第3章 イタリア商人とモンゴル・ハン

  第1節 クリミア半島の出会い

 一人と一人の間に特別の出会いがあるように、文明と文明の間にも同様の関係があるかもしれない。単独ではできない何か大きな仕事が、巡り合って力を出し合うことでできるかも知れない。スキタイ人とギリシャ人、突厥とソグド人、そしてモンゴル人とイタリア人のように。

 1219年、チンギスハンは中央アジアに出陣して、ホラズム帝国の主要部を占領するが、作戦の失敗で皇帝をはじめ主要な王族を取り逃がしてしまう。この結果、戦線は必然的にイランとアフガニスタンに拡大せざるを得なかった。1220年チンギスハンは行方不明の皇帝追撃の為にジョベとスベデイが率いる3万の軍隊をイランに派遣し、自分自身はアフガニスタン方面で作戦を継続した。ジョベとスベデイは1220年、1221年の冬を南コーカサス東部で過ごし、1222年にはグルジアとシルヴァン(現アゼルバイジャン共和国領北部)、ダゲスタン(カスピ海西北岸、北コーカサス東部)を通って、北コーカサスの草原に入ると、そこに遊牧していたキプチャク人とアラン人等コーカサス諸民族の軍隊を撃破した。この年の冬を、北コーカサスで迎えると、越冬のために西に進んでアゾフ海北岸に出た。しかし、春の訪れを待たずクリミアに南下し、1月、半島海岸中央部の交易港スダクを攻撃した。




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




 現代のスダク港(ウィキメディア・コモンズСудакская бухта13Julay 2011)

クリミア半島の重要港湾の一つであるスダクは、2004年以来トレビゾンド帝国の支配下にあった。住民は主として、ギリシャ人とアルメニア人であったが、山中に逃れるか、船でアナトリアに退避した。この折アナトリアに逃れた一艘の船がシノップ沖で座礁した。アナトリアを領有していたルーム・セルジューク朝宮廷は、難破船の積荷所有権に関する海事法上の慣習に従って、積荷を押収した。しかし、ルーム・セルジューク朝と敵対的関係にあったトレビゾンド帝国側の主張は、この船はクリミアから納税のためにトレビゾンドを目指していたもので、遭難は偶然ではなく仕組まれたのであると主張した。この事件がきっかけで両国の関係は険悪化し、同年中に交戦状態に陥った。更に、1225年、アナトリアのムスリム商人が、イスラーム教徒の商人はシリアではフランク人(西欧人)、キリキアではアルメニア人、クリミアではルースの商人に不利な扱いを受けており、スダクではセルジューク朝臣民の商品が略奪されたとして、善処方を陳情した。スルタンはカスタモヌの領主フサームッディーン・チョバンにスダクを占領させた。一方、スダクを攻撃したモンゴル軍は5月にロシアの年代記作者がカルカ川と呼んでいる場所(ウクライナのドネツ市の東を流れ、マリウポリス市の近くでアゾフ海に流れ込む平原の中の小河川)で、ルースの諸侯とキプチャク人の連合軍を撃破し、それ以上はルース内部に侵攻せず、反転してヴォルガ中流に向かい、南北交易の中心地、ヴォルガ=ブルガルを攻撃し、東方に帰還した。しかし、1236年、モンゴル帝国は1219年の場合とは異なり始めから占領を目的として世界各地に遠征軍を派遣することを決定し、ロシアと東欧にはチンギスハンの長男ジョチの次男バトゥを総帥とする遠征軍に割り当てられた。北コーカサスのアラン、チェルケス、キプチャク等、またルースの諸民族は再び攻撃を受け、ルーム・セルジューク朝が支配していたスダクも1239年2度目の攻撃を受けた。モンケのロシア東欧遠征軍は、オゴタイ・ハンの死により一斉に帰国したが、チンギスハンの長子ジョチの子孫は占領地に残留し、新しい国家体制の確立にあたった。彼らの領土の東半はジョチの長男オルダが取ったが、西半はバトゥが治めた。ロシア史で言うゾロタヤ・オルダ(金帳汗国)である。

 ビザンツ帝国とイタリア都市国家は浅からぬ因縁にあった。11世紀、ヴェネツィアは地中海東部で、ジェノヴァはピサとともに地中海西部で、海賊やイスラーム教徒勢力と戦いつつ、商圏を拡大した。11世紀末に十字軍運動が始まるとイタリア商人がビザンツの海運と商業を圧倒するようになる。ジェノアは西地中海から東地中海へ勢力を拡大しようと望んだので、やがて、東地中海の覇者ヴェネツィアと争うようになった。ヴェネツィアは第4回十字軍の乗船チャーター料を払えなかった西欧の騎士たちをそそのかして、コンスタンチノープルを征服させた。他方、ジェノアは既にビザンツ皇帝に黒海およびアゾフ海での交易権を与えられていたが、西欧人のラテン帝国重関税政策によって商売を邪魔されていると不満を感じていたので、1260年ニケーアのミカエル8世のビザンツ帝国復興計画に参画し、海軍を提供した。このようにヴェネツィアとジェノアの利害は相反するものがあった。1223年のモンゴル軍のソルダイア攻撃は、ヴェネツィアがモンゴル軍に依頼あるいは使嗾したのだという説があるが、あらゆる陰謀説と同様に証拠はないし、しかも前提として既にジェノア人がクリミア半島に根拠地を置いていなければならない。ミハイル帝はジェノア艦隊の助けを受けて、十字軍からコンスタンチノープルを奪還すると、1261年ジェノアに事実上の黒海交易独占権を与える内容の条約を締結した(ニンファイオン条約)。新しく開かれたマーケットは他のイタリア都市にも垂唾の的だったので、ピザは直ちに条約上の抜け道を見つけて、アゾフ海にポルト・ピサノの根拠地を設けた。両国の軋轢は、1277年8月14日、スダク沖の戦闘でジェノアが圧勝して決着がついた。しかし、ジェノアの黒海貿易独占を危惧した皇帝は、1265年にヴェネツィアにも通商権を与えた。ヴェネツィアはソルダイアに商館を構え、1287年にはそれを領事館に昇格させた。また、1263年にはジェノア、ビザンツ帝国ミハイル8世、エジプト-マムルーク政権のスルタン・バイバルスの三者協定が成立し、スルタンあるいは代理人がクリミアで自由に奴隷を買い付けることができるようになった。1253年にギヨーム・ド・ルブルクがモンゴル訪使の途についた時は、ジェノアの活動が活発化して、カッファに根拠地を建設する前であったので、コンスタンチノポリスから出帆して、上陸したのはソルダイアだった。

ここへは、トルコから来て北方諸地方へ行こうとするあらゆる商人、逆にまた、ロシアそのほか北方諸領域から来てトルコへ渡ろうとするものたちがやって参ります。このうち、北から来るものはりす・白てんその他の高価な毛皮をもたらし、南から来るものは木綿織物類・絹布・良い匂いのする香料を運んできます。この地区の東方にはマトリカ(タマン)という都市があり、ここで、タナイス(ドン)河が、幅12マイルの河口をなしてポントゥスの海に注ぎます。(ドーソンの英訳による護雅夫訳)

このスダクは1265年に、亡命してハンの下に庇護を求めたルーム・セルジューク朝の王族イッズディーン・ケイカーウスに領地(イクター)として与えられている。イクターは不動産、或いはそこから上がる収入の分与であるから、この場合は関税収入を与えられたのであろうか。ジョチ=ウルスはハザルに倣ってクリミアにトドン(都督)を置いていた。

エジプトの資料によると、1290年に、全クリミアの関税長官はカイロ出身のエジプト人ヤクーブで、カッファの帝国関税徴集官はシリア人ジェレミチャリ、次官はケマル・タムガチ、関税官はエジプト、アシューム出身のメフメト、ヤヌティオスであった。タムガチは、関税(タムガ)を徴収するためのモンゴル帝国の官職である。また、ジェノア人の記録によると14世紀20-30年代ケルチにはチェルケス人の領主がおり、1358年にタナの総督であった人物もチェルケス人、また1379年から1386年の間、ジョチ・ウルスのクリミア総督であるトドンもチェルケス人であった。アゾフ海沿岸やタマン半島各地の領主もチェルケス人だったことが知られている。

しかし、黒海交易で主導権を握ったのはやはりモンゴル人ではなくジェノアだった。ジェノアは1266年、ジョチ=ウルスのモンケテミュル=ハンの特許を得て、クリミア半島のかつてのフェオドシアの場所にカッファを建設し、タナ(アゾフ)とスフミの間の39カ所に商館を開いた。1274年にはスダクを占領して、一時、ヴェネツィア人を追放した。カッファが黒海東北岸の全ての交易地の中心で、ここには本国から領事が派遣された。これら黒海東北岸の商業居留地の中で、自治権が言い換えるとジェノアの統治権が確立していたのはカッファだけで、その他の居留地は在地の支配者の領有下にあり、時には深刻な紛争が起きることもあった。また、キプチャク・ハンとの関係も波乱を含んでおり、1307年ハンの首都サライでイタリア商人の商品が差し押さえられ、1308年ハンの軍隊は、包囲の末カッファを占領した。1343年にもジャニベク・ハンはヴェネツィア商人のタナ立ち居入りを禁止し、カッファの占領を試みたので、教皇がモンゴル(タタール)人に対する十字軍を宣言するほどであった。しかしこの宣言には実体が伴わなかった。1346年にも同様の試みがなされたが空振りに終わった。黒死病がはやりだしたからである。



1771年のカッファ(Bratianu,G.,Rechershes sur le Commerce Genoi dans la Mer Noire au
XIII siècle,Paris,1929、PL.IV)

 ジェノアの商業圏は広大で39ケ所に商館が設置されていたかのように言われているが、一円的な領域支配権に発展することはなく、植民都市圏とでも言い得るのは、カッファ以外では最初マトレガ(タマン、トムタラカン)、マパ(アナパ)、バティヤル(ノヴォロシースク)、コパ(スラヴャンスクナクバニあるいはテムリュク)だけであった。1314年にジェノア政府の公的機関である「航海および黒海に関する8人委員会」が設置され、1341年にガザリア庁が設置されたが、カッファに他の都市の領事(スィミソ、チェンバロ、トラペズント、サマストリ、タナ、およびソルダイア)に対する行政上の監督権が与えられるのは、1398年になってからであった。崩壊直前の1447年「カッファ規則」によると、カッファの管轄下にある居留地はいずれも領事が置かれているクリミア半島のスダク、タマン半島のマパ(アナパ)、バティヤル(ノヴォロシースク)、アゾフ海岸のコパ(ノヴォスラヴャンスク)の4箇所で、ノヴォロシースク以南、スフミまでの地域にジェノアの領事はおらず、公的にジェノアと関係のある施設に関する記述も無い。

 通称39カ所の商館設置地とされる場所の内、実際に時代的にジェノア人の遺跡として確認されるのは、沿黒海地方では3カ所だけである。一つはトゥアプセのノヴォミハイロフカ集落にあるドゥズカレ、ソチ市北部のラザレフスキー市区にあるゴドリクと同市中央市区ママイカレである。前の2箇所からは14-15世紀、ママイカレからは13-14世紀の遺物が出土している。また、アブハジアでは、1970年代に発見されていたオチャムチラ郡のクインドイグ村(この村の住民の祖先に関する伝説については、前の章で述べた)とタムイシ村の境のサントマゾ要塞跡が2010年に発掘されている。



カッファ要塞(ウィキメディア・コモンズFeodosiya.Genoesefortress of Caffa)

 

 ジェノアの商館は、設置された地点の数だけが強調されるが、筆者の知るところ、どのような形でも、一覧となった記録・文書は発見されていないと思う。数と名称は種々の地図上に記入されたものである。実際に使用されたか、使用を前提に作成された海図はこの時代においては、手書きで、一点ものである。従って、海岸線、記入された地名、その場所にも微細な違いがある。フォミェンコは調査可能な全ての海図上の地名を収集して現代地名と対照している。また、キイフ(キエフ)の研究者ゴルデエフも海図上の地名を現代の地名と対照する研究を行っている。以下では、フォミェンコとゴルディエフによって、地名研究の概況を紹介するが、左側が地図上の地名、中央がゴルディエフの、右側がフォミェンコ特定した地名である。列を無視した行は、筆者の意見である。

 13-15世紀の黒海東岸

 ロチコパ  スラヴャンスク-ナ-クバニ    クバン川デルタ

 ロチチ   プロトカ川           クバン川岸

  プロトカ川はクバン川の右側分流で、アゾフ海に流れ込んでいる。内陸部にある現在のスラヴャンスク-ナクバニまでは、船による運送が行われている。フォミェンコの推定は具体的ではない。

 コパ    テムリュク           クバン川下流/ゴルビツキエ村

  テミュリュクとゴルビツカヤはクバン川を挟んだ対岸である。コパは通例スラヴャンスク-ナクバニに充てられている。

 カペ・デ・クロクセ タマン湾(セノイ村)  アヒレオン岬

  セノイ村市街は西に向かって開いているタマン湾の最奥部ある。ここはカペ(岬)でなければならない。アヒレオン岬はタマンスコ=ザポロジェスカヤ村の北に向いた緩やかな岬(イリイチ・キャンプ場の近く)で、クリミアに続く鉄道とフェリーがあるタマン湾北側の半島である。

 マトレガ  タマン            タマン・スタニッツア

 マパ    アナパ            アナパ

 クサ(ゴルディエフの表にはなし)     ハコ岬(名称は筆者が訂正)

 トリニスィ ウトリシュ岬         ツェメス川

  ケルチ海峡から黒海に出ると、航路は東へタマン半島を回り込む。ウトリシュ岬はアナパとノヴォロシースクの間の半島の突端であるが、地図では大小二つのウトリシュ岬が載せられている。アナパに近いのが大ウトリシュ岬である。東側ノヴォロシースクに近いのが、古い名称のハコ(ムイスハコ)が、現在の小ウトリシュ岬である。

