第5節 ロシア革命とソチ

 第1項 ソチの2月から10月まで

 二月革命直後クバンや沿黒海では急激な政治的動きはなかった。クバンでは長官兼官選アタマンのバービチ(ミハイル・パヴロヴィッチ、1844-1918)が臨時政府支持を表明し、新政府支持者層と協調して現状の維持を図った。しかし、クバンでもまた黒海県でも戦争継続に反対する集会やデモ行進が始まった。28日にイェカテリノダルで革命派の集会がもたれ、左翼3派からなる指導部が選出されて、3月2日にイェカテリノダル労働者代議員ソヴィエトが組織された。これは同月8日のイェカテリノダル労働者兵士コサック・ソヴィエト成立に発展した。同様の動きはノヴォロシースク、アルマヴィル、マイコプ、ゲレンジク、トゥアプセ、そしてソチでも見られた。革命派の動きに対応してカデットは5日、臨時政府を支持するイェカテリノダル国民委員会、公共安全委員会を組織した。バービチ将軍もこれに呼応して3月8日カデットの影響の強いクバン州国民委員会を招集、同委員会はクバン州臨時執行委員会を設置し、地方にも組織を拡大した。臨時政府はクバンに第四期選出国会議員バルディジュ(コンラド・ルキッチ、1868-1918)、同じく沿黒海県にニコラーエフ(ニコライ・ニコライヴィッチ、1872-1957)を人民委員として任命して監督に当たらせた。4月16日クバン地方ソヴィエトが招集されたが、コサック、農民、チェルケス人の間の利害の調整がつかなかった。そこで翌4月17日、コサックは単独で議会(ラーダ)とコサック軍臨時統治府を樹立した。クバンにおいて臨時執行委員会の権威は都市部に止まり農村部では従来のコサック村落自治体制が存続したが、7月9日人民委員バルディジュは臨時統治府がコサック軍に留まらずクバン州全体の統治機関であることを宣言した。8月には山地ソヴィエトおよび山地委員会が設立された。9月20日ウラジカフカースで第二回山地民連盟大会が開催されて、ロシア連邦の一部として自治権を持つ構成体の設立が主張された。同月コサック大会でコサック議会が州の統治権を持つことが宣言された。10月17日、コサックの他に農民と山地民も加えたクバン議会が、11月にはクバン地方政府が成立した。政府の指導者ブイチ(ルカ・ラヴレンチヴィッチ、1870-1945)はクバン自治拡張派であったが、クバン・コサック軍アタマン・フィリモーノフ(アレクサンドル・ペトロヴィッチ、1866-1948)は単一ロシア派だった。両者の角逐の結果10月革命後の1918年1月28日クバン議会は、ロシアの一部としてのクバン人民共和国の樹立を決定した。北コーカサス全体としては旧暦1917年10月2日に臨時政府支持派の南東同盟(コサック軍カフカース山地民及びステップの自由民の南東同盟)が組織された。議長はドン・コサック軍アタマンのカレーディン(アレクサーンドル・マクスィモヴィッチ、1861-1918)が務め、政府はイェカテリノダルに置かれたが、1918年の初めに自然消滅した。

  12 写真 1917年春から秋にかけてのソチの政治集会。画面左側の丸い枠のなかには、「解放せよ、彼を留めよ」とある。左側の大きな旗には、「鉄道会社従業員同盟」とある。男性参加者の大部分は背広を着、女性も正装である。労働者や農民その家族ではないと思われる。男性の帽子は季節を反映してかメッシュのものが多い。

https://sochi.scapp.ru/wp-content/uploads/post/2017/12/3mrUpJHkit4.jpg(https://sochi.scapp.ru/Marina_Kolyvanobva,Put' svoboden,khranite ego:Kak Sochi vstretil sobytiia 1917 goda?所収)

 一方、ボリシェヴィキは臨時政府に反対であった。10月革命後、内陸部のクバン地方南部諸都市では続々とソヴィエト政権が樹立され、赤衛部隊が組織された。1918年1月17日にはクリムスクでクバン各地の革命委員会やソヴィエト政権の代表者が集まってクバン軍事革命評議会がつくられ、イェカテリノダルを奪ってソヴィエト権力を樹立する方針が決定された。また2月1日アルマヴィルでクバン・ソヴィエト大会が開かれ執行部が選出された。この結果、4月13日クバン人民共和国と同じ場所にクバン・ソヴィエト共和国が設立された(議長はコサックのヤン・ヴァシーリエヴィッチ・ポルヤン、1891-1937)。沿黒海地方でも状況は同様で、11月23日ボリシェヴィキの主導下、ノヴォロシースクに黒海県労働者兵士代表ソヴィエト大会が開催され、25日大会はソヴィエト政権を承認した。続く同月30日には県中央執行委員会が選出され権力を掌握した。トウアプセでは早くも11月3日ソヴィエト政権が建てられたが、ソチではボリシェヴィキは多数派ではなかった。

 革命後、直ちに流刑先からボリシェビキのポヤールコがソチに帰還した。彼は労農代表者ソヴィエト執行委員、ソチ赤衛隊人民委員を歴任務め、1918年には、黒海沿岸防衛臨時本部代表を務め、アブハジアにボリシェヴィキ政権を樹立する為に努力した。国内戦終了後の1921-1922年にはソチ労農赤軍兵士ソヴィエト代議員会執行委員会議長を務め、1922年死亡したが、彼の名はソ連期は勿論現在もソチの英雄として讃えられている。1905年ホスタで市の社会民主労働者党グループの指導者であった作家ウーソフも国外から帰国したが、当面はソチではなくジュブガに落ち着いた。

 二月革命の直後、3月1-3日には、ソチにおいても社会民主労働党の公然の活動が始まり、党員およびシンパ募集の宣伝活動が行われ、3月には古参党員5名を含む20名の規模に達した。ポリャールコが帰還するとソチでも徐々にボリシェヴィキ、メンシェヴィキ間の路線対立が明らかになってきたが、分裂することはなかった。彼らは3月にソチ管区労働総同盟を樹立して、鉄道建設労働者を初めとする職種別単組を参加に入れ、4月には農民と帰還兵に集中的にオルグを行った。ホスタの土地なし農民と貧農は、集会を開き、政府に土地の分配と土地の大規模な売買の禁止を要求した。第1回メーデーは最高の盛り上がりを見せた。更に、5-6月にはペトログラドから第27鉄道建設大隊が勅任したので、ボリシェヴィキの統制は強まり、社会民主党員は6-7月にボリシェヴィキだけで、200名程に達した。

 この間、ソチ市議会は1912年に選出された旧態依然としたもので、1915-1917年の人口10,860人中、有選挙権525人、有被選挙権者309人に過ぎなかった。10月に実施された最後のソチ市会議員選挙では、社会革命党が第1党(12議席)、社会民主労働者党(3議席)、人民の意志派(3議席)、地方自治自由党(3議席)が続いた。議長には社会革命党のアルメニア人テル-グリゴリヤン(S.Ia)が就任した。10月革命の直後、メンシュヴィキとエスエルが多数派だった市議会の下に軍事革命委員会が組織され、10月29日、赤衛部隊の支持のもとに権力集中が実現した。赤衛部隊兵力は年末で100名程であった。1918年1月9日、革命委員会は、既に秋くちには成立していたソチ労働者兵士ソヴィエト代議員会執行委員会からエスエルとメンシェヴイキを追放し、ソチ市に於いて全権力はボリシェヴィキに集中した。市議会とソヴィエトの間には、現金不足や警察解散問題が対立の原因となったが、市議会は2月ごろには無力化したので、大きな混乱はなかった。

 1月28-30日に第1回管区労働者兵士農民ソヴィエト大会で代議員が選出され、執行員会が形成されて、ソチ市に続いてソチ管区にもソヴィエト政権が成立した。さらに3月10-13日トゥアプセで黒海県第3回ソヴィエト大会が開かれ、黒海県は黒海ソヴィエト共和国として、ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国RSFSR(1936年までの名称。以後はロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国RSFSR)に加わった。更に5月30日、クバン、黒海両ソヴィエト共和国の合同ソヴィエト大会が開かれ、両共和国の合同が決定された。さらに、同共和国は7月6日北コーカサス・ソヴィエト共和国に吸収された。

  13 写真 ソチ管区革命執行委員会(ヴェーラ荘にて)中列左端のほう杖をついている人物が、ポヤールコであろうかhttps://ngsochi.com/images/2017/10/Sochi_Revolution_004.

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 2項 義勇軍の前進

 二月革命によって帝政が崩壊し、臨時政府が樹立されたが、戦争は継続していた。1917年5月には、ケーレーンスキー(アレクサンドル・フョドルヴィッチ、1881-1970)が陸軍大臣に、7月には首相に就任し、国民総動員令を発布して、ドイツに勝利することを計画したが、戦線は崩壊してロシア兵は続々と持ち場を放棄し、ドイツ軍が前進した。これを見た最高司令官コルニーロフ将軍(ラヴル・ゲオルギエヴィッチ、1870-1918)は、保守派と結んで権力を掌握する動きにでた。この軍部クーデターは、臨時政府とボリシェヴィキとの協力によって阻止された。首謀者コルニーロフ将軍は十月革命後、南ロシアに逃亡し、アレキセイイェフ将軍(ミハイル・ヴァシリエヴィッチ、1857-1918、ニコラーイ二世の武官長、元臨時政府陸軍最高司令官)と共に義勇軍(所謂、白衛軍)を組織した(アレキセーイフが政経部門の指導者、コルニーロフは総司令官、アレクサンドル・セルゲイヴィッチ・ルコームスキー(1868-1939)将軍が参謀総長、アントン・イヴァノヴィッチ・デーニキン(1872-1947)将軍が第一師団長、セルゲイ・マールコフ(1878-1918)将軍が第一将校連隊長でこれが全てで、総員3,000人)。1918年2月、子飼いのコルニーロフ突撃連隊を率いたコルニーロフ将軍の部隊がロストフナダヌーからクバン地方に前進した(第一回クバン遠征、別名「氷の遠征」)。義勇軍はコサック議会(ラーダ)の支持を受けにも拘わらず、イェカテリノダルを落とすことはできず、突撃連隊は1,200人中1.133人が戦死した。また、将軍自身も赤軍の砲撃に遭って戦死した。義勇軍の総司令官はデーニキン将軍に替わった。さらに同月ノヴォロシースクのボリシェヴィキは前線から撤退してきた部隊をクバン戦線に投入、3月14日に地域の革命勢力はイェカテリノダルを占領してクバン・コサックのラーダ(議会)をクバン川の北に追い出した。ラーダは已む無く義勇軍と合流した。しかし、同年8月、デーニキン将軍の義勇軍がクバンに進入し、8月17日にイェカテリノダルを占領した。赤軍はクバン東部に撤退したが、北コーカサスにおける赤軍優位の状況に変化はなかった。

 3項 ソチとイスタンブル

 アブハジアのスフームでは諸勢力によって1917年3月8日に市公共安全委員会、続いて管区安全保証委員会が設置された。5月、地元ボリシェヴィキ(指導者、エフレム・アレクソヴィッチ・エシュバ、1893-1939)はメンシュヴィキとの協力関係を破棄、労働者・農民を組織し、農村部では農民の土地占拠が起こった。しかし、7月2日にスフーム市議会選挙が実施され手見ると、メンシェヴィキが勝利した。11月8日アブハジア民族議会が組織され、同議会は管区安全保証委員会、オザコム、山地民連邦中央委員会の権限を承認した。旧ロシア帝国カフカース現地人師団第二チェルケス人連隊のアブハズ騎兵中隊(定員100)が、この武装組織を構成した。南東同盟の活動開始(11月16日)を前にして、アブハジア代表団はウラジカフカースで連邦協定に調印した。一方、グルジア人との関係においては、1918年2月9日アブハジア民族議会議長ヴァルラム・アレクサンドルヴィッチ・シェルヴァシヅェ(1888-1957)とトビリスィのグルジア民族評議会アカキ・チヘンケリ(イヴァノヴィッチ,1874-1959亡命先のフランスで死亡)の協議で将来のアブハジアの領土はムズィムタ川からイングリ川までであることが了承された。将来のという含みは、当時ガグラはスフームではなく、ソチの属領だったからである。イングリ川は後のアブハジア自治共和国の南限でもある。一方、ボリシェヴィキは1918年2月のスフーム労働者兵士ソヴィエトの選挙に勝ち、水兵の援助を受けてスフームを奪取しようと試みたが、成功せず2月21日撤退した。3月第2回農民大会が開催された。ボリシェヴィキは指導者ラコバ(ネストル・アポロノヴィッチ、1893-1936、ソ連時代グルジア共和国アブハジア自治共和国人民代議員会議々長を務めた)を副議長に選出させたが、指導部を選ぶ選挙には敗退したので一斉に退場した。大会は農民執行委員会を選出、これは労働者兵士ソヴィエトと合同した。スフームからドランダへ撤退したボリシェヴィキは新たな反乱を計画し、3月にガグラとグダウタを占領、4月には1,000-1,500の兵力を動員してスフーム管区の大部分を占領した。管区革命委員会が作られ議長にはエシュバ、副議長にはラコバとアタルベコフ(ゲオルギー・アレクサンドロヴィッチ、1891-1925、エチミアヅィン生まれのアルメニア人、スターリンやベリヤ同様の処刑を楽しむタイプの人物であったと言われる。後にソ連邦ザカフカース連邦郵便電信人民委員に就任)が就任、武装兵力は赤衛隊300人、ロシア兵の特殊部隊、アルメニア人パルチザン部隊140人(マイコプからアルメニアに向かう途中の者)を擁した。5月これにソチとアブハジア農村部からの増援部隊が加わり、メグレリ地方でボリシェヴィキ主導の反乱が起こったが、鎮圧され、首謀者はアブハジアに逃走した。

