第6章第3節 保養と観光拠点の出発

  3節 保養と観光拠点の出発 

 <観光保養都市ソチの展開> 

 黒海管区が設置された1866年、ソチには病院、国庫に属する倉庫、軍隊、小規模な商業施設が置かれ、少人数の監督官と雇員がいただけであった。1874年にはここにダホ・パサードの設置が許可された時も、民間人は15-20家族がいただけだったが、各戸に400デシャーチナの国有地が下賜された。郵便電報事業は1878年に業務開始、郵便局は灯台の近くに設けられた。税関も1870年にアドレルに設置され貿易に便利になった。レーニンが「革命とはソヴィエト化と電化である」とまで言った電気は1908年に小規模な発電が始まり、コーカサス・リヴィエラ・ホテルで使用された。街灯は1913年に始まった。

 ソチ小区の人口は1897年に1万3千519人に増加した。内訳は、ロシア臣民8,402人外国人5,111人であった。母語別には大ロシア人(今日のロシア人)2,561人、小ロシア(現在のウクライナ)人1,240人、ギリシャ人2,092人、グルジア人(統計上はグルジア人、イメレチア人、メグレル人)1,002人、チェルケス人746人、モルドヴァ人とルーマニア人613人、エストニア人599人、アルメニア人3,857人、ドイツ人166人、ペルシャ人59人、ベラルシア人53人、ポーランド人49人、ユダヤ人13人、中心となるソチ・パサドの人口は1,352人、それ以外の20数ケ村に12,167人になる(1897年人口調査に基づく数値は一定の解釈がされる場合があるが、ここでは母語に基づいて帰属集団を推定したものである(ここでは、国民研究大学人口研究所Demockop-Weeklyのものを引用)。

 「ロシアの夏の首都」などとも形容される現在のソチをソチらしくしているのは観光・保養分野である。官報等に沿黒海開発と土地払い下げに関わる記事が掲載されるようになった1868年以降、ニコライ・ヴァシーリエヴィチ(1839-1907)およびアレクサーンドル・ヴァシーリエヴィッチ(1850-1909)・ヴェレシチャーギン兄弟は50人ほどの農業や工場生産に詳しい知識人と団体を組織して、ソチ開発にあたる計画を立てた。ニコライはモスクワに居を構えて用務に応じてソチに旅行したが、アレクサンドルは1870年にソチに移住し、大天使ミハイル聖堂の建設に関わった。アレクサンドルが現地を踏査して執筆した『沿黒海管区旅行印象記』(1874年)は、移住や土地購入希望者のガイドブックになっていた。将来の発展につながる個人の関与を見ると、モスクワの大商人ニコライ・マモーントフは1872年にソチ村に接近する2,700デシャーチナ(ha)の土地を払い下げられ、その中にヴェラ荘を建設した。これは、大ソチの領域における最初の別荘で、付属する庭園は当時有名であった。マモーントフの死後、中央ロシア、リャザン出身の貴族ニコライ・コースタリョフは、マモーントフ家からバッテリー山斜面の一部を借地してプルーンを栽培して成功し、マモーントフの姪マリナと結婚した。ニコライはマリナの領地に新たに別荘を建設し、これもーラ荘となずけた。これが今日も残るヴェーラ荘で、1992年からは就学児童生徒のソチ校外活動センターになっている。

