第6章第4節 ソチ共和国 

 第4節 ソチ共和国

 1905年、ペンション・スヴェトラーナ荘はソチ市内のギギエナ薬局とともに若者の政治的討論の場所となった。農村コミューン主義の運動家フロンシュテインのもとに集まった活動家は、周辺の農村に赴いて全ロシア農民組合(5月モスクワで発足、沿黒海地方では8月ノヴォラシースク管区大会、11月全国大会)に参加するようにプロパガンダをおこなった。全国大会で決議された運動方針は、1)納税の拒否、2)徴兵拒否、3)国家貯金局からの預金引き出し、4)間接税であるウオッカ、タバコ、茶、砂糖等消費税の拒否であった(『黒海沿岸』紙)。ソチ管区では大会前にはロシア人住むのアイブカ村以外での活動は盛んではなかったが、12月に入るといくつか集落でこれらの要求が実現され、加えて村落共同体指導者の更迭も実行された。9月にはノヴォロシースク・スフーム道の路労働者数十名が待遇改善を訴えてストライキに入り、経済問題に限って交渉することが合意された。エスエルのソチ・グループ(リーダーはセミョノフ)は既に前年結成されており、社会民主労働者党も5-6月にバトゥーム委員会からカニャエフが派遣され、既に前年から滞在しているグルジア人薬剤師アレクサンドル・グヴァトゥア、元神学生のフツィシュヴィリ等と協議を済ませていて、まもなく設立を迎えようとしていた。この10月に皇帝ニコライ二世の「十月宣言」発布され、言論・出版・集会・結社・信教の自由が発布されると、フロンシュテインはスヴェトラーナ荘に農業協会員ら50名の人々を集め、宣言の文章を読み上げてその意義について述べた。するとグヴァトゥアが立ち上がってフロンシュテインの話を遮り、「闘争は終了していない。流血は継続しつつある。どのようなものであっても政府と合意を結ぶことはあり得ない。プロレタリアートに権利を!パンが必要だ!」と叫んで、拍手喝采を受けた。老革命家の時代は終わったのである。革命派は街頭集会においても秩序維持派を圧倒し、人民法廷を開設し手続きを簡素化した即決の人民裁判をおこなった。この裁判では民事においては調停の機能が重視され商法に関しては原告から評価額の3%の手数料を取り立てられた。さらに、治安の悪化に対応して警察機能の強化が図られ、新たに30人の民警が新設されて12月1日から任務に入った。革命派は既存の町と管区の行政機能を温存したので、二重権力の体制になった。

 

  8 写真 ギギエナ(衛生)薬局 写真中央石段の右側の建物には「薬局」と書かれている。アッラ・グーセヴァによると1900年前後のソチには薬局は一軒しかなく、アルチュホーフは薬局一店がプラトゥンカ道りにあったと述べている。プラトゥンカ通りは1920年代半ばにヴォイコフ通りに改称されたという。写真の石段の奥は大天使ミカエル聖堂であるが、教会入り口側の鐘撞塔と奥の丸天井との関係によって写真撮影地点を知ることができる。教会自体は南南西に向いているので、撮影地点は北西で、写真手前の広い通りが、通称ブロドウエイ通現在のヴォイコフ通りであると判断することができる。写真の薬局はクヴァトゥアが勤務していたギギエナ薬局であるに違いない。経営者はグルジア人ロルドキパニヅェで、今も住宅が残されている。石段を挟んだその隣の建物は、看板に食堂とあり、写真の解像度が低いので読み取れないが何やらグルジア語らしき文字が書かれている。しかし、ホラヴァ・ハルチョ店はグーセヴァによると海岸地区にあったというから、この写真の店ではない。

https://sochi123.ru/assets/images/papka-dlya-ekateriny/el-spusk.jpghttps://sochi123.ru/istorii/liki-starogo-sochi.-5-ya-chast/ 所収)