 ザカフカース連邦政府は沿黒海地方をボリシェヴィキの巣窟であると見做し、ついにコニエフ(コニシュヴィリ)将軍の鎮圧部隊を派遣した。更にアジャリア戦線に余裕ができたので、ヴァリコ・ジュゲリの国民防衛隊強襲部隊をスフームに動かした。スフームを占領したボリシェヴィキは、ジュゲリ将軍のアブハズ人の増援騎兵隊の反撃を受け、5月7日スフームを捨て、21日ガグラに撤退した。この時、旧アブハズ大公の後継者で、アブハジア民族評議会の指導者の一人でもあるアレクサンドル・シェルヴァシヅェ(1867-1968)は、騎兵150人を伴ってジュゲリのもとにはせ参じ、必要な兵力はいくらでも集めることができると協力を申し出たが、ジュゲリは「グルジア民主共和国は十分に強力なので、領主の助けは要らない」と尊大に答えた。グルジアでは1918年5月26日、ドイツの支援によってメンシェヴィキ主導のグルジア民主共和国が誕生したばかりであった。アレクサーンドルはこれを侮辱と感じ、当時まだオスマン軍占領下にあったバトゥームに赴いてトルコに接近することになる。このアレクサンドルは革命までサンクトペテルブルグの劇場で舞台美術の仕事をしていたが、やがてやがてディアギレフの招きでパリへ行き、ロシア舞踏団でその仕事を続ける。大勢の美術家と親交を温めたと言われるが、筆者が知っている名前はパブロ・ピカソだけである。ジュゲリの返答は確かに尊大であったが、彼が社会民主労働者党に属する革命派幹部であったとすると当然のようにも思える。この国民防衛隊は前年グルジア民族議会の衛兵隊として出発してまもなく赤衛隊と改称するが、この当時は国民防衛隊と称していた。国軍とは別の武装集団でナチス・ドイツのSS、イランの革命防衛隊などに相当する。議会の機関であったので、事実上与党メンシェヴィキ党の軍隊であった。グルジア民主共和国では、防衛隊は兵員数、予算、装備、待遇等の面で国軍より優遇されていて、最終期国軍の倍の24大隊を擁し、国軍に見劣りするのは戦闘能力だけであった。ジュゲリがその成立から解散までの全期間、部隊の指揮官であった。6月にジャマルベク・マルシャン率いる移住アブハズ人部隊がアナトリア北東岸からコドリ川河口近くに上陸するが、そこはアレクサンドルの領地であった。コニエフ将軍麾下のグルジア軍は南西国境におけるトルコ軍の前進に対処するためにアブハジアから撤退したので、アブハジアはアブハジア民族議会の管理下に委ねられていた。蜂起に失敗したボリシェヴィキのエシュバは、ソチ、トゥアプセ、イェカテリノダルの党組織に援軍を求めた。ソチには「黒海沿岸防衛臨時本部」が置かれていたものの保有兵力は僅かで、しかも市内で反乱の心配があったので、本部は先ずソチを包囲して武装解除を要求したがこれには失敗した。ソチ管区では住民に武器を配布して、トルコ軍やドイツ軍の上陸に備えた動員を実行しようとしたが、実際に攻撃があったらその時にという留保付きで承認された。現地の農民はたとえボリシェヴィキ支持者であっても、展望の見えない戦闘には参加したがらなかった。万策尽きたエシェバがイェカテリノダルとモスクワの上部組織に救援を依頼すると、6月になってマイコプとラビンスキーで総動員がかけられて2個連隊が組織された。しかし、その内一個連隊は動員を拒否したので解体された。ボリシェヴィキはガグラにクバン黒海野戦司令部を置き、ソチで略奪を行った。その結果として地域の武装解除もできたが、住民の反ボリシェヴィキ感情は高まった。また、動員を受けた農民は戦線にいる敵は上陸が懸念されていたトルコ軍ではないことを知って戦意は低下した。ソチ管区執行委員会はエカテノダルに停戦の請願に行ったが、その使いはスターリンの古い仲間で腹心のセルゴ・オルジニキヅェに怒鳴られ、嫌なら銃殺するぞと脅された。

  14  写真 執務中のマズニエヴィリ将軍(撮影年代不明)

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 6月11日、アブハジア民族議会(第2期、グルジアに対して融和的)とグルジア政府の間で新しい協定が結ばれ、グルジアはボリシェヴィキとの戦いのためにアブハジアに軍隊を派遣することが承認された。同月19日、アブハジア総督ゲオルギ・マズニアシュヴィリ(ギオルギー・マズニエフ)将軍(1872-1937年)の部隊がスフームに到着した。わずか歩兵4個中隊と砲兵中隊1個、飛行機3機、輸送車両のみであった。マズニエシュヴィリは日露戦争従軍者で、第1次大戦中は西部戦線に従軍、二月革命後は退職してグルジアに帰国して自ら第2師団を組織した。同年4月にはブレスト・リトフスク条約を無視してバトゥームに向かって前進中の優勢なオスマン軍第3軍第5コーカサス師団をチョロフ川上流のイスピル近辺で撃破した英雄だった。スフーム派遣軍正規軍500人には、アブハジア民族議会の騎兵300人が加わった。反乱分子掃蕩を命じられたマズニアシュヴィリはスフーム北西のノーヴイアフォンでボリシェヴィキを破り、敗走する敵を追って、6月25日ブズィブ川を渡河、28日にはガグラを占領した。ソチを目の前にしたアブハズ民族議会は、同月24日それまでの3ヶ月間ボリシェヴィキの巣になっていたと称してソチ占領を決定した。3,000人の部下を率いてクリミアから転戦してきたドイツ派遣軍司令官フォン・クレッセンンシュタイン将軍(フリードリッヒ・フォン-クレセンシュタイン、1870-1948、スエズ戦線でアレンビー将軍の英軍と戦う。回顧録『私のコーカサス・ミッション』の著者)は、政治的理由からグルジア軍のソチ占領に反対であったが、その理由はドイツはコサックを味方につける方針であったのでグルジア軍のロシア領進入は不都合であるということであったから、ソチ占領はグルジア人の意志ではなくアブハジア人の決定であるという形式がつくられた。ただし、アブハジア人騎兵隊は途中で解散した。6月28日にトルコからカラチャイを目指すと称した800人(人数については異説有り)のマルシャン麾下のアブハジア人トルコ移民部隊がコドリ川沿岸に上陸、グルジア政府の武装集団と戦闘状態に陥ったことは考慮しなければならない。グルジア政府は武装解除と武装集団のトルコ帰還を要求したが、少なくとも一部で戦闘状態に陥り、掃討戦は8月まで続いた。スフームの南で、大公家の後継者アレクサンドル・シャルヴァシヅェの領地があり、上流に北コーカサスに抜ける峠があるコドリ川流域には、6月アブハジアに移動したクバン・コサック部隊が投入された。コサックは略奪、破壊、強姦を欲しいままにした。また、別の在外アブハズ人の一隊が上陸したグダウタでも、同様のことが行われた。特にポチの警察署長であったクプニア大尉はアアツイ村で住民の大量虐殺を行った。この二つの事件はレオン・トロツキーの著述でよく知られているが、詳細はアブハジア政府の公文書として残されている。

 マルシャン部隊は名目上は同年4月にオスマン帝国が独立の承認を行った北コーカサス山岳共和国へ向かうとされたが、アブハジア自体が山岳共和国の一部であると予定されていたし、スフームは予定された同国唯一の港湾であった。同年3月13日南コーカサス3地域(そのときの「ザカフカース」セイム、後の3共和国)代表は、オスマン帝国との和平協議のためにアナトリア北東のトラブゾンに赴いた。トルコ側全権代表は当時海軍軍令部長、後に大国民議会で首相に選出されることになるアブハズ人でプスフの山地民アシュハルア氏出身のフセイン・ラウフ=ベイ(1881-1964年)であった。ラウフ=ベイ・アシュハルア(同年10月には海軍大臣に昇進したので、一般的にはラウフ=パシャと呼ばれ、オルベイは新制度による姓である)の父親メフメット・ムザッファル=パシャも提督である(チンチェという氏であるというが、チチンChychynであれば、北アズハジアのブズィブの住民である)。この時山岳共和国の代表ハイダル(ガイダル)・バンマトフ、アブドルメジド(タパ)・チェルモイェフ、ムハンマド-カーディー・ディビロフも陪席した。山岳共和国代表はこの後、イスタンブルへ赴き、4月1日皇帝メフメット5世に拝謁を許され、青年トルコ党政権の代表エンヴェル=パシャ、タラト=パシャらとも会談した。オスマン帝国とザカフカース・セイムの交渉は4月14日に占領されたばかりのバトゥームに移される。5月8日、山岳共和国はオスマン帝国による保護が約束されたたのでこれを受けて独立を宣言し(5月11日)、直ちにオスマン帝国の承認を受け、ドイツ帝国の承認もこれに続いた。

 

  15 写真 トラブゾンにおける北コーカサス代表とオスマン政府のチェルケス人要人   https://www.facebook.com/601168563580907/posts/924379757926451/中央にディビロフ向かってそのがラウフ=ベイ、ディビロフの右にバッマトオフ。右端チェルモイェフ、左端はテミルハノフか。(『ハルブ・メジュムアスィ』35-25号、393頁)。山岳共和国のトラブゾン会議出席者はオスマン政府との条約に署名しているチェルモイェフ、バンマトフ、ディビロ三名であるとされるが、その他にアリハン・カンテミル(オセット人、1886-1963)とクムク人のズバイル・テミルハンノフ(1868-1952、後にソヴィエト政権に参加)も出席した。そのことは、トルコ人の研究者チェリクパラ氏が指摘している(『北コーカサスの共通アイデンテテ探求』イスタンブル、2002年、87頁註)。

 オスマン帝国に移住したチェルケス人、ウブイフ人、アブハズ人ら北コーカサス出身者の内、指導者層の紐帯は宮廷や地域・家族間で緊密であったようであるが、20世紀の初めまで社会全体を組織しようとする動きは低調であった。しかし、いわゆる「青年トルコ革命」が起こされ、宮廷政治が停止された後の1908年8月、イスタンブルではイマーム・シャーミルの息子ガーズィー・ムハンマド邸に多数のコーカサス出身者やその子孫が集まり、「チェルケス人統一相互援助協会」が設立された。ここでチェルケスというのは広義で、ソチにも住んでいたアディグ人、ウブイフ人、アバザ人、アブハズ人を含んでいて、ダゲスタン人も排除されなかった。総裁は文官でチェルケス(アドィゲ)語アルファベットの考案者アフメド・ジャワド=パシャ(ウブイフ人トヘルヘト氏)、事務に後の弁護士・教育者のアフメド・ヌリ(ツァゴ、ヌリ・アイテコヴィッチ・ツァゴフ、1888-1935)、大会議長は陸軍元帥のフワド=パシャ(1835-1931年、ウブイフ人トフゴ氏)が務めた。パシャの父でやはり陸軍元帥であったハサン・レフェト=パシャ(1795-1901年)はソチのトフゴ(「黄色い尾根」)というところで生まれたが、叔母がスルタン・メフメット2世の家庭教師シェキル・エフェンディ(セイエド・メフメット・シェキル・エフェンディ、1764-1836)のもとに嫁いだのが縁で宮中に出仕し、昇進の道を歩むことになった。だから、彼の人生は大追放の時代の人々とは大いに違う。彼の氏族であると言われるドフゴあるいはトグアは、確かにウブイフ人の姓にはあるが、貴族の家名表などにはなく、紋章も知られていない。同家の興隆はレファトの能力によるところが大きいであろう。フアドは1877-8年の露土戦争で戦功を上げ、戦後元帥に昇進し、スルタンの側近に加えられた。また、外交手腕も評価され、ロシアやオーストリア・ハンガリーの大使を務めた。協会は機関誌『グアゼ』を発行するなど協会の啓蒙・女子教育・文化活動はオスマン帝国に住むチェルケス人に対して一定の成果を上げたとされるが、ロシアからのコーカサス解放についても議論を進めた。更に、政権奪取後、反マイノリティー政策を進める青年トルコ党政府に対しても存在感を示すことができた。

