第2章沿黒海地方史の始まり
第2節 アブハズ王国時代のソチ
第2節 ソチのアブハジア王国領時代
<第1項 キリスト教の流布>
ローマ、ビザンツ勢力の伸張と減衰は、黒海東岸にキリスト教の隆盛と独立のアブハジア公国の勃興をもたらした。コーカサス全域にイエスの使徒による福音宣布の伝説が広まっている。南コーカサスでは聖タデウスや聖アンドレが、北コーカサスでは、聖アンドレと聖シモンがその役を担っている。聖アンデレは「小アジアとスキタイで伝道し、黒海に沿ってヴォルガ川まで行った」(エウセビオス『教会史』)が、聖シモンは殉教するまで黒海沿岸に留まって、布教に努めた。グルジア教会の伝承では、聖アンデレは多くの仲間たちとともにシリアに向かい。
彼らはついにカッパドキアと黒海沿岸の都市トレビゾンドを通り、イベリアの国に達し、トリアレティの地に来た。チョロヒと呼ばれる川まで。困難なく救世主キリストの布教をしながら。使徒たちは、この中にはシモン・カナニトがいたが、ここで山国スヴァネティのある女性の公国を訪れると、彼女は教えを受け入れ、信者になった。ここに聖マテオスを残し、使徒アンデレと使徒シモン・カナニトは山のオセットの境に奥深く進み、フォストフォルと呼ばれる町に到達した。ここで、彼らの霊験によって多く異教徒がキリストの信者になった。オセティアから使徒達はアブハジアに進み、セバスト、現在のスフミの町に留まった。この町の住民は嬉々として神の言葉を受け入れた。福者アンドレはこの町に使徒シモン・カナニトを残し、自分は海岸を通って、アブハジアの山人の一族であるジゲティ人の国に向かった。
使徒聖シモン・カナニトの肖像(出典ウィキメdeアSimonZilot.jpg)
聖シモンはニコプスィアに近いプスィルトスヒ渓谷に住み着いたが、時のグルジア王アデルキアの迫害によって殉教し、遺体は川岸に埋葬された。紀元55年のことであるが、ここに現在のノーヴィアフォン(新しいアトス山)修道院が建設された。しかし、これには別の説があってこのニコプシアは、5世紀の無名の著者が記したように。トウアプセの北のノヴォミハイルスキーであると言う。聖者伝に記されていることの中には、ある程度の真実は含まれているであろうが、黒海沿岸地方におけるキリスト教化は南コーカサス内陸部ほどには進まなかった。内陸部では4世紀にはアルメニア、グルジア、アルバニアの国民教会が成立したが、海岸部のラズィカでキリスト教が国教化されたのは5世紀であった。聖使徒の時代の布教が黒海海岸のギリシア人都市住民に一定の成果を見たとしても、ギリシャ嫌いのアカエイ人を含めた土着の人々の間に多きな成功を見たとする具体的根拠はない。
アブハジアでは4世紀の始めポントスのネオカイサリアの府主教の指導下にピツンダに最初の主教区が成立し、主教サフロニウムが信者を訓導した。また325年のニカエア公会議にはピツンダからストラトフィルスが参加した。5世紀にはスフミにも主教区が誕生し、主教ケルコニウスは451年のカルケドン第4回公会議に出席している。
ユスティニアヌスは、自分の宦官でアバズグ人のエヴフラトゥスに命じて、コンスタンチノポリスにアバズグ人の子供たちの学校を作らせた。また、531年、大帝はピツンダとセバストポリスを併せ、セバストポリスにネオカイサリアではなく、コンスタンチノポリスに直属するアバズグ主教区を置いた。主教区の中心となるセバストポリス大聖堂は、ドランダに残るものがそれだという。この教区は541年大主教区に昇格され、以後、アブハジアにおけるキリスト教信仰の中心となる。スフミから南、コドリ川に近いドランダにある、帝国で6-7世紀に流行していた基盤が十字架型でドームがかけられ、4本の円柱をもった大聖堂がそれであるという。タマン半島のゴート人のキリスト教徒は、548年、彼らに対してもアバズグ人と同じく主教の妻帯を認める請願書をユスティニアヌス帝のもとに送ったから、アバズグ人の主教は妻帯を許されていたのであろう。
ユスチニアス大帝像(ラヴェンナ、サン・ヴィタール聖堂壁画)
タマン半島のゴート人とアブハジア北部のアバズグ人の間にいたチェルケス人と彼らの東にいたアラン人の布教は、5世紀から6世紀にかけて始まったと推定されているが、新マイコプにおけるバシリカ型教会の遺跡がその事情を物語る。上に述べた聖アンデレの伝記には、
この国の人々はズィキ人と呼ばれる。彼らは農耕をおこなっているが大変残酷であり、趣味は粗野である。今日に至るまで彼らの大部分、全員とまでは言わないが、野蛮であり無信仰である
と書かれている。ズィキア主教区は、536年にズィキア主教ダミアンがコンスタンチノポリスで開催された公会議に出席しているので、それ以前に成立している。8世紀頃、ズィキア大主教区管内には、ズイキア、ニコプスィア、トゥムタラカン、ボスポラス、ヘルソネス等の主教区が置かれていた。ニコプスィア主教区は787年、807-815年の教区一覧にも、10世紀前半の教区一覧にもセバストポリスのアバズグ大主教区のもとに掲載され、共にアバズギアのと呼ばれている。8世紀のある時期を境に、ニコプスィア主教区は、ズィキア大主教区からセバストポリスのアバズギア大主教区に移管されたのであろうか。一方、エピファニウスが、
この民族は温和で信仰に親しんでいる。彼らは喜んで説教の言葉を聴いた。
と述べたのはニコプスィアの人々である。アブハズ人に対しては「キリストを愛するアブハズ人たち」などの表現が見られる。チェルケス人とアブハズ人は、対照的に表現されているが、ニコプスィアの人々とアブハズ人は、キリスト教信仰の点で、少なくとも親和性があった。これらはアブハジア王国の政治的境界と一致すると見られる。
