校了日 2021年10月22日
第5章 コーカサス戦争の時代
第1節 ソチの生活
第2節 遠い砲声(クチュクカイナルジ条約からアドリアノープル条約まで)
第3節 チェルケス共和国とコーカサス・イマーマト
第1項 アドリアノープル体制
第2項 自由チェルケシア
第3項 海岸封鎖作戦
第4項 最晩年のハーッジ・ベルゼク
第5項 ミュリディズム
第6項 イマーマトと共和国
第4節 チェルケス戦争
第1項 ソチ共和国
第2項 最後の聖戦
第5節 「イスタンブルへ」
第1節 ソチの生活
第1項 ソチの種族集団
19世紀前半大ソチの民族・種族・集落
18世紀のソチ住民がチェルケス人、ウブイフ人、アバザ(アブハズあるいはサヅ、ジケチ)人の3民族からなっていたことは前の章で述べた。但し、彼ら固有の言葉がそれぞれ独立した言語であることと、全体的に見るならば集団として異なった歴史があったことに注目して、それらの各集団を民族という言葉で表現したのであって、それぞれの当事者がこの民族に属するという意識を持っていたと主張するわけでもなく、それぞれの集団が別個の文化や社会的構成体や政治的組織を作っていたと考えているわけでもない。また、日常生活で使う言葉も多言語的であり、民族的な帰属には拘わらず権威あるものに移行しがちであった。更に19世紀前半のソチの住民は、実際には血縁組織を中核にした地域共同体を作っていて、その中には他の民族のものも加わっている場合もあった。これらの共同体の内で海岸部では、チェルケス人(小)シャプスグ族ナトホ、ナタホ、ゴアゴ、エムツ、コブレ、スハペテ、ソオトフ、ゴアイイェのが8個の大共同体を持っていて、更に下部は多数の血縁組織に分かれていた。これらの内ゴアイイェ(グアイエあるいはゴイ)は、大ソチ市北西のプセズアプセ川とシャヘ川の間に住み、ハクチ、トハヘプシ、ゴアイイェ、ザウルベク等の集落を維持していた。ゴアイイエには有力なカブレ一族が住んでいた。また、ゴアイイェ地域共同体の北のアシェ川流域には、同じくシャプスグ族のロトホフ村(ハジク、ケレジ、ショジク、チェコズ等9個の枝村に分かれている)があった。これらの枝村がシャプスグ8共同体のどれに属していたか、あるいは孤立していたかは特定されていない。
19世紀ソチの集落
トゥアプセからシャヘ川まで シャヘ川からソチ川まで
01 トゥアプセ 21 シャヘチャイ
02 ソユク 22 ハルツィズ(キチュマ屯田村)
03ナジゴ 23 ソロフ・アウル
04ロホトク(シハファフィト) 24 ディシャン
05ハジコ 25 ブズイチ
06カレジ 26 バブイコフ・アウル
07ショジク 27 シャヘ・グゾイ
08プシェウホ 28ヴァルダネ・ファグア
09チェコズ 29 エブジェノウ
10ザウルベク 30 ウツクア
11グアイイェ 31 ヅエイシ(バラカイ)
12トハ`ガプシ 32 ファグア
13ハクチ 33 エルムズィン・アウル
14ジェムスィ 34 ダゴムコフ・アウル
15ハジュコ 35 ティトラ
16アチミト 36 アポフア
17アスハボ 37 バイ・アウル
18スベシフ 38 チズマ・アフメタ
19大キチュマイ 39 ソチャプシ
20トゥフ 40 チズマ・ミサウスタ
ソチ川からムズィムタ川まで
41 ムトイファ 61 アフチプシ
42 ポリャナ・ウブイフ 62 アバハ
43 アウブラア 63 ゲチ
44 アルラナ 64 パトゥクルハ
45 フンジャ 65 アクイタフイ
46 ツツィブ 66 アイブガ
47 ハルツィス 67 ロンド
48 ゼンギ 68 ラメイラプシ
49 ハムイシ 69 バンシ
50 エスホ(アルト) 70 ムケルリプ
51 スムフリプシ 71 バグリプシ
52 チュジ 72 ウチュガ
53 アドラル(リアシ) 73 フイスハリプシ
54 ケレカ 74 バグバ
55 エシホリプシ 75 アバタアタ
56 カプシ 76 アズリプシ
57 マルシャン 77 ツァン
58 チュジグチ 78 バグ
59 クケルドゥ 79 チュグリプシ(アチュグバ)
60 クバアダ 80 クンリプシ(場所の詳細不明)
シャプスグの南東はウブイフ人の領域で、スバシ(スベシフ)、ヒゼ、ヴァルダネ、プサヘ、サシェ、ホスタ6共同体からなっていた。スバシとヒゼ共同体はチェルケス人シャプスグ族とウブイフ人の混成組織であり、サヘとホスタの人々はウブイフ化したアバザ(アブハズ)人であると言われている。スバシ共同体ではサヘ川両岸数十キロメートルにわたって村落が形成されている。領域は北西のマトロススカヤ・ショリ(カデス)川、チェミト(チェミトクヴァジェ)川に及ぶ。ここには古い有力貴族ディシャン(ディチェン、デスチェン)家があって、根拠地はシャヘ川中流左岸支流ブズイチ川のブズイチ・アウルであった。19世紀40年代、この集団の指導的地位はアトケヴィ家にあったが、1864年には代わってベルゼク家が強力になっていた。当時海岸から3kmのシャハチャイ村には200戸の住民があったが、この村の重要な聖地はタガプフで、シャヘ川河口の左岸、後のロシアのガラヴィンスキー要塞の川向かいの丘の上に聳え立っていた樫の巨木が御神体であった。またもう一つ重要な神木は、「神の水」を意味するトハグプシ村の樫の大木だった。この近くには200年前に雷に打たれた人物の墓が残されている。この村はハクチ集団の村で、村の中にも聖なる叢林ハクチトハシュがあった。ヒゼ共同体の人々はオサカイ川、ハジジュ川、ベレンダ川、デトリャシュハ川、ブー川に渡って居住していた。指導者は平民(貴族であると自称しているが)のディザア(ディゼ)家であった。ヴァルダネ共同体はブー川からママイ峠の地域にあり、ホブズィ川、ルー川、ニジェ(又はニジ、現在のウチデレ)川の流域にあった。ルー川のヅェプシ(又はルーペ)は戸数200であった。ダガムイス川の渓谷にはウブイフ人の重要な集落ファグア(ファグルカ)又はヅェシャがあり、800戸がダガムイス川岸18kmに沿って細長く展開していた。ベルゼク・ダガムコ一族の支配地であった。プサヘ共同体(500戸)はプサヘ川(チズモグア、チズマ、ママイ)谷からプサヘ川とソチ川の河間にあり、チズモグア・アフメダ、チズモグア・ミソウスタ(ソチ川支流のシュラビスタガ或いはフルドフ川岸)が重要な集落である。貴族身分のチズマ(チズイモグア)氏が重要な一族であった。サシェ共同体(人口約1万人)はソチ川からアグラ川までの地域を占め、主邑はアウブラアクアジュ(アウブラ・アウル)あるいは、ソチェプスィなどと呼ばれたと思われるが、バタレイカ山の北側平地からソチ川の川岸で、海岸から3キロメートル程、海から見てソチ駅裏手の線路の両側である。アルシナ・アフ(或いはアルフイシチナ・アフ)村(ソチ川河口から5-6キロメートル、目印はノヴァギンカ地区)などが重要村落である。支配者アウブラ家は君侯であるが出自は明らかでなくで、19世紀前半の当主であるアリー・アフマドの祖先の歴史も不明である。君侯身分である限りは、伝統上カバルダの君侯やアブハジアの諸侯と同じく、イナルの子孫であるのだろうか。オメル・ベイグアアがトルコで収集した伝承によると、「最初にアウブラ一族がいた。次にアプスハ(アブハジアの主の意味)、そのあとアチュバ、その後でチャチュバ」というものがある。チャチュバはアブハジア大公シェルヴァシヅェのアブハズ語名称、アチュバはアブハジア王レオン家の姓、アプスハは、アチュバに権力を譲り渡したとされている伝説上の人物である。また、「昔は集会やその他公の場所では、アチバや彼の孫アチャチュバが来た時には、皆立ちあがったものだ。しかし、アウブラ一族は彼らが来ても座っている権利があった。これは無礼であるとも、その他の非難めいたことともみなされなかった」。ミラ・ホレタシュヴィリ=イナルイパは、アウブラ家は古代の司祭の子孫であるという結論を導いている。この地区が元々のソチである。もとのホテル・レニングラード(今のマリンス・パルク)とプリモルスカヤ・ホテルの間(ハイヤト・リーゲンシー・ホテル敷地か)には、20世紀20年代まではアブラア家の墓地が残されていた。アグラ川と北西のマツェスタ川の間の海岸には貴族のアグヴフア氏が勢力を擁していた。サシェでアウブラ家と並んで重要であったのはベルゼク氏で、19世紀アウブラの西側に勢力を拡張させていた。根拠地は山地のムトゥイフア(ムトゥイフアスア)別名ピョフ・アウル(すなわち、ウブイフ村)で、1803-5年ころまでには、ここに進出、占拠していた。
ハムイシ共同体はマツェスタ川からホスタ川までの地域を占め、中心は同名のハムイシ村(海から1,5-2キロメートル程)であった。さらに海岸から10km足らずの場所、現在のソチ中心部東部のアフィン山麓にもう一つ大きな村があった。支配者はアブハズ人のハムイシ家である。ハムイシの北、`ホスタ川の大きく二手に分かれた地域にあるサマフフリプシ村は貴族サマフフア氏の領地であるが、同氏はアブハジア大公(1808-10)アスランベクのアタリクを務めていた。
内陸部のウブイフ人の状況は不明なことが多いが、ソチ川の上流ではムトゥィフア(現在のプラススチンカ地区)が山のウブイフ人であるベルゼク氏の、またシャヘ川上流にはアラン共同体が、またシャヘ上流バブク(バブコフ)村はバブク(バブコフ)氏の支配下にあった。シャヘ川中流のディシャン氏、シャヘ川中流とブズィ川上流の間のウツクア、ブー川上流のエブジョウ、ソチ川左岸支流アツ川上流ウブイフスカヤ・ポリャーナのウブイフ村などに山地ウブイフ人の低地進出の状況を見ることができるであろう。以上がウブイフ人の共同体であるが、このように、19世紀のソチは種族的には混成状態で、ウブイフ人というのは、純粋のウブイフ人のベルゼク氏を中心とした政治的団体であると考えられる。
ウブイフ人の東側にいたのはジケチ(サヅ)人であった。ホスタ川の南東クデプスタ川両岸からムズイムタ川まではアレドバ氏の領地であったが、同家の資産は1864年の同家のトルコ移住に際してリャザン出身のロシア人コスタリョフ家に売り渡されたという。ムズィムタ川から現在のロシア・アブハジア国境を越えて、ラプスタ川まではゲチ家領であった。19世紀前半、同家のアスランベク・ゲチバはパトフルフア村(現在のヴェスョルイ地区)にいた。同世紀半ば頃ゲチ家は当主ラシドの時、75ケ村を領有し、家臣70人を従えていたという。アドレル岬はゲチバ一族の森と呼ばれていたが、対岸のリアシにはリアシュヌィフの樫の巨木である聖地があった。19世紀大ソチ東部にはゲチクアジュ、アレドバ、アルトクアジュ(エスホリプシ)等の共同体があり、ゲチ家、アレドバ家の支配下にあった。また内陸部山地にはアフチプス(ソチ・オリンピック・スキー会場のクラスナヤ・ポリャナがある)、アイブガ(ソチとガグラにまたがる)、メドジュイ(チュジグチ、チュジ、チュア)等からなる共同体があって、北アブハジアの君侯マルシャン家の支配下にあった。なお、これらのアバザ(アブハズ)人をアバジン人と呼ぶ研究者もいるが、アバザ(アブハズ)語とアバジン語は起源は同じであるものの別個の言語であるとする方がいいので、ここでは19世紀前半に今日のソチにいた人々をアバジン人とは呼ばない。また、一部の研究者、例えばヴァルシーロフはここで述べたようにシャヘからハムイシまでの共同体をウブイフ(人)という政治的団体の一部であるとみなし、サシェとハムイシ両共同体の人々をウブイフ化されたアブハズ(あるいはアバジン)人とみなした。しかし、別の研究者たち、例えばアルグンは、ガグラからソチまでの地域を政治的にもジケチという政治的団体に組み込んでいる。その戸数は(ベルジェによる19世紀半ばの数字。以下同じ)アフチプス200戸、アイブガ180戸、チュジュグチャ100戸、チュジ100戸、チュア150戸、サシェ450戸、ハルツィス60戸、ハムイス80戸、アルトクアジ200戸、アレドバ430戸、ゲチクアジ80戸、ツァンドリプシ120戸、フイスハ40個、ベゲウチャ100戸であった。
トハグプシ村のムイジアクエ(雷に打たれた男の墓)https://sochived.info/perezhitki-yazyichestva-u-sovremennyih-shapsugov-prichernomorya-moleniya-v-svyashhennyih-mestah-i-obryadyi-vyizyivaniya-dozhdya/img-sv-0293/ 村の女達は夏の雨を望んで、夜明け前に起床し、まだ暗いうちにここに参拝する。捧げものはチーズを入れた揚げパンである。病気の治癒や人生の重要時には山羊が犠牲にされた。
第2項 19世紀ソチの社会関係
チェルケス人の社会は厳密な身分に区分される社会であったと言われる。頂点には王侯(プシ)身分があり、それに廷臣或は貴族(ウオルクあるいはウズデン。ウブイフでは、クアシフア)が続。く、廷臣身分は、細分される場合がある。その下に、自由農民と農奴が続き、最下層にいたのが奴隷であった。王侯は所領内の廷臣と農民に対して絶対の権利を持ち、領地内のあらゆるものの所有権は、理論上王侯にあるとされていた。しかし、黒海沿岸では18世紀にある種の社会革命が起こり、ナトゥハイとシャプスグの間では王侯の身分は廃止され、廷臣と農民の権利の平準化も進んだ。19世紀には、オスマン朝のアナパ総督ハサン・パシャがイスラーム社会法の原則に従ってこの運動を支持した。しかし、アバヅェフやウブイフでは、そもそも王侯身分の存在は確認されていない。はじめから存在しなかったのかもしれない。ウブィフの廷臣(クアシュフア)は、ヴァルダネのヅェプ、シャヘ、ダガムス、サシェ(ソチ)等のベルゼク、ママイカのチズマ(チズマグア)、シャヘ川中流のディチェン(ディシャン)だった。ウブイフ人に隣接するジケチ人の中では、バグ氏がゲチバ氏に仕える廷臣である。彼らの指導者はしばしば外部から王侯と誤解されるが、サシェではアウブラのみが王侯身分であり、その他の者の力の源泉は身分ではなく、世襲的権威と個人的名声であった。社会階層の頂上に王侯がいない場合には、廷臣よりは貴族・士族とするのが適当であるかもしれない。集落では同じ身分の中から代表者が選ばれるが、年齢の上の者が選ばれる傾向があった。代表者は村内の紛争の仲介や集会の議長の役割、戦闘行動の指揮者を果たした。共同体のレベルでは彼を支持する集落の数や家柄、メッカ巡礼経験者などの個人的資質は大きな影響力を持った。名望家の代表者よりもありふれた長老の権威が高いこともあった。本来のウブイフ人の中では軍事的政治的代表者はベルゼク家が世襲した。民会には問題の内容によってはアバヅェフ族なども参加し、集会の枠組みはあらかじめ決まったものではなかった。ソチでは歴史的経緯の違うアウブラ、ハムシュ、アレドバ、ゲチバ、マルシャンが王侯身分だった。彼らは特に後の3家はウブイフではなく、ジケチ(アブハズ)であったが、彼らの領地は今日の大ソチの中にあり、現在では彼らすべてが、自分たちがアブハズ人であることを認めている。
ソチ社会の第3の身分は自由な農牧民(ヴァグウイシュフ)で、貴族に低額の貢納を納める以外は自由で、むしろ彼らが政治的決定権を握っていた。非自由身分は、農奴、家内奴隷、奴僕、捕虜の法律的定義は未発達で、それぞれに対応する用語もなかった。ベルゼク氏では400戸の貴族のもとにそれぞれ、5人から10人の奴隷がいて、平均すると住民の3割程度の奴隷がおり(アバヅェフでは2割、シャプスグでは1割)、また別の証言ではウブイフ人のもとでは、4分の1(アバヅフでは10分の1、シャプスグでは20分の1)が奴隷で、武装していたとするのは、非規則身分制度が十分に発達していなかったからであるとみなされている。固有のチェルケス社会では武装するのは伝統的に自由民だけで、農奴の武装は19世紀にイマーマトの下で広がった。
ウブイフの社会で最高の権威を持つ機関は、家族共同体と成人自由人男子が出席する民会だった。民会では地域の代表者を選出し、生活全般の問題、裁判の最終結審、戦争や政治に関する重大事項を決定したが、議題によってはジゲティ(アブハズ)、メドヴェエヴ、アバヅェフ、シャプスグなどの、隣接する種族の代表者も参加した。代表者は大きな地域集団や親族団体から選ばれることも多かった。集会は神聖な茂みあるいは神木の周辺で行われた。フランス人軍事顧問フォンヴィユが見た1863年にヴァルダネで行われた集会は次のようなものだった。「四方から他の人々も集まり、出席者は一番多い時間には、4千人ほどになった。山地民は完全に武装して、馬に乗って来た。そして、馬から降り、馬を木に繋いだ。彼らは輪になり、中央に指導者達が藁束の上に座った。すると、一同は静まり、会議が始まった。最初にイズマイル・ベイ(イスマイル・ヅェプシ―K.S.)が話したが、かなり長かった。最後にイズマイル・ベイは幾つかの反対意見に答えて、発言を終えた。別の雄弁な発言者が登場した。集会は盛り上がり、様々な問題が提案され、論争が持ち上がった。これらの論争には終りがないように思われた。しかし、突然、杖で合図で、死んだようにように静まった。この様子は何度か繰り返され、このようにして2時間が過ぎた。我々は、なんというか、自然の議会主義の傍聴者だった。最後に輪が崩れ、会議は終わったと思った。ところが全くそうではなかった。全員が一方向に注目した。一本の木の方に。一人の男が異常な速さでそれに登っていった。頂上まで登ると、一番座り具合のいい枝に腰を落ち着け、しかし、そこから何かを話し始めた。全員が尊敬の面持ちでそれを聴いた。その人物は木の上に上り、集会の決定事項を宣言した。後で聞いたところによると会議の決定はこの儀式がないと法として有効ではないのだという。決定は武装したウブイフを緊急招集することだった。各集落は熟練した戦士一名を選出し、作戦期間は彼を保養しなければならないというものであった。このようにして公共の議題が終了すると集会は次に民事事項の審議をおこなった。再び輪が作られ、急いで数件の事案が審議された。大部分は窃盗のようであった。原告、被告、証人の供述が審理されたが、集会は結審した。結審を宣言するために、布告係が再び木の方に向かった。この集会がこの国の唯一の権力であった。それゆえ、指導者は常にまた非常に尊敬されているが、しかし、どんな権利も持っていない。あらゆる自由なチェルケス人は、富める者も貧しき者も同じ権利で民会の規則と決定に等しく従うのである」。黒海沿岸のシャプスグ人とウブイフ人のもとに国家機構が芽生えたのは、19世紀半ばロシアとの戦争を遂行するためであった。他の「民主的」なチェルケス人のもとでも状況は似ていたと考えられている。
1839年ゲチの住民集会(ベルの旅行記挿絵)
https://www.facebook.com/A.Jaimoukha/photos/pcb.969726746404923/969717749739156/
第3項 集落と家屋
ウブイフ人や黒海沿岸のシャプスグ人の社会には都市はなく、イスタンブルやアナトリアの町々とは頻繁の往来があったにも関わらず、地域の日常生活で都市を表す言葉は使われなかった。村落はチェルケス語シャプスグ方言でクアジュ、ウブイフ語でフア、アブハズ語でもフアであった。北のチェルケス語ではハブル、チュルク語、ロシア語ではアウルである。家父長的拡大家族が経営上の一戸を形成し、屋敷地は適当な距離を置いて、連なっていた。各戸では、母屋は独立しその周囲を小屋、菜園、畑が囲んでいた。黒海沿岸では村落はこのような屋敷地が川に沿って鎖のように連続したものであった。19世紀初めダガムス川に沿ったファグア村は、18キロメートルの長さであった。また、スバシ共同体ロホトフ村(現クラスノアレクサンドロフスキー)は、海岸から約10キロメートルの地点から始まって、シャヘ川に沿った9本の列からなり、その各々に異なった血族が住んでいた。各血族は30-60戸の拡大家族からなっていた。また、1951年黒海シャプスグ調査隊が発見したシャヘチェイ(現キチュマ)村は、シャヘ川右岸40キロメートルに沿って伸びる屋敷地の列になっていた。かつては左岸にもウブイフ人の屋敷地の列が伸びていたと言われる。あらゆる集落は単一の谷にあって、それぞれが共同体になっている。各集落は周囲に屋敷地を巡らし森林の中に渓谷と平行な線上に連なっていて、集落地理学の教科書にはない鎖村とでも形容することができる。勿論、ソチはコーカサス山脈が黒海に落ち込む斜面にあり、河川河口部の低湿地は集落形成には好ましくないので、この様式は地形に規制されているとも言いえる。古代の集落にも関係があるドルメンも河口から離れた渓谷に沿って作られていることも併せて考察すべきであるかもしれない。
トハグプシ村の伝統的住居(1912年撮影)https://mfacebookcom/tamarapolovinkinaADIGESO
CHI/photos/a.1564577406897266/2882370635117930/?type=3
コーカサス戦争の後、ソチのプセズアプセ川流域を訪れたニコライ・カメーネフ(クバン・コサック軍大佐、地方史家)はこの地の景観を次のように叙述した。「最近まで勤勉な住民が住んでいたことは、小道と細い牛車道で切り込まれた森林の山地の中の場所を一歩、歩くごとに明らかだった。谷間や渓谷、山の斜面に穀物が緑に色づき、高いところでも緑が色づいていた。数ヘクタールもの土地から樹木を除いた山地民の辛抱に驚かせつつ。穀物畑の周囲には森に沿って作物を野生の豚から守るために作られた編み垣が見えた」。このような開かれた場所(ロシア語ではポリャーナ)の跡は、今でもアシェ、プセズアプセ、シャヘ、ソチ、ホスタ、ムズィムタ川の谷間で見られることがある(ヴォロシーロフ)。
19世紀ソチの屋敷地(ベルの旅行記挿絵による)中央にあるのは穀物倉庫で高い柱と床の間にはネズミ返しが作られている。https://www.facebook.com/A.Jaimoukha/photos/pcb.9697264640
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家屋の壁は木造か編み垣に粘土を塗ったもので、屋根は板で葺いて茅を被せてあった。村落の中に通路は無く、家の向きもばらばらで、同じ方向をむいているわけではなかった。更にこれらの集落と集落を結ぶ道路はほとんど発展しなかった。彼らの村落は山の斜面に作られたし、多くの場合に彼らは牛車を使用せず荷物の運搬は駄獣か人の背で行われた。どの家も同じような様式で、貧富の差は家屋の大きさと手入れに見られるだけだった。シャプスグ人の家屋は普通1間か2間で、急いで逃げ出す際の必要のために、それぞれに出入り口がある。家の中には台所(世界中のあらゆる場所で調理は屋内でするとは限らない)や未婚の娘や老人のための部屋がある。結婚した息子は独立した家屋で生活することが好まれた。家の中央には囲炉裏があり、調理はここでするが、囲炉裏は宗教的意味を持っていて、様々な儀に結びついいていた。囲炉裏にはごみをためたり、唾を吐いたり、なんでも火が消えるようなものを投げ入れてはいけない。改まった客は囲炉裏の前に座らされた。ソチの社会では1850年代まで、権力機関が存在しなかったので、権力を行使する場所はウブイフ人と海岸のシャプスグ人のもとには存在しなかっが、観察者がシャプスグ、ウブイフ、アブハズのどれを強調しているのか、あるいは個々のどの村落を念頭に置いているかによって、ニュアンスは異なる。封建的身分関係があったアブハズ人のもとでは、ウブイフ人とは異なっていたが、ウブイフ人の間では家屋や屋敷地の周囲に防衛のための石垣を巡らせるようなことは行われなかった。
` ソチの民家(1855年)「我々は岡の間を長くゆっくりとした一日の旅を行い、一人の首長の棲家に到着した。ここは網代と漆喰で建てられ、屋根を草で葺いたの多数の小さな小屋からなっていて、その一件がコナグ、すなわち客屋であった」。『ウイリアム・シンプソンR.I,(クリミア・シンプソン)自伝』1903年、ロンドン。https://www.adygi.ru/indexphpnewsid=29438
https://www.adygi.ru/uploads/posts/2021-04/1618869374-1jpg.jpg
ソチの古民家(撮影場所日付不明)https://scontent-sjc3-1.xx.fbcdn.net/v/t1.6435-9/98018249_
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第4項 ウブイフ人の生業
ウブイフ人は、森の中の屋敷地に様々な果樹を植えた。りんご、なし、もも、マルメロ、いちじくが好まれ、スモモ、アルイチャ(スモモの一種)、ざくろ、桑、はしばみ、クルミも植えられた。ぶどう園も広がっていて、特にソチ側左岸では公共のぶどう園があって、川岸まで1.5キロメートルも続いていた。1864年以降入植した新しい移住者は、地面に埋められた旧住民のワイン甕を発見することがあった。ワインを沢山消費することはウブイフ人の古い習慣であったが、ソチの有力者アリ・アフメト・アウブラは、常にワインを飲んでいたと観察されている。ヴァルダネではウブイフ人が去ってから10年がたっても、新しい住民は集めたぶどうで毎年3万6千900リットルものワインを醸造した。1トン用の大甕に換算すると37個である。1トン用の甕は現在の、たとえばグルジア・カへチアの農村では、極く平凡な容器である。しかし、ソチ全体で必要とされる大量の大甕は、どこでどのように調達されたのであろうか。実はソチでは土器の甕は作られなかった。農民は地面に大穴を掘り、穴の壁を粘土で塗り固め、中で火を焚いて、作り付けの大甕にしたのである。葡萄液を入れておけば、自然にワインが醸し出される。葡萄は蔓ではなく樹木に仕立てられたが、樹幹の直径は15センチメートルにもなり、一本から500キロもの葡萄が収穫できた。どの果物も品種は豊富であるが、リンゴの例をとると次図の様になる。
北西コーカサスのリンゴ固有種果樹園(北西コーカサスには30種の固有リンゴ品種、20種の梨が栽培されていた)https://gorets-media.ru/uploads/images/vestisgor/2015/Decembre/.thumbs/
4ccd4227186f300eacd2bc45637ebe43_800_313_1.jpg(В Адыгее решили возродить древние черкесскиесадыЧитайтедалее: https://gorets-media.ru/page/v-adygee-reshili-vozrodit-drevnie-cherkesskie-sady)(トハグシェフ『チェルケス人の果樹栽培―民間伝統品種の記述、森林果園』)
畑では、ヒエや粟、玉蜀黍等の雑穀、条件の良いところでは、小麦、大麦、燕麦も栽培された。糸を取るためにはアマとアサが植えられた。焼き畑では最初の2-3年間はトウモロコシが栽培され、次に小麦・大麦・燕麦・ヒエが蒔かれる。開墾済みの畑では、数年放牧や草刈地とし、次にヒエかトウモロコシを蒔き、次に秋蒔き小麦を蒔き、次は休耕かあと一年春蒔き小麦が蒔かれた。休耕の基幹は5年から10年に及んだ。主穀のヒエはこの地方で古くから広く栽培されているチェシュ種が普及していて、同じ畑では4年に一度、サイクルの最後の年に播種される。この品種は雑草に強く、地味の回復が容易であるとされている。また、丈はとても低かったので、収穫は手鎌で刈り取られ、大鎌を用いられることは少なかった。すべて手作業で行われ、馬を使うのは、脱穀だけであった。穀物は丁寧にごみを除かれ、より分けられた。特別の保管場所、例えば地中の穀物蔵に保管された。アブハジアでは主穀のトウモロコシは高床の穀物倉庫に保存される。穀物の地中保存は西アジアでは広く行われていたが、ザクバン地方でもロシア軍の侵入地域では、焼き払われるのを免れるために有益であっただろうが、ソチでは気温や湿度の関係であったかもしれない。シャプスグ人は斜面の段々畑の耕地に施肥し灌漑した。彼らの畑は外国人の目には驚きに映った。「岡と谷は至るところで非常によく手入れされていて、畑の周囲はきちんと囲われていたので、イングランドで一番よく耕作されているヨークシャーにいるかのように思った」。平地では耕耘に牛や水牛を使うことがあった。彼らの弧状の犂は表土を細かくするだけで撹拌はしないし、木製の刃の部分はあまりにも短いので農夫は力を入れることもできなかった。表土の薄い山地では、それでよかったのであろう。山の斜面を利用した灌漑がおこなわれ、時には木製の樋が使用された。肥料は草木灰と厩肥料が用いられたようである。
チェルケス人やアブハズ人とは違って、18世紀に山地から下ったウブイフ人の農耕の歴史が非常に古いとは思えないが、アブハジアには、「どうして、ウブイフ人が果樹農民になったか」という伝説が残されている。「ウブイフ人が農耕、特に園芸をしなかった時代があった。彼らは、農耕は奴隷や捕虜の仕事で、園芸は全くウブイフ戦士の為すべき仕事ではないとみなしていた。神様のお蔭なしに、ウブイフ人の国はリンゴ、ナシ、クルミ、スモモ、その他の食用果実が豊かであった。さて、あるウブイフ人が大勢の敵と戦って討ち死にした。神様はこの男が、戦いに奉仕して死んだのにも拘わらず、地獄に落とした。そこは餓鬼地獄で、男の目の前の大きな網垣の柵の向こうでは天国の人々が、果樹園を作ってバラ色の果実を好きなだけ食べていた。彼や彼と同様の罪びとたちは、働き者たちを眺めては羨ましく思った。時間がたちそのウブイフ人はとても飢え、痩せた。山の斜面の濃い茂みで集めることができた果実は、苦かった。その時ウブイフの男はあらゆる神聖なものに懇願し、もし神が彼を生き返らせて下さったら、彼は人々に労働と果樹栽培を呼びかけると願った。神は男のうめき声を耳にし、地上に戻した。人々は生き返ったウブイフ人を聖人とみなし、あらゆる人々が直ちに彼の指示に従った。特にウブイフ人は男は生涯に50本の木を植えなくてはならず、そうして初めて天国へ行くことができると言って、果樹栽培を神聖な行為と考えた。イスラーム教では地獄の食物は苦いアロエのような植物であると言われるが、この伝承の神がアッラーであるとは限らない。一方、「女は菜園に励まなくてはならなかった」。穀物は誰が作るべきかは語られていないが、1870年代のアルト衆の村では、小麦は女性によって刈り取られた.家畜は馬の他、牛、山羊と羊が飼育されていたが、特に山羊が好まれた。7月から9月までのマラリヤの季節は、多くの村人が山に上がった。夏の牧地は不足気味であったので、コーカサス山脈の北側のアバヅェフ人に預けられる場合もあった。冬の牧地は海岸沿いの低湿地の谷間の農耕地とは区分された場所であった。春と秋の牧草刈りの時期にも家畜はここに置かれた。ソチの気候と樫や楢の多い植生は、ヨーロッパやグルジアで行われているように、豚の放牧に適しているが、イスラーム教の浸透の結果、19世紀の初めには廃れた。放たれた豚は野生化し、村の農地を襲い、やがて元々の猪と混ざりあったであろう。
養蜂も重要な生計の手段で、蜂蜜と蜜蝋は輸出された。野生の蜜も採集された。アブハジアにおいては、桑が計画的に植林され、葉は養蚕に使用され、絹布は地元の使用に用いられていた。ソチの人々も自家用の絹をとっていたと言われるが、具体的な証拠が残されているのかどうかは知らない。勿論、桑の実は生でも干しても食べられ、発酵した果実からは蒸留酒が製造された。
1840年代の若いチェルケス人女性(ジェームス・ベルの滞在記挿絵)https://adygi.ru/uploads/
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疎放な鉱業も行われていた。北西コーカサスの南斜面には、例えばシャヘ川上流の支流クト川流域にհは、鉄と銅の鉱山があり粗放な採掘の址も残されている。ウブイフ人は製鉄の為の特別の施設を持たず、ただ鉱山の近くに大きな穴を掘り、乾いた栗の木を入れてしばらく火を焚き続け、鉱石を入れさらに上から栗の炭を被せて燃やし続け、溶け出した鉄塊を取り出した。ウブイフ人の鍛冶屋はこの鉄から、日常用品と刀剣、時には火器を作り上げた。ウブイフ人の作った武器は西コーカサスでは名声を馳せていたと言われる(筆者未確認)。火薬はトルコ人から買うか、あるいは、自分で製造した。木炭については問題がないし、硫黄もマツェスタ温泉の山中に露出しているところがあった。ソチには硝石鉱床はないが、スヴァネチア、ミングレリア、アブハジアに販路を持つ鉱山がチェルケシアにあった。ソチ・オリンピックのスキー会場から分水嶺を超えればチェルケシアである。しかし、ヴァルシロフはソチでは硝石を取るために数種の植物を栽培していたと記している。ダニレフスキーによると、コーカサスではロシアのアカザに似た植物から硝石を採っていた。日本ではヨモギを使うところである。ただ鉛の鉱山だけはなかったので、アブハジアのグダウタ山中で入手する必要があり、常に入手難であったので一度撃った弾丸を集めることさえあった。これで、世界一の陸軍国ロシアと長く戦い続けたとは、驚きである。
第2節 遠い砲声(1774年クチュクカイナルジ条約から1829年アドリアノープル条約までのソチ)
第1項 ロシアのクバン地方進出
オスマン帝国がクリミア汗国を併合した1475年から100年の間に、モスクワ大公国はカザン、アストラハン両汗国を併合して、北コーカサスに迫ったので、オスマンとモスクワは地政学的隣人となった。モスクワの前進に対するオスマン側からの第一手は、アストラハン遠征(1568-1569年)であったが、兵站が伸びきったため失敗に終わった。リューリク朝に代わったロマノフ朝ミハイル帝は、自分のツァーリの称号と併せて「チェルケス人と山地の公」を、その後継者アレクセイ1世は「カバルダ地方とチェルケス人と山地の公」を名乗った。以後第一次世界大戦までトルコとロシアの関係は後者優勢の方向に進み、早くも1774年のクチュクカイナルジ条約で、ロシアはトルコにクリミア汗国の宗主権を放棄させた、クバン川以北とカバルダ地方を編入した。1783年、ロシアは当初の計画通りクリミアを併合し、その結果、クリミア汗国とオスマン帝国の国境とされていたクバン川の右岸を得た。更に1792年のヤスィー講和条約によって、大小カバルダはロシア領になったが、クバン川左岸のチェルケス人とノガイ人、黒海沿岸地方の人々は国際法上はトルコの主権下に留まった。ロシアはオセット、チェチェン、イングーシ諸民族に支配権を認めさせ、1777年以降アゾフ海岸と内陸のモズドクを結ぶ防衛線の建設を進めた。平地のチェチェン人ウシュルマ(シャイフ・マンスール)の反乱は、トルコの保護を失ったクリミア汗国が消滅し、ロシアがクリミアを併合した後に起こった。1785年、異教徒に対するジハードを呼びかけたウシュルマはコーカサス山地東部のチェチェンとダゲスタンの住民の中に一定の支持を見出したが、ロシアの東コーカサス支配の要キズリャル攻撃に失敗してカバルダに転じたものの、更にロシア軍に敗れてアナパのトルコ軍に合流した。しかし、そのアナパも第2次露土戦争(1787-1791年)の結果、ロシア軍によって占領され、ウシュルマもセラスキル以下のオスマン軍将兵と一種に捕虜になった。ロシアはこの戦争によってコーカサスではなにも得ることはなかったが、この次の露土戦争の結果の1812年ブカレスト条約によって南コーカサス西部の領有を認めさせ、さらにその次の戦争後1829年結ばれたアドリアノープル条約ではクバン川左岸と黒海沿岸の領土を得た。こうして北コーカサスの全てが国際外交上はロシア領になった。
ロシア軍コーカサス軍総司令官イヴァン・グドヴィッチ将軍のアナパ奪取(1791年7月22日)
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グドヴィッチ将軍麾下の左翼(歩兵大隊15個、騎兵中隊44個、コサック三千人、砲86門)は要塞の南東から、クリミアから転戦したシッツ将軍の右翼(歩兵4個大隊、騎兵10個中隊、コサック400人、砲16門)は北西から前進した。守備部隊はトルコ兵一万、ノガイ人とチェルケス人一万五千であった。更にアナパ東の台地には8千人のチェルケス人志願兵部隊が攻撃の機会を伺っていた。攻撃が始まるとチェルケス人は丘陵を降り、一隊はロシア軍左翼の背後を、またもう一隊はロシア軍輜重部隊を攻撃したが、いずれも撃退された。トラブゾン総督で一時的にアナパに派遣されてたバタル・パシャの息子セイト・ムスタファ・パシャも捕虜になった。
グルジアに対しては1801年東グルジアのカルトリ・カヘチア王国を併合、西グルジアではイメレチ王国、メグレリ公国、アブハズ大公国を併合した。しかし、ロシアの新占領地の情勢は不安定であった。カバルダ、チェチェン、アブハジア、グルジアでは反乱が続いた。1801年に父親殺しとも囁かれるアレクサンドル1世(在位1801-1824年)がロシア皇帝の位についた時、コーカサス地方におけるロシアの国境は、クバン川とテレク川だった。この全体がアストラハン県のカフカース地方に編入され、アレクサンドロフスク(スタヴロポリ東南110km)、エカテリノグラド(ナリチク北西75km、マリカ川とテレク川合流点のやや東)、ゲオルギエフスク(キスロヴィドスクやピチゴルスクに近い景勝・保養地)、キズリャル、モズドク、スタヴロポリ6郡に細分されていた。15世紀以来、繰り返しチェルケス、カバルダ、ダゲスタン、グルジアの王侯の忠誠宣誓、誓約状、庇護等の国制上の表現を見た後では、実際の併合までに長い時間がかかったことには、意外な感もある。しかし、新帝は直ちに父帝パーヴェル1世(在位1785-1801)が発布していたカルトリ-カヘティア王国併合宣言を再発布し、勅命は直ちに実行された。グルジアを自国領と見なすトルコ、イラン両国皇帝はこれに決然と反応した。しかし、イランは1806年カラバフのギュルスタンで結ばれたギュレスタン条約によってイェレヴァンとナヒチェヴァンを除く、南コーカサスを失い、オスマン帝国も1812年のブカレスト条約でロシアのカルトリ、イメレチヤ、ミンゲレリア、アブハジア等グルジア諸国併合を承認した。一方、アハルカラキ、ポチ、アナパはオスマン帝国に返却された。
1802年の北コーカサス
ブカレスト条約(1812年)後のコーカサス
黒海東岸におけるオスマン帝国領はクバン川と黒海に挟まれた地域を残すのみとなったが、アナパ、スジュク、ゲレンジクを根拠地に戦争で失ったものを煽動工作によって取り戻す策にでた。アナパ総督セイト・アフメト・パシャは、既に戦争中の1811年に、クバンのノガイ人のもとに現れ、ロシアには彼らをキリスト教に改宗させ、兵士に徴用する目論みがあるので、ジハードが必要であると説得し、1813年9月にはロシアとコーカサスの地理的境堺であるマヌイチ低地のカラウス川に遊牧するノガイ人の一部2,000帳、27,000人を連れクバン川左岸に戻った。ただし、ノガイ人は無事脱出したものの、彼らの家畜はロシア軍に鹵獲され、ロシア軍の追撃にあってノガイ人を防衛していたチェルケス人部隊に1800人の死傷者を出した。1783年クバン川右岸のロシア領に残っていたノガイ人は、ツァーリに対する臣従を誓ったものの、ウラル移住を命令されて大きな反乱を起こし、コサックはこれに対する膺懲遠征をおこない、捕虜を取り家畜を略奪して帰投する事変が起こっていた。ノガイ人はロシア政府を信頼していなかったのである。
ロシアはクリミア汗国から奪ったアゾフ海東岸の地域に、ウクライナからザポロージェ・コサックを移住させ、1790年黒海コサック軍(1793年にクバン・コサック軍に発展)を創設した。同時に、1777年設置のアゾフ・モズドク監視線に加え、1793年からクバン監視線建設を開始した。この結果、露土両国の戦中、休戦中を問わず新来のコサックと地元のチェルケス人との小競り合いが頻発するようになった。大著『コーカサス戦争』の著者ポットによると両集団が敵対する直接の原因は、1796年6月のブジユクの戦いであった。当時、シャプスグの農民は経済外強制を強めて、王侯のようにふるまおうとする廷臣身分のシェレトルコ家を追放した。アリスルスタン・シェレトルコは、ブジェドゥグの王侯バトゥルギレイ・ハジェムコに援助を求めた。自領でもこのような農民運動が勃発することを懸念したバトゥルギレイは、アリスルタンとともにサンクトペテルブルグに上って皇帝イェカテリナ2世に援助の請願を行った(1793年4月)。これを察した農民軍は先制攻撃を計画して、ブジェドゥグ領に進撃した。農民軍にはナトゥハイ衆とアバヅェフ衆が加わり兵員数18,000に達した。両軍の決戦は1796年6月、クラスノダル(当時のエカテリノダル)の南19kmのブジユク谷で行われたが衆寡敵せず、勇将と謳たわれたバトィギレイが戦死し、戦闘は農民軍の勝利に終わると思われた。ところがが、コサックのヤサウル(大尉)・イェレメイェフの青銅砲1門の前に農民軍は敗退した。戦場には農民軍400、ブジェドゥク軍360の遺体が残された。この事件が発端となった農民のコサック監視線に対する襲撃は最初シャプスグとアバヅェフが始め、これを見た他の集団も続いたと言われる。ポットは「コサックがザクバンを旅するのは不可能であった。一人旅だけでなく、部隊であっても死傷者なしに前進することはできなかった」と述べる。また、クバン・コサック史家のシチェルビンは「まだ、1800年には隣人としてコサックと山地民は、友好的関係にあった。一つ二つと事件が続いて、相互の不信と嫌悪が表れた」と述べる。それでも、アタマン・ブルサクがオスマン帝国アナパ総督オスマン・パシャに記した書簡(1800年6月25日付)では、1797年から1800年までの3年間で、コサック側の損害は馬439頭、有角家畜247頭、捕虜35人、死者25人、負傷者10人であると通知している。1800年3月、5千人のチェルケス人がコプイラ監視所に最初の大規模な襲撃をかけた。コプイラは現在のスラヴャンスキー・ナ・クバニで、クバン川右岸の本流よりかなり内陸に入った場所であり、クバン川分流沿岸にある。18世紀初めこの周辺にはジャネ、ヘガク、アダレ等のチェルケス人集団があったが、世紀末までに彼らの村々は消滅した。官選アタマンのブルサクは、あらかじめ逆襲撃の権利を申請して許可された。しかる後、クバン監視線の司令官ドラシュケヴィチ少将の命令を受け、同年5月アゾフ海岸の都市テムリュクの北を本隊はテムリュク湿地で、砲兵隊はクバン川チョルヌイ分水と湖沼をつないでいるチョルヌイ水路でクバン川を渡河し、左岸で作戦行動を行いクラスノダルとアナパの間のアビン近く、クバン川支流アウシェド川に面するブジェドゥグのアルスラン-ギレイ、ダヴレット-ギレイが所有する村々を攻撃し、家畜数千頭を略奪した。1802年2月にはクバン川沿いにエカテリノダルに移動していた輸送隊が伏兵に遭ったので、5月に懲罰部隊が出てブジェドゥグ衆の村落を攻撃した。1803年1月には氷上を渡河したチェルケス人がコサックの屯田村を焼いたので、ロシア側は大規模な報復で応じた。また、1804年9月にもシャプスグ衆がクバン川を渡って襲撃に出た。
第三次露土戦争
1806年に新たな露土戦争が始まると、ロシアは地元民に武威を示すために出陣、1807年㋄コサック、正規軍、海軍艦艇を動員する大掛かりな作戦を実施し、コサックと正規軍部隊がプセベット(プセベプスか?)川流域でナトホクアジュ、クダコ、アギリトフ、ガイト、ギティチン、ツィメス、コルヴァンディなどのナトホイの村々を攻撃した。ノヴォロスィスカヤ湾とクバン川に挟まれた地域である。また、アタマンのもとに既にロシアに帰順していた諸侯が来て、前アナパ総督(セイト・ムスタファ・パシャ?)が山地に現れて、シャプスグ、ナトハイ、アバヅェフ諸族を扇動し、黒海コサックを攻める為に既に1万5千人を集め、さらにロシアに帰順した諸侯にも檄を飛ばしていると伝えた。ロシア側は、10月にコサック兵1,150人に加え、帰順派のチェルケス人とノガイ人1万1千人を加えて、クラスノダル貯水池東端に流入するベロイ川で前総督の部隊を破った。しかし、ここで和平の機運が起こり、12月アナパ総督(コロレコ及びポプコはこれをセイト・アフメト・パシャとするが、オスマン=パシャか)から、ロシアの新任タヴリド総督に宛てコサックがクバンを攻めないようにという要請があり、総督もこれに応じたので、クバン川の戦闘は沈静化した。しかし、この休戦協定が中断され、対ロシア戦を鼓舞するスルタンの勅書がアナパに届くと、クバン川の戦闘は再燃した。1809年5月チェルケス人がクバンを渡河し、現アルマヴィル市北のグリゴリエフスク衛所を占領、兵士を殺害した。直ちに懲罰部隊が出され、作戦によって1.000人以上のシャプスグ人が殺され、18か村が破壊を被り、多くの農場が作物ごと焼き払われた。1810年1月には、4千人の武装したチェルケス人がスラヴャンスキー・ナ・クバニ南のオリギンスキー哨所からクバン川を渡河、ステブリエフスキー兵営(イヴァノフスカヤの北郊)、イヴァノフスカヤ屯田村(スラヴャンスキー・ナ・クバニとクラスノダル中間)が、4,000人の騎馬隊に包囲された。長時間の戦闘の結果、ロシア側死者149名、捕虜40名、チェルケス人側500人が死亡した。数日後、今度は5千人のチェルケス人が集まってエカテリノダル南25kmのムイシャフストカ村を攻撃したが、撃退された。アタマン・ブルサクはタヴリダ総督から越境攻撃の裁可を得て、2月クラスノダルのクバン川対岸南スプス川のブジュトゥギ族チェルチェネイ枝族とアバヅェフ族を攻撃し、あらゆるものを破壊したのち、馬100頭、牛3千頭を奪って帰投した。次いで3月にはエカテリノダル西7kmのエリザヴェティンスカヤでクバンを渡河し、南西に進んで、ウビン川とハブル川の間のゼルキ川とイリ川流域のシャプスグの村々を破壊した。これを受けてシャプスグとチェルチェネイの公と貴族は和平を取り決めた。しかし、チェルケス人の活動は再び活発になっので、報復として1810年秋にはベラヤ川左岸支流プシェハ川のアバヅェフ、冬にはスジュク要塞攻撃のための陽動戦でアダグムのシャプスグ衆を攻撃、多数の家畜を略奪して集落と作物を焼き払った。翌1811年1月にもロシア軍はアダグム川を南に下がって、シプス川とハブル川支流のアントフイル川のシャプスグ衆の村々を攻撃した。チェチェン人の歴史学者ナトコは「チェルケス人の敵対的行動は、主として一つの目的を持っていた。占領されたチェルケス人の土地から敵を一掃することであった。時には彼らは小規模で殺害、略奪し、新しい住民に警告するためにコサックの屯田村や監視所を攻撃するか、輸送隊を包囲した。しかし時には、チェルケス人はかなりの数で、彼らの土地に建てられたロシア人の要塞の一つ二つを占領するために集まった」。南コーカサスではロシアのグルジア・カルトリ王国の併合がロシア、オスマン両国の深刻な対立の原因となっていたが、北西コーカサスではこのような深刻な領土問題はなかった。アナパにおいても先回のような本格的戦闘は行われなかった。プストシュキン副提督の黒海艦隊の進出を見た守備隊は殆ど抵抗せず、1807年4月には砲台を破壊し、大砲を撤去して退却した。ロシア軍も要塞を放置した。翌年オスマン軍は再び要塞を武装した。しかし、1809年6月15日にロシア海軍ペルフロフ大尉の小艦隊が砲撃すると、守備隊は撤退し、ロシア軍要塞を無血占領した。オスマン帝国は沿黒海地方に兵力を振り向ける余裕がなかったのであろうが、実のところそれはロシアも同じであった。
19世紀前半北西コーカサスの種族分布
第2項 ブカレスト条約(1812年)後のクバン地方
1812年のあとしばらく、クバンの状況は落ち着いた。ブカレスト条約が結ばれ、戦争中ロシアが占領したアナパをオスマン帝国に返還する条件として、チェルケス人の略奪遠征を止めさせるという条項が入ったため、新任のアナパ司令官ヒュセイン・パシャ(1813-15年、前任はオスマン・パシャ、後任はセイト・ムスタファ・パシャの息子セイト・アフメト・パシャ)は、略奪を妨げるための万全の処置を講じた。これが第1の理由。また、1813年の末、チェルケス人の間に天然痘が発生したことが第2の理由であった。1815年にセラスキルに就任したしたセイト・アフメト・パシャは、ナトハイ族出身であると言われているが、これまで親ロシア立場を取っていたナトゥハイ衆を処罰することを考え、1万2000人のノガイ人をアナパに移住させる決定を下したものの、ナトゥハイ衆の武装抵抗に合って、これを撤回せざるを得なかった。次にパシャはシャプスグ衆にナトゥハイの土地を与えようとしたが、これも実行はされなかった。パシャの第2の作戦は再びチェルケス人をロシアに対する攻撃、泥棒、略奪的遠征を煽動することだった。20年代になると、ザクバン地方のチェルケス人略奪的遠征とコサックおよびロシア正規軍による懲罰的・予防的活動は激しくなった。また、国際条約上はロシア領となったコーカサス東部における抵抗運動の機運も高まった。
チェチェンオウル(チェチェンザデ)・ハサン・パシャの肖像 https://www.grozny-inform.ru/
news/analistic/126198/http
