序言


 2012年のロンドンオリンピックは、日本選手団としては史上最多のメダルを獲得する素晴らしい大会になった。テレビには、感動・勇気・元気を与えられた国民のコメントで溢れ、銀座の受賞者パレードには、50万人という観客が集まったという。多くの日本人にとっては素晴らしい出来事であると思えた。来年2月に迫ったソチ・オリンピックでも感動や勇気、元気の物語が報道されることになるだろう。

 しかし、そこにも政治は押し寄せてくる。メキシコ大会(1968年)での黒人差別抗議、モントリオール大会(1976年)のアパルトヘイト批判、西側のモスクワ大会(1980年)ボイコット、東側のロスアンジェロス大会(1984年)対抗ボイコットが老人の記憶に残る。長野の冬季オリンピックでも聖火リレー会場で、チベット人と中国人(漢人)との小競り合いがあった。しかし、逆にオリンピック大会を積極的にプラスのイメージの強調の場所として利用しようとする動きも起こった。2010年のカナダ・バンクーバー大会では「先住民の参加」、「環境保護」、および「持続可能な発展」を開催理念として採用し、開会式には先住民の代表300人が民族衣装を着てアトラクションに参加した。2000年シドニー・オリンピックでも、オーストラリ政府の非人道的なアボリジニー政策の転換が反映されていた。これは1970年代以降、世界規模で先住民権利擁護運動が広がったことによるもので、それ以前は、例えば札幌冬季大会(1972年)では、北海道で先住民権利擁護の運動を進めていた人々も「旧土人保護法」等を巡る主張にオリンピックを絡めることはなかった。真駒内(マコマナ)でも手稲(テイネ)でも、アイヌ語起源地名に格別の思いを馳せることなく競技が進められていた。

 開催地決定に当たって、IOCが、大会開催地選定のために重視しているとされる条件として、単に競技実施のための利便性に加えて、国民全体あるいは地域住民の支持があると言われる。ロシアのソチ招致自体にはプーチン大統領の個人的イニシャティヴが強かったが、2007年7月プーチン氏は自分でグアテマラの国際オリンピック委員会総会に出席して、開催招致演説を行った。プーチン氏は、ソチの自然とギリシャの植民地であったことを紹介し、5分間のスピーチの大部分を施設の便利さやロシアのスポーツ振興について強調した。しかし、この演説の中では、ソチで大会を実施することが人類社会の進歩に繋がるかもしれない積極的意義については主張されなかった。地元ではソチに隣接するロシア連邦アディゲ共和国大統領が、経済開発の観点から賛成の意見を表明した。しかし、同共和国内では「アディゲ共和国チェルケス人会議」が反対を表明した。同共和国の別の住民団体であるアデイゲ・ハセは、反対の意見と大会にアディゲ(アディゲとチェルケスは同じ意味で用いられている)人のテーマを盛り込めば反対しないという声に分かれた。2010年アディゲ共和国国家評議会は、ロシア・オリンピック委員会とソチ市の大会開催委員長に対して、コーカサスの人々の歴史と文化を盛り込んだプログラムが盛り込まれない懸念を表明した。やはりソチに近いカバルダ・バルカル共和国でも、ここに本部を置く国際チェルケス人協会は、先住民の文化と歴史をテーマにしたプログラムの導入を条件に開催を承認した。これに応じて、ロシア・オリンピック委員会と開催実行委員会は、必要と思われるプログラムは採用すると回答した。在外チェルケス人の反響も大きかった。アメリカ合衆国ニュージャーシー州在住の学生を中心とする「ノー・ソチ=オリンピック・2014」運動は、2010年バンクーヴァー大会や2012年ロンドン・オリッピクで抗議デモをおこなった。イスラエル、ヨルダンの在外チェルケス人団体も国際オリンピック委員会に対し、ソチ開催に反対する意見書を送付した。トルコでも活動家のグループは2013年5月21日に、イスタンブルで抗議のデモを行うとともに、同胞にロシア大使館前でのデモを呼びかけた。

アメリカ在住の若いチェルケス人女性タマラ・バルスィクは、「ソチでオリンピックが開かれて、それにも関わらず世界の人々がチェルケス人の歴史を知らないとしたら、私たちには悲しい記念日になります」と述べた。オリンピック大会という政治空間でソチや隣り合う地域の住民がどのような主張を持っているのか、その言葉の背景をここではソチの歴史の中に探したい。我々の感動・勇気・元気が他の誰かの失望や怒り・悲しみにならないように。