8世紀の半ば、現地人聖職者に人事権を持った真の独立を目指す運動が起こった。コンスタンチノポリスはアバズグ人の要求を認めなかったので、アバズグ人は戦略を転換し、教会組織上コンスタンチノポリスと同じ権威があり、政治上はイスラーム帝国に属していたアンチオキアに頼ることに決定した。820年アンチオキア総主教は、イオアンがアブハジアの総主教であることを承認し、アブハジア正教会が成立した。新しい総主教座はギリシャ人の影響の大きいセバストポリスではなく、ピツンダに置かれた。コンスタンチノポリスの観点では、依然としてアバズグ大主教区は存続した。コンスタンチノポリスがこの現実を承認したのは1390年になってからであった。ある主教名簿によると6-7世紀のアバズグ大主教区には、ツァンドリプシュ、ピツンダ、アナコピア、セバストポリス、ツェベルダ、ギュエノスの各主教座が置かれていたので、ソチはツァンドリプシュ主教座に含まれていたと推測することができる。ツンドラプシュにはユスチニアヌス大帝が、特にアバズグ人のためにバシリカ教会を寄進している。
まもなく、アブハズ王国独自の教区組織が発展してくると、コンスタンチノポリス総主教は、アラニアの教区を補強し、アブハジア正教会独立以前の旧アバズグ大主教区の北部はアラニア大主教区に入ることになった。新大主教区の首座教会ソティリウポリスは、異説もあるがアジャリに置かれた。当時のアラニヤはクバン川上流のゼレンチュクにあって、今日のロシア連邦のアラニア=オセティア共和国とは違う場所にある。その当時グルジアの年代記はクバン川を「オセット人の川」と読んでいた。このアランはコンスタンチヌス7世も記すように、黒海沿岸からコーカサス山脈北西部を越えたあたりにいた。ソチからはコーカサス山脈の向こう側にあたる。ソチからはムズィムタ川を遡って、また、アブハジア北部のピツンダからはブズィズ川左岸の峠を超えればよかった。
<第2項 アブハジア公領>
ここでアブハジアの歴史に触れなくてはならない。古代末期、スフミ周辺にはアプスィル人、その北にアバズグ人、その北にはトゥアプセに至る地域にサニグ人が住んでいたことは先に述べた。また、内陸部にはミスィミアン人がいた。7世紀末葉まで、ラズィカ王国が、かつてのコルキスの領土であった西コーカサスを領有していた。しかし存在の全期間を通して、ラズィカはビザンツ帝国とイランのパルチア、ササン朝との抗争に巻き込まれていた。ラズィカ王の対外政策は、両大国の間を絶えず彷徨うものであった。教会史上は523年ラズィカ王ツァテがキリスト教に改宗したとされているが、これとて単にその時の王の政治的立場を示したものであった。王の改宗の4年後ビザンツではユスティニアヌス大帝(在位527-565年)が即位し、イランのササン朝でもやや遅れてホスロー一世アヌーシルヴァーン(在位531-579年)が即位した。ここに東西二つの強国のしかも最も優れた君主同士が、正面から衝突する時代を迎える。
523年の東ローマ・イラン間条約によって、ラズィカはビザンツ領になっていたが、大帝は東西グルジアを分けるスラミ山脈の要塞からラズ兵を引かせて、ササン朝に対する東部国境の防衛はローマ兵だけで行うことにした。親イラン派であったラズ王ザムナスの息子ツァテは、ラズィカにおけるビザンツ帝国の支配権が確立したのを見て、コンスタンチノポリスに趣いて服従とキリスト教改宗を申し出、戴冠を許され帰国した。しかし、ツァテを継いだグバズ王はビザンツの総督(ストラテゴン)イオアヌスの圧政に不満を抱いて、イランと内通の交渉を始めた。542年、王の内通をあてにしたホスローは、西グルジアを急襲した。ラズ兵は国境でペルシャ軍と合流し、王はホスローに臣従を誓った。ペルシャ人とラズ人は黒海沿岸のペトラ要塞(現ツィヒスヅィリ)を占領し、イオアヌスは戦死した。ササン朝の勝利の後、545-546年に両帝国の間に和平条約が結ばれ、ラズィカは再びペルシャ領になった。しかし、ラズ人はペルシャのキリスト教弾圧と対ビザンツ交易停止に不満を抱くようになった。また、シャーハンシャーも立場の定まらないラズ王に不信を抱き、王の暗殺を計画した。ところが、この計画を知った王は、一転して大帝に赦免と援助を申請した。ラズ兵は、今度は、ダギスタエウス将軍率いるビザンツ兵とともにペルシャ軍が立籠るペトラ要塞を攻撃した。しかし、ペルシャ軍メルメロエス将軍の救援部隊は、ビザンツ軍の防衛線を突破して、要塞に補充の兵員と物資を補給した。しかし、ビザンツはメソポタミアに軍隊を送ったので、将軍はラズィカに守備隊を残してアルメニアに転戦した。グバズ王はダギスタエウス将軍の不首尾を皇帝に告発したのでダギスタエウスは、首都に召喚され、ベッサスに更迭された。
550年、ササン朝軍はラズィカを攻めるためにアバズグを確保する作戦を採用した。ブザンツはピツンダとセバストポリスに守備隊を置いていたが、両塞は以前の戦争の折、ペルシャ軍によって奪われることを恐れて、ビザンツ軍によって自ら破壊、放棄されていた。ベサスは再びここに守備隊を派遣したが、しばしの自由を謳歌していたアブハジア人はまたもやビザンツ人の支配下に入るのを嫌って、ササン朝の宮廷に赴き、救援を請願していた。ユスチニアヌス大帝の時代にアバズグ人には東西に2王がいたが、これがスヴァンの王のようにラズィカ王の承認の後皇帝の許可をえるにしろ、8世紀のようにラズィカの王権は関与しないにしろ、政治的地位の上昇は明らかである。ビザンツが軍隊を送ると東の王オプスィティスは、全成人男子を率いてギリシャ語でオルヘイの要塞(現在のアナコピア)に立てこもった。ローマ人は砦に火を放ったので、王は僅かの残兵とともに砦を脱出し、「フン族」、恐らくサビール人のもとに落ち延びた。西の王スケパルナスは、大王のもとに召喚されていて不在であった。アプスィル人の地方でも、王に不満を抱くラズィカ貴族がツェベルダ要塞をイラン人に引き渡したが、現地のアプスィル人はイラン兵に反乱を起こし、再び、ビザンツとラズィカ王の支配を受け入れた。イラン軍がアジャリアの黒海岸に保持したペトラも551年に落城した。552年、新たに5ヵ年休戦条約が結ばれた。しかし、イランはダゲスタンの遊牧民族サビールをラズィカに侵入させ、ビザンツ軍を破った。敗戦責任を巡る軋轢からグバズは、ベサスの不首尾を皇帝に報告したので、将軍は全財産を没収された上、解任された。しかし、553年、王はこれに不満を持った現地ビザンツ軍の2名の武将によって、騙し討ちに合った。皇帝は元老院議員を派遣し555年に現地で裁判が行われ、有罪の判決(首謀者一名を死刑、もう一名を罷免)が下された。同年、ビザンツの新しいストラテゴン、ソテリクスは、グバズ王の弟ツァテを擁立したが、傲慢な振る舞いのためにミスィミアン人の反乱を招き、殺害された。ところがイランはこれを利用することはできず、562年の50年休戦条約でエグリスを失い、加えて575年にはスヴァネティアも失った。
