第2章 沿黒海地方史の始まり

第1節黒海周航紀の世界

 

 

 

 第2章 沿黒海地方史の始まり

 

第1節 黒海周航紀の世界

第1項<ヘカタイオスと偽スキラクス>

ヘカタイオスの世界地図 ヘカタエオス自身が作成した地図やその写しは残されていない。これは、後代、当時考えられていたと信じられる海岸線の中に、ヘカタイオスが伝えた地名を書き落としたものである。出典)Мутафиян,К.

Эрик Ван Лев.Исторический Атлас Армении ,Москва.2012стр.91原本所蔵は Biblioteque Nationale Ge FF 8520,planche2

 

紀元前700年ごろギリシャ人の黒海進出が始まると、コーカサスに関する情報は増え、その一部は現代にまで伝えられている。古代ギリシャの最初の歴史家とも最初の地理学者とも呼ばれるミトレスのヘカタイオス(紀元前550頃‐476頃)が表した『世界概観』は、本体は散逸したものの引用の形で多くの残簡が残されていて、6世紀のステファヌス・ビザンチヌスの地理事典『民族(Ethnos)』には、

 

コラクス人はコルキス人の種族で、コル人の近くにいる。ヘカタイオスの書にはアジアの部分にある。コラクスの要塞、コラクスの国。

 

及び

 

コル人はコーカサス山の近く民族である。ヘカタイオスの書にはアジアの部分にあり、コーカサスの山麓はコル山脈と呼ばれる。その国はコリカである。

 

等と記されている。古代ギリシャの人々は、ドン川をアジアとヨーロッパの境界であると考えていたので、ここでアジアというのは、南ロシアのドン川、アゾフ海、ケルチ海峡の東ということである。黒海東南岸にいたコルキス人は、特徴のある青銅器で知られるコルキス文化の担い手であったが、紀元前8世紀のキンメリア人の国内通過とそれに伴うスキタイ人の侵攻によって大きな打撃を受け、ヘカタイオスの時代にはイランのアケメネス朝に従属させられ、太守によって治められる直轄州とは違って金貨による税の支払いはまぬがれたものの、5年毎に少年少女200名の奴隷を納める義務を課されていた。 歴史学の父と呼ばれるヘロドトス(紀元前485頃‐420頃)は、ヘカタイオスの1世代後の人で、『世界概観』を読んだと述べていて、それによって黒海沿岸に住むコルキス人はエジプトからの移住者なのでエジプト同様の亜麻布を織ると書いている。クセルクセス大王のギリシャ遠征軍に加わったコルキス人の装備は、木製の甲、牛の生皮の小盾と短槍、短剣で、テアスピスの子でダリウス大王の甥に当たるパランデスの指揮下に入っていた。ヘロドトスはコルキス人がリオニ川流域に住んでいて、かつて、イアソンが王女メディアを奪ったコルキスの都アイアスはここにあったと述べる。金羊皮を求めてアルゴー船に乗り、黒海を旅したギリシャの英雄達の物語である。今日、グルジア人もアブハズ人もチェルケス人でさえ、これを自分たちの祖先の物語であると信じたがっている。イギリスの言語学者ヒューイットの人名分析(例えば、コルキス王名アプスィルト)によると、ここでいうコルキス人はアブハズ語を使っていたという結果になるが、地域的にはリオニ川流域であるので、ヘロドトスの時代、西グルジアのイメレティ(ロシア語ではイメレティア)地方にコルキスの中心があったと考えられている。

さて、アッシリアの碑文によると、紀元前12世紀、アッシリア王ティグラトピレセル1世が、上の海のキルヒを征服した。グルジア史の通説ではこの上の海を黒海であるとしているが、筆者はヴァン湖かもしれないと疑う。アッシリアの年代記では、ヴァン湖はしばしば「上方の海」、「上の海」とも呼ばれていて、王は確かにヴァン湖周辺でナイリやダオエヒなどの国々を征服していたし、また、ヴァン湖と黒海の間には通行困難なシャヴシェティ山脈が聳えているからである。この戦争から400年も経って、今度はヴァン湖周辺に建てられたウラルトゥの王、サルドゥリ2世(前764-735年)が、2度にわたって、コルハを攻め、首都イルダムシャを落とし、フシャルヒ王を捕虜にした。アッシリアのキルヒも、またウラルトゥのコルハもギリシャのコルキスと同じ地名であると考えられている。しかし、このキルヒとコルカが西グルジアのリオニ川流域あったとするのは、無理がある。グルジア史の定説でもこれを西南グルジアに置いて、南コルキスという用語を当てはめている。場所はグルジアの南西部黒海岸の地域、一言でいうと現在のアジャラ(ロシア語ではアジャリア)である。

黒海沿岸の住民情報は、アケメネス朝ダレイオス2世の息子キュロス王子のギリシャ人傭兵隊長、クセノフォンの逃避行記『アナバシス』の中にも収められているが、クセノフォンのコルキスはトラベズス(トレビゾンド)の山地にあった。このようにコルキスはかなり広い地域にまたがる地名であったが、ヘカタイオスのコルキス中心部は、リオニ川の流域にあったとしていいだろう。そして、その北に広義のコルキス人の一部であるコラクス人がいたのである。コラクス人と系統不明のコル人は政治的には、恐らく非常に緩やかにコルキス王国組織の中に含まれていたのであろう。

ヘロドトスは、紀元前7世紀にキンメリア人が黒海東海岸通って古代オリエント世界に移住したと述べているが、通過した地域の地元の人々との接触については沈黙している。しかし、自分自身の1世代前の出来事であるダリウス1世のスキタイ遠征について述べて、タナイス川が注ぎ込むマイオティス湖の東海岸にマイオタイ人の国があったと述べる。タナイス川はドン川、マイオティス湖はアゾフ海のことである。また、現在のケルチ海峡であるキンメリア海峡の東側、つまりタマン半島にスィンドイ人が住み、その国はスィンディケと呼ばれていたことを述べている。 ヘカタイオスとヘロドトスの時代、黒海とアゾフ海の岸に、北から南にメオタイ人、スィンドイ人、コル人、コラクス人、コルキス人が住んでいたことが知られるのである。ただ、『世界概観』の記述は断片が残っているだけだから、ヘカタイオスが知っていたことの全てが伝え残されているかどうかは解らない。

次に、ヘカタイオスの時代から百数十年ほど過ぎた紀元前4世紀、偽カリアンドのスキラクスは、黒海周航記を著して、海岸の民族や都市の記録を残した。彼はアゾフ海と黒海海岸の地誌を時計周りに記述したが、シェロヴァ=コヴェデャエヴァのロシア語訳と注釈によって内容を示すと、

 

  サウマタイ人。タナイス川の向こうはアジアで、そこの最初の種族はサウロマタイ人である。サウロマタイの種族は女が支配する。

  メオタイ人。メオタイ人は女が治める人々の隣に住む。

  スィンドイ人。メオタイ人の隣にスィンドイ人が住む。しかし、彼らは湾の中に住み、彼らの国には、ファナゴラ、ケピ、スィンド湾、パトゥントなどのギリシャ都市がある。

  ケルケトイ。スィンドイ人の向こうにケルケトイ人がいる。

  トレトオイ人。ケルケト人の後に、トレトイ人がおり、ギリシャ都市トリクと湾がある。

  アカイア人。トレトイ人の向こうにアカイア人がいる。

ヘニオコイ人。 アカイア人の次には、ヘニオコイ人がいる。

コラクス人。ヘニオコイ人の向こうにコラクス人がいる。

コリカ。 ヘニオコイ人の次にコリカ地域がある。

メランコレノイ人。コリカの向こうにメランコレノイ人がおり、彼らのところにメガソリス川とアイギプ川がある。

ゲロン人。メランフレノイ人の次はゲロン人。

コルキス。これらのかなたに、コルキス人、ディオスクリアダ市、ギリシャ都市ギエノス、ギエノス川、ヘロビ川、ホレ川、アリ川、ファスィス川、ギリシャ都市ファシスがある。

 

 古代史上有名なスキラクスは、ハハマネシュ朝ダリウス1世に命じられてインダス川、アラビア海、紅海を航海した探検家だった。しかし、この地誌は記事内容全般から判断すると紀元前6世紀ではなく、紀元前4世紀の情報であると考えられ、真の作者は不明であるので、仮に偽スキラクスと呼ばれている。偽といっても誰か別人が本人に成りすましているということではない。この航海誌により、アゾフ海東岸にあったメオティスとタマン半島にあったスィンディカの位置が確認されるが、これは現在も継続しておこなわれている発掘調査により、更に一層確実なものになっている。偽スキラクスのコルキスは、ディオスクリアダすなわちスフミから、ファシスすなわち現在のポチ周辺までの地域である。特にここではディオスクリア(ディオスクリアダ)市の名前が挙げられているが、これは後にはセバストポリスとも呼ばれ、現在のアブハジアの首都スフミである。これらの都市は、偽スキラクスがわざわざ「ギリシャの」と書いたように、紀元前6世紀ミレトス人によって建設された殖民都市で、土地の人々は通常都市には住まなかった。ギリシャ人は黒海周辺中に本国に似た政治形態の都市国家を築き、後背地の人々と交易をおこなっていたのである。偽スキラクスはギエノス(ギュエノス)とファシスにはギリシャ都市というのに、ディオスクリアダをギリシャ都市とは言わないのは、これがギリシャ人の建てた都市ではないからであるという主張もあるが、人間は分かりきったことはことさら書かないこともあるから、必ずしもそうとは言えないだろう。一方では、ディオスクリアと並んで名前が挙げられたギエノスは、スフミの南、現在のオチャムチレだが、発掘の結果若干の現地人が住んでいたことがわかった。場所がはっきりしているスィンド人とコルキス人の間に、新しい民族と地域が現れたのだが、都市に関してはタマン半島の都市群、やや南にトリク(トリコス)があるだけでディオスクリアダまで情報はない。研究史上、トリクの場所は明らかで、現在のゲリンジクに推定されている。ヘロドトスの『歴史』にトリコスの記述があるとする典拠不明の文献が見られたが、筆者の調べる限り該当する記述は見つからなかったので、参考までにここに一筆入れておくことにする。さて、ゲリンジクの北にケルケティ人、ゲリンジクにトレタイ人、ゲリンジクの南にアカイア人が住んでいた。すると、ヘニオキ人は大ソチ市の領域か少なくともその近隣、南のトゥアプセやガグラを含めた地域に住んでいることになる。更に時代が下った紀元1世紀の人、ポンポニウス・メラは、

 

  ディアスクリアは、ヘニオキと接する

 

と書いてあるから、紀元前4世紀以降、ヘニオキ人は更に南にまで住んでいたことになるが、まだこの時代にはヘニオキ人とディオスクリアダの間にコラクス人、コル人(コリカ地方)、メランホレノイ人、ゲロン人が居た。上記の諸民族集団に関して、ギリシャ語ではヘカタイオスを溯る史料はないが、ウラルトゥ王のアルギシュティ1世の碑文(紀元前8世紀)には、今日のトルコ北西部のチルディル湖周辺にイガニエヒの国があったことが記されている。この集団がギリシャ人のフニオホイ、ローマ人のヘニオキであるとする仮説が提示されている。そうかもしれない。一方、ヘニオキは固有の集団名ではなく、「(戦車の)御者」という意味のギリシャ語なので、土着の種族ではなく外来の戦士集団であるという説も出されているが、であるとすると、ウラルトの碑文の集団名称は、ギリシャ語起源と考えなくてはならない。或いは逆にこの碑文のイガニエヒに相当する自称かまたは現地語をギリシャ語で音訳するときギリシャ語の似た響きの語彙を採用してしまったのかもしれない。丁度、ギエノスをキクヌス、キグヌス(ギリシャ語でもラテン語でも「白鳥」)と読み替えてしまったように。後の時代の紀元1世紀大プレニウスは、ヘニオキ人は雑多な要素からなる集団であると述べるが、偽スキラコスの時代もそうであったかどうかは、判断の材料ない。

 すると、偽スキラクス以前のギリシャ人はこの集団をヘニオキと音訳しただけであったが、後のギリシャ人は、ヘニオキを「御者」であると読み替えてしまい、彼らの祖先がギリシャ人であると解釈したことになる。ギリシャ語以外にヘニオヒ人自体あるいは、地元の周辺民族が彼らをどのように読んでいたかを知る手段は、今のところない。この碑文に次ぐ古さであり、彼らについて述べるギリシャ語の現存するテキストでも最古と思われる偽スキラクスの記述は、ヘニオヒ人がどのような人々かは述べていないが、前4世紀の半ばに、哲学者アリストテレスは、

 

黒海のあたりに住むアカイア人とヘニオヒ人のように、すぐにでも人間を殺して食べようと待ち構えている種族は多い。彼らと同じように、更にはもっとひどい部族もある。彼らは略奪で生計を立てているが、臆病である」(アリストテレス『政治学』ベンジャミン・ジョーウィットの英訳からの重訳)

 

と述べている。また、別のところでも、

 

  最初、ヘニオキはファシスに住んでいた。彼らは人食いで、人の生肌を剥ぎ取った。

 

と述べる。紀元前4世紀のこととはいえ信じられない話である。これは、オリエンタリズムだと、アリストテレスを評価することも可能だが、実はギリシャ人の伝説ではアカエイ人もヘニオキ人も先祖はギリシャ人であった。但し、アリストテレスは食人民族について言いたかったのであって、アカエイ人とヘニオキ人について書きたかったのではない。このような場合の証言の信憑性は劣ると思う。

ヘニオキ人の南東にはコラクス人とコル人が並べられている。ヘカタイオスの記述では、コラクス人はコルキス人に属し、コル人はコーカサス山脈に近いとするだけで位置関係は明確ではないが、偽スキラクスの記述では、両民族ともにヘニオキ人と隣り合っている。ヘカタイオスによれば、コル人は山麓の住民であったが、アリストテレスの『気象学』によると、地下の川が、コラクス人の国の地下から黒海に流れ込んでいるのであるから、コラクス人は海岸に住んでいたのであろう。ヘロドトスでは黒海東南沿岸に置かれているコルキス人は、偽スキラクスではあたかも、ディオスクリア(現在のスフミ)やギエナ(ギエノス、現在のオチャムチラ)、ファシス(現在のポチ)周辺に住んでいる。従って、コラクス人とコル人はコルキス人の北の地域に住んでいたと理解できる。一方、ヘカタイオスでは、コラクス人はコルキス人に属しているとも明記されている。現代の歴史学者の中には、紀元前4世紀の記録にはないコラクス川を想定して、これをスフミの南の現在の名称のケラスリ川にあて、コラクス人とコル人を同河左岸に置いている。しかし、これではメランコリノイ人とゲラン人の居場所がなくなる。そこで、コラクをアブハジア語の「非常に黒い」という言葉に理解して、これとギリシャ語のメランホリノイとは同じ集団を指しているという発見がなされた。しかし、これは学界の主流意見にはなっていない。学界の主流意見は、コラクス人のもとにコラクス河を想定し、この川をアブハジアを南北に分けるブズィブ川にあてて、コラクス人とコリ人をその南に置く。現代の地名ではピツンダやグダウタ、ノーヴイ・アフォンがコラクス人とコル人の住処であることになる。しかし、コラクスという河川名が、最初に現れるのは、紀元2世紀の人プトレマイオスの著述の中である。一方、ディオスクリアダ、すなわちスフミの南のケラスリ川がコラクス川であったとする主張もあるが、そうしてしまうと偽スキラクスの記述と合致しない。

ディオスクリアダとコラクス、コリカの間に、メランコレノイ人とゲラン人が住むが、メランコレノイ人は、「黒衣の人」の意味のギリシャ語であるので、「御者」の意味のヘニオキ人やのちの時代の「プティロパギア」(虱食い)と同じく、本当に具体的で周囲の集団から区別される人々を指しているかどうか確実ではないし、当然自称ではなくて渾名に類するが、自称あるいは現地語の他称をギリシャ語の音が似て、しかも特徴を表している言葉が選ばれたのかもしれない。これもあくまでも、かもしれないであるが。

「アブハジアの青銅器」として知られる多くの青銅器がある。アブハジア青銅器は、コルキス文化に分類される遺物ではあるが、1940年代以降、研究者はアブハジア、更に詳細には北西アブハジアのコルキス文化が独特の特徴を持っていることを強調してきた。さらに、コルキス文化が専門の考古学者スカーコフは、ピツンダの北のブズイブ川からスフミの南のケラスリ川までの地域の後期青銅器文化は、紀元前9世紀までにコバン文化の影響を受けて成立し、前8世紀と7世紀前半に独自の文化を最高の水準に発展させたブズイブ・コルキス文化が存在したと主張する。また、スカーコフは青銅器時代後期と鉄器時代初期の北西部南コーカサスの埋葬様式を北西から南東にガグラ型、ブズイブ型、イングリ・リオニ型に3分類した。「ブズィブ変種にとって最も特徴的であるのは、西の方を向くか、西に向かった脇をすくめた伸葬墓である。また、甕か、あるいは稀に炭を入れた穴の下に改葬された。相対的に遅い時期、スフミに限って、つまり、イングリ・リオニ変種との接触地域では明らかにその影響で、近くの墓穴に遺骨を埋葬された火葬の例も見られる。ガグラの墓地では、甕あるいは甕の近くの墓穴に改葬される(ときには対になって)と、同じく、はっきりと述べることができる。少ない頻度ではあるが特徴的であるのは、南、南西、北西の向きが優勢であるがいろんな方角を向いた伸葬(一例では横向き)である。ガグラの墳墓は特別なものではなく、似たり寄ったりの、事実上変化のない墓は、ソチからブズィブ川の間に見られる。イングリ・リオニ変種は改葬の際に部分的な火葬を伴った特徴ある集団的墳墓である。次に課題は、考古学的地域分類と文献にあらわれる集団名称どのように対比させるかだが、スカーコフは、コラクス人とコル人の国をソチ地方北部に推定しているから、かくして、スカーコフは民族集団の配置に関しては、メランホリノイ人とゲラン人をブズィブ型の、コラクス人とコル人をガグラ型の様式の担い手にしてソチとブズィブの間か、さらに北のソチに置いていることになる。結局、紀元前4世紀、ソチにはヘニオキ人、コラクス人、コル人などが住んでいたと推定することができるであろう。ソチで発見された青銅器時代後期コルキス文化に属する青銅器は、ほとんど全て巷間収集品、盗掘品、地上採集品、鍛冶屋のストックなどであったが、ヘレニズム期にあたる紀元前6世紀から前1世紀の遺跡は、学術的に発掘され研究されている。この時代の遺跡は住居址と墳墓であるが、住居址はソチ市中央区西部のママイカ川河口部、あるいは同市アドラル区のクデプスタ川、ホスタ川、プソウ川下流の海岸にある。その内、ママイカの集落跡は総合的に見てギリシャ人のもので、ガラス、アラバスター、赤陶、黒陶の什器、テラコッタの小像などが出土し、この地方におけるギリシャ産品取り扱いセンターになっていたようである。クデプスタ川ホスタ川プソウ川下流方面では、アンフォラの破片、香料瓶、大鉢、甕、ギリシャ風および現地製作の赤陶黒陶無彩色の皿が出土した。また、表面採集品から見て、ホスタ川上流のヴォロンツォフ洞窟が北コーカサスからの交易品を持ってくる人々や地元の人々にとって仮の避難所の役割を果たしていた。また、ママイカの出土品はクリミア・ボスフォラス王国とのかかわりが深いのに対し、クデプスタ川やプソウ川下流の遺跡では、黒海南岸のシノプや現地生産の出土品が目立つ。

ギリシアの以外にスキタイ・サルマート風の出土品が顕著である。剣、槍の穂先、斧の様式に残されている。

 取手に鎌形の握りがついたキンジャル(短剣)の分布。出典スカーコフ「鉄器時代初期西部および中央コーカサス間山越えの交流」https://www.kavkazovedi.info/nesws/2014/09/18/

transkavkazakie-svajzi-nazapadnom-i-centralnom-kavkaze-epohu-rannego-zheleza.html

 

ソチ出土の鉄の剣(1-5)、キンジャル(6)、斧(7)クラースナヤ・パリャーナ出土の剣(出典、ヴォロノフ、https://budetinteresno.narodru/kraeved.ru/kraeved/sochi_drev_3_1.htm

右上が鎌形握りキンジャル。

 

 ロシア、バシュクルトスタンで出土のサルマタイ人の短剣(出典、M.Kh Sadykova,Sarmatskie pamiatniki Bashkirii,Pamiatniki skifo-sarmatskoi kultyry,Moskva,19-

62)

 

スカーコフが、「紀元前4世紀の半ば、アブハジアの領域には、要するに、大コーカサス山脈の峠を越えて、クバン川沿岸から好戦的集団の侵入、ギエノスの都市的生活を消滅させ、メオト風の馬の犠牲を伴う文化が現れたことに関わる、何か壊滅的事件が起こる。紀元前4世紀の末に関して、何か大きな軍事的衝突があったことが、ギエナ市の碑文の断片で語られている。紀元前3世紀から前2世紀に地元の文化は、西グルジアのヘレニズム文化圏の一部分になって、(それまでの)素晴らしい独自性のある文化を失った」と述べているのは、この事情を説明している。

 

馬の犠牲を伴う墳墓 出土地はコルキス文化の中心地西グルジアのクタイスィ地方のヴァニ遺跡。出典はBraund,David.Georgian Antiquity,Oxford,1994,ill.2。初出はS.Shamba,Gyuenos-I,

Tbilisi,1988,pls.18-24。1951年生まれのセルゲイ・ミロンイパ・シャムバは、アブハズ人考古学者の第2世代で。多くの論文と著書を著したが、1988年以来政治に乗り出し、アブハジア共和国外務大臣(1997-2010)、首相(2010-2011)などを歴任した。デヴィット・ブラウンド氏は英国エクスター大学教授。

 

馬の犠牲を伴うサウロマタイ人の墳墓(Smirnov,Sauromaty,p.320)

 

 

 

第2項<ストラボン『地理』と大プリニウス『博物誌』>(紀元前1世紀と紀元2世紀)

 

  故郷アマシアに建てられたストラボンの立像。出典Wikimedia commons

 

 

   黒海沿岸東部の諸民族の知識は紀元1世紀の初め頃、ストラボン(紀元前63-紀元23)の地誌が現れると一段と豊富になる。ストラボンはポントスのアマシアにポントス王国の有力者の家庭に生まれた。母方の祖先にはポントス王ミトラダテス6世の乳兄弟がいた。ポントスは前63年にミトラダテス王が死亡して、ローマとの戦争が終了すると、王冠は王の息子で対ローマ和平派のファルナケスに与えられた。第一次三頭政治期王国はポンペイウスの勢力圏にあったが、内戦が勃発するとそのファルナケスも自立を求め、領土拡大に動いたもののが、前47年、カエサルに破れたファルナケスは亡父同様クリミアに逃亡、そこで殺された。王国は64年にネロによって廃止されるまでかろうじて名目のみを保った。ストラボン自身は、イオニアのニュサ(現トルコ共和国アイディン県スュルタンヒサル)で、当時有名な修辞学者アリストデムスに初等教育を受け、ホメロスの作品に親しんだ。長じて、ローマに出て、哲学と地理学を修め、半生を旅に送った後、郷里アマシアに帰って、執筆にあたった。ストラボンの文章は長く詳細であるので、ここでは全体を引用することはしないで、かいつまんで要点だけを述べよう。さて、ストラボンの記述も黒海岸を時計回りで進む。マエオタエ(ここではメオティスではなくこのように呼ばれている)には、ファナゴレイアやケピを初めとする都市がある。スィンド人は広義にはマエオタエ人の一集団であるが、彼らの地域には、ゴルギピア市、スィンド湾およびスィンド市、アナトリア北海岸のスィノプの真北にあるバタなどの都市がある。ゴルギピア市は今日のアナパの北部で都市全体の遺跡が発掘されている。スィンド湾は南に黒海に開いたアナパ湾であるが、するとスィンド市はアナパとなるが、区別できないほど近すぎるので別の場所であると考える研究者もいる。バタは伝統的にノヴォロシースクに推定されているが、真北という意味が、経度が同じという意味であればストラボンの記述は正しくない。トルコのスィノプと同経度はクリミア半島のカッファ(フェオドスィア)だから。スィンド人の国を出ると山がちで、港のないアカエイ人、ズィギ人、ヘニオキ人の海岸を過ぎる。港がないという意味は、黒海沿岸東部地方は、ノヴォロシースクを過ぎると、ゲリンジク湾以外には、大きな船が接岸できる自然の入り江がなく、沖合に停泊した大型商船は艀に商品を積み替える必要があったからである。ストラボンはアカエイ人、ズィヒ人とヘニオキ人が巧みに小船を操って、広い地域で海賊行為を働いていたことを述べるが、浜辺と絶壁、奥行きの浅い湾と短い岬が交差する複雑な海岸の状態はこのような小舟を操る航海に好都合だったろう。紀元前66年ローマとの戦いに敗れ、以前のコルキス国の後身ラズィカ国に逃亡したポントス王のミトリダテス(或いはミトラダテス)6世は、翌年ヘニオキ、ズィギ、アカエイ人の国々を通って、ケルチ海峡の両岸クリミア半島とタマン半島に跨るボスフォラス王国に到着したという。王と現地種族との関係について、ストラボンは、アルテミドロスによって以下のように述べる。アルテミドロスはイオニアのエフェソス出身の地理学者で、紀元前100年ごろに活躍した人であった。11巻本の地理書を執筆したとされているが、現物は残っていない

 

  ミトリダテス王が父祖の国からボスフォラスへの逃走の途にあった時、彼ら(ヘニオキ)人の国を通った。この国は通ることができると解ったが、ズィギ人の国は国土が険しく、住民は勇猛なので通ることを諦め、困難の末海岸にそって、道の大部分は海の浜辺を進んで、アカエイ人の国に着いた。アカエイ人は王を歓待した。

 

このように述べて、ストラボンは、ヘニオキ人が黒海東岸の南部にいたことを示す。尤も、

この事件から200年ほど後のアレキサンドリアのアピアヌス(西暦95年-165年)の歴史では、

 

  ここでミトリダテスが乗り出したのは、怪物じみた企てであった。しかし、彼は成し遂げねばならぬと考えた。王は奇怪で好戦的なスキタイの諸部族の間を、あるものは許しを得、あるものは無理やり押し通った。敗走の身で不運の有様とは言え、彼はまだ尊敬され恐れられていたので。彼はヘニオキ人の国を通ったが、彼らは喜んで王を迎えた。アカエイ人は逆らったので、打ち払った。

 

アッピアヌスがここでスキタイ人というのは、ヘニオキ人とアカエイ人のことで、単に

黒海の東岸に住んでいたか、あるいはアッピアヌスが両者の風俗が似ていると判断しただけで、他意はないだろう。王に対するアカエイ人の態度は、ストラボンの書くのとは異なるが、それでも、アカエイ人はポントス軍の三分の二を撃破したという。またアカエイ人がミトリダテスと戦った理由は、彼らがギリシャ嫌いだったからだという。史実としては、時代も近く、当事者に近い立場にあったストラボン説を採用して良いかもしれない。ミトリダテスが通過した海岸は、アルテミドロスからの引用によると、ケルケト人の海岸が、バタすなわち現在のノヴォロシースクから850スタジオン、次にアカエイ人の海岸が500スタジオン、ヘニオキ人の海岸が1,000スタジオン、デォスクリアに至る大ピツンダの海岸が350スタジオンの距離である。しかし、住民の位置について、ストラボンは、より信頼のおける歴史家は、順番が逆で、「アカエイを最初にあげ、次にズィギ、次にヘニオキ、次にケルケタエ、モスキ、コルキ、そしてこれら3民族の上に住むプテイロパギとソアネ、およびコーカサス山の近くに住む他の小部族を挙げる」と付け加える。つまり、ケルケタイ人の場所が違っているのである。ケルケトイ人の場所に関して、アルテミドロスの説は偽スキラクスの主張と同じであるが、より信頼の置ける歴史家はこれとは違う情報を持っていた。

ストラボンがより信頼の置けるミトラデス戦争の歴史家と言うのは、やはりミティレネ

出身の軍人で文人、ポンペイウスの腹心であったテオファネス(前44年に彼に宛られたキケロの書簡がある)のことであろう。アルミドロスの順番は偽スキラクスに近いが、偽スキラクスのトレイオイ、コラクス、コリカ、メランホレノイ、ゲロンがない、或いは単に記載しなかったのかも知れない。黒海東岸の住民集団の位置と順番に関して、偽スキラクスとアルテミドロスとの中間にあるのは、紀元43年ころに成立したポンポニスス・メラの周航順表である。この順によるとスィンドイ人の次は、ケルケトイ、アカエイ、ヘニオコイ、(内陸にプティロファギ)、コラクスィ、6コリカエ、トレティカ、メランホレノイ、ディオスクリアである。ただし、既に引用したように、ヘニオキとディオスクリアは接している。場所の違いをテキストの、つまり知識の錯乱と考えずに、時間差あるいは住民集団の移動と考えると、紀元前4世紀の偽スキラクスの住民表の中から、先ずトレトオイが現在のゲレンジクの旧住地から南へ移り(ポンポニウス・メラの場所表)、更にこの中から、コラクス(コラクスィ)、6コリカエ、トレティカ、メランホレノイなどの集団が消滅し(アルテミドロス)、最後に紀元前1世紀までにはケルケトイもヘニオキの南に移動した(ミティレネのテオファネス)。ケルケタイの移動の時期に関しては、前490年ミティレネ生まれ(少なくとも85歳まで生存)で、アトランチス大陸に関する記述(テキストはほとんど失われている)で有名な文人ヘラニクスは、ヘロドトスよりやや後で生まれたが、

 

  ケルケタエ人の向こうにモスキ人が住む。(また)カリマタエ人が、一方ではヘニオキ人の向こう側、コラクスィ人の手前に(住む)。

 

とあるから、既に紀元前4世紀初めにはケルケト人の移動は完成したか、あるいは古くか

らケルケト人は二つに分かれていたと考えざるを得ない。ただし、この短い文章は、前に

登場したステファヌス・ビザンチヌスが引用したヘカタイウスに付した逸文である。そし

て、テオファネスにはあるが、アルミドロスにも偽スキラクスにないモスキ人については、

ケルケトイ人のそばにモスキ人が住むというのも、既にヘラニクスが記述する紀元前4世

紀の状況である。時代を遡ると、モスキ人はヘロドトスの『歴史』(前5世紀)では、南

西グルジアのペルシャ帝国第19徴税区に属していた。クセノフォンの『アナバシス』(前

400年ごろ)では、ギリシャ人傭兵隊は彼らと接触がない。つまり、この時にはモスキ人は南西グル

ジアにはいなかった。また、ストラボン自身も「より信頼のおける歴史家」テオファネス

のモスキ人とは別の集団が、コルキス、アルメニア、イベリアの境界地域に存在していた

ことを述べている。あるいは西南グルジアからアブナジア山地に移動した集団であろうか。

それとも紀元前後までにアブハジアのモスキ人は、南に移動したのであろうか。

ポントス王の軍隊は陸路、組織的にアブハジアからボスフォラスに移動したのであるから、文字通り海沿いの経路を取ることは考えがたい。トゥアプセからノヴォラスィースクまで、海岸は至るところで断崖になっているからである。現在でも海岸には道路も鉄道もない。道路も線路もない黒海東海岸北部を鉄道で通過できるのは、ソチ・オリンピックで浮かれた黒海一周鉄道の旅途中の、NHKのレポーターだけであろう。ミトラダテス王はジキ人の国を通ってボスフォラスに行くことを計画したのだが、右手に海岸を回りこんで内陸に入り、クバン川左岸からタマン半島経由でクリミア半島に渡るのが近道であろう。ヘロドトスはキンメリア人がオリエントに逃亡した経路を「メオタイ・コルキス道と呼んだが、スカーコフの考察では、これを文字道理に受け取ってはならず、キンメリア人と彼らの後を追ったスキタイ人はコーカサスの峠を越えてコルキスに入ったとするべきであるという。ジキ人はそのような峠の一つの南側手前にいたと考えていいだろう。王の軍隊がヘニオキ人の国を無事通過できたとすると、王が通過を計画した峠は、トゥアプセの後背地にあるものに他ならない。ジキ人の抵抗にあった王はコーカサス山脈越えを諦め、トゥアプセ以北はコーカサス山脈と黒海の間のどこかの道なき道を進んだのだろう。ジキ人はストラボンの地誌に始めて現れる。ブラウンドは彼らの居住域を内陸部のクバン地方南部に置いている。しかし、ストラボンによるとジキ人はアカエイ人とヘニオキ人とともに海賊を働いていたのだから、コーカサス山脈の西部を越えた内陸とは考えがたい。先に名前を挙げた考古学者スカーコフが、古典古代黒海東岸諸民族の分布には2系統の情報があると強調したが、実際その2系統は前4世紀に現れる。あらゆる変化が前4世紀に起こった、あるいはこれまで引用した史料中、テオファヌスとストラボン自身の見聞きした事柄以外は、すべて紀元前4世紀に起こった変化を表しているとすれば、何も矛盾は生じない。著者が紀元前4世紀に沿黒海地方で種族集団の移動が起こったとする根拠は、ソチとアブハジアに生じた北方民族の流入を示す遺跡と遺物である。