 カロリメノ ノヴォラスィースク湾     ノヴォラスィースク

  リメノは潟の意味である。両研究者の着眼点は地図上の地名であるので、旅行記や行政文書とは多少見る所が違う。古代にはバティとして知られていたノヴォラシースクの中世名称、バタリオが言及されないのは、これが地図上の名称ではないからであろうか。しかし、これはジェノア人のバティヤルである。

 マウロ・ラコ ゲレンジク湾        ゲレンジク

 コレト    イドコパス岬        (フォミェンコによるとコレサ)

  イドコパス岬はゲレンジク郡ジャンホットの南、ベッタの北で、プラスコヴェエフカ村とクリニッツア集落の間。

 マウロ・ズィキア   プシャダ川       ゲレンジク郡

  プシャダ川はシャプスグ人の山村プシャダ(ゲレンジクから32km、海岸から11km)を通って黒海に流れる。クリニッツァ集落はプシャダ川河口の左岸(南岸)にある。ゲレンジクとベッタの間は、沿黒海地方でもっとも人口の少ない地域である。標高1,000メートル程の山塊が海岸すぐそばにまで迫って、崖になっていて、国道さえノヴォロシースク、ソチ間は、内陸部を迂回しせざるをえない。プーチン大統領の別荘(つまり、夏の宮殿、ただし名義上の所有権は別人が持っている)がここから遠くないプラスコヴィエフカ村のイドコパス湾を望む自然保護区に建設されたのは、この海岸沿いには開発の手が及ばず自然が手付かずで残されていたからである。だから、この地域が交易の拠点としては最適地であったとは思えない。また、ジェノア商人の存在を思い起こさせる遺跡も発見されていない。上のマウロ・ラコ、およびこのマウロ・ズィキアのマウロは黒の意味である。

一方、クリニッツァ集落の東南東15km、ヴラン川下流左岸アルヒポ-オシポフカにはテシェブ(ビギウス、ゲビウス)滝に、砂岩のブロックを漆喰で積み上げた内壁の厚さ1メートル、外壁1.35メートル、現存する高さ4メートルで推定3階建ての要塞あるいは見張り台の址と思われる石組みが残る。現地ではローマ時代のものと主張されている。

また、海岸沿いに直線距離では南東43kmのノヴォミハイルスコエのベスクロヴヌイ岬には古いドゥズ(デュズュ)・カレがあり、城壁および、墓地はビザンツ時代のものであるが、遺跡内の収集品は14-15世紀のものであった。これがマウロ・ズィキアであるという主張が強いが、尤もであると思われる。

 ロンディア川    ヴラン川          ツュエプスィン/ヴィラン川

  

  フォミェンコのヴィラン川は、ヴラン川とするのが正しい。コーカサス山脈から流れて、シェブシュ川と合流して、アルヒポ-オシーポフで黒海に流入する。現在までのところローマのものと推測されているテシェブスの見張り塔周辺からは、ジェノヴァの遺物は発見されていない。すると、現在の地名でアルヒポ-オシポフカからノヴォミハイルスコエまでには、ジェノヴァの寄港地はなかったことになるが、17世紀の港の状況を見ると以外ではないかもしれない。

 ポルト・デ・スサコ港 トゥアプセ         コドル/トゥアプセ

   地名コドルは確認できない。カドシュであろう。 

 アルバ・ゼキア    ラザレフスコエ      シャプスグ谷?(?は原文にある)

  シャプスグ谷は不明瞭な表現だが、シェプスィ川の渓谷という意味であろうか、するとトゥアプセ市のほぼ最南端、市街から約10キロメートル南のシェプスィ川である。ラザルフスコエは大ソチ市の最北の市街である。両候補地点は近い距離にある。ただし、古代史研究上有名な地名は、アシェ川の方である。アルバは白の意味だが、マウロ(黒)と対応している。ラザレフスコエとすると、ここが、古代のアフエンテであろう。

 サンナ       シャヘ川           

フォミェンコは個々の海図に関してはサンナの地名を記述するが、現代地名とは対照していない。シャヘ川は、古代にズィヒとサニギを分けた沿黒海地方第二の大河である。

 クバ岬       ソチ              コドシュ岬(コデスと修正)

  このコドシュ岬は、当然、トゥアプセの北西のものではなく、シャヘ川の北にあり、ロシアのゴロヴィンスキー要塞があったコデス川(マトルススカヤ・シェリ)近くのものであると思われる。しかし、そのように考えると、両河の南北位置が入れ替わってしまう。フォミェンコのプランとゴルディエフのプランを無理に一つにしてはいけないようだ。19世紀の地図には「ソチ港の岬」の地名が見える。これが、クバ岬だろうか。一部の文献に1479年オスマン軍がアナパとクバの要塞を占領したとする記述があるが、これはクバではなくコパであると思われる。つまり、ソチではなくテムリュクあるいは、スラヴャンスク-ナ-クバニである。オスマン語ではクバとコパの表記は非常に似ているための誤読であろう。

 コスト        ホスト         ソチ港     

13世紀以降作成された海図に記された、トゥアプセとガグラの間のいくつかの地名の一つコスト、あるいはグストは、フォミェンコはこれをソチ港(ソチ中央区)に当てるが、ゴルディイェフのように大ソチ市内南部のホスタがこの街だと言う主張が強い。

 ライアゾ       アドレル        リウシュ村

19世紀の地図では、アドレルの北部、現在ではモルドフカの近くと思われる場所にリアシュの地名が書きこまれている。 

 アウオガッスィア  ツアンドリプシ     ムズィムタ川/アブハジア

ツァンドリプシュは、ロシア・アブハジア国境のプソウ川のアブハジア側であるが、フォミェンコの言いたいことは明瞭ではないものの、19世紀ムズィムタ河の左岸にアブハという集落があったので、それを言うのであろう。リアシュとツァンドラプシュは数キロメートルしか離れていない。ジェノアの商館があったとすると海岸であるツァンドリプシュに可能性が大きいのではないだろうか。

 カカリ  ガグラ             ガグラ

 ソフィア アラハズィ           アラハズィ

アラハズィは、ガグラとピツンダの間に現在もある地名である。

 ジロ   ブズィプタ           ピツゥンダ岬

 ブズィプタ(ブズィプタ)は、アブハズ語でブズィブ川の意味で、河川名がそのまま村名になっている。

 ペゾンダ ピツゥンダ           ピツンダ

 ブクソ岬 ソウクス岬           ソウクス岬/グダウタ

 ニコラ川 ノーヴィ・アフォン       アナコピア近郊のプスィルトゥ川

 サウアスポリ スフミ           スフミ

 メングレロ港 ケラスリ川         ケラスリ川のスフミ湾流入河口

 ケラスリ川はスフミの東南郊外であり、ここがメグレリの港であるとすると、スフミ自体がメグレリ地方の領主ダディアニ家の支配地には入っていたのであろう。

 ソチ市内の地名について、ゴルディエフとフォミェンコの推定には違いが見られるが、現代のラザレフスコエであるアルバ・ズィキアから現代のアドラルであるライアゾまでがソチ市の領域になる。ジェノア人の地図製作者ピエトロ・ヴェスコンテ作成の1311年制作の地図、また同人の1318年地図では、アブハジア(それぞれAnogassia,Anogaxia)はコストとガグラにあたる地名のあいだに置かれている。これは1367年製フランチェスコ・ピツィガノのコストとアヤソの場所にあたる。フォミェンコはこれを地域名としてムズィムタ川河口部に置いたが、1596年ジェラルド・メルカトールの「ヘルソンのタヴリク」図では、Auogaxiaは、カカリ(ガグラ)とペゾンダ(ピツゥンダ)の背後に書かれている。いずれの地図にも、スフミの部分は外れているので、レオン朝アブハジア王国の制度にあったようにアブハジア領とスフミ領を区別してアブハジア領の位置をここに置いたのか、単にこの地域もアブハジアに含まれることを表現したのか、にわかには断言できない。

 シャプ

スグ渓谷にアルバ・ゼキア(白ジキア)、スサコの北の今日のゲリンジュク市南部にマウロ・

ザキア(黒ジキア)があったのは、中世初期のジキアとアブハジアとの区分を反映してい

るかのように想像できる。また、現地の歴史研究者や歴史愛好家の中にも、この区別を西

ジキア、東ジキアと理解し、東ジキアは西アブハジアに同じであると主張される場合もあ

る。



 メルカトール作成のヨーロッパ地図沿黒海地方部(フォミェンコより)

   

ジェノア商人が黒海周辺で売り込んだのは、ラシャ、木綿布、ビロード、錦、ジュータン、木綿糸、ヴェネツィアガラス、石鹸、乳香、刀身、塩、米、芥子、生姜などであった。勿論嗜好品や高級品の買い手は、ジョチ・ウルスの宮廷であろう。これに対して購入するのは、地元の一次産品、塩乾魚、狐・テン等の毛皮、小麦、蜜蝋、イクラ、ワイン、果物、柘植等の木材、鞣し革などであった。1930年代後半スダク潟で発見された13世紀中頃、の沈没船の積荷は、瓶、アンフォラ、食器、調理器具、ガラス製品などであったが、これらはアナトリアの製品であった。

漁労は海岸地帯全域で行われるのではなく、主な漁場はアゾフ海とドン川やクバン川河口で、加工された魚は、コンスタンチノープル等の都市で売られた。13世紀の旅行者ギヨーム・ド・ルブルクは、「マトリカの都市にやってくるコンスタンチノープルの商人たちは、その小帆船をこのタナイス川まで送り、干魚つまりちょうざめ・にごいそのほかの魚を実に沢山買い入れます」と報告している。マトレガはアナパ、タナイス川はドン川である。また、15世紀のスペイン人旅行者、ペドロ・タフルは、「この川(ドン川)には大量の魚、特に沢山のチョウザメがいて、船で輸送されている。この魚は我々がソロスというもので、生でも塩漬けにしてもよく、カスティラにもフランダースにも持ち込まれていて、見つけることができる」。また「彼らはメレナとよばれる魚を捕る。この魚はとても大きいといわれる。この魚の卵は、樽に入れて世界中に特にギリシャとトルコに運ばれる。これはキャヴィアと呼ばれて、最初は黒石鹸のように見える。やわらかいうちに取り出され、われわれは石鹸をそうするようにナイフで押し固められる。鉢にいれておくと硬くなって、魚卵らしく見える。キャヴィアは塩辛い」。アゾフ海の魚がスペインやオランダにまで運ばれたというのであるが、同じ頃バルト海の鰊はイギリスに運ばれていたから、けして珍しい話ではない。キリスト教徒は教義的に魚食を義務つけられているのだから、「ヨーロッパは肉食文化」というような、キャッチフレーズで歴史を捌いてはいけない。

イタリア商人が持ち込む塩も一部分は、魚の塩蔵用であった。しかし、ケルチの北には有名な天然の塩田があって、ギヨームも「この地区の最北端には大きい湖が沢山あり、それらの湖の岸には塩水泉が沢山あり、その水は湖にながれこむとすぐ、氷のように硬い塩に変わります。バトゥとサルタクは、これらの円推薦から莫大な収益を得ています。といいますのは、ロシア全土から人々が塩を求めて此処へやってきて、車一台の塩にたいして、値段にして半イペルペラする二反の木綿を払うからです。そのほか、この塩を買いに海路やってくる船も沢山あって、いずれもそれぞれ、その採った量に応じて支払うのです」。と書き残している。ケルチの塩は今日でも生産されているから、イタリア人が売りこんだ塩は地元のものであったのであろう。なお、イペルペラはビザンツの貨幣単位で、1イペルペラは1ディナール、1リーブルと同じ価値がある。

魚と同じく全地中海圏がマーケットで、魚以上に重要なものは、小麦であった。これもイタリア商人が独占することになった。1289年秋から翌1290年春までにカッファからトレビゾンドに輸出された小麦は1,303.6トンであった。1343年にイタリア商人とハンとの間に紛争が起こったときには、ビザンツには食料危機が起こった。13-14世紀にジェノアで消費する小麦の10%から15%がチェルケス地方産であったといわれる。

 一方、1253年にソルダイアを通過したギヨームは「北から来るものはりす、白てんその他の高価な毛皮をもたらし、南から来るものは綿織物類、絹布、良い香りのする香料を運んできます」(護雅夫訳)と報告しているのは、クリミアが国際交易のハブであったことを示している。勿論これらの商品はクリミアで消費されるのではなく、さらに遠方の市場へ運ばれる。タナはハンバリクへ行くキャラバンルートの玄関口であったからである。

 しかし、沿黒海地方には、肥料なしで小麦を連作することができる肥沃な黒土も、白い黄金となる塩田も、沸き立つように魚が群れる大河も無かった。ソチからムズィムタ川に沿って峠を越え、クバン川上流に到達する交易路はあったが、これは平時の地域的商品の運搬路でしかなかった。村の沖を行き来する宝の船を前に、結局この地方の人々は、昔からの生業に頼らざるを得ない。1253年についてのギユームの報告は、アゾフ海の外側にはチェルケス人とアブハブ人がいるが、彼らはモンゴル人に服従していないという。「タタール人の平和」の圏外にいたことになる。1290年、イルハン、アルグンの費用負担で、ヴィヴァルド・ヴァッギオなる人物が、軍船を指揮しクバンとコーカサス海岸で警察活動をおこなったが、ジュブガの沖でチェルケス人が、カッファのアルメニア人とギリシャ人の積荷を奪ったので、陸戦隊を上陸させて、商品を取り返した。どのような場合でも地理的位置は重要である。19世紀の旅行者デユボア・ド・モンペレは、ここにはシャプスグ族の中でも最も有力な指導者アリベイの居所があったと述べているのは、絶好の根拠地ということであろう。トレビゾンド・カッファ航路は、関税を期待するイルハンにとっても重要な路線であったが、常に安全というとことではなかった。1313年11月26日ガザリア庁は、チェルケシアとアブハジアの海岸は海賊が横行していて危険であると警告している。商船にとって危険であったのは、ジュプカ沖だけではなかったのであろう。