 権力の奪取を狙う運動の中で、ソチ町の社会民主労働党メンバーにはリーダーを初めとしてグルジア人が多かったが、これにモルドヴァ人ポヤルコ(ニコファール・プロコ-フィエヴィチ、1870-1922。プリドニエステルのスロボヅィアの生まれ、家族と共にオデッサへ移住し、そこで数年を荷役労働者をしたあと、満州で東清鉄道建設に従事、日露戦争に際しては現地で招集され、東シベリア狙撃兵連隊に配属されたが、脱走して南ロシアに逃亡、ソチで社会民主労働党に入党、ソチの合法的労働団体「統一労働同盟」を指導した)、サーリニコフ等のロシア人が加わったので、国際的色彩が高まった。グヴァトゥアはサーリニコフの弁舌と巧みにラマルセーズを歌う集会での押し出しを買ったのだと言われる。このグループは創立にバトゥーム委員会の支援があったにもかかわらずイメレチア・ミングレリア委員会に属していた。当人達はミングレル・イメレチア委員会と称していたが、つまりは彼らがミングレル人であったからだろう。農業試験場長リャホースフキーは労働者のための労働紹介所、小規模小売業者のための組合等ロシア人のための組織を企画したが、12月29日社会民主労働者党員のグルジア人に射殺された。グヴァトゥアはアルメニア革命同盟(通称ダシュナク党)影響下にあったアルメニア人にも働きかけたが、ミハイル大公の農園の借地農民であったアルメニア人は慎重な態度をとった。11月23日にソチ町の巡査某を暗殺してから、社会民主労働党ロシア人グループはグルジア人執行部から距離を置き、社会革命党と共同歩調をとるようになった。グヴァトウアのグループは恐らく当初から民族的色彩が強く、現代の研究者たちによると、グルジア人グループはソチをロシアから分離してグルジアと統合することが目的であったと結論している。分離主義自体は既に1903年レーニンが少数民族自立の件を承認してから、社会民主労働者党の既定の方針であった。グヴァトゥアは、革命成就の後にソチはグルジア共和国に編入されるが、その理由は、かって黒海沿岸はグリアに属していたからであると吹聴していた。グリアは中世以降の地名であるので、私たちが知るコルキス(エグリスィ)あるいはラズィカを言っているのであろう。20世紀初めのグリアはチョロヒ川とアグリス・ツカリの間の地域で、クタイシ県のオズルゲティ郡になっていた。グリア農村における階級関係は先鋭化していて、1840年のグリア公国廃止後の増税の結果、1841年にアケティ村で始まった反乱は全地域に広がり、一時は7,000人の農民がこれに加わった。1905年、グリアの農民は再び立ち上がり、今度は社会民主労働者党の指導下、政府軍を破り国家機能を奪取した。ここにグリア共和国が宣言され、1906年初めまでロシア軍と戦い続けた。ソチの革命家も当局もグリア共和国を意識していたに違いない。

  9 写真 グルジア社会連邦党創立メンバー(1904年スイス、ジュネーヴにて)前列の低い椅子に座っているようにみえるのがデカノズシュヴィリ、画面その左がジョルジャヅェ、右側がミハイル・ツエレテリ。後列画面左からアレクサンドル・ガブニア、コマンド・ゴゲリナ、ヴァルラム・シェルケズィシュヴィリである。https://topwarru/uploads/posts/201506/1433247412

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 緊張が続くこの年11月13日、黒海岸のポチでロシア国境警備隊黒海旅団現地部隊は大量の小銃と弾薬を押収した。相当数が押収されたが、捜索を免れた艀もあり、少なくともノヴォロシースクに千丁、ガグラに千丁程度が送られた。「一艘のボートは積み荷(小銃1,600丁と弾薬)をアブハジアのガグラに届けることができた。ここではアラハヅィ村のアレクサンドル・イナリシュヴィリ(イナルイパ)の領地に隠された。武器はここで小分けにされ、西グルジアに運ばれた」(Hiroki Kuromiya,George Mamoulia,The Eurasian Triangle,Russia,The Caucasus and Japan,1904-1845,Warsaw/Berlin,DE Gruyter,2016,pp.44-45)。ガグラで武器を受けとったのは、社会民主労働党員で旧領主家のイナル・イパ公爵だった。確かに社会民主労働党は武器を欲していたが、どういう事情で社会連邦党の武器が社会民主労働党へ届られたのであろうか。勿論、明石にとってはそもそもどちらに届こうと大差なく、しかも日露戦争は終了していた。しかし、どちらの党に属するかはイナルイパにとって大問題であったであろう。なぜならば社会連邦党の主張するグルジアの自治は、同じくアブハジアにとっても自治となるとは限らないからである。アブハジア人がレーニンの民族理論に従って自決権を主張するとき、グルジアからの分離を条件としなければならないからである。その点グヴァトゥアのソチ地方グルジア領土説は、次善の策である。と言うのは当時ガグラはソチ管区に属していたからである。