北コーカサスでロシアの植民地政策が伸展し、1822年カバルダの大公制やカルムイクのハン制が廃止され、これに抵抗する独立派カバルダ諸公は反乱を起こしてに失敗すると、ロシア領外のクバン川上流地方へ移住した。彼らはザクバンの、あるいはハジャラトのカバルダ人と呼ばれた。チェチェンでは1818年グロズノイが建設されると、これに反対する反乱が起こり、これに続くベイ-ブラト・タイマゾフの反乱(1824-6年)に発展した。これらに対応し、鎮圧したのはコーカサス軍総司令官の地位にあった、アレクサンドル・イェルモーロフであった(1816-1827年)。イェルモーロフはチェチェン人に対しても、カバルダ人に対しても(1822-26年)「焦土」作戦を実行した。戦闘員を殺害するだけではなく、村落を破壊し、家畜を奪い、作物を焼却、森林を切り倒した。イェルモーロフのやり方は、西コーカサスではクバン川左岸、東コーカサスではテレク川とスンジェ川の間の無人化であったが、テレク・スンジェ間、大カバルダではコサックの入植も図られた。掃討作戦と疫病の流行(戦乱と疫病には明らかな因果関係がある)によって、大カバルダの人口は最大期の10分の1にまで減少したと言われる(1826年推測)。正教に改宗したイラン人でデルベント出身の東洋学者カーゼム=ベクが、エルモーロフを称賛して「寛大、無私の勇気、公正さは、全コーカサスを征服することができる三つの武器である。どの一つがかけても成功はおぼつかない。イェルモーロフの名はこの地域のためには恐ろしく、特に記憶に残る。彼は寛大で、厳しく、時には残酷であった」と述べたことについて、現代の歴史家ガプーロフは、カーゼム=ベクはまさにここで間違っている。イェルモーロフは山地民に対する限り、寛大でもなく、公正でもなかった」と評価した。このような非人道的治安作戦には皇帝自身が疑問を持った。「アレキサンドル一世すら、1825年にイェルモーロフ(の山地民に対する残虐行為)を叱責し、これは女子供が大勢死亡する作戦であって、『ロシア軍の栄光にも、部隊指揮官の名誉にも寄与しない。要するに、朕に敵意を持つ山地民の心中、に平和を愛する感情や朕に対する信頼ではなく、尚いっそうの怒りを注ぐものである』」(ガプーロフ)。ソ連時代、グロズヌイに建てられたエルモーロフの彫像が、2度にわたって撤去された理由はここにあるのである。
グロズノイのイェルローモフの2番目の記念碑。1881年、チェチェンのグロズノイに建てられたイェルモーロフの最初の記念碑は、1922年にレーニンの命令によって撤去された。この写真にある二番目の記念碑は1949年ベリアの命令によって建設されたが、最初のもののコピーである。これもチェチェン人の抗議、鉄橋の要請、破壊の試みの末、ペレストロイカ期の1989年市当局によって撤去された。皮肉なことにレーニンの銅像と一緒であった。zen.yandex.ru/media/chechenya/pochemu-v-groznom-dvajdy-snosili-pamiatnik-ermolovu-5ce63
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ロシア当局は20年代の反ロシア活動の高まりは、アナパ総督セイト・アフメト・パシャが各地に送った使者の煽動が効を奏したものであると見なしていた。このような攻撃の頻度は、年によって多寡があり、たとえば1813年の襲撃が少なかったのは、天然痘の流行もあったが、オスマン帝国の新アナパ総督ヒュセイン・パシャが、規制の努力をしたからだと言われる(シチェルビン)。
アスランベイ・チャチュバ(シェルヴァシヅェ)https://www.reddit.com/r/Abkhazia/comments/
km4phl/aslanbey_chachba/
第3項 危機の前のソチ
19世紀20年代まで、ソチの人々の活動はクバン地方よりは、むしろ海岸部の主としてアブハジアと関わっていた。1806年アブハジアの大公ケレシ・ベイ(アフマド)・チャチュバ(シェルヴァシヅェ)が、オスマン駐留軍と戦った時、ベイに味方したチェルケス人とジケ人の中にはウブイフ人が含まれていたと考えらてれる。1808年5月2日にケレシュ・ベイが死亡(在位1780-1808年。ロシア側は独立派のアスラン・ベイによって毒殺されたと断定している)すると広くアブハズ人全体、チェルケス人、ウブイフ人に人気があり、チャチュバ家一族の大方から支持を受けるている長子アスラン・ベイが即位した(在位1808-10年)が、次子セフェル・ベイは妻の実家メグレル大公とロシア政府の支持を頼って、大公位を要求した。アスラン・ベイはロシア軍によってスフムから追放され、ソチ、アナパを経て、トルコに亡命した。ロシアの意に叶ったセフェル(アリ)・ベイ(ギオルギ)が1821年4月7日に死亡すると、アスラン・ベイの弟ハサン・ベイが状況の掌握を図ったが、ロシア軍の陰謀によって逮捕され、シベリアに追放された。他の兄弟も結束してアスラン・ベイを支持し、タヘル・ベイが連絡のためイスタンブルへ派遣された。秋に帰国したアスランはサズ(ジケティ)とウブイフから兵三千を集めたが、ロシア軍に敗北し、再びトルコに亡命した。1822年10月16日セフェル・ベイの後継者ディミトリ(ウマル)が位にあること僅か一年で病死したので、アスラン・ベイが再びトルコから帰国して大公位を請求すると、1万2千人のアスラン派がスフムのロシア軍要塞とルイフイヌイの大公宮殿を包囲した。応援に駆けつけた親ロシア派メグレル大公(セフェル・ベイの岳父)の騎兵隊1300人とロシア兵2000人がコドル川を渡る際には、ツェベルダ衆、ウブイフ衆、ジケティ衆が阻止を試みた。しかし、1824年6月黒海艦隊の艦砲射撃をうけてスフムは陥落、8月にはアスラン・ベイ自身も三たびトルコに亡命した(ポットおよびラコバによる)。アルスラン・ベイの母親はスフミの北、エシェラの君侯の娘マリアム・ヅィヤプシ、アタリクはホスタの貴族サムフア氏、最初の妻はプソウ川下流のゲチバ氏のディダ、第2の妻はマルシャン氏の分家マスイパ家の王女エスマであった。サムファ氏はサムファリプシ村が本拠で、ソチ東のホスタ川が二股に分かれる支流の間、ヴォロンツォフ洞窟の下手である。また、ソチが全地域を挙げて、アスラン・ベイの味方をしたとも言えないのは、セフェル・ベイ自身のアタリクはハーッジ・イスマーイールであったし、またアスラン・ベクの対抗馬であるセフェル・ベイの息子で1806年生まれのミハイル(ハムドあるいはハミド。アブハズ語には、イの母音もウの母音も無いので、アブハズ語のレベルでは同価である)の最初の妻アクラはアドレルのアレドバ家ベスラングルの娘であり、アタルイクはイスマイールの甥ハーッジ・ベルゼクであった。アブハジアとソチは緩やかに、しかし複雑に統合されていたといえよう。ロシア軍はガグラまでの海岸部を制圧することができたようだが、ブズィブの領主イナルイパは、アスラン・ベクの支持者であったと言われる(筆者未確認)。当時ソチを含めたアブハジア支配層の多数派は反ロシアであった。1811年にアブハジアの主要氏族が亡命中のアスラン・ベイに帰国を請願したとき、請願者の署名には、ロシア語訳にはメルスィリアン(すなわちマルシャン)、チャビシュベ(チャプシュバすなわちチャチュバか)、ラクイルバ、マアーン、ズンバ(ズバンバか)、サムイフ(筆者にはゲチャレルと読める。ソチのゲチバ。あるいは、サムファ)、アド(アルドすなわちソチのアルドバ)、ナリパ(イナルイパ)、ハンドラル(チャンドラルすなわちチャンバか)、スィラモア-メレミル(この読み方は間違っていると思われるが、適当な代案を示すことができないが、マスィパ-マルシャンか)、諸氏族名が挙げられていて、ソチの集団も大いに関わっていいる。但し、この箇条中のソチ集団はジク人であってウブイフ人ではないが、ウブイフ人の去就は不明である。署名者一同は、ベイの兄弟はロシア側になびいているが、自分達はモスクワの邪教徒に従う気にはなれないので、後生だから帰国してくれるようにと懇願しているのである。ソチのウブイフ衆のアブハジア大公位即位介入は、ミハイルを支持するメグレル大公派の勝利が確定した後も続く。1823年(アレクサンドル・ズヴァンバは1825年とするが)夏には、千人規模のソチ部隊が山側からガグラを攻撃した。しかし、家畜を山に上げていた牧夫に気づかれ、待ち伏せ攻撃を受けた。ソチ軍は村々に戦況を報告する伝令以外のほぼ全員が死亡した。戦闘部隊長であったベルゼク家の長サアドギレイ・ドゴムコ・アダグヴァ-イパ・ベルゼクもまた戦死した。アブハズ人の最初の人類学者と評されるズヴァンバは、『ウブイフ人の冬のアブハジア遠征』のなかでは、これが文化経済的行為としての略奪遠征なのか、それともアブハジア大公位をめぐる対ロシア作戦の一部なのか直接的言及しないが、1810年以降のアブハジアとソチの関係を見れば結論はあきらかであろう。サアドギレイの地位と職務は兄弟イスマイル・ドゴムコ・ケレンドゥコ・ベルゼク(ハーッジ・イスマーイール)に受け継がれた。アドリアノープル条約によって1829年アナパからバトゥミに至る黒海東岸全体がロシア領になったが、1830年にはガグラにもロシア軍守備隊が配置された。この年アスラン・ベイはトルコからわずかではあるが手勢を引き連れて再上陸している。
メグレル大公レヴァン五世ダディアニ(184-1846)https://upload.wikimediaorg/wikipedia/
commons/5/50/David_Dadiani.jp
ズグディディにあるダディアニ家の宮殿ニコノル・グリゴリエヴィッチ・チェルネツォフ(1833) https://tr.wikipedia.org/wiki/Nikanor_Çernetsov#/media/Dosya:Nikanor_Chernetsov,_
Maison_du_prince_Dadian_en_Mingrelie.jpeg
ルイフヌイのアブハズ大公宮殿跡。所謂ルイフヌイの反乱(1866年)によってロシア軍に破壊されたhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ac/Lykhny_palace_ruins.jpgその内部https://travelgeorgia.ru/files/file_668.jpg
ロシアのコーカサス総督イェルモーロフは、征服戦争実施上の過酷な戦術が災いして、皇帝ニコライの不興を被っていた。しかし、ニコライは、いきなりイェルモーロフを罷免することはせず、1826年、まずパスケヴィッチを監督官として派遣して実権を奪い、次いで1827年にイェルモーロフを転出させた。この時、コーカサスでは新しい征服・統治方針がとられようとしていた。ロシアはザクバン地方との交易を重視し、リシュリユーやスカッスィが沿岸地域との交易を拡大しようとした。これまでイェルモーロフやヴラーソフのような軍人たちは、経済関係の拡大が平和の維持や現地民の帰順を促すという考えを歯牙にもかけなかったのである。これに先立って、1821年、先帝アレクサンドル1世は「チェルケス人とアバザ人との通商関係のための規則」を承認した。北コーカサスの海岸と河口に小型船で塩やその他の商品を運び込み、そこから木材、皮革、ブルカ(厚いフェルトで作った作業用外套)、葉タバコ等を運び出す計画であった。交易は物々交換によって行われた。クバン軍にチェルケス人の攻撃があった場合も越境攻撃をすることを禁止した。1825年末、ナトハイの貴族シュプコ家のものが、ソチに使いを送り、ロシアとの間に和平を取り結び、交易をおこなうことの利を説いた。また、これより先にソチのベルゼク家とヅェプシ家は代表としてハッジ・ケランドゥフ・ベルゼクを派遣して、ロシアとの交易の交渉を行った。シュパコ家の誰が通商拡大の努力を続けていたかは、氏名が明らかにされていないが、当時スジュクとゲリンジュクの間のプシャドには、アフメト・インダルオグルがいて、ド・スカッスィやテブー・ド・マリーニーがこの地を訪れたときは、客としてもてなした。ド・スカッスィはインダルオグルは塩の倉庫を持っていたと記録している。クリミア半島のケルチに巨大な自然の塩田があることは既に述べたが、塩は日常生活や食品加工のためだけでなく、家畜のためにも必要である。織物と金属製品も沿黒海やクバン地方が自給できないものだった。一方、ロシア資本主義も工業製品の販路を求めていた。エルローモフとヴラソフ(マクスィーム・グリゴーリエヴィッチ、1767-1836、クバン・コッサク総司令官1820-1826)の更迭から露土戦争開戦までのわずかの期間は、北西コーカサスに実にまれな平和が訪れた。ニコライはエルモーロフに替えてパスケヴィッチ(イェレヴァンスキー、イヴァン・フョードロヴィッチ、1782-1856)を、ヴラソフに替えてスイソエフ(ヴァスィーリー・アレクサーンドロヴィッチ、1772-1839、黒海сコサック軍アタマン)を送り込こんだ。スイソエフの後任のアタマン、ベズクローヴヌイは、クバン川左岸における軍事的混乱の原因は、ヴラソフ個人の性格によるものであると断定している。
オスマン当局もロシア側の和平努力に応じた。1825年の冬の終わり、400人のチェルケス人代表者がアナパに呼び集められて、オスマン当局からロシアとの国境問題の説明を受けた。アナパ防衛軍司令官(ヴェリ)セイト・アフメト・パシャがチェルケス人はスルタンの臣民であると述べると、チェルケス人代表団は、「スルタンはロシア人のクバン川移住以来の物質的損害を約束したが、この損害は少なくなかった。チェルケス人は25年間の間に2万5千人が殺されるか捕虜になり、5万頭の馬、6万頭の牛、10万頭の羊が失われたと主張した」と主張した。しかし、パシャはこの保証を承諾しなかったので、集会においてチェルケス人は上の請願を行うためにトラブゾンに代表団を送ることを決定した。トラブゾン総督ハサン・パシャは代表団を首都に向かわせた。一行はスルタンに拝謁することはかなわず、彼らの案件はトラブゾンに差し戻された。ハサン・パシャは、クバン川沿岸で起こった混乱の原因はチェルケス人自身にあることを強調して、補償を拒絶した。それにも拘わらず、チェルケス人代表団は黒海コサックがクバン川左岸に侵入しない限り、彼らと共存することを決定した。このような平和的気運の中で、19世紀10年代にルシリユーやド・スカッスィが基礎を築いたロシアと黒海沿岸諸地域との交易は次第に拡大し、ついにはこれに危機を覚えたアナパ総督が通商を禁止したので、ロシアはオスマン政府に対して禁輸解除要請を行われるところまでに至った。これがクバン川沿岸の一時的平和の背後にある事情であった。1825年1月4日日付のある書簡によると、ハサン・パシャに「トラブゾン総督兼アナパ防衛軍司令官」の肩書きがあるが、また「アナパ防衛軍司令官代理」であるアブドウッラーフ・アーの名も見える。アブドゥッラー・アーは、チェルケシアの各地に官吏、武装警官、ムッラーなどを派遣し、スルタンへの帰属を勧め、人質を取り、貢納を徴収した。徴収された穀物はアナパの要塞の蓄えになった。イランに援助を求めたもののガージャール朝にその力のないことを知り、次いでオスマン宮廷に援助を求める旅の途中のチェチェン人タイミーイェフの一行が、1826年5月トラブゾンを通過した時には、まだハサン・パシャはここにいたが、翌月トラブゾンで徴収した兵士とともにアナパに着任し、帰途に就くタイミーイェフをアナパで迎えた(シーア派のシャーにも、スンナ派のスルタンにも相手を選ばず援助を仰ぐのは不思議な気がするが、シーア派とスンナ派を区別しないのは、タイミイェフと交流があったナクシェバンド教団ジャディーディー・ハリーディー・クルダミール派の特徴であった)。本題に戻ると、9月、パシャは多数のチェルケス人有力者をアナパに集め、あらゆる社会的規範はシャリーアに拠らかければならないことを主張した。パシャはチェルケス人社会の内部に立ち入ることはないが、中で決着のつかない問題はパシャに提訴があればシャリーアに従って裁定されると宣言した。長くチェルケス社会混乱の原因であった君侯と農民との身分闘争に関しては、パシャの裁断に従って、シャプスグとアバヅェフでは最終的に君侯(プシー)の称号は廃止された。この結果アバヅェフでは民衆集会が最高権力になっていく。ブジェドゥグでも貴族に対する反抗運動が進んだ。自由農民は神の預言者の指導にのみに従うべきであり、預言者の代理人であるカリフとその役人にのみ従うべきであると主張された。パシャはそのためにザクバン地方に5人のヴァリー(知事)、東端のノガイ人のもとに二人のナワーブ(代理)を置き住民から人質を取った。次に、パシャはシャリーアの規定に基づいて、収穫の10分の1税を導入した。ナトゥハイはこの命令に従ったが、シャプスグは聞き入れなかった。パシャ自身が手勢を率いシャプスグの領域に赴いたが、たちまちに武装したシャプスグ衆に取り囲まれ、止む無くアナパに帰還した。ハサン・パシャは1828-1829年の戦争が始まるのを待たずに帰国したが、シャプスグ人に受けた屈辱に絶えられなかったからであるとも、病気になったからだとも言う。
さて、ソチの人々は、組織的遠征を継続して近隣諸地域と軋轢を深めたが、1826/7年にヴァルダネとサシェの代表者22名はスルタンに忠誠を宣誓する上表を差し出した。署名人は以下の通り。自由農民(トカヴァ)の長老ユスフ、自由農民の長老ハスギレイ、ウズデンのイサク・ハサン、ウズデン・イサク・アリ・ベイ、ウズデンのブレク・ハッジ・イスマイル、ウズデン・ブレク・スルタンクル、ウズデンのメフメッド、ウズデン・ハサン、アル・アブドゥッダイ・メフメッド・エフェンディ家の長、長老ブレク・コイニス、長老ボゴハスィ・アフメド、長老ハーッジ・ハサン、長老イスマイル・トカヴァ、ウズデンのレソ・アリ・ベイ、ウズデン・ホジャ・フセイン、ウズデン・ホジャ・ヘドラグ、ウズデン・ホジャ・オスマン、ウズデン・イスハク・フセイン(文書ファクシミリの署名数とロシア語訳の署名者数は違う)。先ず、署名者の肩書きは自由農民、長老かウズデンである。ソチには君公(プシ)はいないから、社会の上層にあるのは貴族(廷臣)であるウズデンと平民の自由共同体の指導者(長老)である。ウズデンの中で思い当たるのはソチのアブラウ家である。ハサン・アブラウが確認できる。するとブレクはベレゼクとすることが可能で、ブレク・ハッジ・イスマイルとはハーッジ・イスマイル・ドゴムコであろう。その他のウズデンは家名が書かれていないので特定は難しい。長老は自由民(トカヴ、この史料ではトカヴァ)の共同体の指導者であるが、氏族名・村名が書かれていない。シャヘ川の下流には低地のウブイフと呼ばれる人々が住んでいて、1840-60年代そこに長老エブズ・ハシュチシュコ(ハペコ)・ベルゼクがいたが、この書簡の長老ブレク・コイニスはハペコの親族であるまいか。さて、この誓約書には、「オスマン国家とロシアの間に、平和と安らぎが有る限り、国境で暴力を働かず、そうしようとするものが有れば阻止します」と述べている。オスマン側現地当局のロシアに対する平和的態度が明らかであり、現地人をまさにそのように指導しているのである。
ハサン・パシャはチェチェン人の息子と呼ばれているが、パシャ自身は自分の出自について父や祖父がコーカサスの出身者であろうと述べているに留めている。ハサンの娘の墓誌にもハサンの父親については記されていない。現代のチェチェン人はすっかりその気で、彼の名を自分たちの名士録の中に入れているが、パシャ自身は自分の出自をよく知らなかったのであろう。ある大学院生の発表レジメの中に「19世紀のシャミーリの反乱期において、果たして当該地域の住民の中に、ロシア・ソ連が定義した民族区分に合致した民族意識が存在していたのかという疑問を持った。なぜなら、一例をあげてみると、チェチェン人とイングーシ人の名称は、大きな二つの村(Chechen-Aul、Angush-Aul)の名前に由来する。ロシアが征服活動の過程の中で、その名前を取って方言をもとに彼らを「チェチェン人」「イングーシ人」という2つの異なった民族に勝手に分類して出来たものであるからだ」(山本多佳子による)とある。もっともな指摘である。しかし、チェチェンという民族名称はチェチェン人の自称ではないが(自称はノフチ)、すでにイマーム・マンスールの時代、トルコ語の文章では、集団名としてチェチェン(人)、地名としてはチェチェンジャ(国)と記している。蛇足ながら、言語学者ジョハンナ・ニコルス(カルフォルニア大学バークレー校、名誉教授)の説では、チェチェン人(自称ノフチ)とイングーシ人(自称ガルガイ)に、キスト人、ミエルヒ人を加えた4個の民族が、類縁民族集団(スーパー・ネーション)ヴァイ・ナフを構成し、今日便宜上ミエルヒ人をチェチェン(ノフチ)人に加えるようになったが、キスト人をチェチェン(ノフチ)人と呼ぶことはないとしている。しかし、少なくともグルジアにおける言語使用の局面では、通常キストはチェチェン人として扱われている。例えば、IS(偽イスラーム国)の幹部であったキスト人タルハン・バティラシュヴィリは、シリアではアブーオマル・アッシーシャーニー(チェチェン人のアブーオマル)と名乗っている(チェチェン語による局面では不明)。また、ミエルヒ(ロシア語のミャルヒ)人が、チェチェン人であるとする説と、チェチェン人ではなくヴァイナフ民族群に属する別の独立した民族であるとする主張は拮抗し、しかも、この独立の地位をミエルヒではなく、エルストホイ(別名、オルストホイ、カラブラク、ボロイ)に与える主張もある。いずれにしろイマーム・マンスールがオスマン・トルコ語の書面ではチェチェン人と自称していることは確実である。但し彼の言うチェチェンが、現代のチェチェン語のノフチと一致して、カラブラクやイングーシは含まれないかどうか、あるいは逆に、現代的用法のチェチェンと同じでチェチェンの全域を含むかどうかは判断できない。さて、ハサンの出自であるが、新しい研究によると彼の出自はまぎれもなくのチェチェン人で、彼の父祖は18世紀のかなり早い時期にチェチェン東部からアナトリア中部のシェビンカラヒサルに移住したとしている。
青年時代のセフェルベイ・ザヌコ(E.Felitynによる)zen.yandex.ru/media/id/5d500bdfe854a900ae069aea/flagi-nacionalnostei-rossii-vypusk-36-adygi-5df76e76ba281e00b2a011b7
第3節 チェルケス共和国とコーカサス・イマーマト
第1項 アドリアノープル体制
1828年のアナパ包囲戦。チェルケス軍はアナパ要塞東側の高地から降り降りて、要塞を包囲するロシア軍を攻撃するが、撃退される。https://www.europeana.eu/en/item/08547/sgml_eu_php_obj_gr0
10703(「アナパ要塞1829年6月23日」画家ガイスラー、彫師ヴンダー、版元カンペ、レイプチッヒ国史博物館蔵)
1828-9年の露土戦争はイギリスの詩人バイロンが従軍したことでも知られるギリシャ独立戦争(1821-1828年)をきっかけに始まった。この戦争の間、クバン地方ではアナパ要塞攻防戦(1828年6月24日守将シャティルオウル・オスマン・パシャが降伏)を除くと大規模な戦闘は生じなかった。1828年5月2日、グレイグ副提督隷下の26隻の艦隊は、近衛武官長メンシコフ公爵指揮下のからなる上陸部隊が接岸、翌3日ベズクロヴヌイ大佐指揮下のタマン・コサック混成部隊5千人が要塞に接近した。守備隊は正規兵6千人、さらにチェルケス人の志願兵8千人が、アナパ東の高地に待機していた。プシェコ、ノドゥク、サイトゥク、テムリュコ等の部隊だった。アナパの旧領主セフェル・ベイ・ザヌコは手勢と共に城内にいた。趨勢を決める戦闘は28日のオスマン兵千五百人による出城攻撃であった。これに呼応したチェルケス人部隊も背後からロシア軍を攻撃したが、オスマン軍は要塞から引き離されて灯台のある高台から海へ追い落とされた。以後は、6月12日のアナパ総督シャトイルオウル・オスマン・パシャの降服まで大規模な戦闘はなかった。しかし、ロシア軍と現地武装勢力による小規模な衝突は1829年9月2日のアドリアノープル条約締結が過ぎても、直ちには終了しなかった。戦争期間最後の戦闘は条約締結日と同日で、前アナパ総督セイト・アフメト・パシャが、オスマン軍は必ずまた進軍すると断言し、正規兵200騎、大砲2門を率いて、クラスノダル南のプセクプセ川岸へ進軍し、そこから、アバヅェフ、マホシェヴ、エゲリハイエヴ、テミルゴエフ、ザクバンのカバルダ人を糾合して親ロシア派を抑圧した。アフメト・パシャがセラスキル解任後も旧任地に留まったのは対ロシア戦争という大義があったのであるが、それが可能であったのはナトハイの地元出身という地の利があったのであろう。これに続いて9月5日それまではロシア帰順派であったベスラネエイのアイテク・カノコフ公が精鋭500騎を率いてグリゴリポリ屯田村とテミジュベク屯田村の間からクバン川を渡ってスタヴロポリ地方に進軍し、15日ゼレンチュク=テルス川のペチャリヌイ・ブロドで、コサックのヤサウル(百人長)グレチシュキンの部隊60人を撃滅した。これに応じて22日カフカース右翼線司令官アントロポフ少将部隊はテミルゴイのシュマフ・アイテコフ-ボロトコフ公が領有するファルス川の村々を焼き払った。24日同部隊はベラヤ川のマイコプ谷で、同じくテミルゴイのジュンボラト・アイテコフ-ボロトコフ(1836年没)の廷臣に属する二つの大きなアウルを焼き払い、26-27日ザレンチンスキー大佐のドン・コサック部隊もジュンボラトの廷臣が所有する豊かな村を焼いた。アントロポフは26-27日、干し草や刈り取って集めてあった小麦の束を焼きながら、ベラヤ川右岸の下流に戻った。この間、アントロポフ部隊は大きなアウル6ケ村と1万の干し草と小麦の山を焼いた。セイト・アフメト・パシャの作戦はこれで終了し、パシャはプシャドの同族の屋敷に対座した後、遅くとも1833年にはイスタンブルへ帰朝した。
テミルゴイの王侯(1831-1836)ジャンボラト・ボラトコフvk.com/join?act=fb_start&z=photo-133046796_456241986%2Falbum-133046796_00%2Frev ジァンボラトは当時チェルケシアで比類なく声望ある君侯であった。アタリクはアバヅェフのアジ・アジモコフとウブイフのハジ・ベルゼクの2人のアタリクを持っていたのでアバヅェフ衆、ウブイフ衆はジャンボラットに全幅の信頼を於いた。
ロシア側では条約締結の同月、コーカサス軍最高司令官パスケヴィチ将軍(1782-1856年)が、外務大臣ネセルロドを通じて「山地民の帰順あるいは不服従なものの撲滅」に関するニコライ1世の勅裁書を受領した。沿海地方領有が国際的に承認された以上、ロシアは行政的制度を導入してここを実行支配する必要が生じる。ロシア政府はザクバンで軍事拠点の建設を進める一方で、住民に対しては帰順を招撫したが、帰順は順調には進まなかった。それを示す有名なエピソードがある。黒海沿岸線の司令官ニコライ・ラエスキー将軍(就任1839.8.122、生没年1801-1843年)はシャプスグの長老たちをアナパに招聘して帰順を説得した。長老たちは彼を非難し、ロシアが戦争を行う理由を知りたがった。将軍は「スルタンがおまえ達を贈り物として、ロシアのツアーリに与えたのである」と答えた。返答を聞いた。「ああ、やっと、わかった」。一人のシャプスグが近くの梢に止まった小鳥を指さした。「将軍、あの小鳥を差し上げますよ。持って行って」!これで協議は終了した。この意味は、我々も我々の祖先も全く自由であった。いかなる時もスルタンには服属していなかった。それ故に彼の命令を聞かず、どのような献上品も納めなかった。スルタンは我々を支配していなかったから、我々を譲り渡すことはできない。また、我々はそのほかの誰にも属する気持ちはない(Dalkhan Khozhaev)。チェルケス人独立運動という言葉は、ソチや沿黒海地方、クバン左岸地方の人々にとっては、全く正しくない。彼らはもともと独立していて、戦闘は単に侵入者を排除しようとしているだけであるからである。
アドリアノープル(エディルネ)条約は沿黒海地方の人々に大きな衝撃を与えた。オスマン政府はクバン川と黒海岸に挟まれる地域を条文表現上は放棄、実際にはロシアに割譲したのであるが、住民の多くはスルタンの(あるいはカリフとしての)権威をこそ認めてはいたものの、自分たちがスルタンの臣民であるとは思っていなかったからである。ロシアが同条約締結によって自動的に沿海地方を獲得したとする見解は国際法上も問題があるとする主張もある。状況は1829年11月、サラフル・メフメット・アーがスルタンの勅書を報じてチェルケスに現れ、チェルケス人は1830年3月から5月の間にイスタンブルに伺候して、スルタンに臣下の礼をとるようにと命じ、以前の居住地に住み続ける者はロシア皇帝の臣民であるという勅命を下達したことであきらかになった。移住希望者のためにはスジュク・カラ(ノヴォロスィースク)に用船を差し向けることが約束された。領土割譲にともなった住民の移動は、クチュクカイナルジ条約後も実施され、クバン川左岸のノガイ人や今日もトルコに多いクリミア・タタル人はその時の移住者である。逆にアドリアノープル条約の後、東アナトリアのエルズルムのアルメニア人は撤退するロシア軍と共にロシア領に移住した。サンステファノ条約後にはアジャリアのグルジア人イスラム教徒は西アナトリア現ボル県等に移住した。これはロシアとトルコとの間だけでなく、ロシアとイランとの間でも取り決められた。サイト・アフメト・パシャの破壊活動とロシア軍の膺懲作戦の後、1829年12月、ピキアガ川(場所は特定できないし、この地名が文献に現れることもまれである。私見ではマイコプ近くのラバ川支流ギアガ川がこれであると思われる)で開かれた集会(参加者不詳)でロシアとの戦闘継続が決されたのはこの布告を受けてのことであろう。チェルケスではテミルゴイのシュマフ・アイテコフ-ボロトコフ公のように、スルタンの示した期日までにロシア帰順を決断したものがいた一方、多くの集団は去就決定までに時間がかかった。詳細は不明のようだがこのあと、アホス、スッコ、アダグムでも集会が行われた(ファティマ・ハジベキエヴァ)。
今日のギアガ川anapacity.com/krasnodarskiy-kray/reki-krasnodarskogo-kraya.html/reka-giaga
黒海に面したアナパやノヴォロシースクから西コーカサス山脈の間を抜けてクバン川流域の平原に出るところにクリムスクがある。2012年に集中豪雨被害があった所であるが。1831年初めにここに近いアダグムでナトゥハイとシャプスグの集会が行われた。参加者の多くは、スルタンがチェルケシアを放棄したことを信じていなかったが、ナトゥハイのセフェル・ベイ・ザノコ(ザン、ザノッコ)とユースフ・エフェンディの説明によって納得することができた。セフェル・ベイはアナパ陥落後、一時的身柄拘束から解放され、各地を遍歴後帰国していたもので、国際事情には通じていたものと思われる。セフェル・ベイの父ママットギレイはアナパ周辺の領主であり、商船数艘の船主でもあった。1782年のアナパ要塞建設はママットギレイの進言であったという。セフェル自身もアナパ要塞強化に関する建白書をオスマン政府に提出している。タマン半島からクバン河口に至る小集団ヘハゴフ(シェガコフ)のプシ(王侯)ザノコ家の人であった。クチュク・カイナルジ条約以降、チェルケシアの諸公はロシアとの関係を強めたが、ザノコ家もその一つで、セフェル・ベイも、ロシア・オデッサのリセで学び、第22狙撃兵師団に士官候補生として勤務した。ポーランド人外人部隊のワピンスキ(国際的にはラピンスキーとして知られている)によると`、セフェルはドン・コサック・アタマン、プラートフの前衛部隊に配置され、1813年のライプチヒ諸国民戦争に参加、パリ入城軍の一人でもあったと記している(ポット)。任地で脱走後、イスタンブルヘ逃亡、その後エジプトで生活していたと言われる。1828年落城の際にはまでアナパにいて、ロシア軍の捕虜になった。解放後アナトリアに移住したが、1830年に再び帰国して、祖国の独立運動に身を投じた。18世紀ロシアで人気作家であった、マルリンスキーの小説アマラト・ベク』のモデルである。セフェル・ベイの目的は部下を率いて直接ロシア軍と戦うことではなく、国外にチェルケス人独立運動の支持者を見いだすことであった。ベイはイスタンブルでスルタンに謁見を給い善処を誓願し、カイロに赴いて副王(ヘディーヴ)メフメット・アリに働きかけたと言われている。ユースフ・エフェンディはカバルダ人で、トラブゾンの総督にあてた請願書が残されているが、1834年トルコ最初の人口調査によると、チャナッカレのアイヴァチクの船乗りのバラタックに30家族70人(女性は数えない。記録で「妹」とあるのは全て男性である)の中に「エフェンディ・ユスフのム息子ラスル」がいた。集会に出席したのはこのユースフ・エフェンディではなかろうか。なお、この集団中多くがベイ、エフェンディ、ハッジの称号を持っている。彼らの旅は最も悲惨なものではなかったと思われる。
2012年の洪水後のアダグム川meduza.io/feature/2017/07/04/spasennye-napolovinu
オスマン政府は公然とチェルケス人を援助することを望まなかったので、対ロシア政策は住民の意志に委ねられた。アダグム集会において貴族の多くはロシアに服属することに傾いていたが、逆に農民はロシアと戦うことを望んだ。この決定は集会後ただちに実行された(2月16日)が、イヴァノ・シェブシュスコエ柵塁(今のクラスノダルのクバン川を超えた南方)攻撃に参加したのはやはり農民だけであった。次いで同じく、1831年、現カラチャイ・チェルケス共和国南部の大ゼレンチク川流域にあったアバヅェフの領域において、アバヅェフ衆の長老達の招集で全民族集会が開催され、当面の状況について議論が行われた。この集会は、スルタンへの庇護申請却下の条件のもとで開かれたが、少数のロシア帰順派と大多数の反ロシア派に分かれた。この会議を主催したのはセフェル・ベイ・ザノコだった。ベスレネイ人からカゼムベク・カノコヴ、アイテク・カノコヴ、アバジン人からルーヴ家とビベリドヴ家が誓約した。しかし、ベスレネイの別の公シャロフ・カノコヴはロシアに従った。既にスルタンに臣属する誓詞を提出していたカラチャイ人は反ロシア派に加わった。出席者一同は司令官に亡命カバルダ人のアスランベク・ベスラネヴ(アタジュキン)を選んだ。この政治同盟は参加者の内訌を禁じ、団結して共通の敵に当たることとし、ロシア官憲や住民との接触、個別交渉を禁じて、厳粛な誓いをたてた。誓いは毎年更新されることになったが、これはナトゥハイのカラブラトコ・シュパコの発案であった。このような種族を超えた政治的会議は、古くはモズドク要塞建設反対のためのカバルダ諸侯会議にテムルゴイ、ベスレネイなどの諸侯も出席したように古い歴史を持つものであった。
大ゼレンチュク川nunataka.ru/reka-bolshoj-zelenchuk/カラチャイ・チェルケス共和国の南部を北に流れるプスイシ川とクイズグイチ川はアルフイズ村の近くで合わさって、大ゼレンチュク川になり、東側を並行して流れる小ゼレンチュク川等とともにクバン川合流する。
ゼレンチュク会議の決議によって抵抗派の決意は固まった。彼らは頻繁にクバン川右岸のロシア領に遠征し、コサック村や駅逓を襲撃して家畜を奪い、住民やコサック・軍人を捕虜にしたりした。このような非正規の軍事的略奪者をロシア人はアブレク(複数形は、アブレキ)と呼ぶが、この時代の最も有名なアブレクは、シャプスグの貴族シェレトルコ家のトゥグゥジュコ・クイズベチ(1777-1840)だった。彼は1810年から1839年までの長い間、数多くの戦闘に従事したが、1834年には2度にわたってロシア軍を撃破した。最初はわずか700人の手勢で、ロシア軍1万4千の部隊を破り、二度目は900人でさらに多くのロシア軍に勝利した。また1837年にはたった一人でニコラエフスキー要塞に潜入し、捕虜と武器を鹵獲した。ロシアは何度も懐柔を計ったが、クイズベチはどんな有利な条件にも耳を貸さなかった。彼の名はレールモントフ『現代の英雄』の中にもみえる。「右翼の方のシャプスーグの中に、カズビーチとい命知らずがあって、いつも真っ赤なベシュメートを着て、わが銃火の下を悠々と乗り廻し、弾丸が近くをうなって通ると、ばかていねいに頭をさげる」(『現代の英雄』「ベーラ」中村白葉訳)。右翼というのはロシアからコーカサスに向かって右側、コーカサス戦線の西側である。ベルが彼を「チェルケスのライオン」と書いて以来、このキャッチコピーで知られている。しかし、クイズベチの英雄的活動にも拘わらず、クバン川下流左岸におけるロシア軍の地歩は強化されていった。クイズベチ自身も1840年2月28日、戦闘で受けた傷がもとで死亡する。
クイズベチの肖像(ジェームズ・ベルのスケッチ)https://uploadwikimedia.org/wikipedia/
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第2項 ウブイフ人の参戦
ロシア政府は、チェルケス人社会全体の自主的帰順があり得ず、また地域全体の武力制圧も困難であるなかで、チェルケスをオスマン帝国の経済的影響から切り離す方針を採用した。その理由は第一にチェルケス人は奴隷等をトルコに輸出し、必需品の塩、戦争に不可欠な武器、火薬、鉛を輸入していた。奴隷を輸出しなければ、火薬は輸入できなかった。他方、ロシアはチェルケス人との交易に期待するところがあった。18世紀半ばにフランスのクリミア領事レイスネルはチェルケスから既にロシアの領土になっていたタマンとスラヴャンスクー=ナクバンに持ち込まれる商品は、80-100,000ツエントネル(100kg)の羊毛、100,000巻のラシャ、200,000着のブルカ(外套)、50-60,000本のズボン、5-6,000着のチェルケス服、500,000枚の羊皮、50-60,000枚の生皮、200,000そろいの雄牛角、100.000枚の狼毛皮、50,000枚のテン皮、3,000枚の熊皮、200,000本の猪の牙、蜂蜜製品では、5-6,000ツエントネルの良質蜂蜜と50-60,000ツェントネルの低品質蜂蜜、50-60,000樽の蜜蠟などで、交易で栄えた市街の繁華なことは、1830年代のスペンサーの記述では、アナパには400軒の店舗、20軒の大きな薪店、16件のパン屋があり、住民はチェルケス人を除くとトルコ人、アルメニア人、ギリシャ人、ジェノア人の他、ヨーロッパ人はポーランド人(50人)、ユダヤ人(8人)、フランス人(5人)、英国人(4人)等であった。毎年大きい商船300艘が入港し、亜麻布の取引だけに限っても3,000,000ピアストルの商品を買い付けるが、そのうち2,000,000ピアストルはイギリス商人によるものであった。ロシアとの取引は僅か30,000ルーブリにしかならない(トラホ『チェルケス人』)。ロシア・カフカース軍総司令官パスケヴィッチは海軍艦船による臨検に加え、アナパからスフムに至る海岸線に監視線を建設することによって、沿黒海地方とトルコとの交易を遮断して同地方をロシアの経済圏に組み込む構想を抱いた。併せて、このような遮断はオスマン帝国の沿黒海地方へ対する社会的、宗教的、政治的影響を弱めることができるであろうと期待された。
専制ロシアの対応は民主的チェルケスの態度決定よりも迅速であった。1830年6月6月、スフム要塞に銃剣とサーベルで武装した2千人のロシア軍正規兵部隊が集結し、一部は船でガグラに向かい、残るものは陸路ピツンダへむかって進軍した。この作戦は「アブハジア遠征」と呼ばれている。ところがロシア軍は現地の地理に暗く、現地ジケティ人の抵抗は激しかった。これにウブイフ人の援軍も加わり侵入者を攻撃した。ロシア軍はピツンダからボンバル、ガグラまでは前進したもののそこで停止した。1825年に行ったアブハジア遠征で大敗北を喫し、千人規模の遠征隊のほぼ全員を失ったばかりであったウブイフ人とジケティ人は8月、改めて新設のガグラ要塞を攻撃したが奪取することはできなかった。これ以後もウブイフ衆は何度もガグラを攻めたが奪取することはできなかった。
海上から望むガグラ要塞。1873年。海岸の白い建物が要塞である。グリゴリー・チェルネツォフ(1802-1865)、ニカノル・グリゴリエヴィッチ(1805-1879)兄弟(https://agrba-timyr.livejournal.com/6866.html。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nikanor_Chernetsov._Gagra_Fortress.jpg
及びhttps://tr.wikipedia.org/wiki/Nikanor_Çernetsov#/media/Dosya:N._Chernetsov._Gagra_Fortress.jpg
ウブイフ人にとって喫緊の脅威は海から来るものであった。沿黒海地方北部では1831年2月18日のスジュク湾とゲレンジク湾に軍事基地を設ける旨の勅命によって、黒海艦隊とベルフマン中将麾下の4,138人の 歩兵部隊が派遣され、7月5日にはスジュク湾を確保、翌7月28日にはゲレンジクのトルストイ岬にネムティノフ中尉の陸戦隊が上陸した。湾周囲の岩山に陣取るチェルケス人の狙撃を艦砲射撃で威圧しつつ陣地を形成した。これによって、前年コーカサス軍総司令官パスケヴィッチ伯爵が命令していた海岸における全船舶臨検体制が前進した。しかし、パスケヴィッチはこれを待たずにポーランドに転出し、コーカサスには二度と戻ることはなかった。後任はローゼン男爵であった。黒海艦隊は臨検を進め、拿捕の際は商品を焼却し、乗員を逮捕した。抵抗する場合は殺害した。このような衝突は実際に1833年5-6月ヴァルダンの近くで起こった。1833年7月付、ローゼン長官あての報告ではハーッジ・イスマーイールは、ガグラ、ピツンダ、ボンボラ、更にその先の地域に遠征するために海陸の兵士を集めており、60人乗りのガレー船30艘を用意していた。しかしこの遠征は実行されなかった。ウブイフ人のガレー船は大きいものでは、140人の乗員を収容し、大砲を搭載していたので、ロシアの戦闘艦と戦うこともできた。クリミア出身のアルメニア人海洋画家イヴァン・アイワゾフスキー(ホヴァネス・アイヴァズャン)の作品の中にも、ウブイフ人のガレー船を描いたものがあるという。ツァーリのコーカサス総督であったヴォロンツオフの手元に残った文書の中に、主要なチェルケス人(ナトゥハイ、シャプスグ、ウブイフ)船長の氏名を羅列した報告書があるが、この中には、ゴゲン・ウマルの氏名も記されている。ゴゲン氏については既に述べた。スルタン・アブデュルメジド一世の皇妃ヴァリデ・スルタン・ペレストゥの実家である。この遠征はガグラ、ピツンダ、ボンボラ、更にアブハジア中央部を攻撃することを意図していた。ウブイフ人とジク人は1834年船でピツンダを攻撃した。また、1835年再びガグラに大攻勢をかけた。北(ガグラ段丘)、西(ジョエクヴァラ渓谷)および海から(150人が小型ガレー船で)の三方からガグラを包囲の後、内部に突入し、大砲2門を捕獲、交戦後退却し、帰途ブズイブ川でコサックの馬群を鹵獲した。帰投に際してはガグラ近くに千人の防衛部隊を置きロシア軍の追撃を阻んだ。ロシア軍はアブハジアでの活動をガグラ防衛に止め、主力を沿海地方北部に集中し、1834年9月のヴェリヤミノフ将軍自らが指揮したクバン川とゲレンジク川の間の調査遠征、1835年アビン川のアビ柵とアダグム川のニコライ柵塁の建設、1836年プシャドとスジュク・カレの偵察遠征を実施した。ヴォルシロフは「1831年から1836年までの期間はロシアの公式文書の中でウブイフの情報がみられないが、ロシア軍司令部はコーカサスの沿岸では、南方のガグラ要塞と北のアナパとゲレンジク防衛を除いて何らの攻撃的遠征もおこなわなかった」と述べる。ロシア軍の攻勢はクバン川左岸では1833年に、沿黒海地方では1937年に始まる。
ウブイフ人は海岸部でのロシア軍事施設の危険性を熟知していたが、ガグラと同じく急を要したのは北であった。クバン川左岸ではエカテリノダル(クラスノダル)の南正面のシェブシュ川のロシア軍陣地を巡ってナトハイ衆シャプスグ衆と現地ロシア軍との応酬が続いていた。シェブシュ川流域は肥沃な耕地牧草地でナトゥハイ、シャプスグ、アバヅェフ3地方の境界であった。1830年7月、チェルケス人は兵士8,000人規模の攻撃をかけたが、陣地を奪うことができなかった。8月、ロシア軍はこの陣地を恒久化してモストボエ=アレクセエフスコエ、イヴァノヴォ=シェプシュスコエ、ゲオルギエ=アフィプスコエの3要塞を建設した。その秋、シャプスグ人(4,000人)、ナトハイ人、アバヅェフ人らは、モストヴォエ=アレクセエフスコエ、シェプシュスコエ要塞を攻撃したが、奪取することはできなかった。この年、パスケヴィッチはこれまでのカフカース監視線(司令官エマヌエル将軍)を4つに区分し、右翼(アナパから沿黒海地方の南端、東はクバン川まで)、中央(クバン川、テレク川支流マルク川沿いにアルドン哨所まで、テレク川沿いにモズドクまで)、右翼、ウラジカフカス戒厳部に分けた。右翼はベスクローヴォヌイに替わってベルフマン少将(1831年転出。後任はザヴォドフスキー)、中央部はフラロフ少将(後任は1835年からザス将軍)に託された。「この状況を見たシャプスグ、ナトゥハイ、アバヅェフは、山地で最も優れた歩兵であるウブイフをロシア人との戦いに招いた(シチェルビン)」。この後もクバン川下流では両岸のロシア人陣地やロシア帰順派のチェルケス人に対する攻撃が続き、上流でもクバン川本流と支流のラバ川の間で両軍の応酬とロシア軍による村落掃蕩戦が続いた。
1833年8月、セフェル・ベイの書状を携帯してイスタンブルから帰省していたヒゼのウブイフ人アリ・ベイ(オスマン軍大佐)が逮捕されたが、アリはプシャドに集合した200人の代表者の前で「シャプスグとナトゥハイの長老たちに、トルコ軍の大佐である彼らの兄弟である同胞が既にアナパ地方のパシャに任命されていているので、アナパもゲレンジクもまもなくトルコに引き渡されることを信じ、ロシアに従わず、何のかかわりも持たないようにと力説した。このアリは在イスタンブル、ロシア大使館発行のヴィザと国際法上十分に効力のある証明書を持っていたので、釈放後サンクト・ペテルブルグに赴き在露トルコ全権大使ハリル・パシャの随員に加えられた。ハリルはスルタン・マフムト2世の婿、グルジア人のダマト・ギュルジュ・ハリール・リファト・パシャであるが、在任期間は1829-1930年既でに帰任しているので、1833年に大使であったのはレールモントフが描いた肖像画が残るムシル・アフメト・パシャであろう。このアフマト・パシャもチェルケス人であった。セフェル=ベイの偽情報配布が功を奏したのだろうか、クバン左岸におけるロシア軍軍事施設建設の進展と沿黒海地方におけるロシア軍の進出と封鎖作戦の展開の中で、1834年(月は不明)には対ロシア強行派であるアバヅェフ、シャプスグ、ナトゥハイに新たにウブイフ人も加わって諸民族代表者会議が開かれ、内訌を中止して共通の敵と戦う誓約が行われた。さらに誓約した者達は統一部隊を編成することが決められ、ロシア官民との交流や軍司令官との個別交渉は禁止された。誓約は毎年更新され、違反者には罰金が科された。主導者はナトハイの貴族カラブラト・シュパコであった。1834年、ザス将軍の掃討作戦を被ったラバ川流域のベスレネイ、テミルゴイ、アバジン等の貴族的チェルケスは壊滅状態にあった。イスタンブルで暗躍していたロシア諜報機関の本国宛て報告ではこの年約370戸のチェルケス人とカバルダ人がアナトリアに移住と述べられているが、その理由はここにあったのかも知れない。クバン川左岸地方の東部ではロシア軍が優勢になりつつあり西部のナトゥハイ、シャプスグ、アバヅエク、ウブイフの民主的集団だけが残されていたのだった。
ゲオルギエフスク要塞。wikimapia.org/15221158/ru/Крепостная-стена#/photo/1085924、
https://tkdmsg.wixsite.com/commemoration/kopiya-shablon-7等。ロシア・スタヴロポリ地方南部の要所で1777年アゾフ・モズドク防衛線の要衝として建設され、1802-1822年間、カフカス総督府の中心となった。1783年に東グルジアのカルトリ・カヘチア王国をロシアの保護国化さする条約が結ばれたのはここである。景勝地ピチゴルスクやミネラルヌイエヴァダに近い。
