第2節 民族誌-北西コーカサスの人々

 ロシア帝国が武力で征服する時まで、北西コーカサスに住んでいた先住民の内、もっとも大きい勢力であったのは、アディデ人(チェルケス)人である。同じ先住民でもイラン語系のオセット人(アラン人とディゴル人)とバルカル人・カラチャイ人の祖先が外部から移住した事実が推測できるのに対し、アディゲ人の外部からの移住については何の情報もない。また、アディゲ人以前に別の民族が住んでいたと推測する理由もない。彼らは北コーカサスで形成された集団であるか、あるいは少なくとも最も前から住んでいた人々の子孫であると考えられる。アディゲ人は、二つの社会的地理的グループに分かれていた。西(カフ)アディゲ人と彼らの東にいたカバルダ人・ベスラン人である。現在、彼らの子孫は、ロシア連邦北コーカサス管区のアディゲ共和国のアディゲ人、カラチャイ=チェルケス共和国のチェルケス人、カバルダ=バルカル共和国のカバルダ人、そして沿黒海地方のトゥアプセ郡とソチ市に住むシャプスグ人であるが、彼らは全てアディゲ(自称)人あるいはチェルケス(13世紀以降の他称)と総称することができる。アディゲ語は、アブハズ語とともに北西コーカサス語群あるいは、アブハズ=アディゲ語群を作っている。アディゲ語は黒海沿岸を含む西部の西アディゲ(キヤフ)語とカバルダ(東アディゲ)語の2大方言に別れていて、ソ連期の言語政策によりアディゲ(アディゲ共和国の)語とカバル


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




ダ語(カバルダ=バルカル共和国とカラチャイ=チェルケス共和国)が別々の文章語として発展した。アディゲ語とカバルダ語との違いは方言的違いで、前者がカバルタイ(民族名)、トウイグジウイ(狼)が、後者でカバルダイ、ドウイグジである程度の差しかないなどと言われている。特に近年の政治的文献では三者の言葉は同一の言語であると主張されている。統計上、ロシア語ではアディゲ共和国の住民である人々には、アディゲツィ(複数、単数はアディゲエッツ)人として処理し、総称としてのアドイギ(複数。単数はアドイグ)が使用されているが、常にこのように区別されているわけでない。最近の人口調査によると、カバルダ=バルカル共和国では総人口858,946人(2013年)、内訳(2010年)はカバルダ人57.2%、ロシア人22.5%、バルカル人12.7%、オセット人1.1%。 カラチャイ=チェルケス共和国では、総人口471.847人、内訳カラチャイ人41.0%、ロシア人31.6%、チェルケス人11.9%、アバザ人7.8%、ノガイ人3.3%、 アディゲ共和国では、全人口439,996人(2010年)、内訳はロシア人63.6%、アディゲ人25.8%、アルメニア人3.7%。アディゲ人は辛うじて、カバルダ=バルカル共和国で絶対多数を占めるだけであり、アディゲ共和国は自分のホームランドで少数派で、民族共和国解消の政策にさえさらされ、カラチャイ=チェルケス共和国では多数派のトルコ系カラチャイ人や旧コサック系住民の力が強いロシア人とは緊張関係にある。沿黒海地方には、西アディゲ集団のシャプスグ人が、まとまって住んでいるが、行政的には少数民族の地位にはない。 