 ストラボンの時代、大ソチにソチにはアカエイ人、ズィヒ人、ヘニオキ人が住んでいたと考えていいだろう。この内ヘニオキはコラクスィ、コリ、トレティ、メランホロイ等の集団を駆逐するか吸収して、南に広がり、スフミに迫っていた。テオファネス自身がヘニオキ人はディアスクリアに接していると言う。ヘニオキ人、ズィヒ人、アカエイ人はカメラエと呼ばれる小船に乗って、沖を通行する商船を襲撃したり、海上から沿岸の町や村を攻撃し、自分たち自身さえ捕虜を取り合った。商品はボスフォラスで売り払い、捕虜からは身代金を取った。ストラボンによると、これら諸民族が、狭く、不毛な地域で海賊と移動の生活を送っていた。

 

  野獣の肉、野生の果実と乳を食料として、ある者は山上に住み、あるものは青空の下渓谷に住む。

 

 現地の考古学者は、ストラボンの証言を承認する一方で、誇大であるとも感じている。

ソチには紀元前に非ギリシャ人の集落や農耕遺跡が見当たらないのに反し、北アブハジア

では、紀元前1千年紀初めに青銅器文化(コルキスあるいはコルキス=コバン文化)圏

内に入っており、ソチでも鍬による農耕が行われていたと考えられるからである。従って、

彼らの社会は狩猟採集民のバンドのようなものではない。ストラボンは、

 

人々はスケプトゥキと呼ばれる首長に率いられていたが、首長たちは王の支配化にあった。例えばヘニオキ人には王が4人いた。

 

と記すが、ソチの海岸部もそのような状態だったのであろう。なお、ヘニオキ人らの海賊行為の歴史は古く、タキトゥスによると既に紀元前4世紀にクリミアのボスフォラス王国は、黒海航海者の保護のためにヘニオキ人、タウル人、アカエイ人の海賊を攻撃している。

ストラボンはポントスの人で、母方の祖母は王の乳母だったので、王の行動は個人的に

も関心があることであったろうが、ストラボン自身は早く郷里を離れ、大旅行家ではあっ

たが、黒海東岸には足を踏み入れたことはなかった。従って、この地域についてストラボ

ンが持っていた知識の大部分は文献によって得られたものである。文献上の知識について

は、やはり文献によってこの地方の地誌を現した博物学者、2世代後の大プリニウス(紀

元22/23-79年)の地誌と比較するべきであろう。大プリニウス、ガイウス・プリニウス

・セクンドゥスは、同名の甥で死後養子と区別するため、日本の習慣に従って、大を付け

て呼ばれている。紀元22,23年ころ北イタリアのコモで騎士の家庭に生まれた。ローマで

法学教育を受けた後の紀元46年、23歳の時、ゲルマニアで軍務についた。体験を『ゲル

マニア戦史』にまとめたが、これはタキトゥスの『ローマ史』や『ゲルマニア戦記』の文

章の中に生きている。また、上官にアルメニアの征服者グナエウス・ドミトゥス・コルブ

ロスがいた。数年間の軍務の後、再びローマに戻って学業に従事したのち、ヴェスパシア

ヌス帝に奉仕し、帝国西部のいくつかの皇帝直轄州で総督を勤めた。77年までに『ローマ

史』31巻、『博物誌』37巻を執筆した。地中海西部艦隊の提督であった79年、折から火

山活動を始めたヴェスピオ山を観察しようとして、スタビアエで火山性ガスのために不慮

の死を迎えた。軍人および行政官としての大プリニウスの体験の場は、ガリア、ヒスパニ

ア、アフリカに限られ、残念ながら東方における現地経験はなかったので、コーカサスの地理に関する知識は、若干の伝聞以外は、書物によるものであった。

 

大プリニウスの『博物誌』12世紀の写本の最初のページ(出典、WikimediaCommons,Abbaye of Saiant.Vuncent,Le Mans Frand.jgg

 

以下の引用は、大プリニウス『博物誌』の関連分部分(第6巻第4章)である。中野定

雄氏らによる日本語訳があるが、なぜか英訳からの重訳であるので、ここでは筆者が英訳(ボストクとリレイ、ラッカム)から試訳した。勿論、中野氏らの訳を参考にさせていただいたことは言うまでもない。

                               

  アブサル川河口から70マイルのところに、いくつかの島があるが、それには名前がない。この先に別のカリエイス川、古くから虱食い(プティロパギ)と呼ばれているサルティアエ人、また別の部族サンニ、コーカサス山に発してスアニ族の国を流れるコブス川、次にロアン川、エグレティケ地方、スィガニス川、テルソス川、アステレフス川、クリソロアス川、アブスィラエ民族、ファシスから120マイルのところのセバストポリス要塞、サニカエ族とキグヌス市、ペニウスの川と町、さまざまな名前でよばれるヘニオキの諸部族のもとに来る。

 

アブサル川はチョロヒ川の分流の1つ、カリエイス川は現在のホビ川、コブス川は現在のイングリ(エングリ)川であろう。イングリ川の上流で大コーカサス山脈とエグリスィ山地にはさまれた高地がスヴァネティ(スヴァネティア)である。行論から見て、引用文3行目のサンニとスアニは同じものであろう。ストラボンもプティロパギとスアニは隣り合っていると述べている。スィガニス川はエグリス・ツカリ、テルソス川はモクヴィ川、アステレフォス川はスクルチャ川、クリソロアス川はケラスリ川と推定されている。さて、ファシスから120マイルの場所にあるというセバストポリスは、ディアスクリアの新しい名前である。ディアスクリアからセバストポリスへの改名が通説のとおり皇帝カエサルによっておこなわれたとすると、時代に応じた名称が用いられている。また、地図上で直線距離を測定すると、ファシス、現在のポティからセバストポリス現在のスフミまでの海岸線の距離120ローマン・マイル(177.6キロメートル。1マイル1.48kmで計算)も、実測123キロメートル、スィグナヒ経由の内陸経路167キロメートルと比べて、かなり正確である。スフミの北にはサニゲ人がおり、さらにペニウスの町があり、ヘニオキ人はその次である。大プリニウスが記したペニウスの地名はここに見えるだけで、古典地理学には未知の地名であるが、ピティウスを指していると考えられている(例えばアブハズ人の歴史学者アンチャバヅェ)。現在のピツンダである。ピツンダの起源は紀元前5世紀に建設されたギリシャ人の殖民都市ピティウスで、現在の名称は、ギリシャ語名の所有格ピティウントスから派生したといわれる。松の意味である。従って、ペニウス川とはブズィブ川であることになる。傍証材料はないが、本書では借りにペニウス=ピツンダ説を採用して話を進めよう。キグヌスはスフミの南の現在のオチャムチラのギリシャ語名である。キグヌス周辺に住むというサニギ人は、紀元前4世紀の情報に由来する文献には見えない新しい集団名である。スフミ南部を流れる現在のケラスリ川であるクリソロアス川の近くにアプスィラエ人が住む。問題は、サニギ(サニカエ)、アブスィラエ、ヘニオキの諸種族が、住んでいた地域の特定であるが、特にこれまでソチ地方からスフムに渡ってに住んでいたと考えてきたヘニオキ人が南はどこまで広がっていたのかが重要である。大プリニウスは次のように続ける。

 

 この先にはコリカと呼ばれるポントス地方の1地区がある。既に述べたようにそこではコーカサス山脈は、リパエオス山脈の方に向かって曲がりこみ、一方は黒海とアゾフ海に落ちこみ、他方はカスピ海とヒルカニア海へ向かう。海岸部分の残りの大部分を占めている民族はメランコラエ人とコラクス人で、アンテムス川河畔のディオスクリアという、今は荒廃しているがかつては非常に名高く、ティモステネスによれば、300の異なった言葉の民族がそこに集まり、ローマの商人が130人の通訳を使って取引したほどの、コルキスの都市は彼らのもとにある。ディオスクリアはカストルとポラックスの御者アンピトゥスとテルキウスによって建設されたと信じる人々がいる。ヘニオキ(「戦車に乗る人々」という意味)族は彼らの子孫であるということは、実に正しい。

 

不思議なことに、一旦、記述をピツンダまで進めた大プリニウスは、道を引き返し、以前のスフミの町の商売が殷賑を極めた話を始める。スフミは、大プリニウスの直前のテキストの中でセバストポリス要塞と呼ばれたばかりだ。スフミであるディアスクリアの繁盛についてはストラボンも記しているから疑わないが、ストラボンは、ここで大プリニウスが300としている集まる民族数は間違いで、正しくは70であるとしている。その数はもともとティモステネスのあげたものだが、ティモステネスは紀元前3世紀のエジプト出身のギリシャ人航海者である。つまりは、大プリニウスからは400年前の事情である。しかし、ミトラダテス戦争以降ディオスクリアダは衰退し、ローマはあらためて、要塞を建設しディスクリアダ(ディアスクリア)を放棄せざるをえない事情にあったから、都市自体ではなく新たに駐屯兵を派遣してセバストポリス要塞を建設したのであろう。ディオスクリア自体の事情は不明であったが、ここから10km北にある当時ギリシャ都市エシェル(当時の名称は知られていない)では、紀元前1世紀半ば、あるいは第3四半期、急襲を受けて占領され、家屋は焼き払われた。攻撃は北の山側から行われたようで、城壁跡には多量の鉄の鏃が残されていた。カエサル、ポンペイウス、クラッススが政権を巡って争った第1次三頭政治の時期である。大プリニウスの甥、晩年110年から113年、かつてのポントス王国が分割されて作られたビチニア-ポントス州総督在職のまま死亡した小プリニウス(61-113年頃)の書簡によると、ピトゥンタは西暦1世紀の始め、ヘニオキ人によって破壊されたというから、スフミについても同様の事情があったのかもしれない。

帝政が始まるとローマは東方経営の再構築に乗り出した。ネロ帝は東方親征を計画されたがこれは実行されなかった。ポンペイに征服されたものの混乱のなかで自立を目指したポントゥス王国は再びローマ軍に敗退、属国化され、紀元54年に王国は廃止され、属州化された。このときポントス海軍の提督であった東方出身の解放奴隷アニケトゥスは、ネロの死後、ローマの艦船を焼いて、コルキスに逃亡し、コルキスのセドケズィ王を買収して味方にしたが、短期間ローマに対する破壊活動を行った後、王の裏切りにあって、コブス川で敗死した。この事件はタキトゥスの『年代記』に記されているから、大プリニウスも知っていただろう。同じ頃、属州化政策が進行していたユダヤ王国では、ローマに使えていたユダヤ人イオスィフ・フラヴィウスによると、アグリッパ王は対ローマ強硬派に強大なローマとことを構える愚を解いて、

 

ヘニオキ人とコルキス人、タウリの先住民、ボスフォラスの住民、ポントスとメオティスの先住民にについて言わなくてならないのは、彼らは以前彼等自身の領主さえ認めなかったが、今では3,000人の重装歩兵に従い、以前は航海には及ばず、嵐が多かった海を40艘の長い船が海を治めているのを?(『ユダヤ戦記』

 

この掃討作戦については、研究者のあいだに実施年代にかかわる論争もあり、事実であることを否定する主張もあるが、ウイーラーは当時のローマ帝国正規軍団の勤務状況を把握して、3,000人の重装歩兵はアニケトゥスの反乱を鎮圧するためにヴェスパスィアヌス帝が派遣されたヴィルディウス・ゲルミヌスの部隊がこれであるという。

ここで大プリニウスはディアスクリアがコリカ地方にあり、メランコラエ人とコラクス人はかつてここに住んでいたと記している。すると、大プリニウスは偽スキラクスの民族配置配置とティモステネスのディアスクリアの繁栄を組み合わせたのである。偽スキラクスにあって、既にストラボンにないコラキ、コラクス、メランコライを大プリニウスが挙げているのは、アナクロニズムではないだろうか。大プリニウスの情報源は、偽スキラクスであると思われる。さて、大プリニウスの筆の運びに合わせて、我々も話を進めよう。次も難題、ヘラクレウムである。

 

ディオスクリアから100マイル、セバストポリスから70マイルでヘラクレウムの町がある。ここの種族はアカエイ、マルド、ケルケタエで、そして彼らの背後にケリとケファロトミがいる。これらの地域の最も奥まったところに、かなり名が知られていたが、ヘニオキ人に略奪されたピティウスがある。彼らの背後にはコーカサス山中にサルマタイ人に属するエパゲリタエ人が、そして彼らの背後にはサウロマタエ人がいる。ミトラダテスがクラウデイウスの治世に逃亡したのはこの部族のもとで、彼らが隣り合うタリ部族は東方にカスピ海の入り口に延びていて、彼らが言うには引き潮のとき海峡は干上がる。

 

先ず、ここはディオスクリアとセバストポリスの二つの地名がでてきて、とても複雑だというか、面食らってしまう。第一に同じ都市を同時に二つの名前で呼ぶことはあっても、その場所は30ローマン・マイル(約44キロメートル)も離れないからだ。ディオスクリアがセバストポリスと改名されたとき、30ローマン・マイル離れた別の何処かの都市がディオスクリアと改名されたと考えると、同時にディオスクリアとセバストポリスの地名が出てきても問題はないが、それでは、位置関係が違う。ファシスから北に向かってスフミまでに、ディアスクリアにあたるまちはない。スフミの北にディアスクリアができたとするとその場合は「セバストポリスから100マイル、ディアスクリアから70マイル」としなければならないからだ。大プリニウスはスフミの北30マイルにあった町の名前を間違ったのかもしれない。すると、スフミから30ローマ・マイル(約44km)の地点は、海岸の距離でグダウタ38km、グダウタの西のソウクス岬で44kmであるので、グダウタであろうか。但し、グダウタ周辺にはギリシャ人の植民都市もローマ軍の城塞も確認されていない。仮にそのような町があるとすれば、スフミから海岸線で約65キロメートル、直線で55キロメートルのところにあるピツンダであろう。しかし、それはソチには直接かかわらない。スフミから北西30ローマ・マイルの場所に、大プリニウスがディオスクリアと呼んでいるある都市があり、そこから70ローマ・マイルの場所にあるのがヘラクレウムであるとしよう。カチャラヴァは、アドレルをこのヘラクレウムにあて、一方、ブラウンドとシンクレアーは、後の時代のローマの行政官アリアヌスの「ヘラクリウス岬とネスィス」をそれぞれアドレル岬、ムズィムタ川にあてる。するとここは、ソチ・オリンピックの会場周辺ということになる。スフムみ・アドレルの直線距離は、約97kmであるが、道程となるとはるかに大きく、約164キロメートルであるが、これはほぼ100マイルに等しい。

この段落中にあらわれる地名はピティウス、現在のピツンダである。さて、現在の大ソチ市にまで進んで、記述はまたピティウスに戻ってしまう。ピティウスつまり現在のピツンダは先刻、ピニウスとした町と川にあててしまっている。勿論、著者が単にピティウスの情報を繰り返してしまったということは有り得る。この段落前半の情報はそれで間違いがない。問題があるのはその後半、後背地の諸民族に関してである。しかし、大プリニアスがピティウス周辺の状況として述べているのは、実際にピティウスのことであろうか。セバストポリス(ディアスクリア)からの距離数において、そうは言えない。またボスフォラスを目指していたミトリダテスがピツンダからコーカサス山脈を越えようとしたのは、ピツンダではあり得ない。ピツンダから山脈を越えたのでは、ズィキ人ともアカエイ人とも遭遇することができないからである。しかも、ピツンダの後背地ではスキタイ人をクリミアに逐ったサルマート人の一部であると言う詳細不明のエパゲリタエ人が住み、背後にヘロドトスがスキタイ人とアマゾネス人との混血民族であると叙述するサウロマタイ人が居住し、更にカスピ海沿岸に抜ける経路を有する空間としては十分に広くはないと思われる。その様な空間はクバン川上流山地に通じる経路を持つソチの方がふさわしく、更に山脈も低く容易にクバン川中流域に連絡するトゥアプセに一層相応しいと思われる。ノヴォロシースクまで、黒海海岸ではトゥアプセ程内陸部との交通が開かれている場所はないからである。なお、「最も奥まった」というのは、ストラボンが、スフミについて述べている言葉である。史料中にトゥアプセをピティウスと呼ぶ例はないが、もうヘニオキ人は住まず、アカエイ人、マルド人、ケルケタエ人が住むのは、大ソチ市とトゥアプセ郡の境界地帯よりは北であり、広い後背地を持ち、更に内陸部へ開けたトゥアプセの地形にも適合する。大プリニウスは偽スキラクスなどの古い地理情報、紀元前1世紀のミトリダテス戦争に関する情報と最新のヘニオキ人のピティウス略奪に関する情報を混ぜ合わせてしまったのであろう。ただし、通説ではミトラダテスはジキ人、アカエイ人と和戦を繰り返して海岸部を通過したのであって、内陸部から平原の遊牧民の間を通過したのではない。

さて、大プリニウスは「ピティウス」=トゥアプセ?の先を、

 

 ケルケタエ人の近くの黒海沿岸、ヘラクレウムから136マイルのところにイカルス川、アカエア人と彼らのヒエルス(「聖地」の意味)がある。次にクルニ岬があり、その次の急な崖はトレタエ人によって占められている。次にヒエルスから67マイル半のところにスィンディカのポリスとセケリエス川。

 

これによると黒海沿岸の民族は北からシンディカ、トレタエ、ケルケタエ、アカエアで、

偽スキラクスやアルテミドスの情報と同じになる。ヘラクレイウスから136マイル(245キロメートル)のところにイカルス川とアカエア人、ヒエルスがある。先ほどヘラクレイオスは大ソチのアドレルであると仮置きしていたから、アドレルから136マイル201kmにあるのは、ゲリンジク湾入口から15km南の地点のジャンホト周辺にあたる。勿論厳密には考えず、大まかにトゥアプセとゲレンジクの間程度に見ておけば良いだろう。その先のトレタエ人については既に現在のゲリンジクであると確定したので、イカルス川、アカエア、ヒエルスはその南東にあたる。ブラウンドは、イカルス川をトゥアプセの北西に置いている。従って、ヒエルスもその近くであるが、聖所の意味からしてコドシュがアカエア人のヒエルス(聖地)ではないであろうか。最後のスィンディカの都市は現在のアナパであるが、大プリニウスには、ストラボンのバタ、現在のノヴォロシースクの情報は欠いていることになるが、そこが最も古い史料ではケルケトイ人の国に当たるはずである。つまり、大プリニウスの民族配置は、偽スキラクスによるものであろう。大プリニウスの記述には、複数の文献を十分な批判を加えず繋ぎ合わせた形跡がある。しかし、作者は77年の刊行以後も絶えず原稿に修正を加えていたというから、もし、79年にヴェスビオス火山の噴火のために不慮の死を迎えていなければ、このテキストももっと我々に解りやすいものになっていたかもしれない。

 

 

 

 ママイカ出土ギリシャ黒陶  

(出典Voronov前掲書、図29)

アカエイ人の南のどの民族が大ソチの民族でるか明言するのは文献資料に拠るだけでは困難である。ヘニオキ時代、紀元前6世紀から前1世紀の集落址と墓地は、ソチ市中央区西部のママイカとその海岸部やホスタ区のクデプスタ川、アドレル区のムズィムタ川、ソチ地方とアブハジア境界のプソウ3河の間に見られる。ママイカの集落はギリシャ人のものであったようで、石膏、ガラス、アラバスター瓶、黒陶・赤陶容器、テラコッタ製の偶像などが出土している。クデプスタ、ムズィムタ、プソウ流域からはアンフォラの破片、香水入れの小アンフォラ、壷、赤陶皿、黒陶製、普通の古典期の及び現地の食器などが出土している。ヴォロンツォフ洞窟の出土品から、ソチが黒海と北西コーカサスを結ぶ中継点になっていたことが知られる。デメトレウス神のテラコッタ製偶像はボスフォラス製と見られている。当時のソチ住民は、スキタイあるいはサルマート系の遊牧民との関係が深く、剣、鏃、斧など北方の文化とかかわりの深い様式の遺物が発見されている。沿黒海地方における北方遊牧民の存在は、ストラボンや大プリニウスが記しているとおりである。このような遺物は、ソチ海岸部からもクラースナヤ・ポリャーナのような山間部からも出土している。他方、ピン、ブラスレット、髪飾り、首飾りなどは、コルヒダの北部や中央部と共通の要素を持っている。残念ながら、トゥアプセ地方の考古学調査は進んでいないか、単に私が無知で現状を把握できていない。

 

黒海東岸古代民族配置表(著者作成)

 

 

第2項<アッリアノスとプトレマイオス>(紀元2世紀のソチ)

 

ハドリアヌス帝の肖像、ローマ国民美術館像、作者未詳、撮影(Jastow,2006)(出典

ウィキメディア・コモンズ)アッリアヌスと小プリニウスが使えた。

アッリアヌスの名前の一部が残る碑文Ocherki istorii abkhazskoi ASSR,Sukhumi,1960,p.33

プトレマイオスの肖像(16世紀の画家の想像)出典ウィキメディア・コモンズ

 

 ストラボンと大プリニウスの述べる住民集団に関する情報は、一致している部分も多いが、また違いも多かった。筆者はこの違いが、紀元前4世紀の変化前後の情報が時代差を無視して引用されたためだと考えた。しかし、紀元2世紀にはローマ帝国の黒海政策の進展に伴った、より具体的な情報が伝えられるようになった。

次の地理学者はニコメディア出身ルキウス・フラウィオス・アリアノス(紀元86年頃‐160年頃)である。アッリアノスは、ローマ市民権を持ったギリシャ人文人、官僚、軍人で、ハドリアヌス帝に仕え、130年頃から138年頃までカッパドキア総督を拝命して、東部国境の防衛に当たった。スフミ要塞の遺構から、134年の日付の「フラウィウス・アリアヌスによって」と刻まれた碑文が発見されている。数多くあるアレキサンダー大王伝の中でも最も有名な『アレクサンドロス東征記』の著者でもある。フラウィウスの『黒海周航記』は、元来ラテン語で書かれたハドリアヌス帝に提出された上表文であった。このラテン語版上表文は失われたが、ギリシャ語で書かれた要約が残されている。内容は、多少込み入ったものなので、とりあえず、以下に関連箇所(ディアスクリアからスィンディカまで)をファルコナーの英訳から重訳してみよう。それに先立って、トラブゾンからスフミまでの地方政治状況を説明しよう。現在のトルコ共和国トラブゾン県東部海岸部にはマクロネス人とヘニオキ人が共通の王をいただいていた。スィドレタエ人はトラブゾン州東部にいた。ブラウンドは彼らの王国をチョロフ川下流においている。トルコ北東部から、グルジア西部にかけて広がっていたのは、コルキス人の後身であるラズ人で、地域の名称としてはラジカと呼ばれている。今日でも残る彼らの子孫は、トラブゾン東部のラズ人とグルジア西部のメグレル人である。民族名称マクロネスも語源的にはメグレルに近いと思われる。アプスィラエ人の王国はポティとスフミの間にあった。彼らの北、スフミの南にいたのがアバスク(アバスグ)人であった。後にギリシャ語文献中に広く見いだされるこの民族集団名は、アッリアノスが初出である。最後に、スフミ周辺にいたのがサニギ人である。

 

 マケロネス人とヘニオキ人はこれらの民族に接しています。彼らはアンキアルスと呼ばれる王を戴いています。これに続いてスィドレタエ人がいて、パラスマヌスに従っています。スィドレタエ人に接してラズ人がいます。彼らはマラッサス王に服属する人々で、王は王国を汝から与えられています。ラズ人に接してアプスィラエ人が、ユリアヌス王に治められております。王は王国を陛下の父君に賜っております。アプスィラエ人に隣りあって、アバスキ人がおります、その王レスマグスは王冠を陛下に賜っております。サニガエ人はアブスキ人に隣りあっております。セバストポリスはサニガエ人の都市で、彼らはスパダガス王に従っておりますが、王は王国を陛下に賜っております。 

 

陛下と言うのはハドリアヌス帝だが、父君とは先帝トラヤヌスである。ハドリアヌスはトラヤヌスの養子であった。トラヤヌスはダキア(今のルーマニア)とナバティア(首都は世界遺産のぺトラ。属州はアラビア)を征服して、属州化し、またパルチアと戦って領土を拡張し、占領地にアルメニア、アッシリア、メソポタミア等の属州を置いた。詳細な前後関係は未詳だが、トラヤヌス帝は黒海東南岸の土着の諸王国を掌握して、対パルチア戦線の後方を固めたのであろう。

 

  ディオスクリアスを発った後、最初の港はピティウスで、350スタジオン(62.3km)の距離がございます。ピティウスからニティカまで、150スタジオン(26.7km)。ここには以前スキタイ民族が住んでおりました。彼らについてヘロドトスは在り得ない話をしがちでありますが、彼らを虱食いであると書いております。本当に今でも同じ話が広まっております。ニティカからアバスクス川まで90スタジオン(16km)。アバスクスからボルギスまで120スタジオン(21.7km)。ボルギスから、ヘラクリウス岬を含めてネスイスまで60スタジオン(10.7km)。ネスィスからマサイティカまで90スタジオン、マサイティカからズィキとサニカエを分けるアカエウスまで60スタジオンでございます。サチェムパクスはズィキ族の王で、陛下に王国を賜っております。アカエウスからヘラクレス岬まで、そこにはトラスキアスと呼ばれる北西風とボレアスと呼ばれる北東からの風を逃れる場所がございますが、180スタジオン(32.1km)でございます。そこから旧ラズィカと呼ばれる場所まで120スタジオン(21.7km)。そこから旧アカイアまで150スタディオン(26.7km)。そこからパグラエの港まで350スダディオン(62.3km)。パグラエの港からヒエルスの港まで180スタジオン(32km)。そこからスィンディカまで350スタジオン(62.3km)でございます。

                                                                                              

 これまでに説明した史実と考えられる事項、および、後の5世紀に無名者によって書き

加えられた注釈に基づいて、アリアノスの上表文を読み解こう。セバストポリスと改名さ

れたはずのスフミは、再び旧名ディオスクリアと呼ばれているが、アッリアヌスは改称の

事実を知っている。スフミからピティウスすなわちピツンダまで350スタジオン(約62.3

キロメートル)。現在の自動車道の距離では55キロメートルであるが、グーグルマップ上

で計測した海岸線の長さは63kmである。同じ経路でなければ当時の測量の精度について

は評価できないが、計測線が海岸線であるとすると非常に正確であったといえる。ピティ

ウスから今日のガグラであるニティカまでは、150スタジオン(26.7km)、海岸線の長さ

も約27kmで一致する。かつてスキタイ人が住んでおり、ヘロドトスが彼らの習慣につい

てのありえない話すなわち、彼らを虱食いと述べたが、当時も同様の話が語られていると

する。しかし、虱食いは信じられない話ではなく、13世紀のモンゴル人の間にも虱食いの

エピソードがあり、グルジアにも虱食が肝炎治療に効果があるという民間療法があった。

5世紀の無名の著者は、ここをスタニスティカとした上で、かつてトリグリトと呼ばれた

と注記している。ここは現在のガグラである。ここまでの場所の特定については、

アリアヌスの計上距離数と地図上の計測数が一致しており、都市の情報自体も十分である。

しかし、ここからトリックまでの多くの地点は、未詳の場所である。アッリアヌスの行程

は、ガグラからトリックまでの合計が1220スダジオンである。ここでは仮に1スタジオン

180mで換算してあるが、1220スタジオンは、219.6kmである。一方、スフミ、ピツンダ、

ガグラ間と同じく、海岸線の距離であると考え、筆者が地図上、計測ソフトで測ると244km

になった。全体的にアリアヌスの計測数は小さめであることになり、総じて1スタジオン

当たり200mで計測すると実数に近づく。状況によってはスタジオンを多めにメートル換

算することが必要であるが、それはあらかじめ結論を誘導するものであってはならない。

アッリアノスはスフミの先は視察していないと見られ、最終的には5世紀に成立した旅程

図であるピューティンガー表にもスフミから北の街道は記載されていない。アッリアノス

が示す数字の根拠はまったく不明である。陸上を正規軍の遠征が行われたのであれば、行

程記録兵が歩数を数えるなり、測定車をガラガラ引いていくのだが。

さて、このようにアリアノスの計測点を海岸線に落としていこう。ネスティカ(ガグラ)

からアバスク川まで90スタジオン(16.2キロメートル)であるが、ガグラから16kmの海

岸線にあるのは現在の名称はツァンドリプシュ(旧名ガンティアディ)、アバスク川はツ

ァンドラプシの北のハシュプセ川であろう。そこからボルギスがあるという120スタジオ

ン21.6kmの海岸線は、地図上はアドレル市街にあたり、そこからネスィスのある10kmは

アドレルとホスタの中間点、そこからマサイティカのある16kmは、ソチ中心部とソチ川

を超えたノーヴイ・ソチになる。しかし、ボルギスは、プトレマイオスではブルカス川で

あって河川名であり、もし5世紀の名称ブルホントの現地名がブルホンタであれば、アブ

ハズ語で「タ」で終わる地名は河川名であるし、当時の名前はミズィグであるので、現在

の地名ムズィムタ川とする推理は正しいであろう。するとネスィスはボルギスにあてたム

ズィムタ川から60スタジオンにあたる10キロメートルの地点のクデプスタであろうか。

現在、ムズィムタ川河口右岸というよりは、クデプスタ川河口左岸には旅客ホテル、ブル

ガスがある。地元ではすっかりその気であるということであろうか。しかし、ここにヘラ

クリウス岬にあたる岬はない。もし、もっと西のホスタがネスィスであれば、ヘラクリウ

ス岬はホスト市街西のゼンギ岬であろう。ゼンギ岬は現在名ヴィードヌイ(目立ち)岬で、

「クマシデ、カシ、ブナの巨木に覆われた低い鋒が海の中に突き出ている」(デユボア・

ド・モンペレ)。しかし、ブラウンドとシンクレアーの歴史地図帳では、ボルギス川で、

後述のプトレマイオスのブルカス川と同じとするが、場所は示さず、ネスィスをムズィム

タ川にあて、ヘラクレイウス岬をアドレル岬にあてている。そうするとボルギス

川は、ムズィムタ川から南東のプソウ川ということになる。しかし、アドラル岬はムズィ

ムタ川河口に形成された砂嘴である。

ヴィードヌイ(ザンギ)岬(Google Mapより)

 

 南側から見たヴィードヌイ岬。写真中央の白い建物は、パンショナート「ヴィードヌイ岬」(ソ連時代に出版された横長絵葉書)

 

ネスイスから90スタジオン16.3キロメートルにあたるマサイティカについては、ネ

スィスを現在のホスタにおくとソチ川右岸のソチ新市街になる。アドレルに置くと、ソチ市中央区の南東端、プーチン大統領の別荘があると想定されるマチェスタにほぼ一致する。二つの地名を同一地点とする誘惑に駆られる。2世紀にはソチ市西部にはギリシャ人の集落や地元有力者の墳墓の遺跡が残されている。また、ソチ市中央区西部のママイカにはローマ時代に遡ると主張される古城砦跡も残されている。ポントス総督であるアッリアヌスにとって最も重要なのは、ローマ軍の要塞であろう。とすると、マサイカの場所として最も相応しいのは現在のママイカに残るママイ・カレであろう。

 

ママイカレ城址を紹介する現地観光関連団体のホームページhttps://prohotel.ru/place-188917/0

 ママイカは、ソチ中心から数キロの小地区でプサヘ(ママイ)川の下流右岸に当たる海に面した場所である。ここに古い城砦跡が残るが、多くの研究者はこれをローマ皇帝ネロの時代のポントス国境防衛線に所属するローマ、あるいはビザンツの遺跡で、紀元400年前後に成立した「高官席次」である『顕職総覧(ノティティタエ・ディグニタルム)』にあるアルメニア公領ポントス区のモコラ大隊の基地がここにおかれたと考え、紀元1‐6世紀に使われていたと判断した。現地ではこれを通説としている。しかし、『ピューティンガー表』等の行程図ではモコラはアルメニアに求められている。ママイ・カレの使用年代は考古学的方法では確定できず、ここに古い要塞跡があったということしか、ママイ・カレあるいはママイカをモコラとする根拠は提示されていない。もちろん、正規軍の駐留地ではなかったとしても、マサイカが、ローマの黒海経営上重要な地点であることは変わらない。またネロがコーカサス親征を欲したので、この時代にこの地方にローマのプレゼンスがあったことは否定できない。今、筆者が言うことができるのは、ソチ中央区に、マサイティカと呼ばれる場所があり、ローマの地方当局から認識されていたと言うことだけである。

マサイティカから60スタジオン10キロメートルのアカエウスは、マチェスタからだとソチ新市街、ソチ新市街からだとルー周辺にあたる。2世紀にズィヒとサニギの境界であるアカエウスは、5世紀にはアフエントまたはバスィス川で、既に述べたように現在のシャヘ川(あるいはアシェ川)に同一され、やはりズィヒ人とサニギ人の境界である。ルーではあまりにも近すぎると思われる。到底、シャヘ川には至らない。フラヴィウスのスタジオン数現実の地図上の距離とは完全には符合しない。つまり、ネスィスからアカエウスまで、あるいは現在の大ソチ市内で距離数は過小に評価されている。アリアヌス自身が実見していない地域において、地形上、天候上、あるいは政治的な事情で、計測が正しくないことはありうるだろう。