ウブイフが山脈の北側クバン上流左岸の作戦に参加するようになったのは、この協定の時期に近い30年代半ばである。1834年2月ザス将軍はチェルケス人マホシェフ集団のトラブガイ村に武装集団が集結しているという情報を入手、騎兵800人、歩兵7中隊、野砲8門で、同村を攻撃破壊した。3月には同様の規模の兵力で亡命カバルダ人の村を攻撃、月末にはアバジン人キズィルバク集団ジェムブラト・クルイチェフの村を破壊した。5月には亡命(ハジャラト)カバルダ人ムハンマド・アタジュキン、ジェムブラト・クルイチェフ、アルスランギレイ・ベヤルスラノフ(アスランベク・ベスレネイ)に率いられた混成部隊100人の中にウブイフ人が入っていた。この集団はロシアに帰順したアバジンのドゥダルコ村を襲撃し、捕虜40人に加え多数の牛と羊を略奪したが、クバン川上流左岸の支流ゼレンチュク川を越えたところでコサックの追撃を受けて戦闘になり死者12人を出した。それでも、戦利品の半分は持ち帰った。翌月にもウブイフ人を含めた400人の混成部隊が、クバン川監視線を攻撃したが、司令官ザス将軍の迎撃を受けてギオルギエフスク要塞で撃破された。6月、ザスは出陣してアバジン・バラカイ集団の二か村を破壊した。村人は捕虜になるか死亡するかした。引き続き歩兵500、騎兵1,000、野砲4門からなる大部隊を組織して亡命カバルダ人のアンゾロフ村を攻撃焼き払った。さらにラバ川上流でベスレネイ人、アバヅェフ人と戦った。この際ロシア帰順派のベスレネイ、アバヅェフ、ノガイは同胞と戦うことを強いられた。11月、住民は難攻不落と考えていた山地で最も豊かなアバジン人タモフ集団の村を攻撃略奪後焼き払った。逃げ遅れた住民は死亡した。12月、ザスはアバヅェフ人の貴族ジャンチャト家の勇士アリー・フルツイゾフの村を攻撃。多数の家畜が略奪されたが村は残された。これを見ると1834年にはチェルケス人武装集団の活動は全体的には低迷していたように見える。クバン川下流域ではクイズベチの最大の武勲はこの1834年にたてられたとされているが、ロシア側史料の扱いではむしろ小さい。
第3項 自由チェルケシア
1831年の大ゼレンチュク集会で主導的立場にあったセフェル・ベク・ザヌコは、集会の後の1832年春に200人の代表団を率いてイスタンブルに向かった。セフェルは出発にあたって、彼の帰国までロシアとの戦闘を止めないことをコーランの権威によって同胞に誓わせた。セフェルは全チェルケス人の代表を称してオスマン政府や西欧政府の外交官に軍事援助を要請したが効果はなかった。アドリアノプル条約締結まもなくのことであり、更にロシア・トルコ友好条約であるフンキャル・イスケレスィ条約締結を前にしていた。オスマン政府はロシアとことを荒立てるようなことはできなかった。案の定1832年11月6日にはロシア大使からの抗議があったので、政府はセフェルに帰国を命じ、旅費としてセフェル・ベイに5千クルシュ、同行のメフメット・エフェンディに3千クルシュを支出している(1832年5月から1333年5月の間の公文書)。結局、武器弾薬はこっそり送り届けるという内々の約束はされたが、公的な援助は得られなかった。失望したセフェルはアナパ出身者が多く住むと言うサムソンに落ち着き、故郷の人々と連絡を交わして武器弾薬の調達をおこなった。1834年ここでイギリス大使館員スコットランド出身のデイヴィト・アーカートに遭うことになる。このアーカートがセフェルの協力でチェルケシアに行くことになった。こう表現すると何やら運命的な出会いを感じさせるが、この前の年1833年にもセフェル=ベイはチェルケシアに潜入した英国海軍大尉ライオンスに同胞に宛てた書簡を託していた。ライオンスは在コンスタンチノープル英国大使ジェイムズ・ポンソンビー卿(在任1832-1841年)の支持のもとチェルケシアとクリミアの情報収集を試みようとしていた。大使自身はチェルケシアは独立すべきであり、その場合英国は独立を承認すべきであるという考えを持っていた。アーカートはライオスとともにナトゥハイのアスタガイに150人の代議員が招集された大会で、チェルケシアの独立宣言が行われるように工作した。後に英語で公表される宣言の文章はアーカートが用意したもののようであるが、ファイジスははっきりとこの宣言文は捏造であると主張している(オーランド・ファイジス、染谷徹訳『クリミア戦争』上下、白水社、2015年、上、131-137頁)。独立宣言文は1836年1月アーカートの個人誌『ポルトフェリオ』に掲載されたので、ヨーロッパで広く知られることになったが、採択された決議文の体裁ではなく、対外的アピール文である。またこの集会においてアーカートの意匠によって独立の象徴たるべき国旗(サンジャキ-シャリーフ)12星3矢箭旗が決められた。但し最近チェルケス人の歴史家ホトコはこのデザインがカバルダ王家の軍旗に由来するもので、セフェル=ベイが翻案したものだと主張する。また大会の名においてアーカートが面識を得ていたと主張するイギリス王ウイリアム4世(1765-1837年)に宛てた請願状が認められた(少なくともアーカートは王の主席秘書官ハーバート・テイラー卿の知人であった)。ライオンスのコンスタンチノープル帰還後、サファル=ベイは禁を犯してタタルバザルジュクを離れ大使館に赴いた。当然大使にも面会したであろう。
セフェルベイ・サヌコ(1845年画Miner Kilbourne Kellogg1814-1889 https://upload.wikimedia.org/
wikipedia/commons/thumb/d/db/Circassian_prince.jpg/800px-Circassian_prince.jpg
1834年のアーカートの滞在は短期間であって、チェルケス人にどのような影響を与えたかは不明である。出版された宣言文に付されたアーカートの紹介ではチェルケス人のあいだに独立宣言に関する一致が見られたのは1835年であったが、ロシア側スパイの報告によると、1835年2月の初めより、ナトゥハイとシャプスグは川筋ごとに20-30人の名士が集まり、ロシアとの和戦について協議することになっていたが、そこにセフェル=ベイのもとから、前年スルタンの庇護が可能かどうかを問い合わせるために送った使者が帰還した。アダグムで開かれたこの両種族合同集会で、使者は春か夏には援軍を乗せた艦隊が到着するので、ロシアと和睦しないように伝えた。またアバヅェフとも協議するように勧告した。この時点でのナトゥハイおよびシャプスグの立場は、チェルケス人はロシアは勿論それ何人の支配下にもなく、これからもないという「宣言」の堂々たる主張からはいささか離れている。また、セフェル=ベイはアバジンの「住民、エフェンジ達、ハーッジ達、平民達」に宛てても勧誘の書簡を送って、アバジンにもイスラムのもとに団結するように勧めた。
自由チェルケシア国旗https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5a/Circassian_flag.svg
、prlib.ru/en/node/441991等。
1836年この旗がチェルケシアに将来された。ロシア密偵による報告によると、1836年6月、アダグムでロシアとの和睦について協議していたナトゥハイのもとにイギリス人が現れ、英国王とエジプトのパシャはスルタンの承諾のもと援軍を送る用意があることを伝えた。英国人はアビンにナトゥハイ、シャプスグ、アバヅェフ、アバジンの代表者を招集し、承諾の請願書と使節を送ることを進めた。これと前後して、3流れの旗がもたらされた。アーカートは1835年にイギリス大使館の一等書記官に採用されているので、旗はアーカートの親族ヴェッラ・スチュワートが持参したのであると言われる。この英国人の中にはエドモンド・スチュアートがいて、サンジャク・イ・シェリーフが掲揚された瞬間を「長く待たれた国旗を見て数千のサーベルが抜き放たれ、空に掲げられ、一斉に長い喜びの歓声が信じられないほど多くの人々から発せられた。いまだかってそのような熱狂、祖国を守ろうとする決意があらわされたことはなかった」と表現した。
「アビン河岸における同盟を結んだチェルケス諸侯の会合」1、1836年。(''Meeting of the Confederated Princes of Circassia on the Banks of the Ubin.1836.'' Drawn on Stone by F.Seexton form a drawing by Edmund Spenser.In Edmund Spencer,''Travels in Circassia,Krim-Tartary &c.:Including a Sream Vayage down the Danube from Vienna to Constantinople,and round the Black Sea, London:Henry Colbum,1837,vo.2,p.270(A,Jamoukha, The Circassians:A Handbook,London and NY:Routledge,2001,p.64による)。ただし、また、この地名はアビンと読む。https://www.facebook.com/A.Jaimoukha/phot
os/meeting-of-the-confederated-princes-of-circassia-on-the-banks-of-the-ubin-1836d/812433978800868/
「アビン河岸における同盟を結んだチェルケス諸侯の集合」(2)(''Gathering of the Confederated
Princes of Circassia on the Banks of the Ubin.1836.'' Drawn & engraved by John Bartholomew(1831-1893),Edingburgh.In ''Caucasua & Cromea with the Northern Portionsnof the Black & Caspian Seas.IX.(with)Crimea according to Huot % Demidoff. Drawn & Engraved by J.Bartholomew,Edinburgha.(with)The Caucasus according to Prof.Dr.Karl Koch, with additions from other Sources by Augustus Petermann,F.R.G.S. Engraved by G.H.Swanstone'',LondonEdinburgh & Dublin:A.Fullarton & Co.,1872(Jamoukha,op.cit.)
https://scontent-sjc3-1.xx.fbcdn.net/v/t31.181728/10556947_812433978800868_3958883857021637992_
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しかし、人々の高揚はそこで終わった。「同盟した諸侯たち」は、彼らの第一人者を選ぶことができなかった。ナトゥハイには既に廃止された王侯に子孫(セフェル=ベイがその一人であった)がいたが、ナトゥハイとシャプスグは常に争っていた。アバヅェフの社会には王侯はおらず貴族の力が強かった。アバジンには王侯身分があったが、セフェル=ベイの召喚状には君侯身分のものには充てられていなかった。また、チェルケス人の各種族を表象するという上9個、下3個、計上下2段12個の星は、「ナトゥハイ、シャプスグ、アバヅェフ、ブジェドゥク、テミルゴイ、ハトゥカイ、マホシュフ、ベスレネイ、バシルバイ、テベルダ、ブラキ、カラチャイ」であったという。これは現在ロシア連邦アドィゲイ共和国国旗で振り当てる地域名とは別の問題である。12集団の中にはトルコ系山岳民のカラチャイとテベルダ(種族名ではなく地名、住民はカラチャイ人とアバジン人トラモフ集団)を挙げるが、アバジン民族全体の名は無く、その一部である平地のベシルベイと山地のバラカイが挙げられている。アバジンは既に政治的集団としては機能していなかった。チェルケス人の歴史家サミル・ホトコは、この12集団の中にカバルダが入っていないことに疑問を呈した。カバルダ3王家の内、アタジュキン家の9人、カイトゥキン家の15人、ミソストフ家の5人がクバン川左岸の自由チェルケシアに移住しているにも関わらずである。しかし、亡命(あるいはクバン左岸の)カバルダ人がこの連合に加わると、ザヌコ家よりはるかに家柄が高い彼らが政治的主導権を取るであろう。そうするとセフェル=ベイは相変わらず「在コンスタンチノポリス・チェルケス大使」のままに留まるであろう。1831年の大会で共通の軍事指揮者に選ばれた大カバルダのアスランベイ・ベスレネイ・アタジュキン公は健在であるが、アスラン=ベイの指揮者選出についてはアバヅェフの中に異論があったし、アスラン=ベイがシャプスグ人のいわゆるアブレク、クイズビチのような戦果を挙げていたとも思えない。
1836年のこの新しい同盟において中心的存在であったのは国旗保管者で、その任に当たったのは、ナトゥハイとシャプスグのカーディーであったハジオコ・ムハンマド・アリー・エフェンディ(ムッラー・ハジオコ)であった。ロングワースは彼を「ロシアはネッセルドルフを誇り、イギリスはパーマストン。チェルケシアは自らのハーッジ・アリー」と持ち上げ、ロシアもハジムコをオスマン政府の外相レシト・パシャ(レイス・エフェンディ)に例えて讃えたが、要はハジオコは君主でも政府首班でもなく、外務大臣である。エフンディはナトゥハイ人で、もともとはナトゥハイとシャプスグのカーディ-(イスラム法廷判事)であった。アーカートの自由宣言はチェルケシアの国家性については述べないが、アーカートの自由チェルケシアには元首も国軍司令官(1831年にアスラン=ベク・ベスレネヴ・アタジュキンがそうであったように)もその他の国家機関もない、自由な地域である。1836年の世界でこのような地域が独立国家(我々の時代にそれを国と呼ぶが、このような「国」と「地域」の分け方には筆者は違和感を持っている)と認められることが可能であったのだろうか。アダグムの集会はスチュアートの大げさな叙述にも拘わらず、集会の性格は勿論集会そのものが報告されていない。そもそもこの集会が対ロシア抵抗戦争に与えた影響も未知である。またそもそもチェルケス人に与えられたオスマン軍、イギリス軍、エジプト軍の進撃が全くの絵空事であるから、援軍を前提とするチェルケス軍の決起はありえない。それではセフェル-ベイとアーカートが企てた計画は雲散霧消となる。それを防ぐ唯一の戦術はデマである。1837年2月8日付けコンスタンチノープル発信で前述のウイリアム4世の宮中秘書官(セクレタリー)ハーバート・テーラーに宛てられた、テーラーの書記官(クラーク)ジェイムス・ハドソンから、の報告書で、チェルケシア海岸で大砲74門級のロシア軍艦の捕獲、アバジン衆によるスタヴロポリ占領(共に1835年11月)、セフェル=ベイの行動に対するロシア政府からのオスマン政府への抗議に関する報告である。軍艦捕獲とスタヴォロプリ占領は全くの誤報であるが、情報源はもともとハドソンの調査団の一員であったアーカートかセフェル=ベイであろう。あるいは大使館自体が関わっていたのかも知れない。目的はチェルケス工作の成果を捏造するためであろう。戦争が外交の一手段だとすると、デマもまたそうであろう。しかし、この報告は秘密扱いのままで一般に公開最近されることはなかった。1836年、セフェル=ベイはロシア政府の抗議をうけたオスマン政府によりエディルネ近くのタタルバザルジュク(現タタルバザルジュク)へ追放された。彼の住まいは様々な人々が来訪し、チェルケシアに渡航しようとする旅行者はベイに推薦状を求めたので、あたかもチェルケス大使館のようであったという。
スチュアートはこの集会の決定事項については述べないが、イギリスの独立支援はチェルケス人を勇気づけたであろうか。「1836年山地民のコサックに対する敵対行動は夏に始まった(シチェルビン)」のであるが、集会に参加した数千の戦士が直ちにロシア軍に攻勢をかけるようなことはなかった。やっと10月にクイズベチに率いられた700人のシャプスグ人がクバン川を渡ったが、ロシア軍に撃退された。12月にクイズビチの手勢は200人に減少した。翌1837年2月には千人の部隊を編成することができたが、戦術目標は曖昧であった。4月には歩騎1,615人野砲3門のでアバヅェフ地方に進入したコサック部隊に対してクイズビチは手勢とアバヅェフ人併せて千人の集団を編成して、撤退するコサックを追尾して戦いが行われた。この後は大規模な戦闘はなかった。
アーカートとチェルケス人達この写真は撮影場所撮影年代不明だが、アーカートと二名のチェルケス人が七ぼう星と三日月のオスマン帝国勲章を佩している。アーカートは1836年にオスマン政府から勲章を与えられているから、写真はこの年撮影のものであろう。https://imrussia.org/images/stories/Society/Circassian_Issue/ubykhs.jpg
一方クバン上流およびラバ川流域方面では、1836年にハッジ・ドゴムコ・ベルゼクの指揮下の一団がロシアに帰順していたアバジン人バシルバイ集団の集落を攻撃した。1837/8年の冬にはラバ川流域で王侯1名を含む帰順派チェルケス人を捕虜にとる事件があった。1838年㋇にはビアルスラン・アルハソコ・ベルゼクがロシアに帰順した集落を攻撃した。ニコライ1世がラバ川に沿った監視線設置を裁可するのは1837年であったので、そのころまで、独立派チェルケス軍は帰順派を攻撃することが多かった。ハーッジ・ダガムコ自身は、直接ロシア軍に関わらない略奪的遠征をを否定していたともいわれるが。これらの戦いは小競り合い、あるいは略奪的遠征の規模であって、独立を賭けた一斉蜂起とまでは言えない。装備においてもチェルケス人はまだ野砲を持っていなかった。攻撃に際しては敵に接近して初めて旧式銃で撃ち、サーベルで戦ったので、犠牲が多かった。チェルケス人の蜂起は援軍を前提とするものであるが、この時までにチェルケス人が得たものは国旗だけであって、頼みの援軍はまだ一人たりとも来ていないからである。勿論その援軍が来ることはない、セフェル・ベイとイギリス人工作員たちの嘘であるから。いやそうではなかった。まもなく援軍は一人、二人と上陸する。
このようにアビン大会は大規模戦の開始には繋がらなかったが、そもそも、『クバン・コサック軍史』著者シチェルビンはこの集会について知らないし、ロシア公文書でも「コーカサス総司令官ヴェリヤミンから、総司令官ローゼンに宛てられた報告書(1836年6月29日付)に「ナトハイ人のもとで集会がもたれ、我々との和睦が話し合われた。そこにいたイギリス人がナトハイ人に強いてこの決定をひっくり返させた。イギリス人はナトハイ人に彼らの政府とエジプトのパシャ(ヘディーヴのムハンマド・アリーのこと)の援軍を約束し、ナトウハイ人、シャプスグ人、アバヅエフ人を招いて、援軍請願書の提出を進めた」とある。この集会では同盟の代表者の選出や組織についてもロシアに対する具体的軍事行動も議決されなかった。
また、更に重要であるのはホトコは指摘していないが、同盟の12種族の中にはウブイフが含まれていないことである。ソチのヴァルダネに上陸したスチュアートの旅行記にもローゼン男爵宛ての上の報告書にもウブイフの出席については述べられていない。ヴォルシーロフが「ウブイフ、シャプスグ、ナトゥイハイ、ジケティの代表者がアダグムに」集まったというのは、どのような根拠によるのでであろうか。またスチュアートがもたらした3流のサンジャク・シャリーフはナトゥハイ、アバヅエフのためであった言う。つまり、ウブイフは自由チェルケシアの中にはないことになる。しかも、国旗中の貴族制9、民主制3の12の種族に振り分けれている12の星は、トルコ系のカラチャイやアブハズ系のアバジンが入っているのにウブイフの名はない。もしウブイフが入っていれば、民主制民族を示すという下段の星の数は3個ではなく4個でなくてはならない。史料中にウブイフ招聘されたという記述がなく、サンジャク・シェリーフが三本だけでウブイフ人のものがなかったのは当然であろう。ソチのための国旗は翌年のジャームズ・スタニスラス・ベルの再訪をまたなければならない。
この年11月、イギリス人商人ジェームズ・スタニスラフ・ベルは100トンの塩を持ち船ヴィクセン号でチェルケシアへ輸送、検疫所のあるアナパではなく、外国商船の入港が認められていないスジュクでロシア海軍巡洋艦に拿捕されたが、船内からは大砲6門と大量の火薬と武器が発見され、国際問題に発展した(「ヴィクセン号事件)。反ロシア主義者アーカートの目論見どおり、英露関係は険悪化したが、事件は武力衝突には至らず1837年4月に終息した。またアークハートは本国に召還された。この事件は独立派やそれを支援するヨーロッパ人にとっては格好の宣伝材料になった。1837年にはこのベルが再度チェルケスに潜入を試み、4月ソチのスバシに上陸、チェルケス国旗とイギリス国王とエジプト・ヘディーブがチェルケス人を庇護するという文面の偽のイギリス国王勅書を見せた。ベルがイスタンブルへ使節を派遣することを提案すると、各種族代表は直ちにこれを受け入れ代表団を組織、一行は8月イスタンブルへ到着した。タタルバザルジクで代表たちと会見したセフェル・ベイは翌年黒海沿岸に武装部隊を派遣すると約束した。一方代表団は1838年と1839年の二度ウイルヘルム4世に替わったヴィクトリア女王に援助を請願したが効果なく、二度目には在コンスタンチノール(イスタンブル)イギリス大使館はセフェルに封が切られていない請願書を突き返し、英国政府はチェルケス人を支援しないと通告した。
ところが1837年5月、別のイギリス人、ロンドン『タイム』紙の記者ロングワースがプシャドに現れ、やはり偽の勅書を見せ、援軍を派遣するのでロシア服属を思い止るように主張した。ナトゥハイは歓迎し、彼をベルが滞在していたゲレンジクに送り届けた。また、エジンバラのスコットランド歩兵連隊の制服を着たジェファリー・ナイト(ナーディル・ベイ)が大量の武器を持って現れた。1837年にはベル、ロングワ―ス、更にセフェル・ベイの使者ナゴ・イスマイルも加わったので、沿岸地方の人の戦意は一層高まった。この結果チェルケス人は、ゲレンジクのロシア軍ヴェリアミノフ将軍に使節を送り、英国王がロシアとチェルケスの仲介を行うので、直接の和平交渉は行わないと通告した。更に同年イギリス船で軍事物資とセフェル・ベイの推薦状を持ったイギリス工兵将校モリング大尉とイッド少尉がソチに到着した。両名はヴァルダネで必要な調査を行った後、大尉はイスタンブルへ帰還、少尉は西コーカサス各地で採取された鉱物見本をもってイギリスに帰国した。
アーカートの宣伝戦は、独立を求める小民族を助けたいと感じるヨーロッパの人々のロマンチックな信条や時にはロシア軍の過酷な掃討戦のために生死の境を彷徨う人々に同情する人道主義に訴えたが、彼が愛するチェルケシアもトルコも奴隷制が残存する地域であった。アーカートはチェルケス人の独立を支援すると同時に奴隷制を擁護するというジレンマを抱え込むことになる。イギリスでは1807年奴隷法(奴隷売買の禁止)、1827年奴隷貿易を海賊行為とする判断の採用、1833年奴隷制度廃止法成立と、奴隷制に反対する機運が高まり、外国政府に対しても奴隷制の廃止を勧告するキャンペーンが続けられていた。それはベルやロングワースとても同じだが、ジャーナリストのロングワースはこの問題を実に簡単にすり抜ける。1837年ゲレンジュクに近いプシャドに上陸しカラバラトコ-シュプコ家の客になったロングワースは、17歳の女奴隷を購入することになった。ある時、彼女が逃亡し、数日後戻って来る事件があった。「予、個人としては予がこの奴隷の解放が彼女の身分的自由を保証することになるのであれば、それが彼女自身の願いによるもので彼女の部族からも承認されるものであれば、彼女を自由にすることに躊躇しなかったであろうとだけ公言するべきであろう。これらの条件が満たされないのであれば、彼女自身がまず最初にこれに反対するであろう。彼女はコンスタンチノープルへ送られることを望んでいたので、そしてまさにこの目的で夫に離婚させたのである。別言するともし買い主によって放棄されると、彼女は再び彼女の部族の処分に任され、予は予自身の騎士気取りによって得られるものは7000ピアストルを失ったという満足であろう」。「コーカサスではすべて女性は身分に関わらずが財産であると考えられており、国内にでも国外にでも売買の対象であるのである」。「いまのところは売買によって奴隷になっても、彼らの状況は疑いなく改善されないが、チェルケシアではなくトルコで結婚することが、彼らにとって唯一の自由への門なのである」。ロングワースの真意は不明である。トルコを旅した多くのヨーロッパ人旅行家は、チェルケス人には家族を売る習慣があるとか、乙女達は嬉々として売られていくなどと書き立てたのだが、一面的評価であるように思われる。現代の歴史家デイヴィット・キングは、「コーカサスは戦乱と疫病に苛まれていた。多くの人々は存在の基盤そのものが崩壊しつつあった。ロシア領に逃散するのは生きのびる為の選択の一つであり、帰る村も家も失った人々は奴隷として外国に売られることを選んだ。人にはそれぞれの事情がある」。実に簡略かつ明快な答えである。1840年に出版されたロングワースと同年出版のベルの黒海東岸滞在記が、アーカートの計画にどのような展望をもたらしたかは不明だが、アーカート自身は外務省を辞してして政界に転じ、1847-52年には下院議員を務めた。しかし首相や外相を務めたパーマストン子爵からは望むようなの対ロシア強硬政策を引き出すことができず、子爵を「ロシアのスパイ」とまで酷評したが、やがて政界を去った。
第4項 黒海海岸要塞線の建設(1837-39)と基地阻止作戦
ロシアと直接境界を接していなかった海岸地方の人々は、30年代末までロシアの圧迫に抵抗するという気運に乏しくまた、ジハードに没頭するような宗教的熱狂もなかった。チェルケス人支階層上層部の一部だけが、イスタンブルに基盤を置きスルタンの承認と英仏の支援によって独立運動をおこなった。その指導者はアナパのセフェル・ベイであった。別の言い方をすると北のスジュクとゲレンジク、南のガグラに要塞を建設し、海軍艦艇のパトロールによって違法な船舶の取り締まりは全く不十分なものであった。トルコや現地人の商船は依然として武器弾薬や雑多な生活必需品を持ち込み、奴隷やその他の商品を積みだした。拿捕された船舶の積み荷は売買される商品の取引額の全体を示すものではないが、商品の内容に関してはある程度の説明になるであろう。1834年2月22日拿捕されたトルコ船には、3人のプシャドに住むナトゥハイ人が乗り込んでおり、アリ(30歳)とその弟は成人女性1人少女1人少年1人と若干の去勢牛の皮を所持、もう一人の商人シュパト(35歳)は種々のチェルケシアの商品を積み込んでいた。船主であるトルコ人の所有する15歳の奴隷が発見されたが、彼は前年スタヴロポリ周辺で誘拐された牧童であった。このトルコ船は一本マストの小舟であったと思われるが、拿捕されるのは大型の帆船であることもあった。1831年ソチ川河口沖でブリグ船「オルフェウス」号の臨検を受けたイギリス船籍の「アドルフォ」号には67人のトルコ人乗客がおり、内23人は女性、6人は子供で、彼らは全てヴァルダネに向かっていた。積み荷は種々の商品であったが、火薬6樽が含まれていた。火薬と鉛は沿海地方で常に必要とされたが、勿論軍事物資とは言い切れない。数においても1839年でも200隻の船が沿海地方とアナトリアの間を通っていた(1839年の推計)。更に1833年頃からはイギリス人工作員の活動が加わったが、ロシア政府の現地当局は、彼らの上陸をほぼ正確に察知しているのである。1836年の段階で、アドリアノープル条約でオスマン帝国が領有権を放棄したクバン川左岸と沿黒海地方の内、ロシアが実効支配していたのは、アナパ、スジュク、ゲレンジク及びクラスノダルのクバン川対岸に建設した数か所の要塞だけであった。ロシア、オスマン両政府にどのような秘密の取り決めがあってもそれは国際的には認知されず、放棄された地域はあくまでも無主地であって、ロシアが実効支配できないのであれば、独立あるいは第三国による占領もあり得るのである。皇帝ニコライ2世は、一方ではクバン川左岸東部では、ラバ監視線の設置、他方黒海海岸では主要な湾に軍事拠点の設置を命じた。1837年2月、皇帝ニコライ1世はこれまでもクバン川より西、ラバ川に沿った軍事監視線の設置案を勅済した。現地責任者ヴェリヤミン将軍に伝達された勅令は、帰順した現地民の定住に更に決定的処置を講じること、クバン川とラバ川の間の現地住民を種族ごとあるいは集落個別にラバ川のコサック屯田村に登録することであった。例えばローゼン総督は亡命カバルダ人をウルプ川と大ゼレンチュク川の間の低地に住まわせた。海岸部ではロシア軍はすでに北はゲレンジクに近いドゥブと南のガグラに根拠地を持っていたが、1836年10月ニコライ2世早急に現地民が海を通じて外国との交流を遮断することを命じた。この結果1837年から1839年までにこれまでのものを含めアナパからスフムまであわせて17の基地が建設された。
コーカサス海岸要塞図(クレパスチに要塞、フォルトに堡塁、ウクレプレニエに対して柵塁の訳語をあてた)ロシアの海岸要塞は北から南にアナパ要塞とガグラ要塞の間に、ラエフスキー柵塁(メスカガ川河口、1839年)、ノヴォロスースコエ柵塁(ツエムス川河口。要塞施設建設年以下同1838年)、カバルディンスコエ柵塁(1836年)ゲレンジクスコエ柵塁(1836年)、ノヴォ・トロイツコエ堡塁(1837年)、ミハイロフスコエ堡塁(1837年)、テンギンスコエ(1838年、シャプスホ川河口)、ヴェリヤミノフスキー柵塁(トゥアプセ川河口、1838年)、ラザレフスキー柵塁(プセズアプセ川河口。1939年)、ガロヴィンスキー堡塁(シャヘ川河口。1839年)、ナヴァギンスキー柵塁(ソチ川河口。1838年)、スヴャトイ・ドゥフ堡塁(ムズィムタ川河口。1837年)である。その場所は次の地図に書き込まれてある。
要塞線は更にトルコ国境へ向かって南に進み、現在のアブハジアのガグラ、ピツンダ、スフミに軍事拠点が建設されていた。コーカサスを巡る戦況でソチが広く知られるようになるのはこの時代からであるが、同時にロシア要塞を巡る対立が、同じくその住民をも有名にした。ロシア軍は1830年7月、スフミから海兵隊を送り送ってガグラに上陸させ、同時に陸上部隊を海岸沿いにリフヌイ、ピツンダ経由でガグラに向かわせた。
沿黒海地方のアナトリア交易の継続とイギリス政府工作員の相次ぐ潜入によって、ロシア政府はより厳密な国境管理の必要性を実感させた。海岸線の確保に着手した。1836年にはコンスタンチノープルからのみで80隻の商船が入域し、1839年1年間でも軍需物資を運び込んだ約200隻のイギリスおよびトルコ船の出入を規制するためである。また、トルコ産に替えてロシア産の生活必需品を売り込むことは、経済的にも政治的にも理にかなっていた。先に述べたように南ではガグラまでを1830年に確保、北ではアナパ、スジュークに続いて、1831年にゲリンジュク駐屯部隊を置いていた。残る空白部分に軍事基地を建設して、海岸線の完全封鎖を計画したのである。計画は1836年に実行に移された。この間の事情は、エドムンド・スペンサーの『チェルケシア、クリミア・タタリア等、ウイーンからドナウ川を下りコンスタンチノプルまでおよび黒海を一巡する蒸気船の1836年の旅』(ロンドン、1837年)、ジャイムス・ロングワースの『チュルケス人の間で1年』(ロンドン、1840年)とスチュアート・ベルの『チェルケシア日誌1837年、1838年、1839年』(ロンドン、1840年)に詳しく述べられている。
ロシア軍アドレル上陸援護および輸送艦隊の配備(https://gazetasochi.ru/sites/default/files/
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アドレルに上陸したロシア軍営舎
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%D0%9B%D0%B0%D0%B3%D0%B5%D1%80%D1%8C_%D0%BE%D1%82%D1%80%D1%8F%D0%B4%D0%B0_%D0%B1%D0%B0%D1%80%D0%BE%D0%BD%D0%B0_%D0%A0%D0%BE%D0%B7%D0%B5%D0%BD%D0%B0_%D0%BF%D1%80%D0%B8_%D0%BC%D1%8B%D1%81%D0%B5_%D0%90%D0%B4%D0%BB%D0%B5%D1%80_19_%D0%B2%D0%B5%D0%BA.jpg
ソチの沖に現れた最初の上陸部隊を乗せたロシア黒海艦隊は、1837年6月7日アドレル沖に投錨した。船団はエスモント海軍少将麾下の軍艦7隻と輸送船9隻から編成され、上陸要員はスフミに集結していたシンボルスキー(アンドレイ・ミハイロヴィッチ、1792-1868)少将部隊の正規兵4千人で、グルジア連隊の8個中隊、チフリス連隊の6個中隊、ミングレリア連隊の6個中隊、コーカサス砲兵大隊の一個中隊(16門)から成り、更にグリア、イメレチア、ミングレリア各警察隊が加わっていた。作家アレクサンドル・ベストゥジェフ-マルリンスキーは少尉補としてグルジア連隊第二擲弾兵中隊に所属し、旗艦であったフリゲート艦アンナ号に乗船していた。ここにはカフカース軍参謀総長ヴォルホフスキー将軍だけでなく、カフカース軍総司令官フォン・ローゼン男爵が乗船して自らが督戦にあたっていた。上陸地点はムズィムタ川河口からすぐ北の地点のリヤシュ、2014年ソチ・オリンピックスケート競技場のあたりで、戦線は海岸線3.5キロメートルに及ぶと想定された。上陸部隊第一陣が艀に乗り込むと同時に、艦隊砲は一斉射撃を開始した、地元のアレドバ氏が海岸部に設置した防御施設は艦砲射撃によって一瞬の内に破壊されたので、ソチ側守備隊はムズィムタ川右岸の森林の中に撤退した。ベストージェフ-マルリンスキー少尉補はこの第一陣中にあった。参謀総長ヴォルホススキーはミングレル連隊第四中隊および警察部隊とともに森のはずれに陣取った。ソチ防衛軍は深い茂みの中をロシア軍戦列に接近し、頻りに発砲した。猟師から徴募したアルブラント大尉のてき弾兵部隊は森林の中に突撃したが、この中に不運なベストゥージェフ=マリンスキーがいた。イメレチア警察隊ツェレテリ中佐も一緒であった。ソチ兵はこの攻撃を受けて集落に撤退したが、追撃すると犬の鳴き声を聞いたので、近くに集落があるがあることを知ったアルブラントは、ベストゥージェフ-マリンスキーに兵士2名を付けて、司令部に伝令に走らせ、指示を仰いだ。ベストゥージェフ=マルリンスキーは指令を受けた帰路、茂みの中で敵から2発の銃弾を浴びた。ベストゥージェフの死体は見つからなかったが、この戦闘に加わっていたハサン・ベイなる人物の証言では、数日後近くの村であるムッラーが殺されたが、そのムッラーのもとでベストゥージェフの指輪とピストルがみつかったという。上陸地点リヤシュにはキレカ、アバザ、バンチェリプシ、ウチュガ、ヒシュホリプシ、カタ、ジャンホト等の集落があった。上陸部隊第二陣はミングレル連隊の3個中隊で、アルブラント部隊の救援に急ぎ、更にチフリス連隊5個中隊が前進して森からソチ兵を後退させた。最後にシンボルスキー将軍が残余のグルジア連隊の部隊、砲兵中隊とともに上陸し、設営を開始した。上陸地点の確保とほぼ同時、1837年7月18日に建設が始められた要塞は、初め聖霊(スヴィヤトイ・ドゥフ)要塞と命名されたが、後にコンスタンチノフスコエと改名された。要塞は海岸に立ち、函館の五稜郭を思わせる五芒星形で各芒に砲台が設けられ、どの方向からの攻撃にも死角なく反撃することができた。
ソチ上陸作戦実施中のロシア軍(スチュアート・ベルの旅行記挿絵)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/31/Sochi_foundation.jpg/700px-Sochi_foundation.jpg
ロシア軍の次の攻撃目標はソチ川河口左岸であった。1838年4月、先回のアドレル上陸作戦同様、これも作戦基地はスフミ要塞であった。部隊長シンボルスキー少将以下の陸軍上陸部隊のミングレリア狙撃兵連隊の2個大隊、エリヴァン騎銃連隊の3個大隊、コーカサス砲兵大隊の第一中隊と山砲中隊は、1838年4月1日集結を完了した。ついで同月6日までに作戦に投入されるアルチューコフ(フィヨードル・ゲラシューモフ、1779-1851)副提督隷下の黒海艦隊艦船9隻、イメレチア、グリア、ミングレルア警察部隊が到着し、さらに後日ミカエル・チャチュバ(シェルヴァシヅェ)公が麾下のアブハジア警察部隊とともに到着した。シンボルスキー少将は、アルチューコフ副提督とともに帆船コルヒダに乗艦・航海し、上陸地点の実地調査を終了し、あらかじめ上陸地点をソチ川河口左岸に決定していた。同月8日、上陸部隊は乗艦を開始、翌日には上陸要員輸送用にオデッサでチャーターした商船三隻、10日タマンから馬料を積んだ輸送船も入港した。同月11日艦隊はソチを目指して一斉に出奔したが、同月12日、風待ちの為にアドレルに停泊、13日早朝アドレルを出帆し、午後3時ソチ沖に投錨した。ソチ側はアドレルの先例に鑑みて、ソチの他の港にも強襲上陸があることを予測することができ、スフミ港における人員、艦船、物資集結の状況を把握することができたであろうし、アドレル出帆の状況も事前に報告されたであろう。しかし、ソチ指導部には上陸地点を正確に把握することはできなかった。上陸は、ソチ、ママイカ、ヴァルダネ、あるいはシャヘ川河口も予想可能であった。軍議ではママイカ上陸を予想する強い意見があって、主力は古い城塞が残るママイカに置かれた。結局海岸9箇所の陣地が作られ、各陣地には海岸に面して丸太や岩石のバリケードが設けられた。特にママイカ海岸の防護は堅固であった。ソチ川河口の防衛陣地では5千人程の歩兵と騎兵がロシア軍の上陸を待ち構えていた。この時点ではママイカに展開していた部隊は、ロシア艦隊の陽動作戦を恐れて、その場に留まっていた。1838年4月13日午後3時、ロシア艦隊は投錨して、直ちに上陸が開始され、同3時30分、艦隊砲に射撃開始の命令が出された。陸地から渚まで設置されていたバリケードは砲撃によってすべて破壊された。ソチ兵は後方へ引いた。午後4時砲撃が終了したとき、上陸強襲部隊第1陣千6百人はもう海岸に達していて、上陸地点前方右の現在灯台および教会がある高台に向かって前進を開始した。艦砲射撃を受けて、ソチ川の岸沿いや現在のコンサートホール辺りから3キロメートル程南へ続くトルコ谷の左肩へ退去していた守備隊は、近隣の集落から武器を手に続々と集まる増援に気を取り直して反撃に出た。そのころになって、ママイカから駆け付けた精鋭部隊も戦闘に加わり、アブラウ氏の兵士が、現在のソチ駅北にある標高150メートルほどの岡、バタレイカ(お台場)山を下ってきた。ここにはアブラウ氏の墓地と十字架が掛かった巨大な樫の神木が茂る聖所アブラウヌイハがあったので、アリー・アフメト・アブラウ公は死守を命じていた。ロシア軍の前方には、海岸からのソチ川からも1.5露里の場所にアブラウ家の村アブラウ・アウル(或はアブラウ・クアジュ)があり、海岸からも石灰で白く塗られた家屋が望まれた。さらに海岸から2露里ほどの山陰にソチ川両岸に跨ってソチプス村があった。ソチ川右岸の河口近くには、支流のシュラビスタガ川沿いにチズマ氏の村があり、ソチ川に沿ってウブイフ族の村々が点在し、海岸から10数キロメートルの地点の上流には、現在プラスチンカ村がある場所にハーッジ・ベルゼクが住むムイトウイファ村があった。ここより低い場所にはフンヅァ氏とその家臣ツィツヴ氏の村もあった。また、海岸に流れ込む小河川ソチャパ川上流左岸には、アルラン氏の村があった。一旦は今灯台のある丘を占領したシェルヴァシヅェ公のアブハジア警察部隊はソチ軍の猛攻にあって川岸に押されたものの、ミングレリア狙撃兵連隊の第3騎銃中隊が丘の上に山砲1門を上げ、第7および第8中隊は前進して、お台場山麓の、ソ連時代にピオネール宮殿があった場所まで進んだ。この集団にはグリアおよびイメレチア警察部隊が参加しており、全体の指揮を執っていたのはコクム大尉であったが、大尉はレフ・トルストイ『セヴァストポリ物語』に登場する人物である。ソチ川の流れに沿って前進したロシア軍左翼は、第9狙撃兵中隊に援護されていた。この時、上陸部隊第2陣1,500人の一部として前進したミングレリア狙撃兵連隊第二大隊が戦闘に参加した。すでに上陸していたシンボルスキー少将は右翼が苦戦しているのを見て、同大隊から2個中隊と山砲1個小隊を応援にやった。手元には同大隊の2個中隊が残った。それにも拘わらず、第二騎銃中隊はソチ兵に圧倒されて、森林の中に山砲を遺棄して撤退した。少将は台地の確保の為にエリヴァン騎銃連隊から2個中隊を前進させ、これに軽砲2門をつけた。これによって、ソチ兵の反撃は阻止された。こうして、4月13日の戦闘は3時間で終了した。ロシア軍は死者31人、負傷者177人、ソチ軍は戦死者20体、捕虜3名を残した。コーカサス人は戦友の遺体は持ち帰って家族に引き渡さなければならないので正確な戦士者数は不明である。4月14日早朝、ソチ兵はソチ川両岸の高地頂上に集結しており、更に歩騎の大群がママイカ地区との分水嶺になるシャフギレイ(現在の名称、ヴィノグラードナヤ)山を越えてソチ川に下り、右岸の楔形の高地、現在リヴィエラ公園がある辺りに集結しつつあった。これはママイカに布陣していた部隊であった。14日の戦闘は13日の戦場で行われた。ロシア軍戦闘部隊は確保地の拡大を図ると同時に、役夫に要塞建設の資材の準備を始めさせた。ソチ側はロシア軍散兵線を恐れ、ロシア軍陣地を蹄鉄状に包囲して役夫を標的にした。物資の積み下ろしは続けられていたが、この日は波が強くなり、作業は半日で中断された。15日、要塞建設のための整地が進められた。ソチ兵は近くの高地から1日中射撃を続けたが、ロシア軍確保地は徐々に拡大し、要塞建設予定地点をソチ兵の射程距離外においた。同月15日、アリー・アフメト・アブラウ公の使者が戦死者収容交渉の為に来着した。シンボルスキーはこれに同意するとともに、さらにアブラウ公自身が来訪して休戦の交渉にあたることを求めた。使者はソチ側の死者が多大であること、多数の援軍が集結中であることを理由に肯定的な返事をしなかった。
16日、ベルゼク氏のケレントゥフ・ベルゼクがハーッジ・ベルゼクの名代として現れ、ソチ兵の遺体引き渡しを求めた。ケラントゥフはウビイフ人は山地民大集会の開催を準備しており、ロシア人との友好を拒絶し、ロシア人と売買を行わない誓約をし、ソフトウェアの保証として相互に人質を取るために近隣種族の代表者達の到着を待っているところであると述べた。その一方でケラントゥフは、ウブイフ、ジゲティ、シャプスグはロシアに服属する必要があることを予測している、ただ、まだ、人々はそこまで追い込まれていないと感じていて、何か彼らにとって有利な状況によって、時間的猶予を与えられれば、もしかすれば、現状を維持できるかもしれないと望んでいると表明した。彼はまた13日の戦いでウブイフ人は大きな損害を与えられたという情報を確認した。彼は軍営を去り際に彼自身は沿岸部のアブハズ人すなわちジゲティ人有力者と血債を抱えているので、彼自身も家族一族も縁者であるアブハジアの支配者ミハイル・シャルヴァシヅェのもとに行くかもしれないと述べた。将軍はロシアに降伏できる要件を示した書状を一族に読み聞かせるように勧め、ケレントゥフも承知した。ベルゼク家はアレドバ家に血債があったことはよく目にするが、そのことであろうか。ただ、ベルゼク家の養い子であるミハイルもまた攻撃軍の中にいたが、ケレントフは知らなかったのであろうか。さて、将軍が託した書簡の返事は意外なものであった。「貴職はアドリアノポリス和平条約によって、我々の土地が帰国に与えられたというが、これは理にかなったものではない。我々は太古よりなんびとの奴隷でもなかった。今後そうなるようなことがありえようか。我々の断固たる返答はこのようなものである。我々は貴国の命令には毫も従わない。卿等はチェルケス人の国にある砦を放棄して、クバン川の向こうに行かなければならない。そうすれば我々もむこうへは行くまい。その時は、もし我々が望めば、貴国と友好的に過ごすことができるであろう。書簡中、貴職は我々に人質を出すことを望み、我々の上に長官を置くおくことを望んだ。しかし、誰が我々の長官たりえようか?誰が我々に命令することができようか?貴職は海岸の土塊で大莚をものにしたと誇っているのなら、なおさらである。以後我々は貴職の元に交渉役を送ることはない。貴職が送られることも無用である」。さて、シンボルスキー将軍に宛てられた書簡は、いつ書かれたのであろうか。17日のケレントフの弱気な口調とはあまりにもかけ離れている。1839年7月にゲチで開催された集会では、この返書同様ロシアに対する強硬意見が主導的であった。
ソチ兵は勇敢に戦い続けたが、強力な火力に守られたロシア軍陣地には近づくことができなかった。戦線は膠着したが、ロシア軍の陣地構築は進んだ。同月23日、ロシア軍はアレキサンドリア要塞の起工式をおこなった。この翌日の総攻撃に失敗したソチ軍は、5月9日、ロシア軍から鹵獲した大砲を台場山に引き上げて、6フント砲弾を打ち込んだが、直ちに要塞砲の反撃を受け、直撃弾によって大砲は破壊され、それも奪い返されてしまった。これまでの戦闘ではロシア軍の行動は砲台山南斜面に限られていたが、6月10日、ロシア軍は山の西側を川沿いに前進して、ソチプセ村を破壊した。ロシア軍18番の焦土作戦を実行したのである。ロシアはソチを自国領、その住民を帝国臣民であると主張しているのは勿論であるが、戦闘員と非戦闘員を区別をしない点は、200年後の今日でも変わっていないと思う。翌日アリー・アフメットはシンボルスキーに使者を送って、村と果樹園を破壊しないことを請願した。皇后の名前にちなんだアレキサンドリア要塞は後にナヴァギンスキーと改名された。
ロシア軍上陸後のソチの海岸(アレクサンドリア要塞真横に停泊するのロシアの艦隊1839)
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画面中心より左側の岡が、ロシア軍要塞である。
ソチ南部占領作戦がスフミを基地にする部隊によって実施されたと同様に、市北部はスジュクに基地を持つ集団によって行われた。ラエスキー(ニコライ・ニコライヴィッチ, 1801-1843)将軍(陸軍中将)は、1837年黒海沿岸線第一集団司令官に任命され、翌年スバシ上陸作戦を決行した。現ソチ市北西部である。この作戦には画家アイワゾフスキーが同行していた。「上陸作戦は1838年5月12日開始された。17隻の軍艦および14隻の輸送船は海岸に突進した。そこには巧みに馬を乗り回している山地民の騎兵と歩兵が見えた。ラザレフ黒海艦隊副提督(ミハイル・ペトロヴィッチ)は上陸を命じた。全舟艇が降ろされると、軍艦は一斉射撃を始めた。250門の大口径の大砲が絶え間なく砲弾を発射し、破裂音と爆音が響き渡った。弾丸は地面をずたずたにした。幾百年の樹齢の木々がまるで、サーベルで着られた蔓草のように散乱した。しかし、山地民は物陰に隠れて射ち続けた。そこで、新しい合図が出された。三千人以上の上陸部隊が、万歳と喚声をあげて岸を目指して突進した。アイワゾフスキーはフリーデリクスと一緒のボートにいたが、片手にピストル、片手に紙と絵道具を入れた折り鞄を握りしめていた。ほとんど並んで、長身で体格のいいラエフスキーが肩に当てるようにしてサーベルを持ち、パイプをくわえて、船首に立ち誇ったボートが進んでいた。傍らに副官プーシキン大尉、詩人アレクサンドルの弟レフ・セルゲイヴィッチ(1805-1852)がいた。ラエフスキーのボートは岸についた。他のものも続いていた。6千人を下らない山地民が石や木の陰に匍匐していた。彼らはロシア兵を近くに引きつけてから射撃を始めた。アイワゾフスキーは水兵と一緒にボートから飛び出し、森に向かって走った。アイワゾフスキーはフリーデリクスから離れなかった。近くで、大きな万歳の叫び声がし、その瞬間、フリーデリクスはうめき声をあげ、ぐらついた。アイワゾフスキーはとっさに彼を支えた。中尉は負傷していた。アイワゾフスキーは彼をボートまで連れて行き、本船まで付き添った。負傷した戦友を軍医に引き渡し、画家はそのボートで岸に引き返した。海岸には死者が横たわり、森の中からは鬨が響いてきた。テンギン連隊の数個大隊が敵を側面から銃剣で攻撃したのだった。戦闘は長くは続かず、攻撃に混乱したシャプスグは逃走した」。アイワゾフスキーは早速、画用紙と絵道具を取り出してスケッチを始めた。彼が捕虜になったシャプスグ人を素描していると、一人が近づいてきて、スケッチを取り上げ、仲間に見せた。アイワゾフスキーは通訳を介して、彼と話をした。
「おまえは何をしている」?