もう一つのコーカサスの古い民族アバザ(アバズィン)は、アブハズ人と同系の集団であるが、14-17世紀頃に海岸地方から移住クバン川上流に移住したものと考えられる。それ以来、彼らの言葉は新しい隣人であるアディゲ人特に北コーカサス中部で政治的文化的支配力を持っていたカバルダ人のアディゲ語の強い影響を受けたので、アバザ語はアブハズ語とは別個の文章語として発展した。2010年には4万3千341人がロシア住むが、その内の大部分3万6千919人が、カラチャイ=チェルケス共和国に住み、特に首都チェルケスクとアバズィン郡およびその周辺に集中している。アディゲ人と同じく、大部分がイスラーム教スンナ派に属していると思われる。19世紀前半、アバザ人は低地、高地の2つの地域的集団に別れ、それぞれが数個の種族に別れて君公によって支配されていた。タパンタ系諸種族は、クバン川上流の大ゼレンチュク川、小ゼレンチュク川、クバン川本流上流、クマ川本流、クマ川支流マルカ川流域に、山地のシュカル系諸集団は、やはりクバン支流のベラヤ川、ラバ川の多数の源流地帯に別れ住み着いていた。しかし、19世紀にアバザは徐々に平野に移住し、最後には1860年代に大部分がトルコへ移住するか、今日のチェルケスク周辺に集められた。このようにしてシュカル集団がいた山地は誰もいなくなりになり、今日ではロシア人とカラチャイ人が住んでいる。チェルケスクを中心にカラチャイ=チェルケス共和国が誕生するが、ロシア人、カラチャイ人、チェルケス人の間で緊張が高まった1990年代前半、アバザ人を含め主要構成民族が独立の民族共和国の樹立を主張したが、結局はもとの多民族共和国を維持することに落ち着いた。しかし、2005年になって、アバザ人は1万7千071人の同胞を集めるアバザ郡を作ることに成功した。アディゲ人社会と同じく、アバザ人の間に民族文化や民族体の復興を目指す運動があるが、その目指すところはアディゲ人のものとは違っているように見える。

 北コーカサスは歴史上何度もトルコ系遊牧民国家の影響下に置かれた。フン(4-5世紀)とアヴァール(5-6世紀)はそれぞれ匈奴と柔然だからモンゴル系であるとしても、内部にトルコ系集団を抱えていた可能性は否定できない。7世紀に短期間存在したブルガル汗国は首都をタマン半島のファナゴリアに置いた。約50年後、ハザルの勢力が拡大するとブルガル人は、ヴォルガ・ブルガール、ブルガリア、コーカサス山地に移動したカラ・ブルガルに3分するが、カラ・ブルガル人は、カラチャイ人とバルカル人の祖先であると言われる、バルカル人にその名前を伝えている。ハザルが新興のルース(ロシアの前身)に敗れると、ペチェネグやポロヴェッツ(キプチャク、クマン)等遊牧民がルース諸国とある時は戦い、あるときには同盟を結んだ。13世紀にはモンゴル帝国のジュチ=ウルスいわゆる金帳汗国あるいはキプチャク汗国が成立するとトルコ系遊牧民はハン一族の領民であるタタル人と汗国に並行して成立したノガイ=オルダに属するノガイ人に分かれた。カラチャイ=チェルケス共和国の北部ノガイ郡に住むノガイ人はその子孫の小集団である。チェルケス人と歴史的に関わり、クリミア半島を根拠地にするタタル人は、19世紀までに北西コーカサスからほぼ姿を消した。新ロシアの成立直後は、チェルケス人と同じく、ノガイ人、カラチャイ人、バルカル人は、それぞれの民族名の共和国を作る運動をする一方、クリミアのタタル人、ダゲスタンのクムイク人とノガイ人、チェチェンのノガイ人、スタヴロポリ地方のテレケメ人などと黒海・北コーカサスのトルコ系諸民族の同盟を目指す運動にも進んだが、具体的な成果は何もでなかった。なお、クラスノダルのトルコ人は元来グルジア南部にいたイスラーム教徒の集団で、北コーカサスの最も新しい民族である。