 ガグラと同じく所在地の確実性が高いトリックを現在のゲレェンジクにあてて定点として、逆に北から南に地名をたどってみよう。ゲレンジクから350スタジオン分の距離63kmを海岸沿いに南に進むと、ジュブガに至る。ここが旧アカエアであろう。ここには小さなジュプカ湾がある。そこから同様に150スタジオン分の27kmは、現地名のサスノヴイの手前で、ここが旧ラジカであるかもしれない。しかし、ここには岬も湾も大きな川もなく停泊には不向きな場所である。また海岸まで山が迫っていて後背地もない。ここから北西に直線距離4km、海岸線の距離で6kmの地点にのトゥ川下流にオリギンカ(1864年までは、トゥメ・カレ)がある。幅1キロメートル奥行き500メートル、半円形の湾があり水深は十分にあるといわれているので、オリギンカのほうが旧ラズィカの場所として適当であるかもしれない。更に5世紀の著者は、旧ラズィカには今のニコプスィアが建てられ、近くにプサハプス川があると記述している。同名の河川は見つけられないが、もう一つの手がかりのニコプスィア遺跡は、オリギンカの北西、直線で7kmのノヴォミハイロフスキー村のネチャプスホ川の下流にあるとされる。旧ラジカは、ノヴォミハイルフスキーに当てるのが適当かと思われる。旧ラズィカの南東には、ヘラクレス岬があるが、これはコドシュ岬に当てるあろうとするのが適当であろう。

 航空写真から見たコドシュ岬(中央) 出典 Google Map

 

 

 

 

 

海上から見たコドシュ岬(出典 Wikipwdia Commons ) 

 

このヘラクレイウス岬はアドレルのヘラクレス岬とは別の岬である。サスノヴォイから、120スタジオン分21.6kmはコドシュの丸い半島を回り込み、現在のトゥアプセ港大埠頭にあたるが、修正したノヴォミハイロフスキーからだとアゴイに留まる。アゴイとトゥアプセの間は南西に突出する丸い小半島になりその南端がコドシュ岬である。ヘラクレス岬はコドシュの半島のどれかの岬であろう。カドシュはアディゲ語で海の王の名であるという。岬の東のトゥアプセ川とプシェセプス川河口沖に19世紀初めには投錨地があり、トゥアプセ周辺で最も目に付く港である。トゥアプセから180スタジオン分32.4km戻るとアシェ川とシャヘ川の間のプセズアプセ河口にあたる。起点をトゥアプセではなくコドシュ岬に取ればアシェ川に近づく。アカイアから60スタジオン10.8kmは、アシェからだとプセズアプセ川をわたって1km程カトコヴァシチェリとズボヴァシチェリの間にあたるが、マサイティカは、5km程東南のゴロヴィンカの方がふさわしいかもしれない。ローマ時代の城塞址があるからである。シャヘ川からだとヴァルダネが10km地点である。アシェ川をアリアノスのアカイア(川)、5世紀の無名の著者のアフエフンタに当てるのは、言葉の類似によるものであるが、シャヘ川をこれにあてるのは、5世紀の著者がこの川を船で遡ることができるとしていることが、沿黒海地方第2の大河シャヘにふさわしく、また19世紀にはチェルケス人シャプスグ族とウブイフ人を隔てる川であったからである。4世紀後半の歴史家ルフィウスが、ケルチ海峡の「近くにキンメリア人とシンド人が住んでいた。近くにはケルケトとトレティの種族が住み、クサンタの海岸からはアカエイ人が住む」と記す。クサンタは、5世紀のアフエンタであり、2世紀にはまだここがアカエイと呼ばれていたことを反映している。

 2世紀、かつてのコルキス王国はローマの宗主権下に多くの小王国に分裂している。かつて強力であったヘニオキ人は、マケロン人とともにトラブゾンに残るもの以外は、消滅した。スフミ地方以北はサニギ人の国であり、アバスグ人がその南、サニギ人とアプスィル人の間にいた。サニギ人の北の境界はシャヘ川(あるいはアシェ川)で、その北にはジキ人がいた。サニギ人の領域には古い集団の痕跡が見いだせないが、ジキ人の領域には古い住民がいた痕跡が地名として残っている。

フラヴィウスは紀元2世紀のソチの知識にいくつもの新しい地名を加えた。また彼は具

体的な距離を示したが、しかし、彼があげた地点の間の距離数は、必づしも正確ではなか

った。また彼が注目するのは地名、王名と距離であるので、その社会の情報はな

かった。しかし、紀元2世紀にソチの住民はサニギ人であり、一人の王によって治められ

ていたことが記録に残されたことは重要である。サニギ人は1世紀早く、大プリニウスが

ギリシャ都市キグヌス周辺の民族として名前を上げていたが、同じ世紀のギリシャ人歴史

家ヘラクレイウスのメムノンは、ミトラダテス戦争の間の前71年、ローマの将軍ルキウ

スは、クレオカレスが守るシノップを攻めたが、ミトラディトスの別の王子マカレスが単

独でローマに下ったので、

 

  この事実を知ったクレオカレスと同僚は、あらゆる望みを捨て、夜のうちに大量の財宝を船に積込み、{兵士にこの都市の略奪を許し}(ミュラーのラテン語訳には{ }内は見えないが)、他の艦船を焼いた後、黒海の中へ、サネギ人とラズ人の国を目指して出発した。

 

と述べる。出来事自体は紀元前1世紀のもので、メムノンもユルウス・カエサルの同時代

の人である。サネギすなわちサニギの名称も既にその時にはあったことになる。

かどうかは不明である。ストラボンが最新情報には疎かったことが分かるのである。

 さて、アッリアノスの周航記は伝統的な周航記の形式によって書かれたものだった。次に若干、執筆年が前後するものの、プトレマイオスの『地誌』の関連部分を見てみよう。これは、地域ごとに主要な地点の緯度経度を記したものである。英訳ではエドワード・スチーヴェンソンのラテン語からの重訳があるが、日本語ではギリシャ語から直接翻訳された中務哲郎氏訳があるので、これによって、計測地を示そう。( )内の数字は経度と緯度である)。地名表記はギリシャ語式、カタカナ表記方は訳者の基準そのまま。筆者には「ブゥ」をなんと読んで良いか分からないが。タマン半島から時計回りで、コルキス国境までである。(第5巻第8章第4節)

    ヘルモナッサ(65,47.30)

    スィンディコス港(65.30,47.50)

    スィンダ村(アナパ**)(66,48)

    バタ港**(66.30,47.40)

    バタ村**(66.20,47.30)

    プシュクロス川河口(**寒川)(66.40,47.30) 

    アカイア村(****トゥアプセ)(67,47.30)

    ケルケティス湾(67.30,47.20)

    {ラゾス}町(68,47.30)

    トレティケ岬(68,47)

    アムプサリ町(68.30,47.15)

    ブゥルカス川河口(69,47.15) 

    オイナンティ(69.40,47.15)

テッシュリス川河口(69.40,47)

カルテロンティコス(堅固な城壁)(70,46.50)

以下の二行は、中務氏の訳にはない。今残るギリシャ語の写本にはないということであろう。古文献は原典だけでなく、古い翻訳も見なければならないのだが。

コラクス川河口(70.30,47)

コルキス側の最終点(75,47) 

 

*中務氏のギリシャ語からの訳で、シンダ、バタ、アカイアの「村」に当たる言葉は、ラテン語からのスチーヴェンソンの訳では、cityになっており、タゾスとアンプサリの「市」はtownになっている。ラテン語訳文ではそれぞれ、villa,oppidumとcivitasであるが、ギリシャ語のテキストでは、それぞれchomiとpolisである。その違いは何に基づくものか、規模か社会的あるいは政治的性格によるのか面白いところである。ギリシャ語中務訳とラテン語スチーヴンソン訳を文字通り解釈すれば、古くから繁栄していたボスフォラスのシンドとバタは、衰退して、村の状態になり、一方、沿黒海地方の南には、新たな都市が誕生したと想像したいところである。タゾス(ラゾス)については名称のみで、属性は記入されていない写本、刊本もある。

**これは日本語訳者の注、ではバタにも、「ノヴォロシースク」の注を入れても良かったのではないかと思われる。

***突然地名の意訳が行われて戸惑うが、古典ギリシャ語でプスィクロスpsykrosは、寒いあるいは冷たいの意味であるから、「寒川」とされたのだろう。古典ギリシャ語で「寒い、冷たい」にあたるトルコ語は、ソユクsogukだが、川(ス)をつけたソユクスという川は、17世紀まであり、今ではシュユクスと呼ばれて、トゥアプセ市とソチ市の間のメグリの近くを流れている。

****トゥアプセの古称をアカイアとする文献は何であろうか、根拠も知りたかった。もし、プシュクロス川をソチ市北部にあるシュユクス川に当てると、全体的に北西から南東に並んでいる地名の中で、スユクスとアカエアの順を先に南東の地名を、次に北西の地名を配列していると判断するのには抵抗がある。プシュクロスをスユクス、アカイエアをトゥアプセとする組み合わせは不自然である。アカイアはアッリアノスの旧アカイア、タゾスは別テキストではラゾスとあるので、旧ラジカに当てる。プシュクロスは、大プリニウスのクルニに、チェルケス語の川(-ps-)がついたものと考えてもいいのではないか、河川名クルニは未見だが、クルニ岬はかって、恐らく紀元前4世紀であろうが、トレタエ人のもとにあったから、プシュクロス岬もゲレンジク周辺にあったのであろう。トレティクム岬はコドシュ岬とするのが適当だろう。コドシュ岬は黒海沿岸でもっとも目立つ岬である。するとソチに残された地名は極く僅か、アムプサリ町とブゥルカス川程度であろう。

 次の復元地図では、表では同じ緯度のバタ村、プスィクロス川河口、アカエイ村、ラゾス村の緯度は書き分けられている。

 

 

 

 

 近代に再製作されたプトレイオスの世界地図近世地図(サルマチアの部分)拡大図

スィンデケのような名称にもなじみがあり、所在地についても問題がない地名があるが、他の文献には一切現れない名称も見える。全体の半ばほどは既に検討した地名であるが、場所は微妙に異なる。しかも、プトレマイオスが示したおおまかな緯度経度では地図上に落とすことは困難である。ソチに関してはムズィムタ川にあてたブルカス川があるが、これとてもアッリアヌスと同じ川を指しているかどうかは、今のところ判断できないであろう。Cosmographia Ptolemaeus,Claudia,Nicolas Germanus)ed.),JacobusAngekus(transk.)1482(フィンランド国民図書館蔵)186頁

 

 

 

 プトレマイオス『世界地図』のサルマチアの部分。左下の海が、黒海。出典(wikimedia Ptolemy_Cosmographia_1467_-_Central Russia_and_Sarmatia.jpg)所蔵ワルシャワ国民博物館。この地図は、1467年にヤコブ・ダンジェロが作成したもので、1573年にポーランドの大貴族で政治家ヤン・ザモイスキーが購入、1818年ザモイスキー荘園の図書館に収蔵、1946年に国民図書館に移管された。

 

 古典期末期のサニギ人時代のソチの考古学的遺跡から、

有力者やその家族のものとみられる墳墓の発掘、ルーの貴婦人の墓からは、銀の飾り皿、

琥珀、黒玉(こくぎょく)の首飾り、金の耳飾りなどが出土した。この墓から出土した金

製品の大部分は、ボスポラス王国の製品と酷似する、古典サルマート折衷様式のものであ

る。また、マツェスタの墳墓は族長と思われる男性のもので、鉄製の長剣、砥石、3世紀

に広く作成された様式のブロンズのピン、ガラスや銀の容器、3枚の銀貨が出土し、貨幣

のうちの一枚は、ローマ皇帝トラヤヌス(98年-117年)のものであつ。また、クラース

ナヤ・ポリャーナの1墳墓は、一人の武人の墓で、遺体は南東向きに埋葬されていた。副

葬品は剣、鏃、北アブハジア・ツェベルダ風の盾、短剣、鉄製戦斧、盾中央部、水晶の首

飾りの他にササン朝シャープール1世(234年-273年)の狩猟の彫刻のある金属製の皿が

あった。刻文によると皿はもともとケルマン王ヴァラフラン(262年-274年)のもので 

王が狩っている2頭の猛獣が猪でもライオンでもなく、熊であることがユニークに思える。

またローマ皇帝ハドリアヌス(121-122年)の銀貨一枚が見つかった。

 

伝)ササン朝熊狩猟銀皿(プーシキン名称チェルドィン美術館像)出典

www.manul.livejournal.com:www.proza.comこれは、上のスケッチとは関係がない。ロシア、ペ

ルミ地方のチェルドイン市の地方史博物館像と伝えられているものを参考までに提示した。

 

第3項<5世紀の沿黒海地方>

紀元2世紀に、黒海東岸南部では大きな政治的変化が起こっていた。これまでのヘニオ

キを始めとする多数の種族が姿を消し、サニギがそれらに変わった。彼らは南は今日のオチャムチレから北はソチまでの地域に広がっていた。ソチ以北ではズィヒのみはローマから王号を与えられているものの、紀元1世紀に確かに存在したアカエイ他の諸族の存在は曖昧である。一方、アブハジア南部では、かつてのコルキスに替わってラズィカが成立していた。これに続く3世紀、黒海東岸にはさらに大きな変動が起こった。東ゴート族の南進である。ゴートは4世紀にフン族に敗れるまで黒海海岸に君臨し、たびたび黒海南岸に来襲した。これらの変化は5世紀に無名氏が残した巡航記に明確に現れている。5世紀に無名の著者が記した航海記は、フラヴィウス・アッリアヌスのテキストに、一部、現状に合わせた書き換えをおこなったものである。トラブゾンからスフミまでの部分に関する無名氏のテキストは、時代差を無視するようにアッリアヌスの文章と同じである。細かい違いがあるのは、ピツンダから北である。文章はそのまま、ラトイシェフのロシア語から翻訳し、書き換え部分をイタリックにしよう。なお、距離はスタジオンと歩数で表されている。

  

ディオスクリア(セバストポリス)から、出帆すると最初の湾はそこに船のための湾があるピティウンタである。セバストポリスから350スタジオン、46 2/3百万歩である。この場所まで、ポントス王国に属するティバラニ、サニギア、コルヒダの蛮族が住むが、彼らの向こうに独立の蛮族が続く。ピティウントからステニカ(かってトリグリトと呼ばれていた)まで、150スタジオンまたは、20百万歩。ここには古い時代にスキタイの1種族が住んでいた。ヘロドトスはそれを才能豊かな言葉で表現する。彼は言う。彼らはしらみを食べると。これが彼らについての全てである。ステニティカからアバスク川まで90スタジオン、12百万歩。アバスク川からブルホント(今はムズィグと呼ばれる)まで、120スタジオ、16百万歩。ブルホントから我々がヘラクリウス岬を持つネスィス川まで、60スタジオン、8百万歩。ネスィス川からマセティク川まで90スタジオン、12百万歩。マセティク川からアヘウント(船の航行が可能)60スタジオン、8百万歩。このアヘウント川(バスィフと名付けられた)は、ジキ人とサニギ人を分ける。ジキ人の王はスタヘンプラで、陛下から王座を受け取った。アヘウント川からアバスク川までサニギ人が住む。アヘウント川からヘラクレス岬(今、エレマと名付けられている)まで、150スタジオン、20百万歩、ヘラクレス岬から今、バガと呼ばれる砦のある岬まで10スタジオン、1/3百万歩。その岬からフラキア風とボラ風から守る岬(そこにリアがあある)まで 80スタジオン、10 2/3百万歩。リアから古ラズィカと呼ばれるところ(そこに現在のニコプスィアが設けられ、そのそばのプサハプスとよばれるものから近い)まで、120スタジオン、16百万歩。古ラズィカから古アカイア(今、トプスィドと呼ばれる)まで、150スタジオン、20百万歩。古アカイアから古ラズィカ、さらにアヘウント川まで、ヘニオヒ、コラク、キリク、メランフレン、マハロン、コルヒラズと呼ばれる種族が住んでいたが今はジキ人が住む。パグラエ湾から古アカイアまで、かつてアカイア人と呼ばれる人々が住んでいたが、今はジキ人が住む。スィンディカ湾からパグラエの湾まで、以前はケルケトあるいはトリトと呼ばれる種族が住んでいたが、しかし今では、ゴート語とタヴリスの言葉を話すエヴドゥス人が住んでいる。

 

かつて、ピティウスと呼ばれていたピツンダはピティウント、トリグリットと呼ばれていたガグラはステニカと呼ばれている。アバスグ川はハシュプセ川か、プソウ川に推定された。かつてのボルギス川は、後にブルホント川と呼ばれたがこのときはムズィグ川と呼ばれていた。現在のムズィムタ川である。ソチ市の東南のネスィス、北西のマセティカ(アッリアノスではマサイティカ)を配置してあるのは変わらない。2世紀にジキとサニギを分けていた河川は5世紀には現地語化してアヘウント、あるいはバスィフと呼ばれる。シャヘ川は確かに大きな川であるので、季節と船の種類によっては、航行が可能であったかもしれない。

  シャヘ川(出典ウキメディア・コモンズ)

 

 今日、ソチ市内には二箇所に古代以来の様式の要塞跡が残されている。一つは中央区西部ママイカ川河口近くにあるママイ・カレである。ここからは、紀元1-5世紀の遺物が発見されている。もう一つは、ラザレフスキー区のゴドリク城址である。こちらからは古代末期にかかわる遺物は発見されていない。特に現地に流布する俗説では、ママイカはローマのマコラ、ゴドリクはバガ(あるいはヴァガ)であるとするが、マコラがソチにはないことについては既にのべた。また、5世紀の無名の著者のバガをゴドリクに当てようとすると第2のすなわちコドシュ岬のヘラクレイウス岬から、北西に進むのではなく、逆進しなければならない。バガはゴドリクではない。 

トゥアプセとゲリンジクに関する記述は若干細かくなっている。ふたつ目のヘラクレイウス岬、現在のコドシュ岬の先は、バガ岬とリア岬を過ぎてから、かつての旧ラズィカ、当時のニコプスィアに至る。本書ではすでにこれをノヴォミハイロフスキーに置いている。ヘラクレイウス岬から旧ラズィカまでの距離は、アッリアヌスでは。120スタジオン、5世紀の無名の記入者は、これをヘラクレイウス岬からバガまで10スタジオン、バガからリアまで80スタジオン、リアから旧ラジカまで120スタジオン、合計では210スタジオン、倍近くの数値になる。コドシュ岬からノヴォミハイルスキーまでの地図上の距離は、約26キロメートルに過ぎない。この間の合計が120スタジオン約30キロメートルとするのが、無名の記入者の真意ではあるまいか。このように仮定するとノヴォミハイロフスキーの南東の海岸上6km程にあるのはオリギンカだが、北から海岸沿いに海流に乗りつつ南南東に進んできた船は、ここからほぼ東西の海岸線に合わせて舵を左に切らなくてはならない。これが「左」の意味ではなかろうか。現在のグリャズノヴァ岬である。一方、バガ岬についてはアゴイ近辺であろうと推定はできるが、具体的な場所を推定できなかった。ヘラクレイウス岬はソチとトゥアプセに1つずつある、というのは、ヘラクレイウス岬は英雄ヘラクレスが大地を両手で引き裂いた名残であるから同じ場所に2つあるのが自然であろう。黒海とヘラクレスの関係について、ヘロドトスは黒海沿岸のギリシャ人の伝承として、「ゲリュオネウスの牛を追いながらヘレクレスは、現在スキュティア人の住む、当時は無人の地方へきたという。ゲリュオネウスの住んでいたのは黒海の外で、「ヘラクレスの柱」を出て大洋に望みガディラに相対する、ギリシャ人のいわゆるエリュテイアの島(「赤島」)を棲家にしていたのである(松平千秋訳)」。地中海と黒海の西の出口にあるものを東の出口にも見つけようとしたのである。

プトレマイオスのラズィカあるいはタズィカを5世紀の増補者は、当時ニコプスィアと呼ばれたと記している。同地を調査したロシアの考古学者は、ノヴォミハイロススキーのドゥズカレ城址をニコプスィアに結びつけている。

 アッリアヌスの地名表に旧アカエイがあり、プトレマイオスの地名表には、アカエイ町があったが、5世紀にこの町はトプスィドと呼ばれていた。トゥアプセの地方史家にはトプスィドをトゥアプセの古称と信じる人々も多いが、行程の観点からトプスィドはトゥアプセにはならない。そもそもこの地名は、この無名氏のテキストにだけ、しかもただ一度出て来るだけである。

 ドゥズカレ遺跡看板 「考古学的遺跡 ニコプスィア要塞 ドゥズカレ 紀元5-7世紀政府管理 管理区域 200x200M」と書かれている。

ドゥズ・カレ要塞遺跡(出典ウイキメディア・コモンズ

 

 5世紀、沿黒海地方では大ソチのシャヘ(あるいはアシェ)川を境界にして、ジキ人とサニギ人が住み分けていた。サニギ人の領域はシャヘ川から南はハシュプセ川(あるいはプソウ川)までであった。ジキ人の領土はゲレンジック以南で、今ノヴォラシースクがあるツァメス湾周辺とタマン半島にはゴート系住民が住むようになった。沿黒海地方で以前に存在した種々の種族は、ゴート系住民、ズィキ人、サニギ人の3集団に統合された。

青銅器後期に北アブハジアと同一の文化圏に入っていて、ヘニオキややサニギをはじめとする多くの種族の住む地域であったソチは、古典時代末期ギリシャ人の集落やギリシャ人やローマ人が利用する港や船泊があり、現地の人々の生活もギリシャとローマの影響を受けていた。紀元前1世紀、ソチの住民であったヘニオキ人はポントス王国に従属あるいは友好関係にあり、前1世紀は4人の王がいた。紀元114世紀に小アルメニア(

 

ユーフラティス川以西のアルメニア)行幸中のトラヤヌス帝がヘニオキ人とマヘロン人の王アンヒアルの貢を容れ、莫大な答礼の品を与えて帰国させた(ディオヌス・カスィウス)が、この王は、トラブゾンを治めていた集団であったと思われる。紀元2世紀には、沿黒海地方北部でトレタイ、ケルケタイ、アカエイなどの種族名称が姿を消してズィキに統合されたが、黒海沿岸地方南部の大ソチでもサニギ人がシャヘ川(あるいはアシェ川)からブズィブ川あるいはハシュプセ川までの地域を制圧した。6世紀にアナトリアのカエサリアで生まれたプロコピウスは、彼らの南では、今日の北アブハジアにアバスグ人の、スフミ地方にはアプスィル人の勢力圏が形成された。 

 

 第2章 沿黒海地方史の始まり

 

第1節 黒海周航紀の世界

第1項<ヘカタイオスと偽スキラクス>

ヘカタイオスの世界地図 ヘカタエオス自身が作成した地図やその写しは残されていない。これは、後代、当時考えられていたと信じられる海岸線の中に、ヘカタイオスが伝えた地名を書き落としたものである。出典)Мутафиян,К.

Эрик Ван Лев.Исторический Атлас Армении ,Москва.2012стр.91原本所蔵は Biblioteque Nationale Ge FF 8520,planche2

 

紀元前700年ごろギリシャ人の黒海進出が始まると、コーカサスに関する情報は増え、その一部は現代にまで伝えられている。古代ギリシャの最初の歴史家とも最初の地理学者とも呼ばれるミトレスのヘカタイオス(紀元前550頃‐476頃)が表した『世界概観』は、本体は散逸したものの引用の形で多くの残簡が残されていて、6世紀のステファヌス・ビザンチヌスの地理事典『民族(Ethnos)』には、

 

コラクス人はコルキス人の種族で、コル人の近くにいる。ヘカタイオスの書にはアジアの部分にある。コラクスの要塞、コラクスの国。

 

及び

 

コル人はコーカサス山の近く民族である。ヘカタイオスの書にはアジアの部分にあり、コーカサスの山麓はコル山脈と呼ばれる。その国はコリカである。

 

等と記されている。古代ギリシャの人々は、ドン川をアジアとヨーロッパの境界であると考えていたので、ここでアジアというのは、南ロシアのドン川、アゾフ海、ケルチ海峡の東ということである。黒海東南岸にいたコルキス人は、特徴のある青銅器で知られるコルキス文化の担い手であったが、紀元前8世紀のキンメリア人の国内通過とそれに伴うスキタイ人の侵攻によって大きな打撃を受け、ヘカタイオスの時代にはイランのアケメネス朝に従属させられ、太守によって治められる直轄州とは違って金貨による税の支払いはまぬがれたものの、5年毎に少年少女200名の奴隷を納める義務を課されていた。 歴史学の父と呼ばれるヘロドトス(紀元前485頃‐420頃)は、ヘカタイオスの1世代後の人で、『世界概観』を読んだと述べていて、それによって黒海沿岸に住むコルキス人はエジプトからの移住者なのでエジプト同様の亜麻布を織ると書いている。クセルクセス大王のギリシャ遠征軍に加わったコルキス人の装備は、木製の甲、牛の生皮の小盾と短槍、短剣で、テアスピスの子でダリウス大王の甥に当たるパランデスの指揮下に入っていた。ヘロドトスはコルキス人がリオニ川流域に住んでいて、かつて、イアソンが王女メディアを奪ったコルキスの都アイアスはここにあったと述べる。金羊皮を求めてアルゴー船に乗り、黒海を旅したギリシャの英雄達の物語である。今日、グルジア人もアブハズ人もチェルケス人でさえ、これを自分たちの祖先の物語であると信じたがっている。イギリスの言語学者ヒューイットの人名分析(例えば、コルキス王名アプスィルト)によると、ここでいうコルキス人はアブハズ語を使っていたという結果になるが、地域的にはリオニ川流域であるので、ヘロドトスの時代、西グルジアのイメレティ(ロシア語ではイメレティア)地方にコルキスの中心があったと考えられている。

さて、アッシリアの碑文によると、紀元前12世紀、アッシリア王ティグラトピレセル1世が、上の海のキルヒを征服した。グルジア史の通説ではこの上の海を黒海であるとしているが、筆者はヴァン湖かもしれないと疑う。アッシリアの年代記では、ヴァン湖はしばしば「上方の海」、「上の海」とも呼ばれていて、王は確かにヴァン湖周辺でナイリやダオエヒなどの国々を征服していたし、また、ヴァン湖と黒海の間には通行困難なシャヴシェティ山脈が聳えているからである。この戦争から400年も経って、今度はヴァン湖周辺に建てられたウラルトゥの王、サルドゥリ2世(前764-735年)が、2度にわたって、コルハを攻め、首都イルダムシャを落とし、フシャルヒ王を捕虜にした。アッシリアのキルヒも、またウラルトゥのコルハもギリシャのコルキスと同じ地名であると考えられている。しかし、このキルヒとコルカが西グルジアのリオニ川流域あったとするのは、無理がある。グルジア史の定説でもこれを西南グルジアに置いて、南コルキスという用語を当てはめている。場所はグルジアの南西部黒海岸の地域、一言でいうと現在のアジャラ(ロシア語ではアジャリア)である。

黒海沿岸の住民情報は、アケメネス朝ダレイオス2世の息子キュロス王子のギリシャ人傭兵隊長、クセノフォンの逃避行記『アナバシス』の中にも収められているが、クセノフォンのコルキスはトラベズス(トレビゾンド)の山地にあった。このようにコルキスはかなり広い地域にまたがる地名であったが、ヘカタイオスのコルキス中心部は、リオニ川の流域にあったとしていいだろう。そして、その北に広義のコルキス人の一部であるコラクス人がいたのである。コラクス人と系統不明のコル人は政治的には、恐らく非常に緩やかにコルキス王国組織の中に含まれていたのであろう。

ヘロドトスは、紀元前7世紀にキンメリア人が黒海東海岸通って古代オリエント世界に移住したと述べているが、通過した地域の地元の人々との接触については沈黙している。しかし、自分自身の1世代前の出来事であるダリウス1世のスキタイ遠征について述べて、タナイス川が注ぎ込むマイオティス湖の東海岸にマイオタイ人の国があったと述べる。タナイス川はドン川、マイオティス湖はアゾフ海のことである。また、現在のケルチ海峡であるキンメリア海峡の東側、つまりタマン半島にスィンドイ人が住み、その国はスィンディケと呼ばれていたことを述べている。 ヘカタイオスとヘロドトスの時代、黒海とアゾフ海の岸に、北から南にメオタイ人、スィンドイ人、コル人、コラクス人、コルキス人が住んでいたことが知られるのである。ただ、『世界概観』の記述は断片が残っているだけだから、ヘカタイオスが知っていたことの全てが伝え残されているかどうかは解らない。

次に、ヘカタイオスの時代から百数十年ほど過ぎた紀元前4世紀、偽カリアンドのスキラクスは、黒海周航記を著して、海岸の民族や都市の記録を残した。彼はアゾフ海と黒海海岸の地誌を時計周りに記述したが、シェロヴァ=コヴェデャエヴァのロシア語訳と注釈によって内容を示すと、

 

  サウマタイ人。タナイス川の向こうはアジアで、そこの最初の種族はサウロマタイ人である。サウロマタイの種族は女が支配する。

  メオタイ人。メオタイ人は女が治める人々の隣に住む。

  スィンドイ人。メオタイ人の隣にスィンドイ人が住む。しかし、彼らは湾の中に住み、彼らの国には、ファナゴラ、ケピ、スィンド湾、パトゥントなどのギリシャ都市がある。

  ケルケトイ。スィンドイ人の向こうにケルケトイ人がいる。

  トレトオイ人。ケルケト人の後に、トレトイ人がおり、ギリシャ都市トリクと湾がある。

  アカイア人。トレトイ人の向こうにアカイア人がいる。

ヘニオコイ人。 アカイア人の次には、ヘニオコイ人がいる。

コラクス人。ヘニオコイ人の向こうにコラクス人がいる。

コリカ。 ヘニオコイ人の次にコリカ地域がある。

メランコレノイ人。コリカの向こうにメランコレノイ人がおり、彼らのところにメガソリス川とアイギプ川がある。

ゲロン人。メランフレノイ人の次はゲロン人。

コルキス。これらのかなたに、コルキス人、ディオスクリアダ市、ギリシャ都市ギエノス、ギエノス川、ヘロビ川、ホレ川、アリ川、ファスィス川、ギリシャ都市ファシスがある。

 

 古代史上有名なスキラクスは、ハハマネシュ朝ダリウス1世に命じられてインダス川、アラビア海、紅海を航海した探検家だった。しかし、この地誌は記事内容全般から判断すると紀元前6世紀ではなく、紀元前4世紀の情報であると考えられ、真の作者は不明であるので、仮に偽スキラクスと呼ばれている。偽といっても誰か別人が本人に成りすましているということではない。この航海誌により、アゾフ海東岸にあったメオティスとタマン半島にあったスィンディカの位置が確認されるが、これは現在も継続しておこなわれている発掘調査により、更に一層確実なものになっている。偽スキラクスのコルキスは、ディオスクリアダすなわちスフミから、ファシスすなわち現在のポチ周辺までの地域である。特にここではディオスクリア(ディオスクリアダ)市の名前が挙げられているが、これは後にはセバストポリスとも呼ばれ、現在のアブハジアの首都スフミである。これらの都市は、偽スキラクスがわざわざ「ギリシャの」と書いたように、紀元前6世紀ミレトス人によって建設された殖民都市で、土地の人々は通常都市には住まなかった。ギリシャ人は黒海周辺中に本国に似た政治形態の都市国家を築き、後背地の人々と交易をおこなっていたのである。偽スキラクスはギエノス(ギュエノス)とファシスにはギリシャ都市というのに、ディオスクリアダをギリシャ都市とは言わないのは、これがギリシャ人の建てた都市ではないからであるという主張もあるが、人間は分かりきったことはことさら書かないこともあるから、必ずしもそうとは言えないだろう。一方では、ディオスクリアと並んで名前が挙げられたギエノスは、スフミの南、現在のオチャムチレだが、発掘の結果若干の現地人が住んでいたことがわかった。場所がはっきりしているスィンド人とコルキス人の間に、新しい民族と地域が現れたのだが、都市に関してはタマン半島の都市群、やや南にトリク(トリコス)があるだけでディオスクリアダまで情報はない。研究史上、トリクの場所は明らかで、現在のゲリンジクに推定されている。ヘロドトスの『歴史』にトリコスの記述があるとする典拠不明の文献が見られたが、筆者の調べる限り該当する記述は見つからなかったので、参考までにここに一筆入れておくことにする。さて、ゲリンジクの北にケルケティ人、ゲリンジクにトレタイ人、ゲリンジクの南にアカイア人が住んでいた。すると、ヘニオキ人は大ソチ市の領域か少なくともその近隣、南のトゥアプセやガグラを含めた地域に住んでいることになる。更に時代が下った紀元1世紀の人、ポンポニウス・メラは、

 

  ディアスクリアは、ヘニオキと接する

 

と書いてあるから、紀元前4世紀以降、ヘニオキ人は更に南にまで住んでいたことになるが、まだこの時代にはヘニオキ人とディオスクリアダの間にコラクス人、コル人(コリカ地方)、メランホレノイ人、ゲロン人が居た。上記の諸民族集団に関して、ギリシャ語ではヘカタイオスを溯る史料はないが、ウラルトゥ王のアルギシュティ1世の碑文(紀元前8世紀)には、今日のトルコ北西部のチルディル湖周辺にイガニエヒの国があったことが記されている。この集団がギリシャ人のフニオホイ、ローマ人のヘニオキであるとする仮説が提示されている。そうかもしれない。一方、ヘニオキは固有の集団名ではなく、「(戦車の)御者」という意味のギリシャ語なので、土着の種族ではなく外来の戦士集団であるという説も出されているが、であるとすると、ウラルトの碑文の集団名称は、ギリシャ語起源と考えなくてはならない。或いは逆にこの碑文のイガニエヒに相当する自称かまたは現地語をギリシャ語で音訳するときギリシャ語の似た響きの語彙を採用してしまったのかもしれない。丁度、ギエノスをキクヌス、キグヌス(ギリシャ語でもラテン語でも「白鳥」)と読み替えてしまったように。後の時代の紀元1世紀大プレニウスは、ヘニオキ人は雑多な要素からなる集団であると述べるが、偽スキラコスの時代もそうであったかどうかは、判断の材料ない。