 

  第2節 ナイル川とドン川をつなぐ黒海



 

 マムルーク達(マムルーク朝のミニアチュア)右下の楽人2名は、モンゴル風の帽子を被っている。

 

カッファの商人にとって小麦や塩乾魚よりも重要な輸出品は奴隷だった。奴隷制は人類史誕生以来の長い病弊であり、勿論今日でも地域の慣行にそったと言う意味で「合法的」な奴隷や、国家権力よって処罰される違法な奴隷制度が存在するが、その存在の歴史的形は様々で、『スパルタクス』の剣奴も『アンクルトムの小屋』の綿摘みの奴隷も、典型的とは言えない。中世後期に北西コーカサスが特に大きく関わらざるを得なかった奴隷の形態の一つは、エジプトの奴隷軍人制度に起因するものだった。12世紀シリアからエジプトに派遣されたイスラーム教スンナ派のクルド人部隊を基盤に成立したアイユーブ朝は圧倒的多数のイスラーム教シーア派信者とキリスト教の一派コプト教信者の中で、宗教的種族的にはマイノリティーだった。王朝は安定的武装集団を扶養するためにマムルーク制を採用した。マムルークとは所有される者、つまり奴隷のことだが、アッバース朝カリフ国では、9世紀以来、男子児童を奴隷として購入し、イスラーム教徒としての教育と軍事教練を施して、職業的軍事集団を組織した。イスラーム圏の各地にマムルーク軍団が出現したが、エジプトのアイユーブ朝はやがて奴隷出身の将軍に簒奪され、諸将中の最有力者がスルタンに即位して、国家と元の同僚の将兵を支配した。これがエジプトの通称マムルーク朝である。この時代スルタンの地位は、奴隷出身の軍人に受け継がれることが多かったと考えられがちだが、スルタン即位者のうち、前スルタンの家族であってマムルークでは無かったものと前スルタンと血縁関係のないマムルーク出身軍人との割合は、前半のバフリー朝で2対1、後半のボルジー朝では逆に1対2である。但し、世襲即位者の中には、実力者間の力比べが決着するまでの間の暫定的統治者もいることは事実である。朝が王朝を意味する以上、同じ家に属していなければならないから、「マムルーク朝」という表現は不適切であると思われるが、日本では慣用的に広く用いられている。実は、アイユーブ朝は最初から、マムルーク軍人を重視し、イスラーム教シーア派の教団国家ファーティマ朝を倒したサラディン(サラ-フッディンーン)の主要な武力はトルコ人マムルークのアサディーヤ軍と部族毎に編成された4集団からなるクルド人傭兵部隊であった。しかし、7代目のスルタン、サーリフ(1240-49年)は、家柄と身分においてスルタンと同格のクルド人同胞よりも奴隷や従僕からなるトルコ人マムルーク部隊と旧ホラズム帝国の大貴族達に率いられた遊牧カンクリ人の軍隊を好んだ。チンギスハンの中央アジア遠征とホラズム帝国の崩壊にともなって、多数のカンクリ族、オグズ族、キプチャク族などに属するトルコ系遊牧民が西アジアに流入したので、この時代、君主たちはトルコ人少年奴隷の売り手に事欠くことはなかった。主要な奴隷市場はイラン北西部のタブリーズ、イラクのバグダード、トルコ中部のシヴァス等イスラーム圏の中心部にあったからである。フワージャー(フワーガー)と呼ばれる奴隷商人は、以前は中央アジアから子供達を買い集めなければならなかったが、13世紀20年代以降は、あたかも居ながらにして、将来帝王の位に即く可能性のある優秀な子供達を見つけることができた。しかし、チンギスハンの孫ヒュレグが西アジアにイルハン国を開くと、エジプトはトルコ系奴隷の供給を絶たれた。両国の領土を越える行き来は制限され、旅の遊行僧でさえ、スパイと疑われ殺されることが生じた。マムルーク朝はイルハン国の輸出禁止を迂回し、望ましい員数の奴隷を確保するための新しい供給経路開拓の必要に迫られた。マムルーク朝第4代スルタン・バイバルスは、1260年アイン・ジャルートでモンゴル軍前衛部隊を破った勇将だが、バトゥ・ハンのロシア東欧遠征期に生まれたキプチャク人で、アナトリアを経てシリアの奴隷市場で購入された。ハンフリーによると、当時エジプト、シリア、イラク北部、アナトリア南西部に広く領地を広げていたアイユーブ朝において、この時代のマムルークは圧倒的にキプチャク人であった。マムルーク朝スルタン国の開始と拡大の時期に当たる重要な10年間は、特にレヴァントで貿易拡大を切望していたジェノアの貿易活動にとっての大事な期間と重なった」(エーレンクロイツ)。ジョチ=ウルスのベルケ・ハンはチンギスハンの遺訓を冒してイスラーム教徒になっていたので、ヒュレグがバグダードのカリフ政権を倒した後、カリフ、ムウタシムを殺害したことに恨みを抱き、領土問題を口実に戦争を仕掛けようとしていた。これも辛うじてヒュレグ軍の猛攻を抑えたマムルーク朝は、ベルケに最大の味方を発見した。バイバルスは1260/61年あるいは1261/62年に偶々エジプトに滞在していたアラン人商人にベルケに宛てた国書を託した。スルタンの第二回目の使節元ホラズムシャーの尚衣(衣装係)アミール・サイフッディーン・クシャベクと法学者のマジュドゥッディーンは、1262年の末にエジプトを出発した。使節団は往路まずビザンツに赴き、皇帝に拝謁し、マムルークを購入する目的でエジプト船が海峡を自由航行することを求めて、皇帝の承諾を得た。ハンの答礼使ジャラールッディーン・イブン・カーディー、シャイフ・ヌールッディーン・アリーとすれ違ったが、病気で使命を続けられなくたったマジュドゥッディーンは、答礼使と共にエジプトに帰国した。クシャベク一行はここでキプチャク・ハン、ベルケがビザンツに派遣していた使節と合流し、ベルケの宮廷に向かった。同年中にこの使節団はサムソン、スダク経由でハンの宮廷に赴いた。現在、ウズベキスタンのタシュケントにある3代目カリフ、オスマンが自ら手写したコーランは、この使者が帰国するときスルタンからハンに贈られたものである。サイフッディーンは、ベルケ・ハンが、スルタン・バイバルスに遣わしたアル・アッバースィー、ファフルディーン・アル・マスーディーの二名とともに出発から2年後の1264年9月帰朝した。

 このようにして2件の両国友好関係が確認されたが、通商協定の内容とジェノア商人及び彼らの商船との関わりについては明確ではない。バイバルスとミカエル8世との間で結ばれた条約の文書は残っていないようだが、1281年に更新された条約では、ビザンツ帝国はエジプトに対して、すなわち、エジプトの領土、要塞、兵士、王国に対し一切の敵対行動を行わないこと、またエジプトの反政府分子や敵に対しても便宜を与えないことが定められた。

我が王国からベルケおよび彼の子孫の領土、スダクの海と本土を含めて彼らの領土に派遣された使節は、安全で保護されている。彼らは皇帝ミカエル陛下の王国の領土を隅から隅まで妨げなしに通行する。彼らは陸路及び海路によって、必要な時間に我が王国に送り届けられなければならない。彼らは安全に保護されて妨害なしに彼らと同行する使節やかれらと一緒に来た人々、およびすべての奴隷、女奴隷、およびその他の同行者とともに、我々が派遣した目的地に進み、また、同様に我が王国に帰還する。

逆にビザンツの商人は、エジプトの商人と同様の安全と商業上の自由が与えられている。ここにある使節同行の奴隷と女奴隷が、商品ではなく、使節の個人的随員あるいは贈答品であると思われるが、また別に、商品としての奴隷、女奴隷についても取り決めがされている。

スダクおよびその他の場所から、奴隷および女奴隷とともに来た商人は、皇帝ミカエル陛下によって、一切妨げなく彼らとともに我が王国に進む。

最後にもう一度、両国使節の通行の安全と両国の商人が信仰を問わず通行と居住の安全が保証されていることが強調されている。条文中にベルケ・ハンの名があるところから、1263年の協定条文もこれと同じ、あるいは、ほぼ同様のものであろう。

 カラウンは1290年にジェノアとも協定を結び、ジェノア商人活動の自由と生命財産の安全を保証した。黒海交易が再開されるとジェノア商人も新しくイタリア市場用の奴隷売買に参入し、カッファに奴隷市場が開かれたので、トルコ系の児童だけでなく、チェルケス人の子供達が売られる数も多くなった。クリミアからの奴隷の最初のジェノア入荷は1275年であるが、1263年の条約に基づく最初の積荷がいつイスカンダリーヤ(アレクサンドリア)港についたのかは、ハイドやブラティアヌのようなスタンダードではあるが、マムルーク朝史料を使っていない研究書からは知ることができない。ジェノア向けの奴隷に関しては公証人のもとで登記する必要があったが、カッファには「多数の公証人がいたはずであるし、また登記しない取引はさらに多かったと考えられるので」(清水廣一郎)単に文書失われたか、あるいは未発見である可能性はあるであろうが、エジプト向け奴隷については、ジェノアの公証人を通じる必要があったかどうかが問題であり、そもそも当初ジェノア商人がマムルーク売買にどのように関わったかは、明らかでない。

 スルタン・カラウン(1279-90)はジェノアとの協定に基づき、1277-1279年間、一万二千人のチェルケス人奴隷を購入し、さらに1281年、カッファに王室御用商人(トゥッジャール・アル・ハース)を置いて、人材の確保に努めた。これに先立って679(1280/1)年側近のトルコ人シャムスッディーン・ソンコルとサイフッディーン・バラバンをモンケテムル・ハンのもとに遣わし、ハン一族の家族に高価な贈り物を届けさせている。スルタン自身のマムルークは治世の末期に3700人に達していた。マムルークの人種のキプチャク人からチェルケス人への転換が図られたのは、スルタン・カラウンの時代からである。当時、奴隷の標準価格はトルコ系児童135ディナールに対し、チェルケス人の少年は115ディナールにすぎなかった。価格差の理由は、勿論需供関係によるものであろうが、イタリア向け奴隷の例から判断するとタタール人(ここではキプチャク人を指している)の子供が好まれたのは、タタール人が主人に従順であるという評判があったからではないだろうか。エジプトの歴史家イブン=ウマリーもキプチャク人の美点をあげて、

  キプチャク草原から連れてこられたトルコ人は、良心、勇気、完璧な軍務、体躯の美しさ、性格の気高さに優れていた。

 

  マムルーク朝の文献で「トルコ人」という言葉には、チェルケス人が含まれている場合もあるが、ここでは「キプチャク草原」と限定しているから、トルコ系のキプチャク人である。しかし、面白いことに11世紀に北イランの地方王朝のズィヤール朝の君主ケイカーウースが息子のために書き残した教訓の書『カーブースの書』では、「トルコ人はひとつの種族ではなく、それぞれに特性、特質があることを知れ、彼らの中で最も性悪なのはグズとキプチャークである」と書いている。更に、

彼らは一般的に頭が鈍く、無知、傲慢、不穏、不満で、責任感に欠け、訳も無く騒ぎを起こし、口が悪く、夜に臆病なことである。日中に見せるあの勇気を夜に示すことができない。だが彼らの長所は勇敢であり、誠実で、敵意をあらわにし、任された仕事に熱狂的になることで、家の飾りとして彼らにまさる民族はいない(黒柳恒男訳)。

 なお、ケイカーウースには、ルース(ロシア、ウクライナ、ベラルース)人やギリシャ人はあるが、チェルケス人やアブハジア人に対する評価はない。もっと具体的な、買い物のガイドブックである、同じく11世紀のキリスト教徒の医者イブン・プラトゥーンの『奴隷購入と検査に関する猶予の書』では、トルコ人は

  女性は美しさ、肌の白さ、品性をかね揃えている。顔つきは毅然としていて、目は小さいが、魅力的である。清潔好きで、賢く、男たちは料理や味付けを彼女たちにまかせきりである。なお、男たちの性格は粗野で、約束をまもることは少ない(佐藤次高氏による)。

などと評価されている。また、15世紀の歴史家でエジプト人のアラブ人マクリーズィーは、チンギスハンが世界帝国を作り上げることができた理由を家臣の忠誠心に求めた。イスラーム社会における人間関係と比較した。この場合のモンゴル人あるいはタタル人に、同じ北方アジア遊牧民のトルコ人を加えてもいいであろう。

