に美しく、さらに才能もある者は、通常の奴隷市場を通さず、オダリスク養成のための特別の施設に収容され、皇帝、皇族、高官の妻妾にふさわしい教育と躾を受ける。現代の歴史学者レスリー・ペアースによると、そのような施設は「宮廷の召使にとっての訓練の場所だというのが最も適当である。若い女性はスルタンのために適当な側女、母后やその他のハーレムの身分の高い女性のための付き人を提供するという目的だけでなく、文武の官人組織の高位に近い人々(最も高い地位にある官人はオスマン家の姫君か、彼女たちの娘たちと結婚することになっていた)に似合いの妻を提供するという目的のために訓練された」。

「アスル・バザル」(奴隷市場。この場合には固有名詞である)は、「エウリヤ・チェレビによると、ここでは当時2000人もの人々が、警備員・門番・徒弟および7店の女性経営者を含む39店の奴隷商、17店の行商業者が集まっていた。エウリヤは不思議なことに、ここの奴隷商は全てユダヤ人であると断定しているが、実際に残されている奴隷商の氏名はすべてイスラーム教徒のものである(アラン・フィッシャー)」。そもそも、スルタンの勅令によって、スンナ派イスラーム教徒をユダヤ人、キリスト教徒、シーア派イスラーム教徒に売ることは禁止されていた。勿論、イスラーム法理念すなわちシャリーアではイスラーム教徒を奴隷にすることは非合法であったが、実際にはおこなわれていた。例えば、19世紀半ばのカイロで所有者の子供を出産した奴隷が、自分は所有者の子供の母親なので、転売は違法であると提訴したうら若いチェルケス人女性がいた(シャムスイギュル案件)。当時チェルケス人は形式的には全てムスリムであったし、彼女がオスマン語あるいはアラビア語で(残された調書はオスマン語であった)審問に応じたところを見ると、また名前が宮廷女性の名乗るオスマン語の名称(シャムスイギュルは、バラの太陽という意味である)であるとすると、彼女がある程度オスマン語と家政の訓練をうけたイスラーム教徒であると判断していいと思われるが、それでも彼女の売買は妨げられなかった(エフード・トレダノ)。キリスト教社会でも同じでイタリアでも購入した女奴隷がキリスト教徒であったので、売買は無効であるとする訴訟もおこなわれた。18世紀初めのコーカサスでは、貢納として少年少女の奴隷を要求され続けることに苦しんだカバルダの王侯が、既に彼らは全てイスラーム教徒であって、もはや周囲に異教徒はいないので、以前のように奴隷を納めることはできないとクリミアのハンに抗議したが、聞きいれられなかった。この訴えに対してスルタン・シンタロオウル・シンゾ汗や、大宰相アキタル・ヨシヒデ・パシャは、そのような法解釈は空理空論であり、政治的リアリズムを欠いた学者の作文であると一蹴したというのは、このことについてであったろうか。スルタンの岳父エブ・サイド法制局長官も同意してのことであったであろう。筆者の新年の悪夢の話だが。これをイスラーム法の歪曲(「トルコ的イスラームだって!トルコのどこにイスラームがあるんだね?」というのは、日本人ジャーナリストの質問に対するあるウズベク人の答え)とみるか、『イスラーム法の変「容」』(大河原知樹氏堀江聡江氏共著の書名)かは、主観的な問題ではないであろうか。

フィッシャーは17世紀中葉の文書中の奴隷商(アスイルジ)の名称分析を試み、全員がムスリムであることを解明したが、女性の商人についてみると、彼らは、スレイマニアから来たアーリメ・ハトゥン、ヴァリ-デ・ハーヌムから来たアーミネ・ハトゥン、エトメイダンのフィルズアー地区のハンマームチュの娘サフィイェ、デニズハマム地区のルキイェ・ハトゥン、ソアンアー地区のファトマ・ハトゥン、エミンベイ地区のサイメ・ハトゥン、ソフラル地区のハイリ・ハトゥンだった。スレイマニアはイスタンブルの旧市外の1地区で、新市街からガラタ橋をわたり、女奴隷市場へ行く右手、スレイマニイェ・モスクがあるあたりである。エトメイダン(馬の広場の意味)は、ビザンツ時代の競馬場ピポドロムでスルタン・アフメト・ジャミ(ブルーモスク)の近くである。ハンマームチュは文字通りにはハンマーム(浴場)屋(所有者も経営者も)の意味だから、そこの娘サフィイェは、女奴隷を買って従業員にしたのであろうか。浴場では垢すりや、エステ全般もおこなっていたので、女性従業員は必要であった。しかし、公衆浴場はムスリムの自由民女性の職場としては不適当であると考えられていた。デニズハマムは海水浴場あるいは、海水浴場の意味だから、ルキイェ・ハトゥンは、17世紀には旧市街から南のクムカプにあったという海水浴場の経営者であろうか。クムカプはキリスト教徒の多い場所で、現在では観光客目当てのレストランやバーが多い場所である。しかも、17世紀の俗謡に「エデイルネのトゥンジャ川、ブルサの温泉、イスタンブルのクムカプで海の妖精は遊ぶ」とあるから、てっきり海水浴場と思いきや、実はエウリヤ・チェレビがイスタンブル市内の主要施設を列挙する中で、ハンマームの一つに「海軍提督(カプダン)達のためのデニズ・ハンマーム」と記録しているから、海水浴場ではないであろう。この俗諺は「ダウド・パシャの波止場の近くのデニズ・ハンマームの泉」の存在に関する歌の歌詞である(ブルチャク・エヴレンの文章による)とすると、同じ場所に関することなのかもしれない。今でも、1485年開業のダヴト・パシャ・イスケレシ・ハンマームがここで営業している。次のソフラルはファティフ区の地名である。まるでトプカプ宮殿を取り巻くように、あるいは女奴隷市場の周囲に女性の奴隷商人が居を構えていた。スレイマニアというは街区ではないから、著者の想像では、何らかの組織、例えばワクフ(公共の福祉を目的とする管財ファンド)によって運用されている公共施設群ではないであろうか。14世紀、イルハン国の宰相ラシードッディーンが創設したワクフには、200人の農業奴隷が使役されていたことをすぐに思い出すのだが、スレイマニエは建立のそもそもから奴隷の建設労働者を抱えていた。すると、ヴァリーデ・ハーヌムとはヴァリーデ・スルターン(皇太后。かならずしも生母とは限らない)で、後宮自体が貢納や贈与では不足する直接奴隷を購入する代理人を持っていたのではないであろうか。これも著者の想像である。

イスタンブールの浴場で客に応対する従業員(Thalasso A.Deri Se'et, ouSemboul Porte du Bonheur,Sceance de la vie Turque,Paris,1908)

 さて、コーカサスから買われてきたた少女たちは、直ちに労働の現場に送られるのではなかった。1842年のホワイトの記録によると、「取引が終わると、委任された売買でなければ、少女たちは投資家の家に移される。彼女たちはここで、調った衣服を着させられ、注意深く付き添われ、通例は針仕事・刺繍や家事だけでなく、読み書きとイスラーム教の原則と実践、また男の目からも女の目からも魅力的に見えると思われる様々な嗜みを教えられる」。10,000ピアストルで買われたチェルケス人の少女は、3-4年もたてば、3-40,000ピアストルで売れるようになる。中には6-70,000ピアストルになることもある。1790年代に比べると価格は10倍になっているが、インフレを考慮しなければならない。1469年を1とする消費者物価指数は、1790年代平均で24.2、1842年で189.33である(ベルメントとギュナイによる)。一方この年の為替レートは、85.76リーヴルであった(チャールズ・イサウィー)。彼女たちは市場に出されることは無く、訪問者に直取引で売られた。この年のある日、ホワイトは、友人であったトルコ人将校とそのような場所を訪れた。普通ここにはヨーロッパ人は勿論、トルコ人でも庶民には立ち入ることはできなかったが、この時、ホワイトは医者という触れ込みだった。

  ほどなくドア・カーテンが開かれ、我々の目の前には、すべるように現れた11人の少女たちが、一列に並んだ。この内三人だけが、身体的魅力にあふれていた。彼女らは皆、足が大きく、赤くて骨がごつごつした手をし、体つきは頑丈で、見かけは粗野であった。しかし、彼女たちの目は完全に丸くて表情に満ち、歯は白く並びはよかった。彼女たちの髪は豊か、体つきはのびのびとし均整が取れていた。腰周りは太かったけれども少女たちは無遠慮な目で観察されていることに慣れており、心から買われたがっているそぶり

を見せたが、ホワイトの記述した情景は、昔、映画で見たヨーロッパのドゥミモンドのサロンを思い出させる。なお、胴回り云々というのは、ホワイトがコルセットを着用するヨーロッパの女性を見慣れているからであろうが、オダリスクを題材とする西洋絵画の女性達がとてもほっそりしているとまでは、言えないことも事実であろう。

奴隷市場―コンスタンチノープル 1838年(ダヴィド・アラン筆)出典ウィキメディア。これが女奴隷市場である。画面中央左より背景のモスクは、ヌルオスマニイェ・ジャミと思われる。アヴラト・バザールあるいは女市場は、四角な建物と人の住む部分をめぐる200フィートほどの方形の場所からなっている。この建物の正面は、地面から4-5フィートも高い壇になっていて、階段で上がる濡縁になっている。内側には格子窓があり、一方には黒人と値段の安い奴隷が置かれていて、もう一方には値段の高い奴隷が、注意深い警戒の目で見張られ、また公衆の目からも守られている(ロバート・アォムとトーマス・ウオルシュ『コンスタンチノープルとアジアの七つの教会の風景』ロンドン―パリ、1838年)。

ハーレムの女性としてのチェルケス人の評判の高さにもかかわらず、チェルケス人から生まれたスルタンは、27代アブデユルハミド1世以降10人のスルタンの生母をチェルケス人であるとするチェルケス人歴史家ホトコ氏のリストを別にすると少ない。初期の母后は奴隷出身とはいえないが、手元の表から数を比べてみるとオスマン朝歴代皇帝の母親で一番多いのはギリシャ人で6人、次にイタリア人で5人、次にセルビア人、トルコ人、フランス人、チェルケス人各3名と続くが、チェルケス人3名中2名は、1人はチェルケス人かフランス人、もう一人もチェルケス人かワラキア人と言われていて、出自を確定できない。アブデユルハミト2世(在位1876-1909年。渾名はカンル、あるいは「赤い」その意味は血まみれ)の母親ただ1人が、チェルケス人であることがはっきりしている。スルタンの父帝アブデユルマジト(在位1839-1861)はある年の断食月の後のシェケル・バイラムの習慣として(アラブ人の断食明けの祭りイードをトルコ人は小祭とも「シェケル・バイラム」すなわち砂糖祭ともいう)のプレゼントに妹君から奴隷の踊り子ピリムジュガン(1823―1853)を贈られた。彼女はシャプスグ族のもので、トラブゾンの奴隷マーケットであるパシャによって買い取られ、イスタンブルに連れてこられて、スルタンの妹君に贈呈された少女だった。ピリムジュガンはスルタンの寵愛を受けることになったが、26歳の時、まだ7歳のアブデユルハミトを残して肺結核で病死した(括弧内の生没年とは合わないが)。しかし、別説では彼女はアルメニア人で名前はヴィルジャン、宮廷での称号もティリムジュガンだという。シャプスグ族のもとにアルメニア人の奴隷がいても不思議ではないが、筆者にはどちらが正しいとも判断することができない。しかし、某氏の説によると正しい名前はティリムジャンで、彼女のの伝記資料は十分に残されていて、出自をアルメニア人であるとする余地はないという。ティリムジャンの父はベハン・ベイ(子孫の伝承では、アカウ氏のベカン・ミルザ・アフメト・ベイ)、母親はアルマシ・ハトゥン、兄弟メフメト・ベイがいたという。ベイであるとするとシャプスグ人には王侯はいないので貴族あるいは別の表現では廷臣であろう。筆者はアカウ氏は、ソチとガグラにまたがる地域に住んでいたアブハズ(ジケティ)化したウブイフ人アグホウ氏のトルコ語表現ではないかと思う。彼らの聖所プスフ・ヌイハはにあり、牝牛を犠牲にしていたと回顧されている(シャルヴァ・イナルイパによる)。ここで更に重要なのは、彼女が死亡した後、アブデュルハミトの養母となり、彼がスルタンとして即位した後は、母后(ヴェリデ・スルタン)として権力をほしいままにしたラヒーメ・ピリストゥは、ウブイフ人でゴゲン・ギョク・ベイなる人物の娘であったと言われていることであろう。ゴゲンはウブイフ語の氏族名ググアンであると思われるが、ウブイフの貴族名には今のところゴゲン氏もググアン氏も見当たらないが、アブハズ人の王侯あるいは貴族の中にはググアナバ氏がいた。19世紀に有名になるアブラウ家のようにアブハズ人であるがウブイフ人地域つまりソチに住んでいた人々もいたので、ゴゲナバ氏も同様の事情であったのであろうか。なお、ググアン氏の子孫は今日もトルコの数カ村に残されている。ソチ出身の母后・皇太后が誕生したのである。

そして、そもそもソチ市の西半分シェヘ川より北西にはシャプスグ人が住んでいた。当時8集団に分かれていた海岸のシャプスグ人の内、プセズアプセ川を境にして、右岸(北西)にゴアイェ族が、左岸(南東)にはカブレ族が居住していた。アドリアノプル条約によってクバン川から黒海沿岸までの北西コーカサスは、事実上ロシアの領有するところとなり、ロシア政府は内陸部ではコサック屯田村の配置、海岸部では要塞の建設によって軍事占領を開始した。現地の人々はロシアの領有権を承認せず、実力によって占拠者を排除しようとした。オスマン政府はいつものように法的に失ったものを事実上確保する政策をとっていた。現在のソチの地域でもロシア軍要塞に対する攻撃が続いた。ここでは市内ダガムスのウブイフ人ハジ・ベルゼク、プセズアプセのシャプスグ人チシュハコが指導的立場にあった。19世紀前半黒海東岸地方の有力者とオスマン朝との婚姻関係の広がりを考えると、小シャプスグの女性が政治的理由によってアブヂュルマジドの室に入った可能性は高いと思われるが、出身地がトゥアプセであるのかソチであるのかは、はっきりはできない。

さて、古い情報、例えばサミル・ホトコ氏(ホトコ氏の専門はチェルケス史であってオスマン史ではないことを承知しておかなければならないが)のオスマン王家王母表では16世紀スルタン3人の生母の出自が不明であったが、最近スルタンのハーレムの女性達に関する新しい情報が目に付くようになった。スルタンの生母と母后だけでなく、妻妾たちの出自関連の情報が公開されている。トルコでは国営放送で『偉大なる時代』(第1集第1話はMagnificent Century,

https:www.youtubecom/watch?=v3qTUTnIN82w%list=PLzW9_-OVQ3yykCWh_hvnJ57AzDこれには

英語字幕がついている。(筋周りは多少冗漫なので、松下奈緒主演『大奥』でも代理が効くかもしれない)のような歴史に題材をとったドラマが放映されたので巷の関心を呼び、トルコ史の研究者ではない私の目にも届くようになったのかもしれない。