 すると、偽スキラクス以前のギリシャ人はこの集団をヘニオキと音訳しただけであったが、後のギリシャ人は、ヘニオキを「御者」であると読み替えてしまい、彼らの祖先がギリシャ人であると解釈したことになる。ギリシャ語以外にヘニオヒ人自体あるいは、地元の周辺民族が彼らをどのように読んでいたかを知る手段は、今のところない。この碑文に次ぐ古さであり、彼らについて述べるギリシャ語の現存するテキストでも最古と思われる偽スキラクスの記述は、ヘニオヒ人がどのような人々かは述べていないが、前4世紀の半ばに、哲学者アリストテレスは、

 

黒海のあたりに住むアカイア人とヘニオヒ人のように、すぐにでも人間を殺して食べようと待ち構えている種族は多い。彼らと同じように、更にはもっとひどい部族もある。彼らは略奪で生計を立てているが、臆病である」(アリストテレス『政治学』ベンジャミン・ジョーウィットの英訳からの重訳)

 

と述べている。また、別のところでも、

 

  最初、ヘニオキはファシスに住んでいた。彼らは人食いで、人の生肌を剥ぎ取った。

 

と述べる。紀元前4世紀のこととはいえ信じられない話である。これは、オリエンタリズムだと、アリストテレスを評価することも可能だが、実はギリシャ人の伝説ではアカエイ人もヘニオキ人も先祖はギリシャ人であった。但し、アリストテレスは食人民族について言いたかったのであって、アカエイ人とヘニオキ人について書きたかったのではない。このような場合の証言の信憑性は劣ると思う。

ヘニオキ人の南東にはコラクス人とコル人が並べられている。ヘカタイオスの記述では、コラクス人はコルキス人に属し、コル人はコーカサス山脈に近いとするだけで位置関係は明確ではないが、偽スキラクスの記述では、両民族ともにヘニオキ人と隣り合っている。ヘカタイオスによれば、コル人は山麓の住民であったが、アリストテレスの『気象学』によると、地下の川が、コラクス人の国の地下から黒海に流れ込んでいるのであるから、コラクス人は海岸に住んでいたのであろう。ヘロドトスでは黒海東南沿岸に置かれているコルキス人は、偽スキラクスではあたかも、ディオスクリア(現在のスフミ)やギエナ(ギエノス、現在のオチャムチラ)、ファシス(現在のポチ)周辺に住んでいる。従って、コラクス人とコル人はコルキス人の北の地域に住んでいたと理解できる。一方、ヘカタイオスでは、コラクス人はコルキス人に属しているとも明記されている。現代の歴史学者の中には、紀元前4世紀の記録にはないコラクス川を想定して、これをスフミの南の現在の名称のケラスリ川にあて、コラクス人とコル人を同河左岸に置いている。しかし、これではメランコリノイ人とゲラン人の居場所がなくなる。そこで、コラクをアブハジア語の「非常に黒い」という言葉に理解して、これとギリシャ語のメランホリノイとは同じ集団を指しているという発見がなされた。しかし、これは学界の主流意見にはなっていない。学界の主流意見は、コラクス人のもとにコラクス河を想定し、この川をアブハジアを南北に分けるブズィブ川にあてて、コラクス人とコリ人をその南に置く。現代の地名ではピツンダやグダウタ、ノーヴイ・アフォンがコラクス人とコル人の住処であることになる。しかし、コラクスという河川名が、最初に現れるのは、紀元2世紀の人プトレマイオスの著述の中である。一方、ディオスクリアダ、すなわちスフミの南のケラスリ川がコラクス川であったとする主張もあるが、そうしてしまうと偽スキラクスの記述と合致しない。

ディオスクリアダとコラクス、コリカの間に、メランコレノイ人とゲラン人が住むが、メランコレノイ人は、「黒衣の人」の意味のギリシャ語であるので、「御者」の意味のヘニオキ人やのちの時代の「プティロパギア」(虱食い)と同じく、本当に具体的で周囲の集団から区別される人々を指しているかどうか確実ではないし、当然自称ではなくて渾名に類するが、自称あるいは現地語の他称をギリシャ語の音が似て、しかも特徴を表している言葉が選ばれたのかもしれない。これもあくまでも、かもしれないであるが。

「アブハジアの青銅器」として知られる多くの青銅器がある。アブハジア青銅器は、コルキス文化に分類される遺物ではあるが、1940年代以降、研究者はアブハジア、更に詳細には北西アブハジアのコルキス文化が独特の特徴を持っていることを強調してきた。さらに、コルキス文化が専門の考古学者スカーコフは、ピツンダの北のブズイブ川からスフミの南のケラスリ川までの地域の後期青銅器文化は、紀元前9世紀までにコバン文化の影響を受けて成立し、前8世紀と7世紀前半に独自の文化を最高の水準に発展させたブズイブ・コルキス文化が存在したと主張する。また、スカーコフは青銅器時代後期と鉄器時代初期の北西部南コーカサスの埋葬様式を北西から南東にガグラ型、ブズイブ型、イングリ・リオニ型に3分類した。「ブズィブ変種にとって最も特徴的であるのは、西の方を向くか、西に向かった脇をすくめた伸葬墓である。また、甕か、あるいは稀に炭を入れた穴の下に改葬された。相対的に遅い時期、スフミに限って、つまり、イングリ・リオニ変種との接触地域では明らかにその影響で、近くの墓穴に遺骨を埋葬された火葬の例も見られる。ガグラの墓地では、甕あるいは甕の近くの墓穴に改葬される(ときには対になって)と、同じく、はっきりと述べることができる。少ない頻度ではあるが特徴的であるのは、南、南西、北西の向きが優勢であるがいろんな方角を向いた伸葬(一例では横向き)である。ガグラの墳墓は特別なものではなく、似たり寄ったりの、事実上変化のない墓は、ソチからブズィブ川の間に見られる。イングリ・リオニ変種は改葬の際に部分的な火葬を伴った特徴ある集団的墳墓である。次に課題は、考古学的地域分類と文献にあらわれる集団名称どのように対比させるかだが、スカーコフは、コラクス人とコル人の国をソチ地方北部に推定しているから、かくして、スカーコフは民族集団の配置に関しては、メランホリノイ人とゲラン人をブズィブ型の、コラクス人とコル人をガグラ型の様式の担い手にしてソチとブズィブの間か、さらに北のソチに置いていることになる。結局、紀元前4世紀、ソチにはヘニオキ人、コラクス人、コル人などが住んでいたと推定することができるであろう。ソチで発見された青銅器時代後期コルキス文化に属する青銅器は、ほとんど全て巷間収集品、盗掘品、地上採集品、鍛冶屋のストックなどであったが、ヘレニズム期にあたる紀元前6世紀から前1世紀の遺跡は、学術的に発掘され研究されている。この時代の遺跡は住居址と墳墓であるが、住居址はソチ市中央区西部のママイカ川河口部、あるいは同市アドラル区のクデプスタ川、ホスタ川、プソウ川下流の海岸にある。その内、ママイカの集落跡は総合的に見てギリシャ人のもので、ガラス、アラバスター、赤陶、黒陶の什器、テラコッタの小像などが出土し、この地方におけるギリシャ産品取り扱いセンターになっていたようである。クデプスタ川ホスタ川プソウ川下流方面では、アンフォラの破片、香料瓶、大鉢、甕、ギリシャ風および現地製作の赤陶黒陶無彩色の皿が出土した。また、表面採集品から見て、ホスタ川上流のヴォロンツォフ洞窟が北コーカサスからの交易品を持ってくる人々や地元の人々にとって仮の避難所の役割を果たしていた。また、ママイカの出土品はクリミア・ボスフォラス王国とのかかわりが深いのに対し、クデプスタ川やプソウ川下流の遺跡では、黒海南岸のシノプや現地生産の出土品が目立つ。

ギリシアの以外にスキタイ・サルマート風の出土品が顕著である。剣、槍の穂先、斧の様式に残されている。

 取手に鎌形の握りがついたキンジャル(短剣)の分布。出典スカーコフ「鉄器時代初期西部および中央コーカサス間山越えの交流」https://www.kavkazovedi.info/nesws/2014/09/18/

transkavkazakie-svajzi-nazapadnom-i-centralnom-kavkaze-epohu-rannego-zheleza.html

 

ソチ出土の鉄の剣(1-5)、キンジャル(6)、斧(7)クラースナヤ・パリャーナ出土の剣(出典、ヴォロノフ、https://budetinteresno.narodru/kraeved.ru/kraeved/sochi_drev_3_1.htm

右上が鎌形握りキンジャル。

 

 ロシア、バシュクルトスタンで出土のサルマタイ人の短剣(出典、M.Kh Sadykova,Sarmatskie pamiatniki Bashkirii,Pamiatniki skifo-sarmatskoi kultyry,Moskva,19-

62)

 

スカーコフが、「紀元前4世紀の半ば、アブハジアの領域には、要するに、大コーカサス山脈の峠を越えて、クバン川沿岸から好戦的集団の侵入、ギエノスの都市的生活を消滅させ、メオト風の馬の犠牲を伴う文化が現れたことに関わる、何か壊滅的事件が起こる。紀元前4世紀の末に関して、何か大きな軍事的衝突があったことが、ギエナ市の碑文の断片で語られている。紀元前3世紀から前2世紀に地元の文化は、西グルジアのヘレニズム文化圏の一部分になって、(それまでの)素晴らしい独自性のある文化を失った」と述べているのは、この事情を説明している。

 

馬の犠牲を伴う墳墓 出土地はコルキス文化の中心地西グルジアのクタイスィ地方のヴァニ遺跡。出典はBraund,David.Georgian Antiquity,Oxford,1994,ill.2。初出はS.Shamba,Gyuenos-I,

Tbilisi,1988,pls.18-24。1951年生まれのセルゲイ・ミロンイパ・シャムバは、アブハズ人考古学者の第2世代で。多くの論文と著書を著したが、1988年以来政治に乗り出し、アブハジア共和国外務大臣(1997-2010)、首相(2010-2011)などを歴任した。デヴィット・ブラウンド氏は英国エクスター大学教授。

 

馬の犠牲を伴うサウロマタイ人の墳墓(Smirnov,Sauromaty,p.320)

 

 

 

第2項<ストラボン『地理』と大プリニウス『博物誌』>(紀元前1世紀と紀元2世紀)

 

  故郷アマシアに建てられたストラボンの立像。出典Wikimedia commons

 

 

   黒海沿岸東部の諸民族の知識は紀元1世紀の初め頃、ストラボン(紀元前63-紀元23)の地誌が現れると一段と豊富になる。ストラボンはポントスのアマシアにポントス王国の有力者の家庭に生まれた。母方の祖先にはポントス王ミトラダテス6世の乳兄弟がいた。ポントスは前63年にミトラダテス王が死亡して、ローマとの戦争が終了すると、王冠は王の息子で対ローマ和平派のファルナケスに与えられた。第一次三頭政治期王国はポンペイウスの勢力圏にあったが、内戦が勃発するとそのファルナケスも自立を求め、領土拡大に動いたもののが、前47年、カエサルに破れたファルナケスは亡父同様クリミアに逃亡、そこで殺された。王国は64年にネロによって廃止されるまでかろうじて名目のみを保った。ストラボン自身は、イオニアのニュサ(現トルコ共和国アイディン県スュルタンヒサル)で、当時有名な修辞学者アリストデムスに初等教育を受け、ホメロスの作品に親しんだ。長じて、ローマに出て、哲学と地理学を修め、半生を旅に送った後、郷里アマシアに帰って、執筆にあたった。ストラボンの文章は長く詳細であるので、ここでは全体を引用することはしないで、かいつまんで要点だけを述べよう。さて、ストラボンの記述も黒海岸を時計回りで進む。マエオタエ(ここではメオティスではなくこのように呼ばれている)には、ファナゴレイアやケピを初めとする都市がある。スィンド人は広義にはマエオタエ人の一集団であるが、彼らの地域には、ゴルギピア市、スィンド湾およびスィンド市、アナトリア北海岸のスィノプの真北にあるバタなどの都市がある。ゴルギピア市は今日のアナパの北部で都市全体の遺跡が発掘されている。スィンド湾は南に黒海に開いたアナパ湾であるが、するとスィンド市はアナパとなるが、区別できないほど近すぎるので別の場所であると考える研究者もいる。バタは伝統的にノヴォロシースクに推定されているが、真北という意味が、経度が同じという意味であればストラボンの記述は正しくない。トルコのスィノプと同経度はクリミア半島のカッファ(フェオドスィア)だから。スィンド人の国を出ると山がちで、港のないアカエイ人、ズィギ人、ヘニオキ人の海岸を過ぎる。港がないという意味は、黒海沿岸東部地方は、ノヴォロシースクを過ぎると、ゲリンジク湾以外には、大きな船が接岸できる自然の入り江がなく、沖合に停泊した大型商船は艀に商品を積み替える必要があったからである。ストラボンはアカエイ人、ズィヒ人とヘニオキ人が巧みに小船を操って、広い地域で海賊行為を働いていたことを述べるが、浜辺と絶壁、奥行きの浅い湾と短い岬が交差する複雑な海岸の状態はこのような小舟を操る航海に好都合だったろう。紀元前66年ローマとの戦いに敗れ、以前のコルキス国の後身ラズィカ国に逃亡したポントス王のミトリダテス(或いはミトラダテス)6世は、翌年ヘニオキ、ズィギ、アカエイ人の国々を通って、ケルチ海峡の両岸クリミア半島とタマン半島に跨るボスフォラス王国に到着したという。王と現地種族との関係について、ストラボンは、アルテミドロスによって以下のように述べる。アルテミドロスはイオニアのエフェソス出身の地理学者で、紀元前100年ごろに活躍した人であった。11巻本の地理書を執筆したとされているが、現物は残っていない

 

  ミトリダテス王が父祖の国からボスフォラスへの逃走の途にあった時、彼ら(ヘニオキ)人の国を通った。この国は通ることができると解ったが、ズィギ人の国は国土が険しく、住民は勇猛なので通ることを諦め、困難の末海岸にそって、道の大部分は海の浜辺を進んで、アカエイ人の国に着いた。アカエイ人は王を歓待した。

 

このように述べて、ストラボンは、ヘニオキ人が黒海東岸の南部にいたことを示す。尤も、

この事件から200年ほど後のアレキサンドリアのアピアヌス(西暦95年-165年)の歴史では、

 

  ここでミトリダテスが乗り出したのは、怪物じみた企てであった。しかし、彼は成し遂げねばならぬと考えた。王は奇怪で好戦的なスキタイの諸部族の間を、あるものは許しを得、あるものは無理やり押し通った。敗走の身で不運の有様とは言え、彼はまだ尊敬され恐れられていたので。彼はヘニオキ人の国を通ったが、彼らは喜んで王を迎えた。アカエイ人は逆らったので、打ち払った。

 

アッピアヌスがここでスキタイ人というのは、ヘニオキ人とアカエイ人のことで、単に

黒海の東岸に住んでいたか、あるいはアッピアヌスが両者の風俗が似ていると判断しただけで、他意はないだろう。王に対するアカエイ人の態度は、ストラボンの書くのとは異なるが、それでも、アカエイ人はポントス軍の三分の二を撃破したという。またアカエイ人がミトリダテスと戦った理由は、彼らがギリシャ嫌いだったからだという。史実としては、時代も近く、当事者に近い立場にあったストラボン説を採用して良いかもしれない。ミトリダテスが通過した海岸は、アルテミドロスからの引用によると、ケルケト人の海岸が、バタすなわち現在のノヴォロシースクから850スタジオン、次にアカエイ人の海岸が500スタジオン、ヘニオキ人の海岸が1,000スタジオン、デォスクリアに至る大ピツンダの海岸が350スタジオンの距離である。しかし、住民の位置について、ストラボンは、より信頼のおける歴史家は、順番が逆で、「アカエイを最初にあげ、次にズィギ、次にヘニオキ、次にケルケタエ、モスキ、コルキ、そしてこれら3民族の上に住むプテイロパギとソアネ、およびコーカサス山の近くに住む他の小部族を挙げる」と付け加える。つまり、ケルケタイ人の場所が違っているのである。ケルケトイ人の場所に関して、アルテミドロスの説は偽スキラクスの主張と同じであるが、より信頼の置ける歴史家はこれとは違う情報を持っていた。

ストラボンがより信頼の置けるミトラデス戦争の歴史家と言うのは、やはりミティレネ

出身の軍人で文人、ポンペイウスの腹心であったテオファネス(前44年に彼に宛られたキケロの書簡がある)のことであろう。アルミドロスの順番は偽スキラクスに近いが、偽スキラクスのトレイオイ、コラクス、コリカ、メランホレノイ、ゲロンがない、或いは単に記載しなかったのかも知れない。黒海東岸の住民集団の位置と順番に関して、偽スキラクスとアルテミドロスとの中間にあるのは、紀元43年ころに成立したポンポニスス・メラの周航順表である。この順によるとスィンドイ人の次は、ケルケトイ、アカエイ、ヘニオコイ、(内陸にプティロファギ)、コラクスィ、6コリカエ、トレティカ、メランホレノイ、ディオスクリアである。ただし、既に引用したように、ヘニオキとディオスクリアは接している。場所の違いをテキストの、つまり知識の錯乱と考えずに、時間差あるいは住民集団の移動と考えると、紀元前4世紀の偽スキラクスの住民表の中から、先ずトレトオイが現在のゲレンジクの旧住地から南へ移り(ポンポニウス・メラの場所表)、更にこの中から、コラクス(コラクスィ)、6コリカエ、トレティカ、メランホレノイなどの集団が消滅し(アルテミドロス)、最後に紀元前1世紀までにはケルケトイもヘニオキの南に移動した(ミティレネのテオファネス)。ケルケタイの移動の時期に関しては、前490年ミティレネ生まれ(少なくとも85歳まで生存)で、アトランチス大陸に関する記述(テキストはほとんど失われている)で有名な文人ヘラニクスは、ヘロドトスよりやや後で生まれたが、

 

  ケルケタエ人の向こうにモスキ人が住む。(また)カリマタエ人が、一方ではヘニオキ人の向こう側、コラクスィ人の手前に(住む)。

 

とあるから、既に紀元前4世紀初めにはケルケト人の移動は完成したか、あるいは古くか

らケルケト人は二つに分かれていたと考えざるを得ない。ただし、この短い文章は、前に

登場したステファヌス・ビザンチヌスが引用したヘカタイウスに付した逸文である。そし

て、テオファネスにはあるが、アルミドロスにも偽スキラクスにないモスキ人については、

ケルケトイ人のそばにモスキ人が住むというのも、既にヘラニクスが記述する紀元前4世

紀の状況である。時代を遡ると、モスキ人はヘロドトスの『歴史』(前5世紀)では、南

西グルジアのペルシャ帝国第19徴税区に属していた。クセノフォンの『アナバシス』(前

400年ごろ)では、ギリシャ人傭兵隊は彼らと接触がない。つまり、この時にはモスキ人は南西グル

ジアにはいなかった。また、ストラボン自身も「より信頼のおける歴史家」テオファネス

のモスキ人とは別の集団が、コルキス、アルメニア、イベリアの境界地域に存在していた

ことを述べている。あるいは西南グルジアからアブナジア山地に移動した集団であろうか。

それとも紀元前後までにアブハジアのモスキ人は、南に移動したのであろうか。

ポントス王の軍隊は陸路、組織的にアブハジアからボスフォラスに移動したのであるから、文字通り海沿いの経路を取ることは考えがたい。トゥアプセからノヴォラスィースクまで、海岸は至るところで断崖になっているからである。現在でも海岸には道路も鉄道もない。道路も線路もない黒海東海岸北部を鉄道で通過できるのは、ソチ・オリンピックで浮かれた黒海一周鉄道の旅途中の、NHKのレポーターだけであろう。ミトラダテス王はジキ人の国を通ってボスフォラスに行くことを計画したのだが、右手に海岸を回りこんで内陸に入り、クバン川左岸からタマン半島経由でクリミア半島に渡るのが近道であろう。ヘロドトスはキンメリア人がオリエントに逃亡した経路を「メオタイ・コルキス道と呼んだが、スカーコフの考察では、これを文字道理に受け取ってはならず、キンメリア人と彼らの後を追ったスキタイ人はコーカサスの峠を越えてコルキスに入ったとするべきであるという。ジキ人はそのような峠の一つの南側手前にいたと考えていいだろう。王の軍隊がヘニオキ人の国を無事通過できたとすると、王が通過を計画した峠は、トゥアプセの後背地にあるものに他ならない。ジキ人の抵抗にあった王はコーカサス山脈越えを諦め、トゥアプセ以北はコーカサス山脈と黒海の間のどこかの道なき道を進んだのだろう。ジキ人はストラボンの地誌に始めて現れる。ブラウンドは彼らの居住域を内陸部のクバン地方南部に置いている。しかし、ストラボンによるとジキ人はアカエイ人とヘニオキ人とともに海賊を働いていたのだから、コーカサス山脈の西部を越えた内陸とは考えがたい。先に名前を挙げた考古学者スカーコフが、古典古代黒海東岸諸民族の分布には2系統の情報があると強調したが、実際その2系統は前4世紀に現れる。あらゆる変化が前4世紀に起こった、あるいはこれまで引用した史料中、テオファヌスとストラボン自身の見聞きした事柄以外は、すべて紀元前4世紀に起こった変化を表しているとすれば、何も矛盾は生じない。著者が紀元前4世紀に沿黒海地方で種族集団の移動が起こったとする根拠は、ソチとアブハジアに生じた北方民族の流入を示す遺跡と遺物である。

 ストラボンの時代、大ソチにソチにはアカエイ人、ズィヒ人、ヘニオキ人が住んでいたと考えていいだろう。この内ヘニオキはコラクスィ、コリ、トレティ、メランホロイ等の集団を駆逐するか吸収して、南に広がり、スフミに迫っていた。テオファネス自身がヘニオキ人はディアスクリアに接していると言う。ヘニオキ人、ズィヒ人、アカエイ人はカメラエと呼ばれる小船に乗って、沖を通行する商船を襲撃したり、海上から沿岸の町や村を攻撃し、自分たち自身さえ捕虜を取り合った。商品はボスフォラスで売り払い、捕虜からは身代金を取った。ストラボンによると、これら諸民族が、狭く、不毛な地域で海賊と移動の生活を送っていた。

 

  野獣の肉、野生の果実と乳を食料として、ある者は山上に住み、あるものは青空の下渓谷に住む。

 

 現地の考古学者は、ストラボンの証言を承認する一方で、誇大であるとも感じている。

ソチには紀元前に非ギリシャ人の集落や農耕遺跡が見当たらないのに反し、北アブハジア

では、紀元前1千年紀初めに青銅器文化(コルキスあるいはコルキス=コバン文化)圏

内に入っており、ソチでも鍬による農耕が行われていたと考えられるからである。従って、

彼らの社会は狩猟採集民のバンドのようなものではない。ストラボンは、

 

人々はスケプトゥキと呼ばれる首長に率いられていたが、首長たちは王の支配化にあった。例えばヘニオキ人には王が4人いた。

 

と記すが、ソチの海岸部もそのような状態だったのであろう。なお、ヘニオキ人らの海賊行為の歴史は古く、タキトゥスによると既に紀元前4世紀にクリミアのボスフォラス王国は、黒海航海者の保護のためにヘニオキ人、タウル人、アカエイ人の海賊を攻撃している。

ストラボンはポントスの人で、母方の祖母は王の乳母だったので、王の行動は個人的に

も関心があることであったろうが、ストラボン自身は早く郷里を離れ、大旅行家ではあっ

たが、黒海東岸には足を踏み入れたことはなかった。従って、この地域についてストラボ

ンが持っていた知識の大部分は文献によって得られたものである。文献上の知識について

は、やはり文献によってこの地方の地誌を現した博物学者、2世代後の大プリニウス(紀

元22/23-79年)の地誌と比較するべきであろう。大プリニウス、ガイウス・プリニウス

・セクンドゥスは、同名の甥で死後養子と区別するため、日本の習慣に従って、大を付け

て呼ばれている。紀元22,23年ころ北イタリアのコモで騎士の家庭に生まれた。ローマで

法学教育を受けた後の紀元46年、23歳の時、ゲルマニアで軍務についた。体験を『ゲル

マニア戦史』にまとめたが、これはタキトゥスの『ローマ史』や『ゲルマニア戦記』の文

章の中に生きている。また、上官にアルメニアの征服者グナエウス・ドミトゥス・コルブ

ロスがいた。数年間の軍務の後、再びローマに戻って学業に従事したのち、ヴェスパシア

ヌス帝に奉仕し、帝国西部のいくつかの皇帝直轄州で総督を勤めた。77年までに『ローマ

史』31巻、『博物誌』37巻を執筆した。地中海西部艦隊の提督であった79年、折から火

山活動を始めたヴェスピオ山を観察しようとして、スタビアエで火山性ガスのために不慮

の死を迎えた。軍人および行政官としての大プリニウスの体験の場は、ガリア、ヒスパニ

ア、アフリカに限られ、残念ながら東方における現地経験はなかったので、コーカサスの地理に関する知識は、若干の伝聞以外は、書物によるものであった。

 

大プリニウスの『博物誌』12世紀の写本の最初のページ(出典、WikimediaCommons,Abbaye of Saiant.Vuncent,Le Mans Frand.jgg

 

以下の引用は、大プリニウス『博物誌』の関連分部分(第6巻第4章)である。中野定

雄氏らによる日本語訳があるが、なぜか英訳からの重訳であるので、ここでは筆者が英訳(ボストクとリレイ、ラッカム)から試訳した。勿論、中野氏らの訳を参考にさせていただいたことは言うまでもない。

                               

  アブサル川河口から70マイルのところに、いくつかの島があるが、それには名前がない。この先に別のカリエイス川、古くから虱食い(プティロパギ)と呼ばれているサルティアエ人、また別の部族サンニ、コーカサス山に発してスアニ族の国を流れるコブス川、次にロアン川、エグレティケ地方、スィガニス川、テルソス川、アステレフス川、クリソロアス川、アブスィラエ民族、ファシスから120マイルのところのセバストポリス要塞、サニカエ族とキグヌス市、ペニウスの川と町、さまざまな名前でよばれるヘニオキの諸部族のもとに来る。

 

アブサル川はチョロヒ川の分流の1つ、カリエイス川は現在のホビ川、コブス川は現在のイングリ(エングリ)川であろう。イングリ川の上流で大コーカサス山脈とエグリスィ山地にはさまれた高地がスヴァネティ(スヴァネティア)である。行論から見て、引用文3行目のサンニとスアニは同じものであろう。ストラボンもプティロパギとスアニは隣り合っていると述べている。スィガニス川はエグリス・ツカリ、テルソス川はモクヴィ川、アステレフォス川はスクルチャ川、クリソロアス川はケラスリ川と推定されている。さて、ファシスから120マイルの場所にあるというセバストポリスは、ディアスクリアの新しい名前である。ディアスクリアからセバストポリスへの改名が通説のとおり皇帝カエサルによっておこなわれたとすると、時代に応じた名称が用いられている。また、地図上で直線距離を測定すると、ファシス、現在のポティからセバストポリス現在のスフミまでの海岸線の距離120ローマン・マイル(177.6キロメートル。1マイル1.48kmで計算)も、実測123キロメートル、スィグナヒ経由の内陸経路167キロメートルと比べて、かなり正確である。スフミの北にはサニゲ人がおり、さらにペニウスの町があり、ヘニオキ人はその次である。大プリニウスが記したペニウスの地名はここに見えるだけで、古典地理学には未知の地名であるが、ピティウスを指していると考えられている(例えばアブハズ人の歴史学者アンチャバヅェ)。現在のピツンダである。ピツンダの起源は紀元前5世紀に建設されたギリシャ人の殖民都市ピティウスで、現在の名称は、ギリシャ語名の所有格ピティウントスから派生したといわれる。松の意味である。従って、ペニウス川とはブズィブ川であることになる。傍証材料はないが、本書では借りにペニウス=ピツンダ説を採用して話を進めよう。キグヌスはスフミの南の現在のオチャムチラのギリシャ語名である。キグヌス周辺に住むというサニギ人は、紀元前4世紀の情報に由来する文献には見えない新しい集団名である。スフミ南部を流れる現在のケラスリ川であるクリソロアス川の近くにアプスィラエ人が住む。問題は、サニギ(サニカエ)、アブスィラエ、ヘニオキの諸種族が、住んでいた地域の特定であるが、特にこれまでソチ地方からスフムに渡ってに住んでいたと考えてきたヘニオキ人が南はどこまで広がっていたのかが重要である。大プリニウスは次のように続ける。

 

 この先にはコリカと呼ばれるポントス地方の1地区がある。既に述べたようにそこではコーカサス山脈は、リパエオス山脈の方に向かって曲がりこみ、一方は黒海とアゾフ海に落ちこみ、他方はカスピ海とヒルカニア海へ向かう。海岸部分の残りの大部分を占めている民族はメランコラエ人とコラクス人で、アンテムス川河畔のディオスクリアという、今は荒廃しているがかつては非常に名高く、ティモステネスによれば、300の異なった言葉の民族がそこに集まり、ローマの商人が130人の通訳を使って取引したほどの、コルキスの都市は彼らのもとにある。ディオスクリアはカストルとポラックスの御者アンピトゥスとテルキウスによって建設されたと信じる人々がいる。ヘニオキ(「戦車に乗る人々」という意味)族は彼らの子孫であるということは、実に正しい。

 

不思議なことに、一旦、記述をピツンダまで進めた大プリニウスは、道を引き返し、以前のスフミの町の商売が殷賑を極めた話を始める。スフミは、大プリニウスの直前のテキストの中でセバストポリス要塞と呼ばれたばかりだ。スフミであるディアスクリアの繁盛についてはストラボンも記しているから疑わないが、ストラボンは、ここで大プリニウスが300としている集まる民族数は間違いで、正しくは70であるとしている。その数はもともとティモステネスのあげたものだが、ティモステネスは紀元前3世紀のエジプト出身のギリシャ人航海者である。つまりは、大プリニウスからは400年前の事情である。しかし、ミトラダテス戦争以降ディオスクリアダは衰退し、ローマはあらためて、要塞を建設しディスクリアダ(ディアスクリア)を放棄せざるをえない事情にあったから、都市自体ではなく新たに駐屯兵を派遣してセバストポリス要塞を建設したのであろう。ディオスクリア自体の事情は不明であったが、ここから10km北にある当時ギリシャ都市エシェル(当時の名称は知られていない)では、紀元前1世紀半ば、あるいは第3四半期、急襲を受けて占領され、家屋は焼き払われた。攻撃は北の山側から行われたようで、城壁跡には多量の鉄の鏃が残されていた。カエサル、ポンペイウス、クラッススが政権を巡って争った第1次三頭政治の時期である。大プリニウスの甥、晩年110年から113年、かつてのポントス王国が分割されて作られたビチニア-ポントス州総督在職のまま死亡した小プリニウス(61-113年頃)の書簡によると、ピトゥンタは西暦1世紀の始め、ヘニオキ人によって破壊されたというから、スフミについても同様の事情があったのかもしれない。

帝政が始まるとローマは東方経営の再構築に乗り出した。ネロ帝は東方親征を計画されたがこれは実行されなかった。ポンペイに征服されたものの混乱のなかで自立を目指したポントゥス王国は再びローマ軍に敗退、属国化され、紀元54年に王国は廃止され、属州化された。このときポントス海軍の提督であった東方出身の解放奴隷アニケトゥスは、ネロの死後、ローマの艦船を焼いて、コルキスに逃亡し、コルキスのセドケズィ王を買収して味方にしたが、短期間ローマに対する破壊活動を行った後、王の裏切りにあって、コブス川で敗死した。この事件はタキトゥスの『年代記』に記されているから、大プリニウスも知っていただろう。同じ頃、属州化政策が進行していたユダヤ王国では、ローマに使えていたユダヤ人イオスィフ・フラヴィウスによると、アグリッパ王は対ローマ強硬派に強大なローマとことを構える愚を解いて、

 

ヘニオキ人とコルキス人、タウリの先住民、ボスフォラスの住民、ポントスとメオティスの先住民にについて言わなくてならないのは、彼らは以前彼等自身の領主さえ認めなかったが、今では3,000人の重装歩兵に従い、以前は航海には及ばず、嵐が多かった海を40艘の長い船が海を治めているのを?(『ユダヤ戦記』

 

この掃討作戦については、研究者のあいだに実施年代にかかわる論争もあり、事実であることを否定する主張もあるが、ウイーラーは当時のローマ帝国正規軍団の勤務状況を把握して、3,000人の重装歩兵はアニケトゥスの反乱を鎮圧するためにヴェスパスィアヌス帝が派遣されたヴィルディウス・ゲルミヌスの部隊がこれであるという。