バフリー・マムルーク朝政権にカラウン朝を築いたカラウンにとって、チェルケス人奴隷の購入は重要な要件となったに違いない。少年奴隷の人種がトルコ系からコーカサス系へ入れ替わった背景として、更に1307年のキプチャク・ハン、トクタ(1291-1312)のカッファ遠征が考えられる。イタリア側の史料では、タナにおけるヴネチア人と現地人の紛争がこの戦争の発端であるとするが、エジプトの歴史家ヌワイリーは別の原因を伝えている。ヌワイリーによるとトクタ・ハンは、イスラーム暦707(1307/8)年、ジェノア人がタタル人の児童を誘拐し、彼らをイスラーム諸国に転売しているという報告を受けて怒り、カッファを攻めた。しかし、カッファのジェノア人は船で逃げたので、トクタはカッファとその周辺のジェノア人の財産を押収したというのである。一方、エジプトとジョチ・ウルスとの友好関係は継続していた。カラウンの息子ナースィルはトクタ・ハンに対しても1305年に使節を派遣しており、翌年、その使節はハンの使節を同行して帰国している。スルタンはイルハンに和平条約に違反があれば戦いを行う旨国書を持たせて使者シャイフ・ヌマンを帰国させた。710(1310/1)年にもトクタの使節はカイロを訪れている。ある歴史研究者は、オルドとジェノアの突然の関係の悪化をトクタ・ハンとトクタの一族で、王国第一の実力者ノガイとの戦争を理由にあげている。トクタはノガイの武力援助を受けてハンの位に即いたが、ノガイが国政に口をはさみがちであるのに日ごろ不快の念を抱いていた。折しも、ノガイの娘カヤンとトクタの后の父である有力部族コンキラト部のサルチダイの息子ヤイラクが結婚した。ところがカヤンはイスラーム教徒になっていた。婚家は仏教徒であったので彼女を歓迎しなかったが、カヤンは虐待されたと感じて、父ノガイに訴えた。これを聞いて怒ったノガイは、トクタ・ハンに婿の父サルチダイの身柄引き渡しを求めた。いいがかりとはこのことである。イスラーム法上、イスラーム教徒と仏教徒とは結婚できないからである。あるいはカヤンはヤイラクが嫌いで、わざとイスラーム教徒になったのだろうか。 トクタがこの不当な要求を拒否したところノガイは息子達の軍隊をトクタの領地に侵入させた。コンキラト家の本領は中央アジアのホラズム、トクタの領地はウクライナであったから、コンキラト家はアゾフ海周辺にも領地を持っていたのかもしれない。開戦後(1298年頃)ノガイはクリミアに兵を入れ、略奪を許している。その一方ノガイはヒュレグの死後自分自身が、イランに攻め入りイルハン国軍と戦ったにも関わらず、その後イルハン、アバガ、アルグン、ガザン三代のハンとは友好関係を保ち、内戦の勃発後にガザンに援軍を求めた。しかし、一族の中の争いであるのでガザンは中立を表明した。1300年、家臣の裏切りがあってノガイは敗死し、反乱は終結した。黒海北岸地方はノガイの勢力圏であったので、ジェノアは、この内戦においてノガイを支持したが、トゥクタはこれに不満を抱き、カッファ遠征で応じたというのである。しかし、7-8年も経ってから、急に恨みを晴らそうとするであろうか。

 筆者は別の状況を考えてみたい。ノガイが援軍を求めたガザン=ハンは種々の国政改革を行ったので、イルハン国中興の祖などと評価されている。ガザンの政策の一つに、奴隷として売られていたモンゴル人子弟の買い取を行った。ガザンの宰相ラシードッディーンによるとジュチ=ウルス(金帳汗国)とチャガタイ=ウルスでは長く続いた戦乱の中で、多くのモンゴル人子弟が奴隷の境遇に陥り、イランの奴隷市場で売られていた。ガザンはこれを「モンゴルの名が与える尊敬と畏敬の念をこわし、外国人の目に民族の品位をさげる」ものであると考え、内帑金を支出してイランの奴隷市場で売られていたモンゴル人子弟を買い集め、彼らで新しい一万人隊を編成させ、続けて買い取を行わせた。ジョチ=ウルスとヒュレギュ=ウルス(イルハン国)は、領土問題を抱え、数次の戦闘を交わし、一時的和平期間を除けば、常に臨戦態勢にあった。自国出身者による部隊の増設は、内戦による疲弊を大きくするものであり、まして、買取を続けるのであればなおさらである。トクタ領内のモンゴル人子弟は、カッファ等の市場に集められ、当時の交易の流れに沿って、黒海南部の港町トラブゾン経由でイランに搬入されたと考えられるが、次に引用するマクリーズィーの記述と呼応するものがある。勿論、売買と運送の全ては、ジェノアの商人が行ったと考えられる。

 非イスラーム教徒トクタ=ハンの死後、ウズベク=ハン(在位1313-1341年)によってジョチ=ウルスのイスラーム化が大きく進展し、エジプトとの関係も好転する。モロッコ出身の有名な旅行家イブン=バットゥータが、訪れたのもウズベク=ハンの時代である。中世エジプト最高の歴史家マクリーズィーは、この状況を次のように述べている。

  スルタン・ナースィルは、奴隷商人をウズベク、タブリーズ、ルーム、バグダードなどに派遣し、商人がマムルークたちを連れて戻ってくると、彼に高価な賜品を与えた。またスルタンは、これらのマムルークにもきらびやかな衣服や金の刺繍を施したベルト、馬、手当などを授与して彼らを驚かせた。これは以前の君主にはなかった習慣である。こうして奴隷商人によるマムルークの売買は増大し、スルタンの気前の良さはうわさとなって諸国にひろまった。モンゴル人は息子や娘、あるいは近親者をすすんで商人に提供した。モンゴル人が子供たちを売り渡したのは、彼らがエジプトで幸福になるのを願ってのことであった。(佐藤次高氏による)

 

スルタン=アン・ナースィル(1283-1341)はスルタン=カラウンの息子で3度スルタンの位についた。ボルジー・マムルーク国家は、奴隷出身の有力武将の一種の共和制で、王家の一員であるスルタンといえども多数派工作を行って、実力を掌握しなければ、実権は得られず、地位そのものも危うかったことを意味している。ここで、特にナースィルがと言うことは、ナースィルがマムルークの確保に特に努力したことを意味するのであろう。3度スルタンの位についたナースィルこそ、実力すなわち子飼いのマムルーク軍団がなければ、スルタン位の改廃は有力武将の意のままであることを良く理解していたであろうから。ウズベク地方というのはキプチャク汗国ウズベク=ハンの治める国ということで、中央アジアではないが、この国の住民構成についてはすでに述べた。中央部では征服者であるモンゴル帝国の4千人隊に属する将兵の子孫であるモンゴル人と先住民であるトルコ系キプチャク人の二重構成になっていて、北部ではルース人、南部ではコーカサスの諸民族、東北部ではフィノウゴル系民族の数が多かった。ウズベク=ハンは(在位1313-1341)、スルタン・ナースィルと同時代人であるが、細かく見るとスルタンの第3回目の統治期間と重なっている。ウズベクはイスラーム教徒のノガイの没落以降、力を盛り上げた仏教徒を打破して、再度国家のイスラーム化を行った。ウズベクの支配下、モンゴル人の間にイスラーム教は広く流布する。イスラーム教で、支配集団であるモンゴル系の出自を持つ人々の子弟の売買が、容易になったのであろうか。マクリーズィーが気楽に「モンゴル人」とした意味は、ウズベクの国家の住民という意味であって、民族的にモンゴル人であるということでなかったのではないであろうか。この答えは、実際にナーセィルに購入されたマムルークの民族・信教統計を見れば得られるが、たとえ、そのようなものが存在するにしても筆者の手元にではない。

エジプトと金帳汗国との緊密な使節の派遣の一方、西欧諸国はジェノア船舶による奴隷輸送に不満をもっていた。1311年ローマ教皇クレメンティウス5世とキプロス王ゲンリク2世(ルスィニャン家、1285-1324年)は、エジプトへの奴隷輸送を阻止するための共同行動協定を締結し、キプロス王は実際に1317、1323、1329、1338、1425年に阻止行動に乗り出した。勿論、使節の交換と阻止行動の実行は、ジェノア船による奴隷輸送が継続していたとも読むことができ、1379年、カラウン朝最後のスルタン、ハーッジー2世は奴隷の安定供給をジェノアと協定している。貿易禁止の実効がどのようなものであれ、マムルーク朝にとって購入の経路がひとつであることは、危険のあるものであった。ハン、ジェノア、ビザンツ皇帝三者のどのアクターによっても、供給の安定が左右されるからである。もうひとつの供給ルートがあれば、全体的にシステムが安定する。それがアナトリア内陸ルートである。トラブゾンは地名としては本書でも度々出てきたが、アナトリア北海岸東部の都市で、当時はイルハン国に従属するトラブゾン帝国の首都であった。ここはイラン向け商品の積み下ろし港で、例えば1313年6月8日には、ジェノア発タブリーズ向けの大量の織物を積んだ船が入稿している。ロシアの黒海交易研究者カルポフは「全体的に当時の黒海の奴隷取引おいて、タタール人・モンゴル人の奴隷が圧倒的に数が多いとすれば、数の上では彼らに水を開けられてコーカサス出身の奴隷(チェルケス人、アラン人、アブハズ人、メグレル人)、ギリシャ人、スラヴ人が続くとすれば、黒海岸南部では事情は違っていた」。つまり、黒海南部の市場で売買されていたる奴隷は、当然コーカサス系出身者が多かった。トラブゾンでは取引人数は多くなく、主たる用途も家内奴隷であったが、ジャンダルオウル家所領のシノプでは反対に非常に盛んで、年々拡張の勢いがあった。1410-11年にカッファの奴隷商は黒海南部沿岸から、月平均113人の奴隷を搬出したが、この年の取り扱い数は通常より多く、平年では月47-67人にまで落ちる。この年、カッファを出帆した奴隷を積んだ商船は61便で、その内シノプ行きは29便、スィミソ10、コンスタンチノープルのペラ13、サマストロ3、トラペゾンド3、ヘレスポントス1であった。奴隷の人数で言うと(1410年9月15日から翌年9月17日)310人がカッファ行き、1080人が黒海南岸諸港だった。

オスマン朝の資料によると世紀末に近い、1484年11月から1487年12月までのサムスン、ケルペ(アジア側マルマラ海と黒海の間の半島の黒海岸)、ベンデレウリ(同上)、スィノプにおける奴隷売買前徴収記録16件では、473人(内チェルケス人と明記するもの188人、カッファのとするもの21人)の搬入があった(課徴金平均額をもとに筆者が再計算)。なお、ディーラー延べ20人中本人あるいは父親がハージェと呼ばれているもの4名、本人もしくは父親の名前がアブドゥッラーであるもの同じく4名であった。ハージェは有力な奴隷商人の称号としてよく用いられていたものであり、アブドゥッラーは新規改宗者やその父親に多い名前である。オスマン帝国が全黒海沿岸を併合したときには、奴隷貿易の販路が確立していたのであろう。ブルサの奴隷購入ローン文書によると1479年カイセリ出身のアヒ・イブン・アヒはハージェ・アブドゥルケリムから三人のチェルケス人を買い、ハマの総督カラチャ・ベイの解放奴隷(つまり使用人ということか)は、カイサリ出身のユースフから二人のチェルケス人を買い、ハージェ・ムスタファは、同名のハージェ・ムスタファから15人のチェルケス人奴隷を買いスルタンに供給している。これは売買全体を反映する数ではなく、購入者の内、現金支払いをせず、ローンで買われた奴隷の数だけが表にあらわれたものである。

カッファの資料の分析によると、15世紀にカッファと黒海北岸からエジプトへ向けられる奴隷輸送の主要な経路は、ビザンツ帝国とジェノア当局によって統制されるコンスタンチノポリスのペラを経由するものではなく、カスタモヌ、ブルサ、サモスを経由するようになり、奴隷商人もジェノア人とギリシャ人だけでなく、シノプとサムスン出身のイスラーム教徒が主要な人数を扱うようになった(カルポフ)。1432-33年に聖地巡礼を行ったヴルグンド大公の首席肉切給仕ベルトランドン・ド・ラ・ブロキエールは帰路時、同行のチェルケス人マムルークが、5、6人の同郷人にあった。ラランダは現在の名称カラマンで、アナトリア中南部、タウロス山脈の北側であるから、もう少しでマムルーク朝の領土であるところである。彼らはカイロのスルタンに仕えるために旅をしていると言う。

  私の旅仲間のマムルークは彼らに食事を振舞いたいと思ったが、ラランダにはキリスト教徒が住んでいるので、ワインなしには済まないと思った。そこで私に買ってくれと頼んだのである。しつこく頼んで、半ドゥカト(ヴェネツィアの金貨で、1ドゥカトの受領は3.545g金含有量は99.47%)出して、私は羊の皮袋半分のワインを買い、彼にやった。彼はとても喜んで、直ぐに仲間たちのところに行くと、朝まで飲み明かした。(19世紀の英語訳による)

これもスルタン・バールスベイの時代のことであるが、単に奴隷を連れて陸路マムルーク朝の領土へ向かう奴隷商人がいるということなのか、自由に仕官あるいは傭兵に雇い入れられることを希望するものがいたのか、はっきりしない。いずれにしろ、彼らは成人男子であった。

 1485/6年の記録によるとオスマン朝は、ブルサで購入された奴隷がアラブ諸国、つまりマムルーク朝の領土に運ばれるのを禁止していた。1489年大宰相ダウド・パシャがスルタン・カイトベイに平和交渉のための使者の派遣を求めたところスルタンは、奴隷商人の往来の禁止を解き、マムルーク朝から奪った城砦を返却することを求めた。1482年オスマン朝ではスルタン、バヤジット2世と王弟ジェムの間に争いが起こり、エジプトに亡命した。ジェムはさらにロドス島に脱出し、1495年イタリアで忙殺された。バヤジットはこの事件を根に持って、マムルーク朝に対する憎悪を募らせていった。禁輸はその具体的手段であった。なお、上記ローン記録によるとシリア、エジプトへの搬入禁止は、青年男子に限らず、女歌手、踊り子にも及んでいる。マムルーク朝の軍隊はムスリムに対しては飛び道具を使わなかったから、オスマン軍の小銃や大砲に対抗するためには、歌と舞りの助けが必要であると見なされていたのであろう。

女奴隷に対しても禁輸措置が取られていたが、勿論、女性はジェムの反乱にはかかわらない。別の観点からの女奴隷のマムルーク朝領移送禁止措置ではなかっただろうか。マムルーク達は故郷出身の女性、あるいはマムルーク朝領内で生まれた同郷者の娘としか結婚したがらなかったから。