マヒデヴランの肖像 出典ウイキメディア。ただし、この絵のモデルがマヒデヴランであるという証拠は不明である。

スルタンの母ではなくとも、スルタンの後室に入って、政治に大きな影響を与えた北西コーカサス出身女性は多い。その内、気の毒な事情から最も有名であるのはマヒデヴランだろう。シュレイマン1世の妃(カドン)でメフメト王子の生母であるマヒデヴラン(1498-1581)は、以前はギリシャ人ともチェルケス人とも言われていたが、実はクリム汗メングリギレイの娘ナジャン・ベグムとチェルケス人カバルダの王侯イダル・ムルザ、即ちムスリムの伝統ではミルザ・アブドゥッラーフ・ハイダル・ベイの娘であったという。マヒデヴランの異母兄弟は、イダルの息子テムリュク公で、チェルケス人諸公家の伝説上の開祖イナルの曾孫にあてられている。アゾフ海岸の港町テムリュクはこの君侯の名前に因むものだという。テムリュクの娘クセニヤあるいはチェルケス名ゴシャネイがモスクワ大公イワン雷帝の2番目の妃マリア・チェルカッスカヤで、マヒデヴランの叔母にあたる。マヒデヴランにはアルバニア人カラギョズ・アフメト・パシャ(1553-4年に大宰相を務めた)の妻であったファティ(ファティマ)・シャフデヴラン、アキレ・リュフシャフ、ベルキス・ヒュスヌマフ・ハトゥンの三人の妹がいた。また、兄弟ビトゥ・ムルザがいたが、彼はムスタファ・パシャとも呼ばれオスマン朝廷に奉仕していた。ビトゥには娘ムフスィネがあり、カラギョズ・アフメト・パシャに嫁いでいる(一般論としては、彼女の叔母ファティがアフメトの妻であることとは矛盾しない)。しかも、スレイマンの父セリム1世はメングリギレイ汗の娘アイシェ・ハフサ・ハトゥン(スレイマン自身、2人の皇女ベイハン・スルタンとシャフ・スルタンの母)を娶っていたから、そもそも両朝には特別な関係があったことは明らかである。シュレイマン大帝はカッファのベイレルベイを勤めていたことがあり、メングリギレイも一時チェルケス地方に亡命していたのだから、オスマン王家がクリム汗家やカバルダの諸公家と通婚していたとしても不思議ではない。イダルは、他には北コーカサスのアバザ人であるアバズィン人の王侯ルーヴ家の女性と結婚しているのは、両家の領地は近接し、ロシアとの関係でも共同歩調をとっていたからであろう。また、テムリュクの娘の1人はノガイ・オルダに嫁いでいる。イダル家はモスクワと、クリムおよびオスマン、ノガイ等と多元的外交を実施していたことになる。ただし、マヒデヴェランは長男ムスタファを生んだにも関わらず、法律的に正式な皇后であるロシア人あるいはウクライナ人のヒュッレム(セリム2世の母)との抗争に敗北した。歴史ロマンの世界でも政略結婚のマヒデヴランは、恋愛結婚のヒュッレムの前にしては分が悪いようである。

         

  オスマン王家・クリムハン家・カバルダ公家の婚姻関係略図

スレイマンの孫の時代、16世紀末のメフメト3世のハーレムではヴェネティア人のサフィイェが皇太后として、ギリシャ人のハンダンが王子アフメト1世の生母として権力をふるっていたが、アバザ人のアリメ(アルトゥンタシ)も王子ムスタファを生んでいる。彼女はアブハズ人ショロフ・ラクルバの娘であるがラクルバ氏は、アブハジアの大公であるチャチュバ家の家臣であった。家格は公で、一族の種々の分家がアブハジアの各地に領地をもっていた。アブハズ語の姓ラクルバとトルコ語の身分ベイを併せて、ラクルベイとも称していた。アクジ・ベイの娘であるとされるが、アクジがアブハジアのどこの領主であるのか、オスマン帝国で軍務についていたのかは、知られていない。しかし、残念ながら、ソチに関係はなかっただろう。彼女は前節に述べた、1651年に相次いで就任した3人のアブハズ人宰相スィウシュ・パシャ、シディ・メフメト・パシャ(ソチ出身)、メリク・アフメト・パシャ(ソチ出身)の前の世代の人である。ところで、次の世代ハンダンの生んだスルタン・アフメト1世のハーレムにはマフフィルズ・ハティジェ・スルタン(スルタン・オスマン2世の母。ヴァリアフデ)がいたが、彼女はマヒデヴランの兄弟ムスタファの息子アフメド・ベイ、その息子アリ・ベイ、その息子アルカス=ムルザの娘であるというが、アリムの姉妹ファリダとアルカスの間に生まれた娘であった。

これより少し時代を遡ると、スルタン・ムラト3世(1574-95年)の後宮にシェムスィルフサル(ロハン)がいたが、カバルダのプシェアプショコ公の娘で、チェルケス人の伝説の祖先イナルの子孫ではあるが、イダル家とは別系統の子孫カイトゥク家の出の者だった。カイトゥク家はカバルダの大公の位を巡ってイダル家と競争関係にあった。イダル家がモスクワ、クリム、オスマン各国の君主に娘達を嫁がせたので、カイトゥク家も娘をオスマン家の室に入れたのであろうか。彼女は皇女ルキイェ1人を生んだだけであったから、彼女の存在が郷里の権力闘争にどんな影響が及んだかは不明であるが、イダル家の後でカバルダ大公に選ばれるのはカイトゥク家である。

 チェルケス人、アブハズ人、グルジア人の乙女がスルタンの妻妾としてだけでなく後宮の女官、富貴権門の妻妾の候補者として好まれたので、毎年多数の少女が購入されて首都に運ばれる状況が長く続いた。ホワイトは、毎年到着する少女の人数は500人であることをトプハネの業者から聞きだしている。ところが、19世紀になると状況は一変する。ヨーロッパ列強はオスマン政府に奴隷制の廃止を要求するようになった。これまで述べてきた宮廷や上流階級のハーレムだけでなく高貴あるいは富裕なイスラーム教徒の家庭が必要とした家事使用人は、自由人のイスラーム教徒女性には希望するものがなかったので、広く奴隷女が求められてきたが、西欧諸国の要請を入れたスルタン・アブデュルメジトは、1847年首都における奴隷市場の閉鎖を命じた。さらにイギリス政府は黒海におけるグルジア人、チェルケス人奴隷売買の禁止を求めたので、1855年1月30日、オスマン政府はチェルケス人とグルジア人奴隷の売買を禁止した。バトゥムの軍司令官は、直ちに大ヴェズィルに当てて「グルジア人奴隷の売買はほとんど完全に抑えたが、チェルケス人に関しては、チェルケスにおける政情の不安定と黒海の冬の悪天候により実効は限定的であると報告した。黒海各地では英仏露土の巡洋艦が奴隷交易を監視したが、ある英国船艦長はオスマン側には熱意が見られなかったと報告した。オスマン側はイギリスの強硬主張には屈したものの、自分たちの子弟の将来の花嫁たちの道を閉ざす気持ちもなかった。一方、ロシアはコーカサス戦争の最中で、敵の子女が売られていくことには、何の異存もなかった。ロシアが神経を細かくしていたのは、むしろ武器の密輸入と西欧人コマンドの潜入であった。こうして、哀れな子供たちは小さな帆船で黒海の大波を乗り切らなくてはならないことになった。

  ロシア沿岸警備隊の臨検に抵抗する奴隷商人(グリゴリー・ガガーリン1810-1893『絵のようなコーカサス』1847年から) 右側警備隊の小舟の乗員はチェルケス風軍装の一名を除くと、ヨーロッパ風の軍装を着用している。原著につけられた説明は、「黒海。密輸船を攻撃するアゾフ・コサック」であるが、アゾフ・コサックは、1832-1862年間設置されていたコサック軍で沿岸警備を主任務としていた。

『ニューヨーク・デーリー・タイムズ』1856年、8月6日(『ロンドン・ポスト』特派員報として)は、クリミア戦争停戦後、「最近、異常に多くのチェルケス人をコンスタンチノープルの町々で見かける。彼らの多くは疑うことなく、自分の国をスルタンの主権の下に編入されるようにオスマン政府に請願に来た使節団の一部である。しかし、今首都にいるチェルケス人のかなりの部分は、政治とはまったく別の果たすべき使命を帯びている。彼らはしばらく前から市場に溢れているチェルケス人少女の多くの集団の処分を任された奴隷商人である。チェルケス人の商人たちは、ロシア人がコーカサスの海岸を再占領すると白人奴隷の取引は終わると見越して、和平交渉開始以来、可能な間にできる限り最多のチェルケス人女性をトルコに連れてくる努力を倍加した。彼らはオスマン政府の売買禁止と黒海の女王陛下の多数の艦船の存在にもかかわらず、うまくやったが、その結果、おそらく、以前のどの時代よりも、今ほど白人の肉体が安いことはなかった。市場には完全な過剰が生じ、多くの場合英国旗を揚げた汽船によってもたらされた人数があまりにも多いので、商人は自分たちの商品を投売りしなくてはならなくなった。以前まあまあ良いチェルケス人の少女は、100ポンドでは安いと思われていたが、今では同じ品書きの商品は、5ポンドにしかならない。事実、この奴隷たちは採算割れであり、恐れてはいても、どんな値段ででも処分しなければならない。この恐ろしい政治的、人道的、キリスト教的なあらゆる反対にかかわりなく、トルコ人の注意を引かざるを得ないくつかの実際的な事柄がある。値段が安くなったので、低い階層の人々も市場へ足を運ぶようになった。以前ではチェルケス人女奴隷は確実にいい家に買われ、いい待遇をうけた。それどころかしばしば身分と富が待ち構えていた。しかし、現在では値段が安いので、以前は奴隷など考えもつかなかった卑賎の輩に連れて行かれるのである」。

18世紀のオリヴィエの言う価格とロンドン・ポスト特派員の以前の価格とでは、1000リーヴルすなわち1000ポンドと100ポンドで、既に10分の1の価格低下があるが、奴隷の値段の統計的平均値のようなものはない。公権力は奴隷の価格にかかわらないためで、結局業者や事情通に質すしかない。トレダノの研究によると、特派員より10年ほど前、1843年の旅行記では、美しくて若い、教育を受けた奴隷は首都で2万から3万クルシュで売買された。トレダノは1ポンド対110クロシュで計算している。1856年の100ポンドとは約2倍の開きがある。それにしてもチェルケス人商人が直接イスタンブルの市場に連れこんだ5ポンドの奴隷は、家事や教養の訓練が行われていない女性であろう。価格差自体には意味がなく、オスマン社会のハーレム制度を無視した売り手が現れたことが新しい状況をもたらしたのであろう。

巷間におけるコーカサス出身奴隷の大量供給はスルタンのハーレムの女官にも及んでいた。アブドゥルメジト1世から、メフメト6世までの、64人の妻妾(1835年―1921年)中、チェルケス人15名、ウブイフ人9名、アブハズ(アバズィンを含む)人29名、グルジア人8名、その他3名。ソチ出身のウブイフ人9名中6名については出自が明らかである。最近まで、スルタンの妻妾の中で確実にチェルケス人であったとされていたのは、最後のスルタンにしてカリフであったメフメット6世ヴァファディンの母ヘンリエット(あるいはヘンリエッタ)であった。しかし、最近では、ヘンリエットはアブハズ大公シェルヴァシヅェ家の娘であったという説が出されている。アブデユルメジト1世のハニム・エフェンディ・アイシェはディシャン村の公ディシャン家の娘(母親はアブハズ公チャチェバ=シェルヴァシヅェ家の出)、同じくハニム・エフェンディのナフィエはダガムスのベルゼク家の娘(母親はアバズィンのドダルク公家の出)、前述のラヒメ・ググアン、アブデュルアズィズのカドン・エフェンディ・ネスリンは、ルーのゼプシ家の出であった。これら以外にも、ヴォズデン氏(この場合には固有名詞)1名、ヴォチベ氏子女2名が入内しているとも言われる。チリクバの『ウブイフ人姓氏事典』では、ググアン氏はカララルチフトリギの村々、ウオズデン氏はエニキョイ、ヴォチュバ氏はウズンタルタ等の村々に現住である。当時の社会的身分は不明であるが、いずれにしろ、彼女たちはソチ出身なのである。なお、アブハズ人からもアブドゥルアズィズのカドン・エフェンディ・エダディルは、アドレルのアレドバの公の娘(母親は恐らく、ソチのアウレバ公家の者)だから、同じくソチ出身である。ピリムジャンが生んだ息子アブドユルハミト2世のカドィン・エフェンディ・ナズィケダーは、ツァンドリプシュの公ツアンバ家の娘であるが、ここはソチの川向の北アブハジアである。これら64名中、過半数は王侯か、廷臣身分のものの子女であったことが確認できる。出自のはっきりしているもの64名ということだが、出自がはっきりしているとは、王侯貴族の子女だということである。19世紀にオスマン朝スルタンのハーレムは、親族関係のあるチェルケス人、アバジン人、アブハズ人の王侯貴族の娘たちのサロンのようになって、その中でもまとまった人数のソチ出身者がいたのである。これは19世紀ロシア・オスマン関係、チェルケス戦争、コーカサス戦争、クルミア戦争を反映しているのであって、奴隷制の問題ではない。

さて、チェルケス人の王侯貴族の娘を妃にしていのは、オスマン帝国とクリム汗国、モスクワ大公国だけではなかった。これら諸国と対立あるいは緊張状態にあったイラン・サファヴィー朝も同様の事情にあった。サファヴィー朝で最も有名なチェルケス人は、第3代国王タフマースプ1世の妃(スルターン・アガ・ハーヌム)の兄弟シャムハル・スルターン一族であった。タフマースプが死亡し、姪である皇女ペリハン・ハーヌムが、弟たちの内、イスマーイールを支持して、チェルケス人ゴラーム(奴隷、奴隷出身軍団兵やそれに起源を持つ軍事組織の自由身分兵員)とサファヴィー朝軍の本体を構成するトルコマン部族キズルバーシュ諸集団の大多数を味方につけ、グルジア人ゴラームとキズルバーシュ中のウスタジルとシャーフセヴァン、ターレシュ地方の領主を頼むハイダル王子擁立派と対立すると、手兵を率いて首都(当時は現在の首都テヘランと北西部の大都市タブリーズの間のカズヴィーン)を制圧した。短いイスマーイール2世の治世期(1576-1578年)とイスマーイール没後の国王空位期間、ペリハンの権威とスルタンの武力が国家権力を担っていた。しかし、これもペリハンの兄弟である半盲のムハンマド・ホダーバンデが即位するまでのことで、イスマーイールが死亡し、ムハンマドが即位するとペリハンは身柄を拘束され、後に絞殺された。スルターンも姦計にあって逮捕、殺害された。ところが、実のところ彼らはチェルケス人ではなく、ダゲスタンのカーズィー・クムイク・シャムハル国の支配者の一族の人々であった。16世紀ダゲスタンの北部には、カーズィー・クムイク・シャムハル国があって、トルコ語話者のクムイク人(モンゴル系カルムクイ人とは別)、ラク人、ダルギン人の住む地域を支配していた。主邑はラク人の住む内陸のクムフであった。この16世紀の地域大国の自己求心力は、1577年のチョパン・シャムハルの死後、弛緩の方向に向かい、1635年のハイダル・シャムハルの死後分解した。ロシアはクムイク人が多く住む、今日のダゲスタン共和国首都マハチカラ地方の海岸部にあったタルキの政権を支持した。20世紀の著名な映画監督『僕の村は戦場だった』(原題『イワンの少年時代』)や『サクリファイス』等のアンドレイ・タルコフスキーはこの王家の子孫である。ダゲスタン人がチェルケス人と呼ばれるのは、サファヴィー朝にダゲスタン南部のデルベントより北に住むコーカサス固有の諸民族は実際の種族的帰属にかかわりなく全てチェルケス人と呼ばれていたのである。サファヴィー朝の前身であるアルダビールに本拠を置いていたサファヴィー教団は、度々ダゲスタンの「チェルケス人」のもとにジハードを仕掛けたが、王朝の創始者シャー=イスマーイールの祖父ジュナイド、父ハイダルは、そのような戦いで敗死している。勿論、ジハードはキリスト教国のグルジアに対しても行われ、降伏したグルジア王はサファヴィー朝から要求される男女の奴隷を貢納するために、北コーカサスからチェルケス人の奴隷を購入せざるを得なかったし、また外寇の際には、チェルケス人、オセット人、イングーシ人、チェチェン人等の傭兵を導入することもあったので、グルジアを経て、サファヴィー朝の宮廷には少なからず本当のチェルケス人も奉仕していたであろう。