ここで大プリニウスはディアスクリアがコリカ地方にあり、メランコラエ人とコラクス人はかつてここに住んでいたと記している。すると、大プリニウスは偽スキラクスの民族配置配置とティモステネスのディアスクリアの繁栄を組み合わせたのである。偽スキラクスにあって、既にストラボンにないコラキ、コラクス、メランコライを大プリニウスが挙げているのは、アナクロニズムではないだろうか。大プリニウスの情報源は、偽スキラクスであると思われる。さて、大プリニウスの筆の運びに合わせて、我々も話を進めよう。次も難題、ヘラクレウムである。

 

ディオスクリアから100マイル、セバストポリスから70マイルでヘラクレウムの町がある。ここの種族はアカエイ、マルド、ケルケタエで、そして彼らの背後にケリとケファロトミがいる。これらの地域の最も奥まったところに、かなり名が知られていたが、ヘニオキ人に略奪されたピティウスがある。彼らの背後にはコーカサス山中にサルマタイ人に属するエパゲリタエ人が、そして彼らの背後にはサウロマタエ人がいる。ミトラダテスがクラウデイウスの治世に逃亡したのはこの部族のもとで、彼らが隣り合うタリ部族は東方にカスピ海の入り口に延びていて、彼らが言うには引き潮のとき海峡は干上がる。

 

先ず、ここはディオスクリアとセバストポリスの二つの地名がでてきて、とても複雑だというか、面食らってしまう。第一に同じ都市を同時に二つの名前で呼ぶことはあっても、その場所は30ローマン・マイル(約44キロメートル)も離れないからだ。ディオスクリアがセバストポリスと改名されたとき、30ローマン・マイル離れた別の何処かの都市がディオスクリアと改名されたと考えると、同時にディオスクリアとセバストポリスの地名が出てきても問題はないが、それでは、位置関係が違う。ファシスから北に向かってスフミまでに、ディアスクリアにあたるまちはない。スフミの北にディアスクリアができたとするとその場合は「セバストポリスから100マイル、ディアスクリアから70マイル」としなければならないからだ。大プリニウスはスフミの北30マイルにあった町の名前を間違ったのかもしれない。すると、スフミから30ローマ・マイル(約44km)の地点は、海岸の距離でグダウタ38km、グダウタの西のソウクス岬で44kmであるので、グダウタであろうか。但し、グダウタ周辺にはギリシャ人の植民都市もローマ軍の城塞も確認されていない。仮にそのような町があるとすれば、スフミから海岸線で約65キロメートル、直線で55キロメートルのところにあるピツンダであろう。しかし、それはソチには直接かかわらない。スフミから北西30ローマ・マイルの場所に、大プリニウスがディオスクリアと呼んでいるある都市があり、そこから70ローマ・マイルの場所にあるのがヘラクレウムであるとしよう。カチャラヴァは、アドレルをこのヘラクレウムにあて、一方、ブラウンドとシンクレアーは、後の時代のローマの行政官アリアヌスの「ヘラクリウス岬とネスィス」をそれぞれアドレル岬、ムズィムタ川にあてる。するとここは、ソチ・オリンピックの会場周辺ということになる。スフムみ・アドレルの直線距離は、約97kmであるが、道程となるとはるかに大きく、約164キロメートルであるが、これはほぼ100マイルに等しい。

この段落中にあらわれる地名はピティウス、現在のピツンダである。さて、現在の大ソチ市にまで進んで、記述はまたピティウスに戻ってしまう。ピティウスつまり現在のピツンダは先刻、ピニウスとした町と川にあててしまっている。勿論、著者が単にピティウスの情報を繰り返してしまったということは有り得る。この段落前半の情報はそれで間違いがない。問題があるのはその後半、後背地の諸民族に関してである。しかし、大プリニアスがピティウス周辺の状況として述べているのは、実際にピティウスのことであろうか。セバストポリス(ディアスクリア)からの距離数において、そうは言えない。またボスフォラスを目指していたミトリダテスがピツンダからコーカサス山脈を越えようとしたのは、ピツンダではあり得ない。ピツンダから山脈を越えたのでは、ズィキ人ともアカエイ人とも遭遇することができないからである。しかも、ピツンダの後背地ではスキタイ人をクリミアに逐ったサルマート人の一部であると言う詳細不明のエパゲリタエ人が住み、背後にヘロドトスがスキタイ人とアマゾネス人との混血民族であると叙述するサウロマタイ人が居住し、更にカスピ海沿岸に抜ける経路を有する空間としては十分に広くはないと思われる。その様な空間はクバン川上流山地に通じる経路を持つソチの方がふさわしく、更に山脈も低く容易にクバン川中流域に連絡するトゥアプセに一層相応しいと思われる。ノヴォロシースクまで、黒海海岸ではトゥアプセ程内陸部との交通が開かれている場所はないからである。なお、「最も奥まった」というのは、ストラボンが、スフミについて述べている言葉である。史料中にトゥアプセをピティウスと呼ぶ例はないが、もうヘニオキ人は住まず、アカエイ人、マルド人、ケルケタエ人が住むのは、大ソチ市とトゥアプセ郡の境界地帯よりは北であり、広い後背地を持ち、更に内陸部へ開けたトゥアプセの地形にも適合する。大プリニウスは偽スキラクスなどの古い地理情報、紀元前1世紀のミトリダテス戦争に関する情報と最新のヘニオキ人のピティウス略奪に関する情報を混ぜ合わせてしまったのであろう。ただし、通説ではミトラダテスはジキ人、アカエイ人と和戦を繰り返して海岸部を通過したのであって、内陸部から平原の遊牧民の間を通過したのではない。

さて、大プリニウスは「ピティウス」=トゥアプセ?の先を、

 

 ケルケタエ人の近くの黒海沿岸、ヘラクレウムから136マイルのところにイカルス川、アカエア人と彼らのヒエルス(「聖地」の意味)がある。次にクルニ岬があり、その次の急な崖はトレタエ人によって占められている。次にヒエルスから67マイル半のところにスィンディカのポリスとセケリエス川。

 

これによると黒海沿岸の民族は北からシンディカ、トレタエ、ケルケタエ、アカエアで、

偽スキラクスやアルテミドスの情報と同じになる。ヘラクレイウスから136マイル(245キロメートル)のところにイカルス川とアカエア人、ヒエルスがある。先ほどヘラクレイオスは大ソチのアドレルであると仮置きしていたから、アドレルから136マイル201kmにあるのは、ゲリンジク湾入口から15km南の地点のジャンホト周辺にあたる。勿論厳密には考えず、大まかにトゥアプセとゲレンジクの間程度に見ておけば良いだろう。その先のトレタエ人については既に現在のゲリンジクであると確定したので、イカルス川、アカエア、ヒエルスはその南東にあたる。ブラウンドは、イカルス川をトゥアプセの北西に置いている。従って、ヒエルスもその近くであるが、聖所の意味からしてコドシュがアカエア人のヒエルス(聖地)ではないであろうか。最後のスィンディカの都市は現在のアナパであるが、大プリニウスには、ストラボンのバタ、現在のノヴォロシースクの情報は欠いていることになるが、そこが最も古い史料ではケルケトイ人の国に当たるはずである。つまり、大プリニウスの民族配置は、偽スキラクスによるものであろう。大プリニウスの記述には、複数の文献を十分な批判を加えず繋ぎ合わせた形跡がある。しかし、作者は77年の刊行以後も絶えず原稿に修正を加えていたというから、もし、79年にヴェスビオス火山の噴火のために不慮の死を迎えていなければ、このテキストももっと我々に解りやすいものになっていたかもしれない。

 

 

 

 ママイカ出土ギリシャ黒陶  

(出典Voronov前掲書、図29)

アカエイ人の南のどの民族が大ソチの民族でるか明言するのは文献資料に拠るだけでは困難である。ヘニオキ時代、紀元前6世紀から前1世紀の集落址と墓地は、ソチ市中央区西部のママイカとその海岸部やホスタ区のクデプスタ川、アドレル区のムズィムタ川、ソチ地方とアブハジア境界のプソウ3河の間に見られる。ママイカの集落はギリシャ人のものであったようで、石膏、ガラス、アラバスター瓶、黒陶・赤陶容器、テラコッタ製の偶像などが出土している。クデプスタ、ムズィムタ、プソウ流域からはアンフォラの破片、香水入れの小アンフォラ、壷、赤陶皿、黒陶製、普通の古典期の及び現地の食器などが出土している。ヴォロンツォフ洞窟の出土品から、ソチが黒海と北西コーカサスを結ぶ中継点になっていたことが知られる。デメトレウス神のテラコッタ製偶像はボスフォラス製と見られている。当時のソチ住民は、スキタイあるいはサルマート系の遊牧民との関係が深く、剣、鏃、斧など北方の文化とかかわりの深い様式の遺物が発見されている。沿黒海地方における北方遊牧民の存在は、ストラボンや大プリニウスが記しているとおりである。このような遺物は、ソチ海岸部からもクラースナヤ・ポリャーナのような山間部からも出土している。他方、ピン、ブラスレット、髪飾り、首飾りなどは、コルヒダの北部や中央部と共通の要素を持っている。残念ながら、トゥアプセ地方の考古学調査は進んでいないか、単に私が無知で現状を把握できていない。

 

黒海東岸古代民族配置表(著者作成)

 

 

第2項<アッリアノスとプトレマイオス>(紀元2世紀のソチ)

 

ハドリアヌス帝の肖像、ローマ国民美術館像、作者未詳、撮影(Jastow,2006)(出典

ウィキメディア・コモンズ)アッリアヌスと小プリニウスが使えた。

アッリアヌスの名前の一部が残る碑文Ocherki istorii abkhazskoi ASSR,Sukhumi,1960,p.33

プトレマイオスの肖像(16世紀の画家の想像)出典ウィキメディア・コモンズ

 

 ストラボンと大プリニウスの述べる住民集団に関する情報は、一致している部分も多いが、また違いも多かった。筆者はこの違いが、紀元前4世紀の変化前後の情報が時代差を無視して引用されたためだと考えた。しかし、紀元2世紀にはローマ帝国の黒海政策の進展に伴った、より具体的な情報が伝えられるようになった。

次の地理学者はニコメディア出身ルキウス・フラウィオス・アリアノス(紀元86年頃‐160年頃)である。アッリアノスは、ローマ市民権を持ったギリシャ人文人、官僚、軍人で、ハドリアヌス帝に仕え、130年頃から138年頃までカッパドキア総督を拝命して、東部国境の防衛に当たった。スフミ要塞の遺構から、134年の日付の「フラウィウス・アリアヌスによって」と刻まれた碑文が発見されている。数多くあるアレキサンダー大王伝の中でも最も有名な『アレクサンドロス東征記』の著者でもある。フラウィウスの『黒海周航記』は、元来ラテン語で書かれたハドリアヌス帝に提出された上表文であった。このラテン語版上表文は失われたが、ギリシャ語で書かれた要約が残されている。内容は、多少込み入ったものなので、とりあえず、以下に関連箇所(ディアスクリアからスィンディカまで)をファルコナーの英訳から重訳してみよう。それに先立って、トラブゾンからスフミまでの地方政治状況を説明しよう。現在のトルコ共和国トラブゾン県東部海岸部にはマクロネス人とヘニオキ人が共通の王をいただいていた。スィドレタエ人はトラブゾン州東部にいた。ブラウンドは彼らの王国をチョロフ川下流においている。トルコ北東部から、グルジア西部にかけて広がっていたのは、コルキス人の後身であるラズ人で、地域の名称としてはラジカと呼ばれている。今日でも残る彼らの子孫は、トラブゾン東部のラズ人とグルジア西部のメグレル人である。民族名称マクロネスも語源的にはメグレルに近いと思われる。アプスィラエ人の王国はポティとスフミの間にあった。彼らの北、スフミの南にいたのがアバスク(アバスグ)人であった。後にギリシャ語文献中に広く見いだされるこの民族集団名は、アッリアノスが初出である。最後に、スフミ周辺にいたのがサニギ人である。

 

 マケロネス人とヘニオキ人はこれらの民族に接しています。彼らはアンキアルスと呼ばれる王を戴いています。これに続いてスィドレタエ人がいて、パラスマヌスに従っています。スィドレタエ人に接してラズ人がいます。彼らはマラッサス王に服属する人々で、王は王国を汝から与えられています。ラズ人に接してアプスィラエ人が、ユリアヌス王に治められております。王は王国を陛下の父君に賜っております。アプスィラエ人に隣りあって、アバスキ人がおります、その王レスマグスは王冠を陛下に賜っております。サニガエ人はアブスキ人に隣りあっております。セバストポリスはサニガエ人の都市で、彼らはスパダガス王に従っておりますが、王は王国を陛下に賜っております。 

 

陛下と言うのはハドリアヌス帝だが、父君とは先帝トラヤヌスである。ハドリアヌスはトラヤヌスの養子であった。トラヤヌスはダキア(今のルーマニア)とナバティア(首都は世界遺産のぺトラ。属州はアラビア)を征服して、属州化し、またパルチアと戦って領土を拡張し、占領地にアルメニア、アッシリア、メソポタミア等の属州を置いた。詳細な前後関係は未詳だが、トラヤヌス帝は黒海東南岸の土着の諸王国を掌握して、対パルチア戦線の後方を固めたのであろう。

 

  ディオスクリアスを発った後、最初の港はピティウスで、350スタジオン(62.3km)の距離がございます。ピティウスからニティカまで、150スタジオン(26.7km)。ここには以前スキタイ民族が住んでおりました。彼らについてヘロドトスは在り得ない話をしがちでありますが、彼らを虱食いであると書いております。本当に今でも同じ話が広まっております。ニティカからアバスクス川まで90スタジオン(16km)。アバスクスからボルギスまで120スタジオン(21.7km)。ボルギスから、ヘラクリウス岬を含めてネスイスまで60スタジオン(10.7km)。ネスィスからマサイティカまで90スタジオン、マサイティカからズィキとサニカエを分けるアカエウスまで60スタジオンでございます。サチェムパクスはズィキ族の王で、陛下に王国を賜っております。アカエウスからヘラクレス岬まで、そこにはトラスキアスと呼ばれる北西風とボレアスと呼ばれる北東からの風を逃れる場所がございますが、180スタジオン(32.1km)でございます。そこから旧ラズィカと呼ばれる場所まで120スタジオン(21.7km)。そこから旧アカイアまで150スタディオン(26.7km)。そこからパグラエの港まで350スダディオン(62.3km)。パグラエの港からヒエルスの港まで180スタジオン(32km)。そこからスィンディカまで350スタジオン(62.3km)でございます。

                                                                                              

 これまでに説明した史実と考えられる事項、および、後の5世紀に無名者によって書き

加えられた注釈に基づいて、アリアノスの上表文を読み解こう。セバストポリスと改名さ

れたはずのスフミは、再び旧名ディオスクリアと呼ばれているが、アッリアヌスは改称の

事実を知っている。スフミからピティウスすなわちピツンダまで350スタジオン(約62.3

キロメートル)。現在の自動車道の距離では55キロメートルであるが、グーグルマップ上

で計測した海岸線の長さは63kmである。同じ経路でなければ当時の測量の精度について

は評価できないが、計測線が海岸線であるとすると非常に正確であったといえる。ピティ

ウスから今日のガグラであるニティカまでは、150スタジオン(26.7km)、海岸線の長さ

も約27kmで一致する。かつてスキタイ人が住んでおり、ヘロドトスが彼らの習慣につい

てのありえない話すなわち、彼らを虱食いと述べたが、当時も同様の話が語られていると

する。しかし、虱食いは信じられない話ではなく、13世紀のモンゴル人の間にも虱食いの

エピソードがあり、グルジアにも虱食が肝炎治療に効果があるという民間療法があった。

5世紀の無名の著者は、ここをスタニスティカとした上で、かつてトリグリトと呼ばれた

と注記している。ここは現在のガグラである。ここまでの場所の特定については、

アリアヌスの計上距離数と地図上の計測数が一致しており、都市の情報自体も十分である。

しかし、ここからトリックまでの多くの地点は、未詳の場所である。アッリアヌスの行程

は、ガグラからトリックまでの合計が1220スダジオンである。ここでは仮に1スタジオン

180mで換算してあるが、1220スタジオンは、219.6kmである。一方、スフミ、ピツンダ、

ガグラ間と同じく、海岸線の距離であると考え、筆者が地図上、計測ソフトで測ると244km

になった。全体的にアリアヌスの計測数は小さめであることになり、総じて1スタジオン

当たり200mで計測すると実数に近づく。状況によってはスタジオンを多めにメートル換

算することが必要であるが、それはあらかじめ結論を誘導するものであってはならない。

アッリアノスはスフミの先は視察していないと見られ、最終的には5世紀に成立した旅程

図であるピューティンガー表にもスフミから北の街道は記載されていない。アッリアノス

が示す数字の根拠はまったく不明である。陸上を正規軍の遠征が行われたのであれば、行

程記録兵が歩数を数えるなり、測定車をガラガラ引いていくのだが。

さて、このようにアリアノスの計測点を海岸線に落としていこう。ネスティカ(ガグラ)

からアバスク川まで90スタジオン(16.2キロメートル)であるが、ガグラから16kmの海

岸線にあるのは現在の名称はツァンドリプシュ(旧名ガンティアディ)、アバスク川はツ

ァンドラプシの北のハシュプセ川であろう。そこからボルギスがあるという120スタジオ

ン21.6kmの海岸線は、地図上はアドレル市街にあたり、そこからネスィスのある10kmは

アドレルとホスタの中間点、そこからマサイティカのある16kmは、ソチ中心部とソチ川

を超えたノーヴイ・ソチになる。しかし、ボルギスは、プトレマイオスではブルカス川で

あって河川名であり、もし5世紀の名称ブルホントの現地名がブルホンタであれば、アブ

ハズ語で「タ」で終わる地名は河川名であるし、当時の名前はミズィグであるので、現在

の地名ムズィムタ川とする推理は正しいであろう。するとネスィスはボルギスにあてたム

ズィムタ川から60スタジオンにあたる10キロメートルの地点のクデプスタであろうか。

現在、ムズィムタ川河口右岸というよりは、クデプスタ川河口左岸には旅客ホテル、ブル

ガスがある。地元ではすっかりその気であるということであろうか。しかし、ここにヘラ

クリウス岬にあたる岬はない。もし、もっと西のホスタがネスィスであれば、ヘラクリウ

ス岬はホスト市街西のゼンギ岬であろう。ゼンギ岬は現在名ヴィードヌイ(目立ち)岬で、

「クマシデ、カシ、ブナの巨木に覆われた低い鋒が海の中に突き出ている」(デユボア・

ド・モンペレ)。しかし、ブラウンドとシンクレアーの歴史地図帳では、ボルギス川で、

後述のプトレマイオスのブルカス川と同じとするが、場所は示さず、ネスィスをムズィム

タ川にあて、ヘラクレイウス岬をアドレル岬にあてている。そうするとボルギス

川は、ムズィムタ川から南東のプソウ川ということになる。しかし、アドラル岬はムズィ

ムタ川河口に形成された砂嘴である。

ヴィードヌイ(ザンギ)岬(Google Mapより)

 

 南側から見たヴィードヌイ岬。写真中央の白い建物は、パンショナート「ヴィードヌイ岬」(ソ連時代に出版された横長絵葉書)

 

ネスイスから90スタジオン16.3キロメートルにあたるマサイティカについては、ネ

スィスを現在のホスタにおくとソチ川右岸のソチ新市街になる。アドレルに置くと、ソチ市中央区の南東端、プーチン大統領の別荘があると想定されるマチェスタにほぼ一致する。二つの地名を同一地点とする誘惑に駆られる。2世紀にはソチ市西部にはギリシャ人の集落や地元有力者の墳墓の遺跡が残されている。また、ソチ市中央区西部のママイカにはローマ時代に遡ると主張される古城砦跡も残されている。ポントス総督であるアッリアヌスにとって最も重要なのは、ローマ軍の要塞であろう。とすると、マサイカの場所として最も相応しいのは現在のママイカに残るママイ・カレであろう。

 

ママイカレ城址を紹介する現地観光関連団体のホームページhttps://prohotel.ru/place-188917/0

 ママイカは、ソチ中心から数キロの小地区でプサヘ(ママイ)川の下流右岸に当たる海に面した場所である。ここに古い城砦跡が残るが、多くの研究者はこれをローマ皇帝ネロの時代のポントス国境防衛線に所属するローマ、あるいはビザンツの遺跡で、紀元400年前後に成立した「高官席次」である『顕職総覧(ノティティタエ・ディグニタルム)』にあるアルメニア公領ポントス区のモコラ大隊の基地がここにおかれたと考え、紀元1‐6世紀に使われていたと判断した。現地ではこれを通説としている。しかし、『ピューティンガー表』等の行程図ではモコラはアルメニアに求められている。ママイ・カレの使用年代は考古学的方法では確定できず、ここに古い要塞跡があったということしか、ママイ・カレあるいはママイカをモコラとする根拠は提示されていない。もちろん、正規軍の駐留地ではなかったとしても、マサイカが、ローマの黒海経営上重要な地点であることは変わらない。またネロがコーカサス親征を欲したので、この時代にこの地方にローマのプレゼンスがあったことは否定できない。今、筆者が言うことができるのは、ソチ中央区に、マサイティカと呼ばれる場所があり、ローマの地方当局から認識されていたと言うことだけである。

マサイティカから60スタジオン10キロメートルのアカエウスは、マチェスタからだとソチ新市街、ソチ新市街からだとルー周辺にあたる。2世紀にズィヒとサニギの境界であるアカエウスは、5世紀にはアフエントまたはバスィス川で、既に述べたように現在のシャヘ川(あるいはアシェ川)に同一され、やはりズィヒ人とサニギ人の境界である。ルーではあまりにも近すぎると思われる。到底、シャヘ川には至らない。フラヴィウスのスタジオン数現実の地図上の距離とは完全には符合しない。つまり、ネスィスからアカエウスまで、あるいは現在の大ソチ市内で距離数は過小に評価されている。アリアヌス自身が実見していない地域において、地形上、天候上、あるいは政治的な事情で、計測が正しくないことはありうるだろう。

 ガグラと同じく所在地の確実性が高いトリックを現在のゲレェンジクにあてて定点として、逆に北から南に地名をたどってみよう。ゲレンジクから350スタジオン分の距離63kmを海岸沿いに南に進むと、ジュブガに至る。ここが旧アカエアであろう。ここには小さなジュプカ湾がある。そこから同様に150スタジオン分の27kmは、現地名のサスノヴイの手前で、ここが旧ラジカであるかもしれない。しかし、ここには岬も湾も大きな川もなく停泊には不向きな場所である。また海岸まで山が迫っていて後背地もない。ここから北西に直線距離4km、海岸線の距離で6kmの地点にのトゥ川下流にオリギンカ(1864年までは、トゥメ・カレ)がある。幅1キロメートル奥行き500メートル、半円形の湾があり水深は十分にあるといわれているので、オリギンカのほうが旧ラズィカの場所として適当であるかもしれない。更に5世紀の著者は、旧ラズィカには今のニコプスィアが建てられ、近くにプサハプス川があると記述している。同名の河川は見つけられないが、もう一つの手がかりのニコプスィア遺跡は、オリギンカの北西、直線で7kmのノヴォミハイロフスキー村のネチャプスホ川の下流にあるとされる。旧ラジカは、ノヴォミハイルフスキーに当てるのが適当かと思われる。旧ラズィカの南東には、ヘラクレス岬があるが、これはコドシュ岬に当てるあろうとするのが適当であろう。

 航空写真から見たコドシュ岬(中央) 出典 Google Map

 

 

 

 

 

海上から見たコドシュ岬(出典 Wikipwdia Commons ) 

 

このヘラクレイウス岬はアドレルのヘラクレス岬とは別の岬である。サスノヴォイから、120スタジオン分21.6kmはコドシュの丸い半島を回り込み、現在のトゥアプセ港大埠頭にあたるが、修正したノヴォミハイロフスキーからだとアゴイに留まる。アゴイとトゥアプセの間は南西に突出する丸い小半島になりその南端がコドシュ岬である。ヘラクレス岬はコドシュの半島のどれかの岬であろう。カドシュはアディゲ語で海の王の名であるという。岬の東のトゥアプセ川とプシェセプス川河口沖に19世紀初めには投錨地があり、トゥアプセ周辺で最も目に付く港である。トゥアプセから180スタジオン分32.4km戻るとアシェ川とシャヘ川の間のプセズアプセ河口にあたる。起点をトゥアプセではなくコドシュ岬に取ればアシェ川に近づく。アカイアから60スタジオン10.8kmは、アシェからだとプセズアプセ川をわたって1km程カトコヴァシチェリとズボヴァシチェリの間にあたるが、マサイティカは、5km程東南のゴロヴィンカの方がふさわしいかもしれない。ローマ時代の城塞址があるからである。シャヘ川からだとヴァルダネが10km地点である。アシェ川をアリアノスのアカイア(川)、5世紀の無名の著者のアフエフンタに当てるのは、言葉の類似によるものであるが、シャヘ川をこれにあてるのは、5世紀の著者がこの川を船で遡ることができるとしていることが、沿黒海地方第2の大河シャヘにふさわしく、また19世紀にはチェルケス人シャプスグ族とウブイフ人を隔てる川であったからである。4世紀後半の歴史家ルフィウスが、ケルチ海峡の「近くにキンメリア人とシンド人が住んでいた。近くにはケルケトとトレティの種族が住み、クサンタの海岸からはアカエイ人が住む」と記す。クサンタは、5世紀のアフエンタであり、2世紀にはまだここがアカエイと呼ばれていたことを反映している。

 2世紀、かつてのコルキス王国はローマの宗主権下に多くの小王国に分裂している。かつて強力であったヘニオキ人は、マケロン人とともにトラブゾンに残るもの以外は、消滅した。スフミ地方以北はサニギ人の国であり、アバスグ人がその南、サニギ人とアプスィル人の間にいた。サニギ人の北の境界はシャヘ川(あるいはアシェ川)で、その北にはジキ人がいた。サニギ人の領域には古い集団の痕跡が見いだせないが、ジキ人の領域には古い住民がいた痕跡が地名として残っている。

フラヴィウスは紀元2世紀のソチの知識にいくつもの新しい地名を加えた。また彼は具

体的な距離を示したが、しかし、彼があげた地点の間の距離数は、必づしも正確ではなか

った。また彼が注目するのは地名、王名と距離であるので、その社会の情報はな

かった。しかし、紀元2世紀にソチの住民はサニギ人であり、一人の王によって治められ

ていたことが記録に残されたことは重要である。サニギ人は1世紀早く、大プリニウスが

ギリシャ都市キグヌス周辺の民族として名前を上げていたが、同じ世紀のギリシャ人歴史

家ヘラクレイウスのメムノンは、ミトラダテス戦争の間の前71年、ローマの将軍ルキウ

スは、クレオカレスが守るシノップを攻めたが、ミトラディトスの別の王子マカレスが単

独でローマに下ったので、

 

  この事実を知ったクレオカレスと同僚は、あらゆる望みを捨て、夜のうちに大量の財宝を船に積込み、{兵士にこの都市の略奪を許し}(ミュラーのラテン語訳には{ }内は見えないが)、他の艦船を焼いた後、黒海の中へ、サネギ人とラズ人の国を目指して出発した。

 

と述べる。出来事自体は紀元前1世紀のもので、メムノンもユルウス・カエサルの同時代

の人である。サネギすなわちサニギの名称も既にその時にはあったことになる。

かどうかは不明である。ストラボンが最新情報には疎かったことが分かるのである。

 さて、アッリアノスの周航記は伝統的な周航記の形式によって書かれたものだった。次に若干、執筆年が前後するものの、プトレマイオスの『地誌』の関連部分を見てみよう。これは、地域ごとに主要な地点の緯度経度を記したものである。英訳ではエドワード・スチーヴェンソンのラテン語からの重訳があるが、日本語ではギリシャ語から直接翻訳された中務哲郎氏訳があるので、これによって、計測地を示そう。( )内の数字は経度と緯度である)。地名表記はギリシャ語式、カタカナ表記方は訳者の基準そのまま。筆者には「ブゥ」をなんと読んで良いか分からないが。タマン半島から時計回りで、コルキス国境までである。(第5巻第8章第4節)

    ヘルモナッサ(65,47.30)

    スィンディコス港(65.30,47.50)

    スィンダ村(アナパ**)(66,48)

    バタ港**(66.30,47.40)

    バタ村**(66.20,47.30)

    プシュクロス川河口(**寒川)(66.40,47.30) 

    アカイア村(****トゥアプセ)(67,47.30)

    ケルケティス湾(67.30,47.20)

    {ラゾス}町(68,47.30)

    トレティケ岬(68,47)

    アムプサリ町(68.30,47.15)

    ブゥルカス川河口(69,47.15) 

    オイナンティ(69.40,47.15)

テッシュリス川河口(69.40,47)

カルテロンティコス(堅固な城壁)(70,46.50)

以下の二行は、中務氏の訳にはない。今残るギリシャ語の写本にはないということであろう。古文献は原典だけでなく、古い翻訳も見なければならないのだが。

コラクス川河口(70.30,47)

コルキス側の最終点(75,47) 

 

*中務氏のギリシャ語からの訳で、シンダ、バタ、アカイアの「村」に当たる言葉は、ラテン語からのスチーヴェンソンの訳では、cityになっており、タゾスとアンプサリの「市」はtownになっている。ラテン語訳文ではそれぞれ、villa,oppidumとcivitasであるが、ギリシャ語のテキストでは、それぞれchomiとpolisである。その違いは何に基づくものか、規模か社会的あるいは政治的性格によるのか面白いところである。ギリシャ語中務訳とラテン語スチーヴンソン訳を文字通り解釈すれば、古くから繁栄していたボスフォラスのシンドとバタは、衰退して、村の状態になり、一方、沿黒海地方の南には、新たな都市が誕生したと想像したいところである。タゾス(ラゾス)については名称のみで、属性は記入されていない写本、刊本もある。

**これは日本語訳者の注、ではバタにも、「ノヴォロシースク」の注を入れても良かったのではないかと思われる。

***突然地名の意訳が行われて戸惑うが、古典ギリシャ語でプスィクロスpsykrosは、寒いあるいは冷たいの意味であるから、「寒川」とされたのだろう。古典ギリシャ語で「寒い、冷たい」にあたるトルコ語は、ソユクsogukだが、川(ス)をつけたソユクスという川は、17世紀まであり、今ではシュユクスと呼ばれて、トゥアプセ市とソチ市の間のメグリの近くを流れている。

****トゥアプセの古称をアカイアとする文献は何であろうか、根拠も知りたかった。もし、プシュクロス川をソチ市北部にあるシュユクス川に当てると、全体的に北西から南東に並んでいる地名の中で、スユクスとアカエアの順を先に南東の地名を、次に北西の地名を配列していると判断するのには抵抗がある。プシュクロスをスユクス、アカイエアをトゥアプセとする組み合わせは不自然である。アカイアはアッリアノスの旧アカイア、タゾスは別テキストではラゾスとあるので、旧ラジカに当てる。プシュクロスは、大プリニウスのクルニに、チェルケス語の川(-ps-)がついたものと考えてもいいのではないか、河川名クルニは未見だが、クルニ岬はかって、恐らく紀元前4世紀であろうが、トレタエ人のもとにあったから、プシュクロス岬もゲレンジク周辺にあったのであろう。トレティクム岬はコドシュ岬とするのが適当だろう。コドシュ岬は黒海沿岸でもっとも目立つ岬である。するとソチに残された地名は極く僅か、アムプサリ町とブゥルカス川程度であろう。

 次の復元地図では、表では同じ緯度のバタ村、プスィクロス川河口、アカエイ村、ラゾス村の緯度は書き分けられている。

 

 

 

 

 近代に再製作されたプトレイオスの世界地図近世地図(サルマチアの部分)拡大図

スィンデケのような名称にもなじみがあり、所在地についても問題がない地名があるが、他の文献には一切現れない名称も見える。全体の半ばほどは既に検討した地名であるが、場所は微妙に異なる。しかも、プトレマイオスが示したおおまかな緯度経度では地図上に落とすことは困難である。ソチに関してはムズィムタ川にあてたブルカス川があるが、これとてもアッリアヌスと同じ川を指しているかどうかは、今のところ判断できないであろう。Cosmographia Ptolemaeus,Claudia,Nicolas Germanus)ed.),JacobusAngekus(transk.)1482(フィンランド国民図書館蔵)186頁

 

 

 

 プトレマイオス『世界地図』のサルマチアの部分。左下の海が、黒海。出典(wikimedia Ptolemy_Cosmographia_1467_-_Central Russia_and_Sarmatia.jpg)所蔵ワルシャワ国民博物館。この地図は、1467年にヤコブ・ダンジェロが作成したもので、1573年にポーランドの大貴族で政治家ヤン・ザモイスキーが購入、1818年ザモイスキー荘園の図書館に収蔵、1946年に国民図書館に移管された。

 