「見ての通りだ。絵を描いているのさ。俺がおまえ達の捕虜になったら、俺を画きたいとは思わないかね」?
「いや、つまらないことだ!おまえが、仕立屋だったら、仕事をするなとは言わないさ。でも、つまらないことさ」。
画家は敵の捕虜が彼に対して何の敵意を持っていないようなのに驚いた。そこで、彼らがなぜロシア人と戦い、ツァーリに降伏しないのか質問した。
「異教徒のツァーリが兵隊を大勢持っていることはおまえの言うとおりだ。しかし、おまえ達のツァーリが金持ちだったら、なぜ、我々の貧乏な生活を羨んで、我々が、穏やかに自分達の痩せた山に黍を撒く邪魔をするんだね」。
画家は黙した(ヴァグネル及びグリゴリヴィッチ、72頁)。
スバシの強襲(アイワゾフスキー画)1
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スバシの強襲(アイワゾフスキー画)2
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スバシの強襲(アイワゾフスキー画)3
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翌年ここにガラヴィンカ要塞が建設されると、黒海艦隊は直ちに次の要塞建設の為の武器と必要物資を積み込みこんだ。積み込み作業中、一団の地元民がラエフスキー将軍を訪問した。次の上陸地点がどこかという彼らの質問に、将軍は豪胆にもプセズアプセ河口であると答え、要塞はどこに建設予定であるかも詳細に教えた。ソチ西部のラザレフスキー区の海岸である。7日夜、陸風が吹き始めたので、艦隊は錨をあげて出帆し、翌朝にはプセズアプセ川河口に到着した。ここは広い浅瀬になっていた。副提督フルシチョフは沖合300メートルの、浮きによって目印を付けていた地点に投錨した。上陸第一陣は全体の指揮をグルゴリエフ海軍一等大佐、右翼を海軍二等大佐ヴルフ、左翼を海軍大尉パンフィロフが執った。上陸用舟艇に荷下ろし中、ラエフスキー将軍は上陸地点の再点検をおこなった。プセズアプセ河口は左岸が海岸の丘に迫っており、左岸側が広く開けていた。しかし、ここに何回も来たことがある大アブハジアの君侯ビアルスラン・イナルイパの報告によると、海岸の砂利の浜辺に沿って、海への出口の無いかなり深い長さ1キロメートルほどの溝がある。これは河口の北の山から流れおち、河口北側平地に流れ出ていた。この湿った溝にそって樹木と深い灌木の茂みが生い茂っていた。この溝が右岸上陸の妨げとなっていた。艦上から望むと、河口の高台、今の教会山の辺りには、現地人の大群が犇めいており、多数の騎兵も混じっていた。山の背後にも広い右岸の平野を目指す現地民の大群が集まっていた。彼らは、右岸の広さ、要塞建設予定地、また、戦列艦隊の位置からして、ロシア軍は右岸に上陸すると決めつけていた。しかし、将軍と第一陣前線指揮官コツェブ少将は右岸の地勢と防御部隊数が多いことを考え左岸に上陸して、そこで全部隊および砲兵隊の上陸を待って、右岸に途河することを決定した。敵の右岸から左岸への移動は艦砲射撃下には困難であると思われた。右岸正面に下されていた上陸用舟艇は、折からの北風を背に受けて左岸に向かった。海岸に沿って一列に横に並んだ戦列艦隊左翼は上陸部隊通過後砲撃を開始した。戦列艦隊右翼の15分の援護射撃後、強襲部隊は予定地点に上陸した。チェルケス連合軍は急いで右岸から左岸へ渡河を始めたが、河口正面に乗り入れたロシア軍平底船からの砲撃によって前進は妨げられた。左岸に布陣していた若干の山地兵の一部は左岸背後の岡の茂みに隠れた。右岸の山地兵は戦列艦隊左翼の艦砲射撃を避ける為に大回りして左岸に廻った。上陸部隊前衛集団は左岸の高地を占領、山砲を引き上げて砲撃を開始した。ロシア軍はソチ防衛軍主力がこの高地に向かったのを確認し、突然撤退して山を下った。同時にオリシェフスキー少将の部隊が右岸へ渡河を始め、要塞建設予定地を確保した。ソチ部隊は慌てて右岸にもどってロシア軍陣地へ攻撃を開始した。一連の攻撃に失敗するとチェルケス軍は撤退し、右岸背後の高地に集結したが、ロシア軍部隊が前進しても攻撃せず、遠くから狙撃するに留まった。ロシア兵が根拠地周囲の遮蔽物を除去し要塞建築の用材として樹木を伐採運搬する間、ソチ兵は断続的に小規模な射撃を続けた。8月30日、ロシア軍左翼部隊が教会山の山裾、現在のパルチザン通りにあったチェルケス=ウブイフ軍陣地に大規模な攻撃を行い、これに対してチェルケス兵ウブイフ兵側が反撃に出たのがプセズアスペ川河口での最後の戦闘であった。戦闘終了後、ウブイフ人の代表としてビアルスラン・アルハズオク・ベルゼクとテユルパルが戦死者の遺体の買受けに訪れた。ラエフスキーは遺体の取引はしないと通告して、引き渡しの代償を要求しなかったのでソチの人々に大きな感銘を与えた。
レドゥト・カレに上陸した皇帝ニコライ1世 ガガーリン画 1855年出版の『真珠のようなコーカサス』に所収されているが、原画は1847年制作のリトグラフである。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b7/Cotes_de_la_Mer_Noire._Debarquement_d%27un_
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1837年カフカース行幸の為にクリミア半島のケルチを出発したニコライは9月27日、グルジアのレドゥト=カレに上陸した。左手先頭を進むのが皇帝、その後ろに立つ、竜騎兵征服の人物はカフカース軍総司令官ローゼンであろうか。随員は侍従武官長オルロフ伯爵、侍従アドレルベルグ陸軍中将(後に伯爵)、宮廷医官アレント、侍従武官リボフ中尉佐等であった。皇帝の背後を進人々であろう)。
数十隻の艦船と主要な港湾に次々と建設される要塞は、徐々に沿黒海の航行に制限を与えていった。さらに、ラザレフスキー要塞が建設されて、ソチ海岸封鎖態勢は完成した。トルコ艦船の航行は勿論、地元の小型船による航行さえ困難になっていく。1838年、ロシア軍のスバシ上陸戦を体験したアイヴァゾフスキーは、ラエフスキー将軍の好意で、ズヴァンバ准尉を案内にアブハジアを旅することになった。ある日、二人は松の生い茂ったピツンダの海岸にいた。嵐が迫っていた。ズヴァンバが望遠鏡で、沖をみると、アイヴァゾフスキーに渡して、覗くように言った。一隻の帆船がなにか黒い点のようなものに向かっていた。ズヴァンバはまた自分で望遠鏡を見て、「あれはコーカサスの海岸をパトロールしている我々の軍艦です。その先にチェルケス人のコチャルマがいます。トルコの海岸に向かっていますが、逃げ切ることは全く不可能です。帆船はコチャルマを捕まえるでしょうし、沖ではもう嵐が始まっています。直ぐ、こっちへやってきますよ」。アイヴァゾフスキーはもっと見ていたかったが、ズヴァンバに急かされて林の中のテントに戻った。嵐が収まったのでまた海岸に出てみると、もう帆船は海岸に近づいていて、ボートから将校と数名の水夫が二人の女性を支えて降りてきた。その将校はフリデリクスであった。艦長はコチャルマの中にいた女性が、近くのアブハジアの村から誘拐されたものと判断し、フリデリクスに村に送り届るように命じた。ズヴァンバがアブハジア語で話しかけてみると、二人はとても若い(美人)姉妹であることがわかった。二人の村は、そこから徒歩3時間ほどのところにあった。二人の父親の話では数日前ウブイフ人が村を襲撃し、家畜を盗み、数人の女性を誘拐したということであった。ズヴァンバは、この15年間にウブイフ人が夏に襲撃するのは初めてであると説明した(ヴァグネル、グリゴロヴィッチ、75頁)。
ピツンダの砂利の海岸と松林https://мойпляж.рф/wp-content/uploads/2011/07/pizunda-pliazhi.jpg
戦闘は陸上だけで行われわけではなかった。1835年のウブイフ人のガグラ遠征に数艘のガレー船に分乗した150人程のウブイフ人とジケチ人が海岸から街を攻めたことはすでに記述した。1836年10月には、ソチ沖でロシア海軍のブリッグ艦ナルギス号が7艘のガレー船に攻撃され、重大な損害を被った。ソチの船団は、一艘に乗った指揮者のもとに組織的な攻撃を行っていた。また、1838年2月にもラガー船グルボーキー号がガグラ沖で4隻のガレー船に襲撃され、かろうじて逃げ切っている。やや遅く、1846年にもソチのヴァルダン沖で、数艘のガレー船がロシア海軍のコルベット艦ピラドとブリッグ艦パラメドを攻撃している。ソチには数十艘のガレー船があったと思われる。
一方、沿海地方における強襲上陸と軍事拠点建設作戦は、ロシア軍の圧勝であった。大砲を持たないソチ軍はロシア軍の艦載砲や要塞砲の前に全く無力であった。沿海地方の叢林においても、山砲や新式銃の威力はソチ兵の武勇を凌いだ。ソチ側は組織の引き締めでこの劣勢に対応しようとした。1839年6月、アドレルに近いゲチで沿黒海地域の代表者会議が行われた。ケラントゥフ・ベルゼクが、シンボルスキー将軍に予告した集会とはこれであろう。ケレントゥフが通告していたロシアに対するボイコットを決定する以前に、ロシアに対する政策の議論がおこなわれた。ソチの領主の中で唯一支配地域にロシア軍の直接攻撃を被ったサシェのアリー・アフマット・アブラウは、ロシア帰順を主張して、主戦派から
ほとんど排斥されるような状態に陥った。アリーがベルにイギリスの援助がソチの人々の自由な判断を妨げていると告白したのはこのことである。アリーの柔軟な判断力はシンボルスキーとの会話でも明らかだった。この時、アリーはまだ降伏の時ではないと述べたが、その降伏の時は1841年5月に訪れ、アリーとともにソチと小アブハジア海岸の諸侯はこぞってロシアに降伏したのである。
対ロシア主戦派のリーダーはハーッジ・ベルザクであったが、この後当分の間、彼が対ロシア戦の決定を主導し、また作戦の戦闘に立つことになるのである。計画はまず、海岸に建設されたロシア軍事施設の奪取であった。最初の攻撃は1938年10月にベルゼクではなくヴァルダネのウブイフ人オスマンに率いられた300人による急襲であった。ウブイフ人はもう少しで要塞占領が可能であったが、結局多くの犠牲者を出して撤退した。第二回は1839年5月に行われた。ウブイフ人はハーッジ・ベルゼクのムツイフア村(プラスティンカ)にアドレル遠征のために1,500人の戦士が集結したが、ここに英国工作員のベルが現れ、オスマンとイギリスの援助到着が近いとか、エジプトのムハンマド・アリーの軍隊がグルジアに進入したなどのデマを広め、ソチ要塞奪取を煽動した。しかし、ウブイフは城壁から100メートル以下には近づくことができなかった。1840年には前述の要塞群の内、ラザレフスコエ(2月7日)、ヴェリヤミノフスコエ(2月29日)、ミハイロフスコエ(3月29日)、内陸部のニコラエフスコエ(3月30日)要塞が奪取された。黒海の波が荒く、海からの応援が難しい冬の間の作戦行動であった。しかし、ソチにとって重要なスヴャトイドゥフ、ナヴァギンスコエ、ガラヴィンカはどうしても奪えなかった。制海権もなく大砲もなく、勇気と奇策にのみ頼む作戦には限度があったのであろう。従ってハッジ・ベルゼクは単なるタカ派ではなかった。ロシア人はいくつもの城塞を奪われた1840年を「破滅の年」などと呼ぶが、後にラエフスキーに替わって黒海沿岸線第一集団の司令官になるセレブリャコフは、1840年のチェルケス人の大攻勢の原因は、1839年秋の長雨による不作であると断定している。この年チェルケシアは深刻な食糧不足に見舞われた。アナトリアから食料を輸入するには黒海の封鎖を解除する必要があるからであるが、セレブリャコフの言うようにこの年の反撃は当面の食糧確保の目的もあったかも知れない。勿論、軍事的に優位な状況を作り出した上でロシアと交渉し、独立あるいは自治権を確保した上で、ロシアからの食料輸入という展望もあったかもしれない。
ミハイロフスコエの奪取(Козлов, Александр Алексеевич (1818-1884)https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/CircassianCoastBattle.JPG)チェルケス軍は要塞を奪ったが、守備兵の一
人が火薬庫を爆破させたので、2-3千人の死傷者を出した。
海岸線のロシアの要塞を2箇所を除いて制圧した(一か所は再奪還されるが)後、1840年、ナトゥハイと海岸部のシャプスグは当面の脅威がなくなったので戦意が減退した。山地に住む大シャプスグとアバヅェフは海岸の戦闘には加わっていなかった。そこで、ハーッジ・イスマイル・ベルゼクの目標はアブハジアに転じられた。本来のアブハジアにはスフムを領有するチャチュバ家の大公領があり、一族のアブジュイとサムラザカンの分家の他にアチュバ、エムハア、ズィアプシュイパ、イナルイパ等の家臣領を構成していた。その中でもスフミ東部のツバルダのマルシャニア家、プソウ川流域のゲチュバ家などは事実上独立国であった。彼らはすべて王侯身分であった。アブハジアでは1803年にケレシュ・ベイがロシアに服従したが、1808年反ロシア派の息子アスラン・ベイに殺され位を奪われた。1810年ロシアはスフミに陸戦隊を上陸させて、アスラン・ベイを倒し、彼の兄弟セフェル・ベイを位に就けた。セフェルはキリスト教に改宗してゲオルギーと名乗った。ロシアはこの年スフムに城塞を設けた。1821年短期間位にいたドミトリ(オマル)の後、1823年ミハイルがクリミア戦争後まで公の地位についていた。ハッジ・イスマイルはこのミハイル大公のアタリクつまり養父であった。1840年秋、ハーッジ・イスマイルはブズィブ川河口にウブィフと山地のアフチプスの兵2,500を集結させ、山地のツバルダにも使者を送って挙兵を促した。しかし、ソチのアブラウ家に不穏な動きがあったので、遠征はブズィブ川東岸のツァンバ家領ツァンドリプシュを懲罰的に破壊するに留まった。翌年1841年イスマイルの甥ケラントゥフの率いる一隊がブズイブ川を越え、ミハイル大公の領地オトハルィを破壊し、帰路ガグラを攻撃した。また、別の集団はシャプスグの増援部隊とともに2,000人規模で再度ロシアが構築した要塞を攻撃した。しかし、ハーッジの努力にも拘らず、ジケティの諸侯ハムィシュ、ゲチ、ツァンバ、チュウは、4月にロシアに服属した。同年秋、ハッジは2500人のウブイフ兵および山地のアフチプスィ兵を率いて、イナルイパ家領のブズイブ川河口を占領した。ハーッジは大アブハジアに使者を送って蜂起を促したが、アブラウ派との対立のため、それ以上の反乱拡大は進まなかった。また、翌1841年2月、カレントゥフ・ベルゼクに率いられたウブイフ兵1千人の部隊がブズイブを攻め、ミハイル・シャルヴァシヅェの領地オトハルイ村を破壊、帰路ガグラのロシア軍要塞を攻撃したが撃退された。戦闘の傍ら外交戦も行われ、4月25日、ロシアは沿岸地方のアブハジア系諸侯ハムイシュ(公)、ゲチバ(公)、ツァンバ、チュ等にロシアに帰属させここをジゲト属州として、アブハジア大公の支配下に編入した。これを知ったウブイフ衆は、懲罰遠征を計画したが、帰順派は黒海沿岸線第2管区のムラヴィヨフ将軍(ニコライ・ニコライヴィッチ・アムールスキー、生没年1809-1887)に援軍を要請した。この要請に応じたムラヴィヨフはスヴャトイドゥフに増援部隊を派遣した。しかし、ハーッジはロシアとの和解の機会を探っていた。
ブズィブ川河口のイナルイパ家(アルダ)跡(20世紀初めプロクディン-ゴルスキー撮影)https://ru.wikipedia.org/wiki/Инал-Ипа#/media/Файл:Castle_near_the_Bzyb_River.jpg及び城門abkhazinform.com/media/k2/items/cache/083a3cd1f6267cd054f0bab31261d7ae_XL.jpg
スフム砦 https://ic.pics.livejournal.com/islam_abhazia/33062908/38772/38772_original.jpg
これに先立つ1841年5月9日、スヴァトイ・ドゥフ要塞で沿岸監視線司令官アンレップ将軍(イオスィフ・ロマノヴィッチ,1798-1860,1841.2.6-1849在職)とソチ各地の代表者の会見の場が持たれた。この会談は仲介者はハーッジ・イスマイル・ベルゼクの養い子ミハイル・シャルヴァシヅェ大公の仲介によるもので、アフメト・アブラウ、ツヴァンバ、ゲチ、アレドバは帰順を宣誓し、人質を入れた。この席にはゲオルギー(セフェル・ベイ)・シャルヴァシヅェのアタリクであったカツ・マアン(ロシア軍大佐)も臨席した。カツはハーッジ・ケレントゥフの岳父であった。アンレップの報告書によるとハーッジ・ベルゼクの態度は弱気で、ツァーリへの帰順の意志を表明した。しかし、直ちに降伏とはならなかった。その理由は察するところハーッジはウブイフのあるいはその下位区分の君主ではない。アフメト・アブラウ公とは違って、家臣に対する人身支配権は持っていない。主戦派の血気盛んな若者や平民を説得できなければ、何の決定もできないのである。もっとも、19世紀の北西コーカサスでは、君侯(プシー)が臣民に対して生殺与奪の権を有する時代ではなかった。ハーッジ・ベルゼクの後継者ハーッジ・ケラントゥフとバルダネのムラト(ズヤイシュ)も出席していた。1839年のゲチ集会の決然たる宣言にも関わらず、ソチ中心部を支配していたサシェのアウブラ家の当主アリ・アフメトは大会ではロシアに服属することの有利を主張し、同盟からは除名同様の状態にあった。アリは1841年ロシアに服属を表明し、ジゲット警察管区としてアブハジア大公の支配権のもとに置かれることになった。同年5月、養い子であったミハイル大公同席の上で、ハーッジらソチの有力指導者と黒海沿岸線司令官アンレプとの会見が行われた。この会談があった5月12日、アリー・アフメッド・アブラウはロシア帰順を決定したが、同月20日主戦派はアリーとやはりソチのジケティ人ズラブ・ハムィシュおよびその他の者を逮捕した。主戦派の圧力に遭ったアウブラ公とゲチ公は誓約書を取り消さざるを得なかった。このような状態では降伏が不可能であるとみたハーッジ・ベルゼクは戦闘継続を選択し、シャプスグとアバヅェフに呼びかけて対ロシア戦に新たな枠組みを構想した。この夏アバヅェフ、シャプスグ、ウブイフの代表者はメアコプイ(現マイコプ)近くのプシェフ川流域で集会を開き、長い討議の後、シャリーアを基礎とする同盟を結ぶ決定を行った。同盟の誓約はデフテルとして文章化されたが、規約の中には窃盗、略奪を禁止し、私的所有権を保証、ロシアを利するスパイ行動の処罰、5箇所に裁判所(ミャフケメ)の設置などが謳われていた。ハーッジはムズィムタ川河口に配置されたムラヴィヨフ将軍部隊を攻撃するための援兵を求めたが、クバン川左岸におけるザス将軍の活動が活発であり、海岸北部からの攻撃を懸念するシャプスグ衆、アバヅェフ衆の援助は得られなかった。ウブイフは独力でソチ中心部海岸のナヴァギンスコエ要塞奪取に取りかかった。要塞は封鎖状態になった。これを知った海岸監視線第二区司令官ムラビヨフ将軍は、陽動戦として先ずテンギンスキー連隊の2個大隊をガグラから陸路、残りの2個大隊を海路、スヴャトイ・ドゥフ堡塁へ出発させた。折からの酷暑のためスヴャトイ・ドゥフ堡塁からナヴァギンスコエ堡柵までの徒歩前進が困難であると判断した将軍は、スフミから艦船を呼び寄せた。7月29日朝、ロシア側要塞砲とウブイフ衆の6門の野砲の応酬が始まり、これに続いてテンギンスキー連隊が上陸を敢行した。双方の人的損害は軽微であったが、ウブイフの大砲陣地は破壊されて兵士は夜間に撤退し戦闘は終了した。ハーッジ・ドゴムコ・ベルゼクは主力を山間に移動させ、ロシア帰順派ジケティ人の集落の略奪と破壊を実行した。8月2日にラバ川で戦死したビアルスランの手勢が僅かであったのはソチ自体の状況が緊迫していたからであろう。
ロシア側は秋にも懲罰作戦を計画し、10月8日からの3日間、テンギンスキー連隊二個大隊とアブハズ警察隊(2千人)を上陸させて、ホスタ川、アグラ川、マツエスタ川の流域で掃討作戦を実施した。ウブイフ人は各所にバリケードを立ててロシア軍の攻撃に備えていた。住民は山地に退避した。また、ウブイフ人武装勢力は海岸で多数のロシア帰順派アウルを破壊した。ジキ人は武装部隊を集結して山中で待機し戦況を見守っていた。急襲にも拘わらずウブイフには防戦体制にあったが、ロシア軍を阻止するまでの力はなかった。9日には、アグラ川を越えたロシア軍とアフン山南麓(現在総合保養施設スプートニク周辺)に人員を張り付けウブイフ軍の激しい戦闘となったが、ウブイフ人はロシア軍の前進を阻止できなかった。10日、マツスタ川右岸に達したロシア軍に対して、ハーッジ・ベルゼクは温存していた5千人のウブイフ兵を戦線に投入し自らその先頭に立ったが、ロシア軍の砲撃を受け大きな損害を被って撤退した。ハーッジは再度攻撃を望んだが、ウブイフ衆は拒んだ。夕刻、ハーッジは本拠のムトィフア村に撤退した。夏の作戦以降、ハーッジ・ベルゼクの威信は全く低下していて有効な手を打つことができなかったのである。連隊は夕刻までにナヴァギンスコエ要塞のあるソチ川流域に達した。ロシア軍は海岸のアウルを破壊したが、武装勢力と住民は山中に退避した。この作戦におけるロシ軍の損害は500名、さらにナヴァギンスキー堡柵周辺の防御陣地整備中に100名を失った。ウブイフ側の死傷者は1千7百人達した。ロシア側の調査では、ベルゼク家は11人、ゼイシュ家は7人を失い、ハーッジの息子の一人とソスタングル・ゼイシュが負傷した。バイエルン人の旅行家モリッツ・ワグナー(1813-1887年)は、トレビゾンドの検疫所で一緒になったハーッジ・ベルゼクの家臣ハーッジ・シェミス・ベクなる人物から聞かされた話として、次のような物語を記している。「老ハーッジ・ドゴムコの孫であるアリオクは自分の戦士達と共にキリスト教の象徴である十字架を付けた樫の樹の内の一本を守るために立ちはだかった。一歩、一歩とロシア兵から聖樹を守った。一方は森、他方は谷に助けられて彼の地歩は安全であった。軽歩兵に守られたロシア軍の野戦砲隊長は、ウブイフ兵が多く集まっていた場所に向けて曲射砲二発を撃ち込ませた。砲弾は古木の空洞の幹に当たり、破片が飛び散ったが、守備兵は誰も負傷しなかった。ウブイフ兵たちは喜びの歓声をあげた。それは怒りにも、朗らかさにも聞こえた。スヴァン人騎兵は攻撃を望んだが、場所はあまりにも険しくで、最初の騎兵は谷に落ち、更に二人を巻き添えにした。ついに狙撃兵部隊の若い司令官が前進をこころみ、彼の後に銃剣で密集隊形を組んだ兵士が続いた。彼らは一斉射撃に迎えられ指揮官は負傷した。部隊は停止して一斉異射撃で応じた。戦闘は岩陰から岩陰へ、茂みから茂みへと激しく荒れ狂い、火縄銃も使う白兵戦になった。ロシア軍の射撃は強くなり、攻撃が続いた。しかし、それにも関わらずアリオクは古い樫を守る自分の持ち場を保持していた。左手で樫の樹皮を掴み、自分に倣うように仲間を鼓舞して、右手で剣を振り回した。しかし、まさにその時、ロシア兵の銃弾が若い勇士の心臓の真ん中に命中した。息絶えたにもかかわらず、彼は神聖な樫に寄りかかって立っていた。あたかもそれを守っているかのように。若者の血は老木の樹皮に吸い取らていた。戦場にウブイフ人の嘆きの声が響き渡たり、戦いに疲れ岩の上に横たわっていた祖父の耳にも届いた。悲報が届くと、首領は怒りに我を忘れた。ハーッジ・ドゴムコは最後の力をふり絞り、従者と一緒に遺体を回収するために急いだ。老人は獅子さながら、戦闘のさなかに飛び込んだ。ウブイフ人は彼に倣って、奮い立った。ロシア人と山地人は、聖なる樫の木陰で戦った。銃剣はウブイフ人騎士の胸を貫き、鋭く、重いサーベルはモスクワ人の固い頭を割った。ついに、高くついた勝利はウブイフ人のものになった。若いドゴムコの遺体は救われた。アリオクは18歳であった。彼はがっしりとはしていなかったが、均整のとれた体躯であった。彼は14歳の花嫁を後に残したが、彼女はウブイフ人の援軍に来ていたチェルケス人王侯の娘であった。花嫁は花婿も一緒に来ると思い、一族を集めて父の帰りを待っていた。しかし、喜びの替わりに悲報を受け取った」(マリーナ・スパショノヴァのロシア語訳からの重訳)。
御神木を護るアリオク・ベルゼクhttps://www.natpressru.info/uploads/1524942718_2antrep.jpg(典拠および作者不詳)
神木はアフン山にもブイトハ山にも、またバタレイ(台場)山にもああったが、この日、ハーッジ・ドゴムコ自身が戦闘に加わっているところを見ると10月10日、ブィフトハ山の出来事であろう。複雑な地形のブイフト山斜面で、ウブイフ人はロシア軍砲兵隊陣地より前に進んでしまったので、背後と側面から砲撃されることになってしまった。総大将自らが先頭に加わていたため、ロシア軍砲兵隊の位置を追尾するものがいなかったのであろう。ロシア軍は目標を達成したが、払った犠牲も多かった。
一方では、この戦闘はソチ西部のベルゼク家の人々がロシアに帰順するきっかけになった。1842年2月には、ベルゼク家のトリツク・シェウレフウコ、マトゥ・シェウレイウコ、エディゲ・シェウレフウコ、エルブズ・ハペシュウコが帰順した。報告を受けた皇帝ニコライ1世は彼らに年金200銀ルーブルを与える決定をした。一方、帰順を躊躇うハーッジ・ベルゼクの首には、1,000銀ルーブリの報奨金がかけられた。
「チェルケス諸侯の会合」ガガーリン画(https://i.pinimgcom/originals/72/26/dc/7226dc1289e8f7
d8d80d43e784646fa8.png) ヴォロシーロフはこれは、1839-40年の実際の出来事を反映しており、左から2人目をカッツ・マーン、同3人目をアリ・アフメット・アウブラア、4人目ハーッジ・ドゴムコ・ベルゼク、5人目をチャヴシュ・クハン・マルシャニア、右側の少年をハーッジ・ベルゼクの養い子ミハイル・チャチュバであるとした。ちかし、チャチュハリアは1841年の出来事とし自分物はそれぞれカッツ・マーン、アリアフメト・アウブラア、ゲチバ・アルスラン・ベイ、ゾスカン・アマルシャン、ロスタム・イナルイパとした。しかし、別の出来事に宛てる考えもあるし、そもそもこれは芸術作品であってニュース画像ではないかもしれない。
1841年 3月20日、チェルケス人連合軍とロシア軍のあいだでラバ川本流と支流ファス川の合流点から2㎞の地点で6時間に亘る激戦が起った。ロシア軍はザス将軍が自ら指揮を執った。チェルケス軍はアバヅェフ、シャプスグ、ウブイフを主体とする千人であった。戦闘の帰趨は決せずロシア軍は130人の死傷者を出した。ロシア庇護下にあったマホシェム、テムルゴイ、エゲルカイ、ブジェドゥグは独立派地域に移住した。当時、ロシアは従来のクバン線のより奥にラバ線を設置しようとしていたが、この戦闘はそれを阻止しようと意図するものであったと思われる。しかし、チェルケス人はラバ川の東を確保することができなかった。8月2日、ビアルスラン・ベルゼクに率いられたウブイフ人ら30人がラバ川で150人のコサックを攻撃して敵兵5名を殺し7名を負傷させる戦果を上げたが、死者3名負傷者9名を出した。ビアルスランも3名の死者の一人であった。グレゴリ―・フォン・ザス(1797-1883)は露土戦争で頭角を表して中佐に昇進。1831年にモズドク・コサック連隊長、1831-1832年にはチェチェンとダゲスタンへ出征、1833年には新設のクバン監視線バタルパシャ分区(ウチャストク)の司令官に昇進、クバン川とラバ川の間でチェルケス人抵抗派の掃討戦に従事した。同年11月にはラバ川を越えてベスレネイ衆を攻撃、アイテク・カナコヴォ公の村を焼いた。帰途アイテク麾下のベスレネイ、アバズェフ、カバルダ兵2千に攻撃を受けたが、12月には報復戦としてベスレネイの二か村を破壊した。1834年年にもアバヅェフ、ベスレネイ、カラチャイ、シャプスグ、カバルダと戦っている。この事件の後は、1835年に全クバン監視船司令官、1840年カフカース軍右翼司令官(中将)に昇進したが、ニコライ2世の布教を買って退任を命じられ、首都に召還された。ザスは勇猛果敢な軍人で、ダゲスタンでは「びっこの悪魔」と恐れられたが、クバンにおけるザスの掃討戦は過酷を極め、攻撃を受けた集落は徹底的に破壊焼却。畑にある穀物と干し草は焼き払われ、家畜は全て連れ去られた。降伏した住民は奴隷としてコサックに分配された。森林や山陰に逃れた女性、子供、老人は食糧もなく取り残され、やがて冬の寒さの中で凍死するか餓死した。文字道りの民族浄化作戦がクールラント人的実直さで実行された。
第4項 ベルゼク家の40年代
ハーッジ・ケレントフ・ベルゼクの肖像(伝1882年イスタンブル撮影)
ウブイフ人は1840年代の初めまでイギリスの物資と軍事的技術を受けて、最も盛んな活動を行った。ハーッジ・イスマーイールは優れた戦略家であって、これまで所領や村、親族集団を単位に個別に行った戦闘を各種族に旗印を与えて村ごとに100人隊、50人隊、10人隊に組織した。1839年7月、アドレルの東隣のゲチで全チェルケス人大会を開催し、ロシアの海岸要塞の破壊を決定した。それまで、ロシア人軍事基地と現地人との商業関係は合法的なものだったので現地人も要塞のなかの様子は知っており、更にポーランド人脱走兵が弱点を教えた。彼らの最初の目標となったのはラザレフスコエだった。この作戦の指導者は以前の内陸部から海岸に近いダガムイスに懸けて住んでいたベレゼク家であった。1846年に死亡するまで一族の代表であったのがハーッジ・ドゴムコ・イスマーイールであった。彼は背の高い老人で、物腰は感じがよかった。鋭い、不安そうな灰色の瞳をしていた。彼この地域の長の地位にあり、雄弁家であった。海岸で一番人口の多い一族に属していた(ベル)。1846年、二度目のメッカ巡礼から戻ったハーッジ・イスマイルが自宅のあるムトゥイファスア村で死亡した後、ウブイフ人の軍事的・政治的指導者になったのは、彼の甥ハーッジ・ケレンドゥク・ベルゼクであった。ハーッジ・ケレンヅクは1864年トルコに移住し、1897年そこで死亡したが、後に残された息子トウフィクは、トルコにいたチェルケス人社会で大きな権威を持っていた。父の武人気質は息子にも受け継がれた。第1次ロシア革命(1905-6年)で全コーサスが混乱したとき、トルコのスルタンは、コーカサスで軍事行動を行う可能性について、ハーッジの息子に諮問したが、彼は「私はロシアが嫌いであり、私はロシアの敵であります。戦うことはできます。しかし、敵の窮状につけいるのは、卑怯であると思います」と答えたと言う。トルコの干渉戦は実現しなかったが、これは後にコーカサス総督ヴォロンツェフ-ダシュコフ公爵の知るところになり、総督はハッジの騎士道精神を称える書状を送ったと言われる。ケラントゥフは、1845年か、あるいは翌年にメッカ巡礼を行ない、叔父同様ハーッジを名乗った。ハーッジの称号の持つ社会的威信はとても大きかったと思われるが、それ以上に重要なのは、ケレントゥフはカイロでエジプトの太守(ヘディーヴ、事実上は国王)ムハンマド・アリーの息子イスマーイール・パシャに会見したことであろうが、コーカサスの人々が切望したエジプトからの援軍派遣にはつながらなかった。1846年、ブドベルグ将軍(アレクサンドル、イワノヴィッチ、1843年から1855年まで黒海沿岸軍事線長官)は、着任間もないコーカサス総督ミハイル・セミョノウィチ・ヴォロンツゥフに報告書を送り、ケラントゥフとは友好関係を保つべきであり、彼のメッカ巡礼は密航ではなく往復とも自分が正式の許可を与えたと述べており、更には秘密の年金を与えているとさえ記している。ハーッジは、叔父ハーッジ・イスマイルが奪取できなかったゴロヴィンスコエ要塞への攻撃を継続し、1846年には88回の小競り合いや戦闘があったといわれるが、最後に11月にはウブイフ衆とシャプスグ衆の8千人で総攻撃をかけたが、撃退された。
ハノーバー王国出身のドイツ人で、1844年からチフリスで学校長をしていたフリードリヒ・ヴォン・ボーデンシュテッド(1819-1892)は、1845年アブハジアを旅し、当時ジケチ警察管区の司令官であったズヴァンバ、黒海海岸線司令官アンレプ将軍と共にソチを訪れ、一週間アドレルのスヴャトイ・ドゥーフに滞在した。この時、ソチは大変な苦境に陥っていた。ボーデンシュテッドは次のように記述する。「私の黒海東岸滞在時(1845年)、大飢饉が自由チェルケシアのすべての村々を襲っていた。前年の収穫は不作で、蓄えは食い尽くされた。飢餓は粗人々を襲い、悲しむべき状況改善の期待を失わさせた。1845年の春が始まるとともにひどい乾燥が襲い、それまでなかったほどの破滅が迫った。ロシア人は武装した人々がまもなく降伏するのではないかという好ましい希望を抱いた。全黒海東岸の監視がこの苦境下ほど厳しく実行されたことはなかった。ここではチェルケス人はすべての海岸の補給から完全に切り離され、陸側からは実に僅かな援助しか望めなかった。1845年ほどロシアの海岸要塞が統制している市場にこれほど多くのチェルケス人が群がるのを見ることはなかった。毎日、大勢の人々が、奴隷や不要な武器や、貴重品をパンと交換するために押し寄せて来た。彼らを屈服させることは考えられなかったとは言え、ロシア人はこれらの取引で有利と思われる交渉をすることができた。高価な武器、武具、衣服は塩や粉用の袋に入れて市場に持ち込まれ、私自身目撃したことだが、長年要塞に缶詰にされていたロシア兵は、とても安い値段で、気晴らしをすることができた。ソチの市場で、華やかなチェルケス風のサーベルが私の目についた。私はそれに対して、金貨を一枚置いたが、粉1袋をくれ、持ち主は言った、そうすればこのサーベルはあんたのものだ。夏が迫って、需要は増した。ロシア人は飢餓がチェルケス人を衰弱させ、彼らを屈服させ、彼らが自ずからそのようになると思い、毎日主要な首領と長い交渉をするようになった。しかし、まだ降伏は考えられなかった。私は、しばしばウブイフ人やジゲチ人の首領達とのこのような交渉に立ち会った。そしてこれらの堂々とした風貌を見て、これらのチェルケス人の首領たちに関する以前の不愉快な情報は、誰かのどのからか来たのか直感的に解かった」。ハーッジ・ベルゼクはロシア軍司令官某(アンレプか?)に、「我々を苦しめないでくれ。節度ある敵としてふるまってくれ。武器で倒せないものを飢えで倒そうとするのは、人間のすることだろうか。飢えが私を貴官のもとに来させたのだ。自分の人々の苦しみが私の心に染みいった。しかし、私は貴官に降伏するために来たのではない、そうではなく貴官に我々の権利と貴官の矜持を思い出させるために来たのだ。これは貴方の寛大な皇帝の勝算だろうか?我々を飢えさせておいて彼は何を望むのだ。我々を殺してから支配するこことか?我々は貴国のパンを求めない。我々は自由を求めている。貴官は我々が貴国の権力を受け入れないからといって、我々を犯罪者だと思っているのだろうか?」(ボ-デンシュタット『コーカサスの諸民族とロシアに対する自由のための闘争』フランクフルトアンマイン、1849年)。誇り高い武人の面目が躍如として描かれている。
この困難の時期にイギリスはチェルケス支援から手を引いていた。政府の対露政策が転換したのである。1838年と1839年にナトゥハイ代表団が二度にわたって、ヴィクトリア女王宛の請願状を在イスタンブル英国大使に提出したが、大使は英国政府はチェルケス人にどのような援助も与えることができないことをセフェル・ベイに通告した。1840年、黒海海岸線第1管区司令官セレブリャコフは、コーカサス線および黒海地域総司令官グラッベ(パヴェル・フリストフォルヴィッチ,1789-1875)将軍に、ナトゥハイ衆に帰順の動きがあることを報告した。それによると、平民ベズム・ソルフと平民ハステミルは、トルコからの援助情報を収集するために1年半トルコにいた。ところがセフェル・ベイは代表団にそっけなく対応し、スルタンに遭わせなかった。そこで、全平民はロシアに期待を抱き、反ロシア派の貴族に反対しているという。彼らは1838年と1839年の請願状提出者であったかも知れない。この時点でセフェル・ベイはスルタンの政府はアドリアノープル条約を遵守するので、チェルケス人を庇護することはできないと断言している。彼ら請願者をスルタンに引き合わせることは全く無意味ありでまた不可能であったであろう。
セフェル・ベイ自身もトルコからの援助をあきらめて家族との合流を望み、彼自身が帰国するか、家族がトルコに移住するかの許可を在イスタンブル・ロシア大使に打診していた。タタル人貴族の娘である彼の妻は二人の娘と共にアナパで貧しい生活をしており、長男はトルコ軍の士官であったが、次男のカラバトィルはソチのヒゼのアタリクの元にいた。しかし、2年後の1843年1月、またもやアダグムのコスタヌクらのナトゥハイ代表団がイスタンブルに到着し、今度は自らイギリスに行ってヴィクトリア女王にロシアとの取りなしの仲介を求める告げた。イギリス大使は本国からの訓令通り、一行に行かないよう説き伏せた。セフェルもタタルバザルジュクからイスタンブルに来たが、直ちに発見されて、退去を求められた。翌年11月セフェルは本国のシャプスグとナトゥハイに使者を出し、ロシアとの和議を行うことを勧めた。シチェルビンは「1844年著名なチェルケス人の煽動者セフェル・ベイ・ザンは、トルコ人から援助受けることをあきらめ、ロシア人と和を結ぶこと活発におこなった。彼の招集に応じて、ハブル川、アントフイル川、ボグンドィル川、アビン川、アフィプス川、シェブシュ川、ノボロスィースク、アナパ、ヴァレニコフ波止場あたりに住むシャプスグ人とナトゥイハイ人は、12月に集まった。そこではロシアとの友好関係が支持されたが、クリムスクとクラスノダルの中間のハブルに住むエフェンディ・シェレトはこれに強く反対した。集会は二派に別れ、ハブルの西隣アビンのシャプスグの貴族ガミル(ガミルザ)・ロトクを初めとする一派は、ロシア人と和議の側に立ち、シェレトを支持する一派は敵対活動を採った」(シチェブリン、21章)。セフェル・ベイは用務に応じては、エディルネのタタルバザルジュクからスタンブルへ出向いたが、その度にロシア政府はオスマン政府に抗議した。また、ロシア政府の抗議にあったオスマン政府はセフェルを首都からエディルネに追放した(1845年2月27日付命令書)。その用務というのは帰国条件の交渉であった。
1847年、ソチの状況は安定していた。7月16日の夜、1838年に作戦中に嵐のため海岸で座礁した軍艦に搭載されていたが、ウブイフ人に鹵獲されていた18フント砲がロシア軍の急襲部隊によって奪還された。急襲が可能であったのは、緊迫状況ではなかったからウブイフ人も安心していたのだろう。1848年にもウブイフ人大きな行動を起こさなかった。この年の小競り合いは、1月22日にゴロヴィンスコエ、1月13日と30日、2月3,7,20,25,27日はナヴァギンスコエ、3月17,18日にまたゴロヴィンスコエが攻撃された。3月の事件は場外で樹木の伐採に当たっていた作業部隊が目標とされたものであった。5月17日にはゴロヴィンスコエ、20日と26日、27日にはナヴァギンスコエが、8月1,4,9,11,22日、10月31日にゴロヴィンスコエ、8月9日にはナヴァギンスコエが攻撃された。成果と言えば最後の攻撃で獲得された牛23頭であった。これら小規模の襲撃はウブイフ人の領域に限られ、ジケティ人のスヴャトイ・ドゥーフには及ばなかった。逆にスンジュクカラとアナパには交易のためにチェルクス人(ウブイフ人やジケト人を排除しない)のガレー船が入港していた。このようにクバン川左岸でもロシア軍とチェルケス人の間に深刻な衝突はなかったが、クバン左岸は1847年と翌1848年、政治の季節を迎えていたのである。
第5項 ダゲスタンとチェチェンのイマーマト
海岸のシャプスグ族やウブイフ族がクバン川左岸、黒海海岸、アブハジアで活動を強めている間に、コーカサス北東部では別の角度の運動がロシアと対峙しつつあった。イスラーム教神秘主義教団ナクシェバンド派によるジハード運動、ロシア史で言うミュリディズムである。
14世紀、中央アジアのボハラの町にムハンマド・バーハーウッディーン・ナクシュバンド(1318-1389)という修行者がいた。彼が起こした教団は中世と近世を通じてイスラーム世界の各地で繁栄し、ウズベキスタンでもムハンマドの名声はソ連期の聖者信仰弾圧を生きながらえ、今日再び盛んになっている。ガスレ・アーレフィーン(あるいはガスレ・ヒンドワーン)村にある彼の墓は三度参拝すればメッカ巡礼一度に相当する功徳があると言われ、墓廟の前には「願い石」と呼ばれる黒い石があり、触れたものの病が癒えると信じられている。ナクシュは絵刺繍、バンドは刺し手のことである。その刺繍は例えば今日本でも活躍中のウズベキスタン舞踏団が身につける衣装の帽子や帯やコートを飾っている金糸銀糸の刺繍である。ナクシュバンド教団史の専門家が、ムハンマドの「父は刺繍のある外套を織っていた」と述べる意味はよく分からないが、外套というのは、ハラットつまりガウンであろうか。ウズベク語ではチャパン、金糸刺繍を施されたものはザルチャパンと呼ばれて、宮廷では君主が正装するとき必ず肩にかけるもので、特別の下賜品として家臣や外国の使臣に恩賜された。日本の羽織(道行ではなく)と考えればいいであろう。ムハンマドの生業は親譲りの刺繍職人であった。今、ウズベク刺繍というとスザニが有名でトルコはもちろん日本にさえ専門店があるが、スザニはウズベク刺繍(カシュタチリク)の色々なジャンルの一つでしかない。現在中央アジアではナクシュという言葉は使わていないようだが、現代トルコでは今でもナクシュという言葉が使われている。さて、ムハンマドは当時のイスラーム教神秘主義の様々な方法に、黙して神の名を唱える新しい修行の方法を加えた。この教派はチムール朝では王侯の帰信を得て大いに栄えたが、そもそもムハンマド自身18歳から30歳の間、ハンに仕えて首切り役人をしていたというから、権力に近づくことを厭わなかったのであろう。