  16 写真 グルジア人レギオン・ラズ人部隊。当初レギオンの本部はトラブゾンにおかれラズ人の参加も勧められた。しかし、この写真の戦闘員の約三分の一は子供である。

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 第一次大戦直前の1914年8月にエンヴェル=パシャは、医療援助を口実に北コーカサスの事情調査と反露工作の為に「チェルケス衛生使節団」を組織し、フアド=パシャをその代表につけた。コーカサス作戦を予見し、人道的慈善的活動を通じて当地の人々の間に反ロシア気運を醸成するのが目的であった。開戦後の11月26日に内務省は秘密裏にロシア領に潜入してパルチザン戦を行うことができるラズ人およびチェルケス人の募集を行ったが、政府はこの任務遂行のためにフセイン・トスン=ベイを国家電報局Osmanlı Ulusli情報局の長官に命令した。この組織の活動を見た駐コンスタンチノプル、ドイツ帝国大使ワンゲンハイムは、オスマン政府を通さず直接、フアドおよびアヴァル人でイマーム・シャーミルの乳兄弟ムハンマド・ファズィル=パシャと会見し、対ロシア戦争勝利後はカフカースにドイツの庇護下の連邦国家を樹立させることを提案した。これを受けたフアド等は翌1915年9月「コーカサス独立委員会」を設立し、12月にはドイツ・オーストリア=ハンガリー使節団を組織した。団長はフアド=パシャ、団員はアバジン人アズィズ=ベイ・メケル、陸軍衛生総監のアヴァル人イサ・ルヒ=パシャ、南コーカサス代表としてグルジア人のギオルギ・マチャベリ公(グルジアやロシアの貴族制度ではヨーロッパやそれにならった日本のような、公侯伯子男のような階層はなかったので、全てがクニャズあるいはタヴァダであった。但し、ロシアでは男爵、伯爵のような外国起源の称号も用いられた)とカミル=ベイ・トギリヅェ、アゼルバイジャン人セリム=ベイ・ベフブトフが加わった。アズィズ=ベイ・メケル(1877-1941年)はクバン地方バタルパシャ区ベビルド・(アバジン語ではビバルクト、1929年にエルブルガンと改称)アウルの生まれであった。低地アバジンの王侯ビィベルド家の領地である。バタルパシンスク(現ロシア連邦カラチャイ・チェルケス共和国の首都チェルケスク)で初等教育を受けたが、世紀末に家族とともにアナトリア北西部にあって同胞の多いカラシェヒルに移住した。1890年ごろ北コーカサスのムスリムに再びオスマン帝国移住の機運が高まり、1898年ツァーリはラビン区とイェカテリノダル区の現地人3,000人に自費移住を許可した。1890年には実際に900家族が移住した。許可を受けなかったバタルパシャ区5ケ村約5、000家族の住民は、一旦は移住を拒否されたが、1894年にオスマン帝国に代表団を送って受け入れを請願し、1895年には598家族が移住した。この移住に関するロシア側の文書の関連村落名表にはビベルドの村名がないが、勿論集団によらない通常旅券による出国も可能である。アズィズ=ベイはイスタンブルのリセで勉学を続けた後、フランスへ留学して、農学を修め、帰国後はコンスタンチノポリス農業大学(アカデミー)で教職についていた。メケル家は同地の名門貴族で、一族には教育家でカージーであったウマル・メケーロフ(1847-1891年)がいた。ウマルはイスタンブルでアラビア語、コーラン、教学を学んで帰国し、1869年に村のカージーになるとモスクを建て、そこにマクタブを併設して子供たちにアラビア語と宗教を教え始めた。1870年にロシア政府は「異族人(現地人)教育規則」を改訂して、母語による世俗の現地人教育が可能になるようにするが、ウマルは1879年に私財を投じて自分の学校を60人の児童が生活できる寄宿学校にした。アジズも最初はウマルに教えられたのであろう。

 ギオルギ・マチャベリ(1885-1935年)はグルジア中央部シダ・カルトリ地方の領主で家名にちなんでサムチャブロと呼ばれる旧領邦の当主であった。ギオルギはベルリンの鉱山専門学校を卒業後も帰国せずグルジア独立運動に専念していた。1918年のグルジア独立後はイタリア大使に就任したが、1920年グルジアが赤軍に占領されると妻と一緒に渡米、ニューヨークで香水製造業を始めた。社名は「プリンス・マチャベッリ」(イタリア風にエルを二つ、マカベリと誤読されることもある)で、最初の製品は女優であった妻(イタリア人)の名を付けた「プリンセス・ノリナ」および「グルジア女王」、「アヴェ・マリア」であった。プリンス・マチャベッリ社の異国情緒と貴族趣味にあふれた製品は、品質と価格においてニューヨーカーの心をとらえた。さて、ギオルギはドイツの影響下にある「グルジア独立委員会」(1914-1918年)の一員であったが、この組織は後にアナトリア北部海岸のサムスン、後にギレスンに活動の本部を築き、グルジアの革命勢力と連絡を持ったが、メンシェヴィキには相手にされなかった。また、ドイツの援助で「グルジア人部隊(レギオン)」を組織したが、タラート一派の疑いを招き、解散せざるをえなかった。部隊はベルリンで編成され、数百人の兵士がドイツ軍と共に祖国に凱旋した。この計画のドイツ側責任者は外交官でトビリスィ(チフリス)領事であったシュレンブルグ伯爵であった。彼は1934-1941年の間第三帝国のモスクワ大使であったが、1944年、ヒットラー暗殺計画(7月20日)に加担した咎で、絞首刑に処された。もう一人のグルジア人は名前からムスリムであると知られるが、この人物については他に情報がない、トビリシの古文書館に「グルジア人イスラム教徒、イズミル出身のキアミル・ドギルザデと書かれた撮影年代不明の一枚の写真があるが、同一人物かどうかは判断できない。

  17 写真 グルジア人レギオン幹部(撮影年次場所不明、掲載文献情報不明)1.ネストル・マガラシュヴィリ、軍団参謀長、委員会会員、イスタンブル代表。2.ズィ(ア)・ベイ・アバシヅェ、グルジア委員会会員。ズィアの本名は、フセイニスヅェ・サンジャクベイシュヴィリ。生没年1875-1932。社会連邦党員、第一次ロシア革命後、アルハンゲリスクに流刑、逃亡してヨーロッパで独立運動に従事。1921年から、5年間ロストフに追放。3.ポルピレ・グヴシアニ。4.セルゴ・ラバヅェ、機関銃部隊長、5.シャルヴァ・ツェレテリ、グルジア軍団尉官、6.アフメド・デヴィヅェ、7.レオ・チュコニア、8.アレクサンドレ・ツゥアガレイシュヴィリ、9.コスタ・イネサリヅェ、10.メメド・ベイ・アザバシュヴィリ、11.ラブ(レンチン)・マンジャヴィヅェ中尉。https://en.wikipedia.org/wiki/Georgian_Legion_(1915%E2%80%931918)#/media/File:Georgian_Legion_WW1.jpg

 グルジア、アルメニアと並んで1918年5月に独立したアゼルバイジャン民主(あるいは人民)共和国は、パリ和平会議に代表団を送ったが、そのなかに外務省職員サレム・ベフブドフなるものがいた。彼がこのサレム=ベイであろう。彼は旧カラバフ・ハン領の貴族(ベイ)ベフブドフ家の人であろうか。当時イスタンブルには、南コーカサス東部(今日のアゼルバイジャン)からの亡命者アリ・ヒュセインザデ(1864-1940年)、アフメド・アガオグル(トルコ風の発音ではアーオウル、1869-1939年)等が活動を行っており、アガオグルは1915年「ロシアにおけるチュルク・タタル人ムスリム権利擁護委員会に参加、翌1916年には活動の枠を「ロシア基幹民族同盟」に拡大した。「トルコ化イスラム化ヨーロッパ化」というスローガンの発案者ヒュセインザデも1915年から翌1916年の間ヨーロッパに旅行をしている。彼らは「統一と進歩」党(通称「青年トルコ党)のタラート・ジェマル・エンヴェル一派の同調者で、ロシアにチュルク人の国家を建設する構想を抱いていた。ドイツ皇帝ウイリアム2世はアラブ圏ではハーッジ・ギリヤムとして知られ、ロシアのイスラム教徒の反乱を煽動する計画を実行し、ムスリム捕虜の組織化に着手していたが、ドイツの庇護下の連邦制がコーカサスのパンチュルク主義者の意にかなったとは思えない。パンチュルク主義者にはオスマン帝国との合同こそ肝心だからである。むしろ、ヒュセインザデ同様ドイツ、オーストリア・ハンガリー、スイスに運動の保護者を求めて旅行中のクリム・タタル人ユセフ・アクチュラ(1876-1935年)、ガージー・アブドゥルラシッド・イブラギーモフ(1857年西シベリアのトボルスク生まれ、1944年東京で死亡、日本ではガリムジャン・イブラギモフとして知られる。日本に亡命したタタール人に関しては、松長昭氏や小松久男氏、三澤伸生氏らの研究がある)のグループは、1916年5月ウイルソン・アメリカ合衆国大統領に「ロシア・ムスリムの権利」請願電報を送るのである。

 このようなロシア革命史の重要人物たちが会見・協議を行うが、結局北コーカサス・グループは南コ―カサス人達とは意見の一致が得られなかった。グルジア人キリスト教徒のマチャベリはグルジアの独立を求めるだろうし、グルジア人イスラム教徒やアゼルバイジャン人(この時はまだアゼルバイジャン人という自称は一般的ではなかったが)の中でもパントルコ主義者アガイェフ、ヒュセインザデのグループはオスマン帝国との統合を求めたであろう。結局フワド=パシャの組織は、1916年1月「北コーカサス政治亡命者委員会」と名称を変更してドイツとの協議に臨むことになった。委員会はドイツ帝国およびオーストリー・ハンガリー帝国の首都を歴訪した後、世界諸民族連盟第3回大会に出席するためにスイスのローザンヌへ向かう。出席者はフアド、アズィズ、イサーに加えて、アヴァル人のセイイド・タヒル(1957年没)、アドイグ人イスマイル・ビダヌク、クムイク人アフマド・サヒブ・カプラン、ソチ出身のウブイフ人シャミル・シュハプリであった。フワド=ベイはこの世界諸民族同盟に有用性を認め、ジュネーブに代表部を設置してシャミル=ベイを滞在させ、ヨーロッパでチェルケス人の存在を宣伝させた。1919年にフランス語で出版されたメケルの『チェルケシアにおけるロシア人』(ベルン)はその成果の一つであろう。

 この国際会議の前後、フワド=パシャとアズィズ・メケルはウラジーミル・レーニンと会見している。レーニンは1915年スイスに亡命、1916年2月にベルンから、チューリッヒに移動し、1917年4月に封印列車に乗り込むまでチューリッヒに住んでいたが、この時はわざわざ大会が開催されたローザンヌへ行ったのだろうか。レーニンはメケルという姓に聞き覚えがあったかもしれない。上述のウマル・メケロフの長男とサンクト・ペテルブルグ大学同年入学であるからだ。レーニンは夙に少数民族の自決権を主張してきたが、更に革命成就の暁には移住者の帰国許可を約束すると明言した。当時、レーニンは懐不如意で、彼と妻が住んでいたアパートはソーセージ工場の近くで、ひどい悪臭に悩まされていた。かって、銀行強盗で稼いだ資金をせっせと送金していたスターリンは流刑中で、生活費は故郷の老母が年金だけでは足りず、それまで住んでいた持ち家家を売ってまで、送金していた。フワド=パシャはレーニンに資金の提供を申し出たであろうか?同じころ、レーニンはアクチューリンのグループとも数時間にわたって会談をしているが、こちらのグループは旅費の工面に苦慮する有様であったから、レーニンに資金を提供することは無理だったろう。

 ところが、フワド等の努力も虚しく、大会出席や各国政府との交渉の効果はなく、国家創設の問題についての委員会の活動は閉塞期に入った。目標達成は連合国の勝利を前提にしていたのであるから当然であろう。しかし、在イスタンブル、チェルケス人の政治活動は外部勢力にのみ依拠していたわけではない。協会はすでに1915年、オスマン政府にチェルケス民族軍の創設を建白している。これは帝国陸軍内諸部隊に分散しているチェルケス人の将校および兵士約6万人を一つの組織に統合し、コーカサス解放委員会の指揮下に置くというものである。民族軍諸部隊は1916年2月までにトラブゾンに集結し、ロシア領進軍を待つというものであった。一見すると検討に値する主張のようにみえるが、コーカサス戦線に配置されたオスマン帝国陸軍第3軍は、開戦時こそ11万6千8百人の人員を擁したが、同年末エンヴェル=パシャの無謀な作戦が原因でサリカムシュで大敗、兵士2万人を失い、戦況の一層の悪化に伴い1915年には兵員6万人までに減少していた。更に1916年1月にはキョプル・コイの戦闘で大敗し、兵員は2万5千人にまで減少した、この献策には軍首脳部の一部と「特務隊(タシュキルマフスサ)」に支持されたのみであったが、1916年には第3軍の後退のため民族部隊編成の時宜は失われた。第2の案は1916年夏ベキル・サミ=ベイ(1865-1933)を通じてイスタンブルのドイツ軍代表部筋にドイツ人将官指揮下の「チェルケス人外人部隊」(レギオン)創設し、直ちにコーカサス戦線に派遣することが提案された。しかし、ドイツ政府はこれはオスマン政府と対立の原因になると考えた。グルジア人外人部隊(レギオン)の場合と同じである。

  18 写真 ラズ人民兵(1908年ごろ、撮影地トラブゾン州リゼ)

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_nc_ht=scontent-sjc3-1.xx&oh=489e6c3799452efce58da641e3a7a806&oe=6179D7F7(着色絵葉書)

https://pbs.twimg.com/media/ESwJODOWoAE8Gbf?format=jpg&name=small(白黒写真)

 オスマン帝国のベイルート知事オセット人のサミ=ベイは、1914年6月、軍事大臣エンヴェル=パシャに文書で、開戦の場合はコーカサスで住民の反乱を起こさせることの必要性を具申していた。そのような任務は特務部隊が行うはずであるが、実際にアジャリでは反ロシア反乱がおこった。1914年10月ロシアの調査機関の報告によると、トルコ側国境に武装したグルジア人マハジル、ラズ人ルがシャイフ・アスラン=ベク・アバシヅェのもとに集結を続けていると報告した。開戦の前日には11月1(14)日には、約5,000人に達した。彼らは直ちにロシア帝国領に前進し、ボルチカ、アルトヴィン、アルダヌチを占領した。ロシア軍はアルダハンに撤退するか、チョロフ川右岸に移動した。国境近くの現地人ムスリムは、オスマン軍に協力して、物資の輸送などに当たった。翌年3月に撤退するまでには、上アジャリアは占領され、ボルチカの銅山は放火され、周辺の村落は略奪を受け、アルトヴィンとアルガヌチではアルメニア人に多額の金品を要求し、多数のギリシャ人集落が放火され、撤退に当たっては多数の現地人住民を帯同した。しかし、アスラン=ベクの部隊は山林の多い上アジャリアでは成功したが、バトゥム防衛の拠点ミハイロフスク要塞を奪う事は出来なかった。アスランベクの活動は、前進するオスマン軍を助けて側面からロシア軍を牽制する陽動的役割を果たした。また、彼らが実施したアルメニア人、ギリシャ人に対する焦土作戦こそ、1915年4月から実行されたアルメニア人とアッシリア人に対するジェノサイドの試金石ではなかったのではないだろうか。このアジャリア人アスラン(1877-1924)は、かってバトゥムのサンジャクベイであった家柄に属して父親はイブラヒム。兄メフメット(1873-1937)はグルジア・メンシェヴィキの活動家であった。アスランは第一次ロシア革命期の1905-1907年軍事反乱を起こし、失敗後イスタンブルに亡命して、軍事教育を受け、1917年に将軍として帰国した。アバシヅェ兄弟の活動はかって長くオスマン帝国の支配下にあったので、イスラム教徒の多いアジャリアとグルジア民主共和国を結びつける鍵であったが、1921年グルジアが赤軍に占領されるとアスランは再びイスタンブルに亡命した。