 古典期末期のサニギ人時代のソチの考古学的遺跡から、

有力者やその家族のものとみられる墳墓の発掘、ルーの貴婦人の墓からは、銀の飾り皿、

琥珀、黒玉(こくぎょく)の首飾り、金の耳飾りなどが出土した。この墓から出土した金

製品の大部分は、ボスポラス王国の製品と酷似する、古典サルマート折衷様式のものであ

る。また、マツェスタの墳墓は族長と思われる男性のもので、鉄製の長剣、砥石、3世紀

に広く作成された様式のブロンズのピン、ガラスや銀の容器、3枚の銀貨が出土し、貨幣

のうちの一枚は、ローマ皇帝トラヤヌス(98年-117年)のものであつ。また、クラース

ナヤ・ポリャーナの1墳墓は、一人の武人の墓で、遺体は南東向きに埋葬されていた。副

葬品は剣、鏃、北アブハジア・ツェベルダ風の盾、短剣、鉄製戦斧、盾中央部、水晶の首

飾りの他にササン朝シャープール1世(234年-273年)の狩猟の彫刻のある金属製の皿が

あった。刻文によると皿はもともとケルマン王ヴァラフラン(262年-274年)のもので 

王が狩っている2頭の猛獣が猪でもライオンでもなく、熊であることがユニークに思える。

またローマ皇帝ハドリアヌス(121-122年)の銀貨一枚が見つかった。

 

伝)ササン朝熊狩猟銀皿(プーシキン名称チェルドィン美術館像)出典

www.manul.livejournal.com:www.proza.comこれは、上のスケッチとは関係がない。ロシア、ペ

ルミ地方のチェルドイン市の地方史博物館像と伝えられているものを参考までに提示した。

 

第3項<5世紀の沿黒海地方>

紀元2世紀に、黒海東岸南部では大きな政治的変化が起こっていた。これまでのヘニオ

キを始めとする多数の種族が姿を消し、サニギがそれらに変わった。彼らは南は今日のオチャムチレから北はソチまでの地域に広がっていた。ソチ以北ではズィヒのみはローマから王号を与えられているものの、紀元1世紀に確かに存在したアカエイ他の諸族の存在は曖昧である。一方、アブハジア南部では、かつてのコルキスに替わってラズィカが成立していた。これに続く3世紀、黒海東岸にはさらに大きな変動が起こった。東ゴート族の南進である。ゴートは4世紀にフン族に敗れるまで黒海海岸に君臨し、たびたび黒海南岸に来襲した。これらの変化は5世紀に無名氏が残した巡航記に明確に現れている。5世紀に無名の著者が記した航海記は、フラヴィウス・アッリアヌスのテキストに、一部、現状に合わせた書き換えをおこなったものである。トラブゾンからスフミまでの部分に関する無名氏のテキストは、時代差を無視するようにアッリアヌスの文章と同じである。細かい違いがあるのは、ピツンダから北である。文章はそのまま、ラトイシェフのロシア語から翻訳し、書き換え部分をイタリックにしよう。なお、距離はスタジオンと歩数で表されている。

  

ディオスクリア(セバストポリス)から、出帆すると最初の湾はそこに船のための湾があるピティウンタである。セバストポリスから350スタジオン、46 2/3百万歩である。この場所まで、ポントス王国に属するティバラニ、サニギア、コルヒダの蛮族が住むが、彼らの向こうに独立の蛮族が続く。ピティウントからステニカ(かってトリグリトと呼ばれていた)まで、150スタジオンまたは、20百万歩。ここには古い時代にスキタイの1種族が住んでいた。ヘロドトスはそれを才能豊かな言葉で表現する。彼は言う。彼らはしらみを食べると。これが彼らについての全てである。ステニティカからアバスク川まで90スタジオン、12百万歩。アバスク川からブルホント(今はムズィグと呼ばれる)まで、120スタジオ、16百万歩。ブルホントから我々がヘラクリウス岬を持つネスィス川まで、60スタジオン、8百万歩。ネスィス川からマセティク川まで90スタジオン、12百万歩。マセティク川からアヘウント(船の航行が可能)60スタジオン、8百万歩。このアヘウント川(バスィフと名付けられた)は、ジキ人とサニギ人を分ける。ジキ人の王はスタヘンプラで、陛下から王座を受け取った。アヘウント川からアバスク川までサニギ人が住む。アヘウント川からヘラクレス岬(今、エレマと名付けられている)まで、150スタジオン、20百万歩、ヘラクレス岬から今、バガと呼ばれる砦のある岬まで10スタジオン、1/3百万歩。その岬からフラキア風とボラ風から守る岬(そこにリアがあある)まで 80スタジオン、10 2/3百万歩。リアから古ラズィカと呼ばれるところ(そこに現在のニコプスィアが設けられ、そのそばのプサハプスとよばれるものから近い)まで、120スタジオン、16百万歩。古ラズィカから古アカイア(今、トプスィドと呼ばれる)まで、150スタジオン、20百万歩。古アカイアから古ラズィカ、さらにアヘウント川まで、ヘニオヒ、コラク、キリク、メランフレン、マハロン、コルヒラズと呼ばれる種族が住んでいたが今はジキ人が住む。パグラエ湾から古アカイアまで、かつてアカイア人と呼ばれる人々が住んでいたが、今はジキ人が住む。スィンディカ湾からパグラエの湾まで、以前はケルケトあるいはトリトと呼ばれる種族が住んでいたが、しかし今では、ゴート語とタヴリスの言葉を話すエヴドゥス人が住んでいる。

 

かつて、ピティウスと呼ばれていたピツンダはピティウント、トリグリットと呼ばれていたガグラはステニカと呼ばれている。アバスグ川はハシュプセ川か、プソウ川に推定された。かつてのボルギス川は、後にブルホント川と呼ばれたがこのときはムズィグ川と呼ばれていた。現在のムズィムタ川である。ソチ市の東南のネスィス、北西のマセティカ(アッリアノスではマサイティカ)を配置してあるのは変わらない。2世紀にジキとサニギを分けていた河川は5世紀には現地語化してアヘウント、あるいはバスィフと呼ばれる。シャヘ川は確かに大きな川であるので、季節と船の種類によっては、航行が可能であったかもしれない。

  シャヘ川(出典ウキメディア・コモンズ)

 

 今日、ソチ市内には二箇所に古代以来の様式の要塞跡が残されている。一つは中央区西部ママイカ川河口近くにあるママイ・カレである。ここからは、紀元1-5世紀の遺物が発見されている。もう一つは、ラザレフスキー区のゴドリク城址である。こちらからは古代末期にかかわる遺物は発見されていない。特に現地に流布する俗説では、ママイカはローマのマコラ、ゴドリクはバガ(あるいはヴァガ)であるとするが、マコラがソチにはないことについては既にのべた。また、5世紀の無名の著者のバガをゴドリクに当てようとすると第2のすなわちコドシュ岬のヘラクレイウス岬から、北西に進むのではなく、逆進しなければならない。バガはゴドリクではない。 

トゥアプセとゲリンジクに関する記述は若干細かくなっている。ふたつ目のヘラクレイウス岬、現在のコドシュ岬の先は、バガ岬とリア岬を過ぎてから、かつての旧ラズィカ、当時のニコプスィアに至る。本書ではすでにこれをノヴォミハイロフスキーに置いている。ヘラクレイウス岬から旧ラズィカまでの距離は、アッリアヌスでは。120スタジオン、5世紀の無名の記入者は、これをヘラクレイウス岬からバガまで10スタジオン、バガからリアまで80スタジオン、リアから旧ラジカまで120スタジオン、合計では210スタジオン、倍近くの数値になる。コドシュ岬からノヴォミハイルスキーまでの地図上の距離は、約26キロメートルに過ぎない。この間の合計が120スタジオン約30キロメートルとするのが、無名の記入者の真意ではあるまいか。このように仮定するとノヴォミハイロフスキーの南東の海岸上6km程にあるのはオリギンカだが、北から海岸沿いに海流に乗りつつ南南東に進んできた船は、ここからほぼ東西の海岸線に合わせて舵を左に切らなくてはならない。これが「左」の意味ではなかろうか。現在のグリャズノヴァ岬である。一方、バガ岬についてはアゴイ近辺であろうと推定はできるが、具体的な場所を推定できなかった。ヘラクレイウス岬はソチとトゥアプセに1つずつある、というのは、ヘラクレイウス岬は英雄ヘラクレスが大地を両手で引き裂いた名残であるから同じ場所に2つあるのが自然であろう。黒海とヘラクレスの関係について、ヘロドトスは黒海沿岸のギリシャ人の伝承として、「ゲリュオネウスの牛を追いながらヘレクレスは、現在スキュティア人の住む、当時は無人の地方へきたという。ゲリュオネウスの住んでいたのは黒海の外で、「ヘラクレスの柱」を出て大洋に望みガディラに相対する、ギリシャ人のいわゆるエリュテイアの島(「赤島」)を棲家にしていたのである(松平千秋訳)」。地中海と黒海の西の出口にあるものを東の出口にも見つけようとしたのである。

プトレマイオスのラズィカあるいはタズィカを5世紀の増補者は、当時ニコプスィアと呼ばれたと記している。同地を調査したロシアの考古学者は、ノヴォミハイロススキーのドゥズカレ城址をニコプスィアに結びつけている。

 アッリアヌスの地名表に旧アカエイがあり、プトレマイオスの地名表には、アカエイ町があったが、5世紀にこの町はトプスィドと呼ばれていた。トゥアプセの地方史家にはトプスィドをトゥアプセの古称と信じる人々も多いが、行程の観点からトプスィドはトゥアプセにはならない。そもそもこの地名は、この無名氏のテキストにだけ、しかもただ一度出て来るだけである。

 ドゥズカレ遺跡看板 「考古学的遺跡 ニコプスィア要塞 ドゥズカレ 紀元5-7世紀政府管理 管理区域 200x200M」と書かれている。

ドゥズ・カレ要塞遺跡(出典ウイキメディア・コモンズ

 

 5世紀、沿黒海地方では大ソチのシャヘ(あるいはアシェ)川を境界にして、ジキ人とサニギ人が住み分けていた。サニギ人の領域はシャヘ川から南はハシュプセ川(あるいはプソウ川)までであった。ジキ人の領土はゲレンジック以南で、今ノヴォラシースクがあるツァメス湾周辺とタマン半島にはゴート系住民が住むようになった。沿黒海地方で以前に存在した種々の種族は、ゴート系住民、ズィキ人、サニギ人の3集団に統合された。

青銅器後期に北アブハジアと同一の文化圏に入っていて、ヘニオキややサニギをはじめとする多くの種族の住む地域であったソチは、古典時代末期ギリシャ人の集落やギリシャ人やローマ人が利用する港や船泊があり、現地の人々の生活もギリシャとローマの影響を受けていた。紀元前1世紀、ソチの住民であったヘニオキ人はポントス王国に従属あるいは友好関係にあり、前1世紀は4人の王がいた。紀元114世紀に小アルメニア(

 

ユーフラティス川以西のアルメニア)行幸中のトラヤヌス帝がヘニオキ人とマヘロン人の王アンヒアルの貢を容れ、莫大な答礼の品を与えて帰国させた(ディオヌス・カスィウス)が、この王は、トラブゾンを治めていた集団であったと思われる。紀元2世紀には、沿黒海地方北部でトレタイ、ケルケタイ、アカエイなどの種族名称が姿を消してズィキに統合されたが、黒海沿岸地方南部の大ソチでもサニギ人がシャヘ川(あるいはアシェ川)からブズィブ川あるいはハシュプセ川までの地域を制圧した。6世紀にアナトリアのカエサリアで生まれたプロコピウスは、彼らの南では、今日の北アブハジアにアバスグ人の、スフミ地方にはアプスィル人の勢力圏が形成された。 

 

 第2章 沿黒海地方史の始まり

 

第1節 黒海周航紀の世界

第1項<ヘカタイオスと偽スキラクス>

ヘカタイオスの世界地図 ヘカタエオス自身が作成した地図やその写しは残されていない。これは、後代、当時考えられていたと信じられる海岸線の中に、ヘカタイオスが伝えた地名を書き落としたものである。出典)Мутафиян,К.

Эрик Ван Лев.Исторический Атлас Армении ,Москва.2012стр.91原本所蔵は Biblioteque Nationale Ge FF 8520,planche2

 

紀元前700年ごろギリシャ人の黒海進出が始まると、コーカサスに関する情報は増え、その一部は現代にまで伝えられている。古代ギリシャの最初の歴史家とも最初の地理学者とも呼ばれるミトレスのヘカタイオス(紀元前550頃‐476頃)が表した『世界概観』は、本体は散逸したものの引用の形で多くの残簡が残されていて、6世紀のステファヌス・ビザンチヌスの地理事典『民族(Ethnos)』には、

 

コラクス人はコルキス人の種族で、コル人の近くにいる。ヘカタイオスの書にはアジアの部分にある。コラクスの要塞、コラクスの国。

 

及び

 

コル人はコーカサス山の近く民族である。ヘカタイオスの書にはアジアの部分にあり、コーカサスの山麓はコル山脈と呼ばれる。その国はコリカである。

 

等と記されている。古代ギリシャの人々は、ドン川をアジアとヨーロッパの境界であると考えていたので、ここでアジアというのは、南ロシアのドン川、アゾフ海、ケルチ海峡の東ということである。黒海東南岸にいたコルキス人は、特徴のある青銅器で知られるコルキス文化の担い手であったが、紀元前8世紀のキンメリア人の国内通過とそれに伴うスキタイ人の侵攻によって大きな打撃を受け、ヘカタイオスの時代にはイランのアケメネス朝に従属させられ、太守によって治められる直轄州とは違って金貨による税の支払いはまぬがれたものの、5年毎に少年少女200名の奴隷を納める義務を課されていた。 歴史学の父と呼ばれるヘロドトス(紀元前485頃‐420頃)は、ヘカタイオスの1世代後の人で、『世界概観』を読んだと述べていて、それによって黒海沿岸に住むコルキス人はエジプトからの移住者なのでエジプト同様の亜麻布を織ると書いている。クセルクセス大王のギリシャ遠征軍に加わったコルキス人の装備は、木製の甲、牛の生皮の小盾と短槍、短剣で、テアスピスの子でダリウス大王の甥に当たるパランデスの指揮下に入っていた。ヘロドトスはコルキス人がリオニ川流域に住んでいて、かつて、イアソンが王女メディアを奪ったコルキスの都アイアスはここにあったと述べる。金羊皮を求めてアルゴー船に乗り、黒海を旅したギリシャの英雄達の物語である。今日、グルジア人もアブハズ人もチェルケス人でさえ、これを自分たちの祖先の物語であると信じたがっている。イギリスの言語学者ヒューイットの人名分析(例えば、コルキス王名アプスィルト)によると、ここでいうコルキス人はアブハズ語を使っていたという結果になるが、地域的にはリオニ川流域であるので、ヘロドトスの時代、西グルジアのイメレティ(ロシア語ではイメレティア)地方にコルキスの中心があったと考えられている。

さて、アッシリアの碑文によると、紀元前12世紀、アッシリア王ティグラトピレセル1世が、上の海のキルヒを征服した。グルジア史の通説ではこの上の海を黒海であるとしているが、筆者はヴァン湖かもしれないと疑う。アッシリアの年代記では、ヴァン湖はしばしば「上方の海」、「上の海」とも呼ばれていて、王は確かにヴァン湖周辺でナイリやダオエヒなどの国々を征服していたし、また、ヴァン湖と黒海の間には通行困難なシャヴシェティ山脈が聳えているからである。この戦争から400年も経って、今度はヴァン湖周辺に建てられたウラルトゥの王、サルドゥリ2世(前764-735年)が、2度にわたって、コルハを攻め、首都イルダムシャを落とし、フシャルヒ王を捕虜にした。アッシリアのキルヒも、またウラルトゥのコルハもギリシャのコルキスと同じ地名であると考えられている。しかし、このキルヒとコルカが西グルジアのリオニ川流域あったとするのは、無理がある。グルジア史の定説でもこれを西南グルジアに置いて、南コルキスという用語を当てはめている。場所はグルジアの南西部黒海岸の地域、一言でいうと現在のアジャラ(ロシア語ではアジャリア)である。

黒海沿岸の住民情報は、アケメネス朝ダレイオス2世の息子キュロス王子のギリシャ人傭兵隊長、クセノフォンの逃避行記『アナバシス』の中にも収められているが、クセノフォンのコルキスはトラベズス(トレビゾンド)の山地にあった。このようにコルキスはかなり広い地域にまたがる地名であったが、ヘカタイオスのコルキス中心部は、リオニ川の流域にあったとしていいだろう。そして、その北に広義のコルキス人の一部であるコラクス人がいたのである。コラクス人と系統不明のコル人は政治的には、恐らく非常に緩やかにコルキス王国組織の中に含まれていたのであろう。

ヘロドトスは、紀元前7世紀にキンメリア人が黒海東海岸通って古代オリエント世界に移住したと述べているが、通過した地域の地元の人々との接触については沈黙している。しかし、自分自身の1世代前の出来事であるダリウス1世のスキタイ遠征について述べて、タナイス川が注ぎ込むマイオティス湖の東海岸にマイオタイ人の国があったと述べる。タナイス川はドン川、マイオティス湖はアゾフ海のことである。また、現在のケルチ海峡であるキンメリア海峡の東側、つまりタマン半島にスィンドイ人が住み、その国はスィンディケと呼ばれていたことを述べている。 ヘカタイオスとヘロドトスの時代、黒海とアゾフ海の岸に、北から南にメオタイ人、スィンドイ人、コル人、コラクス人、コルキス人が住んでいたことが知られるのである。ただ、『世界概観』の記述は断片が残っているだけだから、ヘカタイオスが知っていたことの全てが伝え残されているかどうかは解らない。

次に、ヘカタイオスの時代から百数十年ほど過ぎた紀元前4世紀、偽カリアンドのスキラクスは、黒海周航記を著して、海岸の民族や都市の記録を残した。彼はアゾフ海と黒海海岸の地誌を時計周りに記述したが、シェロヴァ=コヴェデャエヴァのロシア語訳と注釈によって内容を示すと、

 

  サウマタイ人。タナイス川の向こうはアジアで、そこの最初の種族はサウロマタイ人である。サウロマタイの種族は女が支配する。

  メオタイ人。メオタイ人は女が治める人々の隣に住む。

  スィンドイ人。メオタイ人の隣にスィンドイ人が住む。しかし、彼らは湾の中に住み、彼らの国には、ファナゴラ、ケピ、スィンド湾、パトゥントなどのギリシャ都市がある。

  ケルケトイ。スィンドイ人の向こうにケルケトイ人がいる。

  トレトオイ人。ケルケト人の後に、トレトイ人がおり、ギリシャ都市トリクと湾がある。

  アカイア人。トレトイ人の向こうにアカイア人がいる。

ヘニオコイ人。 アカイア人の次には、ヘニオコイ人がいる。

コラクス人。ヘニオコイ人の向こうにコラクス人がいる。

コリカ。 ヘニオコイ人の次にコリカ地域がある。

メランコレノイ人。コリカの向こうにメランコレノイ人がおり、彼らのところにメガソリス川とアイギプ川がある。

ゲロン人。メランフレノイ人の次はゲロン人。

コルキス。これらのかなたに、コルキス人、ディオスクリアダ市、ギリシャ都市ギエノス、ギエノス川、ヘロビ川、ホレ川、アリ川、ファスィス川、ギリシャ都市ファシスがある。

 

 古代史上有名なスキラクスは、ハハマネシュ朝ダリウス1世に命じられてインダス川、アラビア海、紅海を航海した探検家だった。しかし、この地誌は記事内容全般から判断すると紀元前6世紀ではなく、紀元前4世紀の情報であると考えられ、真の作者は不明であるので、仮に偽スキラクスと呼ばれている。偽といっても誰か別人が本人に成りすましているということではない。この航海誌により、アゾフ海東岸にあったメオティスとタマン半島にあったスィンディカの位置が確認されるが、これは現在も継続しておこなわれている発掘調査により、更に一層確実なものになっている。偽スキラクスのコルキスは、ディオスクリアダすなわちスフミから、ファシスすなわち現在のポチ周辺までの地域である。特にここではディオスクリア(ディオスクリアダ)市の名前が挙げられているが、これは後にはセバストポリスとも呼ばれ、現在のアブハジアの首都スフミである。これらの都市は、偽スキラクスがわざわざ「ギリシャの」と書いたように、紀元前6世紀ミレトス人によって建設された殖民都市で、土地の人々は通常都市には住まなかった。ギリシャ人は黒海周辺中に本国に似た政治形態の都市国家を築き、後背地の人々と交易をおこなっていたのである。偽スキラクスはギエノス(ギュエノス)とファシスにはギリシャ都市というのに、ディオスクリアダをギリシャ都市とは言わないのは、これがギリシャ人の建てた都市ではないからであるという主張もあるが、人間は分かりきったことはことさら書かないこともあるから、必ずしもそうとは言えないだろう。一方では、ディオスクリアと並んで名前が挙げられたギエノスは、スフミの南、現在のオチャムチレだが、発掘の結果若干の現地人が住んでいたことがわかった。場所がはっきりしているスィンド人とコルキス人の間に、新しい民族と地域が現れたのだが、都市に関してはタマン半島の都市群、やや南にトリク(トリコス)があるだけでディオスクリアダまで情報はない。研究史上、トリクの場所は明らかで、現在のゲリンジクに推定されている。ヘロドトスの『歴史』にトリコスの記述があるとする典拠不明の文献が見られたが、筆者の調べる限り該当する記述は見つからなかったので、参考までにここに一筆入れておくことにする。さて、ゲリンジクの北にケルケティ人、ゲリンジクにトレタイ人、ゲリンジクの南にアカイア人が住んでいた。すると、ヘニオキ人は大ソチ市の領域か少なくともその近隣、南のトゥアプセやガグラを含めた地域に住んでいることになる。更に時代が下った紀元1世紀の人、ポンポニウス・メラは、

 

  ディアスクリアは、ヘニオキと接する

 

と書いてあるから、紀元前4世紀以降、ヘニオキ人は更に南にまで住んでいたことになるが、まだこの時代にはヘニオキ人とディオスクリアダの間にコラクス人、コル人(コリカ地方)、メランホレノイ人、ゲロン人が居た。上記の諸民族集団に関して、ギリシャ語ではヘカタイオスを溯る史料はないが、ウラルトゥ王のアルギシュティ1世の碑文(紀元前8世紀)には、今日のトルコ北西部のチルディル湖周辺にイガニエヒの国があったことが記されている。この集団がギリシャ人のフニオホイ、ローマ人のヘニオキであるとする仮説が提示されている。そうかもしれない。一方、ヘニオキは固有の集団名ではなく、「(戦車の)御者」という意味のギリシャ語なので、土着の種族ではなく外来の戦士集団であるという説も出されているが、であるとすると、ウラルトの碑文の集団名称は、ギリシャ語起源と考えなくてはならない。或いは逆にこの碑文のイガニエヒに相当する自称かまたは現地語をギリシャ語で音訳するときギリシャ語の似た響きの語彙を採用してしまったのかもしれない。丁度、ギエノスをキクヌス、キグヌス(ギリシャ語でもラテン語でも「白鳥」)と読み替えてしまったように。後の時代の紀元1世紀大プレニウスは、ヘニオキ人は雑多な要素からなる集団であると述べるが、偽スキラコスの時代もそうであったかどうかは、判断の材料ない。

 すると、偽スキラクス以前のギリシャ人はこの集団をヘニオキと音訳しただけであったが、後のギリシャ人は、ヘニオキを「御者」であると読み替えてしまい、彼らの祖先がギリシャ人であると解釈したことになる。ギリシャ語以外にヘニオヒ人自体あるいは、地元の周辺民族が彼らをどのように読んでいたかを知る手段は、今のところない。この碑文に次ぐ古さであり、彼らについて述べるギリシャ語の現存するテキストでも最古と思われる偽スキラクスの記述は、ヘニオヒ人がどのような人々かは述べていないが、前4世紀の半ばに、哲学者アリストテレスは、

 

黒海のあたりに住むアカイア人とヘニオヒ人のように、すぐにでも人間を殺して食べようと待ち構えている種族は多い。彼らと同じように、更にはもっとひどい部族もある。彼らは略奪で生計を立てているが、臆病である」(アリストテレス『政治学』ベンジャミン・ジョーウィットの英訳からの重訳)

 

と述べている。また、別のところでも、

 

  最初、ヘニオキはファシスに住んでいた。彼らは人食いで、人の生肌を剥ぎ取った。

 

と述べる。紀元前4世紀のこととはいえ信じられない話である。これは、オリエンタリズムだと、アリストテレスを評価することも可能だが、実はギリシャ人の伝説ではアカエイ人もヘニオキ人も先祖はギリシャ人であった。但し、アリストテレスは食人民族について言いたかったのであって、アカエイ人とヘニオキ人について書きたかったのではない。このような場合の証言の信憑性は劣ると思う。

ヘニオキ人の南東にはコラクス人とコル人が並べられている。ヘカタイオスの記述では、コラクス人はコルキス人に属し、コル人はコーカサス山脈に近いとするだけで位置関係は明確ではないが、偽スキラクスの記述では、両民族ともにヘニオキ人と隣り合っている。ヘカタイオスによれば、コル人は山麓の住民であったが、アリストテレスの『気象学』によると、地下の川が、コラクス人の国の地下から黒海に流れ込んでいるのであるから、コラクス人は海岸に住んでいたのであろう。ヘロドトスでは黒海東南沿岸に置かれているコルキス人は、偽スキラクスではあたかも、ディオスクリア(現在のスフミ)やギエナ(ギエノス、現在のオチャムチラ)、ファシス(現在のポチ)周辺に住んでいる。従って、コラクス人とコル人はコルキス人の北の地域に住んでいたと理解できる。一方、ヘカタイオスでは、コラクス人はコルキス人に属しているとも明記されている。現代の歴史学者の中には、紀元前4世紀の記録にはないコラクス川を想定して、これをスフミの南の現在の名称のケラスリ川にあて、コラクス人とコル人を同河左岸に置いている。しかし、これではメランコリノイ人とゲラン人の居場所がなくなる。そこで、コラクをアブハジア語の「非常に黒い」という言葉に理解して、これとギリシャ語のメランホリノイとは同じ集団を指しているという発見がなされた。しかし、これは学界の主流意見にはなっていない。学界の主流意見は、コラクス人のもとにコラクス河を想定し、この川をアブハジアを南北に分けるブズィブ川にあてて、コラクス人とコリ人をその南に置く。現代の地名ではピツンダやグダウタ、ノーヴイ・アフォンがコラクス人とコル人の住処であることになる。しかし、コラクスという河川名が、最初に現れるのは、紀元2世紀の人プトレマイオスの著述の中である。一方、ディオスクリアダ、すなわちスフミの南のケラスリ川がコラクス川であったとする主張もあるが、そうしてしまうと偽スキラクスの記述と合致しない。

ディオスクリアダとコラクス、コリカの間に、メランコレノイ人とゲラン人が住むが、メランコレノイ人は、「黒衣の人」の意味のギリシャ語であるので、「御者」の意味のヘニオキ人やのちの時代の「プティロパギア」(虱食い)と同じく、本当に具体的で周囲の集団から区別される人々を指しているかどうか確実ではないし、当然自称ではなくて渾名に類するが、自称あるいは現地語の他称をギリシャ語の音が似て、しかも特徴を表している言葉が選ばれたのかもしれない。これもあくまでも、かもしれないであるが。

「アブハジアの青銅器」として知られる多くの青銅器がある。アブハジア青銅器は、コルキス文化に分類される遺物ではあるが、1940年代以降、研究者はアブハジア、更に詳細には北西アブハジアのコルキス文化が独特の特徴を持っていることを強調してきた。さらに、コルキス文化が専門の考古学者スカーコフは、ピツンダの北のブズイブ川からスフミの南のケラスリ川までの地域の後期青銅器文化は、紀元前9世紀までにコバン文化の影響を受けて成立し、前8世紀と7世紀前半に独自の文化を最高の水準に発展させたブズイブ・コルキス文化が存在したと主張する。また、スカーコフは青銅器時代後期と鉄器時代初期の北西部南コーカサスの埋葬様式を北西から南東にガグラ型、ブズイブ型、イングリ・リオニ型に3分類した。「ブズィブ変種にとって最も特徴的であるのは、西の方を向くか、西に向かった脇をすくめた伸葬墓である。また、甕か、あるいは稀に炭を入れた穴の下に改葬された。相対的に遅い時期、スフミに限って、つまり、イングリ・リオニ変種との接触地域では明らかにその影響で、近くの墓穴に遺骨を埋葬された火葬の例も見られる。ガグラの墓地では、甕あるいは甕の近くの墓穴に改葬される(ときには対になって)と、同じく、はっきりと述べることができる。少ない頻度ではあるが特徴的であるのは、南、南西、北西の向きが優勢であるがいろんな方角を向いた伸葬(一例では横向き)である。ガグラの墳墓は特別なものではなく、似たり寄ったりの、事実上変化のない墓は、ソチからブズィブ川の間に見られる。イングリ・リオニ変種は改葬の際に部分的な火葬を伴った特徴ある集団的墳墓である。次に課題は、考古学的地域分類と文献にあらわれる集団名称どのように対比させるかだが、スカーコフは、コラクス人とコル人の国をソチ地方北部に推定しているから、かくして、スカーコフは民族集団の配置に関しては、メランホリノイ人とゲラン人をブズィブ型の、コラクス人とコル人をガグラ型の様式の担い手にしてソチとブズィブの間か、さらに北のソチに置いていることになる。結局、紀元前4世紀、ソチにはヘニオキ人、コラクス人、コル人などが住んでいたと推定することができるであろう。ソチで発見された青銅器時代後期コルキス文化に属する青銅器は、ほとんど全て巷間収集品、盗掘品、地上採集品、鍛冶屋のストックなどであったが、ヘレニズム期にあたる紀元前6世紀から前1世紀の遺跡は、学術的に発掘され研究されている。この時代の遺跡は住居址と墳墓であるが、住居址はソチ市中央区西部のママイカ川河口部、あるいは同市アドラル区のクデプスタ川、ホスタ川、プソウ川下流の海岸にある。その内、ママイカの集落跡は総合的に見てギリシャ人のもので、ガラス、アラバスター、赤陶、黒陶の什器、テラコッタの小像などが出土し、この地方におけるギリシャ産品取り扱いセンターになっていたようである。クデプスタ川ホスタ川プソウ川下流方面では、アンフォラの破片、香料瓶、大鉢、甕、ギリシャ風および現地製作の赤陶黒陶無彩色の皿が出土した。また、表面採集品から見て、ホスタ川上流のヴォロンツォフ洞窟が北コーカサスからの交易品を持ってくる人々や地元の人々にとって仮の避難所の役割を果たしていた。また、ママイカの出土品はクリミア・ボスフォラス王国とのかかわりが深いのに対し、クデプスタ川やプソウ川下流の遺跡では、黒海南岸のシノプや現地生産の出土品が目立つ。

ギリシアの以外にスキタイ・サルマート風の出土品が顕著である。剣、槍の穂先、斧の様式に残されている。

 取手に鎌形の握りがついたキンジャル(短剣)の分布。出典スカーコフ「鉄器時代初期西部および中央コーカサス間山越えの交流」https://www.kavkazovedi.info/nesws/2014/09/18/

transkavkazakie-svajzi-nazapadnom-i-centralnom-kavkaze-epohu-rannego-zheleza.html

 

ソチ出土の鉄の剣(1-5)、キンジャル(6)、斧(7)クラースナヤ・パリャーナ出土の剣(出典、ヴォロノフ、https://budetinteresno.narodru/kraeved.ru/kraeved/sochi_drev_3_1.htm

右上が鎌形握りキンジャル。

 

 ロシア、バシュクルトスタンで出土のサルマタイ人の短剣(出典、M.Kh Sadykova,Sarmatskie pamiatniki Bashkirii,Pamiatniki skifo-sarmatskoi kultyry,Moskva,19-

62)

 

スカーコフが、「紀元前4世紀の半ば、アブハジアの領域には、要するに、大コーカサス山脈の峠を越えて、クバン川沿岸から好戦的集団の侵入、ギエノスの都市的生活を消滅させ、メオト風の馬の犠牲を伴う文化が現れたことに関わる、何か壊滅的事件が起こる。紀元前4世紀の末に関して、何か大きな軍事的衝突があったことが、ギエナ市の碑文の断片で語られている。紀元前3世紀から前2世紀に地元の文化は、西グルジアのヘレニズム文化圏の一部分になって、(それまでの)素晴らしい独自性のある文化を失った」と述べているのは、この事情を説明している。

 

馬の犠牲を伴う墳墓 出土地はコルキス文化の中心地西グルジアのクタイスィ地方のヴァニ遺跡。出典はBraund,David.Georgian Antiquity,Oxford,1994,ill.2。初出はS.Shamba,Gyuenos-I,

Tbilisi,1988,pls.18-24。1951年生まれのセルゲイ・ミロンイパ・シャムバは、アブハズ人考古学者の第2世代で。多くの論文と著書を著したが、1988年以来政治に乗り出し、アブハジア共和国外務大臣(1997-2010)、首相(2010-2011)などを歴任した。デヴィット・ブラウンド氏は英国エクスター大学教授。

 

馬の犠牲を伴うサウロマタイ人の墳墓(Smirnov,Sauromaty,p.320)

 

 

 

第2項<ストラボン『地理』と大プリニウス『博物誌』>(紀元前1世紀と紀元2世紀)

 

  故郷アマシアに建てられたストラボンの立像。出典Wikimedia commons

 

 