バハーウッディン・ムハンマド・ナクシュバンド(1318-1389)肖像画https://www.nurmuhammad.com/miracles-of-mawlana-shah-naqshbandi/
ムハンマドのイスラーム理解はシャリーア重視を旨とするが、この態度は弟子で教義の整理者であったムハンマド・パールサー(1420年没)を経て、ハナフィー派の法学者であったインドのアフマド・スィルヒンディー・ムジャッディード(1564-1624年)に伝えられた。アフマドはイスラームが危機に瀕していると考え、革新とスンナの復興を主張した人物で、ムガール帝国におけるアウランゼブの反動のイデオローグであった。1809年にデリーを訪れたクルド人ムハンマド・ハリード・ズィヤーウッディーン・バグダーディー(クルディスターニー、シャフラズーリー)は、スィルヘンディーの法統を次ぐシャー・アブドゥッラーに師事して、奥義を極めて帰国し、西アジアにおける師の代理人となった。ハリードはバグダードに居を構えて活動を行った。ハリードの初期の弟子の一人にイスマーイール・クルデミーリー・シールヴァーニー(没年1847/8年)がいた。シールヴァーンはクル川とコーカサス山脈、カスピ海に囲まれた地域で、クルデミールはその南部クル川アラス川低地に接する地域にあり、現アゼルバイジャン共和国の首都バクーから西に100km程の場所にある。イスマーイールの教説はハリードとほぼ同じではあるが、それよりも行動的で、スーフィーのシャイフには、精神的浄化や神への奉仕に勝るイスラームの真の価値があると主張した。「信者の敵に立ち向かう一歩は、聖地に至る長い旅に優る。ガージーを勇気づける説教師の一言は、神への祈りに優る」と説いたと言われる。ハリードの生前からイスマーイールの弟子たちは、イスマーイールを独立のシャイフと見做し、シャイフのみに許されるマウラーナーと呼んでいたが、1827年ハリードが死亡すると名目的にも独立のシャイフとしての地位をえて、シールヴァーンだけでなく、ヴォルガ地方、中央アジア、アフガニスタンからも弟子が集まった。ダゲスターンにムジャディード-ハリーディーの教義を広めたのは、ムハンマド・ヤラギーであった。イスマーイールは高弟ハース・ムハンマド・シールヴァーニー(1786-1844)にヤラギ村の法学者で教師、カーディーであったムハンマドのかっての師であったレズギ人(あるいは別の説ではアグル人)ムハンマド・ヤラギー(1771-1838)を迎えにやり、数週間の面談の後、彼にシャイフの資格を与え、北コーカサスのムルシド(教導)に任命した。イスマーイールの学統はハースムハンマドを通じてヤラギに伝えられ、ヤラギの評判は全ダゲスタンに広がり数千のムリードが彼の周りに蝟集した。彼は昼はロシア軍に対する戦略を講じ、夜にイスラーム教の真理を教えた。
更にガーズィークムクのサイードでムッラーを務めており、当地の支配者アルスラン・ハンの書記であったジャマールッディーン・ガズィクムーキー・フサイニーがダゲスタンの第二のムルシードとして、1824年からヤラギで伝統的イスラーム学とスーフィズムを教えた。ヤラギ村の修行場(ハンガーフ)に集まった弟子たちの中に、ギュムリ村出身の二人の年齢の近い生徒、ガーズィー・ムハンマド(1793-1832)とシャーミル(1797-1871)がいた。ヤラギ村はアゼルバイジャンとダゲスタンの境を流れるサムル川下流左岸にあり、クラフのハンの領土(ロシア語文献では、キュリンスコエ・ハンストヴォ)であった。。ロシア政府はムハンマド・ヤラギの活動に神経をとがらせ、クラフのアルスラン・ハンに圧力をかけ、領内から追放させ、1825年には逮捕してチフリスの監獄に収監した。
ヤラグ村のモスク(ガガーリン画) https://ru.wikipedia.org/wiki/Магомед_Ярагский#/media/Файл:(Grigory_Gagarin._Daghestan._Mosquee_de_Yarag_(grey_scale_version).jpg ガガーリンはこのモスクについて、「ヤラグ村にはその他の何の変哲のないボロ小屋に並んで、粗末な2階建ての建物がある。細い細い外階段を登ると二階に木造のベランダがあり。廂で雨と厳しい日光から守られている。それは上にぶら下がっている半月よって用途が解かる貧乏な田舎のモスクである。その中は質素、むき出し、貧相である。普通モスクは非常に単純に建てられるが、それでも綺麗な前庭があって手を清める為の美しい水がめやその他のものが置かれている事がある。しかし、ここにはそんな物はない」。
ガーズィ―・ムハンマドの肖像
https://alchetron.com/Ghazi-Muhammad#ghazi-muhammad-5769c63f-d4f5-4c8a-9039-ece4ceead40-resize-750.jpg
ハムザ・ベクの肖像
https://historica.fandom.com/wiki/Gamzat-bek?file=Gamzat-bek.jpeg
www.globaldomainsnews.com/imam-shamil-the-fate-of-the-main-enemy-of-the-russians-in-the-caucasian-war
師を失ったガーズィー・ムハンマドは、クラフ領からサムル山脈を越えた北西のガーズィークムク領の郷里ギュムリ(今日のグニブ)に帰って、地域におけるジハードすなわち、支配者による不正やシャリーアからの異教的逸脱を攻撃した。ガーズィー・ムハンマドはついに1830年ロシアに対する聖戦に打って出ることを決意した。二人の師の内、ムハンマド・ヤラギーは賛成したが、ジャマールッディーンは消極的であった。ガージー・ムハンマド(ロシアの文献ではガージー・モッラー)はイマームを宣言した。イマームにはいろいろなイマームであるが、ここではイランの最高指導者イマーム・ホメイニーと同じく、領導・統領と訳してよいであろう。ガージー・ムハンマドは1830年の間は地域内の統制に努力したが、翌1831年になるとロシアのダゲスタン支配の要であるタルキ、デルベント、キズリャルを攻撃した。しかし、イマーム軍は海岸部を永続的に占領することはできず、却ってブイナクスクに近くのチュミケントにおいていた本営をロシア軍に攻撃された。年が開けると、ガジー・ムハンマドはチェチェン、ジャロベラカン、ザカタラに戦線を拡大した。しかし、ロシア軍はこの秋、ギュムリに大軍を投じた。この戦いで、ガージー・ムハンマドは戦死し、盟友シャーミルも負傷した。ガージーを継いで第二代のイマームに就任したのは、アヴァル・ハン領のゴツアトル出身のハムザット・ベクであった。ハムザット・ベクは宿敵アヴァル・ハンの首邑フンザフを占領したが、この時ハンの一族を殺害したため、血の復讐のためトルストイの小説で有名なハーッジ・ムラートによって殺害された。非業の死を遂げた二人のイマームを継いだのが、シャーミルであった。シャーミル(ロシア語から、シャミーリと起こされることが多い)はフンザフの北のアフルゴ村に本営を置いたが、1838年にはチェチェン山地のダルゴに本拠を移した。1840年からはチェチェンでの活動を盛んにし1845年にダルゴ村を破壊されると、本拠を近くのヴェデノに移した。チェチェン戦争の野戦軍司令官バサイェフの郷里である。シャーミルの軍事力は1849年に最大になったが、1859年にロシア軍によってヴェデノを落とされ、ギュムリでロシア軍に降伏した。40年代半ばにシャーミルはアミールアルムメニーンの称号を採用し、1848年には長男ガーズィームハンマドを後継者に指名した。イマーム・シャーミルがチェルケスに最初のナーイブ(代理人・弟子、ロシア語風記載はナイーブ)を派遣したのは、1842年であった。
第6項 ナーイブ・パシャ イマーマトと共和国
チェルケス国家を目指すセフェル・ベイの構想が挫折し、ロシア軍とウブイフ、シャプスグ、アバヅェフ諸族武装集団との戦線も膠着し、海岸線の封鎖と集落や収穫物に対する破壊によってチェルケス人の生活が窮乏化するなかで、北西コーカサスに新しい活動家が登場した。ダゲスタンとチェチェンのイマーム・シャーミルのナーイブ(代理人)達である。シャーミルが送り込んだ最初のナーイブはハーッジ・ムハンマド(ハッジ・マゴメット)で、チェチェン人あるいはクムイク人で、ダゲスタンのアクサイの東のゲレンチクの出身であった。ムハンマドの父オチャル・ハーッジ・ヤクーブは、1825年にアクサイがロシア軍に焼き払われた時死亡したムッラーであった。ハーッジ・ムハンマドは、1842年5月、ダゲスタン人とチェチェン人のウラマーを引き連れてアバヅェフ衆のもとに赴き、シャリーアの実行とジハードを呼びかけた。騎兵200人からなる親衛隊(ムルタズィグ)を組織し、同年クバン川流域低地でロシアの影響を受けやすいブジェドゥグとハトゥイカイの人々の一部を山地へ移住させた。しかし、住民の支持は一様ではなかった。この翌年アイテク・コノコヴォ公のベスレネイ衆も山地に移住したが、彼らは公がコサックとの戦闘で死亡(1844年)すると元の住地に戻った。1843年10月、シャリーア支配に服さない海岸の小シャプスグを攻めたが失敗した。1844年3月、ベスレネイ衆のうちラバ川流域に住んでいた下層身分のものが、宗教税に反対して反乱を起こした。また6月にはクバン川沿岸のロシア領に住むチェルケス人を従えようとして失敗した。親衛隊さえからも離脱者が出る中で、ハーッジは進退に窮したが、この夏の旧暦5月19日に病死(あるいは戦死)した。ハーッジ・ベルゼクの指導力低下に直面していたウブイフ人指導層は既に前年からシャーミルと交渉があったが、ハーッジ・ムハンマドの活動に注目して、1843年2月ウブイフに招聘し3か月間ここに留めた。ハーッジ・ムハンマドのシャリーアによる統治は、社会の上層部に対してイスラーム教の教義に合致しない社会関係の清算を迫った。そのためアバヅェフ9部族の1つであるエディゲ・ハブル(起源はノガイ人で、支配者はツィ氏である)の貴族であるマメドは、ハーッジの追放を試みた。コーカサス軍司令官ゴロヴィーン将軍は、軍事大臣チェルヌイシェフ伯爵に宛て書簡(1843年6月)で、ハーッジ・ムハンマドがいるため全ナトゥハイは反乱状態であるという現地からのほ報告を上げており、ゴロヴーンを更迭したネイガルト将軍は、同じくチェルヌイシェフに対して「ザクバン地方における状況の推移に鑑み、我々にとって甚だしく有害であるハーッジ・ムハンマドの影響を壊滅する手段を講じる中、アバヅェフ人の間に、シャーミルの使者に対する激しいがみ合いと不満が生じていること、エディゲ家の長老マメッドがこの氏族の名誉ある立場の者たちにハーッジ・ムハンマドが掌握した権力は違法なものでありこの人物を共同体から放逐すべきであることについて確信させた件につき、黒海監視線長官の報告を了承しました。この事情は地域の安定のために特段に好都合であると判断し、小官はマメド・エディゲに対し小官が彼の行動を完全に是認し、彼をあらゆる面について支持するものであるということを、小官の氏名において、極秘に通告することをザクレフスキー中将にゆだね、これとともに小官は当将軍に金貨500枚を、特にこの目的すなわちザクバン地方からハーッジ・ムハンマドを追放するために支出するために送付いたしました」。(1844年4月22日付)マメド・エディゲの策動については種々の概説にも触れられている。ただし、ハーッジに対するアバヅェフ長老の敵意の原因が階級的なものであったのか、単に政治的権力を巡るものだったかは、はっきりしないと思われる。かくして、身の危険を察したハーッジは山中に逃れるが、5月17日追っ手に遭い、護衛はいたものの多勢に無勢、凶刃に倒れた(アラヴ・アリイェフ、サラヴァトヴィッチ。1959年生まれのジャーナリスト。マハチカラ生まれ。恐らくクムイク人)。しかし、ダゲスタン共和国国立中央公文書館の黒海監視線臨時総司令官ラシュポリ少将(グリゴーリー・アントノヴィッチ、1801-1871年)がチェルヌイシェフ大臣あてた報告書では、「今月19日ハーッジ・ムハンマドはゲリル川のエフェンディ・シェレトィの家で死亡した」と書き出し、「彼は6週間の間、病気で日に日に弱くなっていった、自分自身最期を悟り、死の数日っ前から呼び寄せた大勢のムッラーが看取った」(ガジエフ編資料集『イマーム・シャーミルの指導によるダゲスタンとチェチェンの民族解放戦争』モスクワ、2005年、308頁)と述べる。この二件の報告書には一致しないところがある。書き換えがあったのであろうか。同年春と夏には、ネイガルト将軍からチェルヌイシュフ軍事相に充てた報告書があるので、『コーカサス古文献員会報告集』を調べる必要があるが、筆者の手元にはマイクロフィッシュ・リーダーがないので、問題をそのままにし(但しこの後でダウンロード版を入手したのでこれは単なる言い訳であるが)、とりあえずは先に進もう。なお、ブシュフ編『アディゲイ史概説』(マハチカラ、1957年)は、ハーッジは5月17日に山中に入り、5月19日に死亡したとする。死亡の状況を知るには上のラシュポリ報告の他に、中央軍事史公文書館のものを参照するべきである。
1845年,シャーミルは新たにチェチェン人エフェンディ・スレイマーンと副官ハーッジ・ベキルを派遣した。スレイマーンはグロズノイ南東アルグンとシャリの間のゲルメンチュクの者でソリジャ村の生まれ、セルホイ・テイプの指導者であった。コーランとシャリーアに精通する学者であった。シャーミルの指令は北西コーカサス山地民で強力な聖戦軍団を組織して、彼らをチェチェンとダゲスタンに投入することであった。スレイマーンは村ごとに完全に武装した騎兵を集めることを要求し、2-3千人に達する戦士を集めることができたが、ロシア軍によって前進を阻止された。1845年3-4月スレイマーンは辛うじて僅かな手勢を率いてシャーミルの本営に出頭して状況を報告した。1846年、シャーミル自身が大カバルダに進入してアバヅェフに使者を送り、スレイマーン・エフェンディの率いる増援部隊の派遣を要求した。しかし、村ごとを廻る徴兵作戦に失敗したスレイマーンは、処罰を恐れてやむなくロシアのコーカサス総督ヴォロンツォフの誘いに応じてロシア軍に投降し、1846年旧暦9月30日には既にロシアの軍営にいた。1847年トビリシ出版のロシア語誌『カフカース』に掲載されたシャーミルの7箇条にわたるシャリーアからの逸脱を批判する手紙の著者は彼である。スレイマーンには1,825銀ルーブルの年金が与えられ、メッカ巡礼も許されたが、1852年頃殺害された。しかし、この間、ウブイフ人がロシアとの戦いをすっかり諦めたわけではなかった。1844年7月にはウブイフとシャプスグのゴエ衆合わせて6千人がガラヴィンスコエとラザレフスコエを攻撃した。1845年春にはウブイフ人がナヴァギンスコエ要塞を急襲し、落城寸前まで攻めたてた。また、1846年には黒海海岸で88回の交戦が起こった。1846年1月にはアブハジアに遠征が行われて、手始めにスヴャトイ=ドゥフとピツンダが攻撃された。この遠征は事前情報を入手していたロシア軍に撃退されたが、ウブイフ人は7月にもガラヴィンスコエを包囲した。ムハンマド・アミーンはこのような時に来着した。同年中頃、イマーム・シャーミルは根拠地をカバルダに移して、聖戦にチェルケス人部隊を導入して協力してロシアとの戦争に当たり、黒海沿岸を確保して、トルコや西欧諸国と直接の接触を可能とする計画を打ち出した。シャーミルの構想は更に広がる。カバルダを制圧後は北の平原に下ってエカテリノダル(現在のクラスノダル)に達し、ここでアバヅェフ衆の到着を待つ。彼らはチェチェンに援軍を送れというナーイブの呼ぶかけには応じなかったものの、シャーミル自身がクバンに進めば、きっと参加するだろう。そこで、大コーカサス山脈を超えて黒海海岸のウブイフに到着する。それだけでなく、アブハジアから東に進軍すれば、ダゲスタンのロシア軍を背後から攻撃することができる。イスラーム教徒のアブハズ人、グルジアのイスラーム教徒アジャル人、グルジア北東部のチェチェン(キスト)人、アゼルバイジャン西部に住むダゲスタン人のザカタラ衆、それどころかロシアに征服されたばかりのシーア派アゼルバイジャン人もシャーミルの軍隊に加わるであろう。シャーミルはトルストイの中編小説『ハッジ・ムラート』の主人公であるハッジ・ムラートを始め10人ほどの副官を引き連れ、騎兵1万3千、歩兵1千(総勢9千とする文献もあり)でカバルダに進軍した。別に8千の歩兵が本隊が挟み撃ちにならないようにグルジア軍道を封鎖するために派遣された。しかし、聖戦軍団に加わったカバルダ人は小カバルダの貴族アンゾレフ家の手勢だけであった。夢破れたシャーミルはチェチェンの山地に戻った。
1846年、ナトゥハイの民族集会では、貴族の農民に対する所有権の侵害や盗賊に対する対策、ロシアのスパイを捜索することが話し合われた。貴族たちは自力では抵抗のすべがなく、同年末シェレトルク家を初めとするナトゥハイとシャプスグの貴族たちはロシア政府に武力介入を請願した。ロシア側の責任者は黒海海岸監視線のラシュピル将軍であった。沿黒海北部や隣接地方では、農民の民主化闘争は一層強まり、多くの農民が海岸へ逃走した。60人ほどの貴族は逃亡農民の返還を条件にロシアに帰順する秘密の交渉を開始した。これを知った農民は集会に貴族を呼び出し裁判を行った。また、800人の自由農民はクダコ川沿いに展開して、貴族のロシア領移動を阻止しようとした。貴族は貴族で集まって対策を協議した。しかし、シャプスグとナトゥハイでは力関係は圧倒的に農民に有利であったので、ロシア軍も介入することができなかった。貴族は自分の村に分散した。またこの年、農民はアフィプス川右の支流シェブジュに集まり、常備の民兵隊を作って貴族の取り締まりをおこない、民会の決定は貴族を含めた全員に遵守の義務があることを決定した。アバヅェフでも統一の動きが強まり、1847年、プシェハ河岸で開かれた集会では、1841年の集会で決定されこれまで5箇所に置かれていた行政裁判所あるいは統治府(マフカメ)を一箇所に統合することが決議された。集会は議長・裁判官・専任の警備隊を選出した。マフカメ設置の目的は、信仰の保護強化、窃盗・強盗・裏切り・詐欺・恨みをなくすためであるとされた。このような政治的改革は、それまでの貴族身分の社会的基盤を崩すものであったので、貴族自体も集会を開き農民の運動に対抗しようとしたが、対抗することはできなかった。一方、ウブイフでは貴族の地位低下は起らなかった。国内外の大きな変動の中、ナトゥハイ、シャプスグ、アバヅェフ、ウブイフが参加して、1848年2月から1849年2月の間開かれたアダグム集会は北西コーカサス史の転換点になった。ここでは地域政権の基盤が強化された。チェルケスの全沿海地方で統一的裁判・行政機構を設けること、住民60名から1名の割合で徴募した兵士で常備軍を設置すること(年棒生地60反かロシアの銀ルーブル60枚)。この常備騎兵はムルタズィグと呼ばれ、プセベプス、アダグム、シェブジュに配置された。大会の決定に反対する政治犯のために牢獄を設置、兵士150人で一部隊とすること、住民100戸あたり長老1名を選出し、地域の統治に当たらせること、税を徴収すること、各渓谷を行政的単位と位置づけ、通例16人の長老を奥等の決定をおこない、国家としての歩みを一歩進めた。対ロシア戦は任意の武力集団が自由に行うのではなく、地域連語の執行部が決定することになった。ムルタズィグは1848年4月、イリ川流域に住むシャガンギレイ・ツァコ-ムコパ、ヤウボコ・シェレトルコ、ガプリ谷のセリムギレイ・チュホなどの親ロシア派貴族の資産を没収、アナパに近いゴスタガエフスクなどのロシア軍要塞を攻撃した。しかし、ロシアに対しては、クバン川・ラバ川・黒海に囲まれた地域でロシア側に敵対的活動がない限り、平和的関係を維持し、交易をおこなうことが話し合われた。チェルケス人不満分子の略奪的遠征は禁止された。
ムハンマド・アミーンの肖像(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Muhammad_%28Asiyalo%29_Amin_ibn_Hajjio_al-Honodi_al-Daghestani.
gif) この写真の中のナワーブはいかにも威風堂々としているが、次の写真は怒りと失望を見ることができる(https://www.gazavat.ru/images/upload/754-a38ddf53600ea1a1620cfd3b5cd9b78e.jpg)。
1848年、シャーミルはアバヅェフ人の要請に応じて、ムハンマド・アミーン(アスィヤロ、アミーンはあだ名)を代官(ナーイブ)として海岸地方に派遣した。ムハンマド・アミーンは牛が引く荷車に乗り、各種の商品の陰に隠れて、12月末突然現れた。1849年の春まではアバヅェフで権力基盤確保に努力した。184年1月、アバヅェフ人の集会でシャーミルの書簡が読み上げられると人々は彼をナーイブと認めた。ナーイブ・ムハンマド・アミーンはザクバン地方を一つの政治組織にまとめ上げるという,目的を公表した。ムハンマド・アミーンの1849年の行動はベラヤ川の西の地域で可能な限り自分の支配化に統合することであった。2月ごろには十分に力を蓄え、義務的にムルタズィグを徴発し、シャリーアを実行し、恒久的な徴税を実施し、新たな軍事国家を組織するとこができた。1849年春までにはムハンマド・アミーンの活動はアバヅェフ地域を超え、4月には他のチェルケス人に対する征服活動を開始した。ムハンマド・アミーン自身の言葉によると、「我々はアバヅェフに来て以来、地域でロシア人に忠誠を誓い、さらには人質を出していた人々に働きかけた。我々は彼らを攻撃し、彼らを服従させた。我々は彼らからムルタズィクを取った。全て神佑のおかげである。次に我々はカラチャイに向かい、至福の極みにもシャーミル―神―御名が高められますように―のご意志によって―と合流した。チェルケス人とアバザ人の地方は不服従で、我々は多くの困難に直面した。我々はあるものは殺し、他の者は打ち、投獄した。多くのものを見せしめのために罰した。(中略)ついには自由な意志や強制で従順になるように」(1854年5月24日付、大宰相宛て。ヤフヤ・フーンによる)。この年、ムハンマド・アミーンはロシア軍と101回戦い、大部分は勝利したと言われる。ナーイブは1850年の秋の大部分を未回収の集団の征服の為に過ごした。至る所で散発的な抵抗にであったが、は社会の変革を望み、彼に忠実な人々を頼りに、一つ一つの集団に忠誠の誓約を求めた。ロシア軍の保護が可能な地域の人々は誓約を拒否した。イマームの権威は下がりはじめて、1851年には壊滅的状況に陥り、年末になるとナーイブの権力は、プセクプス川のアバヅェフ人を除き、クバン川左岸では一掃された(ハジェベキイェヴァ)。ウブイフの貴族層はムハンマド・アミーンの権威を利用して彼らに不満を抱いていた平民を統治しようという思惑があった(ラブロフ)。そこでムハンマド・アミーンが転進先に選んだのはウブイフであった。ナーイブはまず、イマーマトに服属していなかったジケティの征服を計画する。10月3日、アバヅェフとウブイフからなる2,000人の兵士を集めて出陣した。事前に状況を察知していたスヴャトゥイドゥフ要塞は、兵士742人と砲2門をムズィムタ川から4kmの地点に配置した。ナーイブの部隊は白兵戦を挑んだが死者20名を出して撤退した。このように1852年のウブイフにおけるムハンマド・アミーンの成功は限定的であったので、クバン川左岸地方に帰らざるをえなくなった。
スヴャトイドゥフ要塞のモデル(https://ic.pics.livejournalcom/bescker/15854836/145183/
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ムハンマド・アミーンは最初、チェルケス社会の支配層である王侯(プシー)及び貴族(ウオルク)に働きかけようとしたが、同時に社会的差別を被っている中層・下層の人々を開放するための処置をこうじた。この方法によってアバヅェフ、ベジェドゥフ、ナトゥハイの支持を得ることができた。しかし、シャーミルの宗教的原理主義はキリスト教の遺風を多く残していたシャプスグからは拒絶された。一方、ウブイフとジケテイでは住民の全層から支持を受けた。ムハンマドはテミルゴイの君侯カラベク・ボロトコフの2人の姉妹と結婚した(最初の妻と死別後、もう一度テムルゴイの王女と再婚する)。ムハンマドに敵意を抱く人々は、ムハンマドは王侯は嫌いだが、王女は好きだと嘲笑った。研究者の中にはこの結婚はテムルゴイの身分制度を破壊する目的があったという。しかし、ムハンマドはカズィクムクのハンの子孫であるし、チェルケスの身分制度は外国人との結婚においては適用されない。ムハンマド・アミーンの活動は、ウブイフではヴァルダネのイズマイル・ヅアプシュ、ダガムィスのケラントゥク・ベルゼクのような貴族身分の支持を得ると共に、中下層の人々にシャリーアの平等主義を宣伝した。こうしてムハンマド・アミーンは一時的ではあったがソチのヴァルダネ(ブウ川流域)に砦を築いた。
ミュリード達は言った。「我々はロシア人が金持ちで、安楽な生活をしていることを知っている。神は彼らに(この)世界を与えた。しかし彼らは邪教徒で、死ねばみんな地獄へ行く。我々は貧しいが、イスラム教徒だ。天国は我々のものだ。人生は短い。我々は来世の栄光と永遠をその場限りの便利さとは取り替えない」。ムハマド・アミーンはイスラーム信仰の核心において、山地民の心を掴んだ。天国と地獄こそがイスラーム教の最も重要な教えで、この発見こそがムハンマド・イブン・アブドゥッラーの大革命と言っていいからである。ムハンマドが砂漠の住民の心を掴んだように、イマーム・シャーミルやシャーミルのナーイブ達は山の人々を信じさせたのだ。但し、この「我々」の中に女性も入っているかどうかが問題だ。勿論、女性が絶対に天国へ行けないということはないが、13世紀の極端な律法学者イブン・カイイム・アル・ジャウズィーはアル=ブハーリーやムスリムの伝える伝承を根拠に天国へ行くことのできる女性は少ないと判断している(水谷周訳『イスラームの天国』国書刊行会、平成22年)。ここで合点がいったのは、ロシアに対する聖戦(ジハードあるいはガザヴァート)で、実際の戦闘に加わる女性はほとんどいなかった。19世紀だけでなく、20世紀のチェチェン戦争でも、有名な女性戦闘員はチェチェン人ではなく「白いパンスト」と呼ばれていたウクライナ人だった。こういうのは筆者の受け狙いで、本当はチェルケスには女性が武器を取る習慣はなかったからであろう。チェルケス人の女性は、ロシア併合に抗議してロシアのクノリング将軍をサーベルで切り殺そうとしたグルジア王太后ダレジャン・ダディアニとは違うのである。ところで13世紀のアナトリアの学者ナスィーリーの『創造の諸階梯』では、カーフ(つまり、コーカサス)山の上に天国の門が開いているのだが、逆に7世紀の人でイエメン出身の改宗イラン系ユダヤ人ワフブ・イブン・ムナッビフの伝承によると、コーカサスのかなたに地獄の入り口があるという。ワフブはこのようなユダヤ系の伝説を数多くイスラームに持ち込んだ人物で、元来の素朴な砂漠の人々のイスラーム教をユダヤ教の教学で塗り替えた改宗者の一人であった、
ムハンマド・アミーンは、海岸地帯で住民が聖所とした茂みの中に設置した十字架を徹底的に破壊し、その跡にモスクを立てさせた。しかし、現地住民は広く反感を抱き、シャプスグのハムイズ・コブレの率いる反乱分子がシェブシュ川のムハンマド・アミーンの軍営を破壊した。その一方、山地のソチのアフチプス、北アブハジアのダルとツェベルダでの苦況についてムハンマドは、オスマン帝国の大宰相(記述当時の宰相はアルバニア人のムスタファ・ナイリパシャ・ギルトリだったが、彼はまもなく更迭されたので、実際に読んだとすれば次の大宰相メフメット・エミン・パシャ・キブルスルであったろう)に宛てた書簡の中で、「我々はアバヅェフに来てから、ロシアに服属し、あまつさえ人質さえあたえている地域で活動を行った。我々は彼らを攻撃し、服属させた。我々は彼らから人質(ムルタズィグ)をとった。全て閣下の大いなる祝福のもとで行われた。我々は時宜の宜しき折、カラチャイを出発し、シャーミルのもとに向かいます彼の名が高められますように-がお望みならば。このチェルケス人とアバザ人の国には秩序がなく、我々はそのどちらでも大きな問題を抱えた。我々はあるものを殺し、あるいは打ちすえ、また他の物を投獄した。我々は彼らが、彼らが神の-彼の名が高められますように-ご意志とあなたとシャイフ・ジャマールッディーンと全てのナクシュバンディー派のシャイフ達の―彼の名が高められますように―最高の祝福とによって、あるいは自発的にあるいは矯正によっての彼らの隠れ場所を浄化し、最終的に従順になるように」。シャーミルの代官ムハンマド・アミーンのイスラーム政治は人気がなかったことを告白している。
シノップを砲撃するロシア艦隊(アレクセイ・ペトロヴィッチ、ボゴリュボフ、18241896)
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1853年11月30日ナヒモフ提督率いるロシア黒海艦隊が、トルコの軍港シノプを急襲して、繋留中のトルコ艦隊を撃滅したことによってクリミア戦争が始まった。ムハマド・アミーンに再起の機会を与えたのはクリミア戦争であった。既に1852年に海岸にポーランド人ムラデンツキーとイタリア人ピチニッキが現れ、スルタンの勅使であると自称し、まもなく戦争が始まること、チェルケス人はその準備をするべきであることを伝えた。秋10月、ムハンマド・アミーンはコンスタンチノープルからの命令に基づき、まもなくロシアトルコ間の平和的関係が破綻すると宣言し、武器を取ってオスマン帝国のために戦うべきことを命じた。同年末ウブイフの海岸からハンオウルと自称する人物がムハンマド・アミーンの密命を帯びてトルコに渡った。1853年2月、数人のラズ人(アナトリア島北部海岸にすむグルジア人)がウブイフの海岸に来着し、ハンオウルからの期待を抱かせる書簡を届けた。ハンオウルはクムイク人のハーッジ・イスマイール・ハンオウルのことで、シャプスグの長老ハーッジ・ムハンマド・コブレの娘と結婚したとき、虚栄心の強い岳父が婿の父はハンであると言い張ったので、このようなあだ名がつけられた。1853年10月24日付のサドルアザムの文書は、シャーミルの代表としてイスタンブルに派遣されていたイスマイル・アーが、数日後帰国することを述べている。
使節ハンオウルはスルタン自身の接見を受け、トルコ軍派遣の約束を与えられた。またこの時、ムハンマド・アミーンからフランス国王ナポレオン3世に援助を乞う使節が送られた。3月西コーカサス中にムハンマド・アミーンの檄文が廻り、ロシアとトルコの間の戦争が近いと宣言された。同年の半ば、トルコから火薬・鉛・鉄を積んだ3隻のカチャルマ船がソチのヴァルダネに入港し、ムハンマド・アミーンが直々に物資を受け取ったが、黒海東岸ではまだ他にも軍需物資を積んだ5隻のカチャルマ船が到着していた。同年1853年10月4日、開戦が布告されると、セフェル・ベイは宮中に参内を許され、エディルネから上京した。1853年10月30日、トラブゾンのヴァリーは軍事省にセフェル・ベイの使者ハーッジ・メフメット(ムハンマド)・エフェンディとハーッジ・アフメト・アーが出帆した旨の報告をしている(山内昌之)。ハーッジ・アフメドはムハンマド・アミーンの甥であるので、もう一人のメフメッド・エフェンディはセフェル・ベイに近い人物、1832-3年、セフェルと共に帰国旅費を支給されていた人物であるかも知れない。ムハンマド・アミーンは、メフメト・アーに宛てた書簡(1850年付)で、イスマイル・エフェンディをカーディーに、ハーッジザーデ・ムハンマド・エフェンディをムフティーに任命したと記している。ハーッジザーデは1836年に国旗の保管者であった人物の息子であろうか。また山内氏が発見し公表した公文書草稿では、ムハンマド・アミーンに宛てて、メフメットとアフメドが派遣されるが、用務の詳細は口頭で伝達する旨の由が記されている。また現地へはセフェル・ベイが到着するので、ムハンマド・アミーンは大砲の受け取りの為に100戸あたり2頭の牛と馬を集め、協議のため同じ単位から長老2名、ムッラー1名を招集することが命じられていた。セフェル・ベイ自身シャプスグ、アバヅェフ、ウブイフに通知して、まもなくノヴォラシースクに上陸するので軍事物資運搬のために牛1,000頭、馬1,000頭の用意を求めたと言われる。また、セフェル・ベイが息子カラバトイルにあてた書簡は、ブジェドゥグにロシアに対する戦闘を進めるように命じていた。シャプスグ、アブゼフ、ウブイフに対しては、ムハンマド・アミーンには従わず、セフェル・ベイの到着を待つように命じた。使者を乗せたトルコ船はナトゥハイ地方のゲレンジクとヴラン川の間の港に到着した。ベルの乗った船も到着したプシャト(プシャダ)川河口の停泊地を言うのであろうか。
プシャダのウクレプレニエとチェルケス人との戦いhttps://arch-sochi.ru/wp-content/uploads/
2018/04/img-arso-4353.jpg カリグラフのタイトルは「ツハス要塞の火事」«L'illustration: journal universel» 1854 г.に掲載されたDurand Bragerの紀行文(ナタリヤ・ザホロヴァ氏による)「カシクおよびセンプソン探検隊」である。
オスマン政府の構想では、セフェル・ベイとムハンマド・アミーンはムスタファ・パシャの指揮下、開戦までに現地で合流し、力を合わせ山地民のロシアに対する攻撃を準備しなければならなかった。このための最初の課題は山地民を常備軍に編成することである。同時にムハンマド・アミーンはイマーム・シャーミルの援助のために武装部隊を派遣しなければならなかった。しかし、トルコ政府はムハンマド・アミーンの軍事政治的権威が、チェルケシアにおける帝国の立場を危うくすることを恐れ、ムハンマド・アミーンの弱体化を図り、チェルケシアの最高権力をセフェル・ベイに与えた。この時、セフェル・ベイを推薦したのは軍事大臣ダマド・メフメット・アリ・パシャであり、ムハンマド・アミーンを押したのはトプハネ工廠長官フェトヒ・アフメト・パシャであった。ダマドは黒海東岸出身者が多いリゼの出身であるが、アナトリア北東海岸地方と黒海東岸地方との人事的かかわりの深さは、明らかであり、フェトヒの役所があるトプハネにはムハンマド・アミーンの甥がいて、種々のロビー活動をしていた。しかし、最終的には外務大臣レシト・パシャがセフェルを押して、セフェル・ベイが指導者に選ばれ、ミールミーランの地位とパシャの称号を与えられた。結果的に黒海東岸諸地域の内、ナトゥハイはセフェル・ベイが、シャプスグはトルコとの交易をおこなっていた商人ハーッジ・イスマーイールが、アバヅェフはムハンマド・アミーンが、そして、アブハジアはアレキサンドル(イスケンデル)・シャルヴァシヅェ(スレイマン・パシャ、ミハイル大公の弟、生没年1818-75)が、そしてウブイフはベフチェト・パシャが治めることになった。ベフチェトはウブイフ人で、幼時奴隷として買われ、レシト・パシャに仕え、ついに統治者として故郷に錦を飾ったが、ウブイフでは特段の功績のない奴隷出身の24歳の若者に敬意を払う人とていなかった。ベフチェトは虚しくイスタンブルに戻った。
クリミア戦争時のスフム・カレ(同上)https://arch-sochi.ru/wp-content/uploads/2018/03/img-arso-4348.jpg
セフェル・ベイは1854年春、スフームに上陸した。要塞は前年オマル・パシャが占領しており、ロシア軍は既に3月にアブハジアから撤退していた。セフェルに同行したオスマン軍将兵1,500人と大砲36門はアドレルに揚陸された。命令を受けたウブイフ、シャプスグ、アバヅェフの兵士がガグラに前進した。アブハジア大公ミハイル・シャエルバシヅェは、ロシア当局にセフェルのもとに参集した兵力は歩兵6万と騎兵であったと報告している。セフェル・ベイはムハンマド・アミーンをはじめとする重要人物をスフームに召還し、スルタンの名において、バトゥームのオスマン軍を援助するために出陣することを命じた。しかし、チェルケス人はチェルケシアの解放につながらない遠隔地の出兵に拒絶の意思を示した。セフェル・ベイはムハンマド・アミーンがラズィスタンの知事に報告してしていた動員可能兵員数が虚偽であることを非難したが、ムハンマド・アミーンはコーカサス人は故郷から遠く離れた戦場へは出陣することができないと言い放った。ムハンマド・アミーンの指揮下にある兵力は、常備軍であるムルテザク以外は、無給の農民志願兵であるから、常に自分の畑と家畜が気になるのであろう。他方、ムハンマド・アミーンのサドルアザムに宛てられた書簡(1854年5月22日付)は、「さて、もしセフェル・ベイ・ザヌコがオスマン軍に付き添われて到着すれば、服従を強いられた武力集団の長たちは、我々が神―御名が高められますよう―の経典に従って彼らを罰しないことで我々を批判するでしょう。今のところは彼らは我々に対する意図を隠しています。しかし、神は―御名が高められますよう―最初にして最後、明らかであって隠れておわします。我々は神に―御名の高められますように―に託し、彼こそが万事の組織者です」。(1854年5月24日、大宰相宛て書簡、ヤフヤ・フーンによる)」。止む無くナーイブ軍に加わっていた王侯貴族が、旧来の支配者であるセフェルの旗のもとに集まることを危惧したのである。以後、ムハンマド・アミーンはセフェル側からの一切の提携条件を無視、兵士募集にも協力しなかった。この7月にムハンマド・アミーンは自らイスタンブルに赴き、スルタンの庇護を求めた。政府はムハンマド・アミーンにもセフェル・ベイと同じ、ミールミーランの地位とパシャの称号を与え、ダイヤモンド付きの勲章で飾られた祝典用の栄服を与えてチェルケシアに返した。しかしこれは混乱解決には繋がらず、それどころか、1855年3月、シェブジュとスプスィで両者の部隊は交戦状態に入った。
ロシア軍は敵軍に占領されることを恐れて、海岸の軍事施設をすべて破壊して兵力を引き払った。1855年5月、セフェル・ベイは少数の兵を率いてスジュクに上陸した。国を出た1831年に現ソチ市内ヒゼのウブイフ人のもとに残した息子カラバティル(イブラヒーム、ロシア語からの表記はイブラギーム)を呼び寄せたが、カラバティルは1849年10月にはアバヅェフ、シャプスグ、ナトゥハイ、ウブイフ等の兵を率いて、ニコラエフスコヤ屯田村を攻撃している。ソチに育ったカラバトイルは一部隊を率いるに足たる戦歴は積んでいたのであろう。
クリミア戦争が始まり、1855年5月にオスマン軍がアナパを占領すると、直ちにナトゥハイ出身の元アナパ司令官セイト・アフメト・パシャの息子ムスタファ・パシャが着任して、出自のナトゥハイであることを強調、自分は「チェルケス地方とバトゥム軍司令官」であり、セフェル・ベイは「アナパからテレクにいたる地域の長」であると吹聴した。政府は対立する実力者の上にムスタファを置いて、状況の安定化をはかったのである。1828年のアナパ防衛戦の誼のあるムスタファとセフェルの関係は良好であった。同年12月、セフェル・ベイは2個大隊、砲5門で、エカテリノダル(現クラスノダル)遠征を試みるが、失敗した。アナパ落城から20年近く過ぎ、セフェルにはこの間の実践経験は全くなかったのである。コーカサス軍右翼司令官フィリプソン将軍(グリゴル・イヴァノヴィッチ、1809-1883、1855年黒海コサック官選アタマン、1858年右翼軍司令官、1860年参謀総長、1861年元老院議員)に手紙を送ってチェルケス人の法的地位の確保について請願した。この時、ツァーリ、アレクサンドル二世に宛てた請願書は、「オスマン政府の保護下にあって、オーストリア、イギリス、フランスに対して、我々の独立の権利を保証するように請願するつもりである。我々はこぞって神聖なコーランにかけて、キリスト教徒の権力を認めないと誓った」と言い放っている。独立派チェルケス人と現地オスマン軍の努力にも拘らず、クリミア戦争後の1856年3月パリ平和条約ではチェルケシアがロシア領であることが確認された。交渉の過程ではロシアの南下を阻止しようとするイギリスはチェルケシア独立を支持したが、フランスはこれに反対した。日本においても英仏の利害が対立していたことが思い出される。オスマン軍撤退後の主導権を巡って、セフェルとムハンマドの対立は深刻になり、1856年5月両者の軍は再びスプスィ川で衝突した。オスマン政府は仲介を試み両派の代表者をイスタンブルに召還した。ムハンマド・アミーンは出仕したが、セフェル・ベイは出仕できず、息子カラバトィルを派遣して服属を条件に庇護を請願させた。この夏最後のオスマン軍部隊が帰国すると、セフェルもアナパを脱出し、シェブジュ川を越えて、シャプスイフリア川畔に撤退した。セフェルは同年末までスジュク(現ノヴォラスィースク)に留まり、ムハンマド・アミーンの不在に乗じて、トゥアプセにあったアバヅェフとブジェドゥグからなるナーイブ軍の兵器庫を焼いた。ナーイブ帰国後の1857年1月、セフェル・ベイの息子カラバトィルが率いるナトゥハイ軍と、ムハンマド・アミーンのシャプセグ、アバヅェフ、ウブイフ軍が戦い、敗れたナーイブ軍はアバヅェフに後退した。4月ウブイフ人はアブハジアに遠征し、イナルイパ家の領地コルドフヴァルィ村を攻撃した。7月には5千のウブイフとジゲティがアドレルに集結し、ハーッジ・ケラントゥフとイズマイル・ズィアシュの指揮でガグラに攻撃をかけた。しかし、この最中に以前ベルゼク家の者が降伏交渉のためにスフミに趣いた一件が明らかになって攻撃は中止された。内部の混乱とともに、チェルケス人の独立運動は次の局面を迎える。