604年から628年まで、最後のビザンツ・ペルシャ戦争が行われた。ヘラクレイオス帝(在位610-641年)は、623年自ら南コーカサスに出陣したが、これにはラズィカ、アバズグだけでなく、イベリア(カルトリ)、ハザルの援軍が加わった。アバズグの支配者はアルコン等の称号を与えられ、ビザンツ貴族との通婚が許されていた。しかし、皇帝はシリアのヤルムークの戦いで新興のアラブ軍に敗れ、失意の内に世を去った。カリフ・ウスマーンの時代(644-656年)にアラブ軍がアナトリア東南のエルズルムを攻撃したときにもアブハズ人はアルメニア人、ハザル人とともにビザンツ側に援軍を送っている。ビザンツ軍が去った南コーカサス諸国は、個々アラブの軍門に下るが、687年皇帝ユスティニウス2世は、南コーカサスへ大軍を派遣し、一時的に南コーカサス全域に支配権を確立した。しかし、効果は一時的で、早くも697年にはラズィカ王セルゲイウスがアラブ側に従き、アバズグ人も同じ歩調とった。ハザル帝国との熾烈な戦闘を控えて、アラブ側も701/2年カリフの弟ムハンマド・イブン・マルワーンが南コーカサスを再征服した。更に、709年にはラズィカとアバズギアもアラブに占領された。ユスティニアヌス帝は後の皇帝レオンティウス(レオン三世)・イスカリウス(在位708-711年)をアラン人のもとに派遣して、背後からアバズギアのアラブ軍を攻撃させようと望んだ。レオンティウスは、アプスィル人の国を通って、アラニアに往復し、アラン人を説き伏せ、二度にわたってアバズギアに侵入して、各地を略奪させた。頃を見計らって皇帝のアバズグ人の王に宛てたレオンの通行を援助せよとの書簡が届き、アバズグ人はこれに従った。8世紀30年代頃までにはラズィカ、アバズグ、アプスィルでビザンツの支配権が回復し、ラズィカ王にはパトリキヤ(王)の称号が授与された。また、これまで独立の政治的単位としては数えられなかったアプシル人の豪族マリノスも、アプシル王に叙任された。しかし、彼の息子エウスタフィウス王は、738年にスフミの東20kmの場所にある要塞集落テェベルダを急襲したスレイマーン・イブン・イーサーによって捉えられ、シリアのハッラーンで処刑されたので、アプシル人の王国は永遠に姿を消した。この後アプスィル人とミスィミアン人は次第にアバズグ人に吸収されていったものと思われる。
6世紀のビザンツ文人政治家プロコピウス(500年頃‐560年代)の著書の題名で言えば、「ペルシャ戦争」、「ヴァンダル戦争」、「ゴート戦争」、およびそれに続くアラブ人の大征服の時代のソチ地方の動静は不明である。プロコピウスは、黒海東岸の政治状況を述べて、ただ1箇所
古い時代ローマの諸帝はズィキ人の王を叙任していたが、今ではこれらの蛮族は、どのような形であれローマ人に従属していない。彼らの向こう側にサギニ(サティニ)人が住む。彼らの国の海岸部は昔からローマ人が支配してきた。彼らを威圧するために、セバストポリスとピティウスの二つの要塞が建てられたが、それらの距離は2日行程で、ここには最初から守備隊が置かれていた。以前、私が述べたように、ローマの軍団は、トラペズントからからサギニの国に至るまで海岸のあらゆる町々に駐屯していたが、今ではこの二つの要塞が残っている(第8巻第4章、ディウイングの英訳による)。
と記している。プロコピウスがビザンツとは言わず、ローマと言うのは、ビザンツ帝国という名称は近代西欧の俗称で、ギリシャ人ごときに神聖なローマの名称を被せたくなかったからであろうが、当事者はローマと称していた。プロコピウスの「サギニ」(「サティニ」)は、場所と名称の類似からして、5世紀の記録にあるサニギであることは、間違いがなかろうが、この二つの名称が、当時実際にこう呼ばれていたのか、プロコピウスあるいは写字生の間違いなのかは、判別できない。いずれにしろ、アプシル人とミスィニアニ人と同様の状況であったとすると、彼らもプソウ川河口近くにツァンドリプシュの地名を残しただけでアバスグ人の社会に溶け込んだのであろう。
アラブとハザルとの間の長い戦争の期間、グルジア東部にあったカルトリ王国はハザルを支持していたが、アラブ総督マルワーン・イブン・ムハンマドは、735年グルジアに侵入して、全グルジアを荒廃させた後、カルトリおよびエグリスィ(ラズィカ)王(エリスムタヴァリ、メペ)アルチルと彼の兄弟ミルが篭城していたアナコピア城も包囲攻撃を被った。マルワーンはグルジア史ではムルヴァン・クル(聾)として知られているが、「聾」の意味は、どのような訴えにも耳を貸さない「冷酷」者である。ミルは負傷死したものの、アルチルは城を守ることができた。マルワーンは737年コーカサス山脈を超えてヴォルガ河岸に出兵して、ハザルを征服した。アラブは翌738年にもハザルに味方していたグルジアに侵入した。8世紀40年代、アナコピアに根拠地を持つアバズグ人の大公レオン(1世、736-767)は、反アラブ闘争のリーダーとして頭角を現した。レオンの母はハザル可汗の娘であり、妻は、最後のカルトリおよびエグリスィ王アルチルの姪で、アナコピアの対アラブ戦で負傷死したエグリスィ王ミルの娘であった。イサウル朝のビザンツ皇帝レオ3世からはアバズギアの世襲支配権を与えられた、すなわちアバズギアの太守(グルジア語では、「エリスタヴィ」)であることが承認された。レオン2世はレオン帝の孫でハザル皇女の母を持つレオン4世(750-780年)とは血の繋がった親族でもあった。軍事作戦においては、ハザル人の援助を受けていたと信じられている。アラブ軍の撤退後、レオンの所領と、エグリスィ王の領地の境界は、スフミのケラスリ川と決定された。歴史家ジェアンシェルは、レオン、アルチル、ビザンツ皇帝の関係について以下のように述べる。