 ボルジー・マムルーク政権にバルクーク朝を開くことになったスルタン・バルクークは、自分自身がチェルケス人で、実名はチェルケス語で「羊飼い」を意味するマッリー・クークであった。マムルークの父を持つ歴史家イブン・タグリーバルディーは、バルクークの出自を「チェルケス(ジャルカース)人のカサー」であると書き記している。これがチェルケス人の種族名であるとすると最も古い記録だが、むしろチェルケス人の異称である「カサギ」と言いたかったのかもしれない。バルクークを買い付けたのは、ディヤルバクルのアスアルド出身の奴隷商人ファフルッディーン・ウスマーン・アル・アスアルディー・アル・フワーラズミーで、ハワージャーの称号を与えられていた。彼はバルクークがスルタンに即位した前年に死亡したが、それまでバルクークと緊密な関係を持ち続けた。マムルークと奴隷商人(ジャッラーブ)との間には個人的な交流があったといわれるが、マムルークが高官に昇進すれば仕事の関係もかかわるであろう。ボルジー・マムルークの時代に、兵員確保の環境は大きく変わった。バルクークもスルタンに即位する以前、総大将(アタバク)の地位についた後の1381年に父アニース・イブン・アブドッラーフと多数の親族を呼び寄せた。アニスは、ただちに百人長の身分と、軍団(定数千人)の指揮権を与えられた。

また、1438年には、ジェノアの使節と一緒に、フワジャー・ファフルッディーン・オマルの弟フワージャ・アリー、甥のクァジュマース、及びバルクークの従兄弟(父方の叔伯父の息子)も到着した。スルタンになってから一族を呼び寄せたのは、バールスベイ(1422-1438)やカーイトベイ(1468-1496)も同じだが、カーイトベイは自分だけでなく、妻の家族も呼び寄せた。ムアイヤドシャイフ(1412-21)、タタル(1412)、ギリシャ人のホシュカダム(1461-1467)、イナル(1453-1460)は、スルタンの息子でもないのに親族の呼び寄せはしなかったが、ムアイヤドシャイフには彼より先に買われていた親族がおり、タタルには先にマムルークになっていた兄弟がいた。イナルも兄と一緒に売られているが、そもそも彼はカイロ生まれであるという。妹を呼び寄せただけのジャクマクにも先にエジプトに変われてきていた兄弟がいた。戦乱と疫病の時代、一族が離散してしまい、呼び寄せる家族がいなかったことはありえるであろう。この呼び寄せが、成功者が郷里から家族を呼び寄せるエジプシャン・ドリームであるという要素は別にし、スルタンが親衛軍団の兵員数増強、あるいは血族の登用による統率力の強化を目的としたことは考えられる。

現代のチェルケス人は、祖先がエジプトのスルタンになったことを大変、誇りに思っている。アドイゲ人の歴史家ホトコは、バフリー・マムルーク朝のバイバルスもカラウンもクリミア半島北部のソルハットで生まれたチェルケス人であると主張している。バイバルスがチェルケス人、あるいはトルコ化したチェルケス人であるとする主張に根拠があるかどうか不明であるが、カザフ人の言説では、バイバルスはカザフ人であるということになっている。世界的に有名な祖先を持たないカザフ人にとって、バイバルスは唯一有名なカザフ人であるあらである。

ところで、チェルケス人の間には、始祖であるイナルの伝説があり、スルタン・イナルなる人物がエジプトからコーカサスに帰還したが、その孫ケサの4人の息子たち、テムリュク、ベスラン、カポルト、ゼノコがそれぞれ、テムルゴイ人、ベスレネエフ人、カバル ダ人、シャプスギ人の祖先となったという。実はチェルケス人の伝説の世界では、イナルはアラブのコレイシュ部族に属する人であった。

しかし、家族の呼び寄せだけで十分な兵員が確保できたわけではなかったのであろう。少年奴隷の購入と教育、訓練、身分の解放、任官というマムルーク制度についての、我々の常識とは違って、ボルジー・マムルーク朝は、盛んに成人奴隷の購入を行った。1412年にスルタンの位についたシャイフも、22歳でバルクークに買い取られたので、少なくとも適切な時期に正規のマムルーク教育は受けていない。エジプト中世第一の歴史家マクリーズィーの年代記、(イスラーム暦)784年、(西暦1382年)の項に、

  彼(バルクーク)は、彼らの生まれ故郷から連れてきたチェルケス人マムルークを大勢もっていた。彼は彼らを夢にも思わなかった高い地位に就けた。彼は彼らの中の多数にアミールの位を与えた。

と述べているが、彼らは成人に達していたと思われる。身辺を固めるために肉親縁者だけを呼び寄せても、その人数はさほど多くはならないであろう。平の兵員を拡充するにはまた別の方法、カッファのような奴隷中継地ではなく、直接居住地から兵士が徴募されたのである。大原与一郎氏によると、「ブルジー・マムルーク朝になってから、スルターンはすでに青年に達していて教育訓練する必要のないジャルバーンと呼ばれた輸入外人奴隷兵を購入して親衛隊に加えた。その購入数は15世紀の後半から増加し、スルターンの偏愛をたのんで横暴を極め、国内の治安や外征にも重大な影響を及ぼすに至った」。先ず、少し修正すると、ジャルバーンではなくジュルバーン(単数は「ジャルブ)である。大原氏が、「輸入外人奴隷兵」と呼ぶものが、ほかでもないマムルークである。現スルタンの隷下にある直轄軍団の兵士をジュルバーン(連れてこられた者)と呼んだので、特にマムルーク教育を受けたか受けていなかったかは問われなかった。さらに、マムルーク教育が必要なかったのではなく、スルタンには少年奴隷を養成するほどの兵力に余裕が無く即戦力となる青年を部隊に投入する必要があったのであろう。歴代スルタンは前任者の直轄軍団の継承を望まず、新たな軍団の編成を望んだからである。しかし、少年の内にマムルーク教育を受けたものは、教育と緩やかな昇進の期間に主人に対する家父長的服従の態度、同輩に対する仲間意識(ホシュダシーヤ)、先輩(アカ)・後輩(イニ)関係を涵養されたが、いきなり兵士になった人々はそのようなものが無く、傭兵同様の意識であったのであろう。ジュルバーン兵の導入が盛んになったのは、まだバフリー時代の1360年代で、スルタン・シャアバーン二世のアタバク(総大将)ヤルバガ・アル・ハーシキーの時で、後にスルタンになるバルクーク他多数の20代の青年マムルークが購入された。19世紀にもオスマン帝国は、帝国本土に移住した成人男子を正規軍に編入しようとしたが、成功しなかった。チェルケス人には、上官の命令に従うという習慣がなかったからだという。

バルクークのマムルークで、主人の息子たちを排除して位を継承することができたムアウイヤドシャイフ(1412-1421)はジェノアとの間に、カッファから毎年2000人のマムルークを安定的に供給する協定を結び、実際に1420年にはチェルケス人、キプチャク人、ルース人からなる2000人の奴隷を受け取った。さらに、1431年にはスルタン、バールスベイはカッファとの条約に依って現地に代理人を置くことになり、1432年には実際の任に当たっていたジェノア人の代理人がダマスカスで目撃されている。証言者は先述のベルトランドンで、彼がダマスクスで投獄されたとき、開放の労をとったのが、そのジェノア人だった。

  カッファでスルタンのために奴隷を書くために雇われたGentil
imperialという名前のジェノア人。

と述べられているが、そんな名前のイタリア人がいただろうか。もしも、それが名前で

はなく、職名だとすると、アラビア語では何であろうか。私見では、「ジャンティユ」は、

外人兵の意味であり、「インペリアル」は日本語と同じ、帝国の、皇帝のであるからジャ

ンティユ・インペリアルは、スルタンの外人兵という意味になる。つまり、ジュルバー

ンである。「ジャンティユ・インペリアルという名前の」は、ジェノア人にかかるのでは

なく、奴隷にかかるのである。筆者が利用した文章は、古い英訳であるから、フラン

ス語原文を見てみなければならないし、誤訳ではないとすると、誤植かもしれないから

原稿を見てみなければ、全体確実とはいえないが。しかし、バールスベイの努力は、無駄になった。1437-8年のチフスの大流行で、要塞にいたスルタンの親衛人隊員のうち千人が死亡したからである。1421年に五千五百、七百人いたスルタンの直属軍団兵は、約四千人にまで減少した。さらにこれに告ぐ1460年の流行でもイナルの親兵の半数にあたる千四百人が死亡した。1476年にはカーイトベイ直属の二千人が全滅した。なお、黒死病は症状からペストであると考えられてきたが、21世紀になって、イギリスで死者が土葬されていた場所の土を分析しペスト菌のDNAが確認されたといわれる。                                                                                                                                                                                                                         

 

                                  

 

 スルタン・カイトベイ1468-1496(ウィキペディア・コモンズPortrait of Qaitbay,Mamluk Sultan of Egypt, Before 1552.Published in
1578)

 さて、マムルーク朝の時代、トルコとチェルケスの定義には、曖昧な点がある。スルタン・バルクークについて、歴史家イブン・イヤス(1448-1524)は、「チェルケス人のバルクーク、エジプトのチェルケス人諸王の初代にして、トルコ人の25代目の王」と述べている。つまり、歴史記述上の慣用として、チェルケス人はトルコ人に含まれているのである。15世紀のシャーフィー派法学者アスューティーの『契約の内容と裁判官、公証人、立会人の手引き』の中の「売買と売却規則の書」は、売買契約書作成の理論書兼実務者用の参考書であるが、奴隷を売買するときの書類の書き方を教えている。

  もし商品が奴隷であれば、奴隷は人種によって肉体的属性が異なっていることを知らなくてはならない。トルコ人には次のような種類がある。キャト、ナイマン、モンゴル、キプチャク、キタイ、チェルケス、ルース、オセット、ブルガル、タタール、チャガタイ、グルジア、アーク、ギリシャ、およびアルメニアである。黒人(中略)。もし、商品がトルコ人の男の奴隷(マムルーク)であれば、このように記入する。全て、トルコ人とかモンゴルとかそれ以外とか記入する。次に彼の肉体的特徴について、口ひげを蓄えているかどうか、色が白く秀でた額であり、大きくて黒い瞳であり、睫毛が長く、瞼にはアイシャドウを(コフル)入れてあり、鼻筋は低く、下顎は平らであり、赤みを帯びた頬、赤い唇、よい歯並び、口は小さく、首が長く、背筋は伸びており、足は小さく、法的に正しく購入された、等。もし、奴隷がトルコ人の女奴隷(ジャーリヤ)であれば、全て、女奴隷、キプチャク人、信仰はイスラーム教徒、何某(アブダッラーフ)の娘某女、成人に達していて、自分が奴隷の身分であり、前述の主人に拘束を受けていることを理解していると書かなければならない。肉体的特徴については、彼女はバラ色の顔色の若い女であり、額は秀でており等。上の形式で、女性に合わせて。

 この記述はあくまでも売買契約文書を作成の理論書、あるいは公証人のマニュアルであって、法律でも規則のようなものでもない。別のマニュアルでは別のように書かれているし、また、実際の文書がこのようなマニュアル通りに書かれているわけでもない。だから、世界の人種が、トルコ人、黒人、アラブ人の3種類からなっているということではなく、彼が奴隷となるべき人々を人類学的にではなく、便宜的に二つに分けたのである。伝統的なアラブの人種間は、肌の色に基づいて、白人、黒人、桃色人である。この場合、アラブは白人であって、北ヨーロッパの人々は桃色人である。トルコ人とコーカサス人は、名誉桃色人に編入されたのである。ここでは大部分がイスラーム教徒で、奴隷として購入するマニュアルに入れる意味の無いアラブ人等を除き、奴隷をトルコ人と黒人にわけ、インド人を含めた黒人以外をトルコ人に含めている。この区分は中世のイスラーム社会で広く受け入れられた考え方、男の場合には、奴隷を非黒人奴隷マムルークと黒人奴隷アブドに分けることに対応している。なお、ここに西欧(フランク)人が入っていない理由はわからない。

キャトはチンギスハンの家族の子孫である。果たして、チンギンハンの一族の子孫が本当に奴隷として買われたかどうかは不明だが、ここでは単に例として挙げられているのかもしれない。ナイマンは、モンゴル高原西部にあった、トルコ系遊牧集団でチンギスハンに滅ぼされたときダヤン・ハンに支配されていた。今日でもバシュキール人やカザフ人、キルギス人に古い部族名が残存している。モンゴルはモンゴル高原東部にあったナイマンと並置されるような、遊牧民部族の一つで、キャト氏に属していたチンギスハンもこの部族の出身であったが、モンゴル帝国樹立後は、その他の部族も合わせてモンゴルと称するようになった。従って、このモンゴルがモンゴル帝国の臣民であるということなのか、もともと13世紀の初めまでモンゴルと呼ばれた部族集団の子孫であるのかは判断できない。キプチャクは北コーカサス、カスピ海の北方や東方にいたトルコ系遊牧民で、バトゥの攻撃を受けて多くが、逃亡するかあるいはモンゴル軍に降伏して東アジアに移住したが、恐らく大部分は残留して、ジュチ=ウルスの基幹住民となり、現在のヴォルガとクリミアのタタール人、カザフ人の主な祖先となった。モンゴル人、キプチャク人、タタル人は後に全てタタール人と呼ばれるようになり、さらにこれらの国々がロシアに占領されるとロシアのトルコ系イスラーム教徒はタタール人と総称されるようになる。アスューティーの時代では、モンゴルとタタルは同義語であったと思われる。キタイはチンンギスハンの軍隊に加わった契丹の遺民であるカラキタイ人か、北中国の漢人である。イタリア商人の取引記録にも見える。チェルケス人は、固有のチェルケス人はもちろんだが、アブハジア人を含んでいると考えられる。中世のルース人は、今日のロシア人・ウクライナ人・ベラルース人の祖先である。後のロシア人はルース人にドイツ系、トルコ系、フィノウゴル系の集団を加えて形成されている。チャガタイ人は中央アジアのチャガタイ・ハン国、チムール帝国の領域にいたがあったトルコ系遊牧民であるが、キルギス人やトルコマン人は入らない。ブルガル人は後にカザンが建設されるヴォルガ川支流オカ川流域の住民で、いまのロシア連邦タタルスタン共和国のタタール人の祖先の一つである。タタル人は、13世紀はじめまではモンゴル部族と並ぶモンゴル高原の重要集団であったが、チンギスハンに敗れて遊牧集団としては解体された。しかし、西アジアではモンゴル帝国勃興以前から知られていて、また人口が多かったことから、タタルという名前単独で、あるいはモンゴルという名称とあわせたタタル・モンゴル人という形で、モンゴル帝国やジュチ=ウルスなどその分国の基幹住民を表して、広い意味のモンゴル人と同様に使われ、より具体的には、カザン、アスれたあとは手、ロシアのトルコ系イスラーム教徒に対して、祖先の歴史の違いには無頓着ではアース(アラン人とも呼ばれる。現在のオセット人の祖先)ではないかと思う。