  10 写真 ハルチョは日本でも普通の風景になったようだ。サイト中いたるところで、写真とレシピが溢れている。是非、自由に検索して下さい。20世紀始めのグルジア人画家ニコ・ピロスマニの宴会を描いた絵にはハルチョを描いたものが見つからないが、そもそもハルチョがパンのおかずの家庭料理で、スープに分類されるので、宴席には出されないからか、あるいはピロスマニは東グルジア、カヘティア地方の人で、ハルチョは西グルジアのメグレリ(サマグレロ)地方の料理であるからだろうか。 キーワード ハルチョ― харчо  ხარჩო

 ソチにおいて社会革命党や社会民主労働者党ロシア人グループと対抗関係にあったグヴァトゥアは、ノヴォロシースクから武装した社会革命党の集団が移動して来るのを恐れて、武器の調達を計画した。、48丁の小銃を200ルーブルで購入することができた。更にガグラの旧領主で社会民主労働党組織指導者のイナルイパが正体不明の外国船から1600丁の小銃を入手したという情報を耳にした。イナルイパは、12月23日、既に武装部隊を編成していた。グヴァトゥアはイナルイパと交渉して100丁(あるいは165丁)の銃を譲り受け、同時に50-60人の武装民兵のソチ派遣を取り付けた。この時イナルイパに対して、ソチではは武装蜂起の意図はなく、グヴァトゥア派の勢力を誇示する目的であると説明された。グヴァトゥアにはアドレルで武装民兵約100名、ホスタでも20名が同行した。プラスティンカには138名の民兵隊が組織されていたので、12月26日の段階でグヴァトゥアのもとには数百人の武装民兵が集結した。一方、ノヴォロシ-スクは12月25日にコサックに奪取されたので、社会革命党の武装民兵は、三々五々と南下し、ソチから応援に出かけていたグレーチキンも相当数の武器を帯同してソチに移動した。トゥアプセの代表団も一緒であった。電信が稼働していたので、この時ソチの人々はモスクワやロストフナダヌーで反乱が始まったことを知っていたが、ソチの社会民主労働者党員に対して上部機関から蜂起の指示は出されたいなかった。この時グヴァトゥアが確保した小銃の数量は、文献によって微妙なちがいがあるが、反乱に参加しグルジア人プロコフィヤ・ジャナシアの回顧では1千丁であった。

 12月26日プラストゥンカは既に武装していた。27日にはソチにも銃が廻ってきて、28日には公会堂、ホラヴァ・ハルチョ店、バヒヤ・ホテル(あるいはハルチョ店。ハルチョはグルジアのファースト・フードである)で武器を配布し始めた。次に彼らは海岸に向かって進み、灯台、ロシア海運交易協会事務所、ロシア運輸保険協会事務所を占拠、拘置所から収容者を解放、市民から武器を押収し、道路にはバリケードを作った。彼らがマモーントフ坂(現在のホテル・モスクワの近く)を下ろうとしたとき、騎馬警察隊と最初の市街戦が始まって、午後3時から8時間余り続き、死傷者がでた。ソチ管区長官は石造りの兵営に立てこもったが、一揆側は放置してあった18世紀鋳造の古い大砲を使って、1月1日には兵営を占領した。革命派民兵は600人、700人、あるいは1,000人とまで言われた。権力を掌握した人々は、ソチ共和国を宣言し、モウドヴァ人のポヤールコを大統領に選んだ。しかし、9日後の1月6日、コサック鎮圧部隊が接近してソチ共和国の夢は潰えた。フロンシュターインはこの間、憲兵に殴打され視力を失い。1909年に死亡した。治安回復後威勢逮捕、裁判がおこなわれ112(118)名が有罪になった。1907年9月山地のアイブカ村でパルチザン活動を続けていた元教員シュリジェンコと治安部隊との戦闘があった。これがソチにおける第一次ロシア革命の最後の動きだった。ポヤールコは自首、裁判で有罪、流刑になったが、二月革命後ソチに舞い戻る。グヴァトゥアとフツィシュヴリの消息は不明であるが、フツィシュヴィリだけは後にグルジアで強盗容疑で逮捕された。こうしてソチの赤の時代は終わり、黒の時代になっていた。

