第6章第一節 植民・殖産

1節 植民・殖産

1866年3月10日、ロシア占領下の沿黒海地方に黒海管区が置かれた。範囲はトゥアプセ川からブズィブ川までであった。つまり、現在のトゥアプセ軍南半分、現在のソチ市(大ソチ)、アブハジア共和国ガグラ地方が含まれていた。更に2年後の1868年にはアナパまでの地域が付け加えられたが、行政の中心はノヴォロスィースクに置かれた。1870年に管区はヴェリヤミン(トゥアプセ)、ノヴォロスィースク、ソチ(ダホ)の3小区に分割された。ただし、1884年にアナパのみはクバン州に属することになった。しかし、残る2小区の人口規模が小瑣であったので1888年に沿黒海地方(黒海管区)全体がクバン州に編入された。名称は管区を残したが、実際はその下の郡の行政規模でしかなかった。しかし、1896年、黒海管区は、再びクバン州から独立して県に昇格した(県庁所在地ノヴォロスィスーク)が、ソチは小区から管区に昇格した。管区領域はデデルカイ川(ラザレフスキー区)からクタイシ県スフーム管区の境までであったが、1904年にはガグラがスフーム管区から分離されて黒海管区に編入された。

   1 地図 ロシア帝国黒海県(出典/org/wiki/File:Map_of_Chernomorie_

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 黒海管区が設けられたのと同日の1866年3月10日、「黒海管区の植民と統制に関する規則」が制定され、ロシア帝国西南部の様々な民族の沿黒海地方移住が開始された。土地の分割が実行され、移住者は各戸土地30デシャチナと準備金40ルーブリが与えられた。1864年5月以降、現在のソチに当たる地域は軍部隊を除くと無人になていたが、1865年にはそれまでハーッジ・ケラントゥフの村があった現在のプラストゥンカ(コサック軍の「歩哨所」が置かれていたのであろう)とムズィムタ川筋のアフシュトイルに現地除隊の兵士やコサックが残留していた。1869年までのソチ(ダホ)小区内集落は、アイブガ、アフシュトイル、アレクサンドロフスコエ(現在のクラスノアンドロフスコエ)、ボージイ・ヴァドウイ(現マリノ)、エリザベットポリスコエ(現シャウミャン)、クラスノエ、レスノエ(上クデプストウイ)、ナヴァギンスコエ(あるいはナヴァギンカ)、ペレヴァルノエ、プラストゥンスコエ(あるいはプラストゥンカ)、サドヴォエ、ハムイシュキの12ケ村であったが、1886年までに、海岸部平地に16ヶ村、中間部平地に3ヶ村、山岳地帯平地に1ヶ村(クラースナヤ・ポリャーナ)の20ケ村に増加した。現在のソチ中心部に置かれていたダホ哨所は1874年にダホ町(パサード)に昇格し、さらに1896年にソチと改称された。この時のソチは山の手(現在灯台や大天使ミカエル大聖堂がある元の要塞周辺)と下町(海岸部とソチ川河口河岸からなっていた)。しかし、入植事業は順調とはいかなかった。実例をあげると、ソチの東南海岸のピレンコヴォエは1871年に開基、1876年までにモルドヴァ人79家族が入植したが、15家族は死に絶え、38家族は他の村に転居、残存26家族。プソウ川右岸のアドレルから内陸に12キロメートルにあるヴェショロエ村は1869年開基、1875年までにモルドヴァ人98家族が入植したが、死に絶えたもの29家族、転出28家族、残留41家族。ソチのソチ川河口から北へ4㎞のナヴァギンカ村も1869年(あるいは1867年)開基、1876年までにドイツ人とロシア人61家族が入植、そのうち死に絶えたもの10家族、転出34家族、残存17家族。ソチ北西部海岸のラザレフスコエは、1869年開基、1873年までにギリシャ人43家族が入植したが、死に絶えたもの6家族、転出26家族、残存11家族であった。ここに挙げられた例では非ロシア人移住者が目立つが、全体でも20村中17村が非ロシア人、3ヶ村のみがロシア人で、ロシア人以外の移住者はアルメニア人、ギリシャ人、ウクライナ人、エストニア人、モルドヴァ人、主としてイメレチア地方出身者からなるグルジア人が多かった。農民の移住がうまく行かなかった原因は、気候や土壌等についての事前の情報の不足、社会的基盤の未整備、当局の保護体制の欠如で、日本政府主導で実施された1950年代の日本人ドミニカ移住を思わされる。1870-1880年代のロシア人移住者は山地および亜熱帯農業の経験がなく、様々な病気、特に低地に入植した人々はアラリヤの犠牲になった。これ以前に黒海海岸に設置されたロシアの要塞の勤務兵もマラリヤに苦しんでいて、1845年には1万人の将兵中、2千5百人がマラリヤで死亡したと言われる。ソ連政府は政権樹立後直ちに全ソ連各地でマラリヤ蚊の撲滅に着手してある程度の成果をあげたが、ソチで新規のマラリヤ患者が出かったのは、ようやく1956年になってからだったと言われている。