ケラスルより上の地域の支配権が固まったのは周知のことである。余はツィヘゴジとクタイスィに参って、居を構える。汝は奉仕の報奨として、望むところのことを行うが良い。これに対してレオンは答えた。「皇帝はあなたの輝かしい武勇によって、この国を世襲財産として臣に与えられた。今、あなたは、臣にケラスリ川からコーカサスの峯に近いハザルの大河までの永代支配権を与えた。臣を従僕の一人としてお側において、ご子息たち、ご兄弟たちにお賜えください。臣には領地はいりません、領地はあなたのものとしてください。そこで、王はレオンに妻として、兄弟の側の一族の娘グランドフトを与えた。またギリシャの皇帝がミルに与えた王冠を与えた。二人は相互にけして敵対しないとの約束と誓を交わした。しかし、レオンは一生アルチルに恩義を感じた。
レオンの死後、後継者になったのは甥、同名のレオン2世(767-811)であった。レオンは最後のエグリスィ大公イオアネが後継者を残さずに死亡した後(786年頃)、妻を通してエグリスィの支配権を継承し、80年代には、首都をアナコピアからクタイスィに移した。これを同時代のグルジア人は、レオは王(同「メペ」)になったものと理解した。800年頃までにはビザンツ皇帝から正式に王号を承認された。ここまでは、伝統的な理解だが、最近、レオン1世は存在せず、レオン3世は当然レオン1世のではなく、実は東ローマ皇帝レオン・イスカリオスの甥であるという新説が出されている。この王朝は後代、創始者の名をとって、レオン朝と呼ばれるようになったが、この王朝の家名は、アブハズ語ではアチバであったと伝えられている。現在、彼らの子孫はグルジア風にアンチャバヅェと名乗っている。また、北コーカサスのアバザ人の王族身分のルーヴ家もまたレオン朝の子孫だという。
アブハズ王グルジア王バグラト3世(クタイスィ、ゲラティ修道院の壁画)
17世紀のグルジア人の歴史家ヴァフシュティによると、アバズグとエグリスィを合わせたアブハズ王国は8個の太守(エリスタヴィ)領からなっていて、その内2個は固有のアブハジアであった。一つはアブハジアで、「海とハザルの川に至るアプハゼティとジケティ」であり、もう一つのツフミは「イングリ川の彼方のツホミ、アランの境界までのアナコピア」である。ハザルの川はクバン川を意味すると考えられる。またここでいうイングリ川はエグリス・ツカリ、スフミの南オチャムチラ郡の現在のガリツガ川を指していると見られるのは、アブハズ人は当時はまだここまで南下してはいなかったからである。前者にはビザンツの要塞があり駐屯部隊が置かれていたピツンダが含まれている。コンスタンティヌス帝がニコプシアとしたアブハジア王国の北の境界は、ヴァフシュティではクバン川とされている。この理由は9世紀にズィキ人の国がクバン川とニコプスィアの間にあり、17世紀にはアブハジアの北部にジキ人の国があったので、ヴァフシュティは、この二つの情報を合わせてしまったのではないだろうか。当時ジケティは沿黒海北部ではなく、沿黒海地方の南部を指していたからであろう。重要なことは、ソチは、アブハジ太守領の一部として、中世グルジア王国に含まれていたことである。もし、現在、グルジアの領土はかつてクバン川まで広がっていたと主張する誰かがいれば、その根拠は、上のヴァフシュティの文章である。また、アブハジア太守領はアブハズ人固有の領土、しかし、スフミはグルジア人の領土とする主張も見られるが、これまでで明らかのようにスフミ太守領は以前のアバズグ人、アプスィル人、ミスィミアニ人が住んでいた地域であるので、これも固有のアブハジアと言って良いであろう。グルジア語の年代記に「アプシュレティのスフミ」という表現があるから当然アプシュレティはここに入るが、ミスィミアニもスフミ太守領に含まれていたであろう。しかし、伝統あるギリシャ都市のスフミとピトゥンダ、アガスグ人の要塞と都市であるアナコピア、かってのミスィアニ人の砦があったツベルダは全て、スフミ太守領に含まれている。もともとのアブハズ王国の全ての重要地点とかかわらないアブハズ太守領が本当に可能であったのであろうか。
一方、グルジア科学アカデミー版『グルジア史概説』第2巻の著者の1人は、アバズグ人とアプシュル人はアブハズ人、ミスィミアニ人とサニギ人はグルジア人とするものがいるが、この主張はプロコピウスが、「ラズ人とアプシュル人、及び彼らと習慣の異なるミスィミアニ人」とあるのをラズ人とミスィミアニ人は、グルジア人(それぞれメグレル人、スヴァン人)、アプシュル人をアブハズ人と理解したからである。ところが、イギリスの言語学者・歴史家ヒューイット教授の主張によるとギリシャ語原文では明らかに、アプスィル人とミスィミアニ人が、ラズ人から遠いことが明らかであるという。サニギに冠しては、少なからぬグルジア人言語学者が、語頭が、「さ」あるいは「ツァ」で始まる民族名称はグルジア語起源であるというものである。なお、序でに述べると、アブハジア人はグルジア人であるという主張で、アブハジア人の自称は、アブハズ、アプハズ、アバズグ等とは違う、アプスニであることを理由に中世後期に北からアブハジアに移住して来たアプスニ族がもともとそこにいたアブハズ、アプハズ、アバズグ族と混同されたというのである。しかし、民族名称の自称と他称の違いはよくあることで、グルジア人自体自称と他称は全く違っている。