ウィリアム・シンプソン(1832-1899)「スバシュのチェルケス人(1875)」 https://www.masterart.com/artworks/5767/william-simpson-circassia-tcherkess-of-the-soubash クリミア戦争後第5代ニューキャッスル公爵ヘンリー・ペルハムはソチを訪ねたが、画家はその随行者の一人であった。
ウイリアム・シンプソン(1832-1899)「ヴァルダネ溪谷(1855年10月19日)」https://www.metmuseum.org/art/collection/search/729402
ウイリアム・シンプソン「ワイア要塞の人々(1855年10月8日)」この画家が付けている表題のワイアは存在しない地名であるが、画面右側の稜線はラザレフスキーであるとされている。つまり、グアイエ村である。https://images.masterart.com/SphinxFineArtMedia/Artworks/William-Simpson-Circassians%20at%20the%20Fort%20of%20Waia,%208th%20October%201855.T636546433333514411.jpg?width=685&height=856&mode=max&scale=both&quality=80
ウイリアム・シンプソン「ワイアの長老会議(1855年10月8日)」Simpson, W., Picturesque
People: Being Groups from all Quarters of the Globe, (London, 1876).https://collection.nam.ac.uk/
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1859年8月イマーム・シャーミルはダゲスタンのグニーブで降伏した。しばらくの間ムハンマドはロシア軍と戦い続けたが、もう困難で望みのない戦闘を続ける意味はなくなった。ムハンマド・アミーンが降伏したのは1859年も秋11月になってからであった。アレクサンドル2世はムハンマドに年金を許し、カルーガでシャーミルに面会させた。面会は通り一遍なもので、シャーミルの弟子(ムリード)に対する態度は冷淡だったと言われる。出国を許されたムハンマド・アミーンは、イスタンブルに移住し、ロシア皇帝の年金拝領者と抵抗者の顔を使いわけたが、オスマン帝国内に移住した同胞の救援にも力を尽くした。それでも逆に現地ではムハンマド・アミーンの支持が拡大した。もう一方の指導者セフェル・ベイも1859年12月、アナパのナトゥハイの村で死亡した。在トルコ、イギリスのチェルケス委員会の活動は続き、軍事援助も継続したが、1859年以降、現地の状況はどんどん悪くなっていく。
「イマーム・シャミールのバリャチンスキー公爵への降服」(1880)(アレクサンドル・ダニロヴィッチ・キヴシェンコ画)ru.wikipedia.org/wiki/Взятие_Гуниба#/media/Файл: なお同じテーマのフランツ・ルボー「グニブ村奪取とイマーム・シャミールの捕縛」(1886)、テオドル・ホルシェルト『シャミルの降服』(1863)も有名である。(Imam_Shamil_surrendered_to_Count_
Baryatinsky_on_August_25,_859_by_Kivshenko,_Alexei_Danilovich.jpg)
「ナーイブに与えられた旗を持つムリード」Theodor Horschelt (1858-1861)
https://www.wikiwand.com/en/Caucasian_Imamate
イマーム・ハムザ・ベクの軍旗は三尾の緑旗白地にコーランの章句、イマーム・シャーミルの軍旗は二尾の縁付緑旗に黒字のアラビア語の章句(神は我々の息である。ムハンマドは我々の預言者―ナビ―である。)句が入っていたもの(https://www.worldstatesmen.org/Russia.htm)、あるいは二尾の赤い帯の入った緑の旗であった。
第3項 二人の冒険兵士―バンディアとワピンスキ
ポーランド独立運動家テオフィル・ワピンスキの肖像arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/Bona-bona-tabornokok-torzstisztek-1/szazadosok-az-184849-evi-szabadsagharcban-96F2/eletrajzi-adatok-989D/l-9E6E/apinski-teofil-9E84/
欧州におけるチェルケス支援活動は、かえってクリミア戦争後に活発化した。その活動家の1人はあのアーカートであったが、イギリス政府の関心は1836年のヴィクセン号事件以後コーカサスから離れ、アーカートの活動は主としてパーマーストン批判に向けられていた。もう一つの中心はポーランドの亡命王族アダム・ツァルトリスキ公で、1830年代よりコーカサスに工作員や武器弾薬を送り続けていた。彼らの活動の本部は、17世紀に建てられたパリ第4区サン・ルイ島にあるランベ-ル・ホテルにあったので、公を中心とする亡命ポーランド人はランベール・グループと呼ばれていた。この二つのグループは、オスマン、イギリス、オーストリア=ハンガリーの関与のもとに協力して、チェルケスに支援部隊の派遣を決定した。ハンガリー軍の大佐ヤーノシュ・バンディヤ(アフメド・ベイ)が率いる80人ほどのポーランド人およびハンガリー人エミグレとポーランド人の大佐テオフィル・ワピンスキ(テヴフィク・ベイ)の砲兵隊の合わせて僅か200人ほどが乗船した英国船カンガルー号が、1857年2月トゥアプセ川河口に到着した。コンスタン地プルのロシア大使アポオリナルイ・ブテヴョフは、彼らの計画を察知し、カフカース総督に通告していたが、ロシアのバンディヤは当初スルタンのコーカサス軍総司令官と自称していたが、後では「在コーカサス欧州軍総司令官」とさえ称した。この欧州軍の砲兵隊は、5月にアダグムでロシア軍と最初の砲撃を交わした。しかし、同年7月ロシア軍はゲリンジクとトゥプセを急襲したので、ゲリンジクにいたワピンスキはかろうじて逃亡することができた。この事件は支配権を巡って競合関係にあったワピンスキを排除するために、バンディヤが仕組んだと信じられている。バンディヤはセフェル・ベイを名目的首班とする自治国家の樹立を目指し、ロシア・コーカサス軍右翼のフィリプソン将軍との交渉も行ったが、これはワピンスキの知るところになり、バンディヤ自身が軍事法廷に召喚された。判決は有罪、死刑であったが、セフェル・ベイはバンディヤはトルコの軍官であることを口実にして、トラブゾンに送り返した。実はバンディヤはセフェル・ベイ家の婿であった。セフェル・ベイに愛想が尽きたワピンスキは、セフェルの敵ムハンマド・アミーンと組むことを考えて交渉を始めたが、これを知ったセフェル・ベイによって逮捕されたものの、1858年11月20日、自分の手のものによって解放された。ワピンスキとムハンマド・アミーンとの交渉は1859年7月3日に成立し、ワピンスキ部隊は住居、食糧、馬、飼葉を与えられることになった。しかし、5か月後の12月2日ムハンマド・アミーンがロシア軍に降ると、ワピンスキはその3日後、自分の部隊とともにトルコ船に乗り込み、イスタンブルに向かった。ワピンスキも、またバンディヤにしても特にチェルケス人が好きだということでも、自由を求める民族を支援したいということでもなかった。ワピンスキは何よりもポーランドの独立のために働いたのであるし、バンディヤに至っては彼自身の言葉によると、すべてがコッシュートの指令だというのである。ワピンスキはヨーロッパに戻り、バンディヤはイスタンブルの警察長官として生を終えた。
ランベール・ホテル(パリ サンルイアンイル2)https://upload.wikimedia.org/wikipedia/
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さて、この間ソチの人々は、自分たちの運命の当事者ではなかった。1854年5月、ベフチェト・パシャとオスマン正規兵1,500は、砲36門を携行してアドレルに上陸した。スヴャトイ・ドゥフ要塞を牽制あるいは攻略するためであろう。セフェル・ベイの招集に応じたソチ兵多数がブズィブ川流域に前進した。しかし、ウブイフ人は、自分達は人に従うのはなれていないと称して、ロシア軍と戦うためであれ、オスマン軍の一部に編入されることえを拒否した。ベフチェット・パシャもウブイフ部隊の解散に同意した。セフェル・ベイとムハンマド・アミーンの間に主導権を巡る抗争が生じても、ウブイフ人は全体としてはどちらの側にも付かなかった。6月にはアブハズ大公からウブイフ人にムハンマド・アミーンの味方をしないようにという働きかけがあったが、この後ウブイフ人はナーイブのマハクメを破壊して、カーディーとムルテザクを追放し、山地ではモスクを焼き払い、伝統に従って十字架を崇拝した。しかし、翌1855年オスマン軍がスフムに上陸するとウブイフとアバヅェフはミングレリア遠征の件で、ミハイル・シャルヴァシヅェ及びムスタファ・アフメト・パシャと協議を行ったようだが、結果は明らかでない。1856年にムハンマド・アミーンがイスタンブルに参内した時、ウブイフの代表団も同行し、1853年にパシャの称号を与えられていたセフェル・ベイがどのような理由でパシャとしてチェルケス人を統治するのか質問した。この年シャプスホ川河口に停船したトルコ船には50人ほどのウブイフ人とアバヅェフ人が乗り込んでいて、アナパからガグラまでの人々が自由であること、彼らはセフェル・ベイに従う必要があること等のトルコ政府の見解を告げ、この一行がスルタンに拝謁し勲章を拝領したことなどを報告した。1856年10月ムハンマド・アミーンと随員81名も帰国した。この間ウブイフ人はシャプスグと共に軍事行動を続けていたが、ロシア当局はガグラを防衛して、ウブイフ人の南下に備えた。1857年、ジケトの指導者達はロシア軍との交渉を再開し、さらに血債があるウブイフ人との抗争を恐れ、ホスタにロシアの要塞を建設することを請願した。ムハンマド・アミーンの不在にともなって、ソチでは再び貴族の発言権が強まったが、1857年7月には5千人の兵士が集まり、ハーッジ・ケラントゥフ・ベルゼクとイズマイル・ベイ・バラカイイパ・ヅエプシュの指揮下にガグラに遠征することを計画したが、ハーッジ・ケレントゥクの一族の小ハーッジ・ベルゼクが密かにアブハズ大公およびガガーリン将軍と協議中であるという噂が流れたので、部隊はガグラ遠征を中止してハーッジ・ケレントゥクの家屋敷を略奪した。1858年、再びムハンマド・アミーンが現れ集会を開催して、海岸部チェルケス人の統一を主張したが、貴族層の強い反対にあって、アバヅェフに戻った。貴族層はアブハジア大公ミハイル・シェルヴァシヅェおよびロリス=メリコフ少将と帰順の為の交渉を開始した。しかし、平民層は新しい戦闘を望んでいた。このような状況下、1858年10月17日に、トルコの軍事大臣リザー・パシャの部下オマル・アーが来着し、4か月間ウブイフとアバヅェフに滞在した。彼はウブイフ人の奴隷出身であった。彼はソチから奥地に入りムハンマド・アミーンと会見した。オマルは到る所でパリ講和会議でチェルケシアの独立が承認されたと吹聴し、ヨーロッパ諸国に対してチェルケシアが独立していることを主張する宣言書を作成させた。オマル・アーのもう一つの狙いは、ベラヤ川流域の銀鉱山開発であった。ソチの尾根向こうのオシュテン山の麓で、位置はヴァルダネから海岸線に対して垂直に引いた線とアドレルから真北に引いた線が交差する辺りである。ムハンマド・アミーンはロシア人の脱走兵および捕虜200人を集めて銀と鉛の採掘を開始した。立案者はワピンスキーであった。しかし、ハーッジ・ケラントゥフは鉱山を襲撃し、ロシア人とアバヅェフ人の鉱夫を殺害した。ムハンマド=アミーンの詰問に対し、地下資源がロシア人の興味を引くことを恐れたのであると答えた。この答えが本心であるかどうかは解からない。伝統的は銀山はここだけではないからである。
カラチャイチェルケス共和国エルブルススキー村の銀鉛鉱山跡。これは上に言う鉱山とは別
である。https://i0.wp.com/kalugafoto.net/images/foto/uzunkol/uzunkol131.jpg
メフメット・リザー・パシャtr.wikipedia.org/wiki/Mehmed_Rıza_Paşa#/media/Dosya:Mehmed_Riza_Pasha.jpg撮影アブドゥッラ兄弟、1880、イスタンブル)
クリミア戦争後の1859年頃より、ロシア海軍は再び海岸の封鎖をして、チェルケスとトルコとの交通を遮断できるようになった。1859年4月6日、ロシア軍の(アゾフ海で用いられている)小型船が、ソチ沖で塩を積載したコチャルマ船を拿捕した。また9日2隻のコチャルマ船がロシア船との交戦の結果、炎上した。また、同日シャヘでも2隻のコチャルマ船が砲撃を受け、ソチでもコチャルマとトルコ人の商店と民家が砲撃によって炎上した。ウブイフ人はロシア軍の強襲上陸を恐れて海岸に近い村落ごとに10人の見張りを付け、ロシア海軍の小舟を大砲で砲撃し始めた。ロシア側はソチの貴族、ホトハ・サンプとクシュチ・シェクルハを買収して大砲を盗みださせた。両名は4月10日青銅砲と6フント臼砲をロシア軍司令部に持参した。11日ソチでは港に入っていたコチャルマ船がロシア軍に拿捕されたが、船にはトルコ人9人、チェルケス人6人、女性1人が乗っていた。この際トルコ人は貨物を海中に投げ捨てたが、それが何であったかは詳らかでない。4月末、ソチとヴァルダネの間で停泊中のコチャルマ船2隻と店舗が砲撃を受けた。1859年10月6日、ロシア軍のコルヴェット艦がコチャルマ船を攻撃中、岸から砲撃を受けたが、弾丸は船まで届かなかった。ヴァルダネではクリミア戦争後、バザールが再建されたので、10月22日ロシア海軍艦船はバザールに攻撃を試みたが、反撃を受けて撤退した。チェルケス人の王侯貴族は再び対露同盟を計画し、1859年4月、クリムスクとノヴォロスィースクの中間にあるベゴグ-(またはボガゲ)渓谷でシャプスグ、ナトゥハイ、アバヅェフ、ウブイフが集会を開き、1)独立のための戦争を継続するという誓約をし、2)共同歩調、3)セフェル・ベイに対する忠誠を決定した。ただし、平民は第3の案件には賛成しなかった。6月22日、ロシアのアダグム要塞が攻撃を受けたが、2日間の攻撃の後、寄せ手の間に身分および種族間の紛争が起こって、解散した。7月初めにはウブイフ人とジケト人500人が集まり、ガグラを目指して出陣した。彼らのもとには青銅砲2門があったが、丁度この時ホスタに入港したコチャルマ船が塩、織物の他に火薬を積んでいた。13日、部隊はガグラまでの途中のツァンドラプシを攻撃し、死者20人を出したがその牧地にいたすべての馬を奪った。20日、ウブイフ人とジケト人はガグラ周辺に現れた。ガグラ地方の貴族ソメハ・ツァンバとソメハ・アビチャは習慣を無視して聖樹の林からウブイフ人を攻撃して、近くの山に退却させた。22日、ソチ衆は再びガグラを攻撃したが人数が少なかったので、目的は達しなかった。
この年、イマーム・シャーミルがロシア軍に降伏するとナーイブのムハンマド・アミーンも投降し、1859年11月20日ロシア軍のハムケトゥイ要塞でムハンマド・アミーン、アバヅェフの長老たち、1500-2,000人の一般民が参加して、帰順式が行われた。アバヅェフに先だって同年5月、ブジェドゥグ、チェミグイ、マホシ、ベスレネイ、アバジン人のシャフギレイ集団が帰順していた。ナトハイ、シャプスグそして、ソチのウブイフとジケトだけが残った。ムハンマド・アミーンは、自分自身の随員、弟アブーバクル、参謀およびアバヅェフ長老からなる代表団とともにサンクトペテルブルグに赴き、翌18604月18日皇帝アレクサンドル二世に謁見を賜い臣従を誓った。皇帝はこれに満足し、ムハンマドに褒賞と年金を与えた。この時、皇帝に提出したアバヅェフ人の誓約書がロシア国立軍事史古文書館に保存されている。この中でアバヅェフ人の代表者たちは、フィリプソン将軍に与えられた保証、つまり「現在アバヅェフ人に属し、また利用されている土地は、永遠にその所有権が侵害されず、どのような部分であろうと、コサックの屯田村に保持されることはない」(第七項)等を条件に「ロシアに服属していない山地種族のロシアの活動に対する敵対行動に加わらず、これらの山地民から自分達の固有の境界を保持する」(第三項)ことを誓約した。この和平の結果、ロシア軍がアバヅェフ人の集落を通過しても最早住民は逃亡することなく、女たちはかたまって遠くから、男と子供は近くに寄って見物した。ハムケトゥイのロシア軍陣地でも2年間平和が続き、アバヅェフ人の住むスプス川からファルス川の間は平穏になった。一方、ロシア軍はアバヅェフ方面を気にすることなくシャプスグ平定戦を実行することができた。
第4節 最後の聖戦(1860-1864年)
第1項 帝国対共和国
ソチ衆もムハンマド・アミーンの降服とサンクトペテルブルグ行きを等閑視していたわけではなかった。1860年1月、ハーッジ・ケラントゥフとラシド・ゲチバは、平民には通知せずに貴族からなる300人の随員を率いて、ガグラでロシアのクタイシ総督エリスタヴィ公と降伏条件の交渉に当たった。両者の主張は妥協点を見いだしたので、住民総会の議を経て一か月後に正式に合意されることが決定された。ロシア側の提示は以下の6点である。①ウブイフ人はコーランに誓って、ロシアに服属することを約束する。②ウブイフ人はロシアの捕虜と脱走兵を引き渡し、ロシアに対抗する山地民を援助しない。③ウブイフ人はロシア当局に従う。④ウブイフは当局の指導の下、現地慣習法による法廷を開設する。⑤ウブイフ人は領内でロシアが要塞、道路、基地を建設することを妨げない。一方、ソチ側は以下の権利を獲得する。①信仰の自由、②メッカ、トルコとの往来及び移住の自由、③人民法廷は軍事法廷にかかる裏切りや反乱以外のことを慣習法によって裁く、④検疫所や倉庫を設けられる数地点で海上交易ができる。この内容を知ったウブイフ人大衆は、直ちに激しく抗議した。折から、イスタンブルに滞在していたヴァルダネの貴族イスマイル・ヅェイシュから英土両軍派遣の情報と少なくとも夏まで降伏を遅らせるべきであるとの意見が寄せられた。ジケチ人も激昂して領主ラシド・ゲチバを攻撃した。ウブイフ人はハーッジ・ケレントフの一族のクチュク・ハーッジ・メフメド・ベルゼクをエリスタヴィのもとに派遣して、ハーッジ・ケレントフは病気と降雪のために旅行できないが、貴族層は降伏の意志を持ち続けており、ハーッジ・ケレントフ自身がカフカース軍総司令官のもとに行く用意があると述べた。しかし、ソチ側の実情はジケチ人の貴族ガグラのソメフ・アビチャ、ツァンドラプシのヤクブ・ツアンバ等のスパイなどによって詳細に伝えられていた。そのため講和の実現は不可能になり、戦闘が再開された。2月、ウブイフ衆とジケチ衆は25艘ほどのカチャルマ船に乗り込みガグラとピトゥンダの間の海岸に上陸した。ロシア海軍はアブハジア海岸で兵力を増強、4月17日にはソチの海岸を砲撃した。この作戦でアドレル、ホスタ、ルー、スプスィで各一艘のカチャルマ船を破壊され、ルーでは海岸の市場が火事になった。
この間、クバン川左岸ではロシア軍の前進が続いていた。1860年1月既にナトゥハイが降伏(ここにはナトゥハイ軍事管区が設置される。長官はバウイチ将軍)、新しいクバン軍司令官エヴドキモフ将軍の指揮下にロシア軍は大シャプスグに攻勢を掛けた。同年5月24日から6月1日アビン川とアフィプスィ川の間でアウル30ケ村を破壊、また、6月8-9日35村を破壊した。8月にはアミルフヴァリ将軍がアフィプス川のスフノヤク村で民家千軒を焼いたので、住民は森の中に逃亡した。和平状態下にあったアバヅェフではコサックの入植が開始された。
ウブイフ人は抗戦派を鼓舞するとともに自らも援軍を送り、6月初めにはアバヅェフと大シャプスグの境界のシェブシュに兵を出し、アバヅェフ、シャプスグ両集団残兵とともにロシア軍と交戦した。6月13日には、ウブイフ兵とジゲチ兵約千人がガグラ要塞を攻撃した。また、領地を追われていたアブハジア高地の君侯キズィルベク・マルシャアニもツェベルダに進入した。これに応じたロシア軍は、8月ムズィムタとホスタの間のプスホを攻撃した。戦闘は6日間続き、艦砲射撃によってアルト村の住民に大きな被害を出した(ラブロフ、1937)。
これらの状況を受けたウブイフ人、シャプスグ人、アバヅェフ人らの代表は、1861年㋄末ソチに集会を開いて善後策を講じ、6月13日新しい執行機関「大自由評議会」の設置を発表した。この間の経緯は不明であるが、当時すでにアバヅェフの大部分はロシアの支配下にあり、シャプスグも海岸の小シャプスグは無傷だったが、コーカサス山脈北側の大シャプスグはロシア軍の攻撃を受けて崩壊し、一部の住民のみがアバヅェフ領に逃亡していた。ソチに集合したのがしたのは、代表者だけであったとしても、慣習法ではこのような開戦や和平に関わる決定は全員集会で決定されなくてはならない。大シャクプスグとアバヅェフは全員集会開催が可能な状況ではなく、集会可能な小シャプスグとウブイフもロシア側スパイはそのような報告をしていない。従ってこの政府の正当性についは問題があるかも知れない。さて、3民族は全体を12の地区に分け、共通の徴税システムを導入し、100戸あたり5人の騎兵を徴収して常備軍を維持することが決定された。また、各区にはムフティー、カーディー、ムフタル(長老)が置かれた。中央執行権力としてマジリスが設けられ、各民族から5名、計15人からなる執行委員会が置かれたが、イスマイル・バラカイ・ヅェイシュ(ウブイフ)、ハーッジ・ホシャ・シャフスリ(バブコフ、ウブイフ)、ハーッジ・ケレントゥフ(ウブイフ)、ビシュ・ハサン・エフェンディ(シャプスグ)、カラバトィル・ベイ・ザヌコ(セフェル・ベイの息子、ナトゥハイである)等であった。新政府の制度的枠組みは、8月にスフムのイギリス領事館に宛てられた書簡によって知ることができた。この決定に先立って同年5月トルコから、オスマン軍人スメリ(ウブイフ人)、ウブイフ人ハーッジ・ハサン、及びイギリス人一名からなる使節団あるいは個人的活動家が到着した。彼らの具体的目的と実際の行動は不明であるが、大自由議会設置決定にいたる議論が彼らと無縁であったとは考えにくい。同年12月議会設置決定のニュースは海外に伝えられ、9月には『ニューヨーク・タイムズ』に関連記事が掲載された。政府庁舎(マジュレス)はウブイフ、ジゲティ、シャプスグ・ゴイ、アフチプス、アイブガなどの人々が参加してママイ(プサヘ)に建築した。新政府は山地の人々に盛んにガザヴァットを呼びかけたのでソチのアイブガとアフチプス、アブハジア山地のプスフとツェベルダの人々もこれに参加した。しかし、8月には人員・物資徴収の不満からプスフで反乱が起こったので鎮圧部隊が派遣され、同調するものが現れるのを阻止するためにウブイフとジケティでも海岸のアウルが焼かれた。
ソチ政府は他種族からの支持者拡大を図って6月、アバヅェフ山地のプシシュ川岸で合同全体集会開催を試みたが成功はしなかった。彼らの多くがロシアに降伏してしまったからである。しかし、6月半ば、ソチ政府は右翼軍のリフーチン大佐に使者を送り、1)山地に向けた道路建設の中止、2)ホズ川の北に移住したベスレネイ衆の帰還を要求した。さらに、エヴドキモフ将軍が新設のクバン軍司令官に着任することの2件に加え、独立した地域へのロシア軍の立ち入り禁止と、和解交渉のためソチ政府代表団が赴くこと、和解までの間休戦とすることを要求した。将軍は代表団の首都ではなく、チフリスへの派遣に応じた。
チフリスのカフカス総督府庁舎https://uploadwikimediaorg/wikipedia/commons/thumb/4/48/Palace_of_
Caucasian_Viceroy,_Tiflis_17.jpg/1280px-Palace_of_Caucasian_Viceroy,_Tiflis_17.jpg
ロシア側のチェルケス人掃討作戦は順調に進展していた。1860年7月コーカサス右翼軍司令官エヴドキーモフ将軍は正規兵70個大隊、竜騎兵1個旅団、20コサック連隊、砲100門を擁して、アバヅェフ地方に侵入した。アバヅェフの長老たちは将軍の本営に行き、アバヅェフ人は既にムハンマド・アミーンとともに降伏していることを理由にあげて、作戦の中止を要求した。しかし将軍はムハンマド・アミーン降伏の際の条件は、アバヅェフ自身がソチ議会に参加することによって破棄されたので、ロシアはアバヅェフ人にクバン低地かトルコへの移住を要求するという最後通牒を言い渡した。長老たちは言い返すこともせず、力なく村々へ帰った。最後通牒はアバヅェフに留まらず、「アバヅェフ、ウブイフ、黒海海岸のシャプスグ人の全てをスタブロポリ県かトルコへ移住することを選ばせる」ことが、決定されていた。
1861年8月、樹立間もないソチ政府は、チフリスへ代表団(ハーッジ・ケレントゥフ、アバヅェフのハサン・ビドヘフ(山地のアンチョコ・ハブルの住人で、1863年に一団の同族を率いて降伏する)、シャプスグのイスラム・トハウシェフ(この人物は政府のシャプスグ人代表としてだけ2度名前が見える)をチフリスのカフカース副王府へ派遣して、移住なしの降伏を提示した。しかし、当時副王バリャチンスキー(アレクサンドル・イヴァノヴィッチ、1815-1879、在職1856-1862)公が病気治療のため帰国、不在であったので、チフリス県知事オルベリアニ公(グリゴリー・ドミトリエヴィッチ、ジャンバクリアニ=オルベリアニ、グルジア人。1804-1883)が対応し、皇帝のコーカサス行幸の予定があることを教えて、直接請願することを勧めた(ホトコ、ヴォルシーロフ)。
皇帝アレクサンドル2世は、ニコライ1世に倣って、直接コーカサスの状況を把握する事を望んで、1861年北西コーカサスに巡行した。皇帝は9月11日タマンに上陸し、500人のチェルケス人を前に次のように述べた。「朕は汝らの敵として来るに非ず。汝らの善意の友として来るなり。朕は汝らの族衆が永らえ、血族の恨みを忘れ、汝らと朕との平和友情に活きることを承知することを望む。ロシアは大国なり、その前には大いなる歴史的使命が屹立する。朕は必ず我が国境を強化し、諸国と交るための海を得なければならぬ。我が国と他国との通商は海を通じて行われる。朕は汝らの土地を通ってアナパ、ノヴォロシースク、およびトゥアプセへ3経路で黒海へ至ることの同意を求める。朕が国庫は街道をよけるために移動するアウルには、褒美を与えよう。汝らはロシア皇帝に臣従しなければならぬ。これは汝らの国柄を失わさせるにはあらず、汝らは自らの慣習法(アダト)によって統治される。自らの信仰の不可侵性は保持される。汝らの中のことには干渉されない。行政と法廷の担当者はは汝らの中の者によって選ばれる。汝らは数十年に渡り、勇敢に戦っている。しかし、汝らの最良の人士は滅びよう。汝らは自分の力を保つことができない。何となれば、朕が軍隊は強大であるからである。既に結末は明らかである。カフカースはロシアのものとなるのである。人々をさらに苦しめんとする賢い理由は無い。もし汝らが破滅に至る戦争を止めるならば、汝らの族衆は永らえ、今よりよく生きるであろう。ロシア政府は汝らを敵から守り、汝らの利益を保証し、傷を癒し、敵意を静め、怒りを忘れ、半世紀の後には国家の一員として生き、適切な法によって治められ、汝らの子や孫は、生計の管理の知識と文化的な方法を与えられて汝らよりも安楽に生きるであろう。この決断の時において、朕は汝らにロシア人がカフカースを降すことは避けられないと知り、汝らの族衆が大きくそのままの形を残すことができ、安福に生き、発展する条件を受け入れることを望む。もし、汝らが朕の条件を覆すのであれば、朕は近い年に朕が将軍達に戦争を命じなければならないであろう。どのような犠牲があろうとも命令は完遂されるのである。しかしながら、これは汝らに計り知れない悲惨と汝らの族衆に破滅をもたらすであろう。分別を働かせよ、避けがたい歴史を受け入れるがよい。綸言は汗のごとし、朕が勅諭は神聖にして侵しがたいことを宣言する。朕はこれを総て勅令として定めよう(テキストはブダイェフからの引用文)。ツァーリを迎えたチェルケス人の長老(氏名は伝えられていないが、ロシア領クバン地方ナトハイ地区の長であれば、後のソチ共和国の訪英使節の一人ハーッジ・イスマイル・クシュタノクであった)の一人が前に進み出て、次のように述べた。「偉大なる皇帝様!私どもにご注意を賜いまして、大慶至極にござます。陛下の軍隊との長期の戦争にも拘わらず、寛大にもご信頼を賜わいましたことは、更に幸福なことでございます。我々には貴重な恩恵であると考えております。改めて真のまた心からの陛下の臣下であることをお誓いする次第でございます。ご命令ください。我々はどのような命令も実行する用意ができています。我々は道路を開き、陛下の軍隊の要塞と兵舎を建て、かれらと平和に協調して生活していきます。ただ一つ、父祖が住み、自分達が生まれた場所から、私どもを移住させないで下さい。その場合には私共は改めて軍隊と共に我々の血の最後の一滴まで守り抜きます。我々を移住させないでください、我々を陛下の他の臣民同様に扱ってください」。既に前年1860年に降伏していたナトゥハイ人にとって、現住地居住は、もはや降伏条件ではなく、請願事項であったが、これに対して、ツァーリは善処を約束した。単純な山地民はこれを承諾と理解した。
ロシア皇帝に仕えた軍人で、歴史家のグルジア人エサズェ(シメオン・スピリドノヴィッチ、1868-1927)はこの時の状況を次のように記述する。「タマンには500人のロシアに服属したチェルケス人と服属していないチェルケス人が、大君にカフカースの外に移住させないように請願するために集まっていた。皇帝は直ちに、黙って、近くに突っ立ていたチェルケス人の集団に気づき、(彼らが何の行動もとらないので不審に思って)オルベリアニ公に、なんてやつらなんだと仰せられて、彼らに足早に近づかれた。そこで、印象的な光景が起こった。皇帝がお近づき遊ばすと、チェルケス人たちは全員、一人の人間であるかのように、武器をおろして、地面に置いた。彼らは敬意をもって頭を垂れた。しかる後、彼らの長老の一人が、少し前に出て、次にような挨拶を述べた(エサヅェ、『西コーカサスの降服とコーカサス戦争の集結』1914、p.78)」。
一週間後9月16日(17日あるいは18日とする文献もあるが、日程が予定より一日早まったこと、会見場所に建てられた記念碑に16日とあるので、16日が正しいと思われる)、アバヅェフ、シャプスグ、ウブイフの代表を前にして、アバヅェフのハマケトでロシア皇帝はタマンにおけると同様の演説を行った。行幸の経路はタマンからエカテリノダルに向かい、次にマイコプ要塞を視察した。次にベラヤ川流域からに東のファルス川岸へ向かった。ファルス川を渡って、マイコプから50キロメートルのハムケトウイにあったカフカース軍上アバヅェフ部隊の基地に宿泊した。ムハンマド・アミーンの降服式典が行われた場所である。翌日そこから西約10キロメートルのマムリユク・アゴイ(ファルス川支流)に向かった。現在はそこにノヴォスヴォヴォドナヤ村がある。会見は村から離れたファルス川右岸で行われた。以下の物語はテミルゴエフスキー村の教員セフェル・ベイ・ハチュトゥヴィッチ・スィゴホフ氏が、母方の祖父マゴムチェリ・マゴメドヴィチ・アザマトフ-ブグアシェフから聞いたという話である(1914年9月)。目撃者マゴムチェリはこの時、20歳であった。
大勢の徒歩の人々が一団になって立っていた。周囲を騎兵が取り囲んでいたが、その中は 無整列の集団であった。一番前には人々の代表者達が立っていた。彼らは最も著名な、最 も尊敬された人々だった。風のない晴れた日であった。既に正午ごろになっていた。騎馬 隊が現れ、集まった人々の方に向かってきた。しばらくすると、騎馬の人々全員が良く見 えるようになった。前を3人の騎馬が進んで来た。皇帝はイギリス産のサラブレッドにまた がっていた。その右側にはロリス-メリコフ将軍、左側は宮中通訳官長ママト-ギレイ・ル ーヴ公だった。その向こうには連絡将校を連れた将軍や高官の一団。さらにその向こうは 全員親衛隊の竜騎兵部隊だった。この中にはツァーリに仕えていた山地民出身者がおり、 そのすべてがルーヴ家のものだった。彼は学歴ある(士官学校を出た)幹部将校だった有 名なアバザ人の一族の山地民の公で、彼はロシア語とチェルケス語を上手に話した。彼の 外見は目立っていた。平均より高い背丈、精力的な顔立ち、小さな黒い顎髭、40-45歳ぐら いの年恰好。服装は洗練されていたが簡素で、灰色のチェルケス服を着ていた。鞘に納め た武器、帯、キンジャル、深紅の火薬筒。頭には高いカフカース風のカラクル製のパパフ 帽。足には山羊皮の脚 絆に打ちがねのない短靴をぴったりと履いていた。彼はツァー リの随行員中、風貌、美しい顔立ちと押し出しにおいて、最も目立った人物であった。草 地の上の大勢の人々は蟻塚のようであった。そこで生き、動き回り、しゃべっていた。触 れ役が全員に整列、静粛と呼びかけた。ツアーリは全くまじか迄まで近づき、下馬した。 随行の者も全員下馬した。人々は道を開けた。ツァーリと一行は集団の中に入った。集団 は彼を取り囲んだ。ツァーリは言った。「アバヅェフ衆、達者であらよ!」彼らの前に立 っていた交渉全権団は、「あなたに、バラカト(祝福が)がありますように!と返した。 次にツァーリは話し始めた。(ここに掲載されるテキストの内容はタマンの時と全く同 じであるが、文章が配布されたのではないので、ここで聞き取られた言葉が、タマンのも のと全く同じというのは、マゴムチェリの回想記成立の上で問題である。誰かがここにタ マンの宣言文をそっくり挿入したように思える)ルーヴ大佐はツァーリの言葉を敬意をも って聞き終わると、アバヅ ェフ人の代表団に、破滅の陰鬱な言葉を流暢なチェルケス 語で訳し始めた。人々は墓場のような静けさで耳を傾けた。訳が終わった。数秒の間皆が 黙って立ち続けた。次に最初に発言することになったハジムコ・ハーッジが、少し前に出 て話し始めた。「私のくにに対する愛情はあまりにも偉大で、どのような犠牲を払っても 子孫に伝えたい。だが、今私の見るところ、我々には我々の土地を守る武器の力が足りな い。今や我々も近くの国に加わるときが来たのだ。我々にとってトルコは宗教が近いが、 しかしは我々に軍事援助をすることを望まない。ロシア人は大勢で我々は少ない。力は同じではない。我々は力を持たない。私の意見はロシア皇帝の提案を受け入れることだ。運命に 従うことだ。神はこのことで我々を罰しないだろう」。後ろの人々が何かささやいていた が、その後強い不満の声が聞こえてきた。ツァーリは顔色を変えこの老人は何を言ったの かと尋ねた。明らかに彼の言葉が人々をざわつかせたのである。通訳がハジムコの言葉を 通訳すると、ツァーリは「老人は正しいことを言ったが、みるとおり、人々には気に入ら なかった」と述べた。二番目で最後に、トリシェ・シュチュジェコ・ツェイコが発言した 。彼は長くない白いあごひげの、厳しい男らしい顔つきの、長身のそっけない老人であっ た。ツェイコは有名な演説家であった。どのような時でも誰をも恐れなかった。彼は思っ たことを隠さず言った。彼は群衆を見回した後、ツァーリに顔を向けた。「ロシアの皇帝 は、彼が立場上、云うべきことを言った。私はこのことで彼を非難はしない。しかし、私 の言葉は彼の望みとは一致しない。人間は生まれる、個々の人間としては一度だけだ。個 人として彼は成長し、年老い、死んでいく。個人にとって一番長い時間は、100年である、 しかし、人間は千年を生きる。太陽のもとに何も永遠のものはない。ロシアの皇帝はカフ カースが気に入った。だからもう60年も征服するために戦争し続けている。しかし、我々 にとって母の国はいとおしく、貴い。我々は命を惜しまずに国を守り大事にしている。我 々は先祖と神にこの神 聖な事業の説明しなければならない。誰も我々が自分を大切に していると非難しない。いな、我々は自分の血を沢山流し、命を懸けている。我々は滅び る。しかし、奴隷の境遇よりも滅びるのがいい。ロシア皇帝は我々の慣習法と宗教には触 れないと我々に約束する。しかし、そんなことが可能だろうか。水の入った桶にひと掬い の塩を入れてみろ、そして塩がどうなるか見ていろ、溶けてしまうだろう。小さな集団は 、大きな集団に従うと、必ずその中に溶け込んでしまう。我々の自由の終わりは、我々の 独自性の終わりである。それ以外にはあり得ない。我々は勇敢に、また献身的に戦争を続 けなくてはならない。神は力の中ではなく、真実の中にある。最後まで戦おう。くにのた め、仲間のため、信仰のため、名誉のために死ぬのであれば、誰も我々を非難しない。カ フカースはロシアのものになろだろう、しかし、血管に血が流れている限り、チェルケス 人はロシアのツァーリの奴隷にはならない。ロシアのツァーリは我々に好意を持つものだ というが、おかしい。我々に好意を持つものが、60年の間無慈悲に我々の血を流し続ける 。否、カフカースは我々の愛しいゆりかごになるか、然らずんば、墓となる。英雄になる か、死ぬかだ。面と向かってきつい真実を言うのは礼儀正しくはない。だが、言わずには いられない。ロシアのツァーリはまったく我々の友ではない。それどころか、不倶戴天の 和睦することのない敵で、仇敵である。彼は無駄に我々に和睦を呼び掛けた。我々は意気 揚々と死ぬが、降伏はしない。もし、ハジムコ・ハッジのように意気地無しでなければ、 屈服してもチェルケス人の優れた英雄的な人々の恥ではない。我々の敵、征服者ロシア皇 帝に死を!聖戦、ガザヴァット万歳!英雄万歳!」。老人は黙った。近くの列にいた何人 かが、「そうだ!」と叫んだ。この言葉は百、千の響きになり、まもなく平野全体に雷の ような恐ろしい声が轟いた。ツァーリは驚いて周囲を見渡した。彼の周りにいた随員は人 々の怒りを危 険に感じて怯えた。しかし、シチュジェウコ・ツィイコは、手で合図し た。すると段々にその場は 静まった。その時、ツェイコは言った。「ツアーリは今は 、我々の客だ。客は神聖な人間である。 誰にもアバヅェフは客人歓待の義務を破ると は言わせない。人々を解散して代表団の命令を待たせろ。人々はすぐに解散し始めた。ツ ァーリは自分の本営に戻った。28人の代表団は近くのクルジプス村に行って戦争に関する 問題の解決にとりかかった。
ハジムコ・ハーッジはアバヅェフ人の貴族アンチョコヴァ氏に属したハジムコ家のアスランベチ・ハジムコであった。ナイーブ・ムハンマド・アミーンがアバヅェフに潜入したとき最初にナイーブを迎え入れたのはハジムコ家であった。前年サンクト・ペテルブルグに赴いた使節団の中にも、一族のハーッジ・イスマイル・ハジムコフが含まれていた。ハジムコ家の立場には一貫性が見られる。一方、シチュジェコの言葉は今日ロシアに住むチェルケス人に多少とも複雑な感情を掻き立てるようだ。ある著者はわざわざ、(アバヅェフの貴族)ツェイ族は全てトルコに移住してしまったと付記している。というのは、今日アイデンティティ危機に見舞われているのは、むしろトルコに住むチェルケス人であるから。
「チェルケス人代表者と会見するツァーリ・アレクサンドル2世(ゴルシェリド画)」。
ツアーリは、画面中央左を向いている。対面しているチェルケス人は白いチェルケス服、カラクルのパパフ(毛皮帽子)に白布を巻いている(ムリードの服装)。二人の間にいて顔を皇帝に向けているチェルケス服とパパフの男が通訳であろう。皇帝と通訳の間の口髭の軍人の顔はエヴドキーモフ将軍に酷似している。画面右手チェルケス服パパフ(アストラカン帽)の男がロリス‐メリコフ、中央手前の黒犬は皇帝の愛犬ミロルド(生1860-没1867)であろうか。https://www.