 モスクワの有名な企業家一族の資産家ヴァシーリー・フルドフ(1841-1913)は、1892年ソチから4露里のヴィノグラドナヤ岡にあった広大な領地面積1,284デシャーチンのラズドリノエ庄を購入し、120デシャーチナの敷地でリンゴやザクロの栽培を計画した。更に翌年マモーントフ家に嫁いでいた実の姉妹から、彼女の遺産であったソチ川右岸の海岸まで広がる土地1,284デシャーチナを購入した。1896年にはここに別荘を建築したが、レフ・ケークシェフ(1862-1916)の設計によるアールヌーボー(偽ロシア)様式の建物で、誇張したドーム屋根を乗せた筒型と角型の塔に切り妻のバシリカを合わせ、玄関を正面二階持ってくる装飾的なデザインであった。建物は現在でも残されている。ヴァシーリは更に1898年に別荘の周辺に植物園を開いた。金に糸目をつけず、世界中から苗木と種子が集められた。園には240種の喬木灌木が植えられたが、その内50種は貴重なものであった。これは今日、リビエラ公園として残されている。ソチ第一の庭園である。ソチの住民は、ソチ川左岸からアグラ川にかけた一帯を「ヴェルシャーギンの側」と呼ぶのに対し、ソチ川右岸を「フルドフの側」と呼んだ。

 それに次いで、1889年サンクトペテルブルグの出版業者アレクサーンドル・フデーコフはホスタのルイサヤ岡に広大な土地を購入し、1892年別荘ナデジュダ荘を建築、敷地内の果樹園に接する15haの敷地にクリミア、ドイツ、ガグラ等から400種の樹木を集めデンドラヌイ公園を建設した。現在50ha全体に世界中の植物1,500種が集められている。『ペテルブルグ新聞』の編集者であったフデーコフは、『ダンスの歴史』の著者であり、バレー作品『ラ・バヤルカ』の台本作者として有名である。

 両首都から遠く離れたソチが保養地として発展するには時間がかかった。皇帝ニコライ二世は腹心のアバザー(ニコライ・サヴッィチ、1837-1901、医師、保健学者、国家評議員、帝室人事官)を現地に派遣して、調査に当たらせた。1894年アバザーはソチに赴いて、既に当地で事業を開始していたスタールキー、クラーエフスキー、ガールベ、ヴェレシチャギン、フデーコフ等と面談した。ソチを調査したアバザーの答申内容は、1)トアプセからアドレルまでの海岸の干拓、2)道路建設、3)農業殖産の為の指導機関の設置であった。この答申を受け、1895-6年農業大臣エルモーロフ(アレクサーンドル・セルゲイーヴィッチ、1847-1927、農学博士候補)の指導下に「コーカサス沿岸発展方針検討審議会」あるいは「沿黒海地方植民促進委員会」が設けられるとアバザーは委員長(1895-1897年)に就任した。エルモーロフとアバザーの見解は沿黒海を保養地として開発することで一致した。

 発展のための行政効率を挙げるために沿海地方はクバン地方から分離され、内部はノヴォロシースク、トゥアプセ、ソチの3管区に分割された。また、ソチの行政的地位も1896年にダホ・ポサードからソチ・ポサードに改称、1898年からはポサード(商工地区)からポショルカ(都市タイプ村落)に昇格し、自治的行政機関も設けられた。懸案の交通事情は1891年から1893年の間にノヴォロスィースキー・スフム街道が全線開していた。また、海岸のアドレルとコーカサス山脈分水嶺に近いクラースナヤ・ポリャーナを結ぶクラースナヤ・ポリャーナ街道は、1897-1898年に敷設された。1898年3人の専門家によって構成された「ノヴォロスィースクからスフミに至る黒海沿岸調査特別委員会」の調査結果は、同年、当時の首都サンクト=ペテルブルグで開催された第一回全露気象学水文学鉱泉治療学大会」で報告され、温泉治療や温暖な気候を利用した保養地としての有望性が強調された。

 19世紀の最後の10年間にソチ開発の任を担ったアバザーは、1881年1月に文豪フョードル・ドストーエフスキーが死亡した時、寡婦と子供たちのために御内帑金から年金2,000ルーブルが下賜されるという通知書を持参した人物であった。アバザーはドストーエフスキーの愛読者であったが、それは1880-1年の間、検閲長官であったからかもしれない。ただし、アバザーは開明派であり、その死もリベラルな人々に惜しまれた。1901年にアバザーが死亡したあとはイェルローモフがソチ観光開発を続けた。1900年海岸に大道りが開かれると、彼の名を採ってイェルモーロフ大道りと命名された、また1912年には彼の所有地に図書館が建てられている。