850年頃レオン朝は南コーカサス最強の政治勢力になったが、最後の王テオドシウスは、男子の後継者を残さずに死亡、領土と王号は、姉妹グランドゥフト王女を通じて、西南グルジアの領主バグラトに伝えられた。978年バグラトはアブハジア王バグラト3世として即位し、以後、種々の手段でグルジア各地の諸侯領を集積した。グルジアでは1000年をグルジア統一の年としている。しかし、これを近代におけるネイション国家のようなものとすることはできず、当時の国際環境でも、バグラト朝の諸王は、「アブハジア人とグルジア人の王」と見なされた。東グルジアのカルトリ王国と古代のコルキス王国の後継者であるアブハジア王の王冠は統合されたが、大公および王としてのアチバ家の領域の北の境界はトゥアプセ付近であり、ソチはレオン朝の世襲領土として、従って相続者であるバグラト王家の領土であったが、だからグルジアの領土であったとは言い難い。法的に観て、第一次大戦後のグルジア民主共和国、グルジア・ソヴィエト社会主義共和国、現在のグルジア共和国が、バグラト朝が君臨していたグルジアの法律上の後継者であるとは思えない。バグラト朝の地方体制は、古い制度に基づいて、国土を八個の太守領に区分するものであった。アブハジアはその一つであった。アブハジアの世襲的太守の地位はシャルヴァシヅエ(チャチバ)家に与えられたが、中央権力弱体化と封建的内内訌の激化によって、サベディアノ(メグレリア)の支配者ダディアニ家はツフム大公領に侵攻しツフム市までの地域を奪われシェルヴァシヅエ家は、ルフィヌを中心にアナコピアからガグラに至る領地を治めた。
20世紀までアブハズ人の間に伝わっていたある伝承は、アクア(現代の地名では、スフムあるいはスフミ)出身でガグラに住んでいたアプスハ(アブハジアの主人の意味)は、ブズィブ川上流の山地プスフの猟師アドグル・アチバの4人の息子たちにそれぞれ、現在のソチ、アブジュア、ルイフヌイ、オクミを与えたとする。アチバは先に述べたようにレオン朝の姓である。ルイフヌイは現在のグダウタ郡にあるアブハズ公チャチュバ(シェルヴァシヅェ)家の本拠、アブジュアはオチャムチレ郡とトクヴァリチェリ郡の一部、オクミはアブハジア南端のガリ郡である。ここではソチがアチバ家の領土であることとレオン朝の首都アナコピアのあるグダウタ郡がアチバ家の領土であると語られていることに注目しよう。
アチバ家の子孫にソチが与えられたとして、黒海東岸のどこまでがソチであったのであろうか。古代の航海者の記録に見える僅かな情報によると、アブハズ人の祖先サニギ人が住んでいたのはシャヘ川より南で、その北にはチェルケス(アドイゲイ)人の祖先であるジキ人が住んでいた。
8世紀から9世紀にかけて北西コーカサスではキリスト教の布教が強化されたが、ローマ時代の航海者や地理学者に替わって、キリスト教聖職者が、自分の職務に関して現地の事情を伝えるようになった。キリスト教聖職者、同時代のビザンツの聖職者フェオファヌス(760年頃-818年)によると、ズィキ人はニコプスィア近くのネチェプスフ川に至る地域に住んでいた。
10世紀のビザンツ皇帝コンスタンチノス7世ポリヒュロゲネストは自著『帝国統治論』で次のように記している。コンスタンティノス7世(在位913年-959年)は、マケドニア朝(867-1057)の皇帝だが、マケドニア朝は、マケドニア出身のアルメニア人レオが起こした王朝である。通常、王朝名は家名に同じで、国名を冠した朝鮮王朝、琉球王朝等の表現は奇異であるが、東ローマ帝国では14王朝中、連続するイサウリア(シリア)、アモリア、マケドニアの3王朝だけが出身地域名で呼ばれている。そのどれもが辺境の非ギリシャ人政権である。余計な想像だが、中華意識の強い首都の貴族たちは異族出身の皇帝を身内とは認めず、出身地方名を王朝として用いる慣習が生じたのであろうか。
タマタルハ(要塞)の彼方には、18か20マイルのところに、ズィキとタマタルハの間を分かつウクルフという名の川がある。ウクルフ川から、川と同じ名前の砦があるニコプスィス川までズィキの国が広がる。距離は300マイルに及ぶ。ズィキの先にパパキアという名の国がある。パパギア国の先にカサキアと名付けられる国がある。カサキアの先にはコーカサスの山々がある。この山の先はアラニアの国である。ズィキの国に沿って島がある。一つの大きな島と三つ。それらの近くの岸辺に別のズィヒ人に牧地として使用されて、彼らによって建物が建てられている土地がある。それはトゥルガニルフ、ツァルガヴァニン、およびその他の島である。スパタル港には別にもうひとつの小島があり、オウテラヤフの港には別のがあって、アラン人の襲撃があるときにはズィキ人はここに避難する。ズィキの境の海岸からすなわちニコプスィス川から、ソティリウポィスの砦のすぐ近くまでアヴァスィギヤの国である。その長さは300マイルである。