この要領はマムルーク兵士のためのものではなく、通常の家内奴隷購入にかかわるものであり、その際に作成された実際の文書は、例えばイエレサレムのハラム文書群に含まれている。しかし、しかし、将来のマムルーク兵士たる児童の購入や転売にかかわる私法上の手続きの記録は、積み出し地のカッファ、タナや積み下ろし地のシリア、エジプトの港や都市の市場には、残されていないのかもしれない。1436-40年間、コンスタンチノープルで商売をしていたジャコモ・ディ・バドエリは、イスタンブルで購入した奴隷の内若者19名をエジプトに転売しているが、この経緯は公的な記録ではなく、個人の取引帳簿である。 

 13-16世紀、多数のチェルケス人が奴隷としてエジプトにわたり、あるものはスルタンの位につき、さらにはそれに留まらず、新しい王朝といえるものを創設した。ソチの住民あるいは広くアブハズ(アバザ)人がマムルーク朝にどれほど寄与したかを示す研究はない。イタリア商人の記録とは異なり、マムルーク朝時代にエジプトとシリアで書かれた文献には、アブハズ(人)という言葉は無かったのかもしれない。少なくとも、ペルシャ語では「アブハーズ」は地名であって、住民を示すときにはアバザ(初出は、チムール帝国の歴史家ニザームッディーン・ヤズディー、ギャースッディーン・シャーミーの史書)とするのである。しかし、言葉が無いことが、アブハズ人がいなかったことの証明にはならない。コービー氏の研究によるとマムルーク朝では民族的(エスニックな)アイデンティティーは強く、出身によって人生の成功も左右された。つまり、マムルーク本人にとっても仲介者である奴隷商人にとっても、チェルケス人であると認識されるかどうかは重要事である。種々の点でチェルケス人とよく似ているアブハズ人が、チェルケス人アイデンティティーを持つことは自然である。さて、上に述べたジャコモ・ディ・バドエリの元帳には、アブハジア人が数名記載されているが、全員女性らしい。エジプトへは送られなかったであろう。

エジプトでアブハズ(アバザ)人マムルークの存在が具体的に知られるのは、オスマン朝支配下の18世紀のことで、総督アブーザハブ(在職1770-1775)が、その代表格である。また、今もエジプトに残る名家アバザ家の祖先はアバザ人あると信じられている。

 

第3節 奴隷制的ルネサンス

 黒海でイタリア商人の活動が盛んになる以前から、南ヨーロッパでは奴隷貿易が盛んであった。イスラーム教国との戦争や誘拐によるもので、従って奴隷にされた人々ももともとはイスラーム教徒(サラセン人、ムーア人)であった。1248年、マルセイユの奴隷市場で作成された譲渡書類は、以下のとおりである。

  主の1248年5月19日、我々カンヌのウィリアム・アレグナンとバーナード・ミュートは、連名でピーター・アレマンの息子のジョン・アレマンに誠実かつ作為なく、我々の所有するサラセン人の女中、通称アイシャを今マルセイユで流通している通貨を混ぜて、9ポンドと15ソリディで売約した。

アイシャは女中であるとされたが、当時の奴隷は一般的に家内奴隷であった。書式によっては、本人が自分の境遇を認識しているとの一文が挿入されている場合もある。

イタリア商人に黒海が開かれた後、カッファからジェノアに送られた最初の奴隷は1275年のルース人であった。彼に続き、一連の東方出身の奴隷チェルケス、アブハズ、ブルガル、トルコ、ラズ、ハンガリー、ルース、クマン(キプチャク)人の男21人、女38人の奴隷が、カッファおよびコンスタンチノポリスのペラから、ジェノアに送られた。チェルケス、アブハジア、ルース、クマンは主としてカッファで、他の集団はペラで購入されたのであろう。また、1289年から1290年にカッファで作成された売買証書に記載された奴隷は、女34名(56.7%)、男26名(43,3%、内5名は母親に付属した幼児)、合計 60名で、内訳は以下の通りだった(バラールの部分値から再計算)。

          チェルケス人 
25人             42%

          ラズ人   (14人?)     23%

          アブハズ人 ( 7人?)          12%

          クマン人  ( 2人?)       3.5%

                    ブルガル人   ( 8人?)            13%

                    ルース人     (4人?)      6.5

        

 13世紀最後の25年間、1275年から1300年の間にジェノアにもたらされた奴隷は、登録されているものに限り、140人である。この内、68人が東方奴隷で民族別で、チェルケス人19(内数男性7、以下同じ)、ラズ人7(2)、ブルガル5(2)、ハンガリー3(1)、トルコ3(0)、レヴァント3(0)、ルース2(2)、アブハズ2(0)、クマン(0)である。奴隷中、チェルケス人が28%であるが、カッファ分で売買された奴隷もチェルケス人が多いことを反映している。そもそも東方奴隷の割合は半分以下であるので、チェルケス人奴隷の売り手は、カッファにおけるよりも厳しい競争にさらされていることになるであろう。男女比は、カッファおけるよりは、ジェノアでの方が女性の割合が一層高くなっている。購入者あるいは購入地域によって奴隷購入の目的が違い、おそらく、美しくて、健康、才能のある男子児童は、ジェノアよりもエジプトにおいて、高価に取引されたからであろう。年齢に関しては、ジェノアの1290-1300年の登記記録中年齢を記入してある売買(男子22名、女子39名)では、男子の年齢は12-18才(17才は不在)に集中し、女子は17-20才(19才は不在)に集中している。12-18才の男子の中には、エジプトやシリアで金貨1千枚の値段がつく可能性もある。ただし、カッファで売買された1289-1290年間の60名の場合では、全体的に低年齢で、かつ年齢ごとの人数は均等であるが、1歳から30歳中の1-15歳にウエートがある。なお、ジェノア10年間の最少年齢は5歳(女子)、最高年齢は女子30才、男子35才である。価格は、男子の場合12歳から25才が17ジェノア・リーブル程度の高原状態であるのに対し、女子では、16歳から25歳がピラミッド状に突出し、20歳が最高値になっている。カッファの奴隷出荷能力は、1385/1386年の一年間に、1,365人であった。

14世紀のジェノアでは、1376年のある公証人の記録では、この年に手続きした64人中、出身地不明の2名を除き、61人が黒海沿岸の出身であった。内訳は、タタール人が54人で87%、チェルケス人が2名3.2%、チェルケスかどうか疑わしいものも1名、ルース人1名、ルース人かどうか疑わしいもの1名、アブハジア人1名等の構成であった。また、同じ公証人の1374年の証書では、20人中、タタール人17名、残りはギリシャ人、チェルケス人、ルース人各1名で、タタール人が優勢である。同じ公証人の1394-1398年の証書では、47人中タタール人28人(63%)、チェルケス人5名、メグレル人2名、アブハジア人1名である。また、別の公証人の1374-1379年の記録では45人中、43人がタタール人である。14世紀後半のジェノアでは圧倒的にタタール人の比率が高い。ガット氏の1376年の記録は、64件の売買中女性は37件だけで、他の記録のまとまりに比べて、男性が多いという特徴がある。全般的な女性奴隷優位の中で、男性奴隷の割合の高い幾つかの事例があるのは、需要者の必要によるものか、供給者の側の事情によるものかは、画然とはしていない。ジェノア市場で売られた奴隷の中にはそこから近隣地域へ再販売されるものもあったが、ジェノア自体には世紀末に3,000人の奴隷を抱えることになった。

 ドメニコ・ジオフレの研究によると15世紀にジェノアで購入手続きが取られた1,099人中、862人、86.2%が女性で、女性の種族別割合は、チェルケス人308人、アブハズ人149人、ロシア人301人、タタール人173人で、チェルケス人はタタール人に対して圧倒的に優勢である。ジェノアで売買登録された1390年代から1490年代までの921人の奴隷の属性分析をおこなったサリー・マッキーの最近の研究によると、921人中、アブハズ人は89人、チェルケス人179人、メグレル人118人、ルース人215人、タタール人138人であった。こちらの統計ではチェルケス人はタタール人より多いが圧倒的とはいえない。年間集計では15世紀半ばに2,500人の女奴隷がおり、1467-1472年間では、1,200人の女奴隷がいたとも言われる。購入手続き時の男女比は、15世紀平均で、女性が71.8%、1449年に91.5%、1458年が97.5%であった。

 14世紀の出荷地に関しては、タナのヴェネツィア人公証人ベネデットの登記簿、1359-1360年間によってカルポフは、126人(内、男23人)中、タタール人72人(内、男13人)、チェルケス人21名(内、男1名)、ルース人5(0)、アラン人4名(1)の内訳を出している。なお、この台帳ではタタール人とは別にモンゴル人16名(内男5人)、キタイ人女一名が挙げられている。年齢は女性においては13歳から16歳が多く、最小は8歳、最高は45歳である。男性は8歳から25歳の間で分散している。価格はチェルケス女性平均664、タタール女性平均624、モンゴル人609.5、ルース人534人、アラン人527アスペルであった。年齢別価格は8歳と45歳が低いことを除くと非常に平均的である。最高値は23歳男性、最低値45歳女性である。カルポフの研究では男女別の価格表がないが、平均価格は女性で614アスペル、男性は558アスペルである。アスペルは当時使用されていたビザンツ銀貨である。

 また、公証人モレットの記録による斎藤寛海氏の研究では1407-8年の12人では、チェルケス人(原文ではコーカサス人)5人、サルマタイ人(アラン人か?)2名、ルース人1人、タタール人4人であった。ヴェネツィアの奴隷需要は、主としてタタール人女性であったという。また、タナの公証人ヴィットーレ・ポミノの1434-1443年間の台帳では、56名中タタール人21人(内男6)、ルース人19人(内、男8人)、チェルケス人6名(全て女性)であった(カルポフの研究による)。13世紀カッファと14世紀タナの大きな違いは、奴隷として購入される民族にある。14世紀のタナで奴隷として取引されるのは、主としてタタール人であるということができる。このタタール人は、13世紀カッファの購入リストにはクマン人とあった人々で、同じ頃エジプトではキプチャク人と言われていた。集積地によって集められる種族に違いが生ずるか、時代により奴隷を購入する動機が異なるかあるいは、使役される都市と時代によって奴隷購入の理由が異なるのであろうか。

 ジェノアの商館はクリミア半島とタマン半島に置かれていたが、ヴェネツィアの商館はタナに置かれていた。カッファは黒海とアゾフ海の港町を巡る商業網の中心的位置にあった。コーカサス西部の地域と緊密な関わりを持つことができた。ドン川河口にあった港町タナは、川を遡った後、陸を進めば今日のヴォルゴグラド近辺でヴォルガ川に出ることができる。上流に向かえば、13世紀までのブルガル、後のカザンであり、降れば当時のサライ、後のアストラハンである。カスピ海とアラル海の間のウスティオルダを南に下れば中央アジアの文化的中心地ヒヴァとブハラに至る。北寄りの経路を東に進めばシル川の流域から天山山脈を越え、ジュンガル平原やモンゴル高原に行くことができる。タナはヨーロッパの内陸に向かう窓であり、モンゴル帝国の西の港であった。タナはキプチャク人やルース人奴隷の集積地としては、理想的な場所にあったと言えるであろう。しかし、この位置は沿黒海地方とアブハジアに住むアブハズ人の大量捕獲には向かない。沿海地方の港湾と結びついているカッファは、チェルケス人とアブハズ人の確保に関しては有利だが、モンゴル人やキプチャク人奴隷の確保に関しては便利な位置にあるとはいえない。タナに少数のアブハズ人奴隷が見られるのは、13世紀アブハズ人が沿岸部からクバン川上流に異動を始めたからである。

ヴェネツィアにおいては、1368年には、奴隷の数が増え、治安の悪化を心配する声が上がり、1386年に至って元老院が広場における奴隷取引を禁止したが、守られなかった。1414-1423年にはヴェネツィアだけで、1万人を越える奴隷が取引された。ヴェネツィアは、アドリア海や東地中海の各地に領土を持っていたが、家内奴隷に留まらず、これらの属領では農業に従事させられる奴隷がいた。1429年400人の奴隷を積み込んだガレー船がタナからヴェネツィアに入港したが、1488年の記録では3千人のタタール人、エチオピア人の奴隷が在庫していたという。こんなところに売るほど大勢のエチオピア人はいないが、筆者はアバザとアビシニアが取り違えられたのだろうと考えている。上述のマッキーの研究ではヴェネツィアでの取引948人中、アブハズ人11人、チェルケス人137人、メグレル人はゼロ、ロシア人206人、タタール人547人で、半数以上はタタール人である。集積地タナの立地と、ヴェネツィア人の奴隷購入の目的がタタール人奴隷の数を多くしたのであろう。 

東方奴隷が北イタリアに導入されると、先ずヴェネツィアとジェノアが二大消費地になり、直ぐに内陸のトスカナ地方にも行き渡った。「ジェノヴァやヴェネツィアのたいていの裕福な家庭で奴隷が見られるようになった。彼らの多くはほんの九才か十歳の子供だったが、多種多様な人種にわたっていた。黄色い肌で目の吊り上がったタタール人、美しい金髪のカフカス(コーカサス)人、ギリシャ人、ロシア人、グルジア人、アラン人、そしてレスギア人。一片のパンのために両親によって売られたり、タタール人の侵入者やイタリアの水夫にさらわれたりした子供たちは、黒海北部の港であるタナやカッファ、コンスタンチノープル、キプロス、クレタなどの奴隷市場から、ヴェネツィアやジェノヴァの波止場に運ばれ、そこで商人に買われて、内陸の顧客に送られるのだった(オリーゴ、イリス『プラートの商人-中世イタリアの日常生活』篠田綾子訳白水社、1997年、121頁)」。「黄色の肌・つりあがった目」と「金髪」。フィレンツェ史研究の泰斗にしては、なんという人種的ステレオタイプ。しかも単純化しようとするあまり、タタール人とコーカサス人以外の特徴は、特記事項なしになってしまった。オリ-ゴ女史はあまりいい公証人にはなれそうもない。公証人は取引される商品を正確詳細に記述されなければならないからで、実際の登録台帳には、奴隷一人ひとりの全ての人種的、個人的特長が記載されている。それにしても金髪のコーカサス人とは誰なのだろう。そもそもコーカサス人とは?