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これはこれは恐らく一人の人物が何度も思い出し、繰り返して語ったことの伝聞である。会見の場の様子がこの通りであったかは確かでない。二十歳の若者は知らなかったであろうが、接見にあたっては、アバヅェフの指導部とロシア政府の間で何らかの協議があったはずである。また、降伏か抗戦かの議論を敵の皇帝の前でするというのはあり得ない。会見後に戦争の継続を決定したクルジェプスの民会は確認されているが、会見前にも民会が開かれたはずである。この接見については、当時カフカース軍の予備役中将ベントコフスキーの記録がある。「会見の時刻、陛下の本営に山地住民の代表者が馬でやって-きたが、とても長く順を待つことになった。朝食の後、皇帝は全く突然に通訳アディルギレイ・カプラノフ大佐だけを伴って出発した。エヴドキーモフ伯は群衆の中で皇帝に追いついたが、この時既に会談は始まっていた。山地民は戦争を行っている民族の代表者として発言を行い、和平についてのいくつかの条件さえ提示した。しかし、皇帝は素早く彼らの話を止め、彼らは無条件で降伏しなければならないと言った。そうすれば受諾しよう。もし彼らがもっと条件の詳細を述べたければ、既に必要な指示を受けているエヴドキモフ伯爵に問い合わせることができる。これらの言葉を言うと、皇帝は来たときと同じく急いで向きを変え、群衆の中から出て、本営へ向かった。山地民はしばらく自分達の中で話し合ったが、明らかに自分達の使命の結果に不満を持ちながら、解散した(ホトコの引用)」。この会見に関する一枚の群像画(テオドル・ホルシャフト(1829-1871年))と一枚の写真が知られている。画では、中央に白い軍服を着た長身のアレクサンドル二世が斜め左前側を見るようにして、チェルケス人を接見している。中央の皇帝の右側の高いパパフを被った人物が通訳ルーヴ公、或はアディルギレイ・カプラノフ-ネチェフであろう。前者であればアバザ(アバジン)、後者であればノガイである。皇帝の背後には随員が立ち並んでいる。画面左側中央の3人あるいは4人のアバヅェフ人あるいはソチ政府の指導者であろう。皇帝と直接向かい合っている白いチェルケス服と黒いパパフに白いターバンを撒いているのがハーッジ・ケランドゥフであるかも知れない。画中の全員が下馬している。
「 ロシア・カフカース軍アバヅェフ部隊兵舎前で、チェルケス人代表団を接見するアレクサンドル2世」(古い写真が多く含まれているティムル・ヅガノフのコレクション中の1枚であるこの写真は、来歴不明であるが、以下のクレジットが添付されている。「1861年の北コーカサス行幸中のファルス川河岸のマムリクワイ(現ノヴォスヴァヴォドナヤ)村におけるロシア皇帝アレクサンドル2世とアバヅェフ・チェルケス人代表との歴史的会見。チェルケス人の首脳には、クブゼシ・メレティクウェ、ティグチュ・ハクリナ、ブフ・チェタウおよびイリヤス・クワシュが含まれる」とある。画面右寄中央の黒っぽい馬に乗っているのが皇帝、その右の左を向いた白馬の人物がロリス-メリコフ、皇帝の左側の右を向いている灰色の帽子の男が通辞ムハンマド=ギレイ、前列左側の騎馬4名は現地のアバヅェフ人であろうか。この4人の内、ティグチュ(トグジ)は、前年のサンクト・ペテルブルグ派遣団に加わっている。ロシア軍の少尉で、(任官年次不明)彼らの村ハクリアニハブルはクセジュアプス川流域に現在のニジェノヴゴロド屯田村にあったが、会見の後1862年クバン川左岸の現在地へ移動した。メレティクエ氏も行動を共にしたとみられる。つまり、この4人は対ロシア降服派の人々であった。トルコに移住した人々も新しいナグリノハブルを開いたが、指導者はメレティコワ氏の人であった。するとハクリナ家は、貴族メレティクエ氏の分族であろうか。あるいはファルス川下流の新しいハブリノハブルには貴族ダウル氏が加わっている。ダウル氏かもしれない。(https://history-thema.com/wpcontent/uploads/2015/12/
3-alexandr-vtoroy-v-mamryuk-ogoye.jpg)
また、これらとは別にホルシェルト原画とされる「ロシア皇帝アレキサンドル二世は(イェカテリノダル((クラスノダル)))からグリゴリエフスク要塞へ赴く途中の)1861年9月⒔日、ブジェドゥグ・チェルケス人の代表に接見を受けられた」というロシア語のキャプションがついたスケッチが残されている(https://adygi.ru/uploads/posts/201705/1494665411_18447279_
266773440453347_2636150266635282227_n.jpg)。アバヅェフ人との会見の場所を去る後ろ姿の皇帝と事後の対策を協議するチェルケス人の様子を描写した作品のように思われる。
ベントコフスキーの記述にも拘わらず、ルーヴ公はこの時の通訳の功績として領地を与えられているから、ハマケトウイの通訳はルーヴ公であったとすべきであろう。カプラノフ=ネチェフ公の役割は不明である。この二人はコーカサス戦争戦後期の4人の現地人大土地所有者のうちの二人であった。フィリップソン・カフカース軍参謀総長は30年代当時の状況を語って、服属地にいながら反ロシア派の人々と気脈を通じている若者の代表例として、ムハンマド(ママト)ギレイ・ルーヴとアーディルギレイ・カプラノフ=ネチェフの名を挙げている。「このうち前者は奸智にたけた精力家で美丈夫、優れた乗り手で、服属していないアバヅェフのもとに行って、彼らのもとで身柄を押さえられていた参謀本部付大尉トルナウ男爵を引き取った」と述べている。アブハジアの海岸からソチのムズィムタ川を遡り、西コーカサス山脈縦断調査を行おうとして、1837年に拘束されたあのトルナウ(フョードル・フョードルヴィッチ、1810~1890)である。トルナウは1838年11月ノガイのテンブラト・カラムルズィン公によって奪還されたが、ムハンマド=ギレイ、アーディル=ギレイもテンブラットと一緒に行動していたのであろうか。要するに二名の通訳は単に語学力に秀でていたのではなく、現地における威信を買われ、言わばロシアの北西コーカサス支配のショーウインドウの役割を求められていたのであろう。
家族から伝えられた伝承やより事実に近いと思われるのはその場にいた人物の報告である。この場にいた郷土史家のベントコフスキーによると、ハーッジ・ケレンドゥフは皇帝に山地民がロシア服属に同意することを伝えた。皇帝はこれを聞いて、「これらの者が朕に服属することは、喜ばしい。しかし、その為には彼らは盗賊行為を止め、朕が彼らの上に置いた治世官を批判することを止めねばならぬ。朕の要求を全て呑まねばならない。これを実行する用意があることを証明するために、今すぐ朕の脱走兵士と逃亡農奴を引き渡さなければならない」。チェルケス人は、黙して承諾の意思を示した。皇帝は続けた。「兵営に出頭した長老と代表団は、人民全体の代表者ではなく、実際に戦闘を停止しようとしている1部分の代表者である」。ここで、ケレンドゥフは文章に認めた請願があると述べた。アバヅェフ人の代表者が請願書を差し出した。皇帝はこれに答えて、服従は無条件になされなくてはならない、人々の生活と運命の世話はカフカースの長官にゆだねてある、山地民によってなされた請願はエヴドキーモフ伯爵に尋ねるように命じた。皇帝はこの後、厳しい最期通牒を告げた、「朕は一か月の猶予を与える。アバヅェフ人はクバン川低地に移住して、永久の所有権を持つ土地を与えられ、集団としてのまとまりと法廷を持つか、トルコへ移住するか決めなければならない」。ベントコフスキーは、山地民は自分たちの間で何か話し合った後、解散したと記録している。会見のどこかに、先ほどのハーッジ・アスランベチとミシチュジェウコ・ツェイコの発言があったかもしれない。オルベリアニのミリューチンへの報告では、ウブイフとシャプスグは戦争の継続を決定し、アバヅェフはエヴドキーモフ伯爵との協議に期待をつないだ。ミリューチンはどうして議会側が服従にふさわしい態度を示さなかったのかと疑問を呈したが、この疑問は晴らされていない。不可解と言えば皇帝の行動もそうだが、皇帝が期待した交渉相手カラバテイルが不参加であったからからも知れないが、この会見はそもそも、何らかの協調が意図されていたわけではなかった。いずれにしろ、政府の意図を明確に示し、現地部隊とコサックの士気をあげることはできた。失望した代表団は移住の条件を受諾することなく帰任した。この時ツァーリに手渡した文書には、次のような文章が記されていた。「この国は我々に属する。この国は我々が祖先から受け継いだものである。この国を我々のもとに置いておきたいというのが、貴国との敵対の原因である。我々は、新しい国家機構を採用した。そして、我々が望むところは我々の国を何人に対しても不正義が行使されることのない、厳格な正義と人道主義に基づいて統治することである。このような善良な意図を持つ国民は、貴国のような大国に好意を抱かれなくてはならない。このような罪なき隣国を滅ぼすことは、貴国の名誉にはならない。貴国はいくつかの状況においては、同情的であったをた。どうしてこれが我々に対してではないのであろうか。我々は我々が制定した新しい法に基づいて、自国を正義によって統治するためにあらゆる可能なことを行う。我々は自国民に対しては正義に基づいて行動し、我々のもとに来た外国人に対しては、その生命と財産を尊重する。この様な小国を貴国のような大国は滅ぼすのか、それとも改革を進める援助を行うのか。もし貴国がそれに反対でないのであれば、我々に対して正義を行い、我々の財産とモスクを破壊しないでください。我々の血を流させないでください。大国が必要もなく人々の生命を奪うことは恥ずべきことです。この違法な戦争において寄る辺ない女子供を捕虜に取ることは正義と善意に反することである。貴国は世界中に我々が野蛮人であるという誤った噂を広めて、その前提で我々に戦いを仕掛けています。ところが、我々も貴国人同様にに人間である。我々は自分の国を最後まで守ろうと献身したのであるから、我々の血を流してはいけない」。この文書のロシア語原文は、国立アディゲイ民族博物館に保存されている。
9月16日の決定にもとづき、翌月1861年10月ソチ議会代表団は協議のためマイコプ要塞でエヴドキーモフ将軍と会見したが、ロシア側の回答は変わらなかった。平地かトルコかに移住すること、従わない場合には軍隊を送り強制的に排除するというものであった。1859年11月から続いたアバヅェフにおける2年間の平和は既に崩壊していた。1861年、ロシア軍は2-3月にラバ川とベラヤ川の地域を完全に掃蕩し、5月にはベラヤ川にそって戦線を拡大し、山地に向けて部隊を進めた。アバヅェフ人とアバヅェフに逃げ込んでいた他のチェルケス人たちは分水嶺の近くへ追い上げられ、一部の人々はハクリナ・ハブルの人々のようにクバン低地に移住した。1863年に前線はプシェフ川とクルジプス川に進んだ。エヴドキーモフの計画計画通りにチェルケス人の移住が進められ、この年4千家族のコサックが24の屯田村に入植した。
19世紀トプハネのカフェ(ムヘルヂチ・ジヴ二アン1848-1906画)https://upload.wikimedia.org/
wikipedia/commons/f/f5/Megerdich_Jivanian_%28from_Thomas_Allom%29_-_A_Coffee_House_in_Tophane_-_Google_Art_
Project.jpg 画家は現地で教育を受けたアルメニア人でアイワゾフスキーの薫陶をうけた。一時、オデッサ、サンクトペテウブルグに移り住むが、イスタンブルに戻って生を終えた。
ハーッジ・ケレンドゥフが決然とした行動がとれないことは既に述べたが、1863年1月にカラバトイル・ザノコ、イスマイル・バラカイ、ビシュ(ビドヘ)・ハサン・エフェンディ、ハフ、(フシュト)ハサン・エフェンディ、アフメド・アシュ・イブンイクルル、イブラヒム・アガ等のソチ議会代議員メンバー等はイスタンンブルのトプハネに集合した(後に本拠はイスタンブル旧市街に移された)。一年後、ソチ陥落の時ソチにいなかったものはそのままイスタンブルに留まっていたのであろう。代表者格のハーッジ・ケレンドゥフ(ウブイフ)、ハサン・ビドフ(アバヅェフ)等は現地に残っているのであるから、ソチ政府は分裂してイスタンブルに亡命政権が樹立されたと読み込むことができるかもしれないが、この経緯は不明である。亡命者達の組織は現地へ物資を送達するとともに、ロシアと戦い続けることを勧告した。ロシア当局もアバヅェフ人のハーッジ・バトイルベイ(プシシャ川流域のジャンチャト=ハブルの住民であったカラバトイル、カラバトイル・ネ)は、1861年イスタンブルから帰国する際に、多くの檄文をもたらした。また、ナトゥハイでは、地元の名望家コスタンク・エフェンディ(カシュタノフ)が、オスマン軍再進出の可能性を強調し、移住に反対して闘争の継続を訴えた。他方、1864年6月にはムハンマド・ナサレトが潜入して、カリフの治める神聖なイスラーム国(実はオスマン帝国)への移住を勧めた。
ロシア帝国の現地人移住政策は既に前年決定されていた。既に交渉する余地はなくなっていたのである。この決定がなされたのは1860年8月ウラジカフカースで開かれた帝国の北西カフカース政策に関する会議で、主要な出席者はバリャーチンスキー・カフカース知事兼カフカース軍総司令官、ミリューチン参謀総長、フィリプソン・カフカース線右翼司令官、エヴドーキモフ・カフカース線左翼線司令官、およびミールスキーカフカース軍副司令官であった。ここで、フィリプソンはムハンマド・アミーン降伏にともなうアバヅェフ平定の実績を裏付けに、山地民との人道的関係を維持して過酷な処置なしにチェルケスをロシアに統合することを主張した。一方、イマーム・シャーミルを降伏させたエヴドキーモフはチェルケス人を平地あるいはオスマン領へ移住させ、跡地にコサックを入植させる案を主張した。バリャチンスキーとミリューチンもエヴドキーモフ案を支持した。現地の決定は首都へ報告され、アレクサンドル二世の裁可をうけたからである(Chirg,2010)。この年、ミリューチンは軍事大臣として首都に栄転、フィリップソンは参謀総長に昇進、まもなく元老員議員に任命されて、体よくコーカサス支配の実務から追い払われた。左翼司令官のエヴドキーモフは制度改革により新設されたクバン軍司令官に横滑りして、強硬策を自ら担当することになる。
第2項 チェルケス委員会
皇帝の回答とエヴド-キモフとの交渉結果に失望したソチ議会は抵抗の継続を再確認した。1861年11月20日、クバン左岸のフュンフト川で休戦は破れた。チェルケス人200人はロシア軍の馬200頭を奪い、兵士9人を負傷させた。翌日地元のアバヅェフ人の長老は、襲撃したのはアバヅェフではなく、山脈を越えてきたウブイフ人であると申告した。更に長老はウブイフ人はロシアに降伏したアバヅェフ人の村落も襲撃していると付け加えた。同年12月180人のアバヅェフ人とウブイフ人の代表団が、トラブゾン経由でイスタンブルから帰国した。代表団派遣の指導的立場にあったハーッジ・イスマイル・ヅェイシュはアバヅェフ人に書簡をを送り、「スルタンだけが我々に援助を送り、憎き邪教徒から解放してくれる。我々にはロシア人を恐れることなどはない。山々が我々を彼らから守ってくれる」という文面の書簡を送った。この書簡を託されたのは前述のハーッジ・バトイルベイであったかも知れない。年が変わってもウブイフ人と海岸のシャプスグ人は、山脈を越えてクバン川左岸で軍事的活動を継続した。攻撃対象は軍部隊、哨所に止まらず、コサック村や要塞に及んだ。1862年の戦闘はロシア軍のクルジプス川沿岸高地急襲で始まった。チェルケス軍大攻勢の噂が流れており、既に7-8百人の武装集団が集結していた。6月6日、1,500人規模のアバヅェフ人がツァルスカヤ屯田村に向かうロシア軍部隊を攻撃した。これが撃退されたとみるや、ウブイフ人2,000人の増援部隊が加わり反撃に出た。ロシア軍増援部隊が到着したのでチェルケス人は死傷者129人を出して退却、ロシア軍の死傷者は60人であった。6月14日チェルケス人はハムケゥイ要塞を包囲攻撃。一斉射撃を受けて一端退却した後、総攻撃に出た。しかし、ロシア軍の騎兵部隊が到着したので、死者80人を残して退却した。ロシア側はチェルケス軍の損害を300人と推測した。6月18日、200人ほどのチェルケス人部隊がセバストポルスカヤ屯田村の家畜を略奪したが、ロシア軍の追撃を受けてベラヤ川を渡って退却、死者14人を出した。26日、6-8千人の大部隊が新設のプスメンスカヤ屯田村を攻撃して、家屋の大部分を焼き払い、村の家畜の半分以上を奪って退却した。7月8日にはチェルケス人の小部隊200人が同じ村を攻撃したが、今度は死者46人、捕虜2名を残して退却した。ロシア軍は1862年7月、アバヅェフで作戦中のウブイフ軍を牽制するのためにアブハジアから強襲部隊を派遣してママイのマジュレスを焼き払った。マジュレスはソチ川上流のムツィフア村へ移転された。1863年にも前年同様の奇襲戦が続けられた、3月1日チェルケス軍部隊はマルト川の西側において新コーカサス副王ミハイル・ニコライヴィッチの護衛部隊を補足、攻撃したが、この部隊にはブジェドゥグの公が加わっており、民警大佐クリムギレイ・グサロフと他にもブジェドゥグ人将校2名が戦死した。このときはプシェフスカヤ屯田村まで追撃戦が行われた。5月には2,000人のチェルケス合同部隊がメズイブ要塞を攻撃した、三度に渡って突撃を試みたが陥落させることはできなかった。8月コンスタンチノプルからムハンマド・アミーン(前年アバヅェフ代表団に帰還を要請されていた)の書簡が届けられ、現在トラブゾンに駐屯しているオスマン軍の到着を待つように指示があった。また、同じころイスタンブルの亡命ソチ政府からアバヅェフ、ウブイフ其々にあてた書簡があり、英仏エジプトなどの援軍を待って、異国へ移住することのないように勧告があった。このころ、ソチに一人の外国人が帆船で来着し、ヨーロッパ諸国連合軍の到着を予告した。ポーランド人工作員であろうか。ハーッジ・ケレントゥフは、アバヅェフの長老クフタロヴとハトゥコヴに書簡を送り、トラブゾンに大軍が待機していると伝え、降伏を思いとどまるように勧告した。チェルケス委員会の使者が来る可能性はあるが、単なるうわさではなく、事実であったかどうかは確実ではない。このような情報は、書状の現物が押さえられない場合には、内部スパイの通報によることが多いが、不正確なこともあるからである。
ランベールホテル・グループのイスタンブル代表ウワディスラフ・ヨルダンは、ハーッジ・イスマイルのイスタンブル代表団にヴィクトリア女王およびナポレオン三世に嘆願状を提出することを進めた。これを真に受けたソチ政府はトルコ、フランス、イギリスに援助を要請の使節団を派遣した。ナトゥハイの貴族クスタノコ・イスマイルとシャプスグ人ハーッジ・ハイダル・ハサン・フシュト・エフェンディが代表であった。パリ平和条約締結直後のことで、オスマン政府からは公式の援助を期待することはできなかった。クリミア戦争後のパリ平和条約では、ロシアの中東やインドへの勢力拡大を恐れたイギリスはチェルケシアの独立を指示したが、ロシアに新たな金融市場を見出していたフランスは反対した。あるソ連人歴史家は、「ロシアはナポレオンの大陸封鎖令を破ってイギリスに小麦を送ったために、ナポレオンの侵入を受けることになった。それにもかかわらず、恩知らずにもイギリスはクリミア戦争でロシアに攻め込んだ」と書いたが、ここでは悲惨な敗戦の恨みを忘れたフランスがロシアを助けたと言えるかもしれない。ナポレオン三世は既に対露接近政策を採っていたので、援助は得られなかった。最期にヴィクトリア女王に期待した一行は、1862年6月イギリスに向かい、政府に軍事援助を要請したが、公式援助は拒否された。代表団は在外チェルケス人に対して世界中の国々がチェルケスを援助するという嘘の宣言を行うしかなかった。ランベールホテル・グループのアダム・ザモイスキ伯爵は1861-62年に渡英し、アークハートと善後策を協議していたが、政府ではなく公共社会に援助を求めることとした。英国各地で開催した演説会が成功し、世論はチェルケス人に対して好意的に傾いた。アーカートとザモイスキは再び軍事援助の実施を決断して、ロンドンにチェルケス委員会を設立し、弁護士のエドモンド・ビールスを議長に据えた。委員会の表向きの設立趣旨は、黒海におけるイギリス商船の自由航行を確認することであった。当時、ロンドン万博が開催中であり(1862年5月1日から同年11月まで)、対外宣伝には好期であった。この時日本からも最初の遣欧使節団(文久遣欧使節団、団長竹内下野守、団員は下僚として参加した福沢諭吉を含む38人)が滞在中であった。竹内使節団は帰路サンクトペテルブルグに立ち寄って、樺太国境問題の協議を行っている。日本とチェルケスは共にロシア南下の危機に直面していたのである。さて、ソチ政府代表は英仏政府からこそ公的援助は得られなかったが、委員会が仕立てた英国船チーサピク号は武器を積み込んで、1863年6月ニューカッスル港を出港、無事イスタンブルに入港した。ソチ議会一行を英仏に行かせた在イスタンブル・チェルケス委員会ヨルダンは反対派の策動にあって失脚していた。
ロンドンに派遣されたソチ政府代表ハーッジ・ハサン・フーシュト(右)とクスタノコ・イスマイル(左)https://3.bp.blogspot.com/-cBe_kbhAB3o/U2YLUYg8QiI/AAAAAAAABCc/j6lGqsvortk
/s1600/Circassian+Envoys+to+England.jpg The Illustlated London News,vol.41, No.1171, Saturday 25
Oct.1862, p.432,Text p. 450に掲載。
8月、イスタンブルで軍需物資とポーランド側記録によるとポーランド人のクレメンス・プシェヴォウスキ大佐と志願兵ポーランド人6名、フランス人2名、トルコ人4名、チェルケス人4名、アーカートが用意した武器弾薬、アダム・ツァルトリスキ公の後継者ウワディスワフが将来のポーランド軍団のために整えた一個中隊150人分の制服と装備を積み込み、トラブゾンに向かった。トラブゾンでは、フランス領事館のポーランド人通訳ポダイスキがチェルケス委員会の活動を行っていた。トラブゾンを出航した一行はロシア海軍の追及をかわして、9月半ばソチのヴァルダネに入港した。イスタンブルに派遣されていた代表団のイスマイル・ベイとハーッジ・ハサンも一緒に帰国した。フランス人軍事顧問アルフォンス・フォンヴィユによると、乗り込んでいたのはポーランド人3名、フランス人2名、イスマイル・ベイとハサン、およびベイの手のもの30名であった。大部隊が到着するものと期待していたソチの人々は、これを見て大いに落胆した。チェルケス委員会の支援は、支援と言うにはあまりにも僅少だっただけでなく、またその時期もあまりにも遅かった。フォンヴィユは一般のチェルケス人にヨーロッパ諸国の正規軍が上陸し、ロシア軍と戦うという嘘の情報を信じさせるしかなかった。既にこの年の夏、アバヅェフ衆は潰走して、西コーカサス山脈に追い上げられたが、沿海地方に抜けるプシシュ峠はロシア軍によって塞がれ、翌1864年2月1日までにトルコかラバ川下流へ移住するように最後通牒を受けていた。一部は峠を突破してソチの海岸近くまで近づいていた。ウブイフ人と海岸のシャプスグ人の間ではまだ主戦派の力が強かったので、フォンヴィユ到着後に開催された全住民集会には、4千人ほどの正装した武装民兵が出席した。ここで動員議案が可決された。直ちに出陣した700-800人のソチ兵は、海岸沿いにトゥアプセ方面へマコプセまで前進し、マコプセ周辺から内陸に入り、クバン川左岸プシェハ川流域でロシア軍に遭遇した。11月12日、ソチ部隊は現地兵の参加を得て3-4`千人に膨れ上がっていたが、この年建設されたでニジェゴロトスカヤ屯田村近くに進み、ゴイトフ峠の北3kmのところでロシア軍と交戦し、300人の損害を出した。18日、ウブイフ人は正面からゲイマン将軍麾下のロシア軍主力歩兵6個大隊砲兵1個大隊、側面からグラッベ大佐の騎兵3個中隊、歩兵3個大隊、山砲3個小隊の攻撃を受けたが、小規模の損害を受けただけでトゥアプセ方面に撤退した。一連の交戦(エヴドキーモフの日誌では11月9-10日、11月19日、12月10日)の結果、ウブイフ部隊が山脈を超えて前進することが困難であることが明らかになった。ヨーロッパ人に対する信頼は失われ、アバヅェフ人はクバン川低地や黒海沿岸へ移動を始めた。ヨーロッパ軍事顧問団はイスタンブルのチェルケス委員会に状況を報告する必要を認め、報告者を派遣することにした。フォンヴィル大佐は300-400人のヨーロッパ人部隊があれば戦況は変わったかもしれないと述懐している。翌1864年1月、ロシア人スパイはポーランド人1名がイスタンブルに帰還したことを報告しているが、現地ではプシェヴォウスキ大佐の名前はこれ以降現れないので、イスタンブルへ向かったのは大佐であるかもしれない。しかし、イスタンブルの亡命ポーランド人社会は内部対立によって混乱し、援軍をおくることはできなかった。在イスタンブル亡命ポーランド人の動向は、早坂真理『イスタンブル東方機関―ポーランドの亡命愛国者』筑摩書房、1987年が大変参考になる。峠では1863年12月から1864年1月の間、銃撃戦が続いたが、春の到来とともにロシア軍の前進が開始された。
第3項 ソチ陥落
ロシア政府はコーカサスにおける戦争の早期終結を決断して集中的に兵力を投入した。作戦終了目標は1864年春であった。ロシア軍は1863年の夏の終わりには、アナパからトゥアプセまでの海岸地帯を占領。山地においてもグラッベ大佐(パーヴェル・フリストファトヴィッチ、伯爵、1789-1875)麾下のダホ臨時編成部隊(1864年1月にゲイマン少将に交代)がアバヅェフを分水嶺まで追い上げていた。ロシア政府はアバヅェフにトルコあるいはラバ川流域への移住を要求していた。海岸のシャプスグ衆はアバヅェフ衆のトルコ移住を阻止したので、アバズェフ衆の一部はラバ川へ移住した。大多数は飢えを凌ぎつつ山中で状況の変化を待った。1864年2月海岸のシャプスグは降服してトルコ移住を受け入れた。山地で滞留していたアバヅェフもゴイトフ峠を超え、トゥアプセに集結を始めた。ついにウブイフ衆だけが残された。ロシア軍は4方面からソチを制圧することを計画した。第1軍は、シャティロフ(パーヴェル・ニコラエヴィッチ、少将、1822-1887)将軍の部隊で、歩兵中隊27個と警察官100人、山砲4門を擁し、ガグラから内陸部をアイブガに進み、さらにアフチプスを目指した。第2軍、アフチイプス部隊は、スヴャトポルク-ミルスキー(ニコライ・イヴァノヴィッチ、少将、1833-1898)将軍の急襲上陸部隊で、ムズィムタ川河口から上流に進むことを求められえた。グラッベ将軍の小ラバ部隊は小ラバ川から大山脈を超え、ムズィムタ川流域に前進するように命令された。兵員は6個大隊、コサック200名、警察官100名。山砲2門を携行していた。第4軍はダホ部隊で、ゲイマン(ヴァスィーリ・アレクサンドロヴィッチ、1823-1878)将軍麾下。5個大隊。コサック100人、山砲2門からなっていて、ソチ川支流のチュヴェジプセ川からムズィムタ川流域に進む予定であった。全軍は山地のアブハズ人メドヴェイ族の中のアフチプス衆が住むクバアダで合同することが決められた。主たる戦闘はダホ部隊によって行われた。同部隊はゴイトフ峠を通過し、1864年2月22日トアプセに前進、地元シャプスグの長老ハーッジ・カスブラト・サウも降伏とトルコ移住を受け入れた。1863年12月11日の在トラブゾン、ロシア領事の連絡では、この前の週シャプスグを移住させるためにトラブゾンを出航したのバラカス船3隻の内の一隻は、カスプラト(ハスプレト)のものであった。彼もまたヴァルダネのイスマイルと同じく、有力な商人であったのである。
ロシア軍ダホ部隊は2月23日から3月4日まで、トゥアプセ川河口に野営したが、マイコプ周辺の大シャプスグの長老フムアリ・カルザチ、サイドギレイ、ハーッジ・カルザイのグループの移住準備ができた。ウブイフ人主戦派は海岸のシャプスグ人の降伏を脅威に感じ、カスプラトを脅迫するとともにシャプスグ人の集落にウブイフ兵を配置し、シャプスグの移住を阻止する構えにでたが、シャプスグ衆の降服およびトルコ移住の動きは止まらなかった。それどころか、ウブイフの中にも降伏派がいた。彼らはソチ、ママイ、アシェの長老達で、3月1日トビリシに行き、ダホ部隊司令官ゲイマン将軍に移住の延期を求めたが、将軍は3月7日までは村落の焼き払いを行わないとだけ尊大に回答した。3月4日ロシア軍は、プセズアプセ川まで前進した。現地の長老は食料が乏しいことを理由に、収穫の終わる8月7日まで移住の延期を求めたが、拒否された。ロシア軍が指定した集合地には山地民が集合しつつあり、シャプスグ族ゴアイイェ集団の指導者ザウルベクも多数の騎兵ともに投降した。3月5日ロシア軍はロシア兵捕虜の引き渡しと、移住の準備を要求するアラビア語の書簡を発送し、ソチ人の移住の集結地としてシャヘ、ヴァルダネ、ソチを指定した。この書簡の文面は、以下の通り。「汝らは、アバヅェフとシャプスグの諸族が我々の軍門に降り自らの意志でトルコに移住したことを、また、望むものは我々のもとに来てラバ川、クバン川の地に移住したことを熟知しているであろう。今や、ウブイフ衆よ、汝らが最後に残っている。汝らに関する我々の要求を知らんと欲すれば、以下のとおりである。直ちにロシア人の捕虜を引き渡す。今、期間を置かずトルコに行くことを望むものは、海岸の1)シャヘ川河口、2)ヴァルダネ川河口、3)ソチ川河口の3か所に牛車で集まれなければならない。そこに全財産と、もっているものは食糧を持参する。何らの安全は本官が保証する。この近くにトルコへ行くことができるトルコのコチャルマ船と帆船が停泊する。不要なものは軍に売ることができるが、これは許可されるであろう。我々の下に来ることを望むものは、直ちにクバンへ移住しなければならない。そこで土地を分与される。本官は自由に通行できる許可証を与える。これをなすことを望まなければ、もし汝らの側に抵抗があれば、その時は神が汝らを裁かれん。汝らの中に賢者がおり、アバヅェフ人のように自らを破滅に導かないことを知っている。何となれば、我々は火器の力で汝らの農奴を解放しトルコへの道を閉ざす。汝らはアゾフ海沿岸に移住させられであろう。汝らは我々に対して、アバヅェフ人を立ち上がらせ、不幸な民族に悲惨な道をたどらせたことを思い出さなくてはならない」。
戦局の帰趨は既に明らかであったが、ウブイフ人の若い兵士たちは戦うこともなしに降伏することを潔しとしなかった。当時、ソチの指導者はダガムスのハーッジ・ケラントゥフ・ベルゼク・ドゴムコ、スバシ上流のハーッジ・アリムギレイ・ベルゼク・バブコ、スバシのエルブルズ・ベク・ハパクフ・ベルゼク、ヴァルダネのイズマイル・ヅェイシュなどであったが、その時アブハジアのミハイル・シェルヴァシヅェのもとに協議に赴いていたハーッジ・ケラントフ以外は降服を決めていた。降伏勧告書簡の効果はたちどころに現れ、翌6日、アリムギレイ、エルブズ、シャプスグ・ゴイ族のザウルベク・トグルグら15人が現れた。ゲイマン将軍はウブイフ人が降伏交渉を口実に時間稼ぎをするものと判断して、初めから傲慢かつ威圧的な態度で臨んだ。エルブスの態度は曖昧であったが、アリムギレイは個別に海岸までの移動経路の変更を願い出、ザウルベクは即時降伏を主張した。
残るもう一人の指導者アリー・アフメト・アブラウは以前から無条件の降服派であった。このような状況の中では、ロシア軍を前にした3千のウブイフ兵士は、捨てられたも同然であった。ソチ兵はシャヘ(スバシ)に布陣したロシア軍の前進をシャヘ川とプセズアプセ川の中間、プセズアプセから5kmのゴドリク川の海岸で阻止しようとした。左岸にアウルその上の丘には古城があった。城壁の山側は栗の木の林になっていた。ソチ兵は村と砦にバリーケードを築いていた。ロシア軍はゴドリク川右岸に山砲を配置し、海岸沿い、向かって左手の山道、および正面から攻撃した。ウブイフ兵は砲撃に持ちこたえられず、死者60人を出して退却。大部分は海岸沿いに、一部は城の東側の栗林に逃げた。ソチ兵は追撃を受けたが、突然あらわれたハクチ兵200人の増援によって全滅を免れた。逃亡したソチ兵は東南のシャヘ川へ逃れた。ロシア軍はゴドリク川から3kmのチュフクト川まで前進し、そこで野営したが、この時海岸では多数のシャプスグ人が乗船を待ち、沖では避難民を乗せたトルコ船が風を待っていた。現地のシャプスグの長老も、3月6日ロシア軍司令部に降服を告げに来た。また、シャヘ川低地のウブイフ人エルブズ・ハパクフの手紙が届き、主戦派のために動きがとれないが、ロシア軍がシャヘ占領後に家族ともども移住船に乗り込みたいと連絡した。シャプスグの騎兵数十人がロシア軍に協力するために合流した。ウブイフ人の残兵がシャヘ川から北西3kmのチェミスクアジュ川に布陣していたが、3月19日攻撃せず撤退した。シャヘから騎兵50騎を連れた長老が来て投降した。ロシア軍は、ソチの中心にあり破壊されていたガロヴィンスコエ要塞を3月19日に再占領。翌3月20日、シャヘのエルブズは、ロシア軍司令部に全ウブイフ人は既に戦意を喪失していると報告してきた。シャプスグ人ザウルベクの配下の人々も海岸で、乗船を待ち始めた。ロシア軍は春先の水かさの増したシャヘ川に橋を架け、3月22日渡河、23-24日にはヴァルダネで村々を焼き払った。ヅェイシュが降伏を決めたので、外人部隊は退却を決め、大砲4門を含む武器をトルコ船に積み込んだ。重すぎて船に積み込むことができなかったアームストロング砲一門はルー川に投棄した。イスマイル・ザイシュとヨーロッパ人志願兵はロシア軍のシャヘ渡河後、ソチを捨ててヴァルダネから出帆した。3月24日ダガムス河口のロシア軍本営に、数日前にアブハジアから戻ったケラントゥフが現れ、無条件で降伏することを申し出た。ゲイマン将軍が先に話しかけた。
ハーッジ、今日は!あなたにお目にかかって嬉しいですな。
私は本当を言うと、貴方とお目にかかって全く嬉しくありません。
あなたはが私のところに来たがっていたと聞いていましたが、あなた方ウブイフ人は、とても気位が高いので、私の方から先に来ましたよ。
こんなお客はまるで愉快でありませんな。
言いたいことはなんですか、今は何をしに来られたのですか。
我々は生まれた国を離れることを望んでいます。トルコへ行きたいんです。持ち物をまとめ、牛を売りたいんです。
あなた方を助けるために海の向こうから来る軍隊に何を食わせるんです。
今更、どんな軍隊ですか。
誇り高い山地民ケレンドゥフは苛立って答えた(ドゥホフスキー、1964)ロシア軍は翌25日にはソチに到着、ナヴァギンスキー要塞に入城した。翌26日にはロシア軍と戦闘しなかったラシド・ゲチバがゲイマン将軍のもとに現れて、「私たちは、ジゲティである。我々は自由の民だ。一度も誰かと公然と戦ったことはなく、一度も誰かに征服されたことはない。さて、周り中がロシアに従った。我々も既に我々の国はロシア帝国のもの」になったとみなしている。将軍、貴官がここにおられると聴いて、命令を訊きにきました。言うとおりにしましょう。我々の残留することを望んでおられるなら、隠しはしません、我々には特に嬉しいことです。移住を命じられるのならば、ほかのイスラム教徒と一致にトルコへ行きましよう」と述べた。ゲイマン将軍は上官に指示を仰ぐと返答した(ドゥホフスキー、1864)。ジケティもウブイフとともにトルコに移住することになる。30日にはクバン方面軍司令官エヴドキーモフ将軍が入港、4月1日には2週間前ゴドリクで戦ったったアフチプス衆も投降した。4月2日、コーカサス副王ミハイル・ニコライヴィッチ大公(1832-1909)が船でソチに到着し、直ちにザウルベク、ケラントゥフ、バブコ、エルブズ、ラシドらが出席して降服式が行われた。彼らはトルコ移住を希望したので、副王は移住に1か月の猶予を与えた。シャプスグの移住は、ほぼ完了していた。ウブイフは自ら村を焼き払い、海岸に仮小屋を建て、乗船の到着を待った。しかし、住民の一部は降伏を拒否し、内陸部に撤退した。他方、グラッベ将軍の部隊が4月13日山地ウブイフのハーッジ・バブココフ・アウルに到着、翌日ゲイマン部隊と合流した。ゲイマン部隊は一旦海岸へ戻るが、帰途ソチ川流域のすべてのアウルを焼き払い、住民は残っていないことを確認した。海岸には多数の移住者が待機していたが、月末にロシア、トルコ両国の軍艦が彼らを運び去った。ガグラからアイブガに進む予定であったシャティロフ将軍の部隊は、プソウ川河口から15kmの地点でアイブガ族の抵抗を受け、4か日間足止めを喰い、ムズィムタ川を遡って来たスヴャトポルク-ミルスキー将軍部隊の増援で戦況を切り抜け、彼らのアウルを焼き払うことができた。アイブガは12日降服、移住を開始、すでに降伏していてロシア軍に抵抗しなかったアフチプス衆も同行した。同部隊がクバアダに入ったのは19日であった。5月20日、スヴャトポルク-ミルスキー将軍部隊に同行していた副王もクバアダに到着した。最後の戦闘はムズィムタ川を海岸から40km程遡った広い盆地にあるクバアダ村で行われた。ロシア軍はコーカサス各地を転戦した精鋭部隊2千人で、ソチ、アドレル、ガグラ、および大コーカサス山脈の尾根の向こう側の4方向から戦場に迫った。ロシア軍は若干の抵抗を受けた後、この地域を占領した。この時ロシア軍と交戦したのが誰であるのかは不明である。5月21日(新暦6月2日)、副王は閲兵式を行い、コーカサス戦争の終結を宣言した。5月21日は多くの人々にとって忘れられない日付になった。
写真 クバアダ(クラースナヤ・ポリャーナ)におけるカフカース戦争終結式典
クバアダの住民はトルコへ移送され、村は無人のママになったが、10年程後、移住先を求めていたスタブロポリのギリシャ人がこの場所に来て、「なんという美しい、空き地だろうと!」と叫んだという故事にもとづいて、クラースナヤ・ポリャーナと呼ばれるようになった。先ず、36戸のギリシャ人が入植、世紀末にはエストニア人も加わった。現在の人口は約5千人である。これが、ソチ・オリンピックのスキー会場クラースナヤ・ポリャーナである。小学校に併設された地域学博物館には、多くの近代の武器が保管されている、19世紀の戦場の遺物であろう。
ツァーリの移住作戦はスターリンの集団強制移住ほどは厳密なものではなく、集団移住に関わなかった少数の人々が残留することができた。例えば100戸未満のサヅ(ジゲティ)人が大コーカサス山脈を超えて北に逃げ、現在ではロシア連邦カラチャイ・チェルケス共和国に住んでいる。1878年の第1回全露人口調査ではノヴォロシースクからブズイブ川までの間の地域に先住民1,938人が登録されている。1880年の調査では、クバン地方にはウブイフ人13家族(80人)が記録されている。ソ連の時代北コーカサスに僅か残ったウブイフ人は、トルコに移住した同胞の運命について知ることはできなかったであろう。
第5節 イスタンブル行
第1項 マハジルストヴォ―テフジル
国境変更にともなう住民の移動あるいは交換は様々な時代にそれぞれの方法で行われた。国家と国家と同じ名称の民族集団(民族国家の主要国民)に排他的関係があるという擬制が信じられるようになった20世紀には、戦争に伴う国境の変更が大量の難民を生んだことはよく知られているところである。19世紀にもおいてもロシアとトルコ、ロシアとイランの国境の変更は、住民の移動を伴ったが、これは20世紀とは異なった意識のもとで生じた。ロシア、トルコ、イランはそれぞれ帝国であって、国民国家の国民に相当する住民集団の定義と輪郭は曖昧であり、ロシア帝国とイラン・ガージャール朝においては、其々ロシア人とイラン人は人口上の圧倒的多数派ではなく、オスマン帝国においてはそもそもトルコ人などという民族集団は存在しなかった。住民の移動は、多数派国民が新しい国境線に従って前進あるいは後退したということではなく、国民国家的に言えばエスニスィティー構成の周辺部において起こった。このような状況下、移住者は旧住地においても、新住地においてもマイノリティーであった。露土戦争の後には、1784年クリミア・タタール人とノガイ人の以前のオスマン領からオスマン領のままの地域への移住が和平条約による権利条項として行われ、1828年にはアナトリアのアルメニア人のロシア領移住、1878年にはムスリム・グルジア人の西アナトリア移住が実施された。ロシアとイランの間においても、1828年のトルコマンチャイ条約後は多数のムスリム住民の旧イラン領移住があった。また、並行的にイラン領アルメニア人の新ロシア両移住が行われたが、これは国境移動の直接的帰結ではなく、ロシア政府の植民地経営の都合によっておこった。このような場合、限定はあるとして移住者は旧住地における不動産の売却や資産の持ち出しの権利が条約によって定められていた。ソチ住民と他の多くのチェルケス人、アバザ人の移動はこれとは全く違うものであった。1864-1865年の段階では、北西コーカサス住民の移住は特に海岸部において、多くの場合、ロシア政府による有無を言わせない強制移住であったが、もしこれが、一方の当事者オスマン政府の同意や協議なしに行われていた追放であったとすれば、議論の余地なくロシア政府によって犯されたジェノサイドであろう。もし、オスマン政府の同意があったり、移住者指導部に消極的的であれトルコ移住を是とする状況があれば、ジェノサイドの責任は拡散する。
オスマン帝国のボスニア=ヘルツゴヴナ地方にも一見、同様の移住の波が生じた。(米岡大輔「オーストリア=ハンガリー二重帝国によるボスニア領有とイスラーム教宇都移住問題」『史学雑誌』123-7)。1878年に二重帝国によって占領状態におかれたボスニア=ヘルツゴヴナでは、セルビア人やクロアチア人による民族主義的な活動が盛んになると同時に、イスラーム教徒のオスマン帝国への移住が急増したが、1908年に占領が併合になるとイスラーム教徒移住者は増加したが、当局も、イスラーム教徒内に広がる、非イスラーム教徒による統治にたいする宗教的反抗心・嫌悪感がオスマン帝国への移住を促進させうることを懸念していた。オスマン政府は各地からのイスラーム教徒移住者増加の事態に応じて、アブデュルハミト2世の治世(1876-1909年)には、彼らに土地や家屋を下賜し、移住そのものを促進する政策を導入した。オスマン政府は、バルカン地域におけるスラヴ系民族の多数化に対抗し、この地域における支配基盤を強めることを期待していたので、移住を促進する宣伝活動を展開し、同地方からのイスラーム教徒移住者(ムハージルーン)を使嗾して、移住者が経済的によく待遇されていることを強調した。北西コーカサスとボスニア=ヘルツゴヴナのムハージルーンの違いは、後者にはカタストロフィーが生じなかったからであろうか、この案件が両国政府に対する非難を込めて語られることはない。
このクリミア戦争(あるいはコーカサス戦争)後のコーカサスからオスマン帝国への移住と言う社会的現象はロシアとソ連では、マハジルストヴォと呼ばれていた。マハジルはアラビア語のムハジルのトルコ語訛で、「移住者」を意味し、ストヴォはロシア語の状況を表す名詞を作るための語尾である。最近ではロシア史に留まらず広い状況を示すために「ムハージル」(単数。アラビア語の複数はムハージルーン)という術語を用いて、この社会運動もムハジルストヴォを呼ぶことが好まれている。ただし、イスラーム教史上、ヒジュラは「非イスラーム圏からイスラームの地への移住と定義され、さまざまな移住が聖戦に範をとるものとして正当化された」(小杉泰)ので、移住当事者の積極的意図が強調されている。また、筆者の理解が正しければイスラーム法学者中田考氏も、ムスリムはイスラーム法が行われている地域に居住するべきであることを強調している。しかし、ソ連崩壊後は、自由意志による移住説を批判して、強制移住あるいは単に移住とすることも多い。更に強制移住の側面を強調して、ソ連崩壊後は「ジェノサイド」の言葉も用いられている。
「1840年のトラブゾン港」(https://pbs.twimg.com/media/EnwoI6rXEAEg-fw?format=jpg&name=
900x900)。二本マストのカチャルマ船と手漕ぎのチャイカが見られる。
第2項 ロシア帝国およびオスマン帝国の移住政策
新領土の獲得後、コサックを移住させ旧住民を威圧、屈服させるのは、ツァーリズムの一貫的とまではいかないにしろ、少なくとも断続的政策であった。北西コーカサスにおいてもこの伝統的政策が検討されるのは、奇異なことではあるまい。しかし、アドリアノープル条約以前のクバン川以南がロシア領でなかった時期、ロシアと独立派との間で、言わば、住民の奪い合いがあったことは以前に述べた。この時はまだ原住民は経済的資源少なくとも所与のものであったということができる。筆者の個人的意見は、国家と個人は全面的一体性を持たないので、国家の領土支配権と個人の生存権は無関係であっていい。従って、アルサス・ロレーヌの住民は、戦争の度にドイツ人になったりフランス人になり、あるユダヤ種の笑い話の主人公のように、一生を故郷の村で過ごしたにも拘わらず、オストリア=ハンガリーに生まれ、ポーランドで結婚し、ウクライナで死亡するのである。