 ソチに別荘や庭園を持った人々の中には、ソチの気候に適した商業的農業経営を目指すものも見られた。先にリヴィエラ公園を開いていたヴァシーリー・フルドフは1883-1886年間自分の農場に小麦と玉蜀黍を栽培したが、地味が合わなかった。1886-1888年間には、60デシャーチナの土地でタバコを栽培した。収穫には恵まれたが労働者が足りず、収穫に適した季節は無駄に過ぎ去った。1888年からは100デシャーチナの果樹園でブドウの栽培を初め、葡萄酒の醸造所も建設した。十分の量のブドウが収穫されたが、フランスに学んで新方式で醸造したワインは売り物にはならなかった。クリミア種のリンゴはソチの気候に合わず、ザクロは酸っぱかった。この結果、農場経営は破綻し、折から皇族が絡んだ投資事業整理のために現金が必要になったので、1901年に1900デシャーチナの土地を50万ルーブリで農業国有財産省に売り渡した。彼がそれまでにソチで費やした金額は160万ルーブリであった。

 イェルモーロフは、モスクワの企業家タルノポーリスキーにラズドリノエの再開発を打診したが、私費での観光開発を約束を取り付け、事業展開に有利な土地の便宜を計った。一部は細かく区分して売りに出された。国策事業の波に乗ったタルノポロスキーは保養地開発に乗り出し、1909年6月14日、ソチの名刺ともいわれる「コーカサスのリヴィエラ」ホテル開業にこぎつけた。同ホテルは4階建て客室棟2棟(250名収容)、レストラン・カフェ、劇場(座席600)付きという大規模なものであった。事業は軌道に乗り、1913年には4棟目の建物も開業した。タルノポーリスキーは拡大する事業費増に対応するため資産を株式化して公開することを考えた。株主と家族は優待あるいは持ち株数によっては無料のサービスを受けることができた。1株100ルーブル建ての株券13,500株が発行され、会社は135万ルーブリの資金を得ることができた。1914年に631人であった株主の中には高級官僚、国家評議会議員、国立私立の銀行幹部などがいたが、大部分は健康上保養を必要としているものの外国へ保養に行く可能性がない人々で、3-10株を所有していた。白く塗られたホテルはソチの観光事業発展のシンボルになった。

  5 写真 コーカサスのリヴィエラ・ホテル

https://ngsochi.com/images/2019/36/5f39b022acc69810ff8cf972e9bf7833.jpg(https://ngsochi.com/ nasha-istoriya/6401-kavkazskaya-rivera-etapy-dolgogo-puti-i-sushchestvuyushchaya-realnost.html所収)

 ソチ第3の名園「ユージュナヤ・クルトゥーラ」(「南方の作物」の意味)はサンクトペテルブルグ市長ダニイル・ドラチョーフスキーが1910-1911年に自分の所有地「スルチャイノエ」の11ヘクタールに建設したものである。アドレル区ムズイムタ川の左岸に造園家レーゲリの設計によって現地の専門家でガールベの同僚であったスクルイヴァネクによって仕上げられた。設計は自然の高低を生かして、植生によるアクセントを付けた区分を作り、そのに中に何本もの並木道を通している。用水路を切って人工の池や滝を作り、南方楽園の情景を印象付けている。フルドフやフデーコフの庭園と同じく、遠い南方に対する北方人のあこがれが反映されているように思える。ロシア人観光客に人気のあるトルコのアンターリヤ、タイのプーケット島、エジプトのシャルム・エル・シェイクがある今、ソチのイメージはまた変化してしまったかもしれないが。但し「ユージュナヤ・クルトゥーラ」の名前はソヴィエト時代につけられたものである。