ペリハン及びその叔父に次いで著名なチェルケス人は、シャー・アッバース大帝の暗殺を試みたとして、王子自身によって1614年に処刑された狩猟長官ファルハド・ベクであろうか。彼は同族の誼で大帝の長子ムハンマド・バーゲル・サーフィー・ミールザーの妃の1人ディリアラム・ハーヌムを介して、ミールザーに近づくことができたというが、妃とベグは親族であったのではなかろうか。大帝はこれを大帝を暗殺し、ムハンマドを擁立しようとする政治的陰謀であると判断した。ファルハドは処刑され、王子自身も翌年チェルケス人ベフブード・ベクによって私的な報復を装って殺害される。王子自身の母もチェルケス人であったとも言われる。彼らもまた真の出身地は不明であるが、大帝の后紀の1人にダゲスタンのカイタク=ウツミ国のルスタム汗の娘がいたので、母后は本来のチェルケス人ではなくカイタクであるかもしれない。シャー・イスマーイールの父ハイダルが落命したのは、実にここであった。

 テレージア・シェーリー

更にアッバース大帝期のもう1人の、世界的に有名なチェルケス人は、大帝のイギリス人軍事顧問で、イランの利害を代表する外交官でロビーストだったロバート・シャーリーの妻テレージア(あるいはテレサ)・サンプソニアであった。カルメル派修道会の記録によると彼女は大帝の妻妾の1人の兄弟エスマーイール・ハーンの娘で、墓碑銘に拠ると父は「チェルケス人の君公サンプフ」であった。チェルケス人の男性名「シュマフ」(「幸福を導く騎士」の意味)の音訳かもしれない。イスラーム教徒は改宗できないので、彼女は元来ギリシャ正教徒であったものが、カトリック布教団の教えに従って改宗したのであろう。17世紀チェルケス人の間には中世のカトリック布教団の結果であるキリスト教信仰が僅かに残っていたのかも知れないが、カバルダ内部の熾烈な権力闘争に敗北し、ツァーリに臣従してロシア領に移住した人々は、正教を受け入れていたし、また、ダゲスタンの西部にも12世紀にグルジア人聖職者が植えつけていた正教が信じられていた。しかし、今のところ、テレージアが本当のチェルケス人(西チェルケス人あるいはカバルダ人)なのか、ペリハンの場合のようにダゲスタン人であるのかは、不明である。決定的手がかりは、テレージアと彼女の父の名前の分析であるが、父親が本当にハンの称号を持っていたとするとダゲスタン人の可能性がある。本書では、3種類のハンが登場する。第一はチンギスハンの子孫のみが証することのできるハンで、クリミアのハンがこれである。第二に、トルコ人の伝説的祖先であるオグズ・ハンの子孫であるオスマン家のハンである。第三にサファヴィー朝のトルコマン部族軍の指導者や地方太守級の人々の称するハンである。ダゲスタンの支配者たちが称するのはこれである。本来のチェルケス人は、第1、第2のグループには属さないし、対オスマン、クリミア関係上僭称することも不可能であった。さらに、チェルケス人はサファヴィー朝の支配下に入っていなかったから、イランで昇進する以外には、第3グループのハンの称号を与えられることもなかった。また、オドリスコルに拠るとアッバース大帝の妻の中には、ロスタム・ハンの娘のほか、他にダゲスタンのタバサランの君主マスミの娘がいた。16世紀南ダゲスタンのデルベント南西のタバサランでは、ズィフラルの息子カディトが君臨し、17世紀には彼らの息子アク=マイスム・ハン、フセイン・ハン・マイスムが在位した。サファヴィー朝はロシアの南下やオスマン帝国の再占領に対抗するために、金品の下賜、支配権の承認、称号の授与などによってダゲスタン在地支配者を掌握することに努力していた。後に財政上の理由から下賜金を廃止すると、直ちに反サファヴィー朝蜂起が起こった。番犬だと思っていたのが、実は狼だった。 

アディゲ人やカバルダ人の現地研究者のなかにも、シャーフ・アッバース大帝の妻妾の一人がチェルケス人であったという主張があり、また彼女(ホルニヤズ・ハーノム)はシャー・アッバースの即位前に王子ミルザー・サフィーを生んだとされる。この時期の国際事情を詳細に考察する必要があるかもしれない。サファヴィー朝のシャー・ムハンマド・ホダーバンデは、1586年モスクワに使節アンディ・ベクを派遣し、モスクワも1588年に答礼使ヴァスィルチコフを派遣し、両国の外交関係が開始された。両国の外交関係はオスマン帝国によるアストラハン遠征とコーカサス占領を経て、アッバース大帝期も継続された。モスクワはサファヴィー朝に対して、常にカバルダ、ダゲスタン、東グルジアのカヘチアがツァーリの臣下であるという主張を繰り返したが、両国の見解は一致しなかった。対オスマン政策については、イスファハーン総督ファルハド・ベクが、もしチェルケス人、シャムハル、カヘチア王アレクサンドルがトルコ人とタタル人に対して共通の目標を持ったらどうだろうかという提案をすると、これに応じてモスクワ大使は既にそのような圧力はかけているが、チェルケス人とシャムハルはスルタンに信頼を置いていると返答している。1607年、アッバース大帝は、クリムのガージーギレイ汗の使者ハーッジ・バイラムを帰国させたが、着任の際、ハーッジは、ハンがイランに俘囚となっていた時代の好待遇に謝意を伝えていた。1587-1590年のイラン・トルコ戦争に際して、クリム汗は陸路出兵することを命じられ、カルーガのアーデルギレイが1万5千騎でイラン領に進入した。クリミア軍はシールヴァーン地方を占領したが、1581年春、総大将アーデルギレイはイラン軍との交戦中捕虜になり、更にアーデルギレイの弟ガージーギレイも現地レズギ人の急襲を受け捕虜になって、アラムート城に監禁された。イスラーム教の異端集団イスマーイール派教国の根拠地として有名な山城である。一方、大帝はアナトリアでスルタンに対する反乱を起こしていたアバザ・パシャとも使者を交わしていた。従って、大帝はクリミアやカバルダの情勢を熟知しており、どのような交渉が望ましいかはよく理解していたと考えていいだろう。

 アラムート城

1589年にカバルダ大公イダル家のカンブラトが死亡すると、次の大公には、イナルの子孫の家系間交代の原則が働いて、カイトコ家のジャンソフがに即位した。イナルの長子の子孫であるタウスルタン家のショロフは、長子相続の原則からすれば自分こそが大公に相応しいと考えて、ジャンソフに従わなかった。ギリャフスタン家のアルハスもショロフと行動を共にした。大公はカイトコ家とイダル家だけではなくロシアの銃兵750人を送ってショロフの領地を攻撃したので、ショロフは折れてやむを得ず降伏した。タウスルタン、ジレフスタン両家の領地は、コーカサス山脈中央にあって南北を結ぶダリヤル峠の北側出口に近かったので、グルジアに至る経路を確保する計画があったモスクワにとって、両家の懐柔は戦略的に必要であった。それでも、ショロフはダゲスタンのタルキ・シャムハル国とロシアの戦闘においてはシャムハルを援助した。他方、このころ一団のカバルダ人が南イラン、ファールス地方に移住している。彼らは1622年には現在の住地にいたから、移住は当然それ以前である。19世紀の地誌によると彼らの長はショロフ・べクであると記されている。ペルシャ語表記のショロフは、シャルヴァとも読めるが、シャルヴァはグルジア人の名前なのでショロフと読むのが正しいであろう。ショロフ公を指しているかもしれない。更にこの地方誌は、彼らが「カバルダ人とカサギ人」であると記している。チェルケスという名称は使わず、10世紀の地理書に見えるカサギという集団名称でイランでは馴染みのないカバルダを説明したのである。また、ロシアの記録にはショロフの部衆が東グルジアのカヘチアに移住したことが残されている。この集団のカヘチアからファールスへの移動の詳細は不明だが、グルジアは17世紀初頭にアッバース1世の広範囲の住民移住政策を被っているので、ショロフの部民がこの政策の結果、グルジア(イラン史のコンテクストでは、ゴルジェスタン)からファールスへ移住させられたとする主張には可能性がある。16世紀後半および17世紀前半、グルジアにはかなりの数のチェルケス人移住者がいたようであるが、ロシアの歴史家サミル・ホトコは、これに係わる大量の移住の切っ掛けを16世紀60-80年代のイダル家の王侯テムリュクによるカイトゥク家プシェアプショコ公の敗北、1589年のモスクワおよび親モスクワ側王侯連合軍による小カバルダの王侯タウサルタン家ショロフ公の敗北に求めている。その可能性は否定できないが、公女が婚家へ赴くときには、近親に率いられたかなりの数の護衛が同行したことを記憶しておいてもいいかも知れない。クリム汗の宮廷でもオスマン朝、サファヴィー朝の宮廷でも同様である。

この間、カイトコ家の大公権は安定せず、今度はイダル家との対立が続き、1600年(あるいはその翌年)カイトコ家のカジ・ムルザはモスクワの後ろ盾を得て大公職を請求していたイダル家のマストリュクとドマヌコに和議を持ちかけて招き、謀殺した。イダル家の他の王子たち、カンブラットの息子クデネットとカンクリチの息子スンチャレイは、ロシア兵が駐屯する要塞都市テレクに逃亡した。しかし、この血債はイダル家のショロフがカジの娘と結婚することで解消した。結局大公の地位に着いたのは、当時第一の実力者タウスルタン家のショロフであった。しかも、ロシアの混乱期末期、イダル家のクデネトとスンチャレイはミハイル・ロマノフを支持し、次期大公即位の足場を固めた。1614年にはカバルダを初めとする北コーカサスの諸君主はモスクワに使者を送ってミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフの宗主権を承認したが、この中に、タウスルタン家のショロフ大公、ジリャフスタン家のムダル公とアイテク公、イダル家のクデネットとアブズアルコのコナルチョ、プシェアプシュコもいた。しかし、カバルダ諸侯の内訌が再び激しくなった。1614年にカジはショロフ大公と同盟関係にあったノガイを攻撃した。これを自分自身に対する攻撃とみなしたショロフはノガイとクムイクと共にカジを攻め、同家の大勢の王子を殺した。テレク要塞の兵もカジ家に加勢したが、ショロフの軍隊を破れず、カジ家のアレグコの要請に応じて出陣したクリム汗、ジャニベクの軍隊も一時テレク川本流とチェレク川との合流点に近い下ジュラットを占領したものの、ショロフ軍に撃退された。ショロフの権威は高まったが、彼は1616年あるいは1619年に死亡した。ロマノフ朝は次の大公にイダル家のクデネトを擁立した(1616-1624年)。今度は故ショロフ大公の息子ホロシャイがカジ家と結びつきモスクワ派のクデネトと戦うことになる。カジ家のアレグコは、1624年クデネトの死後大公になると、従兄弟のアタジュコの協力を受けて、グルジア、ダゲスタン、クリム、ノガイ等の王家と通婚関係を重ね、北コーカサスに強力な同盟圏を構築した。アレグコの姉妹ポルハンは、イダル家ジェレゴト統の長であったショロフと結婚していたが、ショロフ死後はその弟ムツァルと再婚した。この結果、大カバルダではカジ家とイダル家ジェレゴト統、これに対するイダル家テムリュク統、カンブラト統の派閥に大きく分かれた。小カバルダでは、ジリャフスタン家のムダルが、タウスルタン家を攻めてショロフ大公の息子たち4人を殺し、優位に立った。ショロフに対しては生前(1636年没)ツァーリのもとに、テレク要塞司令官とムダル・ジリャフスタンから、ショロフ家がカジ家と結託し、小ノガイのテレク要塞攻めの手助けをしているという讒言がおこなわれたが、ショロフはロシアでツァーリに仕えている同族の尽力で事なきを得た。しかし、ジェレゴト統に拘る疑獄はこれにとどまらず、更に1640年ツァーリ政府はムツァル一族の一斉逮捕に踏み切り、ムツァルの弟たちと息子は各地に流刑になった。このようなモスクワ派の攻撃に対抗して、カジ家アレグコとその従兄弟のハタジュコは1641年ムダルを暗殺し、さらに6月マルヒ川(テレク川はホロドヌイ付近で北から東へ大きく向きを変えるが、マルヒ川は西から東に流れて、ホロドヌイ付近でテレク川に合流する)で、テムリュク統とカンブラット統のイダル家、ジリャフスタン家とタウスルタン家の軍勢を破って多数の王侯を殺した。反アレグコ側には大ノガイの王侯、タルキのシャムハル・アイデミル、ロシアの銃兵隊、テレク要塞司令官隷下のコーカサス人現地兵が加わっていた。カジ家の一部もモスクワ方に味方していた。一方、モスクワがクリミア派であると判断したアレグコに味方したのは、カジ家の王侯の他は小ノガイとアバジンの諸侯だけであった。この結果、ジェレゴト統以外のイダル家王侯は大カバルダから締め出され、小カバルダの王侯もこれ以降大カバルダの問題に口を出すことはできなくなった。カバルダ大公の位、1822年までカジ家に独占されることになった。敗戦の結果カバルダから締め出されたカバルダ公諸家はロシア領に逃れ、チャルカスキーの家名でロシア革命までツァーリに仕え続けた。

 