さて、1856年パリ和平条約の後、露土両国はコーカサス住民の移住に関する手続きを明確化する協定を結んだ。これを受けてたオスマン政府は受け入れの準備態勢を進め、1857年3月9日、以下の内容の布告(ムハジル・カヌンナエメシ)を発表した。1)オスマン帝国に移住を望む者はスルタン自身の庇護の下に置かれる。2)移住者が獲得される土地はあらゆる賦課を免れる。3)トラキアに移住した者は6年、アナトリアに移住した者は12年間兵役を免れる(これをザレマ・イブラギモヴァは「ロシア・オスマン間移民同盟」と呼んでいる)。しかし、この事情は必ずしもロシア官憲に周知されてはいなかったかもしれない。1863年に在イスタンブル・ロシア大使館武官フランキンが軍事大臣ミリューチンに提出した報告書では、「1859年の秋、未だに事情が明らかになっていない事件が、世間を驚かせた。誰かわからない内部の者に従って、各地の原住民が同時にトルコ移住の許可を求め、裁可を待たず旅だった。家族ごとだったのが、村になり、地域全体になった。黒海からカスピ海までの全ての地域に、避けがたい破滅から逃れようとする叫び声に似た『トルコへ!』(これは翻訳なので、実際には具体的にどこへと表現したのか不明です。)という声があがった。この動きは2年間続き、その後少し収まった。移住者を乗せた何艘かの船が沈没し、多くの人々がコレラと飢餓とあらゆる必需品の欠乏から死亡した。極く少数の人々がもとの住所に戻ることを許されるか、無許可で帰り着いた。他の人々はアジアかヨーロッパのスルタンの領土のどこかに住み付いた。この期間にコーカサスから退去した人々は数万家族であると思われる」。ロシア側の公文書によると1859年にはアバザ、ブジェドゥグ、ハトゥカイ、ハムイシュ等の人々が移出し、オスマン側文書でも確かに当局はブジェドィグやカバルダ人の移住申請を受け付けている。カフカース副王領のカバルダ地区長少将オルベリアニ公(ヴァフタング、1890-1812)は、この時期の移住は「狂信者」によるもので、その始まりを、移住申請が始まった年なのか、実際に原住地を出発した時であるのかは明言しないが、1858年においている。カフカース戦争中の1857年6月15日カフカス軍参謀総長ミリューチン(当時)がカフカース軍左翼司令官エヴドキーモフにあてた命令書は、ロシア臣民に対する旅券発行に関するもので、発給はロシアに服従している者に限定すること、旅券申請の理由をよく考慮すること、厳密な言動調査をすること、家族以外の者を同行させないなどを指示している。カフカ―ス戦争終了とともに移住問題は別の様相を帯び、1859-60年には露土両政府の間に「山地民」3,000人の移住問題がおこる。起草者不明の企画書によると、トルコへ渡航希望者が3,000家族あり、今後増加することが考えらるので、2か所の出国管理事務地点を明示し、1件100人のグループごとに許可を出しパスポートを交付するべきことを述べている。1859年7月11日オスマン帝国外務省はイスタンブル駐在ロシア大使に南コーカサス地方のイスラム教徒のトルコ移住の制限を求め、旅券所有者が政府の同意を得て永久に出国してロシア帝国の臣籍を失ったものであるか否かを問い合わせた。次いで、覚書によって移住及びオスマン臣籍付与に関するロシア政府の見解を質した。
両国の間でこの問題が顕在化したのは移住者の生活困窮にであった、同年12月31日付在トラブゾン領事の本国外務省宛至急便による報告では、同地方でロシアの旅券を持ったチェルケス人とノガイ人2,500人が生活に窮して知事に強訴したので、知事は政府の認可を得て成人に1日3ピアストル、子供には2ピアストルを支給することに決定した。12月に外相に就任したミュテルジム・メフメト・リュシディー・パシャは移住の停止を要請した。これに対して、コーカサス総督バリャーチンスキー公は、北コーカサスの住民の間に露土両国間に住民交換協定が結ばれ、スルタンは移住者に一時金を交付するという噂が流布していることを認め、希望者3,000家族の移住を継続させることを通告した。1860年1月26日ロシア外務省から、駐イスタンブル大使を通じて、オスマン帝国政府にあてた文書は、1.ロシア政府は自国臣民が他国の臣籍を得ることを妨げないこと、2.ロシア臣民がハッジ名目で出国することに反対していないこと、3.外国への移住は、当該国政府の承諾なしにはなされないこと、4.移住の許可は文書によって行われることを通告している。1860年にもトルコへの渡航希望者3,000家族受け入れに関する協議が両国間で続けられたが、4月ミハイル・ロリス=メリコフ公がコーカサス総督の特使として派遣され、オスマン領西アルメニアを引き合いに出した強引な交渉(英仏はオスマン政府にアルメニアの自治を要求していたが、ロシアはこれに同調しなかった)によって、オスマン帝国外務大臣フアド・パシャに、カルス、アルダハン、バヤズィットに入国管理事務所を開くことを認めさせた。オスマン政府は土地と一時金交付を申しでたが、定住先はオスマン政府の決定によることを申し渡した。この結果、1860年商業省の中に高級移住委員会(ムハジリン・コミシユン・アリ)が設置され、チェルケス人のトラブゾン総督ハフィズ・メフメト・パシャが責任者になった。パシャにはウブイフ・アリ・パシャという兄弟があるようなので、ハフィズ自身もウブイフということになる。この委員会は1861年には独立の機関になり、土地の分配と生活の援助をおこなった。オスマン政府の対応の遅れは、1857年の布告が「欠陥者」アブデュルメジド一世(在位1839-61年)の個人的主導によるものであった可能性を窺わさせる。いずれにしろ実際に1860年には陸路移住したカバルダ人やオセット人がオスマン領に到着した。1860-1862年の間にオスマン帝国に移住したカバルダ人は941家族10,343人であった。
チェルケス人とクバンのノガイ人について限定してみると、ブジェドゥグ人の降伏は1859年7月であったが、同年中に移住の動きが始まった。ロシアがチェルケス東部を制圧した1861年には、移住の列に新しくベスレネイ人、クバンのカバルダ人、テミルゴエ人が加わった。1860年1月に降伏したナトゥハイ人に対するアナパからノヴォロシースクからクバン川右岸への移住が言い渡されていたのは1862年であったので、1860年の時点で、露土両国のチェルケス人移民問題はトルコ政府がチェルケス人の入国を妨げないことにあり、ロシア政府がチェルケス人を国外に追放するような動きは見られない。終始、移住政策に消極的であったカバルダ地区長オルベリアニは、1860年に移住したカバルダ人は狂信者であると強調している。またトラブゾン領事は1859年トラブゾンで生活に窮していたチェルケス人とノガイ人らの一部の移住者と面談したが、彼らの旅券は渡航の目的をメッカ巡礼や親族訪問としていて、彼ら自身も「イスタンブル」を見て気に入れば残るし、気に入らなければ帰国すると答えている。従って、ロシア領事館には帰国申請も相次いでいた。
しかし、国内の問題に限定すると、要塞建設や道路の建設の為の土地収容に基づく立ち退きは、エルローモフのグロズヌイ建設の際にも行われており、カバルダにおいてもコサック屯田村建設のための土地収用は実施されており、更にカフカース戦争期にも1857年にエヴドキーモフは、平地および山地のチェチェン人の一部を指定地に移住させて、跡地にコサックを入植させてた(アドルフ・ベルジェ『カフカス山地民の強制移住』)。また、北コーカサス中央部における政策を踏襲して、同じく1857年、カフカース軍参謀総長ミリューチンは、軍事大臣チェルヌイシェフにチェルケス人をドン軍管区に移住させて跡地にコサックを入植させる案を献策したが、採用には至らなかった。国内あるいは国外かは別とすると強制移住政策が正式に決定を見たのは、前節で述べたように、1860年8月のウラジカフカース会議に於いてであった。
この間の移住者の総数は、マルゼイの試算では10万人以下である。一方、ヴァレリー・ティシュコフ(ロシア科学アカデミー会員、歴史文献学部門書記、民俗学人類学研究所長)とヴァレリー・ペルハフコ(ロシア科学アカデミー歴史学研究上級所研究員)の共著序文では、1858-1859年の移住者数を3万人未満とし、1858-1863年秋までの移住者をベルジェの数値から引き算して、8万5千人としている(『ロシア民族年報』2014年第1号に掲載)。グゾフは、1858-1859年のクバン川の北側のノガイ人に限って3万人としている。この数に再帰国者が含まれているかどうかは不明である。
最初の移住の波が収まっている間に、ロシア政府の中では大きな政策進展が起こっていた。上に述べたザクバン地方と黒海沿岸部のコサック入植計画である。1856年、新任のカフカース軍最高司令官バリャーチンスキー公は、ザクバン植民委員会を設置し、翌年にはコサックの移住について検討を命じた。この秋、カフカース軍参謀総長ミリューチンは、軍事大臣チェルヌイシェフに報告書「コーカサスへのロシア人コサック移住進展の手について」を送り、チェルケス人のドン軍管区移住に勧誘し、その跡にドン・コサック7,500家族を移住させることを提案した。しかし、委員会はミリューチン案を実施不可能であるとして退け、替わりに毎年150-200家族のドン・コサックの移住を提案し、アレキサンドル2世の裁可を受けた。1860年の決定を受けた左翼軍司令官エヴドキーモフは、1861年に136万デシャーチナ(1デシャーチナは1,09h)の土地を確保し、コサック2,294家族の移住を決定したが、コサックはこれに反対して反乱を起こしたため、計画どおりの実行はできなかった。エヴドキーモフは移住条件の大幅緩和によって、1862年には内陸部15ケ村、海岸部8ケ村の屯田村計4,387家族の入植を実施することが可能になった。1864年末までには、111ケ村の屯田村が設けられ、142,333家族が入植した。現地人はこのために必要な土地の明け渡しと移住を命じられた。
「山地民の村からの立ち退き」ピョートル・グルジンスキー(1837-1882)https://upload.wikim
edia.org/wikipedia/commons/9/9c/Pyotr_Nikolayevich_Gruzinsky__The_mountaineers_leave_the_aul.jpg。ピョートルは18世紀にロシアのアストラハンで客死したグルジア(カルトリ)王ヴァフタング6世のロシアに残った子孫で、最後の男系であった。彼はコーカサス戦争をテーマに多くの作品を書いたが、彼自身小カバルダの王侯ジリャフスタン・タタルハノフの子孫でもあった。
北西コーカサス住民のオスマン帝国への選択的強制移住はいよいよ現実のものになった。翌1862年5月3日、全ロシア海運商業協会、ケルチとオデッサの個々の事業者と官費で「シャプスグ族・アバヅェフ族の希望者をトルコに輸送」するために協議が開始された。しかし、協会は冬の黒海の慣れない航路をコレラ、チフス、天然痘の罹患者を含めた飢え、疲弊した人々の輸送に手を出すことはなかった。あるいは、暴虐な政権の非人道的政策の実行に手を貸すつもりがなかったのかもしれない。結果的に移送のための船舶はトルコに依存せざるを得なかったが、その詳細は今のところロシア側文献では明らかではない。5月10日、カフカース委員会は内部に現地民移住小委員会を組織し、北コーカサス現地人の移送にあたらせた。後に黒海岸の港湾に支部が作られ、アナパとコンスタンチノスコエ要塞(ノヴォロシースク)港、トゥアプセには税関と検疫所が設置された。移住者の動産売却には期限が設けられ、家畜は国庫指定の価格で買い取ることが決定された。移住は村落ごとに通行許可証が、家族ごとに旅券が発給された。彼らが退去した集落は破壊された。また小委員会設置の直後、5月12月「コーカサス山脈西部丘陵にクバン・コサック並びに自余のロシアからの移住者入植令」を発布、コサック入植も開始された。1863年12月5日にノヴィコフ大使(エヴゲニー・ペトロヴィッチ、1826-1903年、在コンスタンチノープル臨時大使1862-64年、特命全権大使1879-1882年)がコーカサス軍参謀総長カルツォーフ将軍(アレクサンンドル・ペトロヴィッチ、1817-1875年)に送った文書では、オスマン政府は自国領内に集団移住を望むチェルケス人の移住を拒否するものではないが、以下の2条件を提示した。移住先はイスタンブルとトラブゾンに限ることなく、オスマン政府指定の移住地に赴くこと、1864年5月までに終了すること。ギリギリの交渉が行われていたのであろう。当初、エヴドキーモフは官費輸送を考え、1万家族(8-10万人)分の予算請求を行っていたが、実行に際しては距離に応じた料金、一定の割合限度内での貧困者に対する料金無料を条件としていたのであるから、トルコの民間船に対しては有料旅行者負担であった場合もあったのであろう。
アナトリアの海岸に待機していた船舶が一斉に黒海東岸へ向かったのが、そしてチェルケス人を満載した最初の移住船がオスマン帝国領に向かって出発したのがいつなのか、露土両国の直接担当者による文書の記録がない。アナトリア到着に関しては、ロシアのトラブゾン領事モシニーン(ヴィクトル・アレクサンドルヴィッチ、1864年領事、1871-1880年総領事)のカルツォーフ宛報告書には、1863年11月13日、ロシア当局はトルコ船舶に着岸を許可したので、カチャルマ船40隻が出港したとある。同月22日の記録によると、コーカサスへ向かった42隻のカチャルマ船のうち24隻が帰港し、ほとんどがシャプスグからなる7千人の移住者を運んできた。一隻当たり292人である。彼らの大部分はコンスタンチノープルへ、一部はエルゼルム道へ移送された。死者は市内ではなく市外に埋葬するように命令されたとある。このように領事はトラブゾンに移送された強制移民の到着を淡々と報告する。移送を急ぐロシア当局と一航海当たり最大の利益を得ようとするトルコ人船主の利害は一致した。船は経験的安全な乗客数を超えて乗船させた。通常は50-60人しか乗れない船に300-400人も乗船させた。船の中でも飢餓は続き、疫病は一層猛威を振るった。フランス人の冒険軍人フォンヴィユが語るには、600人の乗客を乗せたある船が港に着くと生き残っていたのは、370人だった。死亡した人々の遺体はすぐ海中に投棄された。黒海名物の冬の荒波と過剰搭載で、遭難は頻繁に起ったと思われている。1864年11月17日、帆船ヌスラティ・バフリ(海の勝利)号は移送民を乗船させたばかりのノヴォロシースク沖で遭難し、救助活動にも拘わらず470人の乗客中300人が死亡した。沖合で沈没した船の消息はどこにも記載されていない。無事アナトリアの海岸に上陸できた人々が、乗船を待たずに死亡した人々や航海中に亡くなった人々より運がよかったとは言えない。モシニーン領事の1864年6月10日付報告では、「山地民の移送は継続中である。アナトリアの海岸はバトゥミ(グルジアのバトゥミはこの時はまだ、オスマン領だった)からペンデラカまで彼らで溢れている。1 バトゥミへの移送は最近始まったばかりだが、山地民は6000人ほどいた。そのうち4000人はチュルクスーへ行かされた。そこへはこれからも人々が送られるであろう。これらの山地民は家畜を連れてきた。平均死亡率は一日7人である。家畜は非常に疲弊していて、死亡している(筆者注。この人々は恐らく、山のジケティ人で、徒歩で到着したと思われる。通常はこの時期涼しい高地にいるはずの家畜は暑い中を急がされたので、斃死する運命であった)2 ここ、つまりトラブゾンと周辺地では移送の開始以降、24万7千人が来たが、今日までに少なくとも1万9千人が死亡した。現在トラブゾンと周辺地では63,190人が残っている。平均死亡数は一日当たり180-250人という数を出している。総督のもとでは救援資金が底をついていたが、独身の移住者男子3000名を急募して、軍隊に入隊させたので、離婚が増大したと言われる。来着直後の死者数は定義も人数の推定も難しいが、過酷な航海と移住者収容所の体験者であるフォンヴィユは、ロシア軍の目を逃れてヴァルダネでトルコ船に乗り込み(ロシア軍艦の臨検を受けそうになったら海に投げ込むと事前通告を受けていた)最後の2日は何も食べず、3日間は一口の水も飲まずに5日目トラブゾン近くのアチェカレに上陸した。海岸には空船12隻が停泊していて、既に1万5千人の移住者が雨露を凌ぐものもなく、生活必需品もなくただオリーブの木の下に苔や枯葉を敷いて生活していた。食糧は日に一度船で運ばれたが、一人一枚のパンを受け取ることができるのは、収容者の半数であった。至るとことで埋葬が行われていて、モッラーの唱える埋葬の呪文が響き渡っていた。アナパとノヴォロシースク(コンスタンチノポリヤ要塞)、トゥアプセには、税関と検疫所が置かれていたが、それ以外の港では手続きも旅券提示もなく乗船したようだ。そもそもソチの人々に旅券が発行されたかどうかは不明である。オスマン領に上陸した人々は、ロシアの旅券を取り上げられてオスマン帝国の旅券が与えられた。
アクチェカレpingudumuzayede.com/urun/635909/trabzon-trebizonde-village-akcha-kale
(trabzon-trebizonde-village-akcha-kaleで検索)。ここが果樹園であった頃は、人骨が出ることもあったが、現在では美しい行楽地になっている。
1863年11月から始まった強制移住は、翌年5月に山を越えた(モシニーン・トラブゾン領事のカルツォーフ将軍宛て書簡)。一部では年末まで継続されたが、オスマン政府から冬季の移送を停止するよう要請を受け、かなりの積み残しがでたので、一年間の延長の後1865年に終了した。1865年、コーカサス副王ミハイル・ニコライヴィッチ大公は、政令を発布しこれ以降のトルコ移住には厳しい条件を科した。また、副王府は北西コーカサス諸地域の無人化を恐れるようになったので、1865年12月に大量移民を阻止するために「山地民の大量移住禁止令」を発布して、出国を地区の行政機関の許可を得た個人または家族に限定した。1865年4月オスマン政府は事前の同意のない移住は許可しない旨の通告を行った。それでも、実際には1864年分の積み残しを別にしても、移住は続いた。しかし、1865年の移住者は前年とは替わって、オセット人、カバルダ人、チェチェン人で移住前の居住地は大きく異なるようになり、また、移住の直接的理由も違っていた。この間1858-1866年の出国者数はベルジェによると493,194人でその内訳は以下の通りである。
アバヅェフ 27,387 タマン港から
ナトゥハイ 45,023 アナパ港から16,452人、ノヴォロシースク港から28,571
シャプスグ 165,626 ノヴォロシュースク港から42,157人、
トゥアプセから63,449人、トゥー、ネチェプスホ、ジュブガ、プシ ャダから60,000人
ウブイフ 74,567 モクプセとソチから42,539人、ソチとホスタから10,678人、これ以 前にモクプセとソチから21,359人移住
ジケチ 11,873 ソチから2,618人、プスフから5,040人、ツァンドラプシュから 4,215人
アフチプス ツアンドラプシから4,000
プスフ グダウタから(アブハズ軍司令官の報告によると、1864年8月20 日)。4,642人
ブジェドゥフ 10,500
アバズィン 30,000
ベスラネエフ 4,000
テミルゴイ及び 15,000
モホシェフ及びエゲルカイ
ザクバン・ノガイ 30,650
カバルダ 17,000
チェチェン 23,193
合計 493,124人(この内、ベルジェは1863年秋から1864年までの移住人数を418,292人、移送委員会は1863-1864年の移送を470,730人としている)。
カフカース総督府古文献委員会議長(ロシア帝国において、公文書は適切な保存が行われていた)であったベルジェは公文書を利用でることのできる立場にあったので、この数字は権威あるものとされているが、細部については再検討の必要があると思われる。ベルジェが3万人足らずとするアバヅェフ人は、次表のロシア内移住者を加えても5万人足らずで、コーカサス戦争前の推計50万人、ムハンマド・アミーンの公称16万人(及びシャプスグ14万人、ウブイフ6万人)と比べてあまりにも少なすぎる。1862-1863年にかけて人口が三分の一に減少したのであろうか。あるいは、1864年2月に乗船したアバヅェフ人はロシアの旅券なしで出港したか、記録不備だったのであろうか。1863-1864年の冬にシピシュ川とプシェシュ川上流の間にいたアバヅフ人の乗船地としてアゾフ海岸のタマンは遠すぎるが、クバン川に沿って海岸に向かった人々と峠越えでトゥアプセに下った人々がいたはずである。ウブイフの人数はムハンマンド・アミーンやその他の推計に比べて多すぎると言われているが、モクプセ出港者の中にシャプスグ人が含まれているのではないだろうか。シャへ川から北には、シャプスグ人が住んでいたからである。一方、ベルジェのウブイフ人推計が多いのは、ジケチ人が入っているという解釈がなされているが、ジケチ人はソチとアドレルで別個に登録されているので、これは当たらないかもしれない。重要なのはベルジェが挙げるのは出国者数であり、これには集落を退去してから乗船するまでに失われた人命は含まれていない。例えばアバヅェフ人は1862-3年の冬の例年にない寒波の後、1863年の秋の取入れを待たずに血も涙もないエヴドキーモフ将軍に集落を追われて西コーカサス山脈の高地に追い上げられ、特に雪が多かった1863-4年の冬を凌いで飢餓とチフスから生き延びたものだけが春になってやっとトゥアプセの海岸に到着し、船に乗る順番を待たなければならなかった。何とかその船に乗り込めたとしても、また死と隣り合わせた。移住船で渡航し、オスマン軍の将校になったチェルケス・ヌリという人物は、次のように回想した。「我々は犬のように帆船に投げ込まれた。息を詰まれらせ、飢え、ぼろを着て、病気になり、我々は死んでしまった方がましだと覚悟した。高齢も病気も妊娠も何も考慮されなかった。あなた方(ロシア)政府が移住支援に支出した金は、どこかへ行った。一体、どこへだ。我々は金を見なかった。我々を家畜のように扱い、一つ穴倉に押し込め、誰が健康で誰が病気かを気にせず、手近のトルコ海岸に放り出した。大勢が死に、残りの者は、行き当たったところにとどまった(TishkovPerkhavko2014<Baderkhan,2001)。
1863-1865年の移住の後、北西コーカサス(クバン地方)には6万余人の現地人が残った。フリスティンによるとその内訳は、以下である。
ブジェドゥフ 15,263人
アバヅェフ 14,666人
クバンのカバルダ人 11,631人
ベスレネエ人 5,875人
シャプスグ人 4,983人
テミルゴエ人 3,140人
エゲルハエ人 1,678人
マホシェ人 1,475人
ハトゥカエ人 606人
ナトゥハイ人 175人
ハクチ人 87人
チェルケス人のオスマン帝国への移住はこれ以後も続くが、1863-4年のような強制性や集団性はなかった。ハーッジ・ベルゼクもこの時家族郎党二千有余人を連れて移住したが、スルタン・アブドゥルアッズィーズは、ハーッジの長年にわたる忠勤に答えて、移動のために軍艦を差し向けた。さらに、検疫機関の終了後、スルタンはハーッジを召して、言葉をかけ、イスタンブルに住いを下賜したが、ハーッジはこれを辞して、同族とともにマルマラ海南岸のマニアス周辺に済むことを願った。この後のハーッジの生活につては、1ー2の写真を残す他は、1877-8年の露土戦争にウブイフ兵五千人の義勇兵を率いて従軍したことが知られている。ハーッジはこの戦争で、息子タヴフィクを失っている。この間の事情は知られていないが、英雄の名にふさわしい功績がなかったのだろうか。この時の義勇兵はトルコでは、チェルケス不正規兵(バシボズクイ・チェルケス)、バルカンでは、「不正規兵バシュバズクとチェルケス人」と呼ばれていて、非戦闘員に対する残虐行為で知られている。コーカサス戦争の最後のエピソードとするには相応しくないのかも知れない。
オスマン軍不正規兵の蛮行(https://c8.alamy.com/comp/DDRY2T/russo-turkish-war-of-1877-1878-bashi-bazouk-at-the-march-to-the-headquarters-DDRY2T.jpg)。1876年のセルビア独立戦争をテーマにしたこのエッチチング(La Illustracion Eapanola y Americana,August 30,1876)は欧米に広がったであろう。
これは1876年のセルビア独立戦争 スペインの旬間画報の一ページ。服装からして、彼らはチェルケス人ではない。ロシアでは当時著名なアカデミー派の画家コンスタンチン・イドルヴィッチ・マコフスキー(1839-1915)の「ブルガリアの女性殉教者」(1877)の兵士の服装もチェルケス人のものではない。1877年5月14日付け宮内執事書記官(マベイニ・ヒュマイン・キャティブ)ヒュセイン・パシャは、ドナウ軍司令官アブドゥッラ・パシャに暗号電報を送り、ドブルジェとスィリストレには軍隊がいないので、チェルケス人と不正規兵を撤退させたところ、彼らは少なくともイシャクセ区(カザ)のみで、6ケ村を略奪し、教会一宇を焼き払ったので、不正規兵とチェルケス人の住民に対する敵対行動を厳しく禁止したと通知している。ウブイフ人にとっても話題にしたくない事であるのかもしれない。
オスマン帝国領に移住した人々の境遇はさまざまであった。1850年から1923年までのスルタンの息子18人および孫6人の配偶者の一覧を見ると、少なくとも12人のソチ出身者の氏名が挙げられている。その内11人のウブイフ人の家名がみられる。ゴゲン、ディプシュ、チズマ、ハミト(ウブイフの家名としては未確認だが、アブハズ人家名中に確認)、フアグ、アジェ(ウブイフの家名としては未確認だが、アバジンの家名中に確認)等の家名が見え、残る1人はアレドバ家出身である(サロメ・ヴォロンツォウ)。単にチェルケス人あるいはアバザ人とされている人々の中にも他にソチ出身者がいるかもしれない。時のスルタン(アブドゥルアズィズ、在位1861-67年)のハーレムに娘を入れることができたゴゲン家はマルマラ海沿岸に領地を与えられたが、アウブラ家、ゲチュバ家、ツアンバ家、アドレバ家、チュ家の人々もマルマラ海沿岸のサカリアに居を構えた。フンジャ、ファグ等の貴族はイスタンブルに落ち着いた。それどころか、山地のアフチプスィ、プスフ、ブズイブから移住した人々もマルマラ海の沿岸に定着することができた。一方、ベルゼクの一部やヅェイシュは主としてサムスンに居を構えた。しかし、オスマン政府は、全ての移住者に期待した生活基盤を供与することはできなかった。早くも1859年には生活困難者がでたが、その数は1863-4年に移住者数が爆発的に増えるとともに拡大した。この結果、在オスマン帝国ロシア公館には、多数の帰国希望者が押し寄せることになるが、一旦ロシア国籍を放棄した人々が再入国を許されたり、さらに旧住地に帰還を許されることは希であった。
ソチの武装勢力の強硬派は最後まで降服にも移住にも反対であったことは既に述べたが、イスタンブルに亡命していたソチ議会も移住に反対であった。1863年8月にはロシア側にカラバトイルの船の接岸情報があり、9月はジュブガに上陸したという情報も伝わった。またクシュタンク・エフェンデ・クシュタノフのナトハイにおける反移住活動も報告されている。議会は若干の軍需物資を荷揚げするとともに、まもなくヨーロッパから援軍が到着することを協調した。これについては、既にフォンヴィユの回想録によって記述した。しかし、1864年早春、戦線が崩壊するとカラバトイルは沈黙してトルコにおいて移住民の待遇改善要求運動を指導した。それどころか、クシュタノフは終には逆に移住の円滑な進行のために努力した。1864年5月25日、クバン軍参謀総長ザブローツキ少将からクバン軍アダグム部隊長でナトハイ区にいったバービ=チ(パーヴェル・デニシビチ、1801-1883)少将に宛てて、エルモーロフ将軍の意向として、ナトゥハイおよびシャプスグ人の移住遂行協力者のクシュタノフ(ナトハイ区ナイーブ)に2千ルーブリの報奨金支払いを指令している。このような褒賞は同じ年にシャプスグ区長シプシェフ大尉から同じくバービチ少将に対し、エフェンディ・イスーハクに報奨金400ルーブリの支払いを申請が出されている。イスハークは、オスマン領移住を先導していたと了解されている。
カラバトイル・ザノコ(右から二人目)とオスマン帝国のウブイフ人将官達1870年頃。 左から1,3,5,7番目はシャヘ川下流出身のシャフプリ家の兄弟、ハーッジ・ハヌコ・サラチェリ、およびプセズアプセのシャオウスグ・ゴアイのハーッジ・トゥグルグ・ザウルベク(1881年コンスタンチノプル)。典拠(Fond, SMK-0-F-1671)
zen.yandex.ru/media/simple_history/legendarnoe-foto-cherkes-i-ubyhov-5db3166398fe7900ae736e06
1864年の大移住以前に娘を帝室に入れていた貴族たちは、イスタンブルに経済的基盤を持っていたと思われるが、ソチの上層部の人々にはイスタンブルとかかわりをもつものが、多かった。メフメット・ゼキ・パシャ(1846-1929)は、 1860年に軍官学校( mekteb-I Harb)に入学、卒業後は各地で軍務についた。一族の伝承では、メフメットはハーッジ・ケランドゥフの一族で、スルタン・アブドゥルハミト(二世、1842-1918)の婿であったというが、どちらも確実ではない。スルタンの父アブドゥアズィーズ一世には、二名のチェルケス・メフメット・パシャという名の婿がいるが、ここのメフメット・ゼキではない。いずれにしろ、メフメットは93年戦争(1877-8年の露土戦争)には、少将としてドナウ軍に所属、戦後はユルドゥズ宮殿護衛連隊長を務め、この時、スルタンの信任を得たのであろう、1887年には、元帥としてエルズィンジャンの第4軍を率いるが、クルド人、チェチェン人(チェルケス人同様の移住者)、カラパパク人(現代アゼルバイジャン人を構成する一要素)等を組織して、不正規軍団ハミディーイェ軽騎兵連隊を組織し、18945にアルメニア人とアッシリア人を虐殺させたのはこの人物であるが、彼の出身について何か断言するには、今のところ情報が少なすぎる。
ヒュセイン・ナーズィム・パシャ・バブク・(ベルゼク)は、1848年(1853?)コンスンチノプル生まれである(1913年没)。1912年に軍事大臣に就任したが、1913年統一と進歩党のテロリストの凶弾に倒れた。パシャの親族はただちに黒幕と見られた大宰相チェチェン人のマフムト・シェヴカット・パシャの暗殺で応じたが、コーカサス人としてはごく当然の行為であろう。父祖はシャヘ川上流のバブク・アウルの出身であろう。ナズムの父はチェルケス・イスマイル・パシャ(1805-1861)で、クリミア戦争のとき、トパル・イッゼト・メフメット・パシャ(大宰相にして大提督、1772-1855)に従っていたが、戦後イスタンブルで砲術学校へ入学、砲兵将校に採用された。アバジン人チェルケス・アブディ・パシャ(1880年没)の娘と結婚したが、ナズィルの義理の兄弟には、ヒュスレウ・パシャ(大将、海軍大臣、スルタン・アブドゥル・ハミードの副官)やメフメット・ラウフ・パシャ(海軍大臣、第一軍元帥、1832-1908)であった。ナーズィム自身の妻は、メフメット・エミン・アーリー・パシャ(大宰相、1815-1871)の娘、姉妹はアブドゥハミト二世の副官チェルケス・アサフ・パシャに嫁いだ。つまり、バルゼク家は1864年以前から、オスマン帝国の中枢部に食い込んでいたのである。
ヒュセイン・ナーズィム・パシャの暗殺(『ル・プチ・ジュルナル』誌、1913年2月号表紙より)arkaguverte.com/gundem/harbiye-naziri-nazim-pasanin-yakup-cemil-tarafindan-bab-i-ali-baskininda-vurulmasi-25942
シャヘ川左岸にはウブイフ人ベルゼク氏の集落があったことは、これまでにも指摘した。上流にあるベルゼク氏のバブコフ(バブク、或はバブコ)・アウル(ウブイフ語ではクアジュ)のハーッジ・アデルギレイ・バブコフはシャヒスルと呼ばれているから、同族であると思われる。シャヒスルはトルコ語で「シャヘ川出身者」の意味あるいは、チェルケス語では「シャフプスィ(シャヘ川)」リであろう。トルコではシャプリと呼ばれている。さて、シャフプリ家兄弟父ハサンは1860年に戦死、祖父ベルケト・ミルザウは1838年4月25日に死亡、曾祖父はミルザウであった。兄弟はオスマン軍に入隊したが、出世頭オスマン・ファリド(1844-1912年)「両聖地(メッカとメジナ)総督」に就任しているが、トルコ・スポーツ界の顔役でもあった。シャーミルの息子ムハンマドの娘と結婚している。このシャフプリ家はソチでは、ヅァイシュ家の家臣であったと言われている。
更に大移住以前の有力ソチ出身者には、陸軍元帥であった(デリ・)フワド=パシャ(1835-1931年、ウブイフ人トフゴ氏)の父、陸軍元帥であったハサン・レフェト=パシャ(1795-1901年)がいた。パシャはソチのトフゴ(「黄色い尾根」あるいは、「髪の毛の黄色い」、「白髪の」意味。)というところで生まれたが、叔母がスルタン・メフメット2世の家庭教師シェキル・エフェンディ(セイエド・メフメット・シェキル・エフェンディ、1764-1836)に嫁したのが縁で宮中に出仕し、昇進の道を歩むことになった。だから、彼の人生は大追放の時代の人々とは大いに違う。
本文中で幾度も名前が出たヅェイシュ家の命運は遥かに希望あるように思えた。ヅァイシュ・バラカイ・イスマイルは娘ネシェレク・ネスリンをスルタン・アブドゥルアッジズの室に入れたからであった。1859年、ハサン・フシュト率いる代表団がチェルケス議会によってイスタンブールに派遣された。この代表団の内4人がイスタンブールに残留した。これらは、シャプスグ人の代表であるフシュト・ハサン、ナトゥハイ人の代表であるコスタノフ・イスマイル、アバゼフフ人の代表であるバラスビ・ハッジ・ハジベク、そしてウブイフ人の代表であるゼブシュ・バラカイ・イスマイル・ベイだった。この派遣の後、イスマイル・ベイはトラキア(マルマラ海の北岸スィリヴリのモスクに寄進碑文が残されている)に広大な土地を与えられ、おそらくこの間、娘のネシェレクはスルタン・アブデュルアズィーズの母親の要請で宮殿に留まり、後にスルタンと結婚した。ネシュレク・ネスリンは妊娠したが、彼女は家族に一層の栄光の期待を抱かせたであろう。しかし、この時宮中クーデターが起こり、スルタンは廃位、ネシェレク・ネスリンは肺炎で死亡、アブドゥルアッジーズも後死亡した(あるいは殺害された)。イスマイルの息子ハサン大尉は監視下に置かれていた。ハサンは妹と義弟の死の責任はクーデターの首謀者にあると判断し、ウブイフの習慣に従い彼らに血債の支払いを求める決心をした。彼は政府庁舎会議室でヒュセイン・アヴニ外相を射殺した後で取り押さえられ、1876年6月18日絞首刑になった。有名なチェルケス・ハサンの事件である。最後のウズイフ語話者として有名になったテヴヒク・エセンジ(1904-1992)もまた同族の出身であった。
20世紀およびまた最近、最も有名なチェルケス人は、チェルケス・エトヘムであろう。しかし、チェルケスという通称にもかかわらず、エトヘムはチェルケス・ハサンと同じく、先祖はソチの出身であった。エトヘムは回想録(筆者未見)の中で自分らはソチのヅェプシュ族でありで、家名の意味は「我々のプソウ」の意味で、故郷プソウ川流域であると述べた。しかし、このような集団名称の例は他には知られていないし、アブハジア国境のプソウ川流域にはウブイフ人もチェルケス人も住んでいなかった。彼はソチのヅァイプシュではなかろうか。但し、チェルケス語では、プセウに「住民」の意味がある。エトヘムは1885年マルマラ海南岸のバンドィルマに生まれた。騎兵幼年学校を卒業後、バルカン戦争に出征して負傷、第一次大戦期にはイラクやアフガニスタンに派遣されたが、負傷して帰省していた。連合軍が迫ると郷党の勇士と山野に入って、攪乱行動に従事し、やがて彼の集団は、「遊撃軍」と称されるようになった。遊撃軍3000人は、10倍の規模のギリシャ軍を撃破して、ケマル・パシャに「国民英雄」の称号を与えられ、敬意をもってシヴァスの国民大会に迎えられた。しかし、エトヘムはケマルのグループの極端なトルコ民族主義に距離感を感じ、個人的にも敵であったイノニュが率いる正規軍がギリシャ軍を破る「イノニュの第一の戦闘」の後、ギリシャ側に走って、マルマラ海沿岸にギリシャでもトルコでもない第三勢力を形成しようとした。この結果、かっての英雄は裏切者として、糾弾されることになった。それはエトヘムが1948年にヨルダンで客死してからも続いた。ブノアメシャンの『灰色の狼ムスタファ・ケマル』(原著1954年、牟田口義郎訳1965年)の描くエトヘム像は、桁外れの虚栄心を持った「厄介者」、「冒険屋」で、部下は盗賊であった。山内昌之氏はエトヘムの行動を社会史および政治史の手法で分析した(『神軍緑軍赤軍』筑摩書房、1882年)が、ただ一つエトヘムがウブイフ人であることは視野の外であった。勿論本稿では、それが最も重要であるが。北コーカサス出身者の民族文化協会の類も一時活動を禁止され、再開は1950年であった。ウブイフ人を含めチェルケス人の政治的指導者たちは、ケマル一派のゼロからでっち上げるようなトルコ主義に反対し、ケマルのグループもチェルケス人の動向に不安を抱いていた。あるウブイフ人は彼らが母語を失い、もっぱらチェルケス語とトルコ語を用いるようになった原因をエトヘムの行動に求めている。ウブイフ人はエトヘムの一味と疑われることを恐れて、公共の場所でウブイフ語を用いることをはばかり、公的にはチェルケス人と称するようになった。既に19世紀にウブイフ人はチェルケス語とのバイリンガルであったので、この戦略は破壊的な影響を持つことになったのである。エトヘムの評価をめぐる状況が変わったのは反ケマル主義のエルドアン政権になってからである。
チェルケス・エトヘムとケマル・パシャ(中央の白いコートを羽織っていたのがケマル、画面その右隣の長身の男がエトヘム)indigodergisi.com/2019/05/cerkez-ethem-isyani-nasil-ortaya-cikti/
第5項 ソチに残った人々
ハクチ衆の抵抗が弾圧されたあと、ソチには元の住民は誰もいなくなったはずだが、現在ソチには、12箇所にシャプスグ村があると言われる。そのリストを南東から北西へ読み上げると、まずシャヘ川流域の大、小のキチュマイ、アヒンタム、プセズアプセ川上流のトハガプシ、アシェ川のシャハフィト、ルイゴトフ、ハジコ、カレジ、ショジク、マコプセ川のナジゴなどである。アシェ川中流左岸のハジコ村は1865年の最終掃討作戦により周辺は無人になり、ロシア軍が駐屯した。1876年にはアドラルのクデプスタから移住を命じられた10戸のシャプスグ人(彼らが本当にシャプスグであったかどうかは、検証を必要とする)、1880年代にクバンから帰還したアスルテ・ハブル(アサレトフ)村、メズマイ(マズマイ)村の旧住民の三集落からなる。その人口は500人弱である。やや上流の小村トハガプシも1880年代に駐屯露軍部隊が撤退後、山中に姿を隠していた旧住民や近隣住民が移住した(1891年で16戸105人)。同じくアシェ川流域のカレジ、ルイゴトフも1874年にロシア軍が現地人掃蕩作戦を停止後に建てられた。シャヘ川の大キチュマイは1866年に捕虜(ハクチ)や投降者がロシア軍陣地の周辺に住みはじめ、1874年に最後の投降者がクデプスタ川支流のプサホ村に移住させられたが、1875年にシャヘ川へ移住することを請願し、翌1876年に大キチュマイ村を立てた。小キチュマイ村は1920年大キチュマ村から分村、以後ハジコ村やクバン地方からの移住者を迎えた。マコプセのハジコ村は、プセウシュホ山南西麓にあたる。1872年以後帰国の許可を与えられた。
これらの新しいアウルの開墾の沿革の一例を示そう。プセウシュコ川岸の大プセウシュコ村は、もうここはソチ市内ではなく、隣り合うトゥアプセ郡の南西端である。1864年黒海沿岸に住んでいた(小)シャプスグ人のシゥハラフ氏の人々はオスマン帝国領にではなく、クバン低地のハジェムコ・ハブル(村)に移住させられた。禁制が解けて故郷に帰還することが可能になったと聞いた人々は、「山と森が我々を待っている。先祖が自分たちの手で植えたが手入れをしなかった果樹園は荒れはててしまった。先祖の墓の叫びが聞こえる。神様は我々に良い知らせをくれた。我々は先祖の故郷へ帰ろう」と語しあった。大勢の人々はナウジ谷まで進んだが、ここで先導者の牛のくびき(牛馬の首と車や橇を連結する用具)が壊れ、前進ができなくなった。そこで、その周辺に栗林が連なり、野生の果樹が多く、渓谷と泉に富んでいることを知り、それ以上の前進を停止して、その場に留まったのが、この村の開基であった。草分けには、アチュミゾフ、コベレフ。ニボ、ナプソ、テシェフ、シャラホフなどの氏族が含まれている。アシェ川右岸上流支流ナウジ谷を下り、合流点から大プセウシュホ(トハツェナコ)川を遡ると大プセウシュホである。ただ、彼らをすべて集めてもソチ、トゥアプセのチェルケス人はそれぞれ5千人足らずである。ロシア国外からの永久帰国はほとんど実現できていない。
ウブイフ人は今でもソチに住んでいる(地元のテレビ番組より)
(m.maks-portal.ru/obschestvo/video/ubyhi-do-sih-por-zhivut-v-sochi)
番組ナレーションの翻訳
歴史家が確認するようにウブイフ人はこの地域の基幹住民だが、世界民族地図の中では姿を消した。コーカサス戦争は19世紀に地域の住民の歴史にピリオドを打ったように見える。しかし、山中の村では別の歴史が物語られている。ハジコは孤立した数家族からなる集落で、若者は老人を敬い、先人を記憶し、客人歓待の規則を敬う。今でもそのような伝統をウブイフ人の家族ウシュホは残している。
「友達が雑誌や新聞を読んで、家はトルコに親戚がいることを知りました。知り合って、連絡をつけ、父は旅行しました。親戚もこちらに来ました。我々は彼らを知っています。彼らは近い親戚です」。 ダミル・ウシュホ
チェレンの家には以前ジャーナリストが来ました。その時、サフェットの実の叔母や他の人々を一緒にして、最後のウブイフ人というタイトルが付けられました。しかし、女主人の祖父は自分の一族を残す手段を講じていました。「彼は30年代にアブハジアのガグラにトハグシェフ・イドリスという名前で住んでいたことがわかりました」。 サフェット・チェレン
彼女の下の息子ザウルカンはソチの警官です。周りの人々の言葉がわかるようになるともう、自分はウブイフ人だと知っていました。「学者がウブイフ人の歴史に興味を持っているのは、大変うれしいです。そのような民族が再生し、自分の言葉や文学に親しむでしょう」。 ザウルカン・ヘイシュシュホ
研究者は再びウブイフに興味をもっています。難しければ難しいほど、明らかにしようという意欲が強くなります。「住んでいる人々皆にわかりやすくなること、この事実がソチの歴史のモザイクの中で明らかな場所を示すことを望んでいる。ソチの過去と歴史が古ければ古いほど、我々の未来はより良く、また調和の取れるのものになるでしょう」。 アンドレイ・ギズィロフ ロシア地理学者協会考古学歴史学部門正会員
コーカサス戦争まで誰もウブイフ人については知りませんでしたが、後で伝説を作り上げることになりました。流血の対立が行われる中で、統一チェルケス軍の先頭にハーッジ・ケレントゥフ・ベルゼクが立ちました。我々は彼の子孫を見つけました。「アディゲイ人自体や我々の祖先に許されたのはウブイフは去った。あらゆる分野で根絶やしにされたに違いないということでした」。
ルスラン・ベルゼク(NPO「ウブイフ・ベルゼク家の統合」主催者)
ルスラン・ザウディノヴィッチはロシア連邦の市民で最初に、裁判所で自己の民族帰属をウブイフ人であると証明した人です。彼はパスポートにこの事実が記載される為にアブハジアの国籍を取りました。今、この古い一族の子孫はウブイフ人をこの国の少数基幹民族の共通のリストに加えました。「ロシアの法律と国家が、我々を我々が歴史的に所属している民族であると証明する可能性を与えてくれます」。 ルスラン・ベルゼク
当時のオスマン帝国、今のトルコではこの民族は国家性を獲得していたんですか?自分たちの言葉は保存していたのですか?1932年には民族名の自称を禁止する法律ができましたね」。
マゴメット・キシュマホフ 歴史学博士候補
今、民俗学者が系図を、言語学者と子孫たちが失われたウブイフ語を蘇らせています。組織的教材を印刷する用意さえしています。チミト、キチュマイ、ウアルダネ、ママイ、ガグラなど、ウブイフ語の地名は今でもソチ地域に残っています。ミクロライオンのブイフタは19世紀には地元の聖地でした。まさにここで政治家によって間違いが行われたのかしれません。ウブイフ人は民族にとっては破滅的なトルコ移住を採用し、歴史の中に溶け込んでしまったのです。山地の人々は生国の4つの港から数十万が追放されした。今では子孫であると認めています。歴史では結論は決まっていません。このような説明がなされました。トルコの海岸に向かったのは、『出て行った人々の最後の者』ではありません。ウブイフ人は自由と先祖を記憶して生き残りました。彼らの子孫には「船が海を行く間は、待つ人がいる。空に夕焼けが広がれば、また、夜明けがある」。
ナレーター ヴェラ・ドリャラク
(この番組の長編版は、https://www.youtube_com/watch?_v=c9IIIHLkhzにある)