 ナジゴ等残存チェルケス人の集落については前の章で述べたが、シャヘ川流域にはトルコから帰還したシャプスグ人数十家族が再入殖した。一旦、オスマン領へ移住した北コーカサス出身者の再入国には非常に高い障壁があり、許可されたとしても、旧住地ではなくアゾフ海沿岸やシベリアが指定された。それなのにシャヘのシャプスグ人は何故旧住地機関が許されたのであろうか、彼らは正教徒であったのだろうか。19世紀末20世紀初めのアルメニア人難民の例では、密入国者が少なくなかったといわれる。

 当初、準備が十分でなかった入植農民に大きな犠牲が伴ったとしても、ソチの農村は徐々に発展した。海岸部農村の一例をあげるとソチの中心から川沿いに4キロ程北に離れたナヴァギンカ村は1869年に開かれた。1872年の人口は156人であった。1895年に45家族がそれぞれ30デシャチナを分与された。この村にはこの他にも入植時には土地分与が得られなかった7家族がいたが、彼らは境界確定がおこなわれた1896年に初めて管区当局から割り当て地が与えられた。この年の人口は152人に微減している。1896年から村にはトルコ国籍のアルメニア人(彼らは統計上トルコ人に分類される場合もある)8家族も住み、村から100デシャーチナの農地を5年契約で借りていた。最初に土地分与を受けた45家族の内、5家族は分与地を売却、3家族は行方不明、ドイツ人22家族、ロシア人20家族が残って営農を続けていた。村にはルーテル派の教会と学校があった。人口は1898年に193人に増加している(内訳はスラブ系106人、ドイツ人85人、ポーランド人2人)。1895年の点検では、村民の営農状況は以下であった。

   ナヴァギンカ村要覧

  馬         53 

  仔馬        6 

  役牛        139 

  乳牛       116 

  役・乳牛以外の牛 97 

  豚        60 

  冬撒き小麦    27デシャチナ 

  玉蜀黍      47デシャチナ

    じゃがいも    27デシャチナ 

       牧草地      75デシャチナ 

       蜜蜂       154箱

  2 写真 ナヴァギンカ(現ザレチュノイ)、集落の南側にソチ川の支流が流れているので、現在では「川向う」(ザレチナヤ)と呼ばれている。https://arch-sochi.ru/wp-content/uploads/

2017/07/img-arso-3417.jpg  典拠<Наталя Захорова,Краткая история Микрорайона Заречнои>)

(https://arch-sochi.ru/2017/07/kratkaya-istoriya-mikrorayona-zarechnyiy/)

 

 中間地域では、プラストゥンカ村(1896年検分時)の例を示そう。 

  馬          54 

  仔馬          6 

  役牛          139  

  乳牛       116 

  役・乳牛以外の牛 103 

  羊          44

  山羊         62

  豚        353 

  冬撒き小麦      40デシャチナ

    玉蜀黍      157デシャチナ

       牧草地       7デシャチナ 

       蜜蜂       177箱

 この集落にグルジア人が最初に移住したのは1881年で、彼らはイメレチアの山地レチュフミの人々であった。この年から1886年までに57戸のイメレチア地方とカルトリ地方の人々が入植、更に1886年から1894年に23戸が加わり80戸になった。このうち1891年の内訳は、イメレチア人381人、メグレル人15人の396人であった。西グルジアのサメグレロ地方も土地不足が深刻で農民は移住先を求めていた。グルジア人全体では1897年にソチ小区の5%を占めていた。家畜では豚、穀物ではジャガイモがなく玉蜀黍が多いのは、彼らの食生活の特性によるものであろう。彼らは各戸30デシャーチナを与えられたが、この中には利用不可能地が含まれていたので、実際に利用できる土地は各戸平均28デシャーチナであった。しかし、彼らは森林で薪、栗、クルミなどを集めることができた。 

  3 写真 グルジア人移住者家族https://sochi24.tv/formirovanie-nacionalnogo-sostava-I-etniche

skoy-karty-sochi/

 初期入植者の大部分は、外国人を多く含む非ロシア人であった。アレクサーンドル三世期に影響力のあった文筆家で排外民族主義者のミハイル・コトコフ(1818-1887年)は、1867年『モスクワ報知』に一文を表して、ロシア人が自らの血を流して征服したコーカサスに入植しているのは非ロシア人すなわち南ドイツのドイツ人、アナトリアのギリシャ人・アルメニア人であると主張して、政府を糾弾する状況になった。