   サファヴィー王家とカバルダ公家

アッバース大帝はトルコマン遊牧民軍団を率いるキズルバーシュ貴族の専横を抑えるために、グルジア人、「チェルケス」人、アルメニア人のゴラームからなる常備軍を組織し、彼らを新式の火器で武装させた。シャー・アッバース大帝の宮廷にチェルケス人が多いのは、大帝がオスマン朝のイェニチェリのようなゴラーム軍を創設したからである。しかし、このチェルケス人中、どの程度が本当のチェルケス人でありダゲスタン人であるかは未詳である。生きるために戦うのではなく、戦うために生きるチェルケス人士族の戦闘能力は当時も良く知られていたが、ダゲスタン人の武勇もそれに劣らなかった。他方、大帝の北コーカサス政策の構想の中では、シャムハル国とともにカバルダは地政学的に重要な位置を占めていたと思われる。アッバース1世のオスマン朝に対する領土回復戦争は1603年から断続的に続けられたが、1606年、コーカサスにおいて、シャーは「朕は、あちら側は黒海まで掃討し、こちら側はクリミアまで掃討しよう」という勢いで進撃し、大帝は一時オスマン帝国に占領されていた南ダゲスタンの要衝ダルバンド(デルベント)を再占領し、シャムハル国をも併合しようとしていた。シャムハル国はシャー・タフマースプ1世期には親イラン政策を採っていたものの、その後国際環境の変化に対応して、親オスマン政策に転換していた。併合は抵抗に遭遇した。クリム汗軍の侵入を阻止するには、北ダゲスタンの確保は必須であり、カバルダはその背後に位置しているのである。影響力の行使は外交的手段によって継続されなければならなかった。一方、モスクワのツアーリもまたダゲスタン、カバルダ、東グルジアの支配者を自己の家臣であると考えていた。大帝はリューリク朝滅亡後のモスクワ大公国の政治的混乱とオスマン朝に対する軍事的優位を生かして、ダルバンドとグルジアのダリヤル峠から包囲するようにして北コーカサス東部の占領を意図していた。現地君侯の中にも政敵を打倒するためにイランの武力に結びつくものがいた。ダリヤル峠の直ぐ北には小カバルダの王侯ジリャフスタン家のアルカスの息子ムダルとムダルの父の従兄弟アフロの息子アイテクの領地があったが、ムダルは1614年にイランへ赴き、翌1615年にサファヴィー朝の援軍に伴われて帰国、しダリヤル峠の全体を制圧した。年次は不明であるが、ムダルの姉妹の1人が、大帝の室に入っているといわれる。名前は知られていない。先に述べたテレージアの父親はサンプフあるいはエスマーイールであったので、ムダルの父アルカスとは一致しない。更にこの年,カバルダ大公で同じく小カバルダ地方の支配者トロスタン家のタプサルコの息子ショロフ公(1616年没)、および同じく大カバルダ地方カイトゥク家のカジが、友好関係確立のために大帝のもとへ使者を遣わしている。しかし、実際にサファヴィー朝軍に協力したのはムダルだけで、イラン軍が峠を降りるとジリャフスタン家のアイテクとタウスルタン家のショロフはカジの領地に移動してしまった。アッバース大帝期のサファヴィー朝とカバルダ諸侯の間には共通の利害があり、結婚による関係の強化が考えられる状況にはあった。ところが14年には、タウスルタン家のショロフ大公、ジュリャスタン家のムダルとアイテク、イダル家のカンブラトの子クデネットとエズブアルコの息子ナルチョ、プシェアプショコが服従交渉のためにテレクのロシア軍司令官のもとに使者を送っていて、彼らのロシアおよびイランに対する選択は慎重であった。しかも、それはオスマン朝やクリム汗国に敵対するということではなかった。ショロフ大公の子ホロシャイは娘をクリミアのカルーガ・シャーヒンギレイに嫁がせているが、ショロフは、「クリミアやクムイク・シャムハル国からは離れることができない。クリミアには娘が2人嫁いでおり、家族や親戚が大勢いる。クムイク・シャムハルも同じである」と述懐している。1616年夏、ロシアのテレク要塞にクリム汗が多数の大小ノガイの兵士とともに、イラン遠征のためにカバルダに前進中であるとの通告が入った。汗はカバルダにおいて、カジ、アレグコ、ショロフの息子ホロシャイ、クムイクのスルタン・ムハンマド・ムルザなどの諸侯を接見した。当時のハンはジャニベクギレイ2世(1610-1622)で、彼女の母はベスラニ公家のであった。しかし、カバルダにおいては諸侯はロシア派、クリミア派に別れていたが、ダゲスタンではロシアの懐柔政策は効を奏し始め、1616-1635年の間に北ダゲスタンのほとんどの君公がロシアの宗主権を承認していた。汗はロシアとの衝突を回避せずに、イラン領へ入ることはできなかったはずである。結局クリミア軍の前進はなかった。ただし、汗は翌年イラン遠征のためにクリミア軍を率いてシノップへ出征しなければならなかった。

シャー・サフィー1世(1629-49年)の肖像

これより1世代ほど後、不明な状況下に、イダル家ジェレゴト統のムツアル・ムルザが、姉妹ウジュグシュタをシャー・サフィー1世(生年1611年、在位1629-42年)のもとに嫁がせている。イラン側資料では明らかではないものの、1636年旅行者アダム・オレアリウス(1599-1671)がテレクで花嫁の兄弟と母ビケ・ハトンに面会している。ドイツ人オレアリウスは、ホルシュタイン=ゴットルプ公フリードリヒ3世のイラン使節の随員として、アストラハン、テレク、デルベント経由の船旅をおこない、見聞したことを2巻の旅行記にまとめたが、アストラハンで領地に戻るムツアルと知り合い、テレクでは彼の邸宅を訪れた。現代ロシアの歴史家ホトコ氏は彼女をアンナ・ハノムとするが、アンナはグルジア・ミングレリア公の娘であるので、少なくともウヴジュグタとアンナは別人である。ビケ・ハトンは娘ウヴジュグタの将来を案じて、シャー・サフィーに書簡を認めた。その要旨は、彼女は娘を側室や奴隷としてではなく、正室として送ったのである。彼はウヴジュグタをそのような立場のものと認識するべきであるというのが彼女の望みである。ウヴジュグタは彼から、彼女が彼の母である王妃に対すると同様の優しさとと愛情を見出さなければならない。彼女は(王母)は、彼女(ビケ)の奴隷で、しばしば彼女を靴下だけの裸にしたとはいえ、彼女(ビケ)自身の娘のように扱われ、注意をはらわれていた。もし、反対に彼女の娘が虐待されるならば、これから彼女の身におこるかもしれない不幸せと一緒に、ブストウ川に投げ込んでしまうことを望んだ。シャー・サフィーの父親はアッバース大帝に死を命じられたサフィー・ミールザーで、かれの后が「チェルケス人」であったことは、先に述べたが、ビケの書簡が正しく訳されたものであるとすると(オレアリウスの原文は、髯文字ドイツ語で記されていて筆者の手に余るので、1669年刊の英訳を用いた)、シャー・サフィーの母親はビケの奴隷であったということになる。ただし、ビケとシャー・サフィーの母の年齢が親子ほど離れているとは思えないが。

アッバース大帝の北コーカサス政策の第3の矢は、クリミアの反オスマン勢力の利用であった。当時、イランの宮廷にクリム汗国の元カルーガ(皇太子兼副王)シャーヒンギレイが亡命していた。1608年、シャーヒンギレイと兄ムハンマドギレイは、兄弟であるサラマトギレイ汗によって追放されたが、汗の位がジャニベクギレイに移っても事情は変わらず、ムハンマドギレイはオスマン領で監禁され、シャーヒンギレイはイラン・サファヴィー朝アッバース大帝のもとに逃亡したのである。サファヴィー朝へ使いしたモスクワの外交官は、一度ならず宮中でシャヒンギレイを目撃している。シャーヒンギレイの妻キムザド・ハトゥンはスルタン・アフメットの后、オスマン2世(1618-1622年)の母后マフフィルズの従姉妹だった。キムザドはマフフィルーズに手紙を書き夫の支持を訴えたという。マフフィルズの父はイダル家テムリュク統のアルカス・ムルザ、母はラケルバ家のファリーダ、キムザドの父はイダルダ家ジョレゴト統のスンチャレイ、母はビケである。筆者の手元にはビケの出自に関するデータはないが、ラケルバ家の出自であるかもしれない。ラケルバ(アブハズ語ではラクルバ氏)は北アブハジア(グルジア的表現ではジケティ)の古い貴族で、本拠はグダウタ県北部のドゥリプシでここには今でもラクルプシという地名が残されていて、ブズィブ地方にラクルバ氏470家族が健在である。17世紀末一部がサムルザカノに移住し、ラケルバイあるいはメグレルした家名ラケルバヤを名乗っている。この効果があってか1622年、この年、帝位はオスマン2世からムスタファ1世(1622-1623年)に移っているが、ジャニベクギレイ汗はロドス島に配流となり、逆にムハンマドギレイ(3世、1623-1627年)が汗の位に迎えられた。新汗はシャーヒンギレイを呼び戻し、カルーガ・スルタンの位に就けるとともに全軍の指揮権を与えた。汗は同年4月、大カバルダのプシェアプショコの子孫であるカイトゥク家の分家ショゲヌコの息子アレグコの姉妹と結婚した。アレグコはこの2年後大公に即位する。また、シャーヒンギレイもカイトコ家のアタジュコ(あるいはハトゥクショコ。後のカバルダ大公)の姉妹と結婚している。シャヒンギレイは別にイダル家ジェルトコ統のキムザド、またタウサルタン家の姫君達と結婚しているという記述もある。彼が北東コーカサスの地域的政局の中心にあったことが察せられる。ところが、イスタンブルで新スルタン、ムラト4世(1623-1640年)が位に就くと、王寵はにわかに一転し、1624年ジャニベクギレイに再び汗位が与えられた。理由は、イラン遠征を企てたスルタンが、汗に下した出兵命令を拒否したことにあった。ムハンマドギレイ、シャヒンギレイ兄弟は新汗やオスマン派遣軍と戦い続けたが、1628年左岸ウクライナのザポロージェ・コサックの下で反撃を計ったが、1629年コサック兵の手によって殺害された。汗やカルーガの側近あるいは直属部隊は、普通チェルケス人によって構成されていたと思われるが、ムハンマドギレイ汗が王座を追われたとき、タタル人貴族は彼を見捨てたので、行を供にしたのは7千人のチェルケス兵であった。シャーヒンギレイも単身亡命したのではなく相当数の側近を伴っていたであろう。シャヒンギレイも、1629年カバルダに後退し、さらに追撃を逃れて再びイランに亡命した。すると、イランの朝廷はこのシャーヒンギレイに軍隊を与えてクリミアに遠征させる計画を立案した。シャーヒンギレイは、スンジェ(テレク川とスンジェ川の合流点。ロシアのテレク要塞があった場所あるいはその近く)、タタルトゥプ(ウラジカフカースの近く)、イェレツクに補給基地を建設する援助を命じらた。スンジェは、ロシアの北コーカサス経営の拠点であり、かって、イランに進入したクリミア軍は、この要塞の近くでテレク川とスンジェ川を渡ったのであるから、ロシアにとってだけでなく、サファヴィー朝とっても重要な戦略拠点であった。タタルトゥプは現在「上ジェラト」と呼ばれ、北オセチア=アラニア共和国中部にあり、大小2堂のモスクと1宇の教会の遺構は19世紀まで残されていた。ここはウズベク汗の時代の1318年にトヴェリ公兼ウラジミール大公ミハイルが、モスクワ公の陰謀によって処刑されたデディヤコフ(テティヤコフ)は、カラムジンの『ロシア国史』以来ここであると信じられている。ただ、イェレツの場所は今のところ特定できない。テレク川上流にはいくつかの都市遺跡があり、支流のチェレク川下流の「下ジェラト」(カバルディノバルカリア共和国東北部)には、コーカサス最大の床面積454平方メートルの会衆モスクの遺跡がある。またテレクの左岸支流ウルク川合流点近くの現在地名テレク(カバルディノ=バルカリア東部)にもモスクとミナレトを含む都市遺構がある。「下ジェラト」とタタルトプ中間に当たる。なお、ウルク川が大カバルダと小カバルダの伝統的境界である。これらの諸都市は、テレク川流域にあり、後のグルジア軍道(ウラジカフカースからダリヤル峠を経てトビリシに至る伝統的ルート)の進入域にあたり、西からのクリム汗軍とオスマン軍の侵入、東からのロシア軍の攻撃にも対処に便利な戦略的地点である。イェレツは「下ジェラト」あるいはテレクの付近ではあるまいか。この時、カイタク=ウツミ国のルスタム・ハンは要塞建設のために斧200丁、馬車200台、労務者の供出を命じられたが、断ったとロシアに報告している。シャヒンギレイは1632年イランからカジ家のもとにもどった。結局、要塞建設は実行されなかったものの、ロシアのテレク要塞駐屯軍司令官は、1631年にシャムハル国の一部であるエンデレ領のスルタン・アイデムル、シャーヒンギレイやその背後にあるイランを攻撃する計画を持っていたというから、サファヴィー朝の計画はトルコだけでなくロシアとも緊張を引き起こしていた。長期にわたる外交交渉が有利に運ばず、武力によるダゲスタン再占領を計画したサファヴィー朝軍が実際にテレク(スンジェ)のロシア要塞を攻撃したのは、1652年になってからである。しかし、この年代はサファヴィー朝イランとロマノフ朝ロシア、二者の国運の盛衰の違いを考えるとイラン側にとっては遅すぎる選択であった。

 北コーカサス中央部の要所タタルトゥプ

シャーヒンギレイは、上述のようにシャーフ・サーフィーの宮廷に迎えられ、さらにコーカサスのカジ家のもとに戻ったが、展望のないままにスルタン・ムラト4世の勧めを入れて家族と共にイスタンブルに移住、ロドス島に流されたが、1641年帝位が狂王イブラヒムに移ったときに殺害された。シャー・アッバースの死後再開された新しいトルコ・イラン戦争は、1629-1639年の間、ムラト4世とサフィー2世との間で戦われ、イランの敗戦で終わった。北コーカサス東部の有力者イダル家ジェルトコ統との結婚関係は、サファヴィー朝にとって北西辺境の安全を確保する意味があったかもしれない。

逆に親オスマン派汗が勝利した以上、ロシアにとってもイランにとっても、クリミア軍の侵入を警戒する必要が生じてくる。クリム汗バハドルギレイは1638年、カジ家のアレグコのもとに使者を送り、コサックに奪われたアゾフ要塞奪還のための兵員を求めた。アレグコは使者を歓待したが、軍隊は送らなかった。ツァーリに対する誓詞の奏上とテレク要塞への人質(アマナト)の提出にもかかわらず、アレグコの立場はあくまで中立であった。しかし、ロシアに対しても強硬派であった、シャーヒンギレイとの結婚関係は、ツアーリ政府に疑いを抱かせた。カジ家は反ロシア派であると見られていたので、一貫して親ロシア路線を貫いていたと見られるスンチャレイの息子たちに対しても向けられた。1635年折り合いの悪かったテレク要塞司令官や最高権力を巡る対立があったジリャフスタン家の諸公からの讒言があって、シャヒンギレイを引き入れるためにカジ家、タウスルタン家と談合したという疑いで告発された。1641年には再びスンチャレイ家に対する讒言があった。スンチャレイの息子ショロフ、その死後はムツァルがアレグコの姉妹ポルハンと再婚していたからである。1642年ムツアルの存命の兄弟たちは、それぞれ召喚先で逮捕され流刑になった。ムツァルがシベリアから呼び戻され、要塞都市の中の屋敷に帰宅できたのは1643年であった。

シャー・アッバース2世の肖像

更に1世代後のことと思われるが、タウスルタン家のショロフの後継者ホロシャイの孫シルダル・ムルザの娘ウヴァジュガがアッバース2世(生年1633年、在位1642-66)のもとに輿入れしたと言われている。シャルダンの旅行記ではシャーにスレイマン王子の母であるチェルケス人の后、ナキーハット・ハーノムがいたと記されている。この二人は同一人物であろう。19世紀の著者によると前述のファールスのチェルケス人は「今日も彼らの目は青く、髪は黄色、肌の色は白い」というが、前の節で沿黒海地方の人々に対して山賊のような風体だとか、半裸だとか、よく深く、不実不信の泥棒であると辛辣な批評を下したお偉いシャルダン勲爵士殿も、シャー・スレイマン(在位1666-94年)が19世紀のファールスのチェルケス人と同様の風貌であると述べている。スレイマンが金髪の髪と髭を黒く染めてあることだけは、違ったが。

シャー・スレイマーン(1666-94年)の肖像

上の3例のチェルケス人女性の入内については、ペリハンの母とテレージアの母、およびシャー・アッバース2世の例では、彼らは身寄りもなく1人イランに購入されて宮中に入った奴隷ではなく、武人である家族と供に移住した人々であった。集団的移住と言う点では、ロシアに移住したチェルカスキー(この場合には、チェルケスキーとは言わない)諸家の場合と大差ないのではないだろうか。ロシアでは軍人貴族の面をイランではシャーの妻妾の面を強調しているだけである。

         

  1. 18世紀の北コーカサス

18世紀のオスマン語海図(フォメンコによる)左上から、右下へ、スジャク―スジャク湾―ゲリンジク湾―一村―コドシュ湾―ドゥパ―スバシ―ヴァルダン―ママ―カムシュラル―ゲチレル―チャンドラル―ダルバンド―ピツンダ―スフム等の地名が書き入れられている。mj