  19 写真 アスラン・アバシヅェ(Abashidze,Aslan.,Adzhariia,Moskva,1998

 ベキル・サミ=ベイの提案はアジャリアにおいては、非常に現実的なものだったが、彼の最後の提案は、彼がケマル政権の外相であった1920年、対ソ連交渉の時に提案された「オセチア・西アルメニア交換」案で、オセチアを独立させる代わりに西アルメニアをロシアに割譲するというものであった。これはグルジア民主共和国が存属すれば、あり得ない提案ではなかったかもしれない。オセチアは大国との国境を持つからである。しかし、ロシア革命の展開はこの状況を変えた。

 チェルケス人についても同じである。ドイツ大使館の調査では当時移住チェルケス人の80%が即時帰国を希望していたという。レーニンはローザンヌでの約束を果たすために、フルンゼ将軍(ミハイル・ヴァスィレヴィッチ、1885-1925)をトルコに派遣した。情報相トスン=ベイ(ウブイフ人)と将来(1922-3年)の首相ラウフ=ベイにチェルケス人移住者の子孫のコーカサス帰国の希望を訪ねた。彼らはトルコは国情安定し豊かであるので、アディゲイ人とアブハズ人には帰国の希望がないと答えたという。このエピソードは、メケルの『コーカサスにおけるロシア人』、ベルン、1919(原文フランス語)のロシア語訳の書評に本文中にこのようにあるとしてこのエピソードを添えているのだが、筆者はまだこの部分を見つけていない。しかし、それにしてもフルンゼ将軍がアンカラを訪れたのは1921年の11月(フルンゼの訪土については、山内昌之『中東国際関係史研究』、岩波書店、2013年、697-706頁)であるから、1919年出版のこの本にそのような記述があるというはの勿論あり得ない。フルンゼ自身は旅行記『アンカラ紀行』を記していて、1922年1月、アンカラに近いスングルルから、黒海岸サムスンの港までの帰路ほとんど連続していたというチェルケス人の村々を訪ねてた。「村々には今でも流暢にロシア語を話す老人がいる。彼らは我々を驚くほど歓迎して迎えた。代金は一切取りたがらなかった。ただ革命についてはあらかたの人々は聞いていた。彼らはロシアの特にクバンとテレク地方の状況に興味を持っていて、ほとんどどこでも、煽動的宣伝にもかかわらず、変革の真意を直感的とらえていた、その為ソヴィエト・ロシアとの関係は大変良好であった。ロシアを覚えているあらゆる老人がロシアに好意的だった。『何だって!』彼らは言った。『ここは、いったい、生活かね。何も聞こえん。何も見えん。畜生同様に住んでるんだ』彼らの大部分は特に老人は故郷に戻ることを夢見ている。新しい秩序を見て、難民の言うことが自分でも確かだとわかるように、絶対に誰か身内の者をやっりたいと思っている」しかし、「彼らは本格的に住み着き、豊かな財産を持っているので、それは観念的な夢である」。と断定している。フルンゼの判断は、隠された意図があれば別だが、楽観的な一般化であろう。北コーカサス人と言っても何か月も徒歩でカルスの税関までたどりついたチェチェン人やカバルダ人もいれば、2-3日歩いて当時オスマン領だってバトゥミに入ったジケティ人もいた。またソチの人々にとってサムソン、トラブゾンとの海の往復は造作もないことであった。また、経済的にも温暖なマルマラ海南部に移住した人々と中央アナトリアの冷涼なシヴァスの高原に入植した人々とも帰国の願望は違ったであろう。ここでフルンゼが「チェルケス人」と呼ぶのが誰であるかは不明だが、アブハズ人に関して言うのであれば、帰国は「観念的希望」ではなかった。1910年よりパリ刊行の『ムスルマン』誌などで、グルジア人を含めたモハジルの窮境報道や彼らに対する帰国の勧めが掲載されるようになり、二月革命後のコーカサスでは各種の大会でトルコで困難に遭遇しているチェルケス人を救済するべきであるという発言もなされた。1920年にトルコ在住のアブハズ人の有力者マルシャン及び有力者マルガリアの名前で、グルジアの在イスタンブル大使を通じて帰国を請願している。これはグルジア政府によって無視されたかあるいは正式に拒否された。さらに、1923年9月23日付けで、ギリシャに住むアブハズ人700人の帰国が申請された。かれらの帰国が成就されたのは1931年になってからであった。この集団の代表者はハリス・ダリクア・マルシャンで、アブハジアのネストル・ラコバ閣僚会議議長に「4年前、閣下がコンスタンチノプルとアンゴラに来訪されたとき、我が民族が被っている困難な状況は御招致になられたと存じます。15年も続いてトルコ人とトルコ政府はトルコ化の為に非トルコ人とあらゆる他の民族、まず最初にチェルケス人を移住させてきました。今も証言によれば自分の村に住んでいる者を1-2家族と(ばらばらに)トルコ人の村に拡散して住み移らせています。我々にとってアナトリアは日に日に住みにくくなっています。我々の望みは祖国に戻り、我々の祖父が立ち退いた土地をみつけ同胞と共に暮らすことです。ソヴィエト政権にアナトリアに住んでいる我々の兄弟姉妹たちが我々の父祖の地であるコーカサスに戻ることを請願する次第です」と認めているが、ギリシャにいたアブハズ人はチェルケス・エトヘムの協調者で、1921年、撤退するギリシャ軍とともにギリシャに移住した人々であった。これ以前にモハジェル・アブハズ人の帰還がなかった訳ではなかった。スフームには多数の帰還移住者がいた(1909年8月31日付報告)。スフームの帰還者も旧住地帰還は許されず、国有地を借地することが許可されただけであった。これは歴史的故郷に帰国を希望する在外アブハズ人の極く、一部であったが、アブハジアの法的地位が1931年2月までのグルジアとの同等の立場の同盟による自治共和国から、従属的立場の自治共和国へ変換されてから、スターリン批判まで、在外アブハズ人とアブハジアとの交流は不可能になった。1923年では、トルコでも弾圧が始まる年であった。この年9月政府はチェルケス人友好相互援助協会と学校の活動を禁じた。協会の文書保管室と図書室は破壊された。各地のチェルケス人地域ではトルコ語学校も閉鎖された。同時にチェルケス語の村名のトルコ語化が始められた。公共空間での民族語の使用、民族服の着用は強く規制された。エーゲ海南岸の30ケ村(ウブイフ人はバリクヒサルに多かった)5,800人が東部のヴァン、ディヤルバクルに追放された。いわゆる第三次強制移住である。これに続く翌、1934年には創氏改姓法が発布され、非トルコ語姓の使用は禁止された。この年、新憲法が公布され、「一国家、一民族、一言語」を標榜する独裁政権は言語化された。1927年の国勢調査では、全国で95,901人がチェルケス人として登録したが、ヴァン県とディヤルバキル県あわせて9人がチェルケス人と登録されているだけである。5,791人分はどこかに消えてしまった。それでも、9人は登録変更を拒否したわけである。(ここで「わたしゃ、誰がなんと言おうと、絶対にチェルクケス人だと」という言葉が。アニメのちびまる子の声で聞こえてきた。)

 帰国を望んだ集団の希望はかなわなかったが、個人的に帰還し、地域に受け入れられた人々はいた。革命前祖国に移住した啓蒙および教育活動家は、ハルン・トレツェルク(1879-1938)、イブラヒム・ヒゼットル(1960年没)、ヌリ・ツァコ(1888-1935)、ハフィズ・ザカリア・ベスレネイ(生没年不明)等だが、もっとも有名であったのは、トレツェルコで1911年に篤志家のグループととも北コーカサスに移住し、父祖の地で、アラビア文字を改良したチェルケス文字の普及、国語教育をおこなった。革命家の列につながったユースフ・スアド・ネグチの例は後で述べるが、彼もまた元来教育者であった。さて、スフームやクバンには帰還者がいたが、ソチではどうでったろうか。ソチ中央区のお台場山東側の谷間はトルコ谷という名だが、谷の出口の旧灯台の東南に当たる斜面には、第一次大戦まで、トルコ人が住み着いていた。彼らは貧しく、賃仕事で生活していた。服装はトルコ人のものであったとはいうが。どのような人々であったのだろうか。

 第4項 ドイツ、オスマン両帝国のコーカサス分割政策

 ロシア軍優位のコーカサス方面の戦況は、ロシア10月革命によって変わった。10月革命がおこると、指導者レーニンは即時停戦を主張し、ドイツおよびオーストリア・ハンガリーおよびオスマン帝国と単独講和交渉に入り、西部戦線では12月15日休戦協定が成立、オスマン帝国とは、同月18日、エルジンジャンで休戦協定が結ばれた。この協定に基づきロシアの革命政府が、ロシア軍占領地の内、西アルメニアに関して、発布した命令は以下のようなものである。「人民委員会議(人民委員は閣僚に相当、同会議は閣僚会議、同議長は首相にあたる)はアルメニア民族に宣言する。ロシアの労農政府はロシアによって占領されたトルコ領アルメニアのアルメニア人の独立を含めた完全で自由な自己決定権利を支持する。人民委員会義は、この権利はアルメニア民族の国民投票の為に絶対的に必用な一定の保証という条件のみにおいて可能であると考える。人民員会議はそのような保証とは、1)トルコ領アルメニアからの軍隊の撤退とトルコ領アルメニア住民の生命と財産の安全を保証するための早急のアルメニア人人民警察の創設。2)アルメニア人避難民、およびトルコ領アルメニアから移住し諸国に居住するアルメニア人移民の自由な帰還。3)戦争中にトルコ政府により強制的にトルコ領アルメニアの区域内から、トルコ内部に移住させられたアルメニア人の自由な帰還。4)民主的手続きで選出されたアルメニア人の代議員の議会の形をとったトルコ領アルメニアの臨時民族政府の組織。コーカサス担当臨時人民委員ステパン・シャウミャンには、第2項および第4項にある事項に関して、トルコ領アルメニアの住民にあらゆる援助を行うことができる。トルコ領アルメニアからの軍隊の撤退の期限と条件に関する混合委員会に着手することができる(第1項)。註 トルコ領アルメニアの地理的境界は、民主的に選ばれたアルメニア民族の代表と隣り合った争いのある(ムスリムおよびその他)との民主的な代表との合意によって、コーカサス担当臨時人民委員共同で決定される。人民委員会議議長、ウラジミール・ウリヤノフ(レーニン)、民族問題人民委員イオスィフ・ジュガシヴィリ(スターリン)、官房長ボンチ-ブルエビッチ、閣僚会議審議員ニコライ・ゴルブーノフ」。しかし、この布告のあるなしにかかわらず、ボリシェヴィキの宣伝によってロシア兵は戦線を離脱して帰国の途に付き、エルズィンジャンからヴァンに至る広大な西アルメニアを護るアルメニア人部隊は僅か、3個師団に過ぎなかった。

  20 地図「トルコ領アルメニア」とバトゥム・アルダハン・カルス

https://www.wikiwand.com/en/Occupation_of_Western_Armenia(旧オスマン・ロシア国境を挟んで、北の黒海側にバトゥム地方、アルダハンとカルス地方、トラブゾンあるいはポントス地方、南側内陸部に所謂トルコ領アルメニアのエルゼルム地方と同じくヴァン地方、)。

 ロシア軍は条約の定めに従って占領地域からの撤退を開始したが、オスマン帝国の第3軍司令官ヴェヒップ=パシャ(アルバニア人)は、停戦ラインに関する条項を守らず前進を続け、開戦前の国境を突破しバトゥーム、アルダハン、カルス(オスマン帝国では1877-1878年の露土戦争でロシアに割譲したこの地方を「三県(エルヴァー・セラーセ)」と呼んで、現在わが国における北方領土同様な扱いをしていた)に迫った。3月3日、ブレスト=リトフスク条約によって、コーカサスの露土国境は、開戦時のものとされたが、バトゥーム、アルダハン、およびカルスについては住民の意志に委ねられた。さらに、オスマン帝国は追加的な要求を承認させるために、南コーカサス・セイム代表を3月14日から4月12日、トラブゾンに招集した。オスマン政府はザカフカース・セイムに独立国として新国境と追加的条約を締結することを要求した。セイム代表はブレスト=リトフスク条約を承認していないことを主張したが、オスマン側の最後通牒に押されて一旦帰国し、4月22日に南コーカサス(ザカフカース)民主連邦共和国として独立を宣言した。オスマン政府は独立国としての南コーカサスと条約を結ぶために5月11日-26日バトゥームに講和会議を招集した。オスマン側は南コーカサスを半植民地とする内容の和平条約締結を求め、5月30日を受諾の期限とした。しかし調印を待たず5月26日、グルジア人はドイツの庇護下にグルジア民主共和国として独立した。ドイツとグルジアは、5月28日、事実上ドイツのグルジア軍事的占領を許す内容のポチ(秘密)条約を結び、6月1日に小人数の分遣隊をスフムに、6月3日、3,000人をポチに上陸させた。上陸部隊はクレス-フォン-クレッセンシュタイン大佐の第7バイエルン騎兵旅団(第29バイエルン歩兵連隊第7および第9猟兵大隊、教育大隊、1個機関銃分遣隊、第176迫撃砲中隊)であった。更にシリアから転戦した第217歩兵師団で増補された。最終的にグルジア派遣ドイツ軍はグルジア人外人部隊(レギオン)を加えて、3万人程に達した(ドイツ軍のグルジア派兵の過程にはついては、専門の研究書・論文を参照する必要がある)。グルジア独立の報を受けたバトゥーム会議オスマン側代表メンテシェ・ハリール=ベイ法務大臣(前外務大臣)は激怒し、バトゥームを占領したばかりの第3軍司令官ヴェヒップ=パシャはポチとクタイスィを占領するといきり立ち、アレクサンドロポリ(ソ連時代の名称レニナカン、現在ギユムル)の第36カフカース師団をチフリス方面に前進させた。6月10日、同師団はヴォロンツォフカ(現在、アルメニアのタシル)でドイツ軍を攻撃し、兵士将校多数を捕虜にした。一方当事者である山岳共和国政府はドイツ軍のスフム上陸についてグルジア政府に抗議し、その旨を文書でドイツ政府代表シューレングルに通達した(13日付け)。オスマン政府は6月5日、対処のためにエンヴェルをバトゥームに派遣した。