 ソチ開発者の第一世代に属するピョートル・ヴェレシチャーギンは、ソチ川の左岸に広い地所を確保していた。後継者のアレクサンドル・ヴェレシチャーギンはそれを利益を度外視した3万5千ルーブリで国庫に売却し、代金をソチの発展のための「ヴェレシチャーギン基金」として使用した。政府は買収した土地を別荘用に区分して20万ルーブルで売りに出したが、この時の購入者の中にペテルブルグ大学医学部教授のアレクサンドル・ヤコブーソンがいた。ヤコブソーン邸のブードニクの設計になるユニークな建物は当時から写真に撮られ絵葉書にされていて、今日もロマンチク様式の傑作であると評価されている。革命後の話であるが一旦学校として使用された後、「休息の家」に関する政令によって、ソヴィエト時代の保養所の最初の一つになった。詩人のウラディーミル・マヤコーフスキーが滞在して(1929年)、自作詩「ソ連のパスポートによせて」を初めて朗読したのはこの別荘であったが、今となってはだれも赤いパスポートのことは気にしないであろうが。現在この建物は「サナトリウム・スヴェトラーナ」の一部として運営されている。

 日本人にとって保養地に必須なものは温泉であろう。先述のベルはソチの山側に冷泉が湧いていることを書いているが、ウブイフ人は噴出口の近くに穴を掘って入浴したという。1874年沿黒海地方を隈なく調査したヴェレシチャーギンは、マツェスタ川上流に硫黄泉を発見した。1896年にストルヴェの分析が最初であった。1898年にソチを訪れたヴィークトル・パドグールスキー(1874-1927)も水質を分析し、治療上の有効性があることを確認し、『医事新聞』に投稿した。1902年、農業国有財産省はソチ福祉協会に600ルーブリを支出し、木造平屋の湯治場を開設させたが、ソチからの道路事情が悪くて経営が困難であったので、1909年モスクワの資本家で、作家アントン・チェーホフの知人としても、また芸術家のパトロンとして知られゼンジーノフ等の株式会社「マツェスタ硫黄温泉」に長期貸与された。ゼンジーノフはスターリンの別荘が建てられた保養所ゼリョーナヤ・ローシャの前身ミハイロフスコエ荘の所有者だった。1912年にはマツエスタ川の上流の旧マツェスタに本館浴場、下流の海岸に近い新マツェスタに別館浴場が建設され、革命後の温泉治療場としての展開を待つことになった。

  6 写真 観光開発以前のマツスタ源泉噴出口

https://ngsochi.com/images/2017/07/Matsesta_008.jpg(https://ngsochi.com/nasha-istoriya/2673-na-kurorte-matsestoj-zapakhlo.htm)

 一説にソチ最初の宿泊施設は1902年に開業したペンション・スベトラーナであったというが、19世紀末には、「ロンドン」、「グラン・オテル」、「カリフォルニア」、「マルセイユ」が開業していた。スヴェトラーナ荘は、客室20室を用意していて、所有者はアレクサンドル・パヴローヴィッチ・フロンシュテーイン(1845-1909)であった。貴族の家に生まれたフロンシュタインは若くして革命に志し、イタリアに渡ってジュゼッペ・ガリバルディの「千人隊(赤シャツ隊)」に加わった。更にその後はパリ・コミューンに加わったという。帰国後、ナロードニキの活動に関わって、ソチへ追放になった。先述のモスクワ商人ニコライ・マモーントフは大学時代の知人であったが、これもまた大学以来の友人で会った造園家ガールベの提案によってヴェーラ荘建築を監督し、また同時に自分のためにスヴェトラーナ荘を建築した。ヴェーラ荘はネオ・ロマンチズム様式であったが、こちらはモデルン様式だった。宿泊者の中には作曲家リムスキー=コルサコフ、作家マクシム・ゴーリキー、歌手シャリアピンなどが数えられた。現在も同じ場所で保存されているが、スヴェトラーナ・サナトリウムとは別の施設である。

  7 写真 ロシア革命前のスヴェトラーナ荘(撮影年不明)

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Pansion_Svetlana_Sochi.jpg