記事のアーカイブ

第6章第6節 ソ連の保養・観光政策とソチ 第7節 オリンピックとジェノサイド

  第6節 ソ連の保養・観光政策とソチ 第1項 赤いシャプスギア ソ連時代のソチは1920年クバン及び黒海州の一部としてソチ郡が置かれた。現在の大ソチ市のラザレフスコエ区は、トゥアプセ郡に編入された。ガグラ地方は赤軍に占領されソヴィエト社会主義共和国政府が樹立されていたグルジアに譲渡された。クバン及び黒海州は、その後北コーカサス地方(1924-1934)、アゾフ及び黒海地方(1934-1937)、クラスノダル(旧イェカテリノダル)地方と改変された。...
続きを読む

第6章第4節 ソチ共和国 

 第4節 ソチ共和国 1905年、ペンション・スヴェトラーナ荘はソチ市内のギギエナ薬局とともに若者の政治的討論の場所となった。農村コミューン主義の運動家フロンシュテインのもとに集まった活動家は、周辺の農村に赴いて全ロシア農民組合(5月モスクワで発足、沿黒海地方では8月ノヴォラシースク管区大会、11月全国大会)に参加するようにプロパガンダをおこなった。全国大会で決議された運動方針は、1)納税の拒否、2)徴兵拒否、3)国家貯金局からの預金引き出し、4)間接税であるウオッカ、タバコ、茶、砂糖等消費税の拒否であった(『黒海沿岸』紙)。ソチ管区では大会前にはロシア人住むのアイブカ村以外での活動は盛んでは
続きを読む

第6章第3節 保養と観光拠点の出発

  第3節 保養と観光拠点の出発  <観光保養都市ソチの展開>  黒海管区が設置された1866年、ソチには病院、国庫に属する倉庫、軍隊、小規模な商業施設が置かれ、少人数の監督官と雇員がいただけであった。1874年にはここにダホ・パサードの設置が許可された時も、民間人は15-20家族がいただけだったが、各戸に400デシャーチナの国有地が下賜された。郵便電報事業は1878年に業務開始、郵便局は灯台の近くに設けられた。税関も1870年にアドレルに設置され貿易に便利になった。レーニンが「革命とはソヴィエト化と電化である」とまで言った電気は1908年に小規模な発電が始まり、コーカサス・リヴィエラ・ホテル
続きを読む

第6章第2節 開発

 第2節 開発 政府には国家事業としてこの地域の植産にあたる資金的余裕がなかったので、様々な事業は個人あるいは民間資本に委ねられた。1870年2月24日の裁可以降、個人に対して、3000デシャーチナを上限とする国有地売買が実行され、96名に5万3千396デシャーチナが売却され、またコーカサス戦争功績者などに2万デシャチナが下賜された。また、皇帝自身と皇帝の弟コーカサス副王ミハイル・ニコライヴィチ(・ロマノフ)大公も広大な領地を確保した。ミハイル・ニコラーイヴィッチの領地はバルダネ庄であるが、これはルー、ホズズィ、ブー、デオリャプシ、ヴェランドイ、ホジエプス諸河川流域の6千デシャーチナにまたがっ
続きを読む

前言

       For the memory of Yrkaterina Vanestian,         1930(Sochi)- 2016(Yerevan)       イェカテリナ・ヴァネツイアンの思い出のために         1930(ソチ)ー イェレヴァン 
続きを読む

第1節 北西コーカサス

第1章 ソチとその周辺の地域第1節 北西コーカサス ロシアと西アジアの間に二つの海がある。黒海とカスピ海である。黒海はロシアとトルコやバルカン半島の諸国を隔て、カスピ海はロシアとイランや中央アジアの国々とを隔てている。それぞれ、面積436,400平方km(アゾフ海を除く)と341,000平方キロメートル、黒海には日本列島がすっぽり収まり、カスピ海は日本より僅か小さい。黒海にはドン、ドニエステル、ドナウの諸河川が流れ込んでいるので水収支は黒字だが、南西部でボスフォラス海峡によって地中海とつながっている。一方ヴォルガ川、テレク川、クラ川が流れこむカスピ海には外への出口がないが、蒸発量が多いので溢れ
続きを読む