  21 ビデオ エンヴェルのバトゥーム派遣。エンヴェルはアブドゥル・メジド二世の王子シェフザデ・オメル・ファルク(1898-1969)を同行させた。王子はドイツに留学し、陸軍近衛第一連隊に在籍していた。エンヴェルはこの王子を次期スルタンに推戴することを目論んでいた。なお、エンヴェルの妻ナジイェ・ハノムの父方の祖母は、ソチ南端リアフの旧領主オスマン=ベイ・リアフの娘であり、母親アイシェ・タルザン・ハノムは、祖母がアチバ家、父方はアブハズ人バルガンイパ(マルシャン族のバガルカンイパ家のことであろうか?ソチ東部のマルシャンはバガルカンイパである)氏の出である。

Tarihihttps://www.trt2.com.tr/tarih/tarihin-ruhu/tarihin-ruhu-or-enver-pasa-ve-sehzade-omer-faruk-efendinin-batum-ziyareti-or-41-bolun Ruhu ' Enver Paşa ve Şehzade Ömer Faruk Efendi'nin Batum Ziyareti ' 41.

Bölüm

 グルジアがザカフカース連邦を離脱し、グルジアに続いて、親オスマン帝国のセイム・ムスリム会派も5月27日、アゼルバイジャンとして独立を宣言したので、残るアルメニア人会派もアルメニアとして独立の決定をした。ドイツ、オスマン両国の駆け引きの前に、ザカフカース民主連邦共和国は一か月で崩壊したのである。オスマン帝国がザカフカース連邦と予定していた友好協力条約は各共和国と個別に結ばれることになった。

 1年近くも続いていたザカフカース・セイムとオザコムによる地域支配が崩壊したので、オスマン帝国は南コーカサス3か国其々に有利な条件で講和を押し付けることができた。さらにオスマン軍には北コーカサスに対しても前進する可能性ができた。きっかけは山岳共和国指導部の来訪であった。山岳共和国(北コーカサスおよびダゲスタン山岳共和国)はトラブゾン会議に招集を受けたわけではなかったが、チェルモエフ(タパ、アブドゥルメジド、チェチェン人、1882-1937、後に首相を務める)、バンマトフ(ガイダル・ナジュムディンノフ、クムイク人、1889-1965、後に外務大臣を務める)がトラペゾンド会議に現れて、オスマン帝国代表を驚かせた。山岳共和国代表は出席の理由を将来ザカフカース連邦に参加する計画があるからであると答えた。二月革命後、設立された北コーカサスおよびダゲスタン(後にアブハジアが付け加えられる)山地民族同盟は、10月革命後、反ボリシェヴィキの立場から地域政権を目指して、11月山岳共和国を宣言し、ロシア南西同盟やテレク共和国と同盟を結んだ。しかし、1818年3月8日、首都オルジョニキヅエ(ウラジカフカス)を奪われ、政府首脳はチフリスに亡命した。ここでトラブゾン会議の情報を得たのであろうか、バトムに赴いた代表チェルモエフとバンマトフはオスマン帝国代表から好意的に受け入れられ、イスタンブルに送り出されると、5月1日にはスルタン・メフメト5世に拝謁を許され、政府首脳とも会談することができた。

  21 写真 イスタンブルに於ける北ーコカサス山岳民族共和国の代表(1918年5月11日イスタンブル)画面前列中央左がバンマトフ、同右のチェルケス服がディビロフ、バンマトフの左にチェルモイェフ、ディビリフの右にラウフ・ベイ、後列左から二番目がアフメト・ヌリ、左から三番目の小柄な男がヒュセイン・シャプリ、中央がメット・ユースフ・イッゼト=パシャ、右端がバキル・サミー、2人目がエミル・マルシャンであろうkuzeykafkasyacumhuriyeti.rg/

tarih/kuzey-kafkasya-cumhuriyetinin-bagimsizlik-ilani.html

 一連の状況は、この時まで山岳共和国の方ではオスマン帝国の援助を期待しておらず、オスマン帝国のコーカサス政策にも山岳共和国に対する視点が欠けていたことを示すであろう。それにも拘わらず、在コンサスンチノープル、チェルケス人有力者の反応は早かった。また「統一と進歩」党、および政府の対応も迅速だった。山岳共和国の代表団がまだスルタン、メフメット5世のお目通りも許されない前の4月、チェルケス系民族運動活動家は新しい組織「北コーカサス協会」を設立した。立役者は諜報関係のトップ、ソチ出身のヒュセイン・トスン=ベイとこれもソチ出身の名声高いフアド=パシャであった。政府内で高い地位にあった官僚と軍人たちが彼らに続いた。ベキル・サミ=パシャ(本人はチェルケス人のつもりでいるようであるが、父親はオセット人でロシア陸軍の少将ムサ・クンドゥホフ1818-1889で、ベキルは1885年父とともにアナトリアに移住した)、フセイン・カドリ=パシャ(1870-1934、「統一と進歩党」中央委員会委員、ウブイフ人シャプフリ氏)、イスマイル・ジャンブラト=ベイ(1880-1926、アドィゲ人ハトコ氏、1918年に内務大臣就任)、メフメト・レシト=ベイ(青年トルコ運動創設者の4人の中の一人、1873-1919、マイコプ北北西50kmのブジェドウグ・ハブルに生まれ、翌年オスマン帝国へ移住。1864年の移住の時北コーカサスに残留したブジェドゥグとアバヅェフの一部は、1872年秋、翌1873年春に個人的にオスマン帝国に移住する許可を求めていた。ジャンブラトもこの時家族と共に移住したのであろう。陸軍医学校を卒業して、軍医となった。1915年のディヤルバクル知事在任中には、多数のアルメニア人、アッシリア人、ヤズディー教徒を虐殺し、被害者の財産である大量の貴金属を横領し、それを元手に首都で不動産を購入した。コンスタンチノープルを占領した英軍に逮捕され、逃亡に失敗して自殺した。ドクトル・アフメト・レシト、チェルケス人アフメトなどと呼ばれた)、ユセフ・イッゼト=パシャ(元帥、ウブイフ)、アフメト・ハミディー=パシャ(元帥)、ロフ・アフメト・ハミディー=パシャ、1871-1935)、アフメト・ファウジ=パシャ(元帥)、イサ・ルヒ=パシャ(元帥、アヴァル人)、ヒュセイン・ラウヒ=ベイ(海軍大佐、同年海相に就任、アブハズ)、イスマイル・ハック=ベイ(1890-1954、中佐、アドィグ人ベルクク氏)、アズィズ=ベイ・メケル(アバジン)等がここに参集した。この団体は政府機関ではないが、事実上党、政府と一体の組織で、政府が財政的支援を行い、山岳共和国代表団と政府組織や民間の社会団体や報道機関との関係調整を行った。同時に政府上層部にロビー活動を行うことができた。エンヴェル=パシャは共和国を支持することを保証し、5月11日在府の各国外交団に山岳共和共和国が独立し、オスマン帝国は独立を承認し、必要な援助を与えることが発表された。翌12日山岳共和国は軍事援助を要請し、その要請は受け入れられ、軍事大臣エンベル=パシャはオスマン軍の北コーカサス遠征準備を命じた。

  22 写真 エンヴェル=パシャの肖像 教科書などによく掲載されているものである。不安気な眼差しと力のない顔の輪郭。それを無理に隠そうとするカイゼル髭。写真を見るだけでもこの夢想家を信頼すべきでないことが明らかであろう。アメリカの歴史家デイヴィット・フロムキン(1922-2017)は、エンヴェルを「彼は実の無い、もったいぶった男で、制服、勲章、肩書が大好きだった。公式文書に押印するために、彼を全イスラーム軍司令官、カリフにして預言者の代理人の婿としている金製の印鑑を注文した。まもなく、彼はトルキスタンの太守(エミル)と自称するようになった」と書いている(『あらゆる平和を終わらせるための和平』1988、ニューヨーク、487頁)。彼の顔つきは端正であると言えるがそれはチェルケス人の母方祖母から来るもので、母違いの弟ヌリ=パシャの風貌は普通のトルコ人である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9

5%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ismail_Enver.jpg

 第5項 オスマン帝国東方派遣軍の再編成

 コーカサス南西部におけるパワーバランスの変化とその東部におけるアゼルバイジャンおよび山岳共和国という親オスマン国家の誕生は、コーカサス方面に展開していたオスマン帝国陸軍諸部隊の再編制の理由となった。まず、6月10日、新たに第9軍とコーカサス・イスラーム軍を創設して、もともとあった第3軍と合わせて東部方面集団軍とし、コーカサス東部とイラン北部に配置した。新第3軍には第10、第37各コーカサス師団を残し、旧第3軍から第9、第11、第36コーサス師団を新第9軍に動かして、更に、第12、第15チャナッカレ歩兵師団を加えた。コーカサス・イスラーム軍には旧第3軍から第5コーカサス師団(師団長ミュルセル=パシャ)が転属、されに第15歩兵師団を強力させた(筆者の手元には部隊編制の変転を詳細に伝える文献がなかったので、古い研究ではあるが、アレンとムラトフの『コーカサスの戦場』によっている)。コーカサス・イスラーム軍には正規軍の他に現地アゼルバイジャン政府の武装集団、ダゲスタン人の民兵などが加わって、兵力は総数1万数千名になった。当初、コーカサス・イスラーム軍司令官には公然のトルコ人嫌いヴェヒップ=パシャが予定されたが、ヴェヒップの飲酒癖を口実に撤回され、替わってエンヴェルの異母弟ヌリー=ベイが指名された。当時、オスマン政府の南コーカサス(ザカフカース)政策には三個の案があり、第一案はヴェヒップらのブレスト=リトフスク条約に忠実に対処すべしとするもの、第二案はタラート=ベイ(後にパシャ)らの南コーカサスから可能の限りの領土を切り取るとするもの、第三案はエンヴェルらの全コーカサスを併合すべしとするものであった。ヴェヒップの任命は、エンヴェルの野望実現には都合が悪かったことになる。そこで北イラクのモースルで大佐として軍務についていたヌリー=ベイは、任務に相応しくパシャを名乗る事が出来る将官に昇進させられた後、3月に任地を出発し、クルディスタンのラヴァンドゥズ、サヴチャブラクを経由して、5月9日イランのタブリーズに到着、月末にはアゼルバイジャンの臨時首都ギャンジェに到着した(リチャード・ホヴァネシアン)。この日付自体は正しいと思われるが、では「コーカサス・イスラム軍」組織の計画はいつ建てられたのであろうか。ヌリー・パシャには政治顧問として汎トルコ主義者のアフメト・アーオウル(アガイェフ)とアリ・ヒュセインザデが同行していた。

 

  23 ビデオ 着の身着のままでオスマン兵から逃げるアッシリア人の家族イラン小児医学の父ムハンマド・ガリーブ(1905-1975)は1914年家族と共に巡礼のためにキャルバラへ向かう巡礼団(当時メッカ巡礼団がアラブ人盗賊団に襲撃される危険があったので、イラン人はメッカにかえてイラク西南部のキャルバラへ巡礼することが多かった。キャルバラはムハンマドの孫フセインがウマイヤ朝の軍勢によって攻め殺された殉教の場所である)に加わっていた。アッシリア人の男たちが銃殺される現場を目撃していた一行は、国境でオスマン軍の迫害を逃れようとするケルマンシャーのサルマースのアッシリア人家族をみつけて彼らを匿う。テレビ・ドラマ『ガリーブの物語』第18(ParsiFilm2youtubecom/watchv=ZjwQ5HfBOyc&t=432s)。なお、この巡礼は已む無く中止された。

 

 さて、新しい人事の続きである。ヴェヒップ=パシャを東部方面軍集団総司令官に昇進させ、新第3軍総司令官にはヴェヒップの弟メフメット・エサット=パシャ・ビュルカト(18