   黒海沿岸東部の諸民族の知識は紀元1世紀の初め頃、ストラボン(紀元前63-紀元23)の地誌が現れると一段と豊富になる。ストラボンはポントスのアマシアにポントス王国の有力者の家庭に生まれた。母方の祖先にはポントス王ミトラダテス6世の乳兄弟がいた。ポントスは前63年にミトラダテス王が死亡して、ローマとの戦争が終了すると、王冠は王の息子で対ローマ和平派のファルナケスに与えられた。第一次三頭政治期王国はポンペイウスの勢力圏にあったが、内戦が勃発するとそのファルナケスも自立を求め、領土拡大に動いたもののが、前47年、カエサルに破れたファルナケスは亡父同様クリミアに逃亡、そこで殺された。王国は64年にネロによって廃止されるまでかろうじて名目のみを保った。ストラボン自身は、イオニアのニュサ(現トルコ共和国アイディン県スュルタンヒサル)で、当時有名な修辞学者アリストデムスに初等教育を受け、ホメロスの作品に親しんだ。長じて、ローマに出て、哲学と地理学を修め、半生を旅に送った後、郷里アマシアに帰って、執筆にあたった。ストラボンの文章は長く詳細であるので、ここでは全体を引用することはしないで、かいつまんで要点だけを述べよう。さて、ストラボンの記述も黒海岸を時計回りで進む。マエオタエ(ここではメオティスではなくこのように呼ばれている)には、ファナゴレイアやケピを初めとする都市がある。スィンド人は広義にはマエオタエ人の一集団であるが、彼らの地域には、ゴルギピア市、スィンド湾およびスィンド市、アナトリア北海岸のスィノプの真北にあるバタなどの都市がある。ゴルギピア市は今日のアナパの北部で都市全体の遺跡が発掘されている。スィンド湾は南に黒海に開いたアナパ湾であるが、するとスィンド市はアナパとなるが、区別できないほど近すぎるので別の場所であると考える研究者もいる。バタは伝統的にノヴォロシースクに推定されているが、真北という意味が、経度が同じという意味であればストラボンの記述は正しくない。トルコのスィノプと同経度はクリミア半島のカッファ(フェオドスィア)だから。スィンド人の国を出ると山がちで、港のないアカエイ人、ズィギ人、ヘニオキ人の海岸を過ぎる。港がないという意味は、黒海沿岸東部地方は、ノヴォロシースクを過ぎると、ゲリンジク湾以外には、大きな船が接岸できる自然の入り江がなく、沖合に停泊した大型商船は艀に商品を積み替える必要があったからである。ストラボンはアカエイ人、ズィヒ人とヘニオキ人が巧みに小船を操って、広い地域で海賊行為を働いていたことを述べるが、浜辺と絶壁、奥行きの浅い湾と短い岬が交差する複雑な海岸の状態はこのような小舟を操る航海に好都合だったろう。紀元前66年ローマとの戦いに敗れ、以前のコルキス国の後身ラズィカ国に逃亡したポントス王のミトリダテス(或いはミトラダテス)6世は、翌年ヘニオキ、ズィギ、アカエイ人の国々を通って、ケルチ海峡の両岸クリミア半島とタマン半島に跨るボスフォラス王国に到着したという。王と現地種族との関係について、ストラボンは、アルテミドロスによって以下のように述べる。アルテミドロスはイオニアのエフェソス出身の地理学者で、紀元前100年ごろに活躍した人であった。11巻本の地理書を執筆したとされているが、現物は残っていない

 

  ミトリダテス王が父祖の国からボスフォラスへの逃走の途にあった時、彼ら(ヘニオキ)人の国を通った。この国は通ることができると解ったが、ズィギ人の国は国土が険しく、住民は勇猛なので通ることを諦め、困難の末海岸にそって、道の大部分は海の浜辺を進んで、アカエイ人の国に着いた。アカエイ人は王を歓待した。

 

このように述べて、ストラボンは、ヘニオキ人が黒海東岸の南部にいたことを示す。尤も、

この事件から200年ほど後のアレキサンドリアのアピアヌス(西暦95年-165年)の歴史では、

 

  ここでミトリダテスが乗り出したのは、怪物じみた企てであった。しかし、彼は成し遂げねばならぬと考えた。王は奇怪で好戦的なスキタイの諸部族の間を、あるものは許しを得、あるものは無理やり押し通った。敗走の身で不運の有様とは言え、彼はまだ尊敬され恐れられていたので。彼はヘニオキ人の国を通ったが、彼らは喜んで王を迎えた。アカエイ人は逆らったので、打ち払った。

 

アッピアヌスがここでスキタイ人というのは、ヘニオキ人とアカエイ人のことで、単に

黒海の東岸に住んでいたか、あるいはアッピアヌスが両者の風俗が似ていると判断しただけで、他意はないだろう。王に対するアカエイ人の態度は、ストラボンの書くのとは異なるが、それでも、アカエイ人はポントス軍の三分の二を撃破したという。またアカエイ人がミトリダテスと戦った理由は、彼らがギリシャ嫌いだったからだという。史実としては、時代も近く、当事者に近い立場にあったストラボン説を採用して良いかもしれない。ミトリダテスが通過した海岸は、アルテミドロスからの引用によると、ケルケト人の海岸が、バタすなわち現在のノヴォロシースクから850スタジオン、次にアカエイ人の海岸が500スタジオン、ヘニオキ人の海岸が1,000スタジオン、デォスクリアに至る大ピツンダの海岸が350スタジオンの距離である。しかし、住民の位置について、ストラボンは、より信頼のおける歴史家は、順番が逆で、「アカエイを最初にあげ、次にズィギ、次にヘニオキ、次にケルケタエ、モスキ、コルキ、そしてこれら3民族の上に住むプテイロパギとソアネ、およびコーカサス山の近くに住む他の小部族を挙げる」と付け加える。つまり、ケルケタイ人の場所が違っているのである。ケルケトイ人の場所に関して、アルテミドロスの説は偽スキラクスの主張と同じであるが、より信頼の置ける歴史家はこれとは違う情報を持っていた。

ストラボンがより信頼の置けるミトラデス戦争の歴史家と言うのは、やはりミティレネ

出身の軍人で文人、ポンペイウスの腹心であったテオファネス(前44年に彼に宛られたキケロの書簡がある)のことであろう。アルミドロスの順番は偽スキラクスに近いが、偽スキラクスのトレイオイ、コラクス、コリカ、メランホレノイ、ゲロンがない、或いは単に記載しなかったのかも知れない。黒海東岸の住民集団の位置と順番に関して、偽スキラクスとアルテミドロスとの中間にあるのは、紀元43年ころに成立したポンポニスス・メラの周航順表である。この順によるとスィンドイ人の次は、ケルケトイ、アカエイ、ヘニオコイ、(内陸にプティロファギ)、コラクスィ、6コリカエ、トレティカ、メランホレノイ、ディオスクリアである。ただし、既に引用したように、ヘニオキとディオスクリアは接している。場所の違いをテキストの、つまり知識の錯乱と考えずに、時間差あるいは住民集団の移動と考えると、紀元前4世紀の偽スキラクスの住民表の中から、先ずトレトオイが現在のゲレンジクの旧住地から南へ移り(ポンポニウス・メラの場所表)、更にこの中から、コラクス(コラクスィ)、6コリカエ、トレティカ、メランホレノイなどの集団が消滅し(アルテミドロス)、最後に紀元前1世紀までにはケルケトイもヘニオキの南に移動した(ミティレネのテオファネス)。ケルケタイの移動の時期に関しては、前490年ミティレネ生まれ(少なくとも85歳まで生存)で、アトランチス大陸に関する記述(テキストはほとんど失われている)で有名な文人ヘラニクスは、ヘロドトスよりやや後で生まれたが、

 

  ケルケタエ人の向こうにモスキ人が住む。(また)カリマタエ人が、一方ではヘニオキ人の向こう側、コラクスィ人の手前に(住む)。

 

とあるから、既に紀元前4世紀初めにはケルケト人の移動は完成したか、あるいは古くか

らケルケト人は二つに分かれていたと考えざるを得ない。ただし、この短い文章は、前に

登場したステファヌス・ビザンチヌスが引用したヘカタイウスに付した逸文である。そし

て、テオファネスにはあるが、アルミドロスにも偽スキラクスにないモスキ人については、

ケルケトイ人のそばにモスキ人が住むというのも、既にヘラニクスが記述する紀元前4世

紀の状況である。時代を遡ると、モスキ人はヘロドトスの『歴史』(前5世紀)では、南

西グルジアのペルシャ帝国第19徴税区に属していた。クセノフォンの『アナバシス』(前

400年ごろ)では、ギリシャ人傭兵隊は彼らと接触がない。つまり、この時にはモスキ人は南西グル

ジアにはいなかった。また、ストラボン自身も「より信頼のおける歴史家」テオファネス

のモスキ人とは別の集団が、コルキス、アルメニア、イベリアの境界地域に存在していた

ことを述べている。あるいは西南グルジアからアブナジア山地に移動した集団であろうか。

それとも紀元前後までにアブハジアのモスキ人は、南に移動したのであろうか。

ポントス王の軍隊は陸路、組織的にアブハジアからボスフォラスに移動したのであるから、文字通り海沿いの経路を取ることは考えがたい。トゥアプセからノヴォラスィースクまで、海岸は至るところで断崖になっているからである。現在でも海岸には道路も鉄道もない。道路も線路もない黒海東海岸北部を鉄道で通過できるのは、ソチ・オリンピックで浮かれた黒海一周鉄道の旅途中の、NHKのレポーターだけであろう。ミトラダテス王はジキ人の国を通ってボスフォラスに行くことを計画したのだが、右手に海岸を回りこんで内陸に入り、クバン川左岸からタマン半島経由でクリミア半島に渡るのが近道であろう。ヘロドトスはキンメリア人がオリエントに逃亡した経路を「メオタイ・コルキス道と呼んだが、スカーコフの考察では、これを文字道理に受け取ってはならず、キンメリア人と彼らの後を追ったスキタイ人はコーカサスの峠を越えてコルキスに入ったとするべきであるという。ジキ人はそのような峠の一つの南側手前にいたと考えていいだろう。王の軍隊がヘニオキ人の国を無事通過できたとすると、王が通過を計画した峠は、トゥアプセの後背地にあるものに他ならない。ジキ人の抵抗にあった王はコーカサス山脈越えを諦め、トゥアプセ以北はコーカサス山脈と黒海の間のどこかの道なき道を進んだのだろう。ジキ人はストラボンの地誌に始めて現れる。ブラウンドは彼らの居住域を内陸部のクバン地方南部に置いている。しかし、ストラボンによるとジキ人はアカエイ人とヘニオキ人とともに海賊を働いていたのだから、コーカサス山脈の西部を越えた内陸とは考えがたい。先に名前を挙げた考古学者スカーコフが、古典古代黒海東岸諸民族の分布には2系統の情報があると強調したが、実際その2系統は前4世紀に現れる。あらゆる変化が前4世紀に起こった、あるいはこれまで引用した史料中、テオファヌスとストラボン自身の見聞きした事柄以外は、すべて紀元前4世紀に起こった変化を表しているとすれば、何も矛盾は生じない。著者が紀元前4世紀に沿黒海地方で種族集団の移動が起こったとする根拠は、ソチとアブハジアに生じた北方民族の流入を示す遺跡と遺物である。

 ストラボンの時代、大ソチにソチにはアカエイ人、ズィヒ人、ヘニオキ人が住んでいたと考えていいだろう。この内ヘニオキはコラクスィ、コリ、トレティ、メランホロイ等の集団を駆逐するか吸収して、南に広がり、スフミに迫っていた。テオファネス自身がヘニオキ人はディアスクリアに接していると言う。ヘニオキ人、ズィヒ人、アカエイ人はカメラエと呼ばれる小船に乗って、沖を通行する商船を襲撃したり、海上から沿岸の町や村を攻撃し、自分たち自身さえ捕虜を取り合った。商品はボスフォラスで売り払い、捕虜からは身代金を取った。ストラボンによると、これら諸民族が、狭く、不毛な地域で海賊と移動の生活を送っていた。

 

  野獣の肉、野生の果実と乳を食料として、ある者は山上に住み、あるものは青空の下渓谷に住む。

 

 現地の考古学者は、ストラボンの証言を承認する一方で、誇大であるとも感じている。

ソチには紀元前に非ギリシャ人の集落や農耕遺跡が見当たらないのに反し、北アブハジア

では、紀元前1千年紀初めに青銅器文化(コルキスあるいはコルキス=コバン文化)圏

内に入っており、ソチでも鍬による農耕が行われていたと考えられるからである。従って、

彼らの社会は狩猟採集民のバンドのようなものではない。ストラボンは、

 

人々はスケプトゥキと呼ばれる首長に率いられていたが、首長たちは王の支配化にあった。例えばヘニオキ人には王が4人いた。

 

と記すが、ソチの海岸部もそのような状態だったのであろう。なお、ヘニオキ人らの海賊行為の歴史は古く、タキトゥスによると既に紀元前4世紀にクリミアのボスフォラス王国は、黒海航海者の保護のためにヘニオキ人、タウル人、アカエイ人の海賊を攻撃している。

ストラボンはポントスの人で、母方の祖母は王の乳母だったので、王の行動は個人的に

も関心があることであったろうが、ストラボン自身は早く郷里を離れ、大旅行家ではあっ

たが、黒海東岸には足を踏み入れたことはなかった。従って、この地域についてストラボ

ンが持っていた知識の大部分は文献によって得られたものである。文献上の知識について

は、やはり文献によってこの地方の地誌を現した博物学者、2世代後の大プリニウス(紀

元22/23-79年)の地誌と比較するべきであろう。大プリニウス、ガイウス・プリニウス

・セクンドゥスは、同名の甥で死後養子と区別するため、日本の習慣に従って、大を付け

て呼ばれている。紀元22,23年ころ北イタリアのコモで騎士の家庭に生まれた。ローマで

法学教育を受けた後の紀元46年、23歳の時、ゲルマニアで軍務についた。体験を『ゲル

マニア戦史』にまとめたが、これはタキトゥスの『ローマ史』や『ゲルマニア戦記』の文

章の中に生きている。また、上官にアルメニアの征服者グナエウス・ドミトゥス・コルブ

ロスがいた。数年間の軍務の後、再びローマに戻って学業に従事したのち、ヴェスパシア

ヌス帝に奉仕し、帝国西部のいくつかの皇帝直轄州で総督を勤めた。77年までに『ローマ

史』31巻、『博物誌』37巻を執筆した。地中海西部艦隊の提督であった79年、折から火

山活動を始めたヴェスピオ山を観察しようとして、スタビアエで火山性ガスのために不慮

の死を迎えた。軍人および行政官としての大プリニウスの体験の場は、ガリア、ヒスパニ

ア、アフリカに限られ、残念ながら東方における現地経験はなかったので、コーカサスの地理に関する知識は、若干の伝聞以外は、書物によるものであった。

 

大プリニウスの『博物誌』12世紀の写本の最初のページ(出典、WikimediaCommons,Abbaye of Saiant.Vuncent,Le Mans Frand.jgg

 

以下の引用は、大プリニウス『博物誌』の関連分部分(第6巻第4章)である。中野定

雄氏らによる日本語訳があるが、なぜか英訳からの重訳であるので、ここでは筆者が英訳(ボストクとリレイ、ラッカム)から試訳した。勿論、中野氏らの訳を参考にさせていただいたことは言うまでもない。

                               

  アブサル川河口から70マイルのところに、いくつかの島があるが、それには名前がない。この先に別のカリエイス川、古くから虱食い(プティロパギ)と呼ばれているサルティアエ人、また別の部族サンニ、コーカサス山に発してスアニ族の国を流れるコブス川、次にロアン川、エグレティケ地方、スィガニス川、テルソス川、アステレフス川、クリソロアス川、アブスィラエ民族、ファシスから120マイルのところのセバストポリス要塞、サニカエ族とキグヌス市、ペニウスの川と町、さまざまな名前でよばれるヘニオキの諸部族のもとに来る。

 

アブサル川はチョロヒ川の分流の1つ、カリエイス川は現在のホビ川、コブス川は現在のイングリ(エングリ)川であろう。イングリ川の上流で大コーカサス山脈とエグリスィ山地にはさまれた高地がスヴァネティ(スヴァネティア)である。行論から見て、引用文3行目のサンニとスアニは同じものであろう。ストラボンもプティロパギとスアニは隣り合っていると述べている。スィガニス川はエグリス・ツカリ、テルソス川はモクヴィ川、アステレフォス川はスクルチャ川、クリソロアス川はケラスリ川と推定されている。さて、ファシスから120マイルの場所にあるというセバストポリスは、ディアスクリアの新しい名前である。ディアスクリアからセバストポリスへの改名が通説のとおり皇帝カエサルによっておこなわれたとすると、時代に応じた名称が用いられている。また、地図上で直線距離を測定すると、ファシス、現在のポティからセバストポリス現在のスフミまでの海岸線の距離120ローマン・マイル(177.6キロメートル。1マイル1.48kmで計算)も、実測123キロメートル、スィグナヒ経由の内陸経路167キロメートルと比べて、かなり正確である。スフミの北にはサニゲ人がおり、さらにペニウスの町があり、ヘニオキ人はその次である。大プリニウスが記したペニウスの地名はここに見えるだけで、古典地理学には未知の地名であるが、ピティウスを指していると考えられている(例えばアブハズ人の歴史学者アンチャバヅェ)。現在のピツンダである。ピツンダの起源は紀元前5世紀に建設されたギリシャ人の殖民都市ピティウスで、現在の名称は、ギリシャ語名の所有格ピティウントスから派生したといわれる。松の意味である。従って、ペニウス川とはブズィブ川であることになる。傍証材料はないが、本書では借りにペニウス=ピツンダ説を採用して話を進めよう。キグヌスはスフミの南の現在のオチャムチラのギリシャ語名である。キグヌス周辺に住むというサニギ人は、紀元前4世紀の情報に由来する文献には見えない新しい集団名である。スフミ南部を流れる現在のケラスリ川であるクリソロアス川の近くにアプスィラエ人が住む。問題は、サニギ(サニカエ)、アブスィラエ、ヘニオキの諸種族が、住んでいた地域の特定であるが、特にこれまでソチ地方からスフムに渡ってに住んでいたと考えてきたヘニオキ人が南はどこまで広がっていたのかが重要である。大プリニウスは次のように続ける。

 

 この先にはコリカと呼ばれるポントス地方の1地区がある。既に述べたようにそこではコーカサス山脈は、リパエオス山脈の方に向かって曲がりこみ、一方は黒海とアゾフ海に落ちこみ、他方はカスピ海とヒルカニア海へ向かう。海岸部分の残りの大部分を占めている民族はメランコラエ人とコラクス人で、アンテムス川河畔のディオスクリアという、今は荒廃しているがかつては非常に名高く、ティモステネスによれば、300の異なった言葉の民族がそこに集まり、ローマの商人が130人の通訳を使って取引したほどの、コルキスの都市は彼らのもとにある。ディオスクリアはカストルとポラックスの御者アンピトゥスとテルキウスによって建設されたと信じる人々がいる。ヘニオキ(「戦車に乗る人々」という意味)族は彼らの子孫であるということは、実に正しい。

 

不思議なことに、一旦、記述をピツンダまで進めた大プリニウスは、道を引き返し、以前のスフミの町の商売が殷賑を極めた話を始める。スフミは、大プリニウスの直前のテキストの中でセバストポリス要塞と呼ばれたばかりだ。スフミであるディアスクリアの繁盛についてはストラボンも記しているから疑わないが、ストラボンは、ここで大プリニウスが300としている集まる民族数は間違いで、正しくは70であるとしている。その数はもともとティモステネスのあげたものだが、ティモステネスは紀元前3世紀のエジプト出身のギリシャ人航海者である。つまりは、大プリニウスからは400年前の事情である。しかし、ミトラダテス戦争以降ディオスクリアダは衰退し、ローマはあらためて、要塞を建設しディスクリアダ(ディアスクリア)を放棄せざるをえない事情にあったから、都市自体ではなく新たに駐屯兵を派遣してセバストポリス要塞を建設したのであろう。ディオスクリア自体の事情は不明であったが、ここから10km北にある当時ギリシャ都市エシェル(当時の名称は知られていない)では、紀元前1世紀半ば、あるいは第3四半期、急襲を受けて占領され、家屋は焼き払われた。攻撃は北の山側から行われたようで、城壁跡には多量の鉄の鏃が残されていた。カエサル、ポンペイウス、クラッススが政権を巡って争った第1次三頭政治の時期である。大プリニウスの甥、晩年110年から113年、かつてのポントス王国が分割されて作られたビチニア-ポントス州総督在職のまま死亡した小プリニウス(61-113年頃)の書簡によると、ピトゥンタは西暦1世紀の始め、ヘニオキ人によって破壊されたというから、スフミについても同様の事情があったのかもしれない。

帝政が始まるとローマは東方経営の再構築に乗り出した。ネロ帝は東方親征を計画されたがこれは実行されなかった。ポンペイに征服されたものの混乱のなかで自立を目指したポントゥス王国は再びローマ軍に敗退、属国化され、紀元54年に王国は廃止され、属州化された。このときポントス海軍の提督であった東方出身の解放奴隷アニケトゥスは、ネロの死後、ローマの艦船を焼いて、コルキスに逃亡し、コルキスのセドケズィ王を買収して味方にしたが、短期間ローマに対する破壊活動を行った後、王の裏切りにあって、コブス川で敗死した。この事件はタキトゥスの『年代記』に記されているから、大プリニウスも知っていただろう。同じ頃、属州化政策が進行していたユダヤ王国では、ローマに使えていたユダヤ人イオスィフ・フラヴィウスによると、アグリッパ王は対ローマ強硬派に強大なローマとことを構える愚を解いて、

 

ヘニオキ人とコルキス人、タウリの先住民、ボスフォラスの住民、ポントスとメオティスの先住民にについて言わなくてならないのは、彼らは以前彼等自身の領主さえ認めなかったが、今では3,000人の重装歩兵に従い、以前は航海には及ばず、嵐が多かった海を40艘の長い船が海を治めているのを?(『ユダヤ戦記』

 

この掃討作戦については、研究者のあいだに実施年代にかかわる論争もあり、事実であることを否定する主張もあるが、ウイーラーは当時のローマ帝国正規軍団の勤務状況を把握して、3,000人の重装歩兵はアニケトゥスの反乱を鎮圧するためにヴェスパスィアヌス帝が派遣されたヴィルディウス・ゲルミヌスの部隊がこれであるという。

ここで大プリニウスはディアスクリアがコリカ地方にあり、メランコラエ人とコラクス人はかつてここに住んでいたと記している。すると、大プリニウスは偽スキラクスの民族配置配置とティモステネスのディアスクリアの繁栄を組み合わせたのである。偽スキラクスにあって、既にストラボンにないコラキ、コラクス、メランコライを大プリニウスが挙げているのは、アナクロニズムではないだろうか。大プリニウスの情報源は、偽スキラクスであると思われる。さて、大プリニウスの筆の運びに合わせて、我々も話を進めよう。次も難題、ヘラクレウムである。

 

ディオスクリアから100マイル、セバストポリスから70マイルでヘラクレウムの町がある。ここの種族はアカエイ、マルド、ケルケタエで、そして彼らの背後にケリとケファロトミがいる。これらの地域の最も奥まったところに、かなり名が知られていたが、ヘニオキ人に略奪されたピティウスがある。彼らの背後にはコーカサス山中にサルマタイ人に属するエパゲリタエ人が、そして彼らの背後にはサウロマタエ人がいる。ミトラダテスがクラウデイウスの治世に逃亡したのはこの部族のもとで、彼らが隣り合うタリ部族は東方にカスピ海の入り口に延びていて、彼らが言うには引き潮のとき海峡は干上がる。

 

先ず、ここはディオスクリアとセバストポリスの二つの地名がでてきて、とても複雑だというか、面食らってしまう。第一に同じ都市を同時に二つの名前で呼ぶことはあっても、その場所は30ローマン・マイル(約44キロメートル)も離れないからだ。ディオスクリアがセバストポリスと改名されたとき、30ローマン・マイル離れた別の何処かの都市がディオスクリアと改名されたと考えると、同時にディオスクリアとセバストポリスの地名が出てきても問題はないが、それでは、位置関係が違う。ファシスから北に向かってスフミまでに、ディアスクリアにあたるまちはない。スフミの北にディアスクリアができたとするとその場合は「セバストポリスから100マイル、ディアスクリアから70マイル」としなければならないからだ。大プリニウスはスフミの北30マイルにあった町の名前を間違ったのかもしれない。すると、スフミから30ローマ・マイル(約44km)の地点は、海岸の距離でグダウタ38km、グダウタの西のソウクス岬で44kmであるので、グダウタであろうか。但し、グダウタ周辺にはギリシャ人の植民都市もローマ軍の城塞も確認されていない。仮にそのような町があるとすれば、スフミから海岸線で約65キロメートル、直線で55キロメートルのところにあるピツンダであろう。しかし、それはソチには直接かかわらない。スフミから北西30ローマ・マイルの場所に、大プリニウスがディオスクリアと呼んでいるある都市があり、そこから70ローマ・マイルの場所にあるのがヘラクレウムであるとしよう。カチャラヴァは、アドレルをこのヘラクレウムにあて、一方、ブラウンドとシンクレアーは、後の時代のローマの行政官アリアヌスの「ヘラクリウス岬とネスィス」をそれぞれアドレル岬、ムズィムタ川にあてる。するとここは、ソチ・オリンピックの会場周辺ということになる。スフムみ・アドレルの直線距離は、約97kmであるが、道程となるとはるかに大きく、約164キロメートルであるが、これはほぼ100マイルに等しい。

この段落中にあらわれる地名はピティウス、現在のピツンダである。さて、現在の大ソチ市にまで進んで、記述はまたピティウスに戻ってしまう。ピティウスつまり現在のピツンダは先刻、ピニウスとした町と川にあててしまっている。勿論、著者が単にピティウスの情報を繰り返してしまったということは有り得る。この段落前半の情報はそれで間違いがない。問題があるのはその後半、後背地の諸民族に関してである。しかし、大プリニアスがピティウス周辺の状況として述べているのは、実際にピティウスのことであろうか。セバストポリス(ディアスクリア)からの距離数において、そうは言えない。またボスフォラスを目指していたミトリダテスがピツンダからコーカサス山脈を越えようとしたのは、ピツンダではあり得ない。ピツンダから山脈を越えたのでは、ズィキ人ともアカエイ人とも遭遇することができないからである。しかも、ピツンダの後背地ではスキタイ人をクリミアに逐ったサルマート人の一部であると言う詳細不明のエパゲリタエ人が住み、背後にヘロドトスがスキタイ人とアマゾネス人との混血民族であると叙述するサウロマタイ人が居住し、更にカスピ海沿岸に抜ける経路を有する空間としては十分に広くはないと思われる。その様な空間はクバン川上流山地に通じる経路を持つソチの方がふさわしく、更に山脈も低く容易にクバン川中流域に連絡するトゥアプセに一層相応しいと思われる。ノヴォロシースクまで、黒海海岸ではトゥアプセ程内陸部との交通が開かれている場所はないからである。なお、「最も奥まった」というのは、ストラボンが、スフミについて述べている言葉である。史料中にトゥアプセをピティウスと呼ぶ例はないが、もうヘニオキ人は住まず、アカエイ人、マルド人、ケルケタエ人が住むのは、大ソチ市とトゥアプセ郡の境界地帯よりは北であり、広い後背地を持ち、更に内陸部へ開けたトゥアプセの地形にも適合する。大プリニウスは偽スキラクスなどの古い地理情報、紀元前1世紀のミトリダテス戦争に関する情報と最新のヘニオキ人のピティウス略奪に関する情報を混ぜ合わせてしまったのであろう。ただし、通説ではミトラダテスはジキ人、アカエイ人と和戦を繰り返して海岸部を通過したのであって、内陸部から平原の遊牧民の間を通過したのではない。

さて、大プリニウスは「ピティウス」=トゥアプセ?の先を、

 

 ケルケタエ人の近くの黒海沿岸、ヘラクレウムから136マイルのところにイカルス川、アカエア人と彼らのヒエルス(「聖地」の意味)がある。次にクルニ岬があり、その次の急な崖はトレタエ人によって占められている。次にヒエルスから67マイル半のところにスィンディカのポリスとセケリエス川。

 

これによると黒海沿岸の民族は北からシンディカ、トレタエ、ケルケタエ、アカエアで、

偽スキラクスやアルテミドスの情報と同じになる。ヘラクレイウスから136マイル(245キロメートル)のところにイカルス川とアカエア人、ヒエルスがある。先ほどヘラクレイオスは大ソチのアドレルであると仮置きしていたから、アドレルから136マイル201kmにあるのは、ゲリンジク湾入口から15km南の地点のジャンホト周辺にあたる。勿論厳密には考えず、大まかにトゥアプセとゲレンジクの間程度に見ておけば良いだろう。その先のトレタエ人については既に現在のゲリンジクであると確定したので、イカルス川、アカエア、ヒエルスはその南東にあたる。ブラウンドは、イカルス川をトゥアプセの北西に置いている。従って、ヒエルスもその近くであるが、聖所の意味からしてコドシュがアカエア人のヒエルス(聖地)ではないであろうか。最後のスィンディカの都市は現在のアナパであるが、大プリニウスには、ストラボンのバタ、現在のノヴォロシースクの情報は欠いていることになるが、そこが最も古い史料ではケルケトイ人の国に当たるはずである。つまり、大プリニウスの民族配置は、偽スキラクスによるものであろう。大プリニウスの記述には、複数の文献を十分な批判を加えず繋ぎ合わせた形跡がある。しかし、作者は77年の刊行以後も絶えず原稿に修正を加えていたというから、もし、79年にヴェスビオス火山の噴火のために不慮の死を迎えていなければ、このテキストももっと我々に解りやすいものになっていたかもしれない。

 

 

 

 ママイカ出土ギリシャ黒陶  

(出典Voronov前掲書、図29)

アカエイ人の南のどの民族が大ソチの民族でるか明言するのは文献資料に拠るだけでは困難である。ヘニオキ時代、紀元前6世紀から前1世紀の集落址と墓地は、ソチ市中央区西部のママイカとその海岸部やホスタ区のクデプスタ川、アドレル区のムズィムタ川、ソチ地方とアブハジア境界のプソウ3河の間に見られる。ママイカの集落はギリシャ人のものであったようで、石膏、ガラス、アラバスター瓶、黒陶・赤陶容器、テラコッタ製の偶像などが出土している。クデプスタ、ムズィムタ、プソウ流域からはアンフォラの破片、香水入れの小アンフォラ、壷、赤陶皿、黒陶製、普通の古典期の及び現地の食器などが出土している。ヴォロンツォフ洞窟の出土品から、ソチが黒海と北西コーカサスを結ぶ中継点になっていたことが知られる。デメトレウス神のテラコッタ製偶像はボスフォラス製と見られている。当時のソチ住民は、スキタイあるいはサルマート系の遊牧民との関係が深く、剣、鏃、斧など北方の文化とかかわりの深い様式の遺物が発見されている。沿黒海地方における北方遊牧民の存在は、ストラボンや大プリニウスが記しているとおりである。このような遺物は、ソチ海岸部からもクラースナヤ・ポリャーナのような山間部からも出土している。他方、ピン、ブラスレット、髪飾り、首飾りなどは、コルヒダの北部や中央部と共通の要素を持っている。残念ながら、トゥアプセ地方の考古学調査は進んでいないか、単に私が無知で現状を把握できていない。

 

黒海東岸古代民族配置表(著者作成)

 

 

第2項<アッリアノスとプトレマイオス>(紀元2世紀のソチ)

 

ハドリアヌス帝の肖像、ローマ国民美術館像、作者未詳、撮影(Jastow,2006)(出典

ウィキメディア・コモンズ)アッリアヌスと小プリニウスが使えた。

アッリアヌスの名前の一部が残る碑文Ocherki istorii abkhazskoi ASSR,Sukhumi,1960,p.33

プトレマイオスの肖像(16世紀の画家の想像)出典ウィキメディア・コモンズ

 

 ストラボンと大プリニウスの述べる住民集団に関する情報は、一致している部分も多いが、また違いも多かった。筆者はこの違いが、紀元前4世紀の変化前後の情報が時代差を無視して引用されたためだと考えた。しかし、紀元2世紀にはローマ帝国の黒海政策の進展に伴った、より具体的な情報が伝えられるようになった。

次の地理学者はニコメディア出身ルキウス・フラウィオス・アリアノス(紀元86年頃‐160年頃)である。アッリアノスは、ローマ市民権を持ったギリシャ人文人、官僚、軍人で、ハドリアヌス帝に仕え、130年頃から138年頃までカッパドキア総督を拝命して、東部国境の防衛に当たった。スフミ要塞の遺構から、134年の日付の「フラウィウス・アリアヌスによって」と刻まれた碑文が発見されている。数多くあるアレキサンダー大王伝の中でも最も有名な『アレクサンドロス東征記』の著者でもある。フラウィウスの『黒海周航記』は、元来ラテン語で書かれたハドリアヌス帝に提出された上表文であった。このラテン語版上表文は失われたが、ギリシャ語で書かれた要約が残されている。内容は、多少込み入ったものなので、とりあえず、以下に関連箇所(ディアスクリアからスィンディカまで)をファルコナーの英訳から重訳してみよう。それに先立って、トラブゾンからスフミまでの地方政治状況を説明しよう。現在のトルコ共和国トラブゾン県東部海岸部にはマクロネス人とヘニオキ人が共通の王をいただいていた。スィドレタエ人はトラブゾン州東部にいた。ブラウンドは彼らの王国をチョロフ川下流においている。トルコ北東部から、グルジア西部にかけて広がっていたのは、コルキス人の後身であるラズ人で、地域の名称としてはラジカと呼ばれている。今日でも残る彼らの子孫は、トラブゾン東部のラズ人とグルジア西部のメグレル人である。民族名称マクロネスも語源的にはメグレルに近いと思われる。アプスィラエ人の王国はポティとスフミの間にあった。彼らの北、スフミの南にいたのがアバスク(アバスグ)人であった。後にギリシャ語文献中に広く見いだされるこの民族集団名は、アッリアノスが初出である。最後に、スフミ周辺にいたのがサニギ人である。