第1項 町々と交易

17世紀40年代にエウリヤ・チェレビが旅した後、19世紀半ばまでソチ地方の事情を詳しく記述する旅行者は現れなかった。この間の約200年、ソチを含む沿黒海地方の状況はほとんど分かっていない。地域全体の名称や境界もおぼろげである。クリム汗に仕える法官で文筆家のアブドゥルガッファーリーは、既に老境に入った(18世紀)40年代にハンの不興を買い、一時的に「アブハジア」のスジュクに流罪になったが、ここが寂れた田舎町であることを嘆いている。この街については、この10年程後、フランスのカッファ領事ペイソネルも「スジュクはアバザの境にある黒海岸の小さな港町である。人家は200戸、住民は400人。36-40門の大砲がある。要塞はイェニチェリが守り、クバンのサラスカル(クリム汗国の官職、汗の一族が就任した。軍隊の長の意味。トルコ語でセラレスケル、ロシア語ではセラスキル―北川)に任命されたタタル人のベイに支配が任されている。ここでは全く売買が行われず、住民の必需品は全てタマンで買われる。周辺には兵士たちのために国庫が購入する小麦が栽培されている」ような、状況であったから、都バフチサライの華麗さを知っていた文人官僚には宜なることかな。 さて、アブドゥルガッファーリーはここがアブハジアであると述べる。また、ペイソネルもここがアバザの境界であると記す。しかし、スジュクは今日のノヴォラスィースクにあたるので、いわゆるアブハジアではないことは明らかである。アブドゥルガッファーリーは、クリミア半島に生まれてここで教育を受け、クリミア4大貴族の一つシリン家の領地でカーディーとして勤務し、1713年のデヴレトギレイ2世汗のクバン地方のチェルケス人に対する膺懲遠征では、シリン家の武将ジャンテムルの部隊に加わっていた。ここをアバザとすることがアブドゥルガッファーリーの間違いだとも思えない。では、仮にクリミアの宮廷ではノヴォラスィースク周辺以南をアブハジアとみなしていたとして、その実態はあっのだろうか。16世紀の人、オーストリアの男爵ヘルベルシュテインは、「東から南に向きを転ずれば、メオディド湖(アゾフ海-筆者)と黒海の湿地の近く、この湿地に流入するクバン川に沿ってアフガズ人が住む」と述べる。ソ連、及び旧ソ連の研究者はこのアフガズ人をアバザあるいはアブハズ人であるとみなしている。しかし、18世紀前半に限らずここにアバザ人が存在したとする具体的証拠はない。アブドゥルガッファーリーの配流の100年前にエウリヤ・チェレビがアバザ人の集落の北限トゥアプセに置いており、18世紀のペイソネルもトゥアプセ西部のコドス(コドシュ)の市場にはアバザ人が集まるとしている。しかし、ノヴォオラシースキー(スジャク)とコドシュの間にアバザ人が全く住んでいなかったとする、あるいは住民はチェルケス人であるという証明はされていない。要するに知られていなかったのであるが、そのために、人々はこの地域をまるで存在しないかのように無視して、ノヴォラシースキーとトゥアプセを繋いでしまったのではないであろうか。また、少数のアバザ人がアナパの背後や海岸部ではなくノヴォロシースク湾の山向こうにあたるクバン支流のアビン川流域に住んでいた可能性がないとは言えないし、実際に居住者はなくともそのように語り継がれていたということはあり得るが。しかも、残念なことにヘルベルシュテイン旅行記に付されている地図には、アフガズはもとよりクバン川も書き入れられていない。

ホマン『ペルシャ全国図』部分

観察者の記述と地図上の認識の間には、一定の相互作用がある。18世紀初期(1700年から1720年の期間)に出版されたヨハン・バプティスト・ホマン作成の地図(「ペルシャ帝国全図」)を示そう。この地図ではスジャク(スザケと記されてる)を含みそれより南は、アヴォガスィア(地方)で、さらにその南に別に「アバサ」地方が画されている。これより少し後、1730年に作成されたジャン・コヴェンスとコルネリウム・モルティエ「ロシア帝国図」は、クバン川に至る沿黒海地方は、アブハジアとして、グルジア王国の版図に含められ得ている。また、1735年グルジア王子バフシュティ・バグラティニが作成したグルジア王国地図では、ブズィブ川までをアブハジア(アプハゼティ)、その先をジケティとして、両方共にグルジア領に含めている。ジケティの西端はある地図では書き入れられておらず、またある地図では欄外となっているので、どこまでがジケティかはわからない。ジケティとは、別の言い方では、小アブハジアであるから、遙か西部までをアブハジアであるとするのと同じである。勿論あらゆる地図に事実のみが描かれるわけではなく、何かしらの価値の表現から自由であるとも言えない。地図もまた何かしらの主張であるかもしれないので、私たちは地図を根拠に直ちに何かを証明することはできない。ソチを含む黒海沿岸東岸の地域の枠組みには色々な考えがあったのである。

コヴェンスとモルティエ『ロシア帝国図』部分

 さて、それがどこからどこまでであるにしろ、18世紀の地誌や地図にアブハジアとして記される地域の住民はアブハズ人であろうか。アレクサンドル・プーシキンの友人として有名なセミョン・ヴィネツキーは、『新コーカサス地歴情報』で、「スジュク・カレから20露里、グレンジク湾に至らずして、チェルケス人の一部であるナトゥハジあるいはナフトカジェの近くから、大アブハズが始まる」と記して、ジャネ(ジャンホトか)とコドスの住民をアブハズ人であると記している。付図でも海岸部を大アバザ地方として、クバン川上流の小アバザ地方と対比させ、その上で本来のアブハジアは大アバザの一部としてアブハジアと書かれている。アブハジアとアバザの地名を併記、区別して使用することは、ヘベルシュテインの記事や上に述べた17-18世紀に作成されたいくつかの地図と通底するものがある。アバザとアブハジアのどちらが大きく、どちらが小さい概念であるかは別にして、チェルケス地方とアブハジア(アバザ、アブハジア)の境界を実際より北に持ってくるのは地図製作上の伝統なのであろう。ガッファーリーやペイソネルは、出版された地図の情報に影響されていたと考えることができるかもしれない。勿論、多くの地図は、名称はアバザ、ジケティ(ア)、アブハジアであるにしろ、この地域の西の端をトゥアプセ地方に置いている。

 18 世紀のもう少し後の時期の地図、1740年作成のジャン・コーヴァン、コルネイユ・モルティエの「小タルタリー、クリミア、黒海における戦場」ではソチ地方とガグラ地方に相当するアヴォガシアとチャチバ家が支配するアブハジアに当たるアバシア、エウリヤ・チェレビが「サヅァ」と呼んでいたジケティアの3地域に区分されている。、この地図では解像能力の制約のため細かい地名の判読ができないが、アヴォガシアとチェルケシアの境界は適当と思われる場所に惹かれているようである。

  コーヴァンとモルティエ『小タルタリー、クリミア、黒海における戦場』

このようにソチは、アヴガシアとアバシアの二項並記の時はアヴガシアに、ジケティとアブハジアと二項並記の場合はジケティに、アヴガシア、ジケティア、アバシアと鼎記する場合はアヴガシアに振り分けられている。

ペイソネネルはスジュクからアナクリアの海岸をアバザの海岸と呼び、スフミとコドシュが最も重要な港であるが、その他にも「ゲレンジク・リマン、バスカロ、ジエボ、ドゥバ(18世紀の無名の製作者のオスマン語海図にあるドゥバーであろう―筆者註)、スバシ、ヴァルヴィレ(ヴァルダネ―筆者註)、ママイ、ジュジュ(ソチか―筆者註)、ホシュ(ホスタか―筆者註)、エルデレル(アドレル―筆者註)、ケチレル(ゲチ―筆者註)、ベズゥイレ(ツァンドラプシあるいはガグラか―筆者註)、ベチェベンド(ピツンダ―筆者註)、セヴレ、アルジ、タンギル等」の港湾を挙げている。ブロネフスキーは「6スバシ。スジュクカレから100露里のスバシ川の河口に大きくない砦がある。7ヴァルダン。小集落或いは村。クバン川の分流に、同様のサルマート語の地名があることを注目しておきたい。8ママイ。空城。その向こうには、東南向かって次々とにスザル(順番ではソチにあたる。ソチの別名スチャリであろう―筆者註)、カミスラル、アルドレル、コンシリの村々が並んでいる」。ボロネフスキーやエウリヤ・チェレビの行程記などと併せて、沿黒海地方特にソチの港の事情が浮かんでくるであろう。

これらの港を通して、ソチを含むアブハジアにもたらされる商品は、クリミア産の塩、アナトリア産の葡萄酒、コンスタンチノプルとクリミアのモロッコ皮、赤・黄・黒に染められた羊皮、細かな鉄・銅製品、キンジャルやナイフなどの刀剣類、ペルシャ更紗、アスタラの平織り布、石鹸などの生活雑貨であった。輸出は柘植材、蜜蝋、蜂蜜、毛皮、豚の脂身とベーコン、奴隷であった。17世紀にエウリヤ・チェレビやシャルダンが述べなかった豚肉が挙げられている。勿論、首都のキリスト教徒のための食料であった。エウリヤがサジャ語の例文として書き留めたのは、「私は豚肉を食べました」と「豚肉は脂が乗っていましたか?」だったのは面白い。沿黒海地方ではトウアプセやアナパを除き、小麦は栽培されていないので、アゾフ海沿岸やモルダヴィアから搬出されたであろう。沿黒海からの食料の輸出は蜂蜜と豚肉だけである。

18世紀初めのコーカサス(Creative Commons Attribution)

 

第2項 新しい市民

 概況

   スエ―デンの歴史家ヨハン・エリック・トゥンマン(1746-1778年)は著書『クリミア汗国』で、「アブハズ族とシャプスィフ又はシャプスフ族、シャシ、ウブイフ又はオブフ、トゥビ、

     ドゥバ地区は、コーカサス山脈の南西斜面にあり、カペティ(ヴァフシュティがジケティの東の始まりとするブズィブ川―北川注)よりは西、スバシ川の両側にある。これらのアブハズ族は黒海に至るまでの山地に住み、多くの村々を持ち、自由で独立していて、略奪を好む。彼らはいつも着ている短い衣服にちなんでキスカ-チェクメプと呼ばれている。彼らの国には、スバシすなわちシャヘ川の両側にのコルドス湾にボヴィディアル、アブカスという場所がある。トゥビはアシェ川とプセズアプセ川上流に住むハクチ族の住地である」と記している。トゥンマンはブズィブ川より北西の黒海東岸にアブハズ族とシャプスグ族が住むと述べながら、彼らをアブハズ族と総称している。この地方の内部には、シャシ、ウブイフ、トゥビ等の地域が含まれている。シャシはシャプスグ族がソチを呼ぶシアチェあるいはシアシェである。ウブイフとトビについては後の頁で述べたい。トビの位置であるが、確かにアシェ川とプセズアプセ川上流にはハクチ族がいたが、ここはトビではなく、18世紀のオスマン語海図にあったドバで、それについてはエウリヤ・チェレビの節で述べた。また、ハクチ族はシャプスギの一部であると言われていて、ウブイフ族ではない。トゥンマンの短い文章の中に、19世紀のソチの主要住民グループであるシャプスグ、ウブイフ、アバザの名称が挙げられている。この地方の人々は「キスカチェクメク」つまり、丈の短い、あるいは簡単な衣服を着ているという。海岸で商人と出会う人々は浜辺から小舟で貿易船に乗り込むのだから、役人や貴族でもなければ正装はしないであろう。シャルダン勲爵士の旅行記の記事を思い出したい。交易船が到着すると「浜辺は、自分たちの住む山から山賊のような風体で、集団をなしてどっと押しかけて来る半裸のよく深いこうした蛮族たちに取り囲まれる」。貿易船の人々が現地の人々と取引するのは夏に限られるから、略装でも半裸でも構わない。芝居で見る江戸の中間は年中半纏と褌ではなかったろうか、日本人には驚くには足りないだろう。

 

       膝上のコートを着るチェルケス人

 

 チェルケス人 

エウリヤ・チェレビによるとアバザ人のアシェゲリ族は、勇敢な人々でチェルケス人と戦っていたという。ではそのチェルケス人はどこにいたのであろう。アシェゲリ人の勢力圏の中心は、アシェ川河口であるが、アシェ川上流から、低いゴイトフスキー峠を通ってクラスノダル方面に至ることができる。ここで手がかりになるのは、そのチェルケス人がアシェゲリから1日行程の場所におり、エウリヤがアシェゲリの次に宿泊したスユクスは西に2日行程離れた場所にあることである。このチェルケス人は海岸部ではなくアシェ川流域から北へ山脈を越えた地域にいた人々であることになる。17世紀の集団名はシェファク(シャガク、ヘガク)でクバン川の支流であるプシャシュ、プシャシュ、ベラヤ等諸川の上流域に生活圏を確保していた。エウリヤ・チェレビは、ソチ旅行の20年後にチェルケス国を旅し、「シェガクについて、「この人々を除いて黒海岸にはチェルケス人はいない。シェガクの山からキブラの方角(南―筆者)にはアバザ人の全領域があり、黒海まで続いている」と述べた。シェガク集団は、後に、西隣のジャネとともにタマン半島に移動する。

17世紀のエウリヤ・チェレビの記録と19世紀の状況を合わせて、18世紀の住民の状況を述べよう。19世紀に大ソチの住民だったのは、シャプスグ人、ウブイフ人とアブハズ(サヅ=ジケティ人)である。シャプスグ人はアディゲ語の中のシャプスグ方言を用いるが、19世紀の初めには、彼らは二つの大きなグループに分かれていて、海岸沿いにトウアプセのジュブガ川から大ソチのシャヘ川に至る地域にいた人々を小シャプスグあるいは黒海沿岸シャプスグ、コーカサス山脈の北側クバン川左岸支流に住むシャプスグを大シャプスグと呼んでいた。シャプスグという集団名称が始めて文献に現れたのは18世紀で、20年代にはオスマン帝国の歴史書(チェレビザーデ)中に、1743年にはロシアの文書に記されている。1747年7月28日の外務省宛の報告書によるとクリム汗はテミルゴイ、アバヅェフ、ブジェドゥフ、シャプスグ、ウブイフはクリミアから離反し、汗に反対しているスルタン達とムルザ達は、これら諸族と一致して汗に反対しようとしている。又1753年の報告はアバヅェフ、シャプスグ、ジャネは汗に対して全く貢納を入れていなかったというものである。18世紀の半ばブジェドゥフとテミルゴイは貢納を納めるどころか、しばしばクリム汗領で略奪を働いた。上の報告中には大集団の中ではナトゥハイの名前が挙げられていないが、彼らはまだ編成されていなかったのであろう。ナトゥハイの名称を最初に伝えたのはペイソルのようである。

ロシアとヨーロッパからの旅行者もシャプスグ、およびナトゥハイ、アバヅェフなどの集団名をあげるようになった。彼らの集団名称がエウリヤ・チェレビの旅行記には現れないのは、まだ集団が確立していなかったためであろう。18世紀までにに沿黒海地方北部のツェメス(ノヴォラシースク)からプシャダの沿岸にいたのは、ジャネで、クバン川下流の大ジャネと区別して小ジャネと呼ばれる。この世紀にジャネ族の犠牲の上に、アダグム川とバカン川沿いにアナパまでの地域、ノヴォラスィースクのツェメス川流域、ゲレンジク湾までに広がっていったのがナトゥハイであった。シャプスグはその南プシャダからシャヘまでの地域にいた。エウリヤ・チェレビがまったくその存在について述べていない西チェルケス集団に属するシャプスグ人とナトゥハイ人の祖先は近隣のゴアイエ人の祖先とともに、アシェ川とサヘ川の間のプセズアプセ川の流域に住んでいた。ナトゥハイは上流、シャプスギは下流に。当時この2つの集団の先祖はそれぞれ集団名を持たず、あわせて5つの小集団に分かれていた。その内ナドホともうひとつの集団がナトゥハイ集団を形成、残りの3小集団が当時居住していたシャプスホ川の名にちなんだシャプスグ集団を形成した。シャプスホ川はジュブカの南にある。これがヴォロシロフガが推定する1516世紀の概況である。19世紀初めにはプセズアプセ川周辺集団をあわせた8小集団がシャプスグを構成する。新興の地縁共同体であるシャプスグは、近隣地域の自由農民や逃亡奴隷を吸収して拡大して海岸沿いに広がるだけでなく、山脈を越えてクバン川左岸にも殖民した。また、18世紀プシェズアプセ川、アシェ川上流に住んでいたハクチもシャプスグの分族であった。彼らは19世紀にもプシェズアプセ川、アシェ川上流に住んでいた。19世紀の大移動とソ連時代の民族政策を経て今日(2002年の国勢調査によると3千200人のシャプスグが沿黒海地方に残っている。トゥアプセに845人、ソチに2,366人、ソチとトゥアプセ以外のクラスノダル州に2人、クラスノダル以外の全ロシアに19人。ソチでは北部のラザレフスキー市区に集中していて、殆どが農民である。シャプスグ集団の拡張にともなって、アシェゲリ族とスユクス族だけでなくクタス族の姿も沿岸地方から姿を消す。但しラブロフはアブハズ人がチェルケス人と交代したのではなく、住民はそのままチェルケス化したのであると考えている。しかし、前節で述べたように埋葬様式から見て、チェルケス人が全く来住しなかったということではないであろう。