62-1952年、第5軍司令官)を充て、新第9軍司令官にはヤクプ・シェヴキ=パシャ(旧第3軍第2コーカサス集団司令官)を昇進させた。しかし、ヴェヒップはヴォロンツォフカの戦闘のあと首都に召還され、後任にエンヴェルの伯父クト・ハリール=パシャが任命された。エンヴェルの巧妙な人事手法が窺わられる。このハリールは1915年にビトリス、ムシュ、バヤジットでアルメニア人とアッシリア人を殺し尽した犯罪者で、1918年には北イランでそれを再現した。ヌリーと言えば若干洗練されていて、1918年9月15日のバクー占領に当たっては、誰のイニシャティブによるものか不明であるが、3日間麾下の正規軍を一部を除き入城させず、アルメニア人とロシア人に対する殺人強姦強奪等はアゼルバイジャン人やダゲスタン人の不正規兵に任せた。兵士の3日間の自由行動は、イスラーム文化の伝統である。但し、アゼルバイジャン新政府は、後日加害者の処罰を実施したことを明記したい。なお、第三軍が1918年4月、バトゥムを占領した際、アルメニア人住民は恐慌状態となり、可能な人々は全て避難したが、避難のすべがなく已む無く市内に残った人々に対して不法な行為が行われることはなかった。ヴェヒップ=パシャの人徳に因るのかもしれない。

  24 ビィデオ オスマン帝国陸軍コーカサス・イスラーム軍の前進

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 肝心の山岳共和国に対しては、遠征準備の開始命令後、6月にアゼルバイジャン経由でダゲスタンに「組織大隊」が派遣された。司令官はイスマイル・ハック=ベイ中佐(ベスレネイ・チェルケス人のベルクク氏出身)を筆頭に副官ミトハト=ベイ大尉(ウブイフ人シュハプリ氏)とムザッファル=ベイ大尉(アブハズ人アチバ氏)、スレイマン・イッゼト=ベイ(チェルケス人アバヅェフ族ツエイ氏)、ジェミル・ジェヒド=ベイ(ウブイフのトヘルヘト氏)、アキフ=ベイ(出自不詳)や他の将校、下士官もチェルケス人組織の活動家であった。カドイルバイェフ(ロシア科学アカデミー東洋学研究所)は、ここにあるようにムザッフェル=ベイをアブハズ人であると述べているが、トルコ人のアルティムル・キリチ氏は「私の父の母はアブハズ人で貴族アチュバ家の出のものです。父の兄弟ムザッフェル・キリチは完全なチェルケス人です」と語っている。イスマイル・ハックの先遣部隊は派遣先がダゲスタンであったにも拘わらず、上級将校には一人のダゲスタン人も加わっていないという事になる。彼らは後から到着する北コーカサス軍の先遣部隊であった。大隊は共和国代表部があったグルジア、チフリスに赴任し、アゼルバジャン経由でオスマン帝国から帰任したコツエフとジャバギエフと軍事作戦の詳細を協議した。イスラーム軍司令官ヌリー=パシャは、将校74人、兵士577人からなるこの部隊をシェッキ、アフトイ経由でダゲスタンに出発させた。イスマイル・ハックは6月21日ギュニブ村に司令部を置いた。イマーム・シャーミルが最後の防衛戦を戦い、最後にロシア軍に降った山村である。彼らは直ちに住民にボリシェヴィキとの戦闘に加わるように布告を出した。既にヌフ・ベク・タルコフスキー、サフォロフ大佐の部隊が加わっていた。東部方面軍から独立した北カフカース軍は、司令官歴史家のユースフ・イッゼト=パシャ(メット・ジュナトゥコ、チュナトコ)が8月29日にバトゥームに着任、共和国代表部があったグルジアのチフリスを経て、10月5日には山岳共和国政府首班チェルモエフと共にバクーに到着。10月9日には第15歩兵師団(師団長は上述組織大隊将校スレイマーン・イッゼト=ベイ)4,000人とダルギン人アリー・ハーッジ・アクシンスキーの部隊がダルバンドを占領し、チェルモイェフが共和国成立の宣言を行った。同29日テムルハンシュラー(現在のブイナクスク)、10月30日ポルト・ペトロフスク(後にマハチカラと改名)を占領し、山岳共和国の支配下に編入することになる。ユースフ・イッゼト=パシャ(メット・ジュナトゥコ、チュナトコ)は、山岳共和国におけるオスマン政府の外交・軍事分野の代表を務めることになった。

   

  25 写真 デルベントで記念写真を撮る第15師団幹部。前列中央が師団長スレイマン・イッゼト・ツェイである。https://www.sanattanyansimalar.com/images/haberler/2020/05/kafdaginin-ardindan-bir-bey-oglu-33.jpg

 

 第6項 アブハジア上陸作戦

  25 写真 スレイマン・ブガンバ(左)とルシュトゥ・ブガンバ

https://i.pinimg.com/736x/17/f4/0f/17f40f15de8eac198751ff8fb47b3881.jpg

スレイマンが着ているチェルケス風のコートは、「チェルケス人騎兵連隊(1880-1900)」の制服であったと思われる。帽子には星と三日月の徽章がついているはずである(https://scontent-sjc3-1.xx.fbcdn.net/v/t1.64359/104152509_2703519866559627_3955022931311853875_n.jpg?_nc_cat=101

&ccb=1-5&_nc_sid=2c4854&_nc_ohc=pW6ugfAIoYgAX_YDuIh&_nc_ht=scontent-sjc3-1.xx&oh=

d7b089a7ccfe42995e835430c68be7f5&oe=6179B889)。

 このような状況下でアブハジアに派遣されたのが、ジェマル・マルシャンらの率いる小部隊だった。先ず、1917年末、スレイマン・ブガンバと仲間達が密かにアブハジアに渡航し、アレクサンドル・シャルヴァシヅェ、タタシュ・マルシャン、イヴィジュ・タクイ、ステパン・カツバ、ネストル・ラコバらアブハズ独立派の活動家達とグルジア・メンシュヴィキに対抗する方法について方法を協議した。ここで何が決定されたかは不明だが、ブガンバはスレイマン・コバシュ・ブガンバで、彼らの居住地はマルマラ海の東の端、タイルで有名なイズミットとやや内陸で有名な古戦場サカリヤの間のセラジヤ(コバシュ・コイ)であった。ブガンバの生年はいまのところ(筆者には)不詳だが、1920年に撮影された写真では、すでに初老の域に達している。経歴も不明だが家族と思われるリュシュトと共に取られたこの写真では、経歴の明らかな軍人であったリュシュトが軍服を来ているのに対して、スレイマンは私服である。ブガンバ家はアブハジア北部山地のツェベルダ地方の出身で、1877-1878年の露土戦争後に追放になった人々であった。ブガンダのグループはトルコに帰国後義勇兵の募集を始めたた。政府特務庁(「テシュキラト・イ・マフスサ」)に宛てた日付のない上申書では、ジェマル・サミー・マルシャンとオメル・ミトハト・マアンが北コーカサス協会員として、戦闘部隊派遣の申請を行っている。アブハズ人の貴族タタシュ・マルシャン(1935年没)は1917年留学中のイタリアからイスタンブル経由で帰国し、アルクサンドル・シャルヴァシヅェ、スィモン・バサリアらと共に同年11月のアブハズ国民議会設立や独立宣言、憲法策定に加わった。1918年イスタンブル撮影と伝えられるたった一枚だけ残された写真があって(26 在トルコおよび現地アブハジア代表者(クレジット不明)。前列右タタシュ・マルシャン、前列左シモン・バサリア、後列右ユースフ・イッゼト・パシャ、後列中央エミル・マルシャン。

https://mobile.twitter.com/KKCgunlugu/status/933781352541052928/photo/1)、

ここにはタタシュ・マルシャンとスィモン・バサリアが、メット・ユスフ・イッゼト=パシャおよびエミル・マルシャン=パシャと共に写されている。写真の中の人々が厚い外套や毛皮を着ていることから、1918年の冬の時期と思われる。イッゼト=パシャは歴史家で、まもなくコーカサス派遣軍指令官に任命されるが、王侯身分のエミル=パシャ(1860-1940年)はスィヴァスの地主で、イスタンブル大学法学部を卒業後、農場経営に専念。後に大国民議会(第一期)代議員に選出される。シヴァスには近郊に領地を持ち、オスマン帝室ともかかわりのあるマルシャン氏がいたが、残念ながら彼らとエミルとの関係、アブハジア上陸作戦とのかかわりは、調べられていない。ジェマル・マルシャンについてはかって第46師団に属した軍人で、パイロットであったことしかわからない。マアン家も王侯身分であるが、オメルについては情報がない。タタシュと在コンスタンチノプル・アブハズ人の有力者の間では、アブハジア独立や移住アブハズ人の帰還について話合われたのであろう。1918年6月には2,500人のアブハジア人義勇兵がホピで5隻の動力船に分乗し、其々ガグラ、スフーム、オチャムチレに向けて出発した。指揮官はイスマイル・イッゼトハッキ=ベイ少佐(ビンバシュ)、ジェマル・マルシャン中尉、シュレイマン(スレイマン)・ブガンバの3人である。オスマン軍には何人ものイスマイル・ハッキがいるが、当時、第3軍第5コーカサス連隊第10連隊長であったイスマイル・ハッキ少佐がその人ではなかろうか。経歴は不明であるが、こののち独立戦争で功績あって中佐に昇進、1926年に退役している。ジェマルが中尉、シュレイマンが身分官位不明(エンヴェル=パシャに近い関係であるとする説もあり)であるので、階級が上の少佐であるイスマイルが全体の指揮官であったのではないだろうか。

  27 写真 ジェマル・パシャ・マルシャン(アマルシャン)大佐(1920年)。ラコバ『アブハジアの歴史』スフミ、299頁所(apsnytekaorg/567istoriya_abkhazii_uchebnoe_posobie_

1991_razdel_3.html)私服を着用している。ジェマル・マルシャンは上陸作戦時は中尉(あるいは元中尉)であったが、トルコに帰国後軍に復帰して、昇進したのであろうか。

 スフムに向かった分遣隊は荒波にあって目的地に行き着かなかったが、オチャムチレに向かった一隻だけが着岸、上陸した兵士たちは、数か月にわたって、グルジア政府部隊と戦った。上陸した兵員は千人だったと言われるが、詳細は不明で、最初の上陸作戦については、記載する概説書も殆どない。オスマン第3軍司令官で、ヴェヒップ=パシャの後任でもある(弟でもある)エサド=パシャはスフム占領を宣言するのであるから、陸軍の少なくとも何らかの協力によって行われたのであろうが、この立案時にはオスマン軍は圧倒的に優勢であり、ザカフカース・セイムはオスマン側の最後通牒を受諾する以外に手はなかったのであるから、セイムに対する作戦としては重要であったとは思えない。しかし、仮にアブハズ人の作戦が成功してアブハジアが独立すれば、ヴェヒップ=パシャは新国家の要請に基づいて、臆することなく全アブハジアを占領し、ボリシェヴィキとドイツを排除して、石炭、マンガン、銅、金、特に石油など南コカサースの地下資源と輸送手段を我が物とすることができたのである。最初の遠征の不首尾を見て、この春ブガンバは再びアブハジアと接触する。バトゥーム講和会議開催直前のことである。当時、アブハジア民族評議会(第一期)は、トルコ政府に対してアブハジア人が自らを南コーカサス人ではなく、北コーカサス人であると認識していることを通告したので、これに対抗したグルジア政府は5月20日、新しい評議会(第2期)を組織させ、親グルジア派を指導者につけるように図った。新執行部はアブハジアは南コーカサスであるという主張を持ってバトゥーミに向かった。グルジアの指導者ノイ・ジョルダニアはこれを阻止しようとしたが、事実としてのみならず法的にもアブハジアを政治的行為者と認めない作戦にでたのであろう。しかし、妨害にも拘わらず、アブハジア指導部一行がバトゥームに到着したところ、ここにジャマルベイ・マルシャン、メフタトベイ・マルガリヤ、スレイマン・ブガンバ、ハサン・ブトバが現れ、トルコ政府代表であるハリール=ベイ(メンテシェ)法務大臣はアブハジア代表団を受け入れる用意ができていると通知した。グルジアとの合意にも関わらず、アブハズ人代表団の多数はアブハジアがグルジアにではなく、既に11日にオスマン、ドイツ両帝国に国家承認を受けた山岳共和国に編入されることを希望した。アブハズ人の内外両グループ会見の場において、第2回目の陸戦隊派遣が確認されたであろう。ここで重要なのはグルジアの分離独立と対独単独講和であろう。オスマン帝国は南コーカサス全土に実質的支配権を確立する目先で、三分の一をドイツにさらわれた。しかし、上陸作戦に成功すせれば領土的には一部を影響圏の点では更に広い地域を回復することができる。反対にグルジアからみるとバトゥーム(トルコ占領下)とスフーム(「独立アブハジア」あるいは山岳共和国)両港を失い、リオニ川河口にある遠浅のポチ港だけの内陸国に等しい小国になるかどうかの瀬戸際であった。陸戦隊のトルコ側送り出し機関は今のところ不明であるが、タラト・ジェマル・エンヴェル三頭政権のコーカサス戦略はトゥラーンへの入り口に当たる北西コーカサスとバクーの油田及びバクー・バトゥーム間の鉄道の獲得を目標としていたので、バトゥーム港を確保した以上、最早アブハジアは重要ではなかったのかも知れない。オスマン軍第3軍自体が前進しなかったのは、種々の戦術上の理由があったであろうが、軍参謀はドイツ軍から派遣されていたのであるから、グルジアの独立については利害が対立し、バクー油田を巡っても競争関係にあったドイツには秘密の作戦を実行するとすれば、正規軍部隊ではなく民間団体に実行さるべきであろう。6月27日、上陸部隊は400人はアブハジア中部海岸のツクルギル村に上陸し、グルジア側部隊を後退させた。現地には住民による檄文が出回り、現地義勇兵が集められた。さらに100名が上陸したが、この中にはジャマルベイ・マルシャン、マフメット・マアン、スレイマン・ブガンバ、アフバ某(イスマイル・アフバ?)がいた。彼らはムイク村で集合した。上陸部隊は全てアブハズ人であったとする説もウブイフとチェルケスも含まれるとする説もあり、また上陸人数も500人、600人、800人とさまざまである。上陸した戦闘員は、8月までには帰還、投降、掃蕩されたが、ジャマルベイ自身は更に一年ほど現地に潜伏していた。オスマン帝国が南コーカサス全体を総取りして南コーカサス(ザカフカース)連邦共和国を作らせたのに対し、ドイツ帝国はグルジアのみをグルジア民主共和国として独立させて、軍事的保護条約を結んだ。これによって、オスマン帝国は山岳共和国の保護を明言(5月11日)していたにも拘わらず、武装蜂起したアブハジア人を公然と援助することはできななくなった。