長いコーカサスの歴史を考えると、ロシア人はごく最近住み着いた住民であるが、北コーカサス全域や民族名の付かない地方自治体(連邦構成体とその下位の地域)つまりクラスノダル地方、スタヴロポリ地方では勿論のこと、民族名称共和国でもアディゲ共和国では過半数を占め、カラチャイ=チェルケス共和国では最大の集団である。 最初に北西コーカサスにやってきたロシア人(今日的尺度であると東スラブ族のウクライナ人、ベラルス人も入っているかもしれないが)はコサック(カザク)だった。コサックは民族名ではなく、身分であって、自治あるいは土地保有を条件に軍務に就くことを求められた世襲的集団で、スラブ系の人々だけでなく、北コーカサスではオセット人やグルジア人、ウラル地方ではバシュキール人、シベリアではブリヤート人もコサック軍団に加わっていた。古くからドン川下流には有名なドン・コサック集団があったが、1783年今日のウクライナの黒海コサック集団千世帯をオスマン帝国から獲得したばかりのクバン川左岸の3万平方キロに40ヶ村に分けて定住させたのが、クバン・コサックの始まりだった。クバン=コサックはクラスノダル(帝政時代はエカテリノダル)に軍団本部を置き、ロシアのコーカサス征服進展に伴って、次々と前線へ入植させられた。ロシア革命によってコサック身分は解消したが、今日でも彼らの子孫の中には、身分や軍団の復活、独自の地方組織の再建を主張する声が強く、ロシア正規軍が出動できないロシア国外の戦争、ドニエステル紛争やアブハジア戦争では志願兵あるいは傭兵として参加したものも少なくない。現在、クバン=コサック組織は、政府の認可を受けた法人組織「クバン・コサック軍団協会」であって、クラスノダル市に軍団本部、沿黒海地方に黒海管区を置き、ノヴォラシースク、ゲレンジク、トクアプセに各一カ所、ソチには4カ所に事務所を置いている。クラスノダル地方におけるコサック系住民の割合は、1863年にクバン川左岸と黒海沿岸に移住した3,494世帯中、120名が家族持ちの退職軍人、680名の国営地農民だけが非コサックでそれ以外はコサックであったから、77%であった。しかし、まもなくコサックは多数派ではなくなる。クバン地方では、1890年の人口133万6千100人中、コサックは64万6千200人48.3%、非軍務者は68万9千900人51.7%である。このうち、非コサック農民は45万6千300人34.2%であるものの、1900年には80万900人に増加する。さらに1903年にはクバン地方では、コサックは全人口の40%に落ち込む。農民は36%、町人は11.5%、同年黒海県では、コサックが50%、農民36%、町人29%、商人1.1%であった。

現在コサック団の活動は、連邦政府地方発展省の管轄で、同省に登録している「コサック協会」の団員がコサックであると定義した上で、民族間関係国家政策部長アレクサンドル・ジュラフスキーは、総員数を50万6千人(全国)、クバン・コサック軍団協会は構成員14万6千人、全国11組織中会員数29%で最大であると公表した。ただし、クバン・コサック協会アタマンは、2013年末、同協会会員数4万3千169人、家族を含め14万8千923人としている。クラスノダル地方のロシア人の(ウクライナ人を加えても)3%強を占めるだけである。

1990年のカラチャイ=チェルケス自治州におけるコサック系共和国分離運動、1990年代に全国に広がったコサック軍団再建運動やチェチェン戦争やアブハジア戦争におけるコサックの子孫の参加等の状況を受けて、ロシア連邦政府もコサック協会の組織運営に関わる法律を制定し、協会員が協会員の立場で公的な職務に雇用されることを可能にした。社会主義的秩序が崩壊して、混乱が続く「砂社会」(袴田茂樹新潟国際大学教授)において、一定の規範、団結力と国家に対する忠誠心持っていると自称するコサック協会を、社会的秩序を維持する基軸の一つにしようとしたのではないであろうか。

2002年の全露国勢調査では、クバン地方の1万7千542人がコサックであると申告した。そもそもこの数は、当局発表数と大きく異なり、しかも、2010年の調査では、申告者5千261人と激減した。この極端なアイデンティティの変化は、ロシア社会全体におけるコサック団体に関する評価の変転を反映している可能性があろう。2012年にサンクトペテルブルグの「チャンネル5」で放映された論争番組「公開スタジオ」の「コサックはどこに住むか?」の視聴者電話アンケートでは、コサックは、警察の補助者であるが、12.4%、(伝統的な制服を着用しているので)コスプレが、79.5%、何でもないときだけ勇者が8.1%を占めた。外部的評価が低下するにつれ、当事者の帰属意識も減退したのであろうか。しかし、当局が国勢調査において、コサック民族として申告することに一定の制限を加えたとする主張にも耳を貸さなくてはなるまい。

ソチ・オリンピックとパラリンピックには伝統衣装を着用したクバン・コサック団員が警備に当たると報道されているが、その理由は恐らく、プーチン大統領が2007年の招聘演説中、コーカサスをコサックの大地であるという言葉を入れていたか、あるいはクバン地方副知事でもある、クバン・コサック軍団協会アタマン、ニコライ・ドルダらの、コサックの社会的評価を高めようとする戦略、あるいはクラスノダルの協会本部と紛争状態にある黒海コサック管区をオリンピック警護を利用して統制する等以上の意味はないであろう。勿論、オリンピック参加者とテレビ視聴者がコサックを北コーカサスの先住民とでも誤解してくれたら、地方のロシア人政治家にとってこんな嬉しいことはないのだが。