 

ウブイフ人

 トゥアプセからシャヘ川までの地域でアバザ人にとってかわったのは、チェルケス人のシャプスグ集団だったが、その南シャヘ川からホスタ川にかけては系統上諸説あるウブイフ人だった。実際にウブイフ人の居住地が確認されるのは19世紀になってからだが、18世紀にはペイソネル、ギュルデンシュタット、パラス、ポトツキーなどの調査報告でも内陸部にウブイフの存在が報告されるようになった。

 5世紀の無名の航海者がムズィムタ川の別称としたブルホント(ブルフ人の川)のブルフ人、6世紀のカエサリアのプロコピウスのブルフ(ブルホイ)人は、ウブイフ人の祖先であると信じられている。エウリア・チェレビの述べるソチの住民のうちでは、内陸部に住むサジャ人が言語資料からがウブイフ人の前身であると思われる。20世紀にわずかに残ったウブイフ語の調査を行ったフランス人言語学者デメジルは、ウブイフ語にはチェルケス語とアブハズ語の中間的性格があることを明らかにした。ウブイフという集団名称は、チェルケス語によるものであるが、20世紀のアブハズ語では、アサヅヴァ(サヅはロシア語化した形)と呼ばれる。しかし、「アサヅヴァ」は、19世紀までブズィブ河の北に住んでいて、チャチュバ家の支配権の下にない地域の人々の全体をさす言葉であったので、研究者の中にはウブイフ人とは区別するためにサズ=ジケトという言葉を使用する場合もある。サズ=ジケト人は、アブハズ(アバザ)人であると同時にアサヅヴァ(サヅ=ジケト)人であったのである。

 17世紀のサヅア人は18世紀にウブイフ人という名前で知られるようになる。18世紀末にコーカサス調査旅行をしたギュルデンシュテットの地図ではクバン川左岸支流上流のカラクバン川源流の山脈南側にウブフが置かれている。1793-4年に調査を行ったパラスは、トビとウブイフはベロイ川上流の山地に住み、そこから西寄りに広がっているとしている。トビとウブイフは同じ名称の異なった綴であろう。トビからまっすぐ西はトゥアプセであるが、トビはコーカサス北斜面の集落の最も高い地点であるから、西への移動ルートは山頂を超えた南斜面以外にはないかもしれない。分水嶺を超えるとソチのアシェ川、シャヘ川の上流に出るが、19世紀にそこはそれぞれ(シャプスグ人の一部としての)ハクチ族、(ウブイフ人の一部として)アラン族の住地であった。1807-1808年にコーカサスの調査旅行を行ったドイツ人東洋学者クラプロトは、「トゥバ人とウブイフ人はアバジン語の方言を話すが、近づくことが非常に難しい山間のシャヴガシャ川とプサフ川流域の最も高い雪山と黒海に達する地に住む。彼らは度し難い盗賊で、サナと呼ばれる葡萄酒を大量に造る。彼らが所有する土地は肥沃で、何の耕耘も必要としない。彼らのもとには王侯はおらず、貴族(ウズデン)がいるだけである。彼らは村に住まず、3、4戸ごとに森林の中に散らばる」と報告する。トゥビ地域は北のクバン低地や南のソチの牧畜民が夏に牛を追い上げるのには適した高原ではあるが、ブドウの栽培に適しているとは思えない。現在プサフ川に沿ってアプシェロン軽便鉄道(アプシェロンスカヤ・シュパロレズ間59km)が稼働しているが、沿線の風景(https://3w.youtubecom/watch?v=Xgxul7N7vvG及びKmKO0htrGn4)は冷涼な高原のもので、むき出しの地面は砂利交じりの灰色土であるので、地味は肥沃とは遠いと思われる。クロプロトの記述は、冷涼なトビ地区と温暖なソチの叙述が混在していると思われる。すなわち、ウブイフ人は19世紀初めにはソチに住んでいた可能性を指摘することができる。

 

 アブハズ(アバザ)人

 ペイソネルは沿黒海地方の住民の種族について細かい詮索をしなかったが、ヴァフシュティは「現在のジケティの境界、東はカペト(ブズィブ―筆者註)川、西と南は黒海、北はコーカサス山脈で、産物、家畜、性格、習慣においてアブハジアと全くよく似た国である。住民はアブハズ人より粗暴である。彼らはかつてはキリスト教徒であったが、現在は自分の宗教についての知識がない。アブハズ人とジク人はチェルケス人と同じような衣服を着、武器を持ち、馬具を付ける」としている。グルジア=カルトリ王ヴァフタング6世の王子ヴァフシュティ(1696-1757年)が情報を集めることができたのはグルジアと亡命先のモスクワであったが、現地住民の交代や種族間の言語や習慣の細かい違いには注意を払わなかったようである。あるいは『グルジア王国誌』が書き上げられる1750年には、まだ目につくような変化は起こっていなかったのであろうか。

 第3項 北の隣人たち―西チェルケスとカバルダ

 18世紀のソチとソチに住む人々について知られていることは、これでほとんど全てである。ソチは黒海東岸の最も奥まったところにあり、大コーカサス山脈一番の山陰にあって、どの方角からも知られることが少ない地域だったからである。ところが、19世紀半ばになるとソチの人々の活動は世界中の人々から注目されるようになる。しかし、その理由となる大変動はソチで終わったもののソチに始まったことではなかった。いつからともなく続けられて来たコーカサスの集団間の内訌、数百年間続けられていたロシアとの交渉と戦い、ロシアとオスマン帝国との角逐は、19世紀の半ばに抗争の舞台を黒海東岸に移しソチで終わったのである。この節で述べなくてはならないのはその前史である。18世紀北コーカサス史の大まかな流れ、周辺大国の北コーカサス政策と地域内政治勢力の関係を簡単に纏めておきたい。

 17世紀にアゾフ海の支配権を巡って争ったオスマン帝国とロシア両国は、1700年イスタンブルで2年間の休戦を伴う平和条約を結んだ。この条約によってロシアは国際的に独立国家であることを承認され、これまで毎年クリミアの汗に納めてきた貢納からも解除された。また、アゾフ海周辺に領土を獲得した。条約で明記されなかった国境は1705年に画定され、条約本体も1710年に更新された。ロシアはオスマン帝国の次にはスエーデンと戦わなければならなかったが、これも1709年にポルタワ会戦では勝利したものの、却って新しい対トルコ戦争に引きこまれることになった。1711年大宰相パルタジュ・メフメット・パシャの率いる10万のオスマン軍が首都を出発し、これに呼応したクリム汗デウレトギレイ軍はドニエプル川に布陣して友軍の到着を待つとともに敵軍の攻撃に備えた。兵力・火力・及び情報に優っていたオスマン軍はモルドヴィアのプルートでロシア軍を破ったが、敗北したロシアは1711年の和平条約で1700年に獲得したアゾフ海周辺の非武装化など最小限の譲歩を行うだけですんだ。そのため、ロシアは総司令官で交渉担当者メフメット・パシャを宝石で買収したという噂が流れた。翌年、ロシアはアゾフ海沿岸などの領土を返還し、軍事施設を破壊した。対ロ関係を有利に展開し始めたオスマン帝国とクリム汗国は、ここで進路を北コーカサスに転じた。すでに1699年クリミアのカルーガ・スルタン・シャフバズは、チェルケシアに侵攻して家畜を略奪したが、年末ベスレネ人によって暗殺された。これに報復するかのようにシャフバズの弟カプランギレイは、1700年と1701年にチェルケシアとカバルダを略奪し、貢納として大勢の捕虜を連れ帰った。1702年スルタン・アフメト三世(1703-1730)はクリミ汗ダウラトギレイ二世を更迭したが、クリミアとクバンでこれに反対する反乱が起こり、ダウラトギレイはカバルダに逃亡した。新しい汗は、1703年カルガ・スルタン・カジギレイ麾下の数万人規模のクリミア正規軍をノガイ人の増援部隊とともに派遣し、貢納として男女の若者を徴収した。クリミアの歴史家セイイド・ムハンマド・リザは「汗は住民にイスラーム教を強い、年老いた聖職者を殺し、彼らの杖をあたりに放り捨て、書物を焼いた。汗は自分の軍隊を地区ごとに振り分け、各戸に兵士4人を割り当て、食事を出させ、馬を洗わせるた。人々をイスラームに教化するために各アウルに一人のモッラーを置き、公たちの息子を人質に取った」。現地歴史家のノゴモフは、「聖職者の杖がちりじりになったようにお前の財産がちりじりになった」ということわざを紹介している。18世紀の初めイスラーム教はチェルケス人の間に広まっていて、キリスト教や土着宗教と共存あるいは、混交して実践されていたものと思われる。18世紀半ばにペイソネルが、イスラーム教は「アダ衆、アデミエフ衆、ベスレニ衆、ブジェドゥギ衆、テミルゴイ衆の間ではかなりの強さで根付いている」と記録している。逆にいうと沿黒海地方のナトゥハイ、海岸と内陸にまたがって住むシャプスギ、内陸山地のアバヅェフのイスラーム受容度は低かったということになろう。翌1704年ガジギレイが汗位に即くと、カルガ・メングリギレイを送り、奴隷とカバルダ人のクバン地方移住を要求したが、メングリギレイは敗北した。1707年にカプランギレイ汗が指揮するクリミア軍は再び来寇し、新しい汗が即位する毎に約束されていた3千人の奴隷を要求して、おびただしい略奪をおこなった。ついで翌1708年、オスマン軍の増強を受けたカプランギレイはカバルダの奥深く侵入し、夏、エルブルス山に近くの渓谷に宿営して、カバルダ人の家畜の略奪を計画した。この時、カバルダ軍を率いたのは、アタジュコの息子クルゴコ大公で、前節で登場したショグネコの孫であった。テレク川支流マルカ川下流のカンジャル渓谷に宿営をしていたクリミア軍、オスマン軍数万人に対して、クルゴコ大公の騎馬隊が夜襲をかけ、カプランギレイ汗と極少数の側近およびオスマン軍司令官と司令部要員を除く敵全員を殲滅した。オスマン朝の歴史家フンドゥクルルはクリミア側の死者数を3万としている。ロシア連邦カバルダバルカル共和国では、クルゴコを国民英雄として称え、300周年に当たる2008年には記念行事が開催された。オスマン帝国はロシアとの対決を避けて東方に血路を開こうとしていたのであるから、この敗戦は手痛いものであったと考えられる。1707年に即位したばかりのカプランギレイはこの敗戦の責任を負わされ、退位に追い込まれた。この時同時に汗はクバンのサレスケルをテレク川下流地域に派遣し、この方面ではグレベン・コサックに多大の損害を与えた。ロシアは1700年のイスタンブル条約による制約があった上に、バシュキル人(1704-11年)やドン・コサック(1707-8年)の反乱があり、さらにスエーデン軍の侵入(1708-9年)があったので迅速な対応ができず、そもそも当時トルコを主要な敵とはみなしていなかったので、クバンとテレクに軍隊が派遣されたのは1711年になってからであった。ロシア・オスマン両国は1713年に25年間の休戦を含むエディルネ(アドリアノープル)条約を結んだ。この和平に反対であったデヴレトギレイ汗は、1713年に自ら小ジャネに侵入したが、プシャダ川の戦いでネミル・シュブス率いるシャプスグ族とナトゥハイ族連合軍に敗れ、伝説によると捕虜になったハンは後ろ向きに駱駝に乗せられ帰された。この後汗は退位を命じられた上、イスタンブルに召還された。この戦闘の年次を1724年とする概説等もあるが、デヴレトギレイ二世が当事者であればこの年次は誤りである。プシャダ川はゲレンジク郡の南部アルヒポオスィポフカとジャンホトの間のクリニカで黒海に流れ込む川であるが、ここは小ジャネ集団の領域で、南や東に抜ける交通には不便である。従って、この遠征は特に小ジャネを目標としたものであると思われる。筆者がみるところこの事件についての学術的な研究はなく、事件の詳細な経緯だけでなく、歴史的意味づけについても定説はない。ところでプシャダの海岸には有名な神木があり、そこに十字架がかけられていたが、研究上の仮説が許されるとすると、1703年にカルーガ・カヂギレイの強制的イスラーム布教と併せて考えると1713年(あるいは1724年)の遠征は、キリスト教の根絶が目的ではなかったであろうか。また他の遠征事例に照らすとジャネ族公家の内紛に対する干渉やジェネ公家に反抗する新興のシャプスグ、ナトゥハイ集団の弾圧、しばしば行われた単純な奴隷やその他の貢納の強制的徴収などが考えられるだろう。これが18世紀にクリミアとチェルケス人との間で戦かわれたソチの一番近くの戦闘であった。17世紀に大きな勢力を擁してクリミアの汗とも通婚し、オスマン帝国のケルチ総督を出すなどしたジャネ公の力は衰え、公の身分の家柄を持たない格下のシャプスグやハトゥハイの後塵を拝するに甘んじなくてはならなくなっていたことは指摘しなければならない。

   プシャダの神木に十字架を奉納する現地の貴族とヨーロッパ人旅行者(EduardTaibout de Mavigny, Voiyage en 

Ciccassi,Bryssel,1828,p.125

 大カバルダでは、君侯の間で、ミソスト家とアタジュコ家、対するジャンブラト家の対立があったが、1720年代に前者のバクサン党と、カイトゥコ及びベクムルザ家の2家に分かれたカシュカタウ党は厳しく対立した。力の強いバクサン党は親クリミア・オスマン傾向が強く、後者は親ロシア派であった。1720年のクリム汗サアダトギレイの侵入に際しては、バクサン党は降服、カシュカタウ党は山地に撤退した。但し、1731-32年のクリミア軍侵入に際しては、立場は逆になりバクサン党はロシア、カシュカタウ党はクリミアと結びついた。更に、1737年にはカイトゥコ家とアタジュコ家と争ったベクムルザ家のベクムルザがアストラハンに逃亡し、ロシアの仲介で帰国し、カイトゥコ家と和解した。両家はロシアに帰順し、1739年にはラバ川でクバンの司令官カジギレイを敗死させた。露土戦争後の1740年代には、両党の関係には再び悶着が起こったが、ロシアの仲介によって落ち着いた。しかし、今度はアタジュコ家の人々がロシア領に追放され(1747-9年)、続いて1748年にはベクムルザ家とカイトゥコ家間の紛争が起こった。1749年に侵入したクリム汗アルスランギレイの王子たちは、カシュカタウ党を支持、バクサン党の首領は国外に追放された。勢いバクサン党はロシアの庇護を求めた。しかし、1753年に両党は和解し、共同して、小カバルダ遠征を実行した。小カバルダには前の節で述べたタウサルタン家とジリャフスタン家が存続していたが、カンショコ・ジリャフスタンはロシア女帝エリザベット(1741-62)に善処方の請願を行った。カンショコの息子クルゴコは1759年キリスト教に改宗し、1762年、後にモズドク(カバルダ語で「暗い森」の意味)が建設されるところに移住した。モズドク川がテレク川と合流するあたりであった。集落はキリスト教徒に改宗したオセット人やイングーシ人、カバルダの逃亡農奴を引きつけて成長したので、1763年ロシア政府はここに要塞を設け、テレク・コサックから人員を挑発してモズドク連隊を組織して防衛に当たらせた。カバルダ君公の多数派は種々の理由からモズドク要塞に反対し、サンクトペテルブルグに使者を送って要塞の廃止を請願したが、明らかな拒絶にあった。これを機会に多数派は反ロシア、親クリミア・オスマンに向かった。新進の歴史家マリバホフ氏は、この1763年をコーカサス戦争開始の年次と位置付けている。