フィレンツェでは1363年非キリスト教徒奴隷の無制限の搬入を許すとともに、搬入された奴隷の登録を義務付けた。オリーゴ女史の用いた登録簿は、その規則に基づくものであるが、357人中254人が最初の4年間の登録である。次第に登録を面倒と見る人々が増えたのか、あるいは登録できない事情にあったのか、るいはそもそも奴隷が搬入されなくなったのか、この史料自体からは明らかにならない。

 この登録者357人(内、女性329人)中、チェルケス人4名、ロシア人13名、タタール人274名であった。女性は329名(92%)、男性は27名であるが、16歳以上は4名のみであって、成人男子奴隷の購入は避けられる傾向にあったことがわかる。女性の年齢分布は、12歳未満が34名10%、12-18歳は85名26%、19-29歳は204人62%、30歳以上は6名2%であるから、若い成人女性が求められていたことになる。若い女奴隷といっても少しも悩ましいことは生じない。彼らは「身の丈は中ぐらい。肌はオリーヴ色で、天然痘の跡が沢山ある。右の頬に二つのホクロがあり、唇は厚い」などと形容されている。購入価格は女性の場合、10歳以下では25-30フローリン例外的に20フローリン、10-15歳で30-40フローリン、15-24歳では45-50フローリン、この文書中の最高価格は15歳の美少女で65フローリン、証書に「身体が美しい(pulchra de corpore)」と書かれていた。フローリンはフローレンスの金貨で、一枚の重量3.5gである。15世紀にカッファに滞在したスペイン人のペロ・タフールは、「その中にタタール人の男か女がいたら、値段は3倍である。タタール人が決して主人を裏切らないのは確かだと信じられているから」と主張している。そう言えば、マルコポーロと世界旅行を共にした(と信じられている)タタール人奴隷ピエトロは、マルコの死後遺産を分与されている。また、『商業指南』の著者ペゴロッティが大都に向かう旅人はタタール語がわかる従僕2名を雇う必要があるとしたのは、タタール人の忠誠心を買ってのことだろう。



 若いタタール人女性(ピエトロ・ロレンゼッティ筆「タナにおけるフランチェスコ会修道士の殉教図」より)

奴隷の価格は13世紀から15世紀の間上昇傾向にあったが、特に15世紀前半上昇し、平均65-75フローリンになった。フィレンツェの1427-8年、1457-8年の不動産登記簿においても奴隷の圧倒的多数は女性であったが、この時代奴隷の民族はタタール人よりもロシア人やチェルケス人のような美しくて、文化的であると考えられた少女が好まれるようになった。ある母親は息子に、がっしりした体格で、重労働にも耐えるタタール女を買うように勧めているが、それでも皮膚の色の赤いロシア人は、顔色が魅力的で美しいことを認めている。チェルケス人に期待されたのはタタール人とは全く別の側面で、15世紀フィレンツェのコジモ・ディ・メジチ(1389-1464)に贈られたチェルケス人女性は、「病気の心配の無い健康な処女で、歳の頃21であった」。この時コジモはローマに滞在中で、彼女はローマの銀行家からのプレセントであった。この女性、マッダレナはコジモのもとで、体裁は女中として働くことになったが、ローマで息子カルロを生んだ。カルロは庶子なので僧籍に入り、最後にはプラートの大司教に就任した。父親が父親なら、息子も息子、1459年、コジモの息子ジョヴァンニ(1427-1463)に当てた代理人ルクレズィアは「私は貴方のために、チェルケス人の17-18歳の、繊細すぎない顔立ちの、しかし、美しく、扱い易い、生き生きとして知的な奴隷を見つけました。これは小生の意見でもあり、彼女を見た女性たちの意見です。」と露骨に報告している。「彼女を見た女性たち」とは、ルクレズィアが家族か知人の女性に買い物の目利きを頼んだのではなく、奴隷市場で働く特別の用務の女性のことであろう。この少女の価格は72ドゥカトであったが、同じ船で運ばれたほかの40人は80-85ドゥカトで購入された。15世紀のフィレンツェにおいて一部の奴隷が、妾目的に購入されたとしても、彼女たちの割合が多かったかどうかは分からない。不動産登記簿には、評価額や奴隷の年齢はあっても、民族的帰属は書かれていないことが多いからである。



カルロ・ディ・メディチの肖像(ウイキメデェアコモンズによる)

 コーカサスにもまた黒海・地中海沿岸にも家内奴隷の姿は絶えることがなかったが、オリーゴ女史はイタリアの家内奴隷は、14世紀の黒死病の蔓延の結果生産人口が現象したことを受けた結果であるという説を述べている。フィレンツェでは1366年になって、市執政委員会が奴隷制導入許可を決定した。黒死病の最初の流行は1346年キプチャク・ハンによって包囲されていたカッファで起こった。原因は包囲軍がペストの死者をカタパルトで城内に投げ入れたからであったが、イタリアでは1348年流行が始まった。通説に従えば、イタリアでは3割ほど、フィレンツェでは約半数の住民が死亡したので、労働人口も全体の減少率と同じ割合の人々が死亡したであろうが、当時のイタリアの奴隷は家内奴隷であって、生産活動には従事しなかった、家内奴隷の必要は、家庭自体が縮小した以上、伸びなかったとも考えられる。また、流行と奴隷購入の間に時間が空きすぎるようにも思える。だろう。死はあらゆる人々に平等に来るわけではない。金持ちは生き残り、貧乏人は死ぬのだから、黒死病の流行が収まった後、家内奉公人の需要が高まったということはありうる。また、夫が死亡しても女中は必要にならないが、主婦が死亡すると女中が必要になるであろう。時間差は、単に政庁が現実をするまでの時間かもしれない。それよりも、数年分の給金で購入できたという奴隷価格の低さである。平成のサラリーマンであった筆者が見たのでは、フィレンツェ近郊プラートの商人フランチェスコ・ダティーニ(1335年頃ー1410年)の数多くの書簡が示す、ダティーニ家で人手不足があったようには思えないが、需要が先にあったのではなく、供給が先にあったことになる。ジェノアに居住する女奴隷は、14世紀末、3,000人、15世紀半ば2,500人、1467-1472年間で1,200人であったが、トスカナでは、フィレンツェで1366-1368年に203人、1427年にはフィレンツェと当時フィレンツェに併合されていたピサを合わせて289人(男は6人)に上昇していた。1457-1458年登記簿では、544人(男は6人)だった。

 黒海沿岸にジェノア商人の交易ネットワークが存在した期間に、黒海沿岸地方では大きな住民の交代が起こっていた。かつて一度は、ゴート人やトルコ人のものになったタマン半島には、再びチェルケス人が住むようになった。今日のソチ市の領域は、アブハズ王国(レオン朝)の領地であり、アブハズ人の住処であった。確定はできないもののここからも多数の少年少女、青年が奴隷としてイタリアやエジプトに運ばれたものと推測することができる。

第4節 クルガンの時代

 『ソチと周辺の歴史』の著者で、幅広く黒海沿岸の遺跡の調査を行ったユーリー・ヴォロノフは、13-14世紀のソチ地方を「クルガンの時代」と名づけている。これまで黒海東岸では例外的にしか見られなかったクルガン墓が、この時代には顕著だからである。クルガンはロシアやウクライナ、カザフスタンなどに多く見られる塚上の墳墓で、歴史上有名なクルガンはスキタイ文化に属する紀元前のものであるが、北コーカサスでは、同じイラン系のサルマート系諸民族の活動にともなって、広がっていた。ヴォロノフは先ず、この時代の概況について次のように述べる。「中世初期に地域住民が享受した繁栄は、11-12世紀に終焉を迎えた。都市の過疎化、教会の荒廃が進行し、大規模な移牧はほとんど残らなくなる。大きな村に替わって、粗末な木造建築の小集落が現れる。現在残されているのは、畑の中に点在するか、何かの片隅に残った地元産食器や什器の山、および輸入物の釉のかかった陶器と家畜の骨である。これらの場所でみつかる大量の石材のみが、ここに古い時代に何かの土台があったことを物語っている」。ヴォロノフは11-12世紀にソチの経済活動が衰退した理由を述べないが、経済活動の舞台が地方からアブハズ国家、さらに全グルジア国家の中心へ移動したこと、これまで生産と流通の基軸となってきたビザンツによる直接的の、或いはラズィカを通じた間接的金貨の分配が、ビザンツ帝国の弱体化にともなって衰えたことが考えられよう。ビザンツもラズィカも山地民の恭順を確保するために、税は課さず、金貨を下賜するあるいは山地の有力者を買収する政策をとっていた。地方交付金である。下賜された金貨は社会的権威の段階や度合いにおいて再分配され、政治的システムと物資流通の道筋をつくっていた。これが断ち切られると、中世において商業と同じく戦争も正当な経済活動であったので山地民は平野に下って略奪を行うか、生活に有利な移住先を探すかした。アブハジア人のレオン朝の後継者であるアブハジア人とグルジア人のバグラト朝は生存を確保するために周囲のイスラーム政権と闘い続けなければならなかったが、この戦争は領土の拡張と同時に人的資源の枯渇を生んだ。山地人兵士の導入やかれらの平地への移住は、短期的に侵入者を撃退するためにもまた長期的にバグラトゥニ朝の国境を維持するためにも必要になっていく。また、ビザンツ金貨の流入に替わって、13世紀に一層盛んになるのは、奴隷の売買と貢納である。メグレリ(ミングレリア)と同じく、アブハジアでも、奴隷は地域の内部から調達されなければならなかった。生まれついた身分や戦争捕虜によって、村落や氏族・部族などの内部に滞留していた非自由身分者は、そのストックが切れると集団同士の奴隷狩りによって調達する必要が生じた。ヴォロノフはこの時代の遺跡から発見される大量の鉄の鏃は、地域内に永続的戦闘状況が生じていたことを示唆するとした。

しかし、メグレルやアブハジア南部を視野に入れた上の想定とは異なり、13-16世紀に、アブハジア特にソチ地方では沿岸住民の山地移住が進行したと見られる。この間、措置から見て山脈の彼方のクバン川上流にアバザ(アバズィン)人の社会が成立したからである。19世紀始めまでの北コーカサス平地やオスマン帝国への移住が進行する前の、アバザ(アバズィン)人はクバン川本流および同河支流ラバ河上流に居住していた。彼らは、平野民を意味するタパンタと山地民を意味するシャカラウの2集団に別れ、それぞれが6個の氏族に分かれていた。多くの研究者の意見は、彼らが黒海海岸地域、あるいは全アブハジアからの移住者であることで一致している。ダニロヴァによると、彼らの祖先は13世紀末まではブズィブ川からトゥアプセまでの海岸地域に住んでいたが、14世紀にはタパンタ人が、16世紀末から17世紀始めまでにはシュカラウ人が山脈を超えて移住し始め、18世紀には全員が山脈の北側に移住を完了した。彼らは自集団の領主の支配下にあるか、カバルダ人やチェルケス系ベスレン人領主の支配下に置かれていた。アバザ人の移住を証明する資料はふんだんではないが、17世紀のソチとトゥアプセの住民が確かにアバザと呼ばれていたことに加えて、地名や集団名称(タパンタ人ルーヴ族の領主の姓はルーヴ、あるいはレウだが、これはソチの地名ルーと関係があり、王の名あるいは王家名レオンに由来すると言われる)の類似である。トルコ語では(オスマン語においても現代トルコ語においても)、アブハズという言葉はなく、我々の言うアブハズ人に対してもまたアバザ(アバズィン)人に対してもアバザの名前を使っている。なお、近年言語学者は、アブハズ人の自称がアプスワである点に注目している。中世初期スフミ周辺に住んでいたアバスグ人、アプスィル人、アバザ人の流れの跡を辿ろうとしている。13-17世紀におけるアバザ人の海岸からコーカサス山中への移動は、当然、彼らに変わる新しい住民の移住を示唆するが、この時期に出現したクルガン墓の埋葬者がその問題を解く鍵になる。

 ソチのクルガンはアシェ川流域のクラスノアレクサンドロフスキー、ソチ中心から西の海岸のヴァルダネ、ムズィムタ川中流右岸支流ケプシュ川流域、プソウ川上流のアイブガ、クラースナヤ・ポリャーナに発見されている。ケプシュ村の森林中の破壊された墳墓からは、13-14世紀の鳥の絵が描かれ釉がかかった壷、輸入物のガラス食器、鉄の剣、多量の鉄製鏃、火打石、短剣が出土し、ヴァルダネからは、鉄の鏃、ナイフ、砥石、たての中央部、ガラス製の輸入食器が出土している。クラスノアレクサンドロフスキーのカパブ谷クルガンは、東西に長い楕円形で、高さは通例1mに達しない。土森は3-5段の石積で丸くふちどられている。ここのクルガンの一基の墓からは、15-16世紀のアディゲの特徴を持つブロンズのベルト留め具が発見されている。アバズィンカ村のいくつかのクルガンでも平石を積み上げた円環と細長い土盛りがあった。墓制は一つの型では地面を掘り下げたもので、別の型では使者に石板を被せ、周囲に石積の円環を気づいた上から、土を盛り上げてクルガンになっている。食器のかけら、火打石、青いビーズ等15-16世紀の製品が出土している。クラースナヤ・ポリャーナのベシェンカ川(ムズィムタ川支流)には、斜面をきりこみブロック石で墓を作ったものと、地面を掘り下げで墓穴を作り、石積円環で囲ってその上に土盛りしたものとが見られる。