  第7項 ソチ戦争

さて、ボリシェヴキを追跡するマズニエシュヴィリ将軍麾下のグルジア軍は、7月3日、アドレルを占領さらに前進の勢いを見せた。ボリシェヴィキはソチ前面で敵の侵入を阻止する計画を立てたが、現地のグルジア人農民志願兵部隊が側面と背後から防衛部隊を攻撃、ボリシェヴィキはトゥアプセまで敗走した。これを追尾したグルジア軍は7月13日にはトゥアプセまで前進、26日にはトゥアプセを占領した。グルジア政府はソチ管区とトゥアプセ管区を一時的に占領すると宣言した。8月には初代布政官ギゾ・アンジャパリヅェが派遣され(後、ムフラン・ホチョラシュヴィリに更迭)、「コーカサスのリヴィエラ」ホテルに事務所が置かれた。

  28 写真 グルジア軍を歓迎するソチ住民。https://en.wi 28kipedia.org/wiki/Sochi_conflict#/media/File:Georgian_army_in_Sochi._July_1918.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Georgian_army_in_Sochi._July_1918.jpg

 更に海岸にそって前進したグルジア軍部隊は二手に分かれ、一部はトゥアプセ、マイコプ間鉄道線路の確保を命じられ、線路沿いに内陸のハドジェンスク・スタニッツア方面へ向かった。もう一方は海岸沿いにアルヒポ・オスィポフカへ進んだ。しかし、これまでグルジア軍が戦ってきたのは、装備においては野砲や機関銃を持っていたにせよ、せいぜいパルチザンに毛が生えた程度の軍隊であった。海岸を更に北に向かったグルジア軍先遣隊はゲリンジクの手前で、赤軍タマン軍部隊に遭遇して撃破され、更に9月1日、急襲を受けてトゥアプセからも締め出され、まもなくトゥアプセは白衛軍に占拠された(9月8日)。義勇軍は旧帝国軍人であるマズニエフ将軍を敵であるとするよりは、ボリシェヴィキに対する同盟者であると判断し、マズニアシュヴィリも旧帝国陸軍将官に親近感を抱いていた。彼はそれまでもクバン・コサック部隊に対して種々の援助を行っていたし、また、逆にソチ在住の旧ロシア軍将兵の中には、義勇兵としてグルジア軍に加わるものも見られた。マズニエシュヴィリがそれ以上の攻撃に出なかったので、クバン占領を夢想するグルジア・メンシェヴィキ政府首脳部の機嫌を損ね、国民防衛隊のコニエフ(アレクサンドル・コニエシュヴィリ、1873-1951)将軍に更迭された。義衛軍とグルジア軍両軍はトゥアプセの南30キロで防御線を引き、義勇軍はラザレフスコエ村に、グルジア軍は国民防衛隊3,000人がルーのコサック村に本部を置き、ソチ、ダガムィス、アドレルで陣地を構築した。ダガムィスとアドレルでは、これにグルジアと同盟関係にあったドイツ兵も加わった。9月下旬、イェカテリノダルでアレクセイエフ将軍ら義勇軍指導部とグルジア政府のゲゲチコリ(エヴゲニ・ペトロヴィチ,1881-1954年、亡命先のフランスで死亡)外相、マズニエシュヴィリ将軍との間で休戦交渉が行われたが、妥結に至らなかった。この会議にはクバン政府代表も出席していたが、首班のブイチは曖昧な態度をとった。クバン・コサックの間ではロシアからの独立気運が高かったので、ロシア国境の維持を主張する義勇軍を支持するのは躊躇われたのであろう。交渉決裂の結果デニキンは国境を閉鎖したので、ソチではクバン地方との物流が途絶え、食料品が不足した。グルジア軍は現物の徴発を行ったので、このため革命派のメンシェヴィキとエスエル支持者を除いて、住民の中には、白衛軍の前進を待望する気運が高まった。1919年1月デニキンはイギリス軍フォレスティエ-ウオーカー将軍から、イギリス軍の承諾があるまではソチを攻撃しない旨の要請を受けた。デニキンはこれには抗議はしたものの、ソチ攻撃は停止した。ところが同月末アドレルのアルメニア人が反乱を起こしたので、グルジア軍は村落を砲撃した。これに対してアルメニア人はデニキンに救援を要請、デニキンは今度はこれを奇貨として要請に応じ直ちにソチ攻撃を開始した。義勇軍ソチ管区軍後に黒海沿岸軍司令官ブルネヴィッチ(マトヴェイ・ヤコブレヴィッチ、1872-1920?)は、グルジア軍司令官コニエフ将軍に最後通牒を送ったので、コニエフ将軍以下グルジア軍(国軍ではなく国民防衛隊)兵士700人将校48人が投降、義勇軍はガグラを取りブズィブ川まで前進した。これが停戦ラインになった。義勇軍前進の知らせを知ったジュゲリ国民防衛軍司令官は、日記に「私にはコニエフの運命が大変心配だ。彼の安全を信じたい」(2月9日)と書いているが、コニエフは当時結婚式のためにガグラにおり、披露宴会場から女連れで二次会に向かう車中、義勇軍コサック部隊前衛部隊に身柄を拘束されていた。無事釈放されもとの職務に就くが、1921年3月前進する赤軍をグルジアを東西に分けるスラミ山脈で阻止する作戦中、戦術的に有利な位置にいたにも拘わらず敵前逃亡して、そのままポーランドに亡命し、ポーランドの崩壊後はアルゼンチンに移住して、ブエノスアイレスで生を終える。

  29 写真 義勇軍のソチ占領

https://en.wikipedia.org/wiki/Sochi_conflict

https://en.wikipedia.org/wiki/Sochi_conflict#/media/File:%D0%91%D0%B5%D0%BB%D0%B0%D1%8F_%D0%BF%D0%B5%D1%85_%D0%B4%D0%B8%D0%B2_%D0%A1%D0%BE%D1%87%D0%B8_1919.JPG義勇軍第2歩兵師団の一部

 イギリス軍は白衛軍を威圧するためにガグラに一個中隊を駐屯させた。同年春、ロシア博衛軍、グルジア軍両軍はブズィブ川両岸に部隊を集結させた。4月、グルジア支持派武装組織がロシア軍の背後で蜂起、これを受けたグルジア軍が停戦ラインを越えて白衛軍を攻撃した。白衛軍はムズィムタ川後方に撤退、グルジア軍はムズィムタ川の手前まで前進した後、現在のロシアとアブハジアの国境になっているプソウ川の西のハシュプサ川支流メハディリ川まで後退した。ここで、イギリスの仲介によってメハディリ川が、停戦ラインとして確定した。

この間1918年1月デニーキンは義勇軍とドン・コサック軍を糾合して「南ロシア武装勢力VSIR」を組織し、自らが最高司令官に就任し、占領地に軍政を敷いた。デニキン政府とグルジア政府との交渉の内容はいくつかの論点に渡るが、その中でもグルジアによるソチ、トゥアプセ領有は、今日のアブハジア問題とも関係があるので、若干の補足をしたい。古代沿黒海にグルジア系住民が定住していたという仮説については、すでに述べた。また、地理上の呼び名としてのアブハジアはある時代にはクバン川までの地域を含んでおり、その後もトゥアプセを含むマコプセ川のはるかに西までをアブハジアと呼ぶ時期があり、その次の時代にも手前のマコプセ川までをアブハジアとみなす考え方があったので、アブハジアをグルジアの一部とみなす限り、この広大な地域をグルジアの一部とする理由がないわけでわない。しかし、王の支配圏の範囲と国家の領域を混同してはならない。グルジア・バグラト朝のバグラト4世は、アブハジア・レオン朝の王女との結婚によって王号と領土を継承したのである。従ってレオン家がアブハズ(自称のアプスニ)人であってグルジア人ではない限り、アブハジアはグルジアではない。両国は単に一つの王冠によって統一されていただけである。王号と国家との関係は、例えば小アジア南東部キリキア(現在のトルコ・アダナ地方)を統治したキリキア・アルメニア王の称号は、アルメニア人ヘトゥーム家からカタロニア人のキプロス王リシュグニャン家に伝えられ、さらにヴェネチアのドーチェに継承されたが、イタリア人はキリキアがイタリア領だとは言わない。現代史研究者アフタンディル・メンテシャシュヴィリや中世史研究者のマリアム・ロルトキパニヅェはアレクサンドル・クズミン=カラヴァイェフの著書『黒海沿岸地方1864年』に、ソチの町の全人口は460人、内ロシア人11人、グルジア人440人、その他9人、ソチ管区では全人口5千811人、内ロシア人805人、グルジア人836人、シャプスグ人731人、その他の民族3千439人とある数字を挙げて、グルジア人とシャプスグ人がソチの土着民族であって、グルジア人もシャプスグ人と共にソチの正当な所有権を主張できる民族であると述べる。クズミン=カラヴァイェフ(1862年-1923年)は長くコーカサスで勤務した陸軍中将であるが、ここに挙げられた数字は1864年のものではなく、1891年のものである。当時黒海県全体の人口は、3万6千102人であるが、現在ではアブハジアの一郡ガグラもこの時代は黒海県に編入されている。しかもガグラのグルジア人もソチのグルジア人と同じく、1864年以降の移住者である。なお、ここでグルジア人と一括されているのは、イメレティ人、メグレリ人、カルトリ人で、スヴァン人も含めて全体が統計上グルジア人と呼ばれるようになったのはロシア革命以降である。上に述べたデニキンとゲゲチコリの領土交渉でも人口問題は焦点の一つであった。グルジア側の主張は、白衛軍代表によって論破されたが、メンテシャシュヴィリの主張は英語とロシア語でインターネット公開されているので、筆者が疑問とすることはここに書いておきたい。無論、両者の境界は常に一定ではなかったから、アブハジアとグルジアが別個の国であると相互に認識したとしても境界問題はなくならない。

 1897年の全ロシア人口調査では、ソチ管区の全人口は1万3千519人で、グルジア人は管区全体で968人に過ぎない。一方、ソチ市形成の歴史から見て今日のソチに1864年以前からそれほど多くのグルジア人がいたとする根拠がない。17世紀のエウリヤ・チェレビはソチでグルジア人とは遭っていないし、19世紀30年代ソチ東部を通過したトルナウもソチの住民はウブイフ人、アバザ人、トルコ人商人であると記している。重要な点は1918年当時のグルジア政治家がそのような浪漫主義的領土観を持っていたかどうかという点である。これはパリ講和会議にどんな地図を持って出席したかどうかを見れば知ることができるが、その地図でグルジア民主共和国はソチ地方の領有を主張している。外相ゲゲチコリはイギリス軍駐屯部隊司令官ブリッグス将軍に、「グルジアの統合と繁栄の時代であった11、12、13世紀、グルジアの黒海岸国境は、アナパの遥か先、クバン川河口に達していた。後、14世紀に国境はマコスセ川(トゥアプセの南)に後退しました。グルジアのこちら側の部分とロシアとの統合の時代である15-19世紀まで、国境はマコプセ川に沿っていた」と説明している。パリ講和会議ではトビリスィ大学開設者である歴史学者のイヴァネ・ジャヴァシュヴィリが同様の趣旨を主張したはずである。代表団が1919年3月14日に提出したグルジアの歴史と現状に関する文書では、「グルジアの陸の国境はトゥアプセ市の東南14キロメートルの黒海東岸の小河川マコプセの河口から始まる」と記されている。アブハジア民族議会はグルジアの独立を承認する一方、自らはスフム管区における全権を主張、反ボリシェヴィキの観点から、マズニエシュヴィリ将軍の軍隊に増援部隊を提供し、アブハジアにおけるボリシェヴィキ主義の揺籃であると考えられていたソチへ進軍を支持した。しかし、グルジア軍はロシア帝国の分割を拒絶する義勇軍に敗北してプソウ川とブズイブ川の間の停戦ラインまで撤退を余儀なくされた。イギリスの支援があって革命時ソチ管区に入っていたガグラ自体はなんとかグルジア側に入った。一方、アブハジア人は、「タマンまでの黒海沿岸にアブハジア人が住んでいた」時代があったと記憶し、1864年までソチ川に至る地域にアブハズ人が住んでいたことは承知しながら、今日に至るまでロシアに対して領土要求はおこなっていない。但し、ソチ管区からガグラ地区を回収し、ロシアとの国境を現在のプソウ川ではなく、ムズィムタ川とすることについては、グルジア民主共和国と了解があった。グルジア軍撤退後のソチは南ロシア武装勢力政府の黒海地方総督クーテポフ将軍(アレクサンドル・パヴロヴィチ、1882-1930、最後の白衛軍総司令官に就任したが、ソ連秘密警察の工作部隊によって誘拐され、その際に死亡した)の支配下に入った。

 第8項 パリ講和会議とソチ(1919年)

