第6章第2節 開発
第2節 開発
政府には国家事業としてこの地域の植産にあたる資金的余裕がなかったので、様々な事業は個人あるいは民間資本に委ねられた。1870年2月24日の裁可以降、個人に対して、3000デシャーチナを上限とする国有地売買が実行され、96名に5万3千396デシャーチナが売却され、またコーカサス戦争功績者などに2万デシャチナが下賜された。また、皇帝自身と皇帝の弟コーカサス副王ミハイル・ニコライヴィチ(・ロマノフ)大公も広大な領地を確保した。ミハイル・ニコラーイヴィッチの領地はバルダネ庄であるが、これはルー、ホズズィ、ブー、デオリャプシ、ヴェランドイ、ホジエプス諸河川流域の6千デシャーチナにまたがっている。これらの地域の農耕地は、ブー川流域を除き、トルコから移住してきたアルメニア人200家族に各家族20デシャチナずつ、1デシャーチナあたり1ルーブリで貸し出された。住宅用の木材伐採は無料で提供された。彼らは主として玉蜀黍とタバコを栽培した。アルメニア人に貸し出されなかったブー川流域経営は、1872年に開始されたが、露土戦争(1876-1877年)に中断した後、果樹園として再開され、20デシャーチナに李、榛(ハシバミ)12デシャーチナ、桜桃2デシャーチナ、その他りんご、なし、アーモンドに26デシャーチナ、合わせて50デシャーチナであった。これら大規模な商業農業経営の結果、1896年にはソチから以下の産物が出荷された。
ソチの産品
葡萄酒(モスクワへ) 249 単位は全てプード(1プードは、16.38kg)
タバコ 2298
玉蜀黍(モスクワへ) 202
ぶどう(モスクワへ) 4
クルミ類 493
クリ 761
りんご 133
李 460
蜂蜜 193
ツゲ材 780
クリ板 1423 枚
クルミ板 24
クルミ角材 2613
細棒 1000
樫板 24500
クルミ材のタガ 919
開拓の初期から、ソチでは特に葡萄・タバコなどの商品植物の栽培が期待されていた。中でもタバコは、1909-1912年の間、ロシアは年間60万4千プードのタバコをヨーロッパやエジプトに輸出したが、ソチはその内の20%、約12万プードを出荷していた。ロシアでは、アドリアノープル条約(1829年)の後、トルコ産の上質タバコが輸入されるようになった。アレクサーンドル1世の時代に喫煙の習慣がひろまり、その結果1837年にサンクトペテルブルグでは道路や広場での喫煙が禁止され、1848年には全国でも公共の場所での喫煙に罰金が科されるようになった。30年代3フント(1フントは約400g)60-75カペイキだった価格は、20世紀初めには6から8ルーブリにまで上昇した。ニコライ1世がタバコ嫌いで、禁煙が命令されたが、アレクサーンドル2世は大のタバコ好きで、60年代に入ると警察による喫煙摘発は緩やかになり、1865年には一部例外を除き公共空間での喫煙が許可されるようになった。クバン地方におけるタバコ栽培はトルコから移住したギリシャ人とアルメニア人がもたらしたもので、栽培者数は、1866年7戸、188年520戸、1900年2,890戸、1917年10,391戸であった。また、クバン最初の工場は1866年、アルメニア人イサーク・ペトローヴィッチ・.ベドローソフによってイェカテリノダル(現クラスノダル)とクリムスクに建設された。第一次大戦とロシア革命という絶好のビジネスチャンスに遭遇して、タバコ産業は一層進展していく。1913年の、4工場、従業員196人、生産量17,563プードの規模は、1915年に、229人、21,143プードに拡大した。
なお、旧ソ連圏でグルジア、アゼルバイジャンと並んで、「クラスノダル茶」という商標で有名なソチの紅茶は、20世紀になってから栽培が始まった。これについては、後で述べよう。
4 写真 クバンのアルメニア人タバコ王ベドローソフ工場の宣伝ポスターhttps://coinsfrom.
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