 ソチの社会民主労働者党員グヴァトゥアの武器調達には日本の工作員明石元二郎(当時陸軍大佐、ストックホルム公使館付、、1864-1919)の活動があったと信じられているが、明石の活動は司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』(筆者未読)で広く知られている。グルジア人党員デカノゾフ(ギオルギ・デカノズィシュヴィリ、1868-1910)との交流が言われているが、この時日本の資金によってスイスで購入された小銃は全体で2万5千丁であったと主張されている。デカノゾフはバクーで勤務する鉱山技術者で、1904年4月ジュネーヴで開かれた第1回グルジア革命家会議に出席しているから、ロシア連邦国家の一部としてグルジアの自治を追求する社会連邦主義者の中ではトップクラスの活動家であった。この会議には、ノエ・ジョルダニア(メンシェヴィキ、独立グルジアの国会議長、1868-1953)、アルチル・ジョルジャヅェ(社会連邦主義者、1892-1913)、ヴァルラム・チェルケズシュヴィリ(アナーキスト、1846-1925)、ミハイル・ツェレテリ(アナーキスト、1878-1965)等で、民主的ロシアの枠組の中でのグルジアの自治をめざすという方針を打ち出した。社会民主労働者党員は、すなわちジョルダニアは「グルジア自治の要求は時勢に逆行するものであり、明らかにナンセンスである」と宣言して退場した。社会民主労働者党は、既に1903年の第二回党大会でレーンニンの民族自決権を採用していた。勿論これはこの時の党の方針であって、ジョルダニアが常にグルジアの独立に固執したわけではないが、ジョルダニアを除く出席者はこのときグルジア社会連邦主義革命党を結成し、ソチ管区のグルジア人の中では一定程度の支持者が見られた。後日談だが、デカノゾフの息子ウラジミル(1898-1953年)は、ボリシェヴィキ党に加わり、1941年の独ソ戦開始の年の駐ベルリン大使であった。スターリンの死後には一時的にグルジア内務相の地位にあったが、ベリアに連座して逮捕され、裁判の後、銃殺された。遺族は2000年に名誉回復を申請したが却下された。

 なお、この間、何者かによって国庫が襲撃され、金庫が破られ、保管金が持ち去られた。調査にもかかわらず、犯人は判らず、金も出てこなかった。

  11 写真 ソチ最初のカラー写真。 西からソチ川流域を見る(1905-15年、セルゲイ・ミハイローヴィッチ・プロクーディン=ゴールスキー、1863-1944年)。プロドゥーキン=ゴールスキーは20世紀初め、帝国各地を旅行して写真を撮る計画を立て、皇帝ニコライ二世の援助のもと、1909-1912年、および1915年に計画を実現し、多数の写真を残した。1948年アメリカ合衆国議会図書館は作品を入手、後にデジタル復元が行われた

https://loc.gov/storage-services/service/pnp/prokc/21600/21663v.jpg#h=1016&w=1024Sochi.Vid s zapada.Eieka Sochi

 第1次ロシア革命時の混乱にも関わらず、そののち、ソチは年々多くの保養・観光客を惹きつけるようになった。鉄道は1913年にアルマヴィル・トゥアプセ間が、1916年にはトゥアプセ・ソチ間が開通し、ソチを訪れる旅行者数は1911年に1万1千人、1913年に1万8千600人、1915年約2万人に達した。長い間町のままで、ロマノフスカ(クラースナヤ・ポリャーナ)とホスタに先を越されていたソチが市になったのは、二月革命の年、1917年であった。大ソチは2市(ロマノフカとホスタ)、15行政村48集落、及びウチデレ、ルー、ヴァルダネに展開するミハイル・ニコライヴィチ大公の領地およびアドレルのシローフスキー家の農場の借地農(多くはアルメニア人)の集落があった。別荘はソチ(ダホ)町やホスタ方面だけでなく、ソチのダガムス側のウチデレはソチよりも気候温暖であったので、結核療養に最適であると考えられ、50デシャーチンの土地がマリア皇太后妃庁に移譲され(1900年)、ここに療養所が建設され(1914年)た。また、パヴロフ国家評議会議員、コンスタンチン・コンスタンチノヴィッチおよびドミトリー・コンスタンチノビッチ両大公、アバザー国家評議会議員(ソチ開発の推進者その人である)、プレヴァーコ弁護士、シェレメーティエフ伯爵などの別荘や所領が設けられた。