 1918年赤軍がクバンから撤退して、南ロシア軍最高司令官を称したデニキンが、クバンに革命前のコサック行政システムを採用した。黒海県では知事に変わってクーテポフ将軍が軍政を敷いた。農村部では旧来の郷・村支配が継承された。クバン・コサックはウクライナからの移住者であったので、二月革命後の政体についてはいくつかの可能性があったが、結局クバン・ラーダ(議会)はロシアからの独立を望んだ。白衛軍との協力は、赤衛軍に首都エカテリニダルを奪われたクバン軍(兵力3千人)総司令官ポクローフスキー将軍(ヴィクトル・レオニドヴィッチ、1889-1922、ブルガリア)のスタンドプレーであろう。デニーキン将軍は1919年6月、イェカテリノダルの人々が青・暗赤色・緑のクバン国旗を掲げ、ウクライナ語で話し合うのに気分を害し、明日はロシアの三色旗(白青赤)を掲げ、ロシア語を話すようになるであろうと言い放った。両者の方向性の違いは、一週間後ロストフナダヌーにおけるクバン・ラーダ議会のリャボヴォール(ニコライ・ステパノヴィッチ、1883-1919)議長の暗殺によって顕在化する。犯人はデニーキン軍の将校であった(パラス・ホテル事件)。この事件の結果クバン・コサックの戦線からの離脱がおこり、1918年末デニーキン軍の兵力の3分の2はクバン出身者であったが、1919年夏には僅か15パーセントに減少した。一方、クバン人民共和国政府は1919年のパリ講和会議に代表団を派遣し、またソヴィエト政権とも交渉を開始した。代表団は議長(団長)ルカ・ブイチ、副議長ニコライ・ドルゴポーロフ、他にアイテク・ナミトコフ(チェルケス人)、ディミトリー・フィリモーノフ(フィリモノヴィッチ)が団員であった。デニーキンはこれらの行為を反乱とみなして関係者を逮捕、首謀者と目された聖職者アレクセイ・イヴァノーヴィッチ・クラーブホフ(1880-1919)は、軍事法廷で絞首刑を宣告され、判決は直ちに実行された。これを知ったフィリーモフは国外に逃亡した。

クバン政府がパリに代表団を送ったとき、コーカサスからはもう一つ耳慣れない政府の代表団が送られた。北コーカサス山岳共和国のものである。さて、二月革命後、現地人の中でいち早く行動したのはバルカル人のシャハノフで、彼のグループは3月6日、ウラディカフカースで「統一北コーカサス山地民臨時中央委員会」を樹立した。これと無関係にペテログラード(ドイツとの対戦中、ロシアでは空虚なナショナリズムに突き動かされて、ドイツ風のペテルブルグという名称をスラブ風のペテログラードに変更していた)にいた北コーカサス出身のリベラルな知識人・学生の中には、故郷のコーカサスやロシア全体を含む新しい国家的枠組みを求める運動がおこった。この「北コーカサス山地民特別委員会」の唱道者はマゴメド・ドグラト(国会議員)、ムハメド-ザヒド・シャーミル(ムスリム慈善協会議長)、ジャバギエフ(ペテログラード・ムスリム教育普及協会議長)、ツァリコフ、ペンズラエフ、アリエフ、イズマイル・アルタドゥコフ、アイテク・ナミトク、マゴメドフ、プマトフら十人ほどであった。彼らの働きかけによって3月6日のイングーシェチアを初め北コーカサス各地で民族別あるいは地域別政治集会が開催された。クバン地方では4月19-22日(沿黒海州では開催されなかったのかもしれない)。最後に5月1日、ウラジカフカースで340人の代議員からなる「北コーカサス及びダゲスタン山地民統一連盟第一回大会」が開催された。ここで綱領および人事が決定されたが、17人の中央執行委員、議席は地域別に配分され、ダゲスタン州6、テレク州6、クバンと黒海州2、ザカタラ(現在のアゼルバイジャン共和国北西部のダゲスタン人居住地域)1、アブハジア1(委員はセミョン・ミハイロヴィッチ・アシュハツァヴァ、1886-1943?)、スタヴロポリ州1となった。クバンと黒海州の2名はアイテク・ナミトクとアルタドゥコフ、あるいはカバルダ人であるがクバン出身のコツェフの可能性があると思われるが不明である。

  30 写真 北コーカサスおよびダゲスタン山地民統一連盟第一回大会(1917年5月1日、ウラジカフカースにて)https://gazetaingushru/sites/default/files/styles/juicebox_small/

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11_1_sezd_gorcev_sev_kavkaza_aaa.jpg?itok=izHNv-Ch 山地民というのは北コーカサスの先住民の総称で、彼らが皆山地に住んでいるということではない。

第二回大会は9月20-28日、前回と同じウラジカフカースで小規模に開催された。ここで連盟はロシア合州国の樹立とその中の自治国家建設を目指すことが決議された。この段階では完全な分離、独立派想定されていなかった。二月革命後の「非ロシア民族のどの一つもロシアという構成から離脱することを表明しなかった(アフトルハノフ)」のである。一方これに先だって8月19日ダゲスタンのアンディでイスラーム色の強い集会が開かれ、北コーカサス・イマーム国建国が討議された。勿論イマーム国はロシアから完全に分離しなければならない。クバンでは8月10-17日、ハクリアノハブル村で西チェルケス人を中心の集会「第1回クバン地方黒海県アウル在住山地民大会」が開催されチェルケス人、アブハジア人、カラチャイ人の代表者が参加した。この集会では国家機構に関する一般的問題の他に、クバン地方固有のアブハズ人とステップのトルコ系諸民族、オスマン帝国移住者の問題が議論された。アイテクの兄弟アイダミルは、彼らクバンと黒海沿岸の山地民は「コサックと農民の村々の間に散らばっっていて、何であれ深刻な事案が起こる場合には不利な状況にある」ことを意識していた(エムテウイリ)。アイテクはコサックと共にロシア連邦内の自治的共和国としてのクバンを選択した(1918年1月8日)。チェルケス人のクバン政府参加支持がが多勢となったので、クバン政府軍にはチェルケス人からも志願兵が招集された。指揮官は帝国陸軍カフカース現地人(野蛮)師団チェルケス騎兵連隊第三中隊長であった公爵キリチ・ギレイ(キリチ・シャハノヴィッチ・スルタン・ギレイ、クリム汗の子孫で、スルタンは汗の一族の称号。1880-1947)であった。なお、上の集会では、トルコ移住者の「戦争終了後、ロシア国家の市民として母国に帰国する可能性を臨時政府に求める」決議がおこなわれた。

臨時政府末期の混乱および10月革命の状況下、10月20日ウラジカフカースで「コサック軍コーカサス山地民草原自由民南東連盟」設立の為の会議が行われ、11月16日、イェカテリノダルに「南東連邦」政府(首班カデット党員でコサックのバシーリー・アキーモヴィッチ・ハルラーモフ1875-1957)が樹立された。執行部はコサック14人、現地人4人から構成されていた。なお、南東とはヨーロッパ・ロシア南東部の行政的呼称で、ドンとアストラハンもこれに入っていた。さらに山地民側の要求によりスフーム管区(アブハジア)と後にアゼルバイジャンに編入されるザカタラ管区も編入された。

  31 地図 山岳共和国版図 太い破線の内部が北コーカサス山岳民族共和国の版図

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しかし、赤衛軍の攻勢下、関係者の利害は徐々に錯綜してくる。1918年春までには南東政府は機能を停止していた。カフカース人リーダー達も「カプラノフ、ジャバギエフを中心とするリベラル派、親露的なハリロフ、アバシェフを中心とする強硬派の対立は、山岳政府に分烈の危機をもたらすまでに至った(染矢文恵による)」。初代の大統領で、パリ和平条約会議代表団代表であったチェルモイェフは、危機を打破するために独立と対土接近を選択、1918年4月は5月11日のドイツ、オスマン、南コーカサス諸国代表が出席するバトゥーム会議において独立を宣言し、1919年6月17日にはアゼルバイジャン、エストニア、グルジア、ラトビア、ベラルーシ、ウクライナとともに独立が認められた(染矢文恵氏による)。同国にはソチを含む沿黒海地方には含まれていなかったが、パリ和平会議で各国首脳に配布された地図では、明らかにクバンは山岳共和国の領土内に含まれている。

7月、領土問題を内包するクバン人民共和国と山岳共和国代表はパリで協定を結び、相互の承認と話し合いによる国境画定を了承している。署名者は山岳共和国側は代表団長チェルモエフ、団員イブラヒム・ガイダール、同ガイダル・バーマト、同ハズラトフ、クバン側は代表ブイチ、団員カラブホフ、同ナミトク、同サヴィーツキー将軍であった。ナミトクはチェルケス人といってもブジェドゥグであるので、ソチとは直接関係がないが、全くないわけではない。というのは、彼がイスタンブルで結婚したハイリイェ・メレク・フアンジュは、フアンジュ家の女性、つまりソチ出身だからだ。

  32 地図 山岳共和国がパリ講和会議のために用意した地図。題目は「チェルケスおよびダゲスタン諸民族連邦共和国の民族的政治的地図」とある。

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  9項 ソチの緑色共和国

  33 写真 トゥアプセにおける黒海赤軍(写真右側のイギリス陸軍の制服が緑軍、左のロシア陸軍の制服を着ているのが赤軍。右側で椅子に座っているのが、伝説の革命家ネストル・マフノーのようである

https://warriors.fandom.com/ru/wiki/%D0%97%D0%B5%D0%BB%D1%91%D0%BD%D0%BE%D0%B0%D1%80%D0%BC%D0%B5%D0%B9%D1%86%D1%8B

 一方、黒海県では1919年12月1日グルジア支配地域のガグラで第1回黒海農民大会が開催され、義勇軍とボリシェヴィキ双方に対抗する黒海県解放委員会が組織された。議長はもとウーファの執行政府の指導者(サマリン=)フィリッポフスキー(バシーリ・ニコリヴィッチ、1882-1840)で、全体的にはメンシェヴキとエスエルの路線に近かった。委員会は義勇軍やボリシェヴィキと話し合いは不可能であると考えて、1920年3月には「農兵隊」(総司令官は、旧帝国陸軍の騎兵大尉ヴォロノヴィッチ(ニコライ・ウラジミロヴィッチ、1887-1967ニューヨーク)を組織した。軍旗は赤字に緑の十字架とした。直ちに種々の武装集団がこれに合流して、兵員数は約2千人に達し、イギリス軍の制服と小銃が配備された。兵士の出身は地元のグルジア人、デニキン軍の動員令を嫌ってグルジアに逃げていたロシア人中農、ロシア人元赤軍兵士、ロシア人貧農出身の軍事要員などであった。彼らに武器・食料・資金を提供したのは、グルジア政府だった。

  34 写真 ニコライ・ヴラジミロヴィチ・ヴォロノーヴィッチ(1887-1967)

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87,_%D0%9D%D0%B8%D0%BA%D0%BE%D0%BB%D0%B0%D0%B9_%D0%92%D0%BB%D0%B0%D0%B4%D0%B8%D0%BC%D0%B8%D1%80%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87#/media/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Voronovich_NV.jpg

農兵隊は現地編成の混成大隊とガグラからプソウ川超えて北上する正規部隊との協力で1920年1月末行動を開始、2月3日義勇軍からソチを解放した。しかし、トゥアプセ以北ではボリシェヴィキの影響力が強く、その上、指導部には他党派と敵対する意識が弱かったので、赤軍および現地ボリシェヴィキ派パルチザンと協力し、両者の部隊を再編成して黒海赤軍が編成され、トゥアプセ、ゲレンジク、テムリュク、ノヴォロシースクとイェカテリノダルの間にあるクリムスクなどが解放された。同時期、赤軍はクバン地方で総攻撃を開始し、1920年3月17日イエカテリノダルを奪取した。しかし白軍は前進しすぎた黒海赤軍の背後を一挙につききって、ノヴォロシースクとソチに向かった。ソチは再び白軍部隊に占領されることになった。黒海県解放委員会議長(サマーリン=)フィリポーフスキーと農民軍参謀モスクヴィチェフは、グルジア政府首脳(国民防衛隊参謀長サギラシュヴィリ)の陪席で南東政府クバン地方政府のイヴァニス(バシーリー・ニコライヴィッチ、1888-1974)、ドン・クバン・テレク(コサック)総会議長マモーノフと会談し、ソチ管区の自治を承認する約束を取り付けた。交渉に反対したヴォロノーヴィッチは農民兵1,500人を招集したが武器が足りず、結局パルチザンは山地に撤退した。しかし、兵員4万、難民3万人を抱え食料不足に悩む白軍部隊が農村で強制徴発を始めたので、管区全域で武力衝突が広がった。漁夫の利を得た赤軍は4月27日ノヴォロシースク、4月29日ソチ、5月4日までにはアドレルを奪った。退路を立たれた白軍部隊は多くは降伏した。また相当数が船舶で脱出、一部はコーカサス山脈を超えてクバン地方に逃亡した。グルジアに亡命したものもあった。ヴォロノーヴィッチは赤軍にソチの独立を承認させるべく交渉の準備に着手したが逮捕された。委員会幹部の多数が処刑されるか亡命するかした。ヴォロノーヴィッチはアメリカに亡命して、回想録『緑の本』を書いたので委員会の活動はこの回想録によって知られる。なお彼は日露戦争従軍者で、この戦争についてもやはり回想録を残している。一旦は沿黒海地方から撤退した白軍は、1920年8月アゾフ海岸のプリモルスコ・アフタルスコエ、黒海岸のタマンとノヴォロシースクに強襲部隊を上陸させたものの、戦闘は年末までには収束して「国内戦」は終了した。

  35 ソチの紙幣 通貨不足に陥ったソチ政府は、1918 年に独自通貨の発行に踏み切った。

https://coinsfrom.moscow/katalog/moya-kollekciya/banknoty-rossii-perioda-pervoj-mirovoj-vojny-revolyucij-i-grazhdanskoj-vojny/sevkav/local-7/sochi/n5941 これには当時の市執行部のサインがあるが、1920年のものにはマーリン-フィリポフスキーとのサインがある

https://fox-notes.ru/ross_bon/notiz_T_2014_10_30_FF.htm

第6章第5節