 

 マケロネス人とヘニオキ人はこれらの民族に接しています。彼らはアンキアルスと呼ばれる王を戴いています。これに続いてスィドレタエ人がいて、パラスマヌスに従っています。スィドレタエ人に接してラズ人がいます。彼らはマラッサス王に服属する人々で、王は王国を汝から与えられています。ラズ人に接してアプスィラエ人が、ユリアヌス王に治められております。王は王国を陛下の父君に賜っております。アプスィラエ人に隣りあって、アバスキ人がおります、その王レスマグスは王冠を陛下に賜っております。サニガエ人はアブスキ人に隣りあっております。セバストポリスはサニガエ人の都市で、彼らはスパダガス王に従っておりますが、王は王国を陛下に賜っております。 

 

陛下と言うのはハドリアヌス帝だが、父君とは先帝トラヤヌスである。ハドリアヌスはトラヤヌスの養子であった。トラヤヌスはダキア(今のルーマニア)とナバティア(首都は世界遺産のぺトラ。属州はアラビア)を征服して、属州化し、またパルチアと戦って領土を拡張し、占領地にアルメニア、アッシリア、メソポタミア等の属州を置いた。詳細な前後関係は未詳だが、トラヤヌス帝は黒海東南岸の土着の諸王国を掌握して、対パルチア戦線の後方を固めたのであろう。

 

  ディオスクリアスを発った後、最初の港はピティウスで、350スタジオン(62.3km)の距離がございます。ピティウスからニティカまで、150スタジオン(26.7km)。ここには以前スキタイ民族が住んでおりました。彼らについてヘロドトスは在り得ない話をしがちでありますが、彼らを虱食いであると書いております。本当に今でも同じ話が広まっております。ニティカからアバスクス川まで90スタジオン(16km)。アバスクスからボルギスまで120スタジオン(21.7km)。ボルギスから、ヘラクリウス岬を含めてネスイスまで60スタジオン(10.7km)。ネスィスからマサイティカまで90スタジオン、マサイティカからズィキとサニカエを分けるアカエウスまで60スタジオンでございます。サチェムパクスはズィキ族の王で、陛下に王国を賜っております。アカエウスからヘラクレス岬まで、そこにはトラスキアスと呼ばれる北西風とボレアスと呼ばれる北東からの風を逃れる場所がございますが、180スタジオン(32.1km)でございます。そこから旧ラズィカと呼ばれる場所まで120スタジオン(21.7km)。そこから旧アカイアまで150スタディオン(26.7km)。そこからパグラエの港まで350スダディオン(62.3km)。パグラエの港からヒエルスの港まで180スタジオン(32km)。そこからスィンディカまで350スタジオン(62.3km)でございます。

                                                                                              

 これまでに説明した史実と考えられる事項、および、後の5世紀に無名者によって書き

加えられた注釈に基づいて、アリアノスの上表文を読み解こう。セバストポリスと改名さ

れたはずのスフミは、再び旧名ディオスクリアと呼ばれているが、アッリアヌスは改称の

事実を知っている。スフミからピティウスすなわちピツンダまで350スタジオン(約62.3

キロメートル)。現在の自動車道の距離では55キロメートルであるが、グーグルマップ上

で計測した海岸線の長さは63kmである。同じ経路でなければ当時の測量の精度について

は評価できないが、計測線が海岸線であるとすると非常に正確であったといえる。ピティ

ウスから今日のガグラであるニティカまでは、150スタジオン(26.7km)、海岸線の長さ

も約27kmで一致する。かつてスキタイ人が住んでおり、ヘロドトスが彼らの習慣につい

てのありえない話すなわち、彼らを虱食いと述べたが、当時も同様の話が語られていると

する。しかし、虱食いは信じられない話ではなく、13世紀のモンゴル人の間にも虱食いの

エピソードがあり、グルジアにも虱食が肝炎治療に効果があるという民間療法があった。

5世紀の無名の著者は、ここをスタニスティカとした上で、かつてトリグリトと呼ばれた

と注記している。ここは現在のガグラである。ここまでの場所の特定については、

アリアヌスの計上距離数と地図上の計測数が一致しており、都市の情報自体も十分である。

しかし、ここからトリックまでの多くの地点は、未詳の場所である。アッリアヌスの行程

は、ガグラからトリックまでの合計が1220スダジオンである。ここでは仮に1スタジオン

180mで換算してあるが、1220スタジオンは、219.6kmである。一方、スフミ、ピツンダ、

ガグラ間と同じく、海岸線の距離であると考え、筆者が地図上、計測ソフトで測ると244km

になった。全体的にアリアヌスの計測数は小さめであることになり、総じて1スタジオン

当たり200mで計測すると実数に近づく。状況によってはスタジオンを多めにメートル換

算することが必要であるが、それはあらかじめ結論を誘導するものであってはならない。

アッリアノスはスフミの先は視察していないと見られ、最終的には5世紀に成立した旅程

図であるピューティンガー表にもスフミから北の街道は記載されていない。アッリアノス

が示す数字の根拠はまったく不明である。陸上を正規軍の遠征が行われたのであれば、行

程記録兵が歩数を数えるなり、測定車をガラガラ引いていくのだが。

さて、このようにアリアノスの計測点を海岸線に落としていこう。ネスティカ(ガグラ)

からアバスク川まで90スタジオン(16.2キロメートル)であるが、ガグラから16kmの海

岸線にあるのは現在の名称はツァンドリプシュ(旧名ガンティアディ)、アバスク川はツ

ァンドラプシの北のハシュプセ川であろう。そこからボルギスがあるという120スタジオ

ン21.6kmの海岸線は、地図上はアドレル市街にあたり、そこからネスィスのある10kmは

アドレルとホスタの中間点、そこからマサイティカのある16kmは、ソチ中心部とソチ川

を超えたノーヴイ・ソチになる。しかし、ボルギスは、プトレマイオスではブルカス川で

あって河川名であり、もし5世紀の名称ブルホントの現地名がブルホンタであれば、アブ

ハズ語で「タ」で終わる地名は河川名であるし、当時の名前はミズィグであるので、現在

の地名ムズィムタ川とする推理は正しいであろう。するとネスィスはボルギスにあてたム

ズィムタ川から60スタジオンにあたる10キロメートルの地点のクデプスタであろうか。

現在、ムズィムタ川河口右岸というよりは、クデプスタ川河口左岸には旅客ホテル、ブル

ガスがある。地元ではすっかりその気であるということであろうか。しかし、ここにヘラ

クリウス岬にあたる岬はない。もし、もっと西のホスタがネスィスであれば、ヘラクリウ

ス岬はホスト市街西のゼンギ岬であろう。ゼンギ岬は現在名ヴィードヌイ(目立ち)岬で、

「クマシデ、カシ、ブナの巨木に覆われた低い鋒が海の中に突き出ている」(デユボア・

ド・モンペレ)。しかし、ブラウンドとシンクレアーの歴史地図帳では、ボルギス川で、

後述のプトレマイオスのブルカス川と同じとするが、場所は示さず、ネスィスをムズィム

タ川にあて、ヘラクレイウス岬をアドレル岬にあてている。そうするとボルギス

川は、ムズィムタ川から南東のプソウ川ということになる。しかし、アドラル岬はムズィ

ムタ川河口に形成された砂嘴である。

ヴィードヌイ(ザンギ)岬(Google Mapより)

 

 南側から見たヴィードヌイ岬。写真中央の白い建物は、パンショナート「ヴィードヌイ岬」(ソ連時代に出版された横長絵葉書)

 

ネスイスから90スタジオン16.3キロメートルにあたるマサイティカについては、ネ

スィスを現在のホスタにおくとソチ川右岸のソチ新市街になる。アドレルに置くと、ソチ市中央区の南東端、プーチン大統領の別荘があると想定されるマチェスタにほぼ一致する。二つの地名を同一地点とする誘惑に駆られる。2世紀にはソチ市西部にはギリシャ人の集落や地元有力者の墳墓の遺跡が残されている。また、ソチ市中央区西部のママイカにはローマ時代に遡ると主張される古城砦跡も残されている。ポントス総督であるアッリアヌスにとって最も重要なのは、ローマ軍の要塞であろう。とすると、マサイカの場所として最も相応しいのは現在のママイカに残るママイ・カレであろう。

 

ママイカレ城址を紹介する現地観光関連団体のホームページhttps://prohotel.ru/place-188917/0

 ママイカは、ソチ中心から数キロの小地区でプサヘ(ママイ)川の下流右岸に当たる海に面した場所である。ここに古い城砦跡が残るが、多くの研究者はこれをローマ皇帝ネロの時代のポントス国境防衛線に所属するローマ、あるいはビザンツの遺跡で、紀元400年前後に成立した「高官席次」である『顕職総覧(ノティティタエ・ディグニタルム)』にあるアルメニア公領ポントス区のモコラ大隊の基地がここにおかれたと考え、紀元1‐6世紀に使われていたと判断した。現地ではこれを通説としている。しかし、『ピューティンガー表』等の行程図ではモコラはアルメニアに求められている。ママイ・カレの使用年代は考古学的方法では確定できず、ここに古い要塞跡があったということしか、ママイ・カレあるいはママイカをモコラとする根拠は提示されていない。もちろん、正規軍の駐留地ではなかったとしても、マサイカが、ローマの黒海経営上重要な地点であることは変わらない。またネロがコーカサス親征を欲したので、この時代にこの地方にローマのプレゼンスがあったことは否定できない。今、筆者が言うことができるのは、ソチ中央区に、マサイティカと呼ばれる場所があり、ローマの地方当局から認識されていたと言うことだけである。

マサイティカから60スタジオン10キロメートルのアカエウスは、マチェスタからだとソチ新市街、ソチ新市街からだとルー周辺にあたる。2世紀にズィヒとサニギの境界であるアカエウスは、5世紀にはアフエントまたはバスィス川で、既に述べたように現在のシャヘ川(あるいはアシェ川)に同一され、やはりズィヒ人とサニギ人の境界である。ルーではあまりにも近すぎると思われる。到底、シャヘ川には至らない。フラヴィウスのスタジオン数現実の地図上の距離とは完全には符合しない。つまり、ネスィスからアカエウスまで、あるいは現在の大ソチ市内で距離数は過小に評価されている。アリアヌス自身が実見していない地域において、地形上、天候上、あるいは政治的な事情で、計測が正しくないことはありうるだろう。

 ガグラと同じく所在地の確実性が高いトリックを現在のゲレェンジクにあてて定点として、逆に北から南に地名をたどってみよう。ゲレンジクから350スタジオン分の距離63kmを海岸沿いに南に進むと、ジュブガに至る。ここが旧アカエアであろう。ここには小さなジュプカ湾がある。そこから同様に150スタジオン分の27kmは、現地名のサスノヴイの手前で、ここが旧ラジカであるかもしれない。しかし、ここには岬も湾も大きな川もなく停泊には不向きな場所である。また海岸まで山が迫っていて後背地もない。ここから北西に直線距離4km、海岸線の距離で6kmの地点にのトゥ川下流にオリギンカ(1864年までは、トゥメ・カレ)がある。幅1キロメートル奥行き500メートル、半円形の湾があり水深は十分にあるといわれているので、オリギンカのほうが旧ラズィカの場所として適当であるかもしれない。更に5世紀の著者は、旧ラズィカには今のニコプスィアが建てられ、近くにプサハプス川があると記述している。同名の河川は見つけられないが、もう一つの手がかりのニコプスィア遺跡は、オリギンカの北西、直線で7kmのノヴォミハイロフスキー村のネチャプスホ川の下流にあるとされる。旧ラジカは、ノヴォミハイルフスキーに当てるのが適当かと思われる。旧ラズィカの南東には、ヘラクレス岬があるが、これはコドシュ岬に当てるあろうとするのが適当であろう。

 航空写真から見たコドシュ岬(中央) 出典 Google Map

 

 

 

 

 

海上から見たコドシュ岬(出典 Wikipwdia Commons ) 

 

このヘラクレイウス岬はアドレルのヘラクレス岬とは別の岬である。サスノヴォイから、120スタジオン分21.6kmはコドシュの丸い半島を回り込み、現在のトゥアプセ港大埠頭にあたるが、修正したノヴォミハイロフスキーからだとアゴイに留まる。アゴイとトゥアプセの間は南西に突出する丸い小半島になりその南端がコドシュ岬である。ヘラクレス岬はコドシュの半島のどれかの岬であろう。カドシュはアディゲ語で海の王の名であるという。岬の東のトゥアプセ川とプシェセプス川河口沖に19世紀初めには投錨地があり、トゥアプセ周辺で最も目に付く港である。トゥアプセから180スタジオン分32.4km戻るとアシェ川とシャヘ川の間のプセズアプセ河口にあたる。起点をトゥアプセではなくコドシュ岬に取ればアシェ川に近づく。アカイアから60スタジオン10.8kmは、アシェからだとプセズアプセ川をわたって1km程カトコヴァシチェリとズボヴァシチェリの間にあたるが、マサイティカは、5km程東南のゴロヴィンカの方がふさわしいかもしれない。ローマ時代の城塞址があるからである。シャヘ川からだとヴァルダネが10km地点である。アシェ川をアリアノスのアカイア(川)、5世紀の無名の著者のアフエフンタに当てるのは、言葉の類似によるものであるが、シャヘ川をこれにあてるのは、5世紀の著者がこの川を船で遡ることができるとしていることが、沿黒海地方第2の大河シャヘにふさわしく、また19世紀にはチェルケス人シャプスグ族とウブイフ人を隔てる川であったからである。4世紀後半の歴史家ルフィウスが、ケルチ海峡の「近くにキンメリア人とシンド人が住んでいた。近くにはケルケトとトレティの種族が住み、クサンタの海岸からはアカエイ人が住む」と記す。クサンタは、5世紀のアフエンタであり、2世紀にはまだここがアカエイと呼ばれていたことを反映している。

 2世紀、かつてのコルキス王国はローマの宗主権下に多くの小王国に分裂している。かつて強力であったヘニオキ人は、マケロン人とともにトラブゾンに残るもの以外は、消滅した。スフミ地方以北はサニギ人の国であり、アバスグ人がその南、サニギ人とアプスィル人の間にいた。サニギ人の北の境界はシャヘ川(あるいはアシェ川)で、その北にはジキ人がいた。サニギ人の領域には古い集団の痕跡が見いだせないが、ジキ人の領域には古い住民がいた痕跡が地名として残っている。

フラヴィウスは紀元2世紀のソチの知識にいくつもの新しい地名を加えた。また彼は具

体的な距離を示したが、しかし、彼があげた地点の間の距離数は、必づしも正確ではなか

った。また彼が注目するのは地名、王名と距離であるので、その社会の情報はな

かった。しかし、紀元2世紀にソチの住民はサニギ人であり、一人の王によって治められ

ていたことが記録に残されたことは重要である。サニギ人は1世紀早く、大プリニウスが

ギリシャ都市キグヌス周辺の民族として名前を上げていたが、同じ世紀のギリシャ人歴史

家ヘラクレイウスのメムノンは、ミトラダテス戦争の間の前71年、ローマの将軍ルキウ

スは、クレオカレスが守るシノップを攻めたが、ミトラディトスの別の王子マカレスが単

独でローマに下ったので、

 

  この事実を知ったクレオカレスと同僚は、あらゆる望みを捨て、夜のうちに大量の財宝を船に積込み、{兵士にこの都市の略奪を許し}(ミュラーのラテン語訳には{ }内は見えないが)、他の艦船を焼いた後、黒海の中へ、サネギ人とラズ人の国を目指して出発した。

 

と述べる。出来事自体は紀元前1世紀のもので、メムノンもユルウス・カエサルの同時代

の人である。サネギすなわちサニギの名称も既にその時にはあったことになる。

かどうかは不明である。ストラボンが最新情報には疎かったことが分かるのである。

 さて、アッリアノスの周航記は伝統的な周航記の形式によって書かれたものだった。次に若干、執筆年が前後するものの、プトレマイオスの『地誌』の関連部分を見てみよう。これは、地域ごとに主要な地点の緯度経度を記したものである。英訳ではエドワード・スチーヴェンソンのラテン語からの重訳があるが、日本語ではギリシャ語から直接翻訳された中務哲郎氏訳があるので、これによって、計測地を示そう。( )内の数字は経度と緯度である)。地名表記はギリシャ語式、カタカナ表記方は訳者の基準そのまま。筆者には「ブゥ」をなんと読んで良いか分からないが。タマン半島から時計回りで、コルキス国境までである。(第5巻第8章第4節)

    ヘルモナッサ(65,47.30)

    スィンディコス港(65.30,47.50)

    スィンダ村(アナパ**)(66,48)

    バタ港**(66.30,47.40)

    バタ村**(66.20,47.30)

    プシュクロス川河口(**寒川)(66.40,47.30) 

    アカイア村(****トゥアプセ)(67,47.30)

    ケルケティス湾(67.30,47.20)

    {ラゾス}町(68,47.30)

    トレティケ岬(68,47)

    アムプサリ町(68.30,47.15)

    ブゥルカス川河口(69,47.15) 

    オイナンティ(69.40,47.15)

テッシュリス川河口(69.40,47)

カルテロンティコス(堅固な城壁)(70,46.50)

以下の二行は、中務氏の訳にはない。今残るギリシャ語の写本にはないということであろう。古文献は原典だけでなく、古い翻訳も見なければならないのだが。

コラクス川河口(70.30,47)

コルキス側の最終点(75,47) 

 

*中務氏のギリシャ語からの訳で、シンダ、バタ、アカイアの「村」に当たる言葉は、ラテン語からのスチーヴェンソンの訳では、cityになっており、タゾスとアンプサリの「市」はtownになっている。ラテン語訳文ではそれぞれ、villa,oppidumとcivitasであるが、ギリシャ語のテキストでは、それぞれchomiとpolisである。その違いは何に基づくものか、規模か社会的あるいは政治的性格によるのか面白いところである。ギリシャ語中務訳とラテン語スチーヴンソン訳を文字通り解釈すれば、古くから繁栄していたボスフォラスのシンドとバタは、衰退して、村の状態になり、一方、沿黒海地方の南には、新たな都市が誕生したと想像したいところである。タゾス(ラゾス)については名称のみで、属性は記入されていない写本、刊本もある。

**これは日本語訳者の注、ではバタにも、「ノヴォロシースク」の注を入れても良かったのではないかと思われる。

***突然地名の意訳が行われて戸惑うが、古典ギリシャ語でプスィクロスpsykrosは、寒いあるいは冷たいの意味であるから、「寒川」とされたのだろう。古典ギリシャ語で「寒い、冷たい」にあたるトルコ語は、ソユクsogukだが、川(ス)をつけたソユクスという川は、17世紀まであり、今ではシュユクスと呼ばれて、トゥアプセ市とソチ市の間のメグリの近くを流れている。

****トゥアプセの古称をアカイアとする文献は何であろうか、根拠も知りたかった。もし、プシュクロス川をソチ市北部にあるシュユクス川に当てると、全体的に北西から南東に並んでいる地名の中で、スユクスとアカエアの順を先に南東の地名を、次に北西の地名を配列していると判断するのには抵抗がある。プシュクロスをスユクス、アカイエアをトゥアプセとする組み合わせは不自然である。アカイアはアッリアノスの旧アカイア、タゾスは別テキストではラゾスとあるので、旧ラジカに当てる。プシュクロスは、大プリニウスのクルニに、チェルケス語の川(-ps-)がついたものと考えてもいいのではないか、河川名クルニは未見だが、クルニ岬はかって、恐らく紀元前4世紀であろうが、トレタエ人のもとにあったから、プシュクロス岬もゲレンジク周辺にあったのであろう。トレティクム岬はコドシュ岬とするのが適当だろう。コドシュ岬は黒海沿岸でもっとも目立つ岬である。するとソチに残された地名は極く僅か、アムプサリ町とブゥルカス川程度であろう。

 次の復元地図では、表では同じ緯度のバタ村、プスィクロス川河口、アカエイ村、ラゾス村の緯度は書き分けられている。

 

 

 

 

 近代に再製作されたプトレイオスの世界地図近世地図(サルマチアの部分)拡大図

スィンデケのような名称にもなじみがあり、所在地についても問題がない地名があるが、他の文献には一切現れない名称も見える。全体の半ばほどは既に検討した地名であるが、場所は微妙に異なる。しかも、プトレマイオスが示したおおまかな緯度経度では地図上に落とすことは困難である。ソチに関してはムズィムタ川にあてたブルカス川があるが、これとてもアッリアヌスと同じ川を指しているかどうかは、今のところ判断できないであろう。Cosmographia Ptolemaeus,Claudia,Nicolas Germanus)ed.),JacobusAngekus(transk.)1482(フィンランド国民図書館蔵)186頁

 

 

 

 プトレマイオス『世界地図』のサルマチアの部分。左下の海が、黒海。出典(wikimedia Ptolemy_Cosmographia_1467_-_Central Russia_and_Sarmatia.jpg)所蔵ワルシャワ国民博物館。この地図は、1467年にヤコブ・ダンジェロが作成したもので、1573年にポーランドの大貴族で政治家ヤン・ザモイスキーが購入、1818年ザモイスキー荘園の図書館に収蔵、1946年に国民図書館に移管された。

 

 古典期末期のサニギ人時代のソチの考古学的遺跡から、

有力者やその家族のものとみられる墳墓の発掘、ルーの貴婦人の墓からは、銀の飾り皿、

琥珀、黒玉(こくぎょく)の首飾り、金の耳飾りなどが出土した。この墓から出土した金

製品の大部分は、ボスポラス王国の製品と酷似する、古典サルマート折衷様式のものであ

る。また、マツェスタの墳墓は族長と思われる男性のもので、鉄製の長剣、砥石、3世紀

に広く作成された様式のブロンズのピン、ガラスや銀の容器、3枚の銀貨が出土し、貨幣

のうちの一枚は、ローマ皇帝トラヤヌス(98年-117年)のものであつ。また、クラース

ナヤ・ポリャーナの1墳墓は、一人の武人の墓で、遺体は南東向きに埋葬されていた。副

葬品は剣、鏃、北アブハジア・ツェベルダ風の盾、短剣、鉄製戦斧、盾中央部、水晶の首

飾りの他にササン朝シャープール1世(234年-273年)の狩猟の彫刻のある金属製の皿が

あった。刻文によると皿はもともとケルマン王ヴァラフラン(262年-274年)のもので 

王が狩っている2頭の猛獣が猪でもライオンでもなく、熊であることがユニークに思える。

またローマ皇帝ハドリアヌス(121-122年)の銀貨一枚が見つかった。

 

伝)ササン朝熊狩猟銀皿(プーシキン名称チェルドィン美術館像)出典

www.manul.livejournal.com:www.proza.comこれは、上のスケッチとは関係がない。ロシア、ペ

ルミ地方のチェルドイン市の地方史博物館像と伝えられているものを参考までに提示した。

 

第3項<5世紀の沿黒海地方>

紀元2世紀に、黒海東岸南部では大きな政治的変化が起こっていた。これまでのヘニオ

キを始めとする多数の種族が姿を消し、サニギがそれらに変わった。彼らは南は今日のオチャムチレから北はソチまでの地域に広がっていた。ソチ以北ではズィヒのみはローマから王号を与えられているものの、紀元1世紀に確かに存在したアカエイ他の諸族の存在は曖昧である。一方、アブハジア南部では、かつてのコルキスに替わってラズィカが成立していた。これに続く3世紀、黒海東岸にはさらに大きな変動が起こった。東ゴート族の南進である。ゴートは4世紀にフン族に敗れるまで黒海海岸に君臨し、たびたび黒海南岸に来襲した。これらの変化は5世紀に無名氏が残した巡航記に明確に現れている。5世紀に無名の著者が記した航海記は、フラヴィウス・アッリアヌスのテキストに、一部、現状に合わせた書き換えをおこなったものである。トラブゾンからスフミまでの部分に関する無名氏のテキストは、時代差を無視するようにアッリアヌスの文章と同じである。細かい違いがあるのは、ピツンダから北である。文章はそのまま、ラトイシェフのロシア語から翻訳し、書き換え部分をイタリックにしよう。なお、距離はスタジオンと歩数で表されている。

  

ディオスクリア(セバストポリス)から、出帆すると最初の湾はそこに船のための湾があるピティウンタである。セバストポリスから350スタジオン、46 2/3百万歩である。この場所まで、ポントス王国に属するティバラニ、サニギア、コルヒダの蛮族が住むが、彼らの向こうに独立の蛮族が続く。ピティウントからステニカ(かってトリグリトと呼ばれていた)まで、150スタジオンまたは、20百万歩。ここには古い時代にスキタイの1種族が住んでいた。ヘロドトスはそれを才能豊かな言葉で表現する。彼は言う。彼らはしらみを食べると。これが彼らについての全てである。ステニティカからアバスク川まで90スタジオン、12百万歩。アバスク川からブルホント(今はムズィグと呼ばれる)まで、120スタジオ、16百万歩。ブルホントから我々がヘラクリウス岬を持つネスィス川まで、60スタジオン、8百万歩。ネスィス川からマセティク川まで90スタジオン、12百万歩。マセティク川からアヘウント(船の航行が可能)60スタジオン、8百万歩。このアヘウント川(バスィフと名付けられた)は、ジキ人とサニギ人を分ける。ジキ人の王はスタヘンプラで、陛下から王座を受け取った。アヘウント川からアバスク川までサニギ人が住む。アヘウント川からヘラクレス岬(今、エレマと名付けられている)まで、150スタジオン、20百万歩、ヘラクレス岬から今、バガと呼ばれる砦のある岬まで10スタジオン、1/3百万歩。その岬からフラキア風とボラ風から守る岬(そこにリアがあある)まで 80スタジオン、10 2/3百万歩。リアから古ラズィカと呼ばれるところ(そこに現在のニコプスィアが設けられ、そのそばのプサハプスとよばれるものから近い)まで、120スタジオン、16百万歩。古ラズィカから古アカイア(今、トプスィドと呼ばれる)まで、150スタジオン、20百万歩。古アカイアから古ラズィカ、さらにアヘウント川まで、ヘニオヒ、コラク、キリク、メランフレン、マハロン、コルヒラズと呼ばれる種族が住んでいたが今はジキ人が住む。パグラエ湾から古アカイアまで、かつてアカイア人と呼ばれる人々が住んでいたが、今はジキ人が住む。スィンディカ湾からパグラエの湾まで、以前はケルケトあるいはトリトと呼ばれる種族が住んでいたが、しかし今では、ゴート語とタヴリスの言葉を話すエヴドゥス人が住んでいる。

 

かつて、ピティウスと呼ばれていたピツンダはピティウント、トリグリットと呼ばれていたガグラはステニカと呼ばれている。アバスグ川はハシュプセ川か、プソウ川に推定された。かつてのボルギス川は、後にブルホント川と呼ばれたがこのときはムズィグ川と呼ばれていた。現在のムズィムタ川である。ソチ市の東南のネスィス、北西のマセティカ(アッリアノスではマサイティカ)を配置してあるのは変わらない。2世紀にジキとサニギを分けていた河川は5世紀には現地語化してアヘウント、あるいはバスィフと呼ばれる。シャヘ川は確かに大きな川であるので、季節と船の種類によっては、航行が可能であったかもしれない。

  シャヘ川(出典ウキメディア・コモンズ)

 

 今日、ソチ市内には二箇所に古代以来の様式の要塞跡が残されている。一つは中央区西部ママイカ川河口近くにあるママイ・カレである。ここからは、紀元1-5世紀の遺物が発見されている。もう一つは、ラザレフスキー区のゴドリク城址である。こちらからは古代末期にかかわる遺物は発見されていない。特に現地に流布する俗説では、ママイカはローマのマコラ、ゴドリクはバガ(あるいはヴァガ)であるとするが、マコラがソチにはないことについては既にのべた。また、5世紀の無名の著者のバガをゴドリクに当てようとすると第2のすなわちコドシュ岬のヘラクレイウス岬から、北西に進むのではなく、逆進しなければならない。バガはゴドリクではない。 

トゥアプセとゲリンジクに関する記述は若干細かくなっている。ふたつ目のヘラクレイウス岬、現在のコドシュ岬の先は、バガ岬とリア岬を過ぎてから、かつての旧ラズィカ、当時のニコプスィアに至る。本書ではすでにこれをノヴォミハイロフスキーに置いている。ヘラクレイウス岬から旧ラズィカまでの距離は、アッリアヌスでは。120スタジオン、5世紀の無名の記入者は、これをヘラクレイウス岬からバガまで10スタジオン、バガからリアまで80スタジオン、リアから旧ラジカまで120スタジオン、合計では210スタジオン、倍近くの数値になる。コドシュ岬からノヴォミハイルスキーまでの地図上の距離は、約26キロメートルに過ぎない。この間の合計が120スタジオン約30キロメートルとするのが、無名の記入者の真意ではあるまいか。このように仮定するとノヴォミハイロフスキーの南東の海岸上6km程にあるのはオリギンカだが、北から海岸沿いに海流に乗りつつ南南東に進んできた船は、ここからほぼ東西の海岸線に合わせて舵を左に切らなくてはならない。これが「左」の意味ではなかろうか。現在のグリャズノヴァ岬である。一方、バガ岬についてはアゴイ近辺であろうと推定はできるが、具体的な場所を推定できなかった。ヘラクレイウス岬はソチとトゥアプセに1つずつある、というのは、ヘラクレイウス岬は英雄ヘラクレスが大地を両手で引き裂いた名残であるから同じ場所に2つあるのが自然であろう。黒海とヘラクレスの関係について、ヘロドトスは黒海沿岸のギリシャ人の伝承として、「ゲリュオネウスの牛を追いながらヘレクレスは、現在スキュティア人の住む、当時は無人の地方へきたという。ゲリュオネウスの住んでいたのは黒海の外で、「ヘラクレスの柱」を出て大洋に望みガディラに相対する、ギリシャ人のいわゆるエリュテイアの島(「赤島」)を棲家にしていたのである(松平千秋訳)」。地中海と黒海の西の出口にあるものを東の出口にも見つけようとしたのである。

プトレマイオスのラズィカあるいはタズィカを5世紀の増補者は、当時ニコプスィアと呼ばれたと記している。同地を調査したロシアの考古学者は、ノヴォミハイロススキーのドゥズカレ城址をニコプスィアに結びつけている。

 アッリアヌスの地名表に旧アカエイがあり、プトレマイオスの地名表には、アカエイ町があったが、5世紀にこの町はトプスィドと呼ばれていた。トゥアプセの地方史家にはトプスィドをトゥアプセの古称と信じる人々も多いが、行程の観点からトプスィドはトゥアプセにはならない。そもそもこの地名は、この無名氏のテキストにだけ、しかもただ一度出て来るだけである。

 ドゥズカレ遺跡看板 「考古学的遺跡 ニコプスィア要塞 ドゥズカレ 紀元5-7世紀政府管理 管理区域 200x200M」と書かれている。

ドゥズ・カレ要塞遺跡(出典ウイキメディア・コモンズ

 

 5世紀、沿黒海地方では大ソチのシャヘ(あるいはアシェ)川を境界にして、ジキ人とサニギ人が住み分けていた。サニギ人の領域はシャヘ川から南はハシュプセ川(あるいはプソウ川)までであった。ジキ人の領土はゲレンジック以南で、今ノヴォラシースクがあるツァメス湾周辺とタマン半島にはゴート系住民が住むようになった。沿黒海地方で以前に存在した種々の種族は、ゴート系住民、ズィキ人、サニギ人の3集団に統合された。

青銅器後期に北アブハジアと同一の文化圏に入っていて、ヘニオキややサニギをはじめとする多くの種族の住む地域であったソチは、古典時代末期ギリシャ人の集落やギリシャ人やローマ人が利用する港や船泊があり、現地の人々の生活もギリシャとローマの影響を受けていた。紀元前1世紀、ソチの住民であったヘニオキ人はポントス王国に従属あるいは友好関係にあり、前1世紀は4人の王がいた。紀元114世紀に小アルメニア(

 

ユーフラティス川以西のアルメニア)行幸中のトラヤヌス帝がヘニオキ人とマヘロン人の王アンヒアルの貢を容れ、莫大な答礼の品を与えて帰国させた(ディオヌス・カスィウス)が、この王は、トラブゾンを治めていた集団であったと思われる。紀元2世紀には、沿黒海地方北部でトレタイ、ケルケタイ、アカエイなどの種族名称が姿を消してズィキに統合されたが、黒海沿岸地方南部の大ソチでもサニギ人がシャヘ川(あるいはアシェ川)からブズィブ川あるいはハシュプセ川までの地域を制圧した。6世紀にアナトリアのカエサリアで生まれたプロコピウスは、彼らの南では、今日の北アブハジアにアバスグ人の、スフミ地方にはアプスィル人の勢力圏が形成された。c

第2章 沿黒海地方史の始まり

第2節 ソチのアブハズ王国領時代