ベルグラード条約(1739年)後のコーカサス

甚大な損害を出したにも拘わらず、クリミア軍単独のあるいはオスマン軍との協力によるカバルダ遠征は止まなかった。むしろ、来寇は40-50年代に猖獗を極めた(ピオトロフスキーの見解)。第4次露土戦争後、土墺2国間のベルグラード条約(1739年)続いて、ロシアとオスマン両国で結ばれたニシャ(アナトリアのネヴシェヒル)で結ばれた条約では、オスマン、ロシアの双方はカバルダの領有権を主張せず、かつアゾフ海沿岸は中立地帯とされた。カバルダは独立状態に置かれたが、内部では親ロシア派と親オスマン・クリミア派の角逐が続いていた。研究者の間には、この条約でカバルダの独立が国際的に承認されたとする主張があるが、当事者が関与も調印もせずに国際的に独立が承認されるなどという甘い話があるだろうか。実際のところカバルダは力のあるものが実力で併合していい草刈り場になったのである。日露の南カラフト共同統治や日中共同資源開発海域も同じようなものであったかもしれない。

クバン川がロシア帝国とオスマン帝国の国境になったが、ソチを含む沿黒海地方の身分は条約上曖昧である。通念上オスマン帝国領とみなされたにしろ、国際公法上支配の実績のない地域の領有を主張することはできないであろうからである。その後、第5次露土戦争の結果結ばれたキュチュクカイナルジ条約(1774年)によって、初めてロシア軍が占領していたカバルダのロシア領有が承認された。また、クリム汗国の独立が承認されたがこれはロシアの策略で、独立の10年後、満を持したロシアが併合することになった。日清戦争後に朝鮮独立と日韓併合が行われたのによく似ている。オスマン帝国はこの現実を転覆させることができなかったので、1784年のイスタンブル条約によってロシアのクリミア併合、戦争末期ロシア軍が占領していたアナパおよびスジャク等の割譲(1792年のヤースィー条約によって一旦返還される)、クバン川を両国国境とすること等が合意された。条約の発効にともなってクバン川右岸のノガイ人は、ロシア語でザクバン地方と呼ばれるクバン川左岸に移動した。

 18世紀における西チェルケスの諸集団の動静は、クリム汗との関係を除くとほとんど知られていないのだが、アナトリー・マクスードフはごく簡単に次のようにまとめている。「17世紀の旅行家エウリヤ・チェレビは、クリム汗とチェルケス人の関係は敵対的である叙述した。この点について、彼のチェルケス人の状態の評価は、クリミア・タタル人に対するものよりもかなり名誉が高いものである。ジャネ人、ブジェドゥグ人、ハトゥカイ人、テミルゴイ人はかの土地を通るクリム汗から文字通り息子たちをもぎ取った。その集団も他の集団に後れをとるまいと自分たちの息のかかった汗候補者と持とうとした。ギレイ朝との関係断絶は、チェルケシアではいつも高いリスクが伴った。外見的にはハヌコ(チェルケス語で汗の息子)は敬意をもって遇されたが、これで何か絶対的な権力を持つものではなかった。彼を外部からの攻撃、あるいはバフチサライからの血の復讐の危険から守ることができるのは、養育者(アタリク)の氏族だけであった。かくして、1699年ハヌコの一人シャフバズギレイは、ベスラネにあったカバルダのテミルブラト公の屋敷で殺された。1770年と1771年連続して行われたクリミア軍の襲撃の目的は、略奪でも、権力の何かかにかの意図の成果を誇示するためではなく、体面を維持すること、つまり敵討ちであった。17世紀に大勢のチェルケス人がクリミアに定住し、ギレイ朝の内外政治に影響力を持った。形の上ではチェルケス人ロビーは存在せず、各人が自分のためだけに行動していた。しかし、外見的には相互に支持し計画した活動の結果のように見えた。ノガイ人のムルザ達は時にはギレイ朝に公然と不満を述べた。『貴方達のところでは、チェルケス人があらゆることを差配し、我々には手も出させない』。マルク・ブリェフ(1929-2011年、モスクワ大学歴史学博士、元北オセチア=アラニア国立大学歴史学部教授)は、学術用語はいくつかのアナクロニズムを露呈しているが、それにも拘わらず、十分明確にクリミアとチェルケシアの関係を性格づけている。『クリム汗国は前期封建的国家組織にあり、遅かれ早かれアドゲイ人の軍事民主制共同体の強力なエネルギーの前にはひるまざるを得なかった。アルビ・ド・ラ・モトレの証言によるとチェルケス人の巧妙な戦術によって汗は山地アドゲイ人との戦闘に於いて4万人の兵士を失い、別の戦いにおいては10万の全軍を失った。彼らが無限の攻撃性を表現するだけでなく、敵の優勢な兵力と幾度も対決することができることに、この軍事民主制的構造を持った種族的組織の特性がある。(筆者註。「前期封建制」とか「軍事民主制」はマルクス主義歴史学の用語なので、最近ではあまり好まれないし、クリム汗国や同時代のチェルケス人社会を正しく定義できているか疑わしい。)』。アゾフ総督トルストイに宛てた1709年2月15日付けのピョートル大帝の書簡の中で、皇帝はチェルケス人に注意を払うことを提案している。『今、クリム人と戦っているもの達は、朕と合同することを望みはしまいか』。1713年にダウラトギレイ2世(1708-1713)は、小ジャネに進入したが、そこでプシャダ川でネミレ・シュブスの率いるシャプスグ・ナトハイ民兵に敗北した。伝承によると汗は戦闘で捕虜になり嘲笑を受けたのちに解放された。彼は後ろ向きに駱駝に乗せられたのである。1725年8月8日カルガ・スルタン・バフトイギレイ率いるクリミア軍は征服のためにチュルケスに遠征したことが記録されている。1746年6月28日、一時的に汗に従っていたテミルゴイ人アバゼフ人、ブジェドフ人シャプスグ人ウブイフ人がクリム汗から離反したことが知らされている。この一時的服従は、共同でウクライナや南ロシアを略奪を可能性を思い浮かべるときに見られるとあえて発言できるであろう。1746年10月24日、汗セリムギレイ(1744-1749)は、ドン軍のアタマン・エフレモフ宛の書簡で、一年間もブジェドグの側の襲撃が続いていると述べられている。1753年5月、ロシア史料はアバゼフ、シャプセグ、ジャネはクリミアの汗に対して全く貢納を納めていなかったと記している。1758年にテムルゴイ人はノガイ人とともにクリミア国を略奪している。1761年6月6日現在のウスチラビンカで前述の戦いが行われた。帰趨は再びテミルゴイ人の勝利に決した」。最後のウスチラビンカの戦闘は、その前の年にテムルゴイ公ボロトコがベスレネ公カヌコの一行を攻撃し、カヌコは死亡した。カヌコの姉妹がクリム汗クリムギレイ(1756-1764)の母であったので、汗には報復の義務が課せられた。この襲撃の理由は、ボロトコが叔父であるアバジン人バシュルバイ族の公の復讐を行ったのであった。バシュルバイ族はクバン川支流ウルプ川とラバ川上流の河間の山地に住んでいたが、ベスレネ族はバシュルバイの川下に住んでいた。シャプスグ・ナトゥハイ連合軍がプシャダ川でデヴレトギレイ汗と戦った1813年、ソチのシャプスグ人が応援に駆けつけたどうかはわからないが、少なくともこの事実は知ったであろう。この後に同汗の武将ジャンテムルが3年間シャプスグに亡命していたのは、ここが汗の力の及ばない地域であったからであろう。既に述べたことの繰り返しだが、ナトゥハイ族の領域は、19世紀初め、クバン川の南のテムリュク、アナパ、ノヴォロシースク、ゲリンジクのジュブガまでの海岸部であった。18世紀末まで、クバン川下流およびツメスからプシャダの間にいたのは大・小に分かれたジャネ集団であると考えられている。シャプスグ族はナトゥハイの南、ソチのシャヘ川までの海岸部(小シャプスグ)と、後に山嶺からクバン川までの内陸部(大シャプスグ)に組織を広げた。両集団の領域の境界は緩やかであり、起源的には同一集団であったとも考えられている。ウラジミル・ヴォロシロフはシャプスホ川流域に住んでいた人々を中心にして形成されたのがシャプスグであると考えている。また、18世紀にはそれぞれの領域には、両集団に属しない小集団も見られた。18世紀末まで、クバン川下流(大ジャネ)およびツメスからプシャダの間(小ジャネ)にいたのはジャネ集団であると考えられている。

   16-18世紀北西コーカサスの種族集団分布

  第4項 「ピョートル大帝のペルシャ遠征」期のチェチェンとダゲスタン北部

 18世紀、北コーカサスは大きく変わりつつあった。ロシアが地域を動かす主導権を握りつつあったのだ。その前史は1556年年のモスクワ大公国のアストラハン征服と1569年のオスマン帝国のアストラハン遠征の失敗に始まった。アストラハンは中央アジアやインドとヨーロッパを結ぶ重要な結節地点であるだけでなく、イランやコーカサス東部とモスクワを結ぶ交易上の中継都市であったからである。情勢が落ち着くやいなやダゲスタンの君主たちは、友好と交易を求めて使者を派遣し始めた。モスクワ大公の東北コーカサス経営の要は、1588年テレク川とスンジェ川合流点近くに建設されたテレク柵で、ここには鎮守府将軍(ヴォエヴォド)が派遣され、現地の親ロシア派人士や国際交易商人を保護し、オスマン帝国とクリム汗国、イランを威圧した。モスクワは現地の政局には積極的に関与し、タルキのシャムハルとカバルダの争いにおいてはカバルダを支持し、アストラハンからタルキに陸戦隊を派遣している(1604-5年)。ダゲスタンの諸国家とロシアとの交流は、大動乱(スムート)の時代に停滞したが、ロマノフ朝の成立後再開され、一層強化された。1612年以降、個別の君主の臣従の申し出が続いたが、彼らはサファヴィー朝やオスマン朝との間に政治的バランスをとるためにロシアを利用したものと思われる。17世紀後半、オスマン朝はサファヴィー朝によってダゲスタンから排除されるが、1711年のプルート条約でロシアからアゾフを奪還したオスマン朝は、ダゲスタンにおいても影響力の保持を画策して、現地指導層に種々の工作をおこなった。これは1711-1712年のハーッジ・ダウードとカージー・クムークのスルハイ=ハンによる反サファヴィー朝活動に実った。しかし、一方、ロシア商人の貨物が略奪されたことを口実に、ピョートル大帝がイランに遠征軍を派遣し、自らダゲスタンのデルベントまで前進した(1722-1723年)。この時の大本営跡が最近再発見され公開されている。この遠征はタルキの君主や現在のアゼルバイジャン共和国北部にあったクッバのハンの臣従のような効果を生んだ。西北コーカサスにおけるロシアの前進は、大帝が自ら指揮を取ったアゾフ遠征(1695-6年)によって一旦はドン川河口とアゾフ海を占領した後、一時的に後退した。しかし、東北コーカサスでは順調で、イラン・アフシャール朝の創始者ナーディル・シャーの度重なる遠征(1732-1734年、1735-1736年、1741-1743年、1741-1745年)や1735-1739年の露土戦争の間、ダゲスタン北部のキズリャル要塞の建設、コーカサス防衛線の構築などによって、勢力を伸張させていった。1774年のクチュクカイナルジ条約ではカバルダを獲得、1776年にはダルバフ村で諸侯会議を主催してダゲスタン諸侯の内訌を調停し、北コーカサス中・東部で存在感を高めた。さらに、1763年にはモズドク、1777年にスタヴロポリ、1784年にウラジカフカースが建設された。クリミア併合と汗制度の廃止は1783年であった。

 2008年にチェチェン共和国指導者ラマザン・カドゥイロフは、この年をチェチェン人とイングーシ人のロシアへの自主的統合420周年に当たるとした。1588年テレク柵に近くに住んでいたオコキ集団の領主シフムルザがイワン雷帝の息子フョードル・イヴァノヴィッチに臣従を願い出た。これによって、チェチェンはロシアの固有の領土の一部になったとする主張がされるのであるが、領主の一部のみが全体にかかわる決定はできないし、前近代に於ける世襲君主間の臣従誓約は通例1代限りであろう。