黒海沿岸地方、その中も特にソチ市では非ロシア人の人口割合は、約30パーセントと著しく高いが、その理由はこの地域独特の歴史にある。ギリシャ人は紀元前700年ごろより黒海周辺の各地に都市を建設し、コーカサスについての沢山の情報を残した古く、また新しい住民である。しかし、今日のギリシャ人の祖先は、18世紀にクリミアから移住したポントス・ギリシャ人鉱山労働者、漁師、商人、農民であった。ポントスはアナトリア北部の地域名で、中世にはトレビゾンド帝国があったところで、トルコ革命までは多くのギリシャ人が住んでいた。アルメニア人も紀元12世紀ころ北コーカサスに定住し始め、後に「チェルケス・アルメニア人」と呼ばれる人々の社会が存在していた。アルメニア人住民の大部分も最初クリミアから、後に直接アナトリアから移住して来た商人、農民の子孫であった。露土戦争後の1778年、それまでクリミア・ハン国の首都バフチサライに住んでいたキリスト教徒は、ロシアの臣籍付与と移住を請願し、ギリシャ人とアルメニア人合わせて31,098万人が、スヴォロフ将軍の保護下にロシア領アゾフ海沿岸に移住した。このうちギリシャ人18,391人は現ウクライナ領マリューポリス近辺に集中的に入植、免税や自治等の特権を与えられ、スタヴロポリやクラスノダル地方にも広がった。しかし、ペレストロイカとソ連の崩壊によりギリシャ人の中にはギリシャへ「帰還」する動きが現れ、1990年1年間だけで22,500人のギリシャ人が、ソ連からギリシャへ移住した。現在ロシアではスタヴロポリに34,078人、クラスノダルに26,540人が残るだけである。ギリシャ人と運命をともにしてクリミアを去ったアルメニア人12,598人はドン川の河口、聖ドミトリー・ドンスコイ要塞の近くに定住し、86,000デシャティナの土地(1デシャチナは1.0924ヘクタール)、10年間の免税権、100年間の徴兵免除権を与えられて、入植地に1市5村を建設した。約百年後1897年の人口調査では、ロストフに27,234人、クラスノダルに13,926人、スタヴロポリに5,385人が登録されている。海洋画家イヴァン・アイヴァゾフスキー(ロシア名、アルメニア名はホヴァネス・アイヴァズィヤン)の父祖はクリミアに留まり、現代アルメニアの国民的画家マルティロス・サリヤンの父祖はこのとき南ロシアに移住した。一方、ペレストロイカ期より地域紛争、震災の被害、経済的苦境に立たされたアルメニアや紛争の起こったアブハジアから多数のアルメニア人がロシア各地に移住あるいは出稼ぎする傾向が見られるが、クラスノダル地方にもそのような人々が多い。アブハジアに住んでいたギリシャ人、グルジア人にも同様の歩みをたどる人々が多い。

農業地帯で大規模穀物生産農場に生活してきた人々が多いクバン地方と都市化率が高く観光関連の労働に従事している人々が多い沿海地方、特にソチの人々を、北西コーカサス地方とひとくくりにし、それを単に民族の観点だけで論じるのは、意味がないかもしれない。民族の観点で論じなければならないので、メスヘティ・トルコ人中央アジアからの移住のように避難民の移住先に選ばれる傾向のあるクラスノダル地方と北コーカサス諸民族の移住者が多いスタヴロポリ地方は、ともに80%を越える圧倒的多数者のロシア人の側の民族主義の高まりと排外主義、特にコサックが古くから持っていたエリート意識と排他主義が指摘されてきた。他方、ソチの住民の意識はこれとはかなり違っている。ソチ住民の帰属意識アンケートでは、ロシア(ラシヤネ)人意識と民族にかかわらずソチ人意識が高いと言われる。ラシヤネ人とは、スラブ系のロシア(ルースキー)人ではなくともロシアを祖国とするあらゆる民族の人々が抱く帰属意識であるが、77.4%の非調査者が自分は、ロシアの住民であると答え、83.8%の人々が民族籍を超えて、「我々はソチ住民」であると解答している。