コンスタンチノス帝がコーカサス北西部の諸民族配置の基点にしたのはタマン半島のタマタルハだが、ここは後にはトムタラカンとして知られる交易都市で、7世紀にハザル帝国が、かつてのギリシャ人のヘルモナッサの場所に建設した城砦が後に交易都市として発展する。ウクルフ川とニコプスィア川の間はズィキ人の国であった。ウクルク川は通例クバン川に当てられている。多だし、これはクバン川の本流を指して、流域を右岸と左岸(ロシア語では屡々「ザクバン」と呼ばれる)をているのではなく、黒海に流れる分流、あるいは本流河口部を指すものではないであろうか。彼らの隣にパパギア人が住むが、この集団については知られていない。パパギア人の隣はカサキアで、ズィキ人とカサキ人は区別されている。カサキの隣にはコーカサス山脈を経てアラン人が住むと記している。ただし、これは今日オセット人が住む、北オセチア―アラニアではなく、クバン川上中流に本拠を置いていた。一方、これは西から東へ民族を配置したものだが、同じ世紀アラブ人マスウーディー(896年頃~956年頃)の地誌『黄金の牧場と宝石の鉱山』には、アラン人の隣にはコーカサスの山とローマの海の間にカシャク人が住むと記されている。一方、マスーディーより早く、800年頃の修道者で、聖アンドレの伝記作者エピファニウスがカソギの名をあげている。コンスタンチノス帝はニコプスィアからソティルポリスまでがアバズギア、つまり古代のコルキス王国、中世初期のラズィカ王国の後継者、アブハジア王国の領土であるという。ニコプスィアは前節で述べたように、トゥアプセの北ノヴォミハイロフスキーの周辺である。ソティルポチスは諸説あるがチョロフ川下流域、アジャリアの西南部ボルチカであるとする説に依る。10世紀にはトゥアプセ地方までがアバズギア王の領土となっていて、それより北にはチェルケス人が住んでいたということになる。
しかし、16世紀の旅行者ゲウベルシュテインは、クバン川の低地にアブハズ人が、山地にチェルケス人が住み、17世紀の旅行者イスタンブル生まれの旅行家エウリア・チェレビはコドシュ岬をアブハジアの北限とし、イタリア、ルッカのイオアンナはトゥアプセ周辺のコドシュ岬までがチェルケスィア、その先がアブハジアであると述べる。また、18世紀に、クリミア・ハンに使える法官で文筆家のアブドゥルガッファーリーは、ハンの不興を買って、一時アブハジアのスグジュク(今日のノヴォロシースク)に流罪になったが、ここが寂れた田舎町であることを嘆いた。18世紀の半ば、ペイソネルの時代にも「スジュクはアバザの境にある黒海岸の小さな港町である。人家は200戸、住民は400人。36-40門の大砲がある。要塞はイェにチェリが守り、クバンのサラスカルに任命されたタタル人のベイに支配が任されている。ここでは全く売買が行われず、住民の必需品は全てタマンで買われる。周辺には兵士たちのために国庫が購入する小麦が栽培されている」。10世紀にも、また16,17世紀にもアブジアの北限は今日のトゥアプセ地方であった。なぜ、18世紀になって北に領域が広がったのであろうか。
これについて、百年ほど前、ピツンダ近辺のラヅァア村で採集された伝説では、「ギオルギ2世王(929年-957年)の時代にアブハジアの境界はクバン川河口に達した。王はそこからほど遠くない場所に要塞を建設し、アナパと名づけた。伸ばした手の先のように」と、アナパという地名と手を意味するアブハズ語をかけている。また、現在、中央アブハジアに住むキウト一族の伝説では、「かつてアブハジア王国はアナパの先、トムタラカンまで広がっていて、ここにデムル家の人々が住んでいたが、遊牧民の侵入にあって次々と倒れた。最後に一人残った男はアブハズ王に請願して言った。誉れあるデムル一族を絶やさせないでください。替わりのものを派遣して、我々は平穏な場所に移住させてください。王は請願を入れて、スフミの近くに領地を与え、そこをキンドゥイグと名づけた。ラヅァア村の伝承、キウト家の伝承は、あくまでも伝承だが、この時代のタマン半島の歴史を考えてみよう。ゴート族やブルガル族の去った後、7世紀ハザル・ハガン国がタマン半島を制圧しタマタルハ(タマンタルハン)要塞を建設したが、地域全体が要塞の名前にちなんだタムタラハンとして知られるようになった。当時のアラビア語の地理書にもサムカルシュ・アル・ヤフードと呼ばれる商業都市であった。この地方は965年、ルースのスヴャトスラヴ・イゴレヴィッチ大公によって、ハザルから奪われ、12世紀初めまで、ルースの公によって統治されていた。ルースの年代記『過ぎに詩時の物語』では、この国の住民はカソギ人、アラン人、ルス人、ハザル人、ギリシャ人、オベザ人、アルメニア人であった。オベザ人こそ、アブハジア人、広義ではあらゆるアブハジア王国の民であるり、統一後のグルジア王国もルースの文献ではこのよに呼ばれる。アブハズ王の力がタマン半島にまで及んでいたとすると、それは10世紀のことでなくてはならない。初代のアブハズ王レオンはハザルのハガンの婿であったからである。タムタラカンにアブハズ人が居たとしてもアナパあるいはクバン川下流までの黒海沿岸がアブハジア王国の領土であったことが証明されるわけではないが、物語の中ではそのような言説が作り上げられることはあろう。ロシアのコーカサス史研究者ラブロフは、「11-12世紀、黒海沿岸におけるアバザ語の流布はノヴォロスィスクに達すしていたが、この時代に起こったチェルケス種族の強力化に伴うチェルケス語チェルケス語の大波に遭遇した。この強化は特にモンゴル人の襲撃と中世初期に北コーカサスの大部分を支配していたコーカサス・アラン(オス)の崩壊後強まった」(ラヴロフ、ヴォロシロフ、47)と表現している。
<第3項 ソチの生活>
ピツンダにおける信者団体創立に続く時代、黒海東岸の各地に次々と教会が建てられた。アブハジアでは4世紀から5世紀にかけて、ピツンダとスフミに最初の教会が建てられ、6世紀から7世紀には、ガグラ、ツァンドリプシュ、ルフイヌイ、カマニ、ミハイロフスキーに教会堂が、ピツンダ、ノーヴイアフォン、スフミ、ドランダ、モクヴィ、ベディ、イロリに主教座が建てられた。ところが、中世初期にソチにキリスト教信者の共同体があったことや教会が建てられたことに関する記述は残されていない。ソチのキリスト教会堂に関する知識は、すべて発掘調査によるものである。
発見されている中でソチの最も古い教会は、アドレルの国有農場「ユージュヌイエ・クルトゥールィ」の土地にあるバジリカ型教会である。ムズィムタ川左岸の海よりであるから、ソチ・オリンピック会場の敷地内である。建物の内部はフレスコの模様画装飾と床のモザイクで装飾されている。教会堂の並びに石板で仕切られた9-10世紀の墓地が発見された。その装飾はコンスタンチノプルのアヤソフィア聖堂の広間や窓の開口部の4世紀の様式に非常に近い。