 ロシア支配下に入っても領主に対する農民の抗租やロシアの要塞都市への逃散が頻発したのと同じく、ロシアの支配権を受け入れたはずの諸侯もしばしば不満を反乱に訴えた。18世紀に入って一層、ロシア駐屯軍と地元チェチェン人との衝突が続いた。スヴャトイ・クレスト、キズリャル、モズドクなどロシアの要塞都市が増えたのでカバルダ人、オセト人、イングーシ人、クムイク人等の現地の農奴・奴隷には逃亡してロシア当局の保護を求める可能性が大きくなり、ロシア同様逃亡農奴の引き渡し要求が社会、政治的問題になった。ダゲスタン北部クムイク人のエンデレ領主はピョートル大帝の勅書により、逃亡農奴返却の権利を求めて認められていた。キリスト教改宗者は例外であったが、この場合領主は1人当たり30ルーブリの代償を受け取ることになっていた。ところがテレク要塞衛戍司令官は、この勅令を厳密には実施しなかった。領主は請願を続けたが効果はなかった。これを見た農奴は、時には村ごとテレクに逃げ込んだ。1721年、エンデリの領主達アイデミル・ハムズィン、チョパン-シャムハル・アリエフ、アイデミルの兄カザンアリプ、ヌツァル・チョパラヴ等は、テレク周辺に出撃し、コサック村やロシアの施設を攻撃し、クルバウル村では住民を村ごと連行した。被害は死者と負傷者は別にし、ロシア人の捕虜139人、非正教徒の捕虜3000人、テレク・タタール人(テレク川下流右岸チュメンにいたトルコ系遊牧民)30戸、家畜2000頭、幌車950台が奪われた。さらに、アイデミルとヌツァルは1722年ペルシャへ向かうピョートル大帝の前進を妨害し、1725年アクサイの領主スルタン・ムート(マフムド)はロシアがハサヴユルトに建設したばかりのスヴャトイ・クレスト要塞を攻撃している。18世紀初期エンデレにはハムザイェフ家(世紀末にはテミロフ家とアイデミロフ家に分裂)、カザンアリポフ家(ハムザイェフ家の同族)、チョパロフ家、チョパン-シャムハロフ(或いはアジイェフあるいはハジ-ムルタアリ)家の4家の公家があった。エンデレの領主全体が、対露強行路線を取ったことになる。これに応じたアストラハン総督ヴォルスキーは1721年ドン・コサックを派遣してテレク・スラク河間のアグラハン川とテレク川右岸支流アクサイ川流域のクムイク人、チェチェン人を略奪させて、110人を殺害、家畜5000頭以上を奪った。これに加えて翌年、新設直前のスヴャトイ・クレスト要塞司令官ヴェテラン将軍は懲罰遠征部隊を組織し、クムイク人とチェチェン人が住むエンデレ村に反乱鎮圧部隊2,000人を率い、5-6千人規模の武装した住民の抵抗を受け戦死者80人を出したが、村を焼き払った上、家畜等を略奪し帰営した。これに続いて同年8月勅命が下り、海路到着したばかりのドン・コサックとカルムイク兵を加えた大規模な追加膺懲部隊が組織された(指揮官クドリャツェフ中尉)。結果的にエンデレの支配者は恐れて帰順を表明した。10年後、混乱はクムイク諸領の西隣チェチェンに及んだ。1732年にチェチェン村(この村名がこの民族のロシア語名になった。現在のグロズヌイ市内の「クラスヌイ・モロト」工場敷地)とエンデリ村の住民に混乱が生じ、チェチェン村では武装した住民1万人が集合した。現代の研究者、例えばアフマドフは単に住民が自分たちの領主や村落の長老に従わなくなったと述べる。領主ハスブラト・トゥルロフはこれが反ロシア運動ではないと知っていたが、当局に通報してロシア軍の導入を図った。ドゥグラス将軍が鎮圧部隊を率いて出陣し、チェチェン村を焼き払ったが、コフ大佐の分遣隊のロシア軍兵士1,700人中125人が戦死した。ハスブラトは戦闘中殺害された。低地のチェチェンの多くはそれほど遠くない過去に山地から下った人々で、18世紀初めにはアルダなど7か所の集落が開かれ、世紀末までにはスンジェ川の南のゲヒ川とフルフライ川の間には人口稠密地帯も出現した。今日ウルスマルタン、チリユルト、シャリ、アルグン、グロズノイのある地域である。また、ダゲスタン方面でもアクサイ川、ヤルィクス川中流にもチェチェン人の居住地域が広がった。平地のチェチェン人の集落は階級分化の少ない自由な共同体で山地の氏族集団テイプとの紐帯を強く残していた。この地域、ゲヒ川流域からアクサイ川流域までの地域を支配していたのは、クムイク化したアヴァル人トゥルロフ氏であった。彼らは支配する土地の所有者ではなく、直営地の農奴と奴隷を別にすると村民に対する人身的支配権も持っていなかった。この点、同時代のカバルダやロシアの領主とは大きく異なっていた。ロシアの植民地体制下「彼らは支配下のチェチェン人から税(ヤサク)を徴収し、村落法廷の決定に従わない人々に罰金を課し、襲撃で略奪した収穫の一定部分を受け取った。トゥルロフ家の公たちの収入の一定部分は農奴の搾取からもなっていた。トゥルロフ家の所領は地理的に有利な条件にあり(トゥルロフ家の領地にカバルダからダゲスタンに至る街道が通じていたことが知られている)、公たちは通過する商人から関税を取り立て、領地周辺で牧畜する人々から群れ辺りに貢納を徴収した。トゥルロフの公たちは、牧畜経営で莫大な財産を築いていた。支配下のチェチェン人からの現物地代徴収の結果、毎年少なくとも千頭の有角家畜が増えていたことが知られている。トゥルロフ家の公たちは私有する油井から産出する石油の販売の大きな利益を有していて、毎年コーカサス防衛線に少なくとも500樽の石油を1樽16銅ルーブルでの価格で売却していた。トゥルロフ家は塩の売買でも膨大な現金収入を得ていた。1811年テレク川右岸のナウル産の塩はマゴメド・トゥルロフを通してチェチェン人に販売された」(アフマドフ)。他方、18世紀40-50年代、中央アジアのヒバでむごたらしく殺された大カバルダのアレクサンドル・ベコヴィッチ・チェルカッスキー公の甥、デウレトギレイ・チェルカッスキーは、チェチェン東部のゲルメンチュクとシャリ(第一次チェチェン戦争時のロシア軍による住民虐殺で記憶されている)の領主であったが、「支配下の農民に対する残酷なふるまいのために、地元住民によって領地から追放され、1773年には新しい領地の反乱で殺されている。やがてトゥルロフ氏に属する公たちもスンジェ川右岸の領地を追われ、ナウルの近くに新しい自前の集落を開いている。1732年の住民大会の議題は封建的搾取の除去にあったかもしれない。しかし、それにしては、ロシア当局者の報告では「同年の6-7月、8千から1万4千人の山地民(ロシア人は北コーカサス固有の人々を、住んでいる場所にかかわりなく、一定の差別感を込めて山地人と呼んだ。しかし、その中に本来の山地民がいた)が集まった。そこには、平地のチェチェン人以外にも山の人、アウホフ衆、クムイク人がいた。そこで、指導者としてアジと名乗る者がイスラーム教を深める為に不信心者の山地民に遠征することを呼びかけた。チェチェン・アウルの筆頭の公は、その時ハスブラト・トゥルロフであったが、この集会は反ロシア的性格ではないと知っていた。しかし、ロシアの将軍たちはチェチェンに部隊を派遣した。ハスブラトは部隊がチェチェン・アウルの近くで壊滅した時、殺された」(ヤウス・アフマドフ)。アジというのは勿論メッカ巡礼経験者ハーッジの訛りであるが、ここでは称号なのか固有名詞なのか断言できない。この集会が宗教運動あるいは単に日常的信仰の実践であったのかも断言できないが、チェチェンでは16世紀後半に東部低地のスンジェ、アクタシュ、アクサイ、スラク川流域でイスラム化が始まり、18世紀半ばにはほとんどすべてのトフム(伝統的地域共同体)で社会的に公的な信仰として受容されていた。ただ、スンジェ川上流では1770年代でも、固有宗教とキリスト教が残存していた(ゼルキナ)。この事件が起こった1732年、6-7月は、イスラム暦(ヒジュラ暦)1145年ズルヒッジャ月、ムハッラム月、サッファル月に重なる。メッカ巡礼最終日のイードルアドハー祭は5月25日であるが、断食贖罪の日であるムハッラム月10日は7月4日であるので宗教的行事には適合している。1735年侵入したカプランギレイのクリミア軍8万をグロズノイのハンカラ近郊で撃破したのは、この殺されたハスブラトの後継者アイデミルであった。この者は1743年、ツァーリに対する永遠の忠誠を申し出て旗色を鮮明にしたが、しかし、それはイランのナーディル・シャーの侵入はないことがはっきりした後のことである。また、息子ロスランベクの代には下賜金年額50銀ルーブルを与えられた。チェチェン平野部の領主(ツァーリ朝廷から公号を認められている)は、18世紀半ば、アルグン川流域のゲルメンチュクとシャリにベコビッチ=チャルカッスキーの庶子デウラトギレイ・チェルカッスキー家(1747年、住民によって招聘)、チェチェン、アルドゥイ等にトゥルロフ(クニャズ・トゥルロエフスキー)家、ダゲスタンのアクサイに本拠があるダルドィハノフ家等であった。彼らはツアーリに臣従して永遠の忠誠を誓い、俸禄を与えられてロシアの貴族になった。北コーカサスを巡る国際的政治関係が、どうやらロシア有利に傾き始め、ロシアと現地支配層との関係が固定してくると、農民と領主との争いや反公課行動が顕在化する。1857-8年の反乱では、ロシア人の進出に反対する廻状が回され、指導者はアイデミルの息子アルスランベクのウズデン(従士)、シャバイ・アフロフが指導者であったから、反乱は反ロシア的性格であったのであろう。再度1783年に起こった反乱によって、領主はスンジェ川流域から追放された。1757-8年の戦乱では、平野の農民と領主の対立がそもそもの原因であった。これに山地のチェチェン人、ダゲスタンのチェチェン人とクムイク人が加わり、ロシアの進出に不安を抱いていた領主の一部も合流した。ところが、1760年の反乱ではアタギ村の領主ハスブラト(1732年に戦死したハスブラトの息子アリベクの息子であろうか)が殺害され、1770-1774年の反乱では、先に説明したデウラトギレイも殺害されたから、チェチェン人の反乱には反封建的要素が強まったのであろう。この年の争議では、ロシア軍の出動は知られていない。1770-1774年の反乱では、ド・メデメ将軍やヤコビ将軍が厳しい破壊活動を実施した。1783年にはアタギ村(2度)とゲヒ村が焼き払われた。ロシア帝国は1785年にカフカース総督府(初代総督パーヴェル・ポチョムキン伯爵は、エカテリーナ女帝の愛人と言われるクリミア総督グレゴリーとは別人)を置き、クバン川とテレク川までの北コーカサスの直接統治に乗り出した。コーカサス防衛線に沿って、次々とコサック屯田村が建ち、地元民は、新しい住民はかって彼らの隣人であったグルベン・コサックとは違う人々であることを知るようになる。最後にもう一つ重要なのは、1780年代シャリーア(イスラーム教の法規範)の確立を求める機運が強まったことである。

 第5項 イマーム・ウシャルモ(シャイフ・マンスール)のシャリーア運動

18世紀の北コーカサスではあらゆるレベルの争いが続いていた、世直しを望む声は高くなっていっただろう。宗教の力による世直しの動きは、すでに1732年の現地人の大集会に見ることができるが、グロズノイに近い、チェチェンのアルドイ村の羊飼いウシュルマ(シャイフ・マンスール)の反乱はこのような時代を背景として生まれた。アルドイ村は、スンジェ川の下流右岸の平野の中にあり、グロズノイの南西ザヴォドスキー区の集落であるが、現在のもの(ノーヴイアルドウィ。2000年2月のロシア連邦軍部隊による住民虐殺で有名になった)は、当時の集落よりスンジェ川よりにある。村史ホームページの伝える伝承によると、1588年5月、イランから帰国途中のクリム汗軍は、グレベン・コサックの急襲を受けて敗北したが、その内アルドイギレイ・スルタンの部隊は、スンジェ川を渡りきることができず、渡河点から7露里の森の中に逃げ込んで、そのままそこに住み着くことになった。村はスルタンの名をとってアルドイと呼ばれるようになったという。クリミア軍の総大将はカルーガ・スルタン・アーディルギレイであった。伝承のアルドゥイギレイ・スルタンはアーディルギレイのことであったかもしれないが、アーディルギレというクリム人の武将は他にもいるので断定はできない。。17世紀末トゥルロフ一族が家臣、農奴らと共に来住した。トゥルロフ家との協定によって山地からディシュニ、グノイ、ベノイ等のタイプの人々が住み着くようになり、チェチェン人農民は周辺のカバルダ、クムイク、カルムイク、クリミア、ロシアからの庇護を受ける条件で、トゥルロフ家の領主権を認め、税の支払いに応じたと言う。しかし、18世紀半ば、領主権の強化を施行するトゥルロフ家とチェチェン人の農村共同体は対立するようになり、1783年にトゥルロフフ家は追放されたことは前項で述べた通りである。トゥルロフ家の人々はアヴァル人であったが文化的にはクムイク人化しており、アクスーやエンデレの領主家との関わりも深かったと考えられている。

 

  ピョートル一世とシャイフ・マンスール(現地の人々はより権威の高い称号であるイマームと呼んでいる)

 大きな社会的変動と戦乱、人々の抱く社会的不安を背景にウシュルマ(シャイフあるいはイマーム・マンスール)のシャリーア運動が生じた。ウシュルマについては、様々なしかも相互に矛盾する伝承が伝えられているので、通説に近いところを述べたい。ウシュルマは1760年うまれであると考えられている。父親はシャフバズという名の貧しいウズデンであったので、ウシュルマも幼い時は牧童として働き、長じてはコサック村を襲う群盗に加わることもあった。村のモスクで初等教育を受けたと言われるが、文盲、つまりアラビア語の読み書きはできなかったことを自分で認めているから、寺子屋式学校のコーランを教えるだけの授業であったのであろう。勿論、当時チェチェン語では読み書きは行われなかった。クムイク語はトルコ系の言葉で、当時北東コーカサスでは商業上の共通語の地位にあり、アラビア文字で筆記する文章語でもあった。ウシュルマもクムイク語を解したようである。父シャバスはチェチェン東部の山地ヴェデノ地方のエリスタンジ村の出身で、近隣のハトットゥニ村に転居した後、最終的に低地のアルドイに移住した。エリスタンジ村の人々はエリスタンジホイ・テイプに属し、トフムはノフチマフカホイに属するもっともチェチェン人らしいチェチェン人であった。土地不足の山地住民が農地を求めて低地に下るのは、18世紀チェチェンの趨勢であるが、移住した人々は、所属するテイプや山の故郷との繋がりを捨てなかった。1778年から1781年にかけて、ウシュルマはイスラーム教の信仰を深める為に家を離れるが、彼自身の説明では信仰の師を求めてツァニ-スタグに師事し、世間に出てムハンマドの教えの光を広めるように命じられるまで、人里離れた高原の岩窟で修行を続けたという。このツァニ-スタグとはイングーシ人が毎週日曜日の犠牲の儀式を取り扱う司祭のことで、神聖、清浄、有徳な人物という意味である。トゥアニ-スタグはトフバ-エルダやその他の聖地で祈り、一人で儀式を執り行う。トフバ-エルダは、イングーシェチアのアッスィ川の近くにある今日も遺構が残るキリスト教会であるが、この近くにウシュルマ自身の言葉によるとムハンマドのコーランが保存されているという。ウシュルマのイスラーム信仰には、固有信仰やキリスト信仰の基層があったようだ。

 トフバ・エルダの教会

 ウシュルマは夢の中で体験した種々の秘蹟を家族に語り、村人に対しても禁酒禁煙、血の復讐と略奪行の停止などシャリーアに従うことを説き始めた。1785年2月と3月の大地震以後は、現世の終焉を宣言し、ジハードを呼びかけた。周辺の農村の住民だけでなく、クムイク人やチェチェン人の領主も参加したウシャルモのジハード軍は、今日に及ぶまでロシアのダゲスタン支配の要であるキズリャルを攻撃するが2度にわたって失敗、方向を転じて大カバルダに向かうもののタタルトゥップでロシア軍に撃破された。1786年2度にわたりオスマン朝スルタンの特使と会見したが、この段階で既にチェチェンにおける戦線は崩壊し、ダゲスタンの領主達とチェチェン人は運動から離脱していた。1787年ウシュルマはクバン川左岸に拠点を移し、ロシアに和平を打診したが拒否された。蜂起開始の直後オスマン政府当局はウシュルマの身上調査をしたが、「オスマン国家やイスラーム教に対しては反抗的ではないが、彼には全く神秘的なことも超自然的なことも無い」との報告を受けて放置していた。オスマン政府がウシュルマに利用価値を見出したのは、1787年の露土戦争開始以後であった。ウシュルマはアナパの総督と面談し、武器の援助と正規軍の送派を請願した。総督は快諾したが、イスタンブルからは武器も援軍も来なかった。待ちあぐねたウシュルマはチェルケス人支持者を率いてクバン川上流左岸の山地でロシア軍と戦った。しかし、弓矢、槍、刀剣、精々旧式銃で戦うウシュルマ軍はロシア軍の敵ではなかった。ウシュルマはこの年暮れ、雪の山中を突破しスジュク経由でアナパに帰還した。これ以降は、時にはチェチェンに赴くこともあったが、主としてアナパにいて、支持者の拡大と援軍の確保に努めた。1791年グドヴィッチ将軍率いるロシア軍がアナパ要塞に突入し、総督イペクリ-パシャが降伏してもウシュルマは抵抗を止めず、弾薬が尽きて初めて降伏した。ウシュルマの身柄はサンクトペテルブルグに送られたが、1794年シュルッセルベルク海上監獄で病死した。ウシュルマは、「私はコンスタンチノプルのこともソチのこともグルジアのことも知りません。コーカサスの向こうのこともこっちのことも、近くより先のことは知りません。私は旅行はしたことがありません。アナパ以外の町のことは知りません」と述べる。行ったことはないにしろ、ウシュルマの頭の中の地図にはソチが書き込まれていた。この戦乱はソチには及ばなかったが、間もなくソチを巻き込むことになる、もっと大きな動乱は既にこのようにして始まっていたのである。