 ヴォロノフが紹介するソチのクルガンは、彼自身は個別の遺跡名があげられているだけで塚の総数は数え上げていないが、刊行以後の年月を考慮に入れても、非常に少ないと思われる。現在、確認されているのはベシェンカ、アイグバ、メドヴェエフカなどクラースナヤ・ポリャーナ周辺、アバズィンカ、ヴァルダネ(ヴァルダネ-ヴェリノ)、ケプシェなどムズィムタ川中流に集中している。

一方、ティシコフの研究によるとトゥアプセ郡では、複数のクルガンが設けられている遺跡が217箇所、単体のクルガン20箇所、クルガンの合計10,210基であるという。このうち、10-16世紀に属する49箇所の墳墓が、後のアバゼフ族の居住地(ソチとトゥアプセの内陸山地とコーカサス山脈を越えたクバン川にまたがった地域)にあるので、クルガン墓はここからソチ地方に広がっていったものと考えられる。17世紀半ばには、トゥアプセとソチの海岸部には、まだアブハズ人が住んでおり、ソチの山地には山地アブハズ人がいた。ティシコフが言わんとすることは、山地アブハズ人が山脈南麓を西からムズィムタ川流域に移動して、クルガン文化を残したというのであろう。シャプスギ族とウブイフ族が定住するのはその後である。

 大ソチの領域中、北のシャヘ川から南のプソウ川に至る地域の葬制を見ると、6-7世紀から、14世紀までのキリスト教徒の墳墓が教会に埋葬されているのに対し、沿黒海地方西部では12世紀に始まるクルガン墓が、この地方では14世紀にキリスト教的埋葬と交代する。また、この地方におけるクルガンの分布がムズィムタ川上流とソチ市中央区に多いことに鑑み、14世紀にこの地域の住民の移動があったと考えた。新しい移住者も、上の段落で述べたように大まかに言うとアブハズ人の一部であった。彼らは西、あるいは北からソチに移住したのであると考えられる。最初、プシシュ川流域にいたクルガンの担い手が、ボリショイプセウシュホ村近辺に進み、さらにアシェ川沿いに海岸に達し、更に西コーカサス山脈の南山麓あるいは尾根沿いにムズィムタ川上流に前進したと考えられるであろう(下図参照)。しかし、移住の原因については13世紀以降のタマン半島におけるチェケス人勢力の拡張、また彼らの16世紀以降の北コーカサス中部への進出と関係をあげられるかもしれない。しかし、移住者であると想定されるクルガン墓に死者を埋葬した、非キリスト教徒であるアブハズ(アバザ)人の存在は証明されていない。ただ、伝承ではかってクバン地方にアブハズ(アバザ)人が住んでいたとするものがあることは、指摘しておきたい。

2013年の野外調査では、大ソチ市ラザレフスキー区のルー、ヴァルダネ、ソロニカ、ミールヌイ、アレクセエフカで、18世紀末-19世紀初めのものと判断された多数のクルガン墓が発見された。1864年までここの住民はウブイフ人であったが、15-16世紀にトゥアプセ郡山地やムズィムタ川流域にあったクルガン墓文化の担い手がこの時期までには海岸に至るラザレフスキー区に広がったのか、新たに定着した人々のものかは即断できないであろう。



沿黒海地方南部中世クルガン墓分布図(著者作成)

 住民の交代は埋葬だけでなく、信仰の形態にも深刻な影響を与えた。ルーの教会は、まだ13-14世紀には機能していた。一旦、13世紀に崩壊した建物は、14世紀に再建され、修道院部分も新築されている。埋葬の形式によっても13世紀末と14世紀のキリスト教徒の存在が証明される。また、ソチ市内の他の古教会跡では、ユージュヌイエ・クルトゥルイ、レスニッツアⅡ、サハルナヤ・ガロフカ教会は、14-15世紀まで機能していたと判断されている。また、アグアの教会は様式、石積み方、関連材料の、14世紀のアブハジアの教会堂との類似性から、同じ世紀のものと見なされている。しかし、15-16世紀にルーは戦乱の時代を迎える。15-17世紀のものと思われる出土品には石弾、薬莢、金属製品が見られる。ドームはこの時代に崩落した。教会堂の窓は部分的に石積で塞がれて、銃眼に変わった。海の側の入り口(西と南)は塞がれて入り口は北側のものだけになった。最近の発掘で土台が発見された西側の物見櫓はこのころ建てられたと想像されている。

 ソチにおけるキリスト教信仰の衰退は、まだアブハズ人が住み続けていた17世紀以前におこっているのだから、住民の交代は民族の交代に係わるものではなく、アブハズ人内部の問題であった。新しい住民は固有の異教信仰によって、キリスト教を圧倒した。今日でも山地にはキリスト教の到来以前に起源を持つ土着信仰の聖所と思われる場所がみつかるが、古い牧人の構造物を再利用したものも多い。このようなところには、羊飼いや猟師が山の霊への供え物として捧げた大量の鉄の鏃が見つかるが、そのような遺跡の一つは、ムズィムタ川水源の氷河湖カルドィバチ湖の近くにある。日本人と同じく、アブハズ人も太古から今日に至るまで、山岳、渓谷、叢林、潅木の茂み、個々の樹木などに畏敬の念を抱いてきた。家族や氏族はそれぞれの聖所を持っていて、そこで祈り、犠牲を捧げ、死者を埋葬した。さらにアブハジア全体ではグダウタのドウイルイプシ-ヌイハを頂点に、広い地域に影響がある重要な7箇所の聖所があり、その一箇所がソチのブイトハの聖所であった。ブイトハは鷲に似た姿をし、目は金色、7本の樫の大木の近くの洞窟に住んでいたと言い伝えられている。ブイトハ山は、ソチの西よりデンドラリとマツェスタの間の海岸に近いが、住民は1864年にトルコに移住し、7本の樫の巨木も落雷で焼けたので聖所があった場所は特定できない。



ソチの聖地ブイトハ山。いつのころかこの斜面のどこかに聖なる7本の樫の大木があった。(出典、ウィキメディアコモンズ)

 教会堂跡と並んで、ゴドリクとママイカレの遺跡は、ソチの中世を象徴する重要な遺跡である。ゴドリク要塞址は、ソチ西部ラザレフスキー区のゴドリク川下流左岸の河口部にある。この地方の遺跡としては非常によく残っており、敷地面積は約2haで、地形の理由で、形状は南東に開いた三角形で、厚さ2メートル、延長700m程の石の城壁によって取り囲まれている。海側の城壁は破壊して断崖上になっている。底面積が四角な塔が数個設けられていて、よく残されている。北側と南東側にそれぞれ3箇所、西端の塔あるいは内城は外側に6メートル、内側に4メートル突き出ている。壁の厚さは1メートルである。この塔から細い通路で城内に出ると他の部分とは区切られた区画になっている。このような内外に突き出た塔はローマあるいはビザンツに特徴的なものである。石積みの技術などから、ヴォロノフはこれを5-8世紀のものであると見なした。一方、オフチニコヴァは、出土した土器片からこの砦が機能していた期間を8-14世紀と判断した。後者によると城は、一旦放棄された後、14-15世紀突然再建され、設計上の変更が行われ、城壁内で海岸の近くに本丸部分を区切る城壁が加えられた。その部分では、ローマやビザンツでも現地の方法とも異なったジェノヴァ独特の矢はず模様の技術が用いられている。 

ママイカラはソチの中心部から10km足らずのママイカ河口にあって、正方形の城壁の角には今でも隅櫓がよく残っている。基盤はローマ時代かビザンツ初期のものであるが、発掘された遺物による時代の推定は13-14世紀で、上層部で発見されたワイン用大瓶は、黒海南岸スィノプ(スィノペ)式の14-15世紀のものであるという。



ゴドリク城(ウィキメディア・コモンズWall of Godolik
Fortress,Chemitokvazhe,

Sochi,Krasnodar Krai,Russia,30 August,2008)

 この時代のソチ社会の変動を示す文献資料はない。しかし、15-16世紀、黒海東岸で現地民による海賊行為が激化したことは、何らかの関係があるかもしれない。公海上の海賊行為については既に述べたが、ここで指摘するのは移動手段として船を利用した大規模な、略奪遠征である。1298-1263年の間のビザンツの歴史を記述したラオニク・ハルココンディルは、1458年にズィキ人の大規模な海寇があり、トラブゾンが襲撃をうけた。この盗賊団の領袖はアルタビルという者であったが、現地の研究者の中には、彼はアルト・アビルであって、アルトは後の文献に現れるアドレル地方の部族アルド(アルト)を意味しているという主張がある、確かに、オスマン朝の文献にアバザ・アフマドとあれば、アバザ人のアフマドという意味であるから、アビルという男性名称が確認されれば、その仮説の通りであろう。もう一つの事実は、サリー・マッキーの挙げた、15世紀にジェノアで購入された奴隷の民族別人数の変化である。1440年代に72名と少なかった奴隷購入総数は、1450年代に、108人と最高になり、その内アブハズ人、チェルケス人、メグレル人(それぞれ、10人、30人、4人)の総計は44人となり、調査上二番目に高い値を示している。1460年代も33人(それぞれ。12人、30人。1人)でこれに告いでいる。1470年代には総数12人と大きく下がる。なお、1450年代に先立つ山は、1410年代で総数(それぞれ、11人、33人、2人)45人と調査中最大値である。ヴェティチア市場の取引数にはこのような傾向は無い。なお、ヴェベチア市場の1360年代から1450年代までの最大取引数は、1390年代で、総数285名であるが、この期間はタタール人218人が全体の数を大きく上げている。この原因は、チムールの侵攻であると考えられている。この間のチェルケス人も31人で期間最大である。オスマン帝国がトレビゾンド帝国を征服したのは、この事件の僅か3年後であった。

これに次ぐ大規模な海寇は1572年に起こり、ヴェニス大使の報告によるとチェルケス人が、24艘の船で来襲し、300マイルに渡って、地域を破壊略奪し、多数の人々を連れ去ったという。オスマン朝はこれに先立つ1454年、スフミ地方とアブハジアに出兵し、スフミを焼き払った。また、トレビゾンド征服の1461年には西グルジアに出兵した。1508-1512年には、トラブゾンの東部にあたるジャネティに出兵し、1534年までこの地方を占領した。1547年にゴニアに要塞を建設し、ジャネティを最終的に併合した。1554年にはメグレル地方のリオニ川の近くでオデイシ(メグレル)の軍隊と小競り合いがあったが、オディシ公は1557年、コンスタンティノープルに赴き、オスマン帝国の宗主権を承認した。しかし、1560年から1577年までの間は、オディシにグリア、アブハジアが加わって、オスマン帝国に対する戦闘が再開され、オディシとアブハジアの軍船はオスマン領を攻撃し、1571年オスマン朝は黒海東岸の封鎖を宣言した。オスマン軍は1576年に、チョロヒ川からリオニ川までを占領、1578年にスフミを、1579年にはポティを占領した。恐らく、これらの戦闘はオスマン朝の黒海政策の帰結であって、海寇はその原因ではなく、戦争の一要素に過ぎなかったのであろう。アブハズ人の参加はその範囲内のことであった。オスマン朝のミュヘンメ-デフレリでは、アブハズ人の海賊活動は、第4四半期に活発になったことが伺われるが、オスマン朝はこの略奪行為を「アバザ人、チェルケス人、メグレル」人によるものとしている。ミュヘンンメ-デフテルによると、遠征は特に春に行われた行った。彼らはアナトリア海岸のスィデレ、ゴニエ、マクリイェル、アルハヴィ、さらにバトゥミとトレビゾンドを荒らし廻わって、地域の商業を妨げ、特に、地域住民を捕虜に捕った。更に彼らは武器(火縄銃、大砲、刀剣)と塩の密貿易を行った。

さて、1577年のミュヘンメ-デフテルには、「チェルケス、アル(アラン)、アプカス(アブハズ。通常の用例ではアバザとあるべき)、チケド部族と呼ばれる前述の敵」との一文がある。チケドはイタリア人のジギ、ビザンツ人のズィフスで、グルジア人もまたジキ。一般的には10世紀にジギとカサギに分かれていたチェルケス諸族は、13世紀にはチェルケスと呼ばれるようになる。イタリア商人の記録にもチェルケス人の名称が使われている。しかし、第3節のヴェネツィア商人ジャコモ・ディ・バドエリの元帳にもチェルケス人とは別にズィギ人があった。本書で対象とするソチ地方の住民は近世にサヅと呼ばれていたが、これに対応するグルジア語はジキであった。中世期ジキ地方(グルジア語で「ジケティ」)は、アブハジアの北部を指したが、次第に拡大されて全チェルケス地方を示すようになった。逆にサヅに対応する別の言い方は、ジキである。このようにサヅ人に対して別名のジギ人と呼ぶ可能性が指摘されよう。ソチ地方の人々は。広義のアブハズ人としてだけでなく、狭義のジギ人として取り扱われたかもしれない。他にも、タナの公証人モレットの台帳にも1408年、2名のズィギ(14歳の少年ザニベクと20歳の女性スィエク)の売買記録があがる。この場合には、ソチのアブハズ人というよりは、クバン川上流のアバザ人(アバズィン人)とするべきであろうか。

 この時代も文献資料によっては、ソチ地方についても、ソチの人々についても具体的な情報はなかった。しかし、それに変わる考古学資料も十分ではなく、ここで著者が述べた思いつきを検証する手立ても、否定する材料も今のところないようなのである。