Commons.wikimedia.org/wiki/File'Lootemple.jpg?Uselang_ja#file
写真は、次ぎのサイトに多数掲載されている。https://arch-sochi.ru/2012/05/vizantiyskiy-hram-v-loo
出典httpp://arch-sochi.ru/2014・07・po-sledom-drevney-hriskianskoy
Овчинникова.Б.Б.Десять
лет лооской археологической экспедиции(1987-1997)http//lived.ru
/ovchinnikova1.htm
ルーの教会遺構写真および復元図
ソチ中心から12-13km程のルーの教会は、海から200m程の高さ200m程の場所にある。遺跡の南壁は完全に崩壊し、西の壁と東の壁は老朽化して傷んでいる。北側の壁だけが完全な高さを保っている。教会堂の外見の大きさは間口11.2m、奥行20m弱、壁の暑さは1.1m弱である。建物には北、西、南の3箇所の入口がある。北のドア間口は1.4mである。建物の内部は沢山の細い窓によって照明されている。西の壁には少なくとも2箇所、北には3箇所。また、窓は至聖所(アルタル)の部分と後陣にもある。北側の壁には半柱(壁柱)が設えられており、それが南側の壁にあったと思われる迫り出し、2列の柱列によって堂宇のドームを支えていた。中央部の後陣の外部壁面は5面取されている。ルーの教会堂の壁は念入りに加工された石灰岩のブロックや砂岩と頁岩の板で造られ、壁の上部の外側全部、窓、ドアは石灰岩で外装されている。これらのブロックは壁を貫いて作り作られている付け柱全体に用いられている。モルタルは非常に硬い砂とよく選り分けられた細かな砂利の混ぜ物が見分けられるが、アナコピア教会の7世紀のビザンツ様式の壁によく似ている。ビザンツ教会建築中でも、特に西コーカサスで発展した様式の特徴を持つアブハズ・アラン・グループ(ピツンダ、ルイフヌイ、ゼレンチュク)に関係しているので、この教会堂の建築年代は、7世紀かあるいは少し後の時代(8-9世紀)に決定することができる。
ムズィムタ村左岸のモナストイルにある教会は非常に興味深い。教会堂の広間は2枚の石材によって二つの部分に区分される。そこに外部が5面の形をとっている広い半円形の至聖所(アルタル)が隣接している。内部は広間の壁に沿って高くない、狭い張り出し壁がある。広間には西からと南からの2つの扉部がある。アルタルにはひとつの窓から光が差し込む。教会堂には西から別棟が接している。その南壁はほぼ完全に残っている。その上部に石が突き出ていて、明らかにドームのアーチを支えるものである。扉部のアーチの基礎部が見られる。別棟には西からと北からの二つの入口がある。北の入口は別棟を2階建てのとても広い棟を結んでいる。1階は明らかに墓所として使われていた。2階は西の壁に痕跡が残る窓から光が採られていた。最初の別棟の西に広間があり、古い住民によれば1940年代の末まで高さ3-4mの石柱が立っていた。モナストゥイル教会堂は大きくはない砦の敷地の内部に置かれている。要塞部には壁と大きな塔が残っている。塔は教会堂の西南方向にある砦の門を守っていた。砦の城壁は、表目にセメントを上塗りした粗い加工の石で積まれている。砦の斜面と街道で収集された資料は、レンガの破片、会堂の屋根を葺いていた平らな瓦や曲面のもの、大瓶、壷、食器によって、9-10世紀に時代判定をすることができる。現在、大ソチ市南東半部シャヘ川からプソウ川までの間には、20以上の教会遺構が残されている。建築年代は、ほぼ、アブハジア王国勃興期のものである。
大ソチ中世初期の教会堂遺跡 1ルー、2アグア、3アツ、4小アフォン、5大アフォン、6ホスト(ヴィドヌイ小川、プログレス)、7カシュタヌイ、8エフレム、9レスニャンスコエ1・Ⅱ、10クリオン・ネロン、11、アフシュティル、12 サハルナヤ・ガロフカ、13、ユージュヌイエ・クルトゥールイ、14 ヴィショルイ、15 エルモロフカ(ニジュネ・シロフスコエ)、16リプニキ、17 モナスティル、18アイブガ、19 クラースナヤ・ポリャーナ
ソチの南東部には多くの中世初期の城塞址が見られる。全て要害の地に石の城壁と塔によって防衛されているが、海に近いものには堀や土塁も築かれている。山地部のものは、交通路に沿って、堅固な地形を利用しており、相互に見通しがよく、狼煙や篝火で通信が可能であったと見られる。ササン朝朝やアラブ帝国軍等クバン川上流から侵入する敵の前進を阻止する目的があったと推定される。今日まで残る多数の城塞が建造されたことはは、建築技術だけでなく関連する種々の手工業が発展していたことを想像させる。製鉄や冶金に関しては、鉱滓や多数の鉄器具(斧、鍬、刃物等)の発見が、アイブガ城塞では石灰石を焼いて漆喰を作る窯が発見されている。
アチプセ城址(出典wikimediaCommons,Achipse,208,Dmitry
Grishin)
アジア内陸部と地中海を結び付ける経路に当たるムズィムタ川とプソス川の流域は城砦が集中している地域である。中でも、クラースナヤ・ポリャーナ地区の主城であるアチプセ城はこの地域で最大の規模を持っている。ムズィムタ川の本流と右岸の支流アチプセの合流点近くの岡の上に築城されている。エストサディク村の来た方向である。城壁は広い岡の周囲を巡っていて、北西から南東にかけて290メートル、対角線に145メートルの規模である。頂上部には天守閣に当たる塔が置かれ、周辺部にも4基の塔が現存している。元来基盤9.5x6.2メートル、高さは最長部では4.2-3mが残っている。材料は地元の粗く加工された石と漆喰を使って積み上げられた。外側には河原から採取された玉石を入念に加工したものがあてられている。しろ内のほぼ中心にも、一辺9.6mの方形の塔跡(但し、壁は1.7mほど残っているが、厚さは天主部、城門部のものほどにはないので、本当に塔であったのだろうか)、この建物に接して、自然の起伏に沿って、間口4.9mから17m、奥行き3.mから15,5mに仕切られた50ほどの空間がある。発掘した考古学者たちはこれは居住区であり、石の土台の上に木造の家屋が建てられていたと考えている。天主と城門の間には、9世紀から13世紀のものと思われる墓地があり、鉄製や頁岩製の十字架が発掘された。この砦の建設年代については決定的な判断はなされていないが、6-8世紀に建築が始められたことには異論が出されてはいない。2007年の発掘調査の結果、10世紀には新しいプランで建築が再開され、12世紀から13世紀前半に建て直したという仮説が提示された。
アチプセ城遺跡見取り図(出典https://www.irrsochi.ru/sochi/55.html)cは北を示す。
大ソチ中世初期城砦分布略図(二次文献を含めて手元の文献中の情報をまとめた野のであるので、情報の精粗はさまざまである)1 ママイカ、2アグア 3 アツ 4 アフム 5 ホスタ 6レスノエ 7アフシトィル、 8モナスティル、9 ガリツィノ、10 レスニャンスカヤ、 11 アイブガ Ⅰ・Ⅱ、12 コテル、13 クニツィノⅠ~Ⅲ、14 モナシュッカⅠ・Ⅱ、15 ベシェンカ、16 クラスーナヤ・ポリャーナ、17 アフチプセ、18 ロザ・フトゥル、19 プスルフ
教会や城砦と並んで重要な建造物はアツァングルである。アツァングアル(アブハズ語で「小人の石垣」の意味)は、大きくない、未加工の石を積んだ垣。しばしば、シンメトリーでない複雑な形をしており、ときには大岩に接して作られる。西コーカサスの高山帯に分布し、北はトゥアプセ川流域からアブハジアまでの地域の海よりの側に作られている。アツァングアルは、しばしば家畜の囲いや仮小屋の土台としても用いられ、修理されたり、建て替えられたりした。そのため、古い時代の建築物として確認することは極めて難しい。中世のアブハジア人山地民によって建てられたとする意見が多いが、もっと古い時代に建築時期を求める研究者もいる。アブハジアでは、全土にわたって海抜2100-2300mの高地に約500箇所のアツァングアルがユーリー・ヴォロノフによって発見されている。ソチではムズイムタ川やソチ川上流、アチシュホ山、アイブガ山中に多いが皆悉調査は終了していない。土間面積8-20/25㎡、壁の厚さは1.5-2m、高さは現状で1.2-1.5mまで、屋根は周辺に多い樅の木で1重あるいは2重に葺かれていた。入口は低くて4-50cmしかない。アツァングアルは1棟だけが孤立して建てられている場合もあるが、多くは物置や作業上、家畜の囲いを含め、母屋15-20軒からなる1.5-2haの集落になることもある。石組みだけでは風が吹き込むので、大きな石材を使っている時は外側から、用材が小さい時は内側から詰め物をする。壁は内側では垂直だが、外では地面側が広がっている。非居住用の石室は、石材も小さく、壁も薄い。家畜用の囲いは石を1列か2列積み上げただけである。住居の近くから、発見された家畜の骨は大部分、羊と山羊で、牛と馬の骨が若干混じっていた。牛と馬は食用に飼育するわけではないので当然であるが、家畜用の囲いは、この程度の高さでは山羊は飛び越えるので、羊用であるという。住居内の堆積層は、15-20cmに満たない。多くの土器片は種類や点数から見て牧民が使用していたものと見られる。発掘された土器片は、大甕、片取っ手の壷、大小の料理用鍋、山地で広くもちられていた「牧畜用器具」は、混ぜ物(細かく砕かれた石灰岩、貝殻、細かく裁断された麦わら)をした粘土で作成され、焼成の際の焼け焦げがついている。材質は多孔性で蒸発量が多く、乳製品の保存期間が長くなったと思われる。これらの出土品は、6-10世紀アブハジアに広く普及していたもので、この年代は同じく発見された鉄製のナイフ、鏃、火打石、釘等とも一致する。ヴォロノフは、6-10世紀アナトリアから当時先端的な牧畜技術であるトランスヒューマンス(夏期の山への家畜の追い上げ)が広まったと考え、アツァングアルは牧夫のための夏の住居であるとの結論に達した。牧畜用器具は、古代末期にスフミやグダウタに見られたもので、ラザレフスキーからイングリ川までの海岸地帯と山岳地帯の全アブハジアに広がっていた。夏季アツァングアルに住んでいたのは、主として牧夫だけであったと思われるが、本村は、山麓あるいは渓谷にあった。住民は集中して、防衛された集落に住んだ。村の壁の内部には、農民の住居と公共施設(山麓部にあっては教会、渓谷部にあっては、犠牲の儀式をする聖所や墓所)があったが、村の壁は広くめぐらされており、家畜を収容することができた。1集落には、50人から150-200人程の人口があったと推定されている。大ソチ全域で5箇所の中世初期集落遺跡が確認されている。
アツァングアル(大ソチ市ラザレフスキー区)出典www.lazarevskaya.su/acanguar.html
この時代に牧畜が大展開したとしても、主たる生業は農耕であったと推定されている。耕耘には主として鍬が用いられていたが、平地では木製あるいは先端に鉄の刃をつけた犂が広がっていた。鍬は半円形の斧を横向きに柄に取り付けたように見える手斧型(クラースナヤ・ポリャーナ、ソチ中心区)か、剣先の部分がない移植鏝のように内側に丸まった普通型の鍬(ベシェンカ砦)が用いられていて、後者はアブハジアのツェベルダ出土の7-8世紀の鍬に似ている。ヴェシェンカとツェベルダの両方で、鍬